妻鹿淳子「犯科帳のなかの女たち」(1995)

 本書は江戸時代の岡山藩における「犯科帳」を史料にしながら、当時の社会(共同体)がどのようにあったかについて分析を行っているものである。

 特にポイントとなるのは、p72-73にあるような記述である。ここでは過去の議論において江戸時代における農村部の婚姻がもっぱら村内婚であったとされている点に対する批判として、広く村外婚が行われていることが指摘されているが、江戸時代において奉公人として村外に出ることが活発となったことも一因となり、共同体自体が村内に限らず展開されていたことを実証するものである。

 また、合わせて、近世(江戸時代)中期から後期にかけて、共同体の頽廃とセットとなる形で、共同体志向もまた強化され、「村の娘は若者共のもの」という規範があたりまえのものとみなされるようになったことも指摘されている。

 武家と農民層との違いや、江戸時代を通じての共同体意識や儒教意識についての波及の程度についての議論を通して、江戸時代における共同体意識が一枚岩ではなかったということを実証的に示している。

 

 

○「若者組」を介した「共同体崩壊」の議論について

 これまでレビューで取り上げた共同体論の議論についても、「若者組」についての言及がされていたが、それらも含めて、「若者組」が取り上げられる場合に、「共同体の崩壊」がテーマにされていることが多かった。しかし、その議論において、想定されている時代というのは、かなり異なっていることにまず注目したい。

 

1.戦後において共同体が崩壊したことを例示するもの(高橋・下山田編1995)

 高橋・下山田編における若者組の位置付けは(かなり具体的であるという意味で)多少特殊であるように思えるが、1950年代においてまだ若者組が残存していたことについて取り上げ、これを充実した地域組織の存在の例として挙げていることは明らかであった。

 

2.明治以降の国家主義的政策に伴い共同体が崩壊したことの中で例示するもの

 佐藤守「近代日本青年集団史研究」(1970)では、若者組は明治以降組織的に形成された「青年団」との対比から描かれ、若者組が地域秩序の形成の一組織としての位置付けを明確にしている。

 

「若者組の原型として求められた若者連中においては、敬神崇祖、隣保精神がムラの氏神である大物忌祭典組織において強化され、それが地主的ムラ支配のイデオロギーとなるのであった。すなわち、地主—小作関係の階級支配はムラの壮年組(氏子組織)—若者組の身分階層制によって隠蔽補強される。この場合、若者連中は壮年組の下部機構として実業団的性格をもち、主として祭典行事の下請仕事に従事したのであった。このことが、若者連中の内部構造を年功序列として支配、従属関係に固定したと考えられよう。」(佐藤1970,p45)

「少なくとも明治中期までにおける若者組は村落自治の下請け機構として位置づけられ、警察、消防、各種の生産労働をはじめ、氏神祭典、盆踊りなどの娯楽的行事に主導的役割を演じ、村落における実集団としての性格をになうものであった。そして、その諸活動は、原則として村落内で完結するものであり、それ故にそれは、閉鎖的性格を帯びざるを得なかった。」(同上,p4)

 

 恐らく本書における批判の対象となるのは、このような議論の派生ではなかろうかと思う。もともと佐藤の議論の主旨は若者組とその後に現れた「青年団」の性質の違いにあった訳だが、ここで素朴に想定された若者組の議論をそのまま使った場合に、「若者組は秩序の担い手として安定した組織であった」ことや「江戸時代においては安定した共同体社会だった」という結論が出てくるといえる。

 

3.そもそも時代設定が曖昧になっているケース

例えば、次のような形で若者組が語られる場合である。

 

「ところで、共同体社会では、若者、娘に対しては、親は〈しつけ〉をするものとしての役割を退いていた。親が〈しつけ〉の任にあたるのは、子どもが成年式を迎えるまでの時期に限定されており、成年式を終えて若者入りをした者たちの生活に親が口をさしはさむことは控えるべきこととされていたのである。若者や娘の訓育と形成にあたったのは、若者組や娘組と呼ばれていた自治的集団そのものであった。近代社会は、この自治集団の消失によって、未経験の仕事を親たちが引き受けざるをえなくなった社会でもある。」(田嶋一「〈少年〉と〈青年〉の近代日本」2016,p124)

 

 「近代化論」自体の具体的射程が「明治以降」の議論とイコールなのかという疑問を残しながら、語られているようなケースである。このような議論も大いにありえるのではないかと思うが、基本的には、2.のケースと同様、江戸時代頃において機能していた若者組を想定しつつ、明治以降近代化したことでそれが消失したものとして、そして暗に若者組を「機能した組織」として位置付けている議論である。その意味では、レビューした岩本由輝(1978)の議論もこれに位置付くものだろう。

 

4.江戸時代の経済発展の中に衰退を見出す議論

 本書もそうだが、この立場で議論する場合の若者組の位置付けは複雑である。まずもって若者組について「機能していた地域組織」という位置付けを明確にとらず、むしろ衰退のプロセスの中で規律的な若者組が組織されていったという立場をとる。

 

「この若者仲間が、経済社会の発達の影響を受け、活動に多くの金を遣い、自己表現を行いはじめると、幕藩支配体制と衝突する。すでに、打ち毀しで若者仲間の戦士団体性に危険を感じていた支配側は、寛政期以降、西欧帝国主義の脅威に対処するために、より強力な中央集権国家をめざし、民衆管理を強化しはじめる。その過程で若者仲間の禁止令が文政十一年に登場し、以後、明治新政府も民衆管理をはかるために、この政策を継承した。」(多仁照廣「若者仲間の歴史」1984,p258)

 

 また、本書からそこまで言わないものの、転じて若者組自体が近代化の産物であるという位置付けを行い、そもそも江戸前期などには実態があったのかどうか疑問視するような議論もある。

 

「従来とかく、若者組・若者仲間といえば、前・中期以降一貫して近世の村共同体内に存在したものと漠然と理解されてきた向きはなかったであろうか。事実はそうではなくて、若者組はまさしく近世後期の所産であったのである。如上の史料をふりかえってみると、安永三年(一七七四)の岩村田藩申渡が、「近年若もの銘々組を立テ」としているのが、若者組の形成を告げる信州の初見であるとみられる。安永期より多少さかのぼる事例もありうるだろうが、ほぼこのころ、若者組がかたちづくられはじめたとみることができよう。しかし、記述のとおり、若者組にたいする制禁令がしきりとあらわれるのはほぼ寛政年間(一七八九〜一八〇一)以降のことで、なかんずく化政・天保期以降のことであった。安政三年(一八五六)にくだる上田藩触書ですら、「近来村々に於て若者与号し」と指摘しているところなどをみると、幕末期に近づくにつれていっそう各地各村に広範に若者組が形成され、かつその活動が昴進したさまが想定できるように思われる。」(古川貞雄「村の遊び日」1986,p252)

 

○何故江戸後期の若者組は暴挙に出たのか?

 

 本書における「若者連中」は古川(1986)の指摘する若者組と同じく、「好き勝手なことをする集団」という位置付けがされている。古川は次のように指摘する。

 

 

「文政改革で組合村を結成させて村落治安の強化に乗りだしたときに、その主要な取り締まり対策として、無宿・悪党、博奕、風俗・冠婚葬祭等の奢侈、強訴・徒党、農間商人増加と並んで、若者ないし若者組があげられており、それも若者仲間の結盟の禁止をふくむ力を入れた取り締まりのまとのひとつであったという点は、従来必ずしも正当に評価されてこなかったのではないか。村共同体秩序を揺り動かし、不穏騒然の世情を現出し、領主支配の基盤を掘りくずす動因の主要なひとつとして若者組の存在があることを、幕藩領主は認識していた。このことはもっと重要視されてよい。」(古川1986,p244)

 

 本書でも若者連中の影響力を避けるため、「家」の機能が強化され、結婚年齢の引き下げにつながったとみているが(p90)、これも若者連中が手に負えない存在であり、別の規範を設けることになったという見方をしている点で古川の立場と一致していると言ってよいだろう。

 しかし、疑問に思うのは、何故「若者組」が暴挙にでる組織になったのかという点である。本書の立場は、p91にあるように、まさに近代化に伴う自由の拡大が不安定化を招いたという点にある。これは古川の立場とは多少異なると言えるだろう。古川においては、「若者組の組織化」と「不安定化」がまさにセットになっているために、若者組がそもそも明確に存在していない組織だったという立場であるといえる(もっとも、古川が依拠している文献がどこまで正確かは明確ではない)。対して妻鹿の立場というのはこの「若者組」が存在していたか、より踏み込めば江戸前期において「機能していた地域組織」が存在していたという問いについては留保した態度をとっているといえるだろう。

 

<読書ノート>

P41「奉公人という地位自体が、村から一時的に奉公に出かけた者にすぎず、人別改めは毎年村で済ませ、いつかは村へ帰る。奉公は仮のなりわいという認識のもとで出奉公している。そのうえ夫婦ともに、奉公先が不安定でしばしば変わること、別居生活であることなど、その共同生活の基盤は弱く、夫婦の結び付きが脆いことによると思われる。……

このような夫婦の結び付きの脆さは、互いの奉公先の変更により、また、夫の勤務地の変更により、たとえば、奉公先の主人の供として江戸、大阪、京都などの他国へ奉公に出かけ何年も帰国できない場合もあり、やむなく夫婦生活は中断せざるを得ない背景がその主な原因と考えられる。こうした状況に対応するため、奉公中は法令通りの手続きを踏まなかったのである。つまり、正式な手続きをし人別帳に記載されると、離婚・再婚の都度、名主や奉行に願書提出などの必要が生じ、状況変化に対応しきれず不都合が生じると推定される。」

※明文化された議論ではなさそうであるが…

 

P70-71「判頭は枝村や小字単位の実質的日常的な村落共同体のまとめ役を担っている者である。その判頭と若者連中のこのような関係から、若者連中が実質的な村落共同体の支配の末端に位置していることがわかる。このことは、若者たちの女性への支配を村社会全体が公認し、若者たちの行為を暗に黙認していることを示している。村社会は、若者たちを近い将来、村の正式構成員となって村の運営を担う者として、家長に次ぐ準構成員として位置づけ、女性への支配管理は当然とする構造を持っている。

ここに記録となって残った事件は、村の女性に対してなされた性犯罪と関連して、殺人、自殺、傷害、その他の事件が重なり合って表沙汰になったもののみであって、村の女性たちへの強姦、輪姦などの性犯罪だけの場合は、多くは村内でもみ消され表出することはなかった。ほとんどの場合、娘たちは泣き寝入りの状況に置かれていたと考えられる。」

P72「婚前交渉と婚姻とは別のものであるという見解もあるが、民俗学では婚前交渉と婚姻を結び付けた事例報告が圧倒的に多く、ほとんどの村は村内婚であったとされ、村の若い男女が互いに相手を熟知し婚姻へと結び付ける道程として同慣習を見なしている。」

※江守五夫、瀬川清子といった論者を参照している。

 

P72-73「はたしてそのようなものであったのだろうか。岡山藩領域において史料で見る限り、若者連中がこの慣習を名目として事件を起こしているのは、一七七一年と一七八七年の二件以外は、すべて文化文政期以降のものである。少なくとも近世前半期には見あたらない。

また、岡山地方の農村部では、村外婚が広範囲に展開していたことを示すことができる。

たとえば、一六七二年の備前国津高郡尾上村の宗門人別改帳によると、村人口六二五人、夫婦もの一二一組のうち村内婚六八組、村外婚五三組となっており、一七世紀後半においてすでに四四%が村外婚であった。また、安兼学氏によると、備前国磐梨郡石蓮寺村では、一七三九年から一七七三年の間の八年分の「諸御用留帳」から三〇例の婚姻が確認されるが、そのうち、二例のみが村内婚で、隣国美作国との縁組一件、あとの二七例は周辺の村との村外婚であったという。……村の規模や農民層分解などさまざまな条件により、実情は一律ではないだろうが、遅くとも一八世紀後半には、村外婚の方が多いという傾向は一般的であったと思われる。

このような村外婚が一般的であるのに、「敷村の娘は若者共のもの」という慣習が、なぜこの時期に若者連中によって主張されているのであろうか。そのことこそが、文化文政期以降の村の変化を物語っているのである。」

 

P89「近世中期から後期にかけて「家」を基準とした結婚観が村の上層農民からしだいに一般農民に浸透していき、「家」の独立性が増し、「家」の拘束力が娘を家の内に抱え込もうとする傾向が強まったことが指摘されている。儒教道徳を基本とする女子教訓書である「女大学宝箱」が、「一七一六年の版行をはじめに、幕末の一八六三年までの間に、実に一二版を数えている」普及ぶりであったことは、武家の家父長的家制度の思想的支柱である儒教道徳が、農民層まで浸透し、「家」の存続を中心とした考え方が成立していたことを裏づける。」

P90「さらに、女たちの「家」への囲い込みは、近世後期より一般的に上層農民の結婚年齢が低下すると言われていることと関連する。つまり、早期に他家に縁付かせることによって、「家」と「家」の婚姻の形を完成させ、娘に対する村の若者連中の影響力を排除しようとしたと考えられないだろうか。家の内に娘が囲い込まれるようになった結果、従来認められていた村の娘と若者共の婚前交渉や、若者連中による男女関係の仲裁や権限が狭められ、村の若者連中と娘との間に拮抗が生まれた。」

P91「つぎに、若者連中の支配下にあった村の娘が、村社会や家のなかで没個性的な生き方に甘んじなくなった点も、若者連中との間に対立が起こる要因になったと考えられる。……彼女たちの出現は、近世後期の農民層分解の急激な進行にともない、奉公人として村を離れる娘たちが増加することと符合する。従来の若者連中の慣習に反逆するこうした娘たちの行動は、若者連中の村の女性に対する支配を脅かすものとして、彼らの目には映ったことであろう。こうしたことが若者連中を暴力的な行動に走らせたとも考えられる。」

 

P165「以上の事例より、不義の確証を得ることと、妻と密夫の両者を殺害するという二条件がかなえば、庶民においても、夫の私的刑罰権の行使が認められている。

庶民の妻敵討ちは、近世前期から後期にわたる全期間を通じて平均して単発的に起こっており、近世前半には少なく近世後半に圧倒的に多い武士身分のような変化は見られない。しかも、不義密通事件のなかに占める妻敵討ちの割合が、武士では五九%、庶民では一〇%と、武士にくらべ庶民の方が圧倒的に少ない。これは家禄を持たない庶民にとって、「家門の維持」のための「妻敵討ち」が意味を持たないためであると考えられる。」

P180-181「それに対し、岡山藩では、タテマエの公的処刑においても「御定書百箇条」制定期を境に、明らかに緩刑主義へ移行している。

厳しく儒教倫理を強制される武士と、かなり緩やかな対応をみせる庶民のこの処罰の差は、何がその要因になっているのであろうか。主君に仕え家禄・家門の維持のみに依ってしか存在することができない武士身分と、そうではない庶民とでは、家秩序に対する支配者の認識の違いがあると思われる。不義密通は家秩序の乱れであり、家父長的家制度を崩壊させる要因である。このような封建的身分制度の根幹を揺るがしかねないものに対し、封建体制の中核的な存在である武士身分にとくに厳しさが求められたのは当然であった。……そこに家存続のために主君の意向にそって「妻敵討ち」をせざるを得ない状況が生まれたと考えられるのである。

対照的に、庶民においては、それぞれに階層や地域共同体での婚姻の慣習や男女のあり方や性関係などが、武家社会とはまったく異なっており、儒教倫理で一概に支配統制できなかったものと思われる。

岡山藩は、近世前期においては、庶民の婚姻についても郡会所や代官にまで婚姻願いを提出させており、庶民の家の内部に及ぶ細かな領民把握の方針を採っていた。そのため近世前期には厳しい処置がなされたと考えられる。ところが、近世中期になると、大庄屋が一年単位に婚姻で生じる移動を村ごとの出入り人数だけ郡奉行に報告することで済ませており、農民を個別に把握する方針を改め、庶民においては、地方(在地)のことは地方に任せる方針に変更しているのである。近世後半における不義密通に対する岡山藩の庶民への対応の変化は、このような岡山藩独自の政策と関連するとも考えられる。」

 

P235「以上の子殺し・捨子事例から、我が子を殺害または子捨てせざるを得なかった女性たちに共通していえることは、身を寄せる実家や親戚などなく、再婚相手も事例に示されているように決して自分を養ってくれる男たちではなく、生きていくすべは身一つで奉公へ出る以外に方法はなかったことである。しかも、後述するように当時村落共同体や藩の公権力による扶助機能もなきに等しい状況下では、子どもがいては奉公にも出られず母子とも餓死するしかない。」

P242-243引き取り先のない捨子は非人身分に預け渡された

P253「多くの孤児や貧困家族の幼児は、ほとんどが親戚に預けられることとなるが、それも困難な場合は、村方が養育することになり、孤児は「村方打廻り一日充口凌キ居申候」とか「村方一日替りニ養育致し遣、迷惑仕居申候」と、村人の家に一日おきにまわされ厄介者扱いにされている。村の公的機関で養育するとか、村の誰かが里親となって面倒をみるとかではない。……村落共同体としては、建前の上では相互扶助がとなえられているが、農民層分解が浸透している近世後半には、極貧層の増加により村落共同体自体の相互扶助機能はきわめて低下していたと考えられる。

このように、社会的弱者救済の機能は藩においても地域共同体においてもほとんどない状態で、家も崩壊し頼る親戚もない、賃労働によってしかその日の糧を得ることができない者にとって、足手まといとなる子どもの存在は死活の問題であった。こうしたところに子殺しや捨子が発生するのである。」

 

P258「しかし、家存続を第一とする「家」意識が、近世前期からすべての階層に完璧に浸透し、家父長が絶対的な権威で家族を支配していたかというと、必ずしもそうとはいえない。武家社会にあっても、不義密通事件を通じて見たように、近世前期においては儒教倫理に背き家断絶をきたしても親子の情を優先する家臣がなお存在し、公権力は儒教倫理の徹底化と「家」意識の浸透をはかる手立てを取らなければならなかった。家の存続=家禄の保証なしには生活の手段を持たない家臣にとって、家の存続は死活の問題であったため、藩の政策は効を奏し、近世中期以降、儒教倫理に基づく「家」意識が、家臣団に徹底された。その結果、武家女性は封建的家制度のもとに完全に絡め取られ、まったく身動きの取れない状況に置かれることとなった。」

※対して庶民は、近世後期になると家意識が形成されてきたという(p259)。

 

P261-262「近世後期には農民層分解によって貧農層が輩出され、そのため村落共同体の相互扶助機能はいちじるしく低下した。しかも、村落共同体の相互扶助機能は、お互いに労力を提供できうるもの同士のものと考えられており、元来、社会的弱者への援助は無きに等しいものであった。寄るべのない貧しい後家や未婚の母となった独身女性に、子殺しや捨子などの悲惨な犯罪を起こさせる要因はそこにあったと思われる。家を中心とした社会において、独り身のしかも子どもを抱えた女性が生きて行くこと自体、非常に困難で苦渋に満ちたものであったことは容易に推察できる。こうした女性たちの多くは、親類や村に従属した生き方を強いられたと考えられる。当時の女性なら誰でもがこうした状況に転落する危険性をはらんでいた。」