土居健郎「「甘え」の構造」第三版(1971=1991)

 今回、当初予定していなかった土居のレビューを行うことにした。杉本・マオア(1982)のレビューがなかなかまとまらないのもそうだが、日本人論の代表書の一冊と言われる本書を読んでみて、そもそも本書を日本人論の著書と位置付けるのが適切なのかどうかという疑問や、本書もまた社会問題に焦点をあてており、その捉え方も考察の必要性があるのではないか、と感じたため、それを整理してみることにした。

○「日本人論」とは何なのか?
 以前「『親方日の丸』の研究」の記事で、杉本・マオアの著書が「日本人論は欧米という『他者』を想定している」という前提を持っている点(※1)に疑問を付し、他者を想定せずとも自己言及的な議論が展開される可能性について指摘した。「親方日の丸」言説は民間という『他者』を想定しているようでいたが、それが批判ありきになり、その体制を改善することを前提にするため、自己言及的な言説も実際に散見されたのであった。 

 結論から言えば、杉本・マオアのような態度の取り方は理論的には正しいように思う。ただ、少し表現が正しくない。一つ例を挙げてみる。「日本人はこれまで欧米に追随的であり、個性を育てることを怠ってきた。グローバルな競争に打ち勝つには、今後はそのような個性を育てなければならない」というここ2、30年来あたりまえのように見かけるこの言説は、日本人論と位置付けられるものなのか?

 私個人の主観もあるように思うが、私はこれを「日本人論的」と思わなかった。少なくとも永らくそういう風に受容せずにこの言説を受け取ってきたと思う。確かにこの言説は日本人論で語られる「欧米との比較」を想定しながら、日本人の性質を語っている。しかし、他方で違和感を感じるのは、これを日本人論と呼ぶには、合わせてしばしば日本人論として語られる「性質の変わらなさ」、つまり文化的な影響などによってその日本人の性質は簡単に変えられないという特徴と噛み合わないのである。ここでは、「簡単に性質が変わるようなものというのは、日本人論として語る意義がない」という前提の上に感じる違和感を見出せるのである。要約すれば、「日本の特徴を見出すことより、その改善のための要求ありきの議論をしているような議論というのは、日本人論的と呼ぶのはふさわしくない」ということになる。
 そして、このような「改善要求を行う日本人論」というのは、突き詰めて考えると具体的な「他者」がいなくても議論可能なのである。問題の焦点は対外的な比較云々というよりも、現在の日本の性質のどこかが悪いということにあるのである。だからこそ、具体的な欧米という他者がなくても、理想像を提示し、それに近づけるようにしなければならない、という自己言及的な改善要求を行うことは問題がない(※2)。河合隼雄の議論などは、欧米の議論との対比を一見行っているようでいて、実際には実態が伴っておらず、実際はこの自己言及的な改善要求と行っていることが同じになっているといえる。
 
 つまり、理論的な意味で自己言及的な(「他者」を想定しない)議論に終始するような言説はそれ自体「改善要求」を基本的に含んでおり、欧米(他者)との比較を試みることを主眼においた日本人論と位置付けることには違和感がある。しかし、実態としての日本人論の展開においては、実質的に自己言及的な改善要求と同じことを行っているために、他者との比較という観点は疑似的なものにしかなっていないというのも事実ではなかろうかと思う。
 
 まとめると、日本人論として位置付けられる特徴として挙げられるものは、次のようなものであるといえるだろう。
1.日本(日本人)の特徴を捉え、その要因について検討すること(その特徴は簡単に変化しないことを前提にする)
2.他国(外国人)の特徴、その要因を捉えることで、日本人との違いについて指摘すること
3.改善要求を行っているもの(1の特徴と対峙することがある)


○「「甘え」の構造」は日本人論なのか?―土居の個人主義批判について
 以上を踏まえた上で、日本人論として「「甘え」の構造」を読んでみようとすると、極めて曖昧な議論を行っているという印象を受ける。要点だけ先に述べれば、

1.日本人論と呼ぶには海外の状況も同一視してしまっており、相対的な説明があるにせよ実質的には日本人の特徴を明確にするものとは言えないこと
2.改善要求を行っているものの、具体的に何を改善すればよいのか明言することなく、土居自身が改善を行うのか、行わないのかでダブル・バインドに陥っていること


 まず、1についてである。本書は確かに日本人の「甘え」の議論を、特に言語学的アプローチから性質を押さえたものであるとまず言うことができる。しかし、欧米についてどう考えているのか、という問いを立てた場合に、土居は「甘え」がないという言い方は全くしない。まずもって「西洋人の感謝の表現は一般にさっぱりしていて、後腐れがない。彼らは「サンキュー」といえばそれで「済む」ので、日本人のようにいつまでも「済まない」感情が残るわけではないからである。」と述べる(p101)。ここでは「恐縮」する態度があまりないという意味で述べられている。そして「恐縮」するというのは、「西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受身的愛を感じないように永年努めてきたのではなかろうか。」(p96)という形で「恥」と結びついているものであり(当然ベネディクトを連想している)、「相手にすまないと感じる場合は相手に対する甘えが温存されている」(p130)という形で「甘え」とも結びつける。これだけ読めば日本と西洋の違いははっきりしているように思う。

 しかし、よく読めば西洋が「甘え」に依存しない態度たらしめている「特別の精神的遺産」(p101)と土居が述べる「キリスト教」の精神について、自ら「場違い」(p101)だとか「専門外のことに言及して少し恐縮」(p106)するにもかかわらず、その精神を全否定してみせようとする態度を無視することはできないだろう。一言で述べれば、土居はこのキリスト教個人主義というのは、マルクスニーチェフロイトの主張によりすでに西洋で否定された思想である、と主張しているのである。 
 つまり、「個人の自由独立と見えるものは幻想に他ならない」(p103)のであり、「資本主義社会機構が必然的に人間を疎外することを説いたマルクスの鋭い分析も、キリスト教が奴隷道徳であると宣言したニーチェも、また無意識による精神生活の支配を説いたフロイドの精神分析も、すべてこの点(※自由が空虚なスローガンに過ぎなかったのではないかという反省)について西洋人の眼を覚まさせるものであった」と断じているのである(p107)。そして甘えとの関連で言えば、「近代の西洋人が甘えを否定しあるいは迂回してみたところで、それだけで甘えが乗り越えられるものではなく、ましていわんや死の誘惑が克服されたわけでもなかった」のであり(p108)、「彼ら(※西洋人)もまた甘えによって侵されていた証拠」であると述べ(p108)、しまいには「西洋人の自由(※本書では基本的にキリスト教個人主義と同義で述べている)についての観念も究極のところ日本人のそれとあまり変わらないものとなる」と日本との同一視を試みるのである(p107)。専門外であるというリスクを負ってまでわざわざこのような言及を行うのは、私には土居が「甘え」の普遍性を指摘したがっているようにしか見えず、それを日本の特徴と位置付ける見方が適切とは思えないのである。

 しかしながら、当然門外漢である土居の言い分が妥当なのかは議論せねばならない所だろう。その上で2.の論点もポイントになってくる。土居のこれらの主張においては、『西洋的な個人主義の思想をもってしても「甘え」を克服できなかった』という大きな主張が含まれている。まず確認しなければならないのは、「われわれはむしろこれから甘えを超克することにこそその目標をおかねばならぬのではなかろうか」(p93)というように甘えを克服せねばならない、という態度を土居ははっきりと述べている点である。いわば改善要求である。そして日本には「甘え」が実態として残存しているという主張を、土居自身の経験や精神分析周辺の見解、言語学的な「事実」や過去の日本人論の中から何重にも主張している所である。そして極めて厄介と感じるのは、この「甘え」の議論を戦争と結びつけている点である。これは結局日本の戦争放棄(「イデオロギーとしての天皇制の崩壊」)と同じように、実態としての「甘え」も克服しなければならない、という主張の強力な支えとなっている。


「これは要するに、日本人は甘えを理想化し、甘えの支配する世界を以て真に人間的な世界と考えたのであり、それを制度化したものこそ天皇制であったということができる。したがってまた明治以降やかましくなった国体護持の論議は、単に支配階級の政治的便宜のためにだけ発明されたものではなく、以上のべたごとき日本人の世界観を、外からの圧力に抗して保全したいという意図によっても裏打ちされていたと見なければなるまい。」(p64)
「現代はイデオロギーとしての天皇制が崩壊した時代である。そこでいわば無統制の甘えが世間に氾濫し、至るところに小天皇が発生している。しかし制度的なものが全く消失したわけではなく、また昨今は日本が経済大国として復興して来たためもあって、復古調が云々されているようでもある。」(p65)


 そもそも土居の関心が改善要求を行うために日本人論を展開していたものなのか、と問うた場合、本書を読むだけでは全く見えてこない。第一章の「「甘え」の着想」(p1-22)は、土居自身の「甘え」論に対する関心の推移を比較的丁寧に説明しているのであるが、これを読んでもやはりよくわからないのである。第一章を読む限り、一番最初の動機はむしろ素朴な土居の渡米時の「文化的な衝撃」(p1)を端に発し、西洋人との違いを見出すために「日本人論」を検討するために「甘え」が検討されるようになったのは明確であった。それはあくまで西洋人の態度の違いについて考察するためのもの以上のものではなかった。しかし、その関心が精神分析の業界に留まらず、大学闘争を主題に「現代の社会的問題をも同じ眼で見るようになってきた」(p19)段階ではすでに状況が変わり、この若者の問題の中に潜む「甘え」の問題を解決すべき問題として位置付けているのである。

 また合わせて、何をもってこの「甘え」の問題が解決されるのか、という改善要求の「到達点」についてもまるでわからない。これはそのまま土居が「キリスト教個人主義」に対してそれが無意味なものであると否定する態度の中にもはっきり含まれている。先述のように本書を読む限り、土居がキリスト教個人主義を否定する根拠は「個人の自由独立と見えるものは幻想に他ならない」という一文に集約され、そのような思想が「幻想だから」という一点に尽きるのである。しかし、「幻想であるから否定されるべきもの」だと言ってしまってよいものなのだろうか?すでに阿部謹也のレビューにおいてこのキリスト教的な個人主義について説明をした訳だが、その論理を援用すれば、この「幻想性」はあまりにもあたりまえである。何故なら、個人主義自体が「『神』との対峙を行うことによって『世間』から解放される過程」であるからであり、それ自体を(しばしば誤解されるように)完了するものとして捉えること自体が誤りであることもすでに指摘した通りである。神が実在しないのと同じように個人主義は実在しないと表明するのは極めて容易である。

 しかし、本当に個人主義の論点をそこに集約してしまってよいのだろうか?ここには「世間からの解放のプロセス」という側面に対する評価を全く無視しているのである。そして、これに関連して西洋人も「幻想であることを自覚することで個人主義を否定するようになった」旨の解釈を行ってきたと断定するのはあまりにも早計ではなかろうか(その「自覚」に至っているのかどうかもそもそも怪しい)。少なくとも、私自身は土居のこの断定について全くの誤りであると考える。ここに土居の改善要求の到達点に対する不当な思考を見ることができるのではなかろうか、と思うのである。
 つまり、土居が西洋個人主義についてこのように批判するのは、まさしく「甘え」に対する問題意識にとっては、「西洋個人主義以外の解を得なければならない」という主張を前提にせねば成り立たないのではないか、ということである。そして、このような態度自体に「甘え」の問題を超克しなければならないという態度を強く感じるのである。

○「改善要求」を行う日本人論の到達点の曖昧さと「社会問題の普遍化」の関連について
 この改善の到達点の曖昧さというのは、正直な所、土居の論法そのものの問題であると考える。それが、ダブル・バインドの要求なのである。ダブル・バインドとは相矛盾する2つの要求を命令する態度を取ること、より正しくは、受け手側をそのように縛り付けざるを得ない命令を意味する。例えば、本書の最後で述べるこの主張も典型的なダブル・バインドの要求である。


「実際今日のように、大人も子供もなく、男も女もなく、教養があるもないもなく、東洋も西洋もなく、要するにすべての差別が棚上げされて、皆一様に子供のごとく甘えているのは、たしかに人類的な退行現象といわねばならぬが、しかし将来の新しい文化を創造するためには必要なステップであるのかもしれない。個人の場合、創造行為に一種の退行現象が先行するのはよく知られた事実だからである。もっともこれは人類に未来があると前提した上での話である。しかしこの点は本当のところ誰にもわからない。したがってこの人類的退行現象死に至る病か、それとも新たな健康への前奏曲かという点について予言できるものは誰もいないのであろう。そしてこの予言できないということにこそわれわれが今日直面している事態の深刻さがあると考えられるのである。」(p205-206)


 この議論においてはダブル・バインドに典型的な「断言しているのに断言していない(と言い張る)」態度がはっきり出ている(※3)。土居の見解によれば、現代社会は幼児化しているのははっきりしており、これはネガティブな効果のものである。他方で土居の見解によれば、幼児化は新しい文化の創造性を備えたものであることもはっきりしており、これはポジティブな効果のものである。ここでは「相対的にみてどちらが勝っているのか」について問うていると解釈するのは最も妥当だろう。
 しかし、この相対性の問題はすでに土居の中で決着が着いていないと、このような物言いにはならない。というのも、「予言できない」状況について憂いている状況こそ、土居の態度がネガティブな方に偏っていることを明確にしているからである。もし本当にポジティブな効果が勝っている場合はむしろ土居の言う幼児化は喜ぶべき状況であり、問題視する必要性はどこにもなくなるはずである。
 もっともこの2つの要素の優劣の問題というよりも、大きな問題が起きる「可能性」があるからこそ、甘えの問題が深刻であるという解釈を行う余地がある。しかし、本書を全般的に見た場合に、p93で明言もしているように「甘え」を超克すべきであるという態度ははっきりしているし、だからこそ、「価値の重み」で判断し、「可能性」の議論をしている訳ではないという風に読まないと辻褄が合わないようにしか見えない。

 土居のこの論法に加担しているものについて考えた場合、まず想起すべきは、新堀の議論などにも見いだせた「社会問題の普遍化」である。土居のアプローチする精神分析の分野自体がそのような状況に陥る危険性が高いものとして捉えることも可能だろう。第一章で語られた土居が考える関心の推移からも見てとれたように、明らかに病理としての問題を普遍化しようとする意図が明確に見て取れてしまう。


「ところでこのように「気がすまない」という日常語が、いわゆる正常人にも病的な気がすまない強迫神経症に悩む者にも共通して使えるという事実は、日本人に強迫的傾向が偏在的であることを暗示しているのではなかろうか。」(p130-131)
「日本でもくやしさの感情自体は決して快いものではなく、しばしば病的状態に直結することがわかっているが、それにも拘らず、この感情を大事にするのは、結局このもとになる甘えに対して、日本人が肯定的な態度を持しているためであろう。」(p152)


 くやしさの議論については一応相対的なものとして捉えている言明もされる(p149)。ただ、「被害者心理」について言明する際にも、これを「日本人の心理に巣喰っている極めて日常的なものと考えられる」とし(p156)、正常者の被害者意識と「精神医学でいう被害妄想」は区別しつつも(p157)、「根本的には甘えの心理の病的変容として理解することが可能である」とする(p157)。ここで一見差異化しているようであって、すでに「甘え」について改善要求の程度が全く不明になっていること、そして西洋人も同じように甘えの原理を適用してしまっていると指摘したのと同じように、この相対的差異を述べることもあまり意味のないものになってしまっているように思える。異常者と正常者を区別する者が何なのか、土居のいう「甘え」からは何も説明できないのだが、何故か第四章では「「甘え」の病理」としてこのような対比を頻繁に行っているのである。一体何のためなのだろうか?実際にこれらの精神病理と「甘え」に関連性があるというのなら、素朴に「日本人は被害妄想や強迫神経症にかかりやすい」という命題が成り立つように思える。しかし土居はそんなことは全く述べないのである。結局これは西洋にも同じように見られるのであって、だからこそ「甘え」の原理の支配について、西洋人の場合にもあてはめたがっているのではないのか、とさえ思える。やはりこのような無理のある議論の仕方には、「社会問題の普遍化」という意識が強いからこのような議論をするのではないか、と思ってしまうのである。

 このことに対し、土居自身は次のように第四章を総括している。


「この章では精神病理ないし異常心理というコトバで総称される諸現象について、精神病・神経症その他もろもろの専門語を用いずに、平易な日常語によってその特徴を描き出すことが試みられ、そうすることによって、異常心理と日常心理とのつながりが暗示されている。この場合、両者をつなぐものこそ「甘え」概念に他ならないが、ここでいう「甘え」は情緒として体験される「甘え」ではなく、もし事情が許せば、情緒としての「甘え」を結実するであろうごとき無意識の欲求をさしているのである。」(「注釈「甘え」の構造」p123)


 これは、最大限土居の言い分を支持する解釈をとれば、「甘え」の特徴を浮き彫りにするために、このような結びつけを行っていると読む余地がある。つまり、土居は「社会問題の普遍化」を試みたというよりも、「甘えの普遍化」を試みてしまったことによっておかしな前提が出来上がってしまったのでないのかということである。おそらく土居の見方からすればその方が正しいのだろう。「現代社会の諸問題が「甘え」の問題に収斂する」(「注釈「甘え」の構造」(1993)p181)という表現は端的な「甘えの普遍化」の説明といえるだろう。しかし、これはこれまで私が述べてきた「社会問題の普遍化」とやっていることが全く変わらないのである。


○土居のいう「父性」について
 また、土居が甘えの問題解決を試みようとし、解決策らしく述べているようにも見える点として「父性」の要求も挙げられるだろう。土居は「現代社会の特徴は父がいないということであるということができるかもしれない」(p187)という。そしてここで言う「父」とはパーソンズのレビューで考察したような「シンボルとしての父」という意味ではなく、「このことは家庭のレベルでいえば、父親の影が薄いことに、したがってほとんど父親不在といってよい状態が今日ふつうになっている」(p187)というようにはっきりと実際の父親のことを指し議論している。父親の不在の議論のついて土居は「社会的な価値観を通常代表する父親も、家庭の中にあってはあまり対立することがないようである」(p186)、「彼らは両親から保護と愛情は受けていても、大人になることについてはなんら指導を受けていない。」(p177)と述べ、それは「今日の世代間の問題はもともとは古い世代の自信欠乏に発していると考えられる節がある」(p178)と述べる。このあたりはすでに石原慎太郎の「スパルタ教育」と同じような、価値が相対立しぶつかりあうことで初めて新しい価値を高めることができる、という見方と同じである(もっとも石原の場合は、父親自身による暴力行使は社会の普遍的価値観の表出する場合に限り、価値観の対峙の際の暴力行使とは形としては区別していたが)。古い価値観と新しい価値観による止揚を求める態度を土居の場合は明らかにとっている(cf.p186-187)。父性とはそのような「踏み台」として必要なものとして語られているように思える。そして、それが欠落している状態は「甘え」を助長しているものと解釈しているのである。
 しかし、問題なのはその表出すべき「古い価値観」そのものについて土居自身が何も示さないことそのものにあるのではないかとさえ私には思えてしまう。問題が本当に古い価値観の表出をする/しないにあると言うべきなのだろうか?大前提として何故「新しい価値観と対立する古い価値観の表明を大人一般が行わなければならない」のだろうか?その担い手は土居自身では駄目なのだろうか?ここで私が重要だと思うのは、土居自身が表明できない価値表明を他人に行わせることについての正当性である。この点、石原慎太郎の態度は評価に値するはずである。彼は「スパルタ教育」の著書の中で確かに(社会一般の価値観を代弁したつもりでいたのかもしれないが)自身の価値観を明確に示していた。何故土居はこの価値観そのものに問いを立てず、その手前の問題を語るだけで満足してしまっているのだろうか。父性の欠落が問題と言うのであれば、その父性について、当時の日本の状況に合わせて説明すべきなのではないのか。むしろそれが説明できない状況こそが問題なのではないのだろうか?
 これは価値の多様性こそが重要であると考えられている状況においては当たり前のように想定されるだろう。そのような状況において、古い価値観を表明しない大人の方こそむしろ「あたりまえ」であるように思う。それでも何故土居は古い価値観の表明に固執するのか。ここでもまた「社会問題の普遍化」への意識が先行している結果取られている態度にどうしても思えてしまうのである。
 実際、次のような議論を読むと、そのような態度がありえるのではないか、という疑念は当然であるように思える。


「すでにフェダーンも前記の書物において、現代において父と子のモチーフは著しい敗退を余儀なくされているが、しかしこれは人間性に深く根ざしたものであるが故に、全く父なき社会が現出することはあり得ないであろう、とのべているそうである。このことはまた最近の青年の反抗によってもある程度裏書されていると見ることができよう。なぜならそれは、先にのべたごとく、父親が弱いことに対する憤りであり、強い父親を待望する叫びであると解することができるからである。実際、中国の毛沢東が今日全世界の青年に或る種の魅力を保持しているのはこの心理の反映であるのかもしれない。」(p191-192)
「もっとも偉大な父というのは虚像で、中身は誰彼と変わりない弱い人間だと醒めた現代人ならばいうであろう。今日レーニンなり毛沢東なりが不死の存在に奉りあげられているとしても、それが根本において虚像であることに変りはない。この虚像が今日最も熱心に信じられている共産社会においてさえ、いつかはそれが崩れる日が来るにちがいない。しかしなぜ人類はかくも執拗に偉大な父を求めるのであろうか。この点について、フロイドの父親殺害説は非常に暗示的である。なぜならそれは父親を探し求める努力が父親殺害の記憶を払拭しようとする意図に発していることを暗示しているからである。すべての革命はこの人類的な主題の復習であると考えられる。所詮人類はこの主題から逃れることができない。」(p192-193)


 この引用において「青年の反抗」を部分的な青年の反抗と読めば、それほど違和感はないし、実際の学生運動の性質について考えても、そのような解釈の方が妥当ではないかと思う。しかし、土居においては、社会問題が普遍化しているため、矢継ぎ早に父の問題が普遍的な渇望としてあるものとみなされるのである。そして、何故かそれは解決不能な、「逃れることができない」問題に勝手に仕立て上げられているのである。ここでは明確に一般大衆が「父」を求めていないにも関わらず、「父を渇望している」という解釈を、「社会問題の普遍化」によって表現していることがわかる。また、この普遍性の説明を行うことによって、「何故『父性』が必要なのか」という問いを立てることも放棄しているのである。

 ここでも本書の最後の部分と同様、相対的な議論の取扱いを曲解していることが問題となっているといえるだろう。まず大前提として、「父性」の問題は必ず向き合わなければならないものとみなされている。これはジジェクのレビュー(「厄介なる主体」、より詳しい考察は「フロイト全集 第19巻」を参照)などでもみてきた「我々は主体的に動かなければならない」という無条件の要求と同じである。ジジェクの議論を介して私が認めたのは、この無条件要求は政治的主体として、文字通り自らを防衛するために「必要なもの」と見る限りにおいて認められるのであって、普遍的な要求とみなすこと自体は問題があるのではないのか、ということはこれまでも議論してきた点である。少なくとも、ジジェクが部分的にでも説明したように、ここには「何故主体的であり続けなければならないか」という問いへの応答が必要なのである。
 しかし、土居はフロイトの言葉を借りながらこれが必然的なものであるかのように述べているのである。


「たとえばフロイドが神経症の根元をなすと考えたエディプス複合は、見方を変えれば一種の世代間葛藤ということができる。この葛藤が発展的に解消されて、幼児が両親と精神的に同一化できた時は、彼らに正常な大人となる道が開かれたことになるが、これは勿論両親および彼らの代表する社会が健全であると仮定した場合のことである。ところで一見幼児が両親と同一化して正常の大人に成長したと見える場合も、そのかげに幼時の葛藤が生き続けると、それが神経症のもとになるといわれる。」(p175-176)


 この主張において、まず「正常な状態」について存在する状況について定義した上で、それと対比して「神経症」に至る状況について説明を加えている点である。
 そして、学生運動の議論を介して主張される社会問題について、土居はやはりそれが「幼児化」したものとして明確に位置づけている。このような態度はやはり常に「改善」を求める態度であるように思えてしまう。父性を持ち出し、しかも「無理やり」にでも父であることを強要する土居にとって、本来幼児性を持ち続けることは許されないはずだからである。
 
 
 そして、もう一点、土居がこの議論で「社会問題の普遍化」を行ってしまう理由が見受けられる。私の解釈では、価値観が多様であることに自覚的であるからこそ、ここで言う「父性」は行使困難なもの、もしくは不要なものとみなされるものと考えていたが、土居の場合、そのような態度自体が「疎外」されたものであると位置付けているのである。

「父親たちも内心では疎外感に悩み、現代文明の危機を肌で感じている。したがって子供を教育するどころではないのであろうが、しかしその彼らも社会の中ではその属する体制なり組織を防衛する立場におかれている。」(p186)


 私は「父性の欠落」という現象を価値の多様化の議論として、これをポジティブな感情として捉えたが、土居の場合、これがあくまでネガティブなものであり、結局現代文明の脅威への応答としてしか映らないのである。何故なら、現代文明は土居の望む「甘え」の結果獲得すべき「同一化」のプロセスを経ることができない(もしくは、極めて困難)からである。


「すなわち、現代文明の巨大かつ複雑な機構に接した場合、新しい世代は、未開人と同じく、ほとんど畏怖に近い感情を抱くのではなかろうか。殊に文明による環境破壊があらわになった今日ではなおさらのことである。彼らは現代文明を、自らも共有するはずの理性を造り出した産物として、それと同一化することができない。大体、現代文明の担い手たちは、その発達原理である理性の働きを自明のことと考え勝ち(※ママ)であるが、しかし実はそれ自体必ずしも自明のことではなかったのである。」(p183-184)


 このような認識こそ、「社会問題の普遍化」に寄与していると明言できる。このような脅威は「文明」の産物であるがゆえ、全ての者に降りかかる。そして、そのことによって社会問題が発生しているのであるから、それは部分的な人間の問題ではありえないのである。土居はこのような前提を平気で自明のものとしているからこそ、全てを同じように説明してしまうのである。これは日本人と西洋人の同一視にまで飛躍してしまっているのが、本書の特徴ではなかろうか。


○土居の議論におけるダブル・バインド要求について―まとめにかえて
 以上、これまでの議論において、本書にかけられているダブル・バインドについてまとめると、

「甘え」と日本人論との関連で言えば、
A 甘えは普遍的である
B 甘えは日本的である

「甘えの問題」に対する価値観については、
A 甘えは克服されなければならない問題を持つ
B 甘えは創造性の源であるから望ましいものである

「甘えの問題」に解があるかどうかについては、
A 甘えの問題は解決不能である
B 甘えの問題に取り組まなければならない

 といった形で二重に要求を与えていることがわかる。基本的にはAの価値に土居はコミットしているにも関わらず、Bの議論をタテマエとして並列し議論しているものとしてまとめることができるだろう。そして、本書を読む限り、土居自身もAとBではAに価値を与えているにも関わらず、Bが並列しているものとして受け入れている。このために随処で奇妙な主張を行うことになるのである。

 実際土居は、社会問題を捉えた第5章の要約を次のようにまとめている。


「ここでは現代社会の諸問題が「甘え」の問題に収斂することが指摘される。もっとも著者はなんでもかでも「甘え」で説明して得々としているのではない。また単に現代は甘えが充満しているといって嘆いているのでもない。現代はむしろ情緒として「甘え」を体験する機会は少なくなっており、その意味では甘えの欠如を云々することさえ可能かもしれない。しかしこのような事態は、甘えたい人間ばかりがふえて、甘えを受けとめる人間が極度にへってきたことが原因しているのであって、その点に読者の注意を促すことにこそ本章の主張が存したということができる。」(「注釈「甘え」の構造」(1993)p181)

 仮にこのような形で要約を行うことができる読者がいるのであれば、ぜひとも再度最後の2ページを読んでもらいたいものである。まず、「読者の注意を促す」行為があの扇動的なダブル・バインドの要求なのであれば、本書は極めて悪質な論述と言う他ない。しかも、一体何の注意を促しているのかわからないし、土居自身も明らかにわかっていないのであるから、その注意の対象が存在するとは考えづらい。むしろ、その不在が不在であることに無自覚であること、もしく不在であることの意味の検討にどこまでも無頓着であるからこそ、ここまで平気でダブル・バインドを使ってくるのではないのか。
 そして、「甘え」を体験する機会の減少とは一体どこで議論していたのか?土居は逆に世代の違う者同士が「甘え甘やかす関係」(p176)に溢れかえっていると述べていたではないか。これに関連して土居が述べていたのはあくまでも母子関係などに見られるような適切な「一体化」の欠如の議論だろう。それとも、「甘え」は甘えることによって「一体化」を実現し、克服されるものだと土居は本当に考えているのだろうか?この一体化はそのような次元に存在しない文明の問題として、疎外論的に困難なものとなっていることは、土居が述べていた点ではないのか?

 また、もう一点検討しなければならないのは、ここでいう「甘えを受けとめる人間」とは一体何者なのか、という点である。これは、本書でいう「父性」の議論を述べているのだろうか?しかし、父性を示すものとしての「古い世代の価値観の提示」が「甘えを受けとめる」ことと同義なのかはかなり疑問である。
 第五章では問いばかりを立てたまま、その解決策の筋道をほとんど示していないが、確かにこの「甘え」の問題を「父性」の問題として読めば、「世代間の問題はもともとは古い世代の自信欠乏に発している節がある。」とし(p187)、「父不在という精神的状況を超克するためには、父殺害の罪を認めて、それを以て新しい道徳の基礎とする他はないと考えられるのである。」と述べる(p193)ことから、「大人」の態度の問題であるとしているのは確かである。しかし他方で土居は古い世代もまた疎外という形で戸惑っていることを明確に述べている。そんな状況において「父殺害の罪を認め」ることなどできるのだろうか?土居が述べるとことを言いかえれば、古い世代は「父」がどこにいるのかさえよくわかっていないという状況であるし、当然のごとく「殺した」のかさえわからないまま、その価値観を守護する立場にあるものとみなされているのである。そのような状況にある人間に父殺害の罪を認めさせるという言葉自体が無意味である(罪を認める行為そのものが価値を表現していない以上、今までもわかっていない「価値」が突然現れることには決してならない)し、ここで「超克」などという都合のいい言葉を使っている点からも、何か問題を解決しようとする態度とはとても思えない。唯一ありえるのは「無価値であることを認める」ことだろうが、本書の論述から言えば、そのような価値は価値として認めていない以上、そのような解が想定されていると考えることもできない。
 土居はこの無価値から価値への飛躍について自覚することができていない。いや、正しくはある意味で土居自身が「古い価値」とは何かについて言及することができていない時点で、すでに認知はしているのではないかと思うのである。しかし、自らの「論法」そのもののおかしさに気付くことができていないから、このような議論を平気で行うことができるのではないのではないか、と思うのである。


 これは当然土居自身だけの問題ではないように思う。土居自身これまでの日本人論等にどっぷりとつかりつつ、自らの甘え論を展開しているのは明白であり、同じように、社会問題に対する語りも同じように「過去の議論をそのまま」使用しているといってもよいのだろう。日本人論、そして社会問題に対する改善を語るときの論法として、このような具体的な改善を要求しない、その意味で意味のない議論を展開するするようなものが存在しているのでないのか、と思うのである。
 ただ、土居の場合、その論法を集約し、一つの「論法」を典型的なものにまで位置付けたという可能性があるのではないかとも思うのである。これは、少なくとも「父性原理」と「母性原理」を用いて日本人の改善要求を行っているにも関わらず、やはり具体的な議論が不明であった河合隼雄には同じように引き継がれている点であると言ってよい。今後、このような論法の系譜がどのように展開されていったか、といった観点にも目を向けていく必要があるのではないか、と感じた。



※1 「例えば、「日本的」という概念の中身は何だろう。あえて日本的という以上、他のどの社会にもない属性か、せめて日本において最も著しい傾向でなければ、その資格はない。ところが、目下流行の日本人論は、日本については詳しいのだが、比較の対象になっている外国社会については、情報も認識も薄っぺらだ、というのが実状である。」(杉本良夫/ロス・マオア「日本人は「日本的」か」1982,p134)

※2 実際の議論では、すでに欧米等の他者が実証性を欠いた理想像として描かれているため、議論の構造は多くの場合「理想像の議論をしているのだが、具体的な欧米にそれを反映させている」ものとなっているといえるだろう。

※3 更に厄介なのは、この文言の読み方によっては(「この点は本当のところ誰にもわからない」という部分が文字通りの意味であるならば)「問いの解がないにも関わらず、問いに答えろ」というダブル・バインドを課しているとも言えるのである。ここには単純に「何故問いに答えなければならないのか」という問いに答えずに一方的に命令を加える態度が見てとれる。