渡辺治「「豊かな社会」日本の構造」(1990)

 本書は、日本の「社会民主主義」の分析を介して、その特殊性と、労働運動や政治における一種の脆弱さを指摘する内容である。
 本書を読むきっかけとなったのは、渡辺が別の編書で(渡辺治編「日本の時代史27 高度成長と企業社会」2004)、75年頃からの官公への批判がなされるようになったこと、そしてそれが政府やマスコミによる公務員攻撃の産物であるという指摘を行ったことであった(※1)。実際の所、根拠が明示されていないことも多いが、(私が普段このような政治学の本を読んでいないから、というのもあるかもしれないが)渡辺の分析の切り口自体が斬新であり、たとえ実証性が乏しい指摘であったとしても検討をする価値のあるような議論が多いと感じたからであった。
 
 本書においてもそのようなスタンスは全く変わっていない。そして、特に政治力学をめぐる部分などは非常に細かく、このような政治的議論というのが具合的な政策である教育などの分野にも影響を与えた可能性があるという意味では非常に参考になる一冊である。特に社会党に存在したラディカルな左派、資本主義的政策に対して極めて拒否的な層が存在していたことの影響などについては、考えさせられる部分が多いように思えた(※2)

 簡単にではあるが、気になったことを2点だけ挙げておきたい。
 一つは日本の特殊性を殊更大きく語っているのではないのか、という点である。渡辺は日本が「豊かな社会」を実現できたのは、「パクス・アメリカーナ」の状況下でその恩恵を十分に受けることができたこと(p82-83など)を理由としている。そしてその成長によりほとんど自動的に企業から福利を受けることが可能となり(p92)、企業支配が強化されたとみている。そしてこれを基本的に「日本だけの特殊な状況」として位置付けているかのように思えるのである。
 まず、渡辺は日本の「社会問題」の特殊性について指摘をしている(p38)。そして、このような特殊な問題の原因もまた日本的な特殊要因であるとみなしているということである(特にp95-96のような言い方がそのような想定をしていると言えるだろう)。ここでは例の理念型αとβの問題も抱えた議論が存在している。「事実の正しさ」と「因果関係の正しさ」の2つが問われているということである。
 この検証については今の私では深入りできない。しかし、私の詳しい教育に関することに限れば、指摘している内容が誤りであるような議論がほとんどであるように思える(※3)。企業社会の確立により競争主義の文脈が教育にも流れ込み(因果関係)、そのことで教育病理が発生した(事実)と渡辺はみている。しかし、これらはどちらの観点も疑問府をつけるべきところだろう。結局渡辺はどちらについても「特殊日本的」なものを見ている訳だが、本当にその特殊性があるかという問いを立てれば、事実関係としてはアメリカの「脱学校論」の文脈が反論の根拠たりうるし、因果関係としてはすでに明治時代からある種の問題だった「試験難」「試験地獄」の文脈を無視していることが反論の根拠になる。渡辺自身がどうにも「社会問題」という「事実」のみに目が行き、比較の観点を欠落させていること、またその「事実」が本当に事実なのかという社会問題固有の問題をまともに捉えていないのではないのか、という疑念を強く感じた。
 もっとも、渡辺の本旨は労働分野に関することであるため、上記の批判はあくまでそこから派生した教育の議論のみに過ぎない。しかし、労働分野に関する点についても、渡辺の指摘をそのまま鵜呑みにすることはできないとは言えると思う。

 もう一つは上記に関連して、「日本人論」の文脈から、「競争主義」をどう考えるかという点である。「ライジング・サン」ではこれを伝統的な価値観から(おそらくはサムライ精神から)見出していた訳だが、本書においては明らかにこれが否定され(p188-189)、企業主義の確立にそれを見出しているのであった。私はこのズレというのが意外と深いのかもしれないと感じたのである。日本人論が伝統的価値観にひっぱられやすいことは「ライジング・サン」を読んだ印象としても強く感じたが、それとは別に本書や、私が今まで読んできたような階層論的な理解というのが「競争主義」言説を産出し、それが何かの機会に伝統的価値観へ還元されている、という道筋が存在しうることを本書を読んで感じたのである。日本人論を考える際にこのようなズレの存在を把握することと、その原因について考えることは非常に有益であるように思う。今後もこの点からもレビューを進めていきたいと思う。


※1 具体的には次のような指摘があった。
「スト権ストは、六〇年代から発展してきた官公労の運動の頂点に位置していた。その攻勢的に進んでいた官公労の運動が守勢にたたされる転換点になったのがこのスト権ストだったのである。「親方日の丸」論などの官公労攻撃も始まった。民間大企業の労働者に企業意識が強まり、中小零細企業の労働者は不況にあえいでいた中にあって、その攻撃は国民の一定の支持をうける基盤があった。公務員攻撃はこの七五年前後を起点にして、それ以後ますます強く、そしてすべての官公部門労組へと拡大していったのである。」(渡辺編2004, P150)
「一九七五年ごろから、政府・財界、そしてマスコミなどからの公務員攻撃のキャンペーンがなされたーその攻撃は地方公務員だけでなく、臨調行革、教育臨調、国鉄の分割・民営化へとつづくなかで全官公労働者にひろがっていった。」(同上、P152)

※2 もっとも本書からだけでは、海外との具体的な比較については見えてこない。部分的には参照される文献で言及されているのかもしれないが、それもわからない(これは私が政治学に疎いからである)。

※3 これは渡辺の教育への言及が馬場宏二の影響を受けていることも大きいように思える。馬場の「教育危機の経済学」(1988)は私も読んでいるが、馬場の著書からも具体的な因果関係が示されている訳ではなく、ほとんど結論ありきの議論を行っているように思えるのである。馬場の著書については今後別途レビューを行うかもしれない。


<読書ノート>
p34-35「本来、労働者が過労で倒れるまで働くのをチェックするのは、労働組合の問題である。「過労死」が、日本ではこの労働組合の規制力が無力であるということを如実に示した。そればかりでなく、職場で「過労死」がでてくる多くの協調的労働組合は、それを自分たちの問題としてとり上げなかった。だからこそ、弁護士が登場したのである。弁護士たちによる「過労死一一〇番」の活動は、画期的なものといえよう。」

p52-53「ところで、現代日本社会を強力につかんでいる労働「規律」や「活力」「競争」は、いうまでもなくすぐれて資本主義的な原理である。このような「規律」や「活力」「競争」の発生源こそ馬場(※宏二)のいう「会社主義」なのだが、それについてはまた後に検討するとして現代日本社会の特殊な困難というのはこういう資本主義的原理の過剰貫徹によるといってよかろうと思われるのである。その意味では、ここで掲げたような現象を日本社会の「前近代性」の残存としてあげる見解は、まったく問題の歴史的性格を誤っている、といわざるをえない。」
※「ところが現代日本社会では、かかる反ブルジョア的あるいは非ブルジョア的諸原理という、資本蓄積に対する夾雑物を取り去って、ブルジョア的原理が異常に強力に社会をつかんでいるといえる。」(p53)
p55-56「ここで馬場が、「会社主義」を一種逆説的に「社会主義」と呼ぶ根拠のひとつとして、日本企業にくみ入れられた労働者が「労働力の商品化」規定を超えるような〝主体″性を持っている点に注目している点も興味深いところである。それはともかく、こういう把握であるから、「会社主義」日本の問題は、この「会社主義」に身も心も入れあげている労働者そのものに発生しようがなく、むしろ、その結果として「会社」から疎外された、女性や子どものところに現出するといわれるのである。」
参照元がはっきりしないが、馬場「会社主義の挑戦」や「富裕化の哲学」を周辺で引用する。「社会主義」の方は後者で用いている。

☆P57「ところが、日本は、こうした資本の蓄積制約要因たる〈労働〉の力が格段に低かったために、他の先進資本主義諸国に比べ、「社会主義的原理」の浸透がミニマム化され、そのことが、他に比べて格段の資本の強蓄積を可能とする条件のひとつとなったと思われる。」
※結局この因果関係をどう考えるかである。実際は渡辺の見解と逆で、資本の強蓄積が可能な状況だったから社会主義原理は浸透しなかったのでは?渡辺は「高度経済成長」をどう捉えているのか。やはり、そこには「犠牲にしたものがあった」からこそ実現可能なものだったという見方が強いように見える。

☆P16-17「あらかじめ結論を先取りしていえば、じつは日本の異常ともいえる経済成長は日本企業の異常に強い労働者支配を土台に成りたっており、それは日本型協調的労働組合によっても支えられている。こうした企業社会の構造は、不断の経済成長を実現することにより、自民党一党支配を支え、また日本独特の市民的・政治的自由のありようをつくっているように思われる。日本の長い労働時間とはまさしく、かかる日本企業社会の構造から生みだされているのである。だから、この企業社会の構造をそのままにしておいて、労働時間を先進国並みに短くすることができないのと同様、日本社会の抱える「過労死」とか「単身赴任」とかを切り離して日本の〝すばらしい″経済成長だけを学ぶこともーー東欧はまさしくそれをやろうとしているようだがーーできないのである。」
☆p38「第二に、これらの困難、あるいは困難の形はすこぶる日本独特である。「過労死」や「単身赴任」などは、そもそも他の先進諸国にはあらわれない。他の諸国で深刻化しているのは、むしろいわゆる「先進国病」といわれるような労働倫理・規律の解体であり、日本とはあべこべの問題であるといってよい。
それに対し教育荒廃とか家族の崩壊・離婚などは、他の諸国でも多かれ少なかれ深刻化しているが、これらの問題の場合でもその要因したがって形態という点では、およそ異なっているようにみえる。総じて現代日本社会の困難は、企業社会がもたらす激しい競争に巻きこまれた結果発生しているものが多い。
第三に、これら困難の発生を抑止したり、それを解決するのに、労働組合が機能していないばかりか、しばしば労働組合が企業社会の側にさえ立つことがあるという問題である。労働組合が組合として果たすべき帰省力を持ちえないから資本の野放図な蓄積が可能になると同時に、そのしわ寄せは個々の労働者やその家族に直接かかってしまうのである。」
※これらの状況を踏まえた結果を渡辺が述べているとすると、その指摘の真偽は別にして腑には落ちる。特殊要因(と渡辺が考えていること)を日本の高度成長と結びつけているというシンプルな結論としてp57の主張がされていると読める。しかしこれは因果関係の正当性を検証する作業を通してではなく、断片的に転がっていた特殊要因を拾い上げ無理やり結びつけているのと変わらない。理念型αの検証はしているかもしれないが、理念型βの検証は何一つせぬまま、正当性を述べているのである。

P60「おそらく日本の社会民主主義の不振、伸び悩みの背後には、〈労働〉の勢力が、もっぱら企業別に運動を展開しており、横断的組合運動が未成熟であること、そして、協調組合運動も、大企業の組合を中心とした企業主義的なそれであるという点にかかわっていると思われる。」
※これを検証するには恐らくいかに欧米型の労働組合が横断性をもつにいたったのか、そして日本にそれを関連づけることはいかに可能だったかを検討せねばならないのではないか。
P67「五〇年台後半以降、成長に特別有利な国際的枠組みーーひと言でいえばパクス・アメリカーナのもと、それを自覚的に利用しつつ、二次にわたる高度成長を果たし、さらにオイルショック以降の不況をも他国に先がけて克服し資本主義陣営内での比重を高めた。」

P82-83「(※60年の)安保改訂は、旧安保の帯びていた占領支配的遺産を払拭することにより、日米の従属同盟関係を安定した基盤に置いた。以後、日本は、この安定した枠組みのもとで、国家の総力を経済成長に向けることになる。
日本が安定的関係をもった当のアメリカは、時あたかもその力の絶頂期にあった。パクス・アメリカーナの最盛期である。これは、日本資本主義にとってすこぶる有利な条件をなした。
日本はパクス・アメリカーナの傘の下で、安価な原燃料をえ、金融・技術、市場面でふんだんにその恩恵をこうむったばかりでなく、軍事面でもその負担をアメリカに依存し、その分を社会資本その他の資本蓄積条件にふり向けることができた。」
※うまくアメリカの傘下に入り、その恩恵を受けたことを高度成長の大きな要因とみているといってよいか。
P83-84「教育政策では、五〇年代の勤評は六〇年代の学力テストの強行に続いたが、学テが事実上破産するとともに、こうした政治主義は影をひそめた。代わってカネで教師を分断・管理するという手法が前面にで、また、資本の労働力政策が教育政策のなかに持ちこまれた。こうした資本と教育との体系的結合は前期にはみられなかった特徴であった。
子どもたちは、五〇年代のように、国家の礎として、ひとしなみに教育対象となるのではなく、エリートと労働力予備軍というかたちの差別選別方針持ちこまれた。この画期は六二年経済審議会の人的能力開発答申、六六年中教審後期中等教育の拡充整備に関する答申であった。これらによって、企業社会の競争に教育がドッキングし、競争秩序が形成された。」
※どこまでが対象かわからないが渡辺「現代日本の支配構造分析」(1988)を参照している。
※カネによる管理とは??

P92「第二に、また、その(※労働者党政権が成立しなかったことの)コロラリーであるが、企業主義的労働組合運動は、七〇年代に入るまで、「福祉」政策をうちださなかったことがあげられる。これは、労働者の生活改善をもっぱら企業の業績向上を通じておこなうという志向の必然の産物であった。というのは、そこでは、企業に対する国家財政の関与を求めても、横断的な階級あるいはその予備軍への配慮の要求は強くなかったからである。また、能力主義競争秩序を承認した労働組合が、「平等」を追求する福祉要求に冷淡になるのは当然でもあった。」
※「労働運動に代わって、「福祉」の要求を担ったのは、むしろ自治体へ向けての住民運動であった。……「階級」に代わり「市民」が福祉要求を担ったのである。」(p92)
p92-93「このように〈労働〉の「福祉」要求が微弱であるもとで、自民党も「福祉国家」のイデオロギーを掲げなかった。自民党が掲げたのは、「成長」「繁栄」のイデオロギーであった。
七〇年代に入って、自民党も、革新自治体などにみられる「福祉」要求を無視せざるをえなくなり、周知のように、七三年は「福祉元年」といわれたが、この時代ですら、自民党あるいはその周辺のイデオローグは、「福祉」への違和感を隠さなかった。」
※福祉の排除、という観点は随分と違和感があるように見える。
P95-96「先進国では、一般に教育の問題は深刻化しているが、日本での教育問題の噴出は、始めに述べたごとくマイノリティ、離婚等による家庭の崩壊などが原因というよりは、企業社会の発する強烈な競争秩序に、親がつうじて教育がすっぽり包みこまれリンクされた所産であるという特殊性がある。また、労働倫理の解体でなく、労働規律の過度の強化が、「働きバチ症候群」といわれる神経症の蔓延、ストレスの蓄積・爆発を生んでいるのである。実際、教育、労働、等々、現代日本社会の一連の問題群を検討する場合には、このような特殊な相貌の根拠が解明されなければならないと思われるのである。」
アメリカの脱学校論的言説も、十分競争秩序の悪影響として描かれているが。

P109「しかし、夫だけが家庭を離れて一年も二年も暮らすというのは、特殊な職業を除けば世界の他の国では決してあたりまえのことではない。日本でも、こういう慣行があらわれたのはオイルショック以降のことだし、今日のように普及したのは八〇年代になってからである。他の先進諸国では、企業がいくらそういうことを望んでも労働者のほうがついていかないし、それがわかっているから企業のほうも提起しようとしない。だいたい家族が別れて暮らすというのは、とても不自然で非人間的なことである。ところが、現代日本ではそれがあたりまえであり、サラリーマンやその家庭がそれをむりやり納得させられている。その論理が企業戦士の「戦争」であり、サラリーマンは「戦士」なのだという観念であるように思われる。」
P110「それはともあれ、このように、現代日本の労働者にとって、日々の生活は文字通り「戦争」と観念されている。彼らにとって「戦争」というのは彼らの属する企業同士の戦争であると同時に、同僚を蹴おとしての昇進戦争でもある。その「戦争」こそが自分と自分の家族の生活を維持するための不可欠の手段と観念されている。現代日本社会における「戦争」の氾濫の最大の根拠はこのような企業社会の競争構造にある、と思われる。」

P111「こうした「戦争」単純な延長上に人の殺しあう戦争がくるというつもりはない。そうではなくて、現代の日本人にとっては、生活そのものがまぎれもない「戦争」、すなわち人を蹴おとすことによって生き残る闘いであり、しかも自分の欲求を犠牲にして、ひたすら耐えるものと観念されている闘いという点で、当事者たちに「戦争」と観念されている、そういう闘いを演じているということを強調したいのである。」
P112「〝敗戦後の日本は、安保体制によりアメリカの核の傘に入り、その分、防衛費を節約し、余計に経済に投下することによって高度成長を遂げることができた″——これは六〇年代以降自民党政府がくり返してきた言い分だが、その当否はさておいて、ここで注目されるのは、安保体制の正当性が、経済成長によってなされているという点である。」
宮沢喜一社会党との対話」(1965)p192-からの引用。
P113「「安保繁栄」論が登場する背景には、ひとつには、こうした五〇年代の安全保障論が支持を得ることができず、かえって日本軍国主義の復活を策しているのではないかという国民の危惧を招いたこと、があげられる。「安保繁栄」論が、六〇年安保闘争という大闘争の後に、あらためて安保の存在を説得する論理として登場したのは、こういう背景があったからである。この議論が登場するもうひとつの背景は、五〇年代中葉から、アメリカへの従属・依存のもとで日本の経済成長が始っており、労働者の多くが、この成長体制に巻きこまれていたからである。そこに「安保」を「繁栄」と結びつけて、国民を納得させようという思惑が登場するもうひとつの背景があったからである。」

P114-115「その(※日本の「平和」に深刻な問題であることの)第一は、今の「平和」が日本だけの平和であるということにからんで、必ずしも世界中から戦争をなくすような方向に発展しない「平和」だという点である。日本の「平和」はストレートに世界の「平和」に結びつかない構造を持っている。それはちょうどアメリカや日本、EC諸国のような先進諸国が「豊かな」国になり、飢えではなくて肥満が深刻な問題となっているのに、他方では第三世界の子どもたちが飢えのために死んでいるというまことに対蹠的な現実が併存しているという問題——つまり、先進国の「豊かさ」が第三世界の「豊かさ」に結びつかないという問題とよく似た構造である。」
P117「同じ時期(※オイルショック以後)、日本では「減量経営」という名の首切り合理化が進んでいたわけで、会社は一方で人を減らし、他方で残った労働者を残業させたことがわかる。残業手当のつかないーー統計にあらわれないーー「サービス残業」もこの時期に増えているから、七〇年代後半以降、労働者の労働はいっそうきつくなったわけである。」
※参照なし。
P118「「平和」という理念が価値を持っているのは、人間同士が殺しあいを強いられない、ひと言でいうと人間が人間として尊重されるからである。それは、だから「人権」という理念と必然的に結びつく。それなのに現代日本においては、「平和」が「人権」と結びついていない。」

P119「しかし、(戦前)日本の資本の力は、ほかの先進資本主義国に比べると脆弱であり、低賃金に支えられた繊維など軽工業製品を除くと競争力を持つものは少なかった。だから、日本帝国主義は、そういう資本の脆弱性を軍事力でカヴァーし、その巨大な軍事力で中国をはじめとする市場を暴力的に独占し、他の諸国の資本を排除して、原・燃料と市場を確保したわけである。こうして日本の資本主義は軍隊と侵略=「戦争」とを不可欠の手段として発展した。それゆえ近代日本は、くり返し戦争をし、侵略を拡大しなければ経済が成りたたなかったのである。近代日本も、戦後日本ほどではないが、急速な経済成長によって特徴づけられる。しかし、近代日本においては、「成長」は「平和」ではなく、「戦争」と結びついて存在しえた、といえる。」
宗主国の話はどうした??そこに特殊性はないように思われるが。
P120「ところが、冷戦が激しくなるにつれてアメリカはこうした対日政策を変更する。〝再び日本が侵略大国として復活するのを阻止するための政策″という視点は弱まり、日本を極東における反共の防壁として再建するという方向が重視されるにいたった。それに応じて、日本の「平和」のあり方にも変更が求められることになった。」
※「こうして、五〇年代にはアメリカの望む「平和」と民衆の希求する「平和」が対抗しあい、吉田政府がその間に立って憲法は維持しつつ、また急速なそれに抵抗しつつ、なしくずしに再軍備を進めるという政策が追求されることとなった。」(p121)

p125「青年や子どもたちの間で「平和」とか「民主主義」の理念の影が薄くなり、それに代わって、カネ=貨幣こそが最大の価値となり、社会の多数の価値観に従わないもの、それからはずれたり、反抗したりするものをいじめるという風潮が急速に広がっていったのは、この七〇年代以降のことであった。」
※民主主義の理念の影は確かに薄くなったといえようが、それを貨幣の価値の「強化」とみるべきかどうかは検証すべきでは。
P134「今、私たちに必要なことは、現代日本社会を支配している「戦争」=「競争」の原理を批判し、本当に人間らしい社会改造のための道すじを呈示することではないだろうか。」
※具体性はない。
P137「ところで、こうした「現代国家」化=「福祉国家」化は、独自の政治的担い手を持っていたことが注目される。それが協調的労働組合運動の勢力を背景とした社会民主主義であった。」

☆p144「というのは、もともと日本の社会民主主義はその無力のゆえに、福祉国家的政策を押しつけることができず、それだけ日本の国家は資本蓄積に制約的な政策をとらなかった。それが日本の強蓄積=高成長、異常なばかりの「豊かな社会」化を可能にしたのだが、そのことは、日本の社会民主主義の存在感の稀薄さや、権威低下をもたらしていると思われる。」
※この因果が最も不可解。
P146-147「ところで、こういう日本の社会民主主義の「戦闘性」という時、その内容は何かというと、ひとつは、日本の社会党がなお、マルクス主義を指導原理としている、あるいはその潮流が強いということであった。日本の社会民主主義も、強い反共的性格を持っていたが、にもかかわらず、党内では、マルクス主義さらには、レーニンの理論も強い権威を持っていた。第二に、そのコロラリーであるが、日本の社会党は、改良主義を否定していた。もう少し別の言葉でいうと、「福祉国家」戦略をとらないという点で特徴的であった。つまり、「福祉国家」についてきわめて批判的な立場をとっていた、ということでもあった。〝「福祉国家」は労働者階級を解放する、そういうものではないのだ。むしろ、それは資本主義の危機における体制の延命のためのまやかしの産物だ″という評価が日本の社会党のなかにあり、そういう点からも西欧型社会民主主義とは非常に違うといわれていた。」
※このような福祉国家政策の忌避の議論は貧弱な地盤という問題と少し異なる。

P160「それはともあれ、片山内閣が失敗した最大の原因は、経験の欠如にあった。……ここでいう「経験」とは、社会党が依拠している労働運動と連帯しその力を背景にその要求を政治として実行する経験であった。」
※「こうした相反する期待のなかで、片山内閣は、ほぼ全面的に、支配層の要求と期待に沿う道を選んだのである。主観的に彼らがその道を選んだのではなく、彼らの戦前の経験では、その道しか知らなかったのである。」(p160)合わせて、「社会民主主義者の一部は、敗戦直後、社会民主主義政党の再建、ではなく、自由主義的勢力の再結集というかたちで、政治的復活はかろうとしていた」(p155、参照文献はないが)ことに見られるような脆弱さもあり、「大衆を魅了しひっぱるような、社会民主主義的な、新しい国家構想の欠如」があった(p161)占領勢力も生活保護法制定にみられるような福祉政策への熱心さがあったが、片山内閣は結果的にその流れに乗らなかった(p162)。

P168「平和と民主主義運動の主たる担い手はヨーロッパにおいても、アメリカにおいても明らかに組織された労働者階級ではなかった。……これらの国で平和運動の担い手となったのは、私の言葉でいうと、社会の〈周辺〉勢力である婦人や青年・学生あるいは知識人たちであった。
戦後の平和と民主主義運動の中心的担い手が総評に結集するような労働組合運動であった、という事実は、私たちにとってごく当たり前のことだが、決してそうではなく、これは、きわめて異例のことだということは力説しておいてよいことと思われる。」
p168-169「さらに付け加えておきたいことがある。それは、平和と民主主義運動だけではなく、たとえば、生存権訴訟といわれた「朝日訴訟」が一九五七年に提起されたが、この「朝日訴訟」の中軸的な担い手は明らかに総評だったという点である。その後六〇年代に入って日本の労働組合運動が、福祉というものに非常に冷たくなるだけに、この点は注目される。」
※「朝日訴訟運動史」(1982)が参照されている。

P170「日本社会党の分裂は、決して社会主義の戦略をめぐって生じたわけではなかった、ということがここでのポイントとなる。分裂は、日本の平和と民主主義に関して、生じたのである。具体的な課題でいえば、講和をめぐって、全面講和を支持するか、片面講和を支持するかということが最大のポイントであり、それにからめて、安保条約の評価、さらには、日本の再軍備の評価が問題となった。……これは日本の社会民主主義を考えるうえで非常に重要なことであるように思われる。つまり、戦後日本において社会党の分裂する原因は、いつも、社会主義の戦略をめぐる対立ではなく、平和と民主主義にかかわる争点によってであったということであった。ここには、現代日本においては、「社会党」や「社会主義」への期待のなかで、もっとも大きいのは、平和と民主主義という理念にかかわるものであったということが示されているのである。」

P173「つまり、ここで、片面講話に賛成することは、ある意味では日本の社会民主主義者が、再び、満州事変から太平洋戦争への過程で犯したような誤りをくり返すことになるのではないかという意識が非常に強くあったということである。逆にいうと、この当時の党員下層には、再び日本の軍国主義をもたらしてはならない、その手先に社会党員がなるようなことは絶対に避けなければならない、という意識が非常に強烈にあったと思われる。」
※よりラディカルな方面に偏る層が一定数いたということだが、よく理解できる話である。そして、このような態度の是非自体が戦後をどう考えるかにも重要であるように思える。また、この論点はドイツ社会民主党第一次大戦に向かうような戦争・軍事予算増への賛同も意識されていたという(p173)。
P174「こうした、ドイツ社民党の教訓の強調は、きわめて興味深い。なぜなら、日本の社会民主主義左派が、自己を西欧型社会民主主義と峻別し、自分たちを、社会民主主義と認めなかったのは、こうした、西欧社民党帝国主義戦争支持への態度への批判を核にしていたからである。」
※このような社会党左派を「日本型社会民主主義の原型」と捉える(p175)。

P185「もっとも、この(※55年の左右社会党の)統一には非常に大きな問題が残されていた。つまり、社会主義の戦略とか、政党の性格という綱領上の不一致点は曖昧にされたまま、とにもかくにも合同してしまったからである。
このように、何もかもが曖昧で、なぜ統一が可能であったかというと、平和と民主主義、再軍備反対という点ではおおまかな一致点がみられ、かつ、その一致点で党が統一することが国民の要求であるという確信が両派党員の多数にあったからであった。」
p188-189「しかし、この時代の労使関係が、労働者の強い企業への求心力をつくりだし、高度成長の基礎となったのは、それら(※終身雇用制や年功制)が競争制限的であったから、ではないと思われる。むしろ、逆に、こうした終身雇用制、年功賃金制の枠を維持しつつそのもとに、強烈な競争的制度が導入された点に、企業の強い労働者支配の鍵がひそんでいると思われるのである。なぜなら、じつは、これら慣行は多くの論者自身が認めるごとく何もこの時代につくられたものではない。だからこそこれら「日本的労使関係」の起源として、江戸時代とか、戦前の「経営家族主義」という議論が登場するのである。ところが、今問題となっている、企業の強い労働者支配は、決して、戦前以来のものではなかった。さらに戦後一貫したものでもなかった。こうした支配は、他でもなく、六〇年代に入ってようやく姿形を整え、オイルショック以降に確立をみたものなのである。」

p190「また、企業は、この過程で企業の福利厚生の拡充をはかった。とくに、大企業は、持ち家制度を普及させ、労働者に低利で住宅資金を貸し付け、労働者が持ち家を取得することを促進した。これによって、労働者は、企業に忠誠を尽くし、定年まで昇進をくり返せば、一定の安定した生活を得る見通しを持つことができたが、他方、ローンによっていっそう企業に緊縛されることになったのである。以上が、高度成長期に形成された企業社会の核心である。」
p190「こうした企業社会が形成されるにともない、大企業の労働者は、労働組合運動に拠って労働条件を改善し生活の向上をさせるより、自分の力で昇進昇給により生活を向上させることのほうを、より現実的なものと考えるようになった。こうして、企業社会が形成されるにともない、労働組合への帰属意識は減少していった。これをふまえて、この時代の労働組合運動は大きく変貌していった。」

p198「こういう日本の企業主義的組合の特徴は、組織面でも如実にあらわれている。日本の場合には横断的な組合運動というものを支えるような分厚い中央幹部層や中央集権的な規約というものを持っていない。日本の組合規約はナショナルセンターのレベルあるいは単産レベルからみると、非常に分権的な規約を持っている。」
p202-204社会党福祉国家に冷淡であったのは六〇年代前半までは明らかにマルクス主義社会主義の影響からそれが「譲歩の産物」でしかないためであり、六〇年代後半以後においてはそのような戦闘性を失ったが失業と無縁であったことや、福利政策の充実により労働組合運動が福祉政策を要求しなかったことが挙げられる

p222「というのは、この(※1966年の)一〇・二一反戦ストの主力は、人事院勧告の完全実施を掲げる公務員共闘であり、それに、公労協、民間の私鉄、炭労などが加わるというかたちでおこなわれた。つまりすでに、このストライキでは、五〇年代末葉まで総評を支えた、民間の鉄鋼労連や、合化労連などは脱落し、明らかに公共部門優位の配置を示していたのである。」
p222「このように、その支持基盤の民間労組が変質し、公共部門のみの片肺飛行となりながら、社会党共産党との共闘によって、広範な〈周辺〉層の不満を結集して政治的力に転化することに成功した成果が革新自治体の経験であった。」
p225「以上垣間みてきたように、企業社会の構造の形成にともなって、日本の社会民主主義は停滞を余儀なくされるにいたったが、それでも、七〇年代の中葉にいたるまでは、独自の役割を担ってきた。その背景にあったのが、企業社会にくみこまれていなかった公共部門の労働組合運動と企業社会の被害者たる〈周辺〉の諸階層の力であったことはすでに述べた。この力が、企業社会の成長・企業主義的協調組合運動の台頭にもかかわらず、五〇年代に形成された社会党の戦闘性を存続させ、社会的支配構造と社会民主主義のあり方とのズレを生じさせたのである。」

p230「八〇年代における社会党の転換とは、社会党が、こうした日本社会の二つの柱(※安保体制と企業社会)を承認し、日本社会の構造のなかでオルタナティヴを追求するということを表明するということを意味したのである。……「現実主義」とは、ここではとりわけ、社会党の国際路線の修正を意味したのである。」
※もっとも、「社会党が路線転換に踏み切った直接の要因はいうまでもなく、社会党の停滞・地盤沈下に対する危機感とその打開への試みである」とする(p231)。その第一は企業社会の確立、もうひとつは官公労の力が七〇年代後半に入って大きく後退したことにあるとする(p231)。後者はまず一九七五年のスト権ストの敗北をひとつの事件とみなし、「綱紀粛正」、第二臨調の「行政改革」、国鉄分割民営化を決定的打撃を与えたものとする(p232)。そして、一九八五年の社会党の「新宣言」にて明示されたという(p241)。

P242「このように、「新宣言」は、社会党の転換を決定的にしたが、とはいえ、なお多くの矛盾をはらんだものであった。
ひとつは、「新宣言」の追求すべき、社会像が必ずしも鮮明でない、という点である。」
p244「その(※未解決の)最大の点は、社会党の党是であり、日本型社会民主主義路線を象徴していた、反安保・非武装・中立路線は、「新宣言」では一体どうなるか、という点であった。「新宣言」では、それは、「基本政策目標」のトップにあげられていた。
「平和、協調をもとにした国際体制と非同盟・中立・非武装の実現」と。これは、しかし、「西側の一員」としての日本社会の構造を前提にした改革を志向する、社会党の新しい路線とどうかかわるのか?という疑問が当然生じてくるはずであった。非武装・中立の国際路線を志向することは、日本資本主義の現在の国際的あり方を大きく否定することだからである。」

p258「ヨーロッパで現実に「福祉政策」戦略が実現したとき、その担い手は、必ずしも日本のように、体制批判的な労働者階級である必要はなかったし、現にそうではなかった。むしろ、そういう体制の一角に食い込むような協調的労働組合社会民主主義勢力によって、「福祉国家」政策は担われ、それがゆえに、ある程度の実現をみたわけである。
ところが、日本の場合には、そういう体制的な労働者階級は「福祉国家」政策ではなくて、「成長国家」政策を担う、したがって、福祉切捨てを容認する勢力なのである。
そうすると、日本において、西欧型「福祉国家」戦略をとろうとする場合に、それを支持して、福祉の充実、国家財政における福祉の増大を要求する勢力は誰かというと、西欧とはまったく違って、現存の体制に批判的な、その矛盾を、むしろ自覚的に克服しようとする勢力なのである。」
☆p258-259「日本版「福祉国家」としての革新自治体が、社共連合によって担われたということは、日本のかかる特殊性を象徴していたと思われる。
そうであるかぎり、「福祉国家」的な政策が国家政策のなかでかろうじて、実現できる条件はむしろ、そういう批判的な勢力が批判的な主体としての運動を展開することにより、実現される可能性が強いということになる。」

p280「こういう発想(※公共部門の労働環境が緩いという発想)が官公労の労働問題というかたちで、(※日経連労働問題研究委員会報告の)八〇年版以降にでてきたわけである。
これが、一九八二年版になると、第二章の「行政改革問題」というかたちで、非常にはっきりとうちだされた。
「公共部門は放置すれば常に自動的に肥大化するものであり、公共部門の比率が大きくなればなるほど経済のバイタリティーは失われ、経済成長率は低下する」、つまり、ここでは公共部門というのは悪だという考え方がでてくる。なぜかというと公共部門は、民間企業と違って競争がない、経営に失敗してもト倒産がない、だから必然的に効率などがおろそかにされる、つまり公共部門はそもそも、効率とか競争という原理をシステムのなかに持ちあわせていないダメなシステムだ、という考え方である。」
※これを「先進国病の予防である」を理由としているらしい(p280)。
P282-283「曰く、中小企業労組の賃金要求額は概して大企業のそれより高いが、「その理由は、中小企業にあっては、企業内労働組合が主体性を持ちえず、企業外産業別組合幹部の指導が強いこと、こうした企業外幹部は企業経営の実態を知ることなく、もっぱら大企業との間の賃金格差の撤廃のみに運動論の主眼を置くことになろう」と。」
※出典は83年版報告。同報告では賃金格差だけを縮めるのではなく生産性格差も解消が必要としているという(p281)。これは一方で労働省の賃金格差是正指導への批判であり、欧米的な横断的な組合への批判にもなっているとみている。

P284-285「もう一つ同じ視点から、報告は日本の教育の現場にも注目している。教育問題は、とくに八二年版の第四章結びに、はじめて「教育問題の定義」として登場した。……〝今まで日本の教育は非常にいいものだと思っていたが、こういう産業構造の転換期にあって、教育に要請される日本の労働力の格好も非常に変わってくる。そうすると、日本の今までの画一的教育というのは、それまでの高度成長期にはよかったかも知れないが、これからは逆に産業再編成には不適合になりムダになるのではないか″という視点から教育改革が求められたものである。」
※同じく日経連報告で豊かな社会によりハングリー精神を欠く子が企業の高成長を支える労働力としては非常にふさわしくないとする見解もしめしているという(p285)。また「先進国病」は、「豊かな社会」による労働倫理や労働規律の軟化を指しているとみている(p285)。
P286「つまり、日経連の視点でみると、校内暴力とか非行というのは、教育を受けさせる必要もない子どもにも画一的に教育を押しつけるからでるのであって、画一化は子どもたちにとっても不幸だ、なにも九年間義務教育などという不効率なことはやめたほうがいいというのである。」
※これは八四年報告の「九年間義務教育制を見直す」(報告p34-35)という文言から見出しているようであるが(p306)、このニュアンスが義務教育制撤廃を指していると解釈してよいのかは不明瞭。

P293「つまり、今まで(※88年報告以前)は労働に対して何を要求するかというのが発想で、それが一応労働と手を組んだ。また、官公労と中小に対して何をいうかということだったが、今度はそうではなくて、経営側と労働側が協力をして政府に対して何をいうか、あるいは、社会に対してどういう主張をするかということをやろうとしているのではないか。労使が協力して社会、政府に対して労使共通の、つまり企業の要求をつきつけようというのである。これはもう労働問題でもなんでもない。」
P302「そもそも、資本蓄積にとって阻害要因ある労働をミニマムに抑えこんだ体制というのは、資本の効率性にとっては全面的に賛美すべきものであるかも知れない。けれども、労働というのは本来人間がおこなう行為であるが故に資本の効率にとっては阻害的であるさまざまの要素を抱えこまざるをえないものなのである。そうした労働力という商品のもつ特殊性を皆抑えこんでしまうとき、それがもたらす非人間的な矛盾の蓄積は、きわめて深刻なものとならざるをえないように思われる。それは資本主義システムの持っている害悪をもっとも端的にしたものといえる。」
※このような見方はそのまま抵抗を続けなければならないという安易な結論になりやすい。なお、馬場宏二の参照がある。

P313藤井昭三「(連合)の誕生」1989,p14から引用…「いま、労働組合に世間の目は厳しい。『自分の待遇改善以外に、なにをしているのか』との批判が組織の外からある。いや、それさえも交渉相手に抑え込まれている、との声が高まっている。加えて、『組合費に見あう活動をしているのか』と組織内部からの視線も冷えつつある。こうした逆風に、労組はどう対処しようとしているのであろうか。」
P372「また、企業社会の競争は、教育を、そのできるだけ日本では過剰な競争の所産として独特の教育荒廃が起こっている。「いじめ」「登校拒否」「校内暴力」は、いつまで続くかわからない競争へのやみくもの抵抗の諸形態にすぎない。」
※少なくともここでの競争主義は過去におけるエリートの競争の大衆化という文脈が欠落している。そもそも「競争」という言葉が持つ文脈が大きく違うのである。渡辺の見方は1920年代からすでに存在していた「試験地獄」を説明できない。