D.W.プラース「日本人の生き方」(1980=1985)

 本書はライフヒストリーの手法を用いて、日本人の生き方、特に成人し年を重ねていく中で、どのような人生を送ってきたか(送ろうとしてきたか)に着目した研究である。
 まずもって、ライフヒストリーの手法という意味では一種の模範となる一冊ではなかろうかと思う。記述についてもそうだが、4人の日本人へのインタビュー事例に加え、それぞれに関連性をもつ日本の小説を引用しながらそれぞれの人物の生き方を捉えていく方法も興味深い。

 本書でこのような手法を取り入れたのは、私のレビューでも取り上げてきている「日本人論」への一種の批判的理解と、二項対立的に捉えられがちな日本人論に対して、そこに回収されないような議論の重要性を感じ、その理論化に向けて示唆を与えるためである。その作業が本書でどこまでできたかには議論の余地があるが、少なくとも「日本人が同調主義・集団主義的だ」という言葉で片づけられないような選択を行っていることを、その個々人の生き方を描くことで示すことができているのではないかと思う。事例の一つとして「嫁と姑」に着目した章があったが、この両者の関係性として、まず嫁は姑に従い、自らを殺さねばならないという意味で極めて同調的に振舞わねばならないとされているが、そのような関係性は永続的ではなく、姑が老いていくにつれていずれは嫁がその独自の役割を担わなければならないという意味で自律的でなければならなくなる、といった説明には説得力を感じた。

 もっとも、日本人と西洋人を比較するという意味ではどうしても片手落ちである部分がある。本書では「個人主義」についての西洋におけるステレオタイプ的見方を述べている(p315-316など)ものの、それが実際の認識として正しいのかどうかは別問題であり、実証性には乏しい。また、日本人への理解についても、特にp317のような捉え方には極めて違和感を感じる。やはり本書全体としてアメリカ人に対する内省を促す意味合いが強いことを否定できず、西洋との比較という意味での「日本人論」として本書を捉えることには問題点も大いにあると言わねばならないだろう。


<読書ノート>
pvii-viii「本書は日本論ではなくて人間論なのだといえば、いささかおこがましい誇称となってしまうであろうが、少なくとも一種の現代文化論であるとはいえると思う。たまたま日本が舞台となっているが、本書のほんとうの主題は、今日のすべての高度産業社会に共通に見られる「文化の貧困」問題なのである。」
pviii-ix「アメリカにおける「文化の貧困」は、成人が社会的人間としてどのように成長していくかに関する適切な場の理論を欠くというところにある。この点に関しては、私たちアメリカ人は、いくつかの弱々しい温室育ちの理論しかもっていない。
そこで、アメリカの読者には、日本人の人生を知ることによって、対人関係のなかでの相互的な成長としての成熟をとらえる見方を理解してもらいたいと思う。そして、そういうふうに成熟を理解することが、個人主義イデオロギーによって著しく妨げられてきたということを、はっきりと認識してもらいたい。」

pix-x「日本の問題は、おそらく、人間的成熟を個性化としてとらえる新しいビジョンをつくりだすという点にあろう。そしてここでもまた、その課題への答えは、国際貿易によってえられるものではなく、日本の内部から生みだされるものでなければならない。個人主義という輸入イデオロギーは、政治的参加の権利をめぐる諸問題の解決にはいくらか役立つかもしれないが、長期にわたる人間的なかかわりという、より大きな文化的問題に関しては、たいして役に立ちそうもない。」
px「表向きのイデオロギーは、もっぱら、日本には独特の集団主義エートスがあるという信念を鼓吹しているからである。しかし、本書でとりあげた日本人の身の上話を検討してみれば、日本の人びとが、社会的人間としてだけでなく個人として自分自身が成長を続けることにも深い関心を抱いていることがわかる。また、たとえば柳田国男のような人の著作に目を向ければ、人びとの個性化ということや個性をいかに涵養するかということに関して、日本の民衆の間に、豊かな思想の伝統がたしかに存在していることもわかる。
 この伝統を甦らせ、そこから新しい日本製の個性のビジョンをつくっていくことは、むろん、日本人の仕事であり、日本人でなければ果たせない使命である。」

p8「というのも、日本人に対してよく使われる表現を用いて、自我を社会のなかに「埋没」させた「依存的」な人間、「エゴの境界が弱くて容易に外からの浸透を許す」ような人間として日本人をとらえるならば、それは西洋人の基準からみて未成熟な人間ということになるからである。……日本人についてのこうした紋切り型のイメージは、自我と世界についての認識の伸展、他者の身になって心を配る能力の深化、自分の個人的経験を広く応用する能力の増大、といった点を無視している。しかし、これらの点こそ、どこの社会でもそうであるように、日本においても、成熟した人間のしるしなのである。
成熟した人間のもつこうした特性がどのようにあらわれてくるかを、個々の日本人の生活史の展開に即して示すことができれば、私たちはたぶん、誤解を招きやすい前記のイメージの修正に向かって歩みだすことができるだろう。」

p78-79「男も女もほぼ同じことを教えこまれたのだが、女性の場合、純粋な行為への道筋は、公的な役割ではなく、私的な役割に結びついていた。女性が自分の純粋な誠意を形にあらわす最善の道は「良妻賢母」になることであった。……だが、戦争が最悪の状態におちいったときでさえ、女性を兵隊にとるということを本気で考えた日本の指導者はいなかった。西洋では女性も軍隊に入って補助的な役割につくことができたが、日本ではそれさえ考えられなかった。女性の入隊を認めるという方策が問題になるとき、いつも返ってくるお決まりの反論は、もしそんなことをすれば、この戦争によって守ろうとしている理想そのものを放棄してしまうことになる、というものであった。」
※一応日本研究者の参照となっている。

p172「だから、メディアのつくるイメージのなかでは、昭和ひとけたタイプはどこかちょっと普通でない人びととしてあらわれる。彼らは、人なみに青春を楽しむということがなかった。戦時の混乱期にぶつかって、青春を奪われてしまったのである。……
見田は、あらゆる年齢層にわたる成人を対象として、日本の近代史のなかから最良の時代と最悪の時代を選ばせるという調査を行なった。最悪の時代に関しては、年齢および性別に関係なく、ほとんどすべての回答者が、戦時中および戦後直後の時期を選んだ。(一パーセント以下ではあったが、戦時中こそ日本にとって最良の時期であったと答えた人びとがおり、その大部分は、戦時期に戦闘年齢にあった男性であった)。しかし、最良の時代に関しては、明白な世代差があらわれている。全世代を通じて現在(1955年以降)が日本の近代史のなかで最良の時代だという人が最も多い。だが、二番目によい時代、つまり最良の時代への票が二番目に多かった時代をみると、各世代とも自分たちの青年期に当たる時代を選んでいる――ただし、昭和ひとけた世代だけは例外である。」

p275「しかし、父は教育パパでした。私をいい大学に入れる方法をいつも考えていました。父は私を学区外の中学校に越境入学させました。でも、これは私にはよくなかったようです。友だちをつくるのに、これまで以上に苦労せねばならなかったからです。父は、書類上、私がその学区に住む親類の家に同居していることにして届けを出しました。」
※昭和22年くらいの話か。

P314「民族誌学の公式に則って、私は、私たち西洋人の抱いている基本観念——成人期の成長と円熟が年をとるにつれてゆがんでしまう性質をもっているということに関する基本観念——を再考してみる必要があるということを実例に即して述べてきた。とりわけ、自我についての考え方や、他者との親密な関係についての考え方に関しては、大いに再検討の必要があろう。」
P315「成熟についてのどんな説明も、孤立的な単子としての個人という観念に基づく程度が高くなればなるほど、社会的人間を無視する方向へと、それていってしまう。ところが、東洋の考え方の伝統は社会的人間という仮定から、西洋での考え方の伝統は単子的個人という仮定から、それぞれ出発しており、この対立が成熟についての東西の対話のむずかしさを助長している。互いに相手側の「成長に関する原型的な考え方」について誤解を抱きがちで、結局、対話はすれちがいに終ってしまうのである。」

P315-316「西洋流の考え方によれば、人間の個性は神によって与えられるものである。のちに発現することになる個性の種子は、すでに受胎のときに播かれている。……そして、動物的な弱さと実際上の必要から、やむなく社会のなかに入っていく。しかし社会への参加は、 人間の価値を減じるものでしかない。最も高度の自己実現は、人間の凡庸な社会の外へ連れ出す頂上体験のなかで達成される。私たち西洋人の文化的悪夢は、社会への卑屈な同調のなかで個人の成長の鼓動が完全にとだえてしまうことである。生涯にわたって、個人的なものを集合的なものから守る努力が続けられ、それが人生の闘いの中心となる。」
P316「個人としての日本人は、「エゴの境界が弱く、外からの浸透を受けやすい」とか、自我意識が社会のなかに「埋没している」とかいわれ、さらには、そもそも「真の」自我意識をもっていない、などとさえいわれている。これを近代化という歴史的な観点からみると、日本はたしかにテクノロジーと制度上の民主化という点では近代化していると認められるが、個人としての日本人が「心理的に近代化」されていない以上、日本の「近代の移行」はまだ「不完全」であるとされる。」

P317「日本流の考え方によれば、人間が他者との関係のなかに入っていくのは、動物的な弱さからではなく、人間的な強さを獲得するためである。……個人の特質は、そうした能力と独特の仕方で「もつ」ことにあるのではなく、それらの能力を用いて何を「する」かということにある。他者に対する自由濶達な感応性を減退させることなく他者に対する責任を果たすこと――これが、生涯にわたる努力の中心となる。」
※一応、ここでの主張については、「私の論点をはっきりさせるため」に「東西の相違を大幅に誇張して述べて」いると断りを入れている(p315)。
P320-321「日本人についての戦後のイメージ、つまり同調主義と「集団に埋没した自我」というイメージのまずい点は、このイメージに頼る限り、日本人の文化的適応性がますます高まり、人びとが平均化して互いに似かよってくるという側面しか説明できないという点にある。他方においての日本の成人は、日本文化の伝統をうまく使いこなせるようになるにつれて、ますます個性化していく面もあるのだが、そのことを説明するうえではこのイメージは何の役にも立たない。そしてこの個性化の側面こそ、私が本書で明らかにしようと努力してきた面なのである。同調主義のテーゼは「人格」と個性とを混同し、また個性と個人主義とを混同している。このテーゼは、日本人の人間観についてよりも、むしろ官僚制化した世界における個人主義の運命に関する西洋人の憂慮のついて、多くのことを物語っているのではないだろうか。」