ポール・グッドマン、片岡徳雄監訳「不就学のすすめ」(1964=1979)

 本書は「脱学校論」のはしりとも言われている著書であり、すでに議論している「アメリカの個人主義」について安直な議論を行う論に対する反論として、今回取り上げた。

 河合隼雄は、日本の教育において「権威」というものが人を拘束するものとなっており、アメリカにおけるauthorityとは異なるものとして考えられているという。アメリカにおいてはそれが個性を尊重するものであるかのように捉えている反面、日本ではそれが理解されていないこともあり、押しつけになるのだという(cf.河合隼雄「臨床心理学入門」1995,p80-81、「河合隼雄著作集7 子どもと教育」1995,p309-310)。更に千石保に至っては、はっきりとフランスやアメリカには、個人主義に内包された規範意識があると述べている(千石保「「普通の子」が壊れてゆく」2000,p72-73)。

 両者のレビューですでに述べたように、このような主張はアメリカの脱学校論の文脈を無視した言説である。本書においてアメリカの教育は個性を無視した画一的な人間を作ろうとしているとして何度も批判を行っている(cf.p77,p92,p164)。特に注目すべきは、それが義務教育だけに限らず、大学においてさえも同じだとしている点である。P173-174の成績点原則廃止の提案も、(学校教育の中でも相対的に自由であるはずの)大学における議論であり、「そこで教師は、成績点で彼らをあおったり、脅したりする」のである。河合隼雄が日本の教育を批判しているのと一体何が違うというのだろう。日本人論を展開するのであれば、このような議論に対しても取り上げつつ、相違点について明確にすべき所であろう。そのような議論のない論というのは、肯定する価値が乏しい。

○グッドマンの学校の歴史認識は正しいのか?
 但し、河合や千石の議論と同様、本書の議論(「アメリカの学校教育は抑圧的である」という議論)についてもどこまで信用してよいのか、という疑問は付されてよいと思う。というのも「過去の学校教育」及び「学校教育ではない分野」に対して過度の評価をしているという傾向が強いからである。

 前者についてはすでに新堀通也のレビューで見たとおりの話である。特に本書も「社会問題」の影響を強く受けつつ、教育を批判するスタンスをとっているため、(たとえ著者が多くの学校を観察していると言っても)検証作業自体が軽視されている気がしてならない。特に過去の教育の実態について参照しているのはp27-28で示された小説のみであり、それ以外の部分は学校教育設立初期の「理念(実態ではない)」との比較によって、当時の学校批判を行っている傾向が強いのである。
 グッドマンの言い分は見方によってはp27-28のように、「過去の社会では『語られなかった』が今の社会では『語られている』 」ということを根拠に、現状の問題を指摘しているように思えてしまう。これはかなりアンフェアな議論であるように思える。そもそもそのような「社会問題」について議論するだけのジャーナルの世界も当時と過去では量が違うようにも思うし、仮に過去の教育が問題があったとしても、「ごく一部人間を対象にした問題であるから」という理由で「社会問題」とみなされていない可能性もある。過去の教育の実態に対する言及が極めてわずかなことからも、この点に関する検証を行おうとしていたとはとても思えないのである。

○学校教育不要論についてどう考えるか?
 また、後者の評価についても、現状の学校教育の過小評価の上に成り立っている可能性を否定し難いように思う。グッドマンは「読む必要のない社会」の方が楽だと断じている(p33)。また、p44も実質的に義務教育の不要の主張であり、学校制度がなくても「うまくやっていける」というのが、グッドマンの主張である。

 この議論は二つの方向性で考える必要がある。一つは「読む必要がなくても仕事をしていくことができる」という主張と、もう一つは「学校で行うのは仕事につくためだけの教育だけではない」という点である。

 前者の議論は、結局p123のような主張がどこまで正しいのかという議論に行き着くだろう。簡易な職場訓練で成り立つのであれば、確かに学校教育はいらないだろう。ただ、この論点は非常に厄介であり、今の私では検討ができない。今後の課題である。ただ一つ言えるのは、それでは何故企業というのは、高学歴の人間に限定して採用したがるのか、という点である。これは別に国や学校から企業が圧力を受けて判断している訳ではなく、企業自身の判断で行っているはずなのである。この事実はやはり高学歴の方が何らかの点で即戦力になるという判断があるからと考えるべきではないのか?ところがグッドマンはこのことについて恐らく「迷信」として片づけてしまっている節がある(cf.p188)。このようなことが「思い込み」によって普遍的に解釈されていると結論付けてよいのだろうか?これもまた実態の検討なしに「思い込み」で片づけているのはあまりにも安易であるように思えてしまうのである。

 また、常識的なレベルで「我々が物事について思考する際に、文字を用いながら考えた場合(=文字に記録しながら思考する場合)と、それを用いずに思考した場合(脳内だけで考える場合)のどちらがより深い思考を行えるか」を考えた場合、どう考えても文字を用いながら行った方が議論を深めることができるだろう。これは、文字自体が思考の記憶をする一助になることからも、その整理のための一助となることからも、明らかであるように思える。
 もちろん、これには例外がある。絵画や音楽といった芸術の分野や、文字通り「為すことによって学ぶ」工芸品などの職人の世界というのは、上記のような思考を深める必要性はないと考えられているといってよい。これらの分野は別の方法においてその能力を深めるためのプロセスを持っているといえるため、この限りにおいてはグッドマンの言い分も正しい。しかし、この分野というのはあくまで限定的であることが想定されるのであり、グッドマンの言い分も限定的なものであると述べるべきではないだろうか(※1)。


 一方、後者の議論ついては、まず、既に学校教育批判として「学校は職業教育やその能力を育成するような偏った教育だけでなく、全人的教育(もしくは、人格の完成を目指すための教育)を行うための場である」とする立場もあり、特に「民主主義的教育」の必要性を唱える立場から、子どもにとって学校が「必要」である理由として主張される議論と対立するだろう。
 これは一方で全生研のような集団主義的教育からアプローチする場合もあるだろうし、私のようにより素朴に(仕事以外に)社会に生きるために必用リテラシー教育が必要であると考える立場もあるだろう。

 また、共通言語を読む作業はグッドマンに言わせれば劣等感・非行を生む要因となり(p33)かつ読みの能力は「情報を仕入れる手段」であるがゆえに支配の道具になる(cf.p34)という陰謀論じみたものにもなるようだが、逆にこのような共通言語が不在となる場合に、「問題解決を暴力(もしくは恣意的な力関係による解決)でしか行うことができなくなる」という見方はできないのだろうか。この点についても実証できる材料を持ち合わせていないが、少し気になる内容を宮本常一の話から見出すことができた。引用内容は戦前の生まれで学校に通っていなかったことから識字ができなった農村部の人の話である。

「三人とも字を知らなかった。文字のない世界には共通したこのような間のぬけたようなものがあった。左近翁も若い時はこうした噂の中にだけ生きてきた。そしてそういう中にあっては人を疑っては生きて行けぬものであった。疑うときりのないものであった。だから一度だまされると今度は何もかも信用できなくなるという。文字のない世界はそれだけにまた人間の間のぬけたような気らくさと正直さがあったが、見知らぬ世間の人はできるだけ信用しないようにした。」(宮本常一宮本常一著作集 第10巻 忘れられた日本人」1971, P191)

 ここでは「非識字の世界に生きると『信頼』のあり方が変化する」ということが示されている。このような主体に対する理解をどう考えればいいのかは判断しかねるが、少なくとも信頼関係を結べない、対立関係が生まれた場合の対応は基本的に相互の断絶であり、ひどい場合は闘争しか生まない状況になるのではないか、という推測も可能である(もちろん、これは仮説の域を出ない議論である)。グッドマンの議論は、このような点から言っても、学校批判に対し過剰であり、「学校がないこと」に対して楽観的な見方をしすぎているのではないのか、という印象を受けざるをえなかった。

※Ⅰ 但し、ここでの私の批判は、「そもそも能力を深めるような場面自体が必要でない」かのように語るグッドマンの側面は拾い切れていない。特に海外の対抗文化に関する著書を読むと、このような能力観をそもそも認めないような議論に出くわすこともある。この点については現状コメントできないが、これについても考えねばならない論点だろう。


<読書ノート>
p6「こうして、学歴の拡張と就学人口の拡大によって、学校は、一般訓練機関や子守り役や固め屋になるだけで、学校が、とうぜんもっていた美しい学問的機能や共同社会的機能を失いつつある。」
p22「にもかかわらず、私は疑う。現在のものであろうと、現在の教育行政のもとで望みうるどんな改革であろうと、そもそも学校へ行くことが大多数の若者のその時期最高の過ごし方であるか、と。」
p23-24「たとえば、一九〇〇年には、一七歳年齢人口の六%が中等教育を受け、〇・五%が大学に進学したのに対し、一九六三年では、六五%が中等教育を受け、三五%が大学とよばれる機関へ進学している。同じように、農場生活や細々とした職の多い都市生活に挿入される束の間の学校教育と、子どもにとって唯一の「真剣な」職でもありしばしばおとなへの唯一の接触ともなるふつうの学校教育、との間にはかなりの相違がある。こうして、おそらく今や流行遅れになった制度が、子どもの成長上許されるほとんど唯一の途となった。そしてこうした先取りとともに、一つの狭い経験をますます強化する傾向が生まれている。」
p25-26「ジェファーソンやマディソンらが義務教育を構想した時には、そうした(※国家の要請と個人の発達の)両立不可能性は考えられもしなかっただろう。彼らは啓蒙主義の風潮に浴しており組合協会(町民会)的な思想に強く影響され、しかも当然のことながら革命の担い手でもあった。彼らにとって「市民」とは、社会をつくり上げる人であって、社会に「参加」したり「適応」したりする人ではなかった。明らかに、彼らは自分自身や友人を市民としていわば肌で感じていた。社会をつくるということは、彼らの生活の息吹きであった。しかしいうまでもなく、そのような考えは今日の政治的現実からはるかに遠く、それに正面切って対立する世界である。われわれの場合には、基本的なルールやしばしば得点までもあらかじめ決められている。」
※これは理念でしかないのでは?これをもって「かつての学校はよかった」(p25)といっている節がある。

☆P27-28「すなわち、小学校では読み書きと算術が求められ、大学では経済拡張に寄与する専門技術技能が求められた。しかしここでも、「個人の発達」と「国家の要請」とが両立しないなどと話す者はだれもいなかったであろう。当時はまだまだ、機会に恵まれた開かれた社会である、と考えられていたからである。それを典型的に示すのがホレイショウ・アルジャ二世の描く小説である。そこでは、学校教育というものは、人に先んじるに欠かすことのできないものであると同時に、道徳的にも優れたものである、とみなされている。……一九〇〇年当時、九四%の者が中等教育を終えなかったが、彼らには、成功の機会が他にあった。……しかし、地位にそれに至るルートはますます階層化され、硬直化し、区分され、ひからびてしまっている。……生き残ってゆくことの必要条件は、まぎれもなく学問的なものであり、学校とか大学でのみ達成されるものである。しかしそれとひきかえに、そのような学校教育は、主導性や道徳性の意味あいを失いつつある。」
p29-30「教育の哲学的目的は、自分の所属する階級から個々人を解放し、人類という唯一のものに引き入れてやることでなければならぬ。慎重と責任感は中産階級の価値ではなく、人間の価値である。また自然らしさや性的関心を示すことは、無学の人の能力ではなく、人間的健全さがもたらす能力である。今日の社会心理学者たちは、人間的な共同社会に目を向けず、強迫観念が衝動を処理してくれるであろうような未来社会を頭に描いている、そんな印象を与えている!」

p32「たとえば人生とは、所詮きまりきっていて、非人格化され、金で格づけされるものだとか、規則に従って黙っているのが一番よいとか、自発性や解放的な性や自由の精神の発揮できる場など全然ないとか、こういった事柄を、あらゆる階級の現代市民の大多数が学ぶのはどこか。それは、家庭や友人からというよりもむしろ学校の中であり、マス・メディアからである。学校の中で訓練されたあと、彼らは学校と同じ性質の職業や文化や政治の中へ進んでゆく。これこそ、教育、非教育であり、国家的規範への社会化であり、国家的「要請」への組み込みである。」
※これは国家にとって生産的であるか、という問いはどこでなされているのか?
P33「読みを習得していない子どもたちという悩みがあり、読みの教授方法を熱心に防御する論議もある。じっさい、読むことができないということは、勉強を積み重ねてゆくうえでは障害に等しく、その結果、劣等感という苦痛感、ずる休み、それに脱落者が生まれることになる。」
※本書の最初の一文から「学校からの脱落者」の問題が語られる(p20)。
P34「おそらく現行の管理体制のもとでは、多くの人びとが読めなくてもいっこうにかまわないようになれば、われわれの社会生活は楽になるだろう。もし人びとが十分に「情報を仕入れて」いなければ、彼らを体制に組み入れるのは、ずっと困難になるだろうから。つまり、ノーバート・ウイナーがいつも指摘していたように、決まり文句をただ繰り返すだけでは、雑音を増やし、コミュニケーションを妨げることにしかならないからである。読み書き能力が低下すれば、それだけ民衆文化が育つであろう。もし若者たちがたぶんいりもしない規準に応じる必要がなければ、劣等感にひどく苦しめられることもなくなるだろう。」
リテラシー、文字通り批判能力と創造するための能力は話し言葉では限界がある可能性がないか?その意味でこの主張は読めないことの過大評価たりうる。

P43「全米の随所で七〇の大学を訪ねてみたのだが、その際私がぞっとしたのは、各学科が正しい学問精神で、その学科の真理と美のため、しかも人間的な世界文化の一環として学ばれることのいかに少ないか、ということであった。学生たちは、免許状と給料とを目当てにしたせせこましい体験、つまり「熟達」を与えられたり追求したりしている。彼らは、国家的スケールでの思考停止を教え込まれ、愛国主義的であることさえやめてしまった。」
※しかし言い換えれば、ここまで言っても学歴社会という枠組みは変わらなかった。
P44「強制的な学校システムは、すべての人にかけられたワナになってしまっており、少しもよいことはない。貧困階級も中産階級も含めてかなり多くの若者は、もしそのシステムがあっさりなくなったとしても、うまくやってゆくだろう。」
P46「先と同じ考え方だが、校舎の内外にかかわらず、若者をおとなの世界へ導くにふさわしい教育者として、免許状を所有していない共同社会の中の適当な成人——薬剤師、店の主人、機械工——を利用せよ。こうすることによって、われわれは現代都市生活にまことに特有な、おとなの世界からの若者の隔離を生じさせることもなく、専門的な学校人たちの持ち合わせている何でもござれの権威をなくそうとするきともできる。確かにそれは、おとなたちにとってみ、有益でしかも生々しい体験となろう。」
P46-47「A・S・ニールのサマーヒル方式に従って、クラスへの出席を強制しないようにせよ。もし教師がすぐれていれば欠席はなくなるであろう。もし教師が駄目なら、教師自らにそのことを知らせてやればよい。」
※教育があくまで関係性の問題であることを考えれば、この発想はアンフェアである。これを強要するということは、当然教師側が「従者」となる可能性もある。関係性であることを前提にすれば、そこに「支配者」であることを強要することは正当性がない。明らかにここでは「支配者」となることを強要している。

P51「教育学を実際に必要とする際立った問題というのは、子どもたちの声が封じられていることである。このことは十分すぎるほど明らかであった。子どもたちはしょげ返った姿勢で坐っていたし、声を発することもできなかった。それは姿勢からして無理だった。精神治療学的にみてもまた、その場合の子どもたちは、問題となっている事柄に対して、またそれを把握し理解することに対して、積極的態度を十分とることができなかった。」
P61「というのは、目的が部外者によってあらかじめ決められ、目的が創造的な仕事をせねばならない当事者——それが若者であってもーーによって批判・変更されえないような時は、どんな創造的な仕事もやれるものではないからである。」
※これも創造的であるとは何かを定義しないと意味がない。制限された環境には制限された環境なりの創造性をいくらでも作ろうと思えば作れる。
P70-71「一九六四年二月二四日に行なわれた全米銀行協会の講演で、労働長官は義務教育期間を一八歳まで延長することを提案した。ところがちょうど同じ頃、ニューヨーク州のキングカントリーのある大陪審は、義務教育期間を一五歳までに引き下げ、しかも手に負えない生徒を退学させることができる権限を教育長に与えることを提案している。地方の多くの学校は、学校にいたくない生徒たちを閉じ込めておくため、警察官を配置している。しかも、一九六三年の退学者たちの大多数は、いいふくめられて復学はしたものの、すぐふたたび退学している。教育の目的や方法やカリキュラムについて、本質的な改革が何一つなされていなかったからである。彼らはただ、だまされたときによって新たな屈辱を味わったにすぎない。さらにーーこれ以上いう必要はないがーー年長の生徒たちは、いっそう悪くなり、物騒な凶器を使うようになる。」

P77「現在、ほとんどの州で、すべての若者が、一〇年ないし一三年間、一日の大部分をいやいや教室に坐らされている。そこはほとんどいつもすしづめで、前を向かされ、州都の遠い行政部であらかじめ決めた学課をやっている。その学課は、生徒自身のもつ知的・社会的あるいは動物的な興味とは関係ないし、まして彼の経済的な興味とも関係ない。生徒が多すぎるために、個性や自発性が除外され、若者はふちょうで教えられ、先生はやかまし屋になる。もし若者が自分の好みに従おうとすれば、妨害されるし、ついには牢屋へ入れられもする。」
※このような教育において、どこに「個人主義」が見出されるのだろう?
P77-78「長官はその講演で、一八五〇年から、そう、一九三〇年までに目をみはるほどの拡張をとげた無償教育についてふれている。しかし、これは今日の状況に関していえば、まったく誤解を招くものである。繰り返していえば、このような機会開放は自由経済の中に起こった。自由経済には、技術や教養学習を必要とする広大な市場がある。若者は、自分自身の意志でその機会を利用した。だから、そこには黒板ジャングルもなければ、しつけの風土病的問題もない。教師は学習したい人びとを教える。だから、成績点がとくに強調されることもない。ところが、現在の状況はどうか。テストと成績点のきちがいじみた競争は、技術や学習を必要とする市場が開放されていない、つまりすきまがない、ということを意味している。高得点者を求める雇用者はあまりいないし、高得点者が独立の企業主になるわけでもない。要するに、二、三の大企業だけが巨大な淘汰作用と選択作用の利益をえている。」
※実態と理想、そして誇張との区別ができていないと、このような議論には意味がない。そして、なぜ学歴を持ったものの採用にこだわりを持つ必要性は雇用主に全くないのに、なぜそれを求めているのか、という説明も全くできない。問いに答えられない限りはやはり学歴のある者を求めている、と考える方がはるかに自然である。自然でない回答をするなら(これも立証あって然りだが)、その立証をすべきである。

P89「家族を別にすれば、子どもは学校教師以外のおとなとほとんど話をかわさない。しかし、生徒が大勢になりしかもスケジュールが盛りだくさんな学校では、人間的な接触を教師ともつ機会も時間もほとんどなくなる。また、大学と同じくそれ以下の学校でも、だんだん教師専門家養成や学校運営にうき身をやつし、人間的な役割を棄てるようになった。その結果、生徒がうちあけ話をしてガイダンスを受けるのは特別な場合に限られるようになった。もし人間としてとり扱われたいなら「逸脱」しなくてはならないのである。」
人間性と逸脱が結びついている、という点も注目してよいか。いや、もしくは訳の綾か。
P91「子どもの段階から以上のような様ざまなものが加えられ、洗脳されることになる。この洗脳ということの中には、①ある共通の世界観を与える、②別の方向に育つかもしれぬ芽をなくす、③自分自身の経験と自分自身の感情を適切かどうかわからなくしてしまう。④慢性的な不安をつくる、といったことが含まれている。その結果、安全性のみを求めて一つの世界観に人はしがみつく。これがまさに洗脳である。」
P92「だから、現代の過剰ともいえる技術や、現代の市民的平和(?)や、あまりにも多い教育機会や文化機会にもかかわらず、アメリカの子どもが、独立心を養い、自らのアイデンティティを確立し、好奇心や主導性を維持し、科学的態度や学問的習慣や生産的な冒険心や詩的な話し方を身につける、といったことは困難なのである。」
※個性の育成は困難!!

P120「同時に一方では、自発的な主導性ということが妨害されたり、不適当と考えられたり、「大事な」勉強にさしつかえると不安がられたり、さらには恥をかかせ拘置したりまでして罰せられている。しかもそのうえ、このような熱狂的な条件づけのコースを身に施された後、若い男も女も卒業しさえすれば様ざまな重要問題に主導性をとつぜん発揮しだすと仮定されている。すなわち、競争市場の中で自力で仕事をみつけたり、長期の生活設計をたてたり、独創的な芸術や科学の計画を企てたり、結婚して親になったり、選挙のために投票したりする、と仮定されている。しかし、彼らの行動は、うまく型どられすぎている。こうして不可避的にたいていの者が、組織人として、あるいは流れ作業のうえで、割りあてられた仕事を型通りやってゆくことになるだろう。」
※この認識について事実認定及び価値判断をどう考えるかは重要。
☆P121「行動分析やプログラム学習が学習と教授法の十分な分析であるにしても、政治的理性を無視しているために、それは自由な市民の教育にとって本当に適当かどうか、なお疑わしい。」
※例え学習として完成していたとしてもだめらしい。
☆p123「高度に自動化された技術社会では、ふつうの仕事は、二、三週間も現職訓練を受ければよく、学校教育などまったく要求されない。われわれが希望にあふれて期待する人間を大切にする雇用および余暇のためには、プログラム学習とはまったく違った教育や習慣をわれわれは要求する。」
※機械へのこの認識は致命的な問題か。
P124「現代の技術進歩には悲哀感がつきまとっている。プログラム学習がよくそれを例示している。プログラム学習の大部分は、生物を機械で操作できるようにするために、動物と人間を不当に低く評価しているところになり立っている。一方では、この学習法を生んだ社会的背景は、多くの人びとを見捨てられ者にし、事実彼らを人間的に弱め、人間を無責任にもする、そんな傾向もある。」

P128「しかし、今や別の危険が起こってきた。それは、全米科学協会の構成に深くかかわるものである。つまり、彼らが考慮している人と考慮に入れていない人とが、はっきり分かれている点だ。報告された改善計画や改善方法さらに提供されたテレビフィルムなどのいくつかを見ればよい。カリキュラムの改革委員は、大学院の教授ではないか、また、博士号を生産するための科学教育以外のものを結局は考えていないのではないか、という印象をぬぐいきれない。」
※「協会のめざした目的は、道理にかなったもので不純なものはない」と前置きがある(p127)。
P131「発見学習といってみたところで、それは、博士号がすでに出ている既知の解答に向けられたものにすぎない。創造性に必要な迷いやあきらめこそ重要な意味をもつというなら、こういった悪ふざけの提案に対しては、若者としては洞察するのではなく、禅教育の場合のように、嫌気がさしたり怒ったりするほうが正しい反応ということになるかもしれない。」
※禅教育とは?また、発見学習に対しては、「たとえば、それはマサチューセッツ工科大学の博士論文によってあらかじめ図示されたコースの中でなされる発見である。そうした過程は、威勢がよいどころか、まことに失望させられるものに違いない。私の推察では、この「発見」は、歓呼ではなく、冷笑をもって迎えられるだろう。発見の興奮は、謎ときの動画におとしめられる。このような謎ときは確かに多くの博士論文がやっていることではあるが、それにしてもその謎ときにどんな創造的思考がからんでいるか、私には疑問である。」(p62)と述べ、結局は「偽り」の真理の発見については全く無価値であると決め込んでいる。これについては、模倣行為への過小評価、および発見に至る思考プロセスの重要性の過小評価が含まれているように思える。

P135「理解困難な機械部門のためだけでなく、専門家仲間でしかその価値を予測できないようなスポンサーつきの研究に対しても何億ドルの予算を出すべきかの決定をしたり、さらに名誉ある失敗とにせのごまかしとをどのように見分けるか。これらはすねて民主主義のまったく新しい問題を提起している。迷信——「科学」の迷信を含むーーを打ち破り、人びとをもっと技術に慣れさせ、科学研究費や科学研究の階級制度に関する経済学や社会学を教えることで、その矛盾状態を緩和することができる。おそらく、正しい質問に答えたり、解答の中身ではないにしてもその確実性を判断したりすることは学習できよう。そうすれば少なくとも、輸送対策のような問題や外部援助のための技術輸出といった問題に関して、知識人が専門家を勇気を出して批判しようとする時、よりよい決定ができることになるだろう。」
P152「(1)われわれが伝えたいと思っている文化は、これらの青年にとってもはや文化ではない。文化をつなぐ糸が切れてしまった。
(2)これらの青年は、自分自身に対してまじめではない。これは、彼らのもっている文化の特性である。
(3)下級の学校と同じく、大学自身にみられる前兆や方法や目的は、先例のない現在と予見できる将来とによってすばらしい教育とは、少しいいがたいものである。」
※ただし、ここでいう文化とは西洋的な極めて伝統的な文化、ギリシャ人の話、聖書の話、騎士道の話などを指すようである(p152-153)。
P154「このような構造の欠如については、おおかたの学生も感じており、若い多くの教師たちも明確に述べている、と私は思う。彼らは私をほんとうの気狂いとまでは思わなくても、まさに時代遅れ、場所違いとして、郷愁の念で私をながめるーー事実、私は、うらやましがられさえする。というのは、かりに伝統的価値が欺瞞であるとしても、人びとがそれらを信じそれらを行なおうとすれば、それらの価値はこぎれいに自分を正当化することができるからである。」

P164「問題点を繰り返しておこう。幼児期から若者は、学校外の要求に対してしだいしだいにきゅうくつにさし向けられた、密集行進法というやり方に慣らされている。個人のペース、個人のリズム、個人の選択にはなんの注意も払われていない。しかも、アイデンティティの発見にも知的目的への献身にも、これといったものは何もない。適性テストと学力テスト、それに高得点を取るための過酷な競争などは、学校産業を含む実業界で高給取りへの梯子を登るレースである。」
P166-167「この提案(※大学入学前の社会経験を積ませること)の目的は、二つ。一つは、大学のレベルで、とくに社会科学や人文科学で教育されやすい十分な生活経験をもった学生が得られること、もう一つは、成績めあてに割り当てられた学業を一二年間しゃにむにやってきた密集行進法を打ち壊すこと、である。そうすれば、学生は、少しは内面的な動機づけで大学の勉強に取り組むことができるし、その結果、自分を変化させるかもしれない何ものかにおそらく同化するだろう。……
このプランのもたらす副次的な利点は、道徳問題を気狂いじみた親心で取り扱うという運命的なしかも偽善的な努力から、大学を救済することになる点である。若い人びとが、生計維持のために働いたり、外国へ旅へ出かけたり、軍隊に入ったりすれば、彼らは自分のことは自分で処置することができる、と大学は仮定してよい。」
P173-174「多くの教師は怠惰である。そこで教師は、成績点で彼らをあおったり、脅したりする。結局、このやり方は、よい結果を招くより、いっそう害を与えるにちがいない。怠惰は性格の防衛である。それは、自分がすでに完全であるといううぬぼれを守るため、学習を避ける方法であるかもしれない。怠惰は、まさに失敗したり、格下げされたりする危険を避ける方法であるかもしれない。それは時には、「私はその気がない」と丁重にいう方法でもある。しかし、そのような態度をまず最初に生み出したのは権威主義的な成人の要求であるのに、なぜ、彼らに与えた外傷を繰り返すのか?」

P188「この本で議論していることは、こうだ。すべての子どもは、できるだけ教育されねばならない。しかも、社会にとって有用であるように。しかも自分の力を最大に実現できるように育てられねばならない、と。現代の社会では、このことは、共同体の必要として、ほとんど公費でなされねばならぬ。確かにアメリカ人は、貪欲や消費や機械類や高速道路にあれだけのむだ使いをしているならその代わりに、現に彼らが支出している以上の金を教育に費やすべきである。しかし、このことから、大多数の若者を教育する方法は彼らを青年期や成人前期の間ずっと学校に閉じ込めておくことだ、ということにはならない。それはたんに、一つの迷信であり、公的な迷信であり、しかも大衆的な迷信である、にすぎない。」
P196「賢くて活発な人もおおくいるが、彼らのほとんどは、実はどこか別のところに行きたいと思い、トラブルを起こしはじめた。学問的なカリキュラムは必然的につまらぬものになった。学校の重要な機能は子守りと補導になりはじめた。子守りは、騒がしい大学にも引き継がれた。」
P198「そのようにして、わが子が「よく適応する」ということをかつて望んだ母親たちは、いまやIQと偏差値の狂信者である。気楽で民主的で楽しいところであった学校は、いまではおそろしく競争的である。」
※教育ママか?
P204-205「まことに興味あることに、労働省法務省の再訓練と社会復帰計画には、直接の学校援助法案よりも、学校教育をも含むいっそうすばらしい教育的理念が含まれている。連邦政府の教育への多額の援助は、教区学校問題によって妨害されているので、その金の何がしかは、学校というシステムを通さずに配分される方がようであろう!
実験室の科学訓練を多く含む職業訓練は、関連企業内部での技術実習として処理されるべきである。」