松下圭一の日本人論(補論)

 今回は前回の補論も兼ねる形で、松下の「日本人論」を考察してしたい(※1)。思えば、松下の「社会教育の終焉」のレビューにおいて、「日本的」であることの文脈の捉え方に違和感を覚えたことが、その後の私の日本人論の検討にも大きな影響を与えたように思う。実際、松下の市民論と「日本人論」は切っても切れない関係である。松下が「既存の理論」について全否定する態度に富んでいたことはすでに指摘したが、これは「日本人論」に対して「権威性」を見出すことで同じような議論を繰り返しているのである。

 もちろん、あらかじめ断っておくが、松下の日本人論批判についても、その妥当性が十分に検討されているかは言い難い。合わせて、松下の日本人論もかなり歪んだ議論を展開している。

 

 松下の日本人論は、「国際化」の議論を踏まえた「改善要求」の文脈の議論をすでに1977年の時点で展開している。そして、この視点は地方自治体における「分権化」と共に何故か出現した「国際化」の必要性として議論されることとなる。

 

「そのうえ、経済の国際化とともに、日本の文化構造の総体が、エコノミック・アニマル、セックス・アニマルというかたちで、国際試練をうけはじめた。国際社会での個人の行動様式は、彼が育った国の文化構造を延長したものである。まず日本における開かれた市民文化の成熟がないかぎり、批判をうけつづけざるをえない。今日の日本の文化構造と、奈良、平安や江戸の文化遺産とは、別の次元の問題である。」

(「新政治考」1977:p55)

 

「ようやく、この分権化・国際化・文化化には、市民活動を背景に、自治体レベルで先駆自治体がふみだしたにすぎない。政党相乗りで沈静しているようにみえるとしても、先駆自治体が日本の国レベルの政治に対する、実効ある「野党」となっているのである。」(「政策型思考と政治」1991:P74)

 

 

 当然、その批判は「日本的なるもの」に向かう。まず、ある所では「風土的」なものを指摘する。 

「日本の工業化にともなう都市人口の拡大は、こうした風土的背景のもとに進行する。ここでは都市的生活様式の未確立、別の言葉でいえばシビル・ミニマムの欠如となり、農業社会的生活感覚が滞留することになったのである。生産力世界第三位をほこる今日の日本の都市的生活水準の低劣性はたんにアジア的貧困の継続とみなすことはできない。むしろ風土的条件からきた国民自身の生活欲求水準の低さ、すなわち都市的生活様式の未成熟からきているといわなければならない。これを前提としてはじめて、明治以来、中央政府の生産資本優位、社会資本無視の経済成長政策が可能になったのである。政府を批判することはやさしい。しかし国民自身ないし都市人口自体がいまだ農村的生活感覚から脱却しえていないことをより強く問題としなければならないだろう。」(「シビル・ミニマムの思想」1971:p190)

 

「だが日本では都市と農村が連続し、農村からの都市の自立、したがって都市的な生活様式の自立がみられなかったといってよい。日本でも今日、工業の産物としての鉄とセメントによるコンクリート建築が登場しはじめ、ヨーロッパと材質的には異ならないようになってきたが、いまだこの都市の自立性したがって都市的生活様式の自立性という理念は未熟なのである。こうして日本では交通機関ぞいの無限の都市スプロールとなり、逆に農村的生活様式が都市に浸透する。」(「シビル・ミニマムの思想」1971:p189)

 

 ここで指摘されているものの意味は少し解釈が難しいが、どうやら都市と農村の生活様式があまり変わらないことを問題視しているようである。もっとも、ここでの「都市的生活者=市民」は自律したものであるという「規範概念」を持っている松下にとっては、都市として自立した、個性あるものとして存在すべきものであるとされているが、その前提が明確にあるからこそ、このような主張が成立するものと考えられる。

 同じような説明がレジャーの話でも語られる。

「また地域にはいまだ集会施設、スポーツ施設、それに公園、散歩道が公共的に整備されていない。つまり、シビル・ミニマムの未整備である。この結果、レジャー産業への指向が異常拡大するのである。とすれば、レジャー問題は時間の余裕の問題だけでなく、空間の構成の問題と見なすべきである。この意味で、日本におけるレジャー産業の異常肥大は、公共空間構成の貧困にもとづく大衆収奪のチャンスの拡大となっている。しかもそれは同時にGNPを空虚に拡大しているのである。」(「都市型社会の自治」1987:p145,論文は1972年のもの)

 

 「GNPの空虚な拡大」を問題視しているのは、要するに公共性のあるもの=シビル・ミニマムに対する無計画性について指摘しているということであり、この点からも自律的な都市の発想が欠落しているものと認識しているといってよい。

 このことについては、<私文化>の問題としても語られる。

 

「日本では、〈私〉は、共和への連帯をつくりえなかった。どこまでも〈私〉どまりであった。〈公〉はオカミとして〈私〉に対立しただけである。……

 これでは、〈公〉のストックとしての都市づくりができず、そのための思考訓練もつみあげられるはずはない。〈私〉文化構造は、東洋専制における農村型社会でうまれたものであるが、都市型社会の成熟とともに破綻する。これが日本において、かつて福祉・都市・環境問題が激化した理由であり、今日の都市のみずぼらしさの背景である。」(「市民文化は可能か」1985:p204)

 

 また、次のように歴史的な「城下町的都市構造」なるものに触れ、それが中央主権的な日本の構造を生んだという指摘もある。

 

「このように日本の都市はヨーロッパと異なった性格をもっている。したがって日本の都市の主流をなす城下町的都市構造が、中央集権的明治国家へとつらなり、これが東京を中心とする都市の階層制をつくりあげていった。」(「都市政策を考える」1971:p13)

 

「古代以来、日本の都市は、自治武装共同体ないし都市共和制の伝統をきずきえなかった。古代国家の崩壊したのち中世にいって共同体的な惣村、惣町が叢生し、とくに界や平野、博多などでは商業的富の蓄積によって都市共和制の萌芽がみられたにもかかわらず、都市は封建領主によって弾圧ないし再編されて城下町となり、幕藩体制へとつながっていく。明治以降の日本の都市の主流はこの城下町である。それは自治の塁ではなく権力の塁であった。

 ヨーロッパにおいては、都市国家という古典古代の地中海文化の都市イメージが継承され、広場、公会堂、城壁にみられるように都市共和制による自治が開花していった。」(「都市政策を考える」1971:p12-13)

 

 これについてもいまいち違いが説明できていないものの、「自治の塁」か「権力の塁」かでその違いが説明できるらしい。いずれにせよ、海外との比較を行っているにせよ、松下の日本人論は「日本は伝統的に権威的である」ことを主張することに終始しているといってよいだろう。 

「日本の国家観念は、官治・集権的統治による近代化=工業化・民主化をめざし、官僚むけには『帝国憲法』、庶民むけには『教育勅語』を規範に、つくりあげられた人工観念である。……その結果、内面の自由=寛容、ついで言論の自由=討論という市民文化の未熟となる。〈東洋専制〉の基層文化を結集し、軍隊内務班から家元制度、また「会社」主義を典型にもつ、「日本文化」の構造がこれである。そのとき、政治は、国家ないしオカミからに現世利益の配分・受益をめぐる利権競争に堕してしまう。これが、市民自治の対極にある国家統治の現実なのである。」(「政策型思考と政治」1991:p76)

 

「古くから、支配ないし搾取・侵略が聖宇宙の秩序とみなされ、戦争は神の名において、奪権は人民の名において美化されてきた。政治は聖宇宙のなかのドラマだったから、シナリオはかくされたままだったのである。政治の脱魔術化がすすむ今日でも、〈詐術〉としての、この二重思考があらためて進行する。これが、ジョージ・オーエルによる、ヒトラースターリンをふまえての問題提起であった。

この詐術は「全体政治」でなくても、政治ではたえずおきる。この詐術がまかりとおる理由は、目的・手段関係の逆転という文脈である。

  1. 手段の肥大 日本的発想のおける、教師暴力としての「愛の鞭」がこの詐術の典型であるが、ひろく政策目的の空洞化による手段の独走がおこる。
  2. 目的の肥大 日本的発想における、「社会教育」がこの詐術の典型であるが、政策手段によっては不可能なことが、目的の美化によって誇示される。

この詐術は、閉鎖状況でおきるため、これを切開するには、第一に、情報の公開、言論の自由、複数政党による相互批判の多元化、第二に、自治体、国、国際機構における相互抑制の重層化、という、《分節政治》が要請される。政策の発生源・批判策の多元化・重層化である。」(「政策型思考と政治」1991:p168-169)

 

 松下の日本人論は、典型的な「近代化論」に支えられた日本人論であり、その目指すものは単一的なものに置かれており、その進歩の発想も直線的である。丁度杉本・マオアでレビューした際の時代区分でいくと、第5期の言説そのものであるといえる。

このような見方においては、日本は後進的な位置に置かれ、将来的にはそれが解消されるという方向性を持つことになる。松下の「段階論」的言説にも親和的である。

 

「欧米対日本という対比での日本的特性とは、工業化・民主化=近代化がうみだす、都市型社会の「熟度」という時間のズレからくるにすぎない。事実、日本人も、先発国の人々と同じく、近代化ないし都市型社会の成立について、生活様式はもちろん、体型から心性まで、変ってきた。」(「政策型思考と政治」1991:p343)

 

「第二に、日本における今日の文化状況の閉塞は、日本におけるマスコミ論調の画一化ともいうべき、同調性とむすびついていることに注目したい。日本の政治ないし文化には、いまだ国家・官僚崇拝がつづき、政権交替のない「中進国状況」が基本にある。政治・行政の中進国型官治・集権性という問題次元は、個別の先端工業製品や伝統工芸作品における日本のすぐれた水準とは別である。そこでは、情報の多元化・重層化ないし分権化・国際化が、IT技術とあいまって進行するにもかかわらず、政治・文化状況は一国閉鎖型となる。」(「転換期日本の政治と文化」2005:p210-211)

 

 ここまでは通常の近代化論的日本人論にもよくある議論である。しかし、松下はここでは留まらない。やはり議論が歪む。それはすでに論じた通り既存の理論の批判と合わせて出てくるものである。松下は「日本文化」論者に対して批判するのに際し、次のような主張を行っている。

 

「文化についても、評論家たちは合言葉のように「日本文化」、「日本らしさ」、最近の憲法論議では旧「国体」にかわって「国柄」と言ってますが、「日本文化とはなにか」と問われたら誰も答えられません。都市型社会の今日、実質は図1-3のように、日本文化をふくめて国民文化は世界共通文化と地域個性文化に分化しつつあるからです。事実、皆さん方でふんどしをしている男性の方は一人もいない。女性の方で丸まげをしていらっしゃる方もいない。

 

 しかも、今日、日本の文化状況の閉鎖型同調性こそを、あらためて問題とすべきでしょう。」(「自治体再構築」2005:p49-50)

 

「ここから、従来の「日本文化論」の幻想性ないし虚偽性を批判するとともに、私が一九八五年の拙著『市民文化は可能か』以来強調してきたのですが、地域景観というカタチをつくる、市民ついで政治・行政、経済・企業また思想・理論の文化熟度を問題としていく必要があると考えます。」(「自治体再構築」2005:p58)

 

「国民文化は、近代国家ないしその建国に参加した政治家、官僚など、あるいは知識人が意図して「人工」によってつくりだし、やがて順次「国民」をくみこんでいった共同幻想です。明治以降の「和」や「禅」の神秘化などがこれです。共同幻想であるがゆえに、今日、「日本人」あるいは「日本文化」とは何かと問われたとき、まとまった共通理解というかたちでは、誰も答えられないではありませんか。この点は、ひろく各国でもみられます。」(「自治体再構築」2005:p63)

 

「とくに、敗戦後、いわゆる「戦後民主主義」の啓蒙期では、欧米デハ、ソ中デハ、つまりいわゆる「出羽神」の発想がみられた。この問題設定がいかに悲惨だったかを考えてみるべきだろう。日本の理論家たちが戦後、米欧に「近代」、ソ中に「未来」をみていたとき、米欧自体はすでに「現代」にはいり、ソ中は「後進国」だったのである。」(「現代政治」2006:p195)

 

 

 松下の議論の面白い所は最初の引用のような主張を平気でする点である。実際の所、松下が語る日本人論は当時存在していた日本人論を丁寧になぞっており、ある意味で一般に流布しえた日本人論と変わりがないといえるが、それを批判する際に、自分が語ることのできていた日本人論を「語ることができない」と言いだすのである。ここでは、「日本文化」を極度に具体化し、具体化された「日本文化」は現実に存在しないことを根拠に幻想性を強調する。しかし、例えば、松下は日本人の「権威性」や「集団性」について十分語っているのであり、やはり「日本文化」は明確に存在していることを自ら証明しているはずなのである。

この「文化」についての捻れた松下の理解は極めて重要な論点となる。松下の当為論は常に「精神論」であり、実態化する「モノ」としては語られることがない。これこそ立派な「共同幻想」である。これを「語ることができない」ものとして捉える発想自体が、松下の自己批判そのものであるといえるのである。このレベルの議論を始めてしまうと、実証性なき「規範概念」を語る松下の議論は全否定せざるをえなくなる。にも関わらず松下は他の理論家を批判する時は、平気でそのような批判を行ってしまっているのである。「日本人論」に着目すると、その論点が露骨に浮かび上がってくるのである。

 

 しかし議論を続けるべきは、3つ目の引用でも松下が明言するように「共同幻想」はどの国にでも存在することについても松下は自認している点を確認できることである。これは更に話をややこしくする。これは松下が語っていたつもりの「他国の文化」も同時に語ることができないことを意味し、それこそ何故「他国は自律した地方自治を行っている」ことを松下が明言しているのかがわからなくなってくるからである。

 

 「日本人論」の観点で松下の議論から学ぶべき点は、まず松下の用いる「日本」という言葉が「改善要求」と同義で執拗に語られている点であり、それが「海外」との対比を語っているようでいて、多分に理念に基づいた「自己言及的」なものにすぎないことが明確であり、その自己言及性にこだわる態度をとっていることで自己矛盾に陥る、という点である。少なくとも、松下が語る「日本人論」の一切は、松下自身の手によって否定されているのである(※2)。

 

※1 以下、「日本人論」として松下の言説を考察するが、松下の場合はむしろ「日本」について対象にし  ている傾向が強い。ただ本旨はこれまでレビューしてきた日本人論の系譜においても何ら問題はないため、本稿では統一して「日本人論」として考察する。

 

※2 最後に一つだけ補足をするならば、日本人論に限らず自己矛盾を抱えた「ネタばらし」の言説は00年代以降の松下の言説に集中している点も注目しておくべきだろう。これは松下の議論が捻くれているのは晩年だけである、という主張を行いうるということにもなる。しかし、私はやはり90年代までの松下の言説が負っていた「負債=自己矛盾のリスク」に松下自身が耐えられなくなり、それを自ら語るようになったに過ぎないと考える。それこそ松下的な発想での「地方自治」論の一つの限界が00年代の言説を支えていたのではないかと思うのである。