全生研常任委員会「学級集団づくり入門 第二版」(1972)その2

<読書ノート>
p21「しかし、能力と能力を担っている人格とを、それほど容易に区別できるものではない。能力を選別し差別することは、人格を選別し差別することにならざるをえない。こんにちの大企業の労務管理は、この点を意識的に利用して、能力の名において政治的・思想的・身分的差別を行なっている。つまり、能力の名において労働者個人を丸ごと差別し、そのことによって全人格を企業に捧げる人間を作り出そうとするのである。ヒューマンリレーションズやガイダンスなどの心理的技術は、この差別の政策を補強しつつ、労働者の人格を丸ごとの支配に貢献させられているのである。」
※「青少年を人格として見ているものではな」いことを批判する(p21)。しかし、能力の有無と、主体化の有無はあまり関係ないだろう。これが機能するのは安易な淘汰が機能する場合であるが、そう簡単に淘汰されるものでもないのでは。

P22「「奉仕の精神」・「根性」・「モーレツ人間」の讃美は、人格丸ごとの支配を簡明に表現したものであり、動物的な性や暴力の讃美は、同じことの裏側である。」
※この言明は、選別の教育と直結している。しかし、この認識自体の正しさが疑わしい。
P23「実際問題として、優秀社員や英才少年が、突如として、じさつしたり、家出したりする。加工されればされるほど、人格破壊が進むからである。差別された青少年の絶望もまた、ちまたに溢れている。こうして、自己をも他人をも傷つけてやまぬ人間蔑視と頽廃とが、暴力や戦争の讃美をともないながら、進行している。生活指導運動は、人間の尊厳を擁護し、人格の自己形成の権利の実現につとめ、能力主義的・軍国主義的人格観と、いよいよ、その対決を強めざるをえない。」
※象徴的事件をどこに見出しているのか。

P26「権力が国民に思想や行動を強要することは、タテマエとホンネを区別する分裂した人格をつくることができても、真の人格をつくることができない。民主的社会・民主的集団のみが、人格を人格として形成することを保障するのである。」
P26「民主的社会・民主的集団は、成員のひとりひとりが主人としての地位をもつ。したがって、民主的人格とは「主人としての人格」であるともいえる。
非民主的社会・集団では、その社会・集団を管理・運営する権限と能力とは特定の一握りのひとびとによって独占される。また独占することによって支配者としての地位を維持するのである。「英才」教育とは一握りのひとびとと、その高級使用人のための教育にほかならない。これに対して、民主的社会・集団では、管理・運営に参加する権限はすべての成員に属し、そのための基礎的諸能力=基礎的統治能力の獲得は、成員のすべてに保障される。」

p35「日本の文教当局者に伝統的な考え方によれば、処罰をしたり、取締りを強化したりして、特定の行動を権力的・暴力的に強制することが指導なのである。そしてその行動に特定の徳目(勤勉・礼節・愛国心など)や特定の感情(汗のよろこび・頭のさがる思い・民族の偉大さなど)を結びつけることが道徳指導なのである。しかし、明らかにしなければならないことは、行動を強制することと行動を指導することとがちがうということである。なるほど、子どもはその強制のなかで、ある種の行動能力を身につけるであろう。犬や猫が芸を身につけるのと同じように。しかし、その過程で子どもの思想・精神・人格がどのように形成されるかは、まったく別のことなのである。」
※定義の仕方によっては全生研的生活指導も、「処罰」を含む。

P46「発達した資本主義国における民主主義は、つねに空洞化されたり、ファシズム化されたりする危険をはらんでいる。民主主義を擁護し、これをさらに発展させていくためには、労働者階級をはじめとする勤労者諸階級の民主主義への要求と彼らのもつ行動能力・行動スタイルを現代の民主主義の内容としてとりこんでいかなければならない。なかでも、労働者階級が発展させつつある連帯と団結を基礎とする行動のしかたと社会的関係のあり方とは、現代の民主主義がその空洞化をさけ、民主主義として存在していくための基本的内容とならなければならない。そして、労働者階級の連帯と団結に立つ民主主義を、「集団主義的」と呼ぶとするなら、そのような、限定された意味で、現代の民主主義教育は集団主義的教育、もしくは集団主義教育という方向性をもっているといってよい。」
※なお、集団主義・集団教育は「ほんらい、社会主義社会での人民による統治の性質」とみなされ(p45)、資本主義社会にあっては「集団主義的教育は存在しえても、集団主義教育そのものは、全面的には存在しえない」とする(p46)。しかし、労働者階級の議論と集団主義教育の関連性はよくわからない。
P45「たとえば、「要求を組織する」ということは、労働運動上の重要な経験であり、子どもの教育にとっても重要な教訓を与えるものである。しかし、現実には「要求を組織する」と称する教育実践には、労働運動上の経験を未整理のまま、手法だけを輸入しているものが、少なくない。……要求=必要は、子どもの主観の外に存在する客観的必然の反映である。従って、主観への反映は、子どもたちの民主的ちからの結集度と行動力とに応じて深化されるものであって、まず要求を組織してから、そのつぎに行動へというような平板な形式図式に従うものではないのである。」
※最後の一文はどのような意味を持っているのか?

☆P50-51「集団とは物質的なものであり、それは物理的なちからとしての存在であるとわれわれは考える。集団はひとつちからになりきらなければ、社会的諸関係をきりひらいていき、変更していくことは不可能である。まして、非民主的な力に対抗していくためには、集団はみずからを民主的なちからに高めるほかないのである。」
憲法上、民主主義が肯定されていれば、このような集団性は不要、という可能性はないのか?
P51「このような集団のちからは、集団がその意志を明確にし、行動をもって相手に立ち向かってくるとき最もよく見てとることができる。たとえば、何者かが集団に対して不利益を与えようとするとき、集団はこれに反発し、対抗しようとする。そこにはなにかしら威圧的なちから、一種の物質的なちからすら感じられる。それが集団のちからーー集団の本質なのである。」
※基本的にこのちからとは「否定」をすることである、と押さえて良いのでは。

P52「われわれがこの集団のちからを教育の問題として重視するのは、こうしたちからの高揚のなかにこそ最も純粋な精神の高揚があり、そして、そこでこそモラルの情熱的な把握が可能になると考えるからである。さまざまな精神的な価値、精神的なちからは、この集団のちからに転化しうるか否かによって検証される。個人主義的な価値は否定され、集団主義的な価値がこの集団的なちからの行使のなかから創造されていく。」
P54「ところで、このような集団(※素朴な学級集団)は、なんらかの意図的な、あるいは法則的なはたらきかけ(指導)の加えられないかぎり、そのちからを気まぐれに、あるいは分散的にしか発揮することはできない。」
※指導が行われることは、リスクの処理ではなく、必然的なものとして語る。
P56「たしかに規律は、集団の内部に対してはきびしい要求となり、批判となり、強制となって現われはするが、それはたんに内部にのみ集中しようとするちからではない。むしろその集中したちからを、集団の外に向かって表現し、発揮するためにこそ求められるものなのである。」
※この規律については、民主的集団の性質として挙げられている。

☆P61「つまり、子どもたちは、いまかれらの必要としているところの力量を、その危機自体のなかでしか学ぶことができない。これが集団の自然発生的な自己運動のつくりだす混乱の原因となっている。したがって、集団は自己を越えた外からの指導を是非とも必要としているのである。教師の指導は、集団のこうした必要を先取りしているがゆえに指導として自己を貫徹しうるのである。その意味では、指導は集団が必要としているものを注入することである。(集団が必要としないものを注入するのが「押しつけ」である。)
また、子どもたちはとかく問題の解消をするだけで満足しがちである。たとえば、学級に暴力がなくなりさえすればいいと考えがちである。それがたんに教師の圧力によって暴力グループが鳴りをひそめたというだけのものでも、満足しようとする。だが、これでは一種の物取り主義的な解決であって、真に問題を解決したことにならない。解決とはその問題にみずからとりくむことによって、集団自身のちからの高揚を導き出すようなものでなければならない。」
※ここで「押しつけ」を定義しているが、このような定義付けが問題。結局その必要性の判断は集団にあるといっておきながら、実際はそうでないからこそ、「押しつけ」がされる状況を批判するときは、集団の状況をなんら考慮しないのである。それが「真に問題を解決したことにならない」からといって、集団の主体性を否定してしまっている。

P62-63「ところで、このような指導は、指導者が集団自体のなかに埋没していては成立しない。その意味では、指導は経験主義とは無縁である。指導は、集団を社会的諸関連のなかで客体としてとらえ、それを認識と工作の対象とするものであるから、指導者が集団の一員であるとないとにかかわらず、それは集団を越えたものとして、集団の外側のものとして成立してこなければならない。いや、指導は、本来、集団を越えたもの、集団の外側のものなのである。」
P63「けれども、教師は集団の外部の者であるがゆえに集団から離れやすく、集団もまた教師の指導を受け入れようとしないという傾向が生じやすい。このことは、集団は普通みずから動くことよりも、むしろ引き回されることの方を好むという傾向と結びついていて、それが管理主義、官僚主義を生み出す原因ともなっている。したがって、教師はその指導が集団の内部に真に定着するために、集団の危機的状況を指摘しつつ指導への要求をひきだし、指導の有効性を証明しつつそれの内部への浸透を図る努力をつねに続けなければならない。」
※逆に教師が集団の内部にいると「指導性を確立することがむずかしくなるという危険性を伴っている」と述べる(p63)。

P64-65「そのため(※指導の持続のため)には、まず第一に、教師こそ自分の実践を自己分析し、総括し、理論化するちからがなければならない。教師自身が徹底した自己批判の精神をもつ必要がある。この自己批判は、たんなる誤りの暴露や、主観的な反省にとどまってはならない。事実関係を徹底的に明らかにしたうえで、その誤りを克服すべき具体的な実践形態をひき出し、指導を回復するものでなければならない。
もちろん、このような教師の力量は教師個人によって獲得されるものではない。教師はこのような力量を教師集団やサークルの実践分析検討会のなかでみんなに批判されて身につけていくのであり、さらに組合活動やその他の民主的運動に参加するなかで獲得していくのである。」
※精神論。ここに教師の環境などについての言及はない。しかし指導については、「組合活動やその他の民主的運動」が大きな要素たりうるものとして位置付いている意味でそれらの動きを捉えれば何が指導を意味するのかも見えてくるかもしれない。

P68「この点についてはあとでもう一度触れるとして、ともかく、指導が管理の強制力を借りなければ浸透しないという事実があるとすれば、それは指導としても自己をまっとうしえないでいることを意味している。つまり、指導は初めは管理のちからを借りなければ指導として成立しえないと同時に、指導は管理のちからに依存するかぎりで自己を確立しえないという困難さがここにはあるのである。」
☆p69「しかしながら、教師による管理、ひろく、集団の外部のものによる管理というものは、たとえ一時的な成功を得ることがあっても、それは決して完成しないものである。集団の外部からなされる管理は、集団にとっては強制的なものであり、権力的なものであるために、集団はかならずこれにたいする反抗や批判を組織する。さらに、集団の外部からの管理はどんなに公平さを装っても、それは絶対に公平なものにはならず、恣意的なものになるほかないものであるために、集団はかならずそれから離反し、それにたてつくようになる。こうした集団の反応をおさえてかかろうとして教師はさらに管理とりしまりをくわえていくとき、教師は必然的に管理そのものを完成することのない管理主義の泥沼、その悪循環のなかにおちこんでいくのである。」
※これはそれ自体正しいといえるかもしれないが、そのような不可能性があるならなおさらのことp21やp35のような批判の仕方が無意味化されないだろうか?さらにはこれに対する反抗も用意されるとなると、独占資本の圧力にも当然のごとく反抗が用意されるだろう。竹内の場合、この差異の説明には「いかなる圧力が与えられているか」という点への徹底的な自覚の促進の有無を加えていたが、本書にはそのような論述はないように思える。ここには主体化のさせ方の違いが認められる。竹内の場合は主体化の根拠が明示されるのに対して、本書では主体化は純粋な対立の力、「集団のちから」にのみ依拠した形が実施されることになる。

P71-72「そのため(※集団による自主管理のため)には、教師はまず第一に、管理に支えられてその指導を貫徹していくことによって、集団をひとつの意志、ひとつのちからに組織し、その決定を集団自身のちからによって実行させていく必要がある。集団がみずから決定したこと、みずからの利益になることを守らなければ、また守るちからを持たなければ、決定は無意味なものとなり、集団はいちじるしい不利益をこうむることになることを具体的に教えつつ、集団内部のなかに集団決定を守りぬいて集団的行動を統制する自主管理を確立していかねばならない。
第二に、教師は、教師の管理、外部からの管理に必然的にともなう不公平さ、権力主義的性格にたいする集団の批判や抵抗を組織しつつ、このような集団のちからに教師の管理権を奪いとらせていくようにして、管理権を集団にかえしていく必要がある。そのとき教師は、集団が外部のものによって管理されることは、集団の自主性、自立性の喪失であり、それは集団の死を意味するものであること、集団が自主管理の力量を確立しえないちきは、集団外部の権力主義的な力がかならず集団の管理権を奪いとって集団を支配しにかかるにちがいないことを教える必要もある。」
※第二の論点については、なぜ「かならず」と述べるのかが問題。

P76「たしかに、これらの(※自然発生的な)グループの間にはなんらからの対立やせめぎあいがあるにはあるが、なにか特別なことでもなければ、おたがいに積極的にかかわりあうことを避けているのが普通である。つまり、子どもたちは学級という集団の一員でありながら、集団内に発生するさまざまな事実・事態を自己の主体にかかわるものとしてとらえようとはしないのである。ただせいぜい自分の仲間うち数人に関わることがらについてだけ、必ずしも他人事でないものを感ずることができるに過ぎない。
しかし、この仲間としてのつながりの意識は、集団的な連帯感というのはあまりにももろい、情緒的・心理的な一種の親近感でしかない。」
p76-77「とはいえ、このような自然発生的なグループは、個人の不安や不満に対する情緒的な保障物としての性格が強く、外に対しては閉鎖的であり、内にあっては許容性・同調性を中心としているために、そこに内面的な規範を確立することは困難である。」

☆p78「いわゆる小集団指導においては、個人の社会的適応ということが主眼とされ、おたがいの特性を理解しあい、認めあい、個人や集団に対する好ましい態度を養うという態度主義が基調になっている。だから、ここでは今日の社会の支配的な政治形態や行動様式などへの同調が重んぜられ、社会的な諸矛盾の解決というような問題は意図的に遠ざけられ、集団における協調主義的な生活技術の習得がその主題となる。その結果集団の性格は情緒的許容性・心理的同調性が中心になり、その指導は技術主義・能率主義・心理主義の傾向が強くなるのは当然であろう。」
※「小集団指導はいわゆる意識操作に重点を置いている」とする(p79)。
P82-83「とりわけ最初は、集団で決定することの重みを徹底して教える必要がある。すなわち、守れないこと、あるいは守ろうともしないことを決定させてはならない。一旦決定したことは厳密に、そして正確に遂行させなければならない。そうしてこそ集団ははじめて決定の主人公として、集団自身のちからをはっきりと自覚することができるのである。」
※このような決定について、修正される可能性は持ち合わせているといえようか?

P97「また、教師が班をつくろうとするとき、班についてのなにがしかの経験、特に誤った経験を持つ子どもたちの間から、「班はいやだ」「班はいらない」というような声の起こることがある。けれども、班についての正しい経験を持たない子どもたちに、それが必要か必要でないかなどわかるはずがない。なによりも最初に班を必要とするのは、子どもたちではなくて教師自身なのだということを、教師の側としてははっきりさせておかなければならない。」
P98「ただし、いずれの(※班編成の)場合も、男女混合で、人数は七人から九人前後まで、そして班長は男女それぞれ一名ずつ藩内で子どもたち自身が互選するというのが原則である。また、班は子どもたち自身のものであるから、いまの班で自分が不利益だと思ったら、いつでも学級の過半数の賛成を得て編成がえをしてよいことも教えておく。」
※記述に矛盾がある。班のつくりかたは「教師が指導的力量と学級の集団状況とのかねあいのうえで、自分が最も指導しやすいように編成するというのが原則である」(p97)としているのに、何故「班は子どもたち自身のもの」と言い切れるのか。「?の場合には、……班内や班相互の対立矛盾を弱くし、さらに子どもの側からは、班は自分たちがつくったものではないために、?の場合以上に教師への寄りかかりや責任転嫁が発生しやすい。」(p99)というような状況でも、自由な班変更がありえるとは思えない場合があるのは当然視されていないか?

P101「わたしたちの直面する学級には、さまざまな矛盾や対立、分裂、抗争がうずまいている。しかも、それらは集団の利益をふみにじり、ひとりひとりを疎外していく力としてはたらいている。そして、こうした矛盾対立のなかで、一般に最もきわだっているのが男女の対立である。
わたしたちが集団づくりをとおして、民主的な思想と行動とを子どもたちのなかに育てようとするとき、この男女の対立の問題を避けて通ることはできない。この問題は、集団づくりの最初からその基底にすえられ、これの克服がめざされなければならない。」
※随分と漠然とした物言いである。そして、実践の取り組みのなかでこれがどれ位取り上げられていたのか?

P104「とにかく最初は、教師の原案に基づいて討議し、決定し、そしてすべての班がいっせいにとりくんでいるという状態が子どもたちの目にはっきり見えるようにしておく必要がある。そして、その原案は、比較的短い期間で、みんながちからを合わせれば少しの努力で達成でき、しかも、そのことの喜びがなるべくわかりやすいものを選んで課題とすべきである。」
※このような原案について否定する論理は存立しえないし、なおかつ将来的な否定も存立しえるように見えないように思える。
P105「このような総会決定の系列からくる課題のほかに、特によりあい的段階では、学級に必要なしごとならなんでも、随時班に与えていくことがたいせつである。無論そこには教師の見とおしに基づいて、しごとの選択とそれをどの班に与えるかという考慮は必要だが、たとえば、「教室のあっちこっちにあるらくがきを紙やすりで落としたいんだけど、一班やってくれますか」とか、「今週のうちに絵をはりかえたいんだが、立候補する班はありませんか」といった具合にやるのである。これらのしごとは、班の全員でやること、とにかく積極的にからだを動かせば達成できること、そしてあまり長期間にわたらないことなどが条件である。」
※これが何故必要なのか、という説明は全く加えられなければ、民主的集団形成との関連性も不明瞭。

P106「これらのしごとのあるものは班単位の当番活動として、あるいは係活動として定着させる必要の生ずる場合がある。この当番活動と係活動とは班の重要なしごととして位置づけなければならない。また、班の活動として忘れてはならないは「集団遊び」に参加することである。」
☆p106-107「学級が集団生活を営むために必要なしごとは、大別すると、管理的、あるいは実務的な性格の強いしごと、より多くの創造性と同時に集団に対する指導性をも要求されるしごとの二つがあると考えられる。
前者に属するものとしては、そうじ、窓の開閉、黒板ふき、備品の整理整頓などのような清掃美化に関するしごと、あるいは、給食など毎日行なう作業的なしごとがある。また、日誌、出欠統計、会計、保健、備品管理などのような事務的なしごともある。
後者に属するものとしては、図書、新聞、飼育、栽培、レクリェーション、掲示などのしごとがある。これらはレクリェーションを除くと、実務的な側面をかなり持っているために、しばしば実務の処理だけに終始しがちである。しかし、図書のしごとなら、全員により多くのすぐれた本を読ませるくふうが必要である。……掲示についても、たんなる実用と美化の観点からだけでなく、学級世論の形成にまでかかわっていこうとするとき、そこにはさまざまな創造的なくふうをとおして集団にアピールしていこうとする指導性が要求されるようになる。……してみると、この図書、新聞、掲示などは、学級におけるプロパガンダアジテーションの役目をになうものとして多くの共通性を持っていることがわかる。」
※問題は、ここでいう「しごと」の性格である。ここでは素朴な学校運営ありきで、その必要性については議論の俎上にあがらず、恣意的な判断となっているように見える。「仕事」の差別化をはかろうとしている意図があるのはあきらかだが…

p107「たとえば、右の当番の場合、最も必要なものは「やる気」である。したがって、たんに請負的なしごとを果たしただけではいけない。その「やる気」をどう導き出すかということが指導の重点になっているわけである。」
p110「わたしたちが係活動においても班競争を重視するのは、それをとおして、しごとのたんなる実務的な処理だけではなく、集団生活に必要なしごとを果たすことの意味、しごとの内容、性質に応じての集団的な行動の組みかた、集団内の指導・被指導の関係や相互援助の方法などを教え、さらに専門的な能力を持った者やそれらのグループを育成することを重要なねらいをしているからである。」
※やはりここでもしごとは、その内容な暗黙のうちに設定され、かつそれが当然必要なものという前提をもってしまっている。

P111「よりあい的段階における班づくりで実践的に最も重要なのが班競争である。言うまでもなく、この競争は、たんに学級の目標やしごとを効率的に速く達成するという結果を重視するからではない。そのかていにおいて、班内の矛盾対立を顕在化させ、これを班と班との対立矛盾に結びつけ、子どもたちん目を学級集団そのものに向けさせていくことのほうを重視しているのである。」
※しごととの関連でいえば、ここでいう対立の性質も重要な問題をはらむ。基本的にここでは「集団に対する認識を高めていくため」という言い方をしている(p111)。
P112「第一に、一見なんの事件もなくおだやかさのなかにあぐらをかこうとしがちな集団に揺さぶりをかけ、ことさらにごたごたをひきおこす。それを班内のごたごただけでなく、班と班との対立、ぶつかりあいとして導き出すのである。そのために、相手にけちをつけ、いがみあい、やっつけあうといった、いわばえげつない争いの方を実践的にたいせつにする。そのわけは、このことのよって、子どもたちはいやおうなく他の班の存在を問題にせざるをえず、班のちからを班の外に向けて相手にいどみかかろうとする、そして、そのためにこそ班の成員のちからを内部に結集し、団結しようとする。」
※ここではやはりしごとそのものに対しては目線がいっていない。この班競争の契機として「ビリ班」「ボロ班」を挙げ、「その班の子どもたちは感情的にいらだ」つことを期待する(p112)。「ほんとうはもっと静かで論理的な説得、自主性を豊かにたたえた指導・被指導関係をつくり出さねばならぬ」が、「最初は情動的な立ち上がりの方をたいせつにする」(p112)。

P114「第三は、競争の結果獲得したものの集団的な利益が、なるべくわかりやすいものでなければならない、ということである。それが利益とわかるかわからないかは、その集団の質にも関係することだが、とにかくその段階でなるべく理解できるものであることが必要である。」
P115「ビリ班一つだけを明らかにすることは、当面最も問題にしなければならない班はどれかをめいかくにし、教師じしんがまずこれにとりくみ、この班をビリ班でなくす課題をもつと同時に、これに対する全集団の直接・間接の指導・援助を要請するのである。万一ビリ班が固定するようなことがあると、他の班はビリ班でない多数のなかに安住することにもなり、集団の発展はそこで停止しかねない。だから、自分の班は今日はビリではなかったが、このつぎにはいつビリ班になるかわからないという危機感がつねになくてはならない。そのために、ビリ班という評価は、決してビリを二度続けさせないという指導の保障がなければならないのである。それでなければ、ビリなどという酷薄な評価は許されない。」
※ビリ班であることに安住する場合も、班を「原則として解体しなければならない。」という(p116)。

P116なぜ優秀班の評価ではだめなのかについて…「第一に、優秀班は固定しやすい。だからいくら努力しても優秀班になれない班は、競争をあきらめるよりほかならないからである。それよりもっと重要な理由は、優秀班が他の班の前進目標になるということは、すでにその学級は、優秀班をめざして努力しうるだけの意欲や力量を持っているということである。それならば、ビリ班などという評価は最初から必要ないことになる。つまり、ビリ班一つだけを明らかにするという評価の形式は、あくまでよりあい的段階の、しかも比較的初期のものなのである。」
※論理的な破綻では。なぜビリ班が固定されないで、優秀班が固定してしまうのか、説明できると思えない。そして、このようなビリ班的見方が実際によりあい的段階に限るものとみなされていたかは議論の余地がある。これは実践例の中でそのようなビリ班が不要だと判断し、優秀班の評価に移行したという例がないのではという問いとして現れる。そもそも、この判断をどう行うのかについては、曖昧では。本書ではp85-90でよりあい的段階から後期的段階までの「すじみち」を示す。しかしそこに示されるのはあくまでもルール、学級づくりの取り決めであり、「自主性」の程度が大きなキーワードになる気配はあっても、それがどの程度か、という点は見えてこない。当然学年別で区切るようなものでもない。「どの班も先進的班を目標として努力する意欲と、そこから確かに学ぶことのできる力量とを持ってくるにつれて、徐々に採用していくのである。」(p117)とはいうが、これは最初からは本当にやれないことなのか?さらに言えば、このようにして形成される班競争というのは、その評価設定を教師が行っている以上、それに強力な縛りを与え、その評価基準自体の否定に至る議論はやはり行えないように見える。彼らが批判するような能力主義言説以上によく訓練され、その基準を肯定する人物像しか出てこないのでは?

P117集団の評価における「管理的評価」と「指導的評価」…「しかし、やがて管理的評価はほとんど必要がなくなり、指導的評価こそ評価の中心になる段階がくる。」
P126「たとえば、ボス的なちからはしばしば気まぐれに、しかも私的な利益のためにのみ発揮されることが多い。しかし、ボスはその指揮力、支配力によってなかまをつよく結集し、かれらをひとつのちから、ひとつの意思に強引に組織して、かれらを行動にたちあがらせることができる。だから、もしも教師がこのボス的なちからをたとえ部分的にでも集団的な目標の実現に結びつけることができるとしたら、それはきわめて強力な肯定的なちからに転化することになる。ボス的なちからは集団を目的的な行動に結集するちからとして働くなかで、みずからを改造してそのちからをリーダー的なちからとして発揮していく可能性をもっているのである。また逆に、リーダー的なちからに転化しないボス的なちからは集団のたたかいの対象として位置づけられることにもなるのである。」
※「ガキ大将への教育」言説と同じ捉え方。

P134「個別的接近とは、集団に対する指導の一部として行なうものであるが、たんに集団から切り離して個別的に指導するという意味ではない。これを個別的指導と呼ばず、あえて個別的接近と呼ぶのは、教育する者という関係よりも、生身の、あるいははだかの人間同志としての接触という点を重視するからである。……愛情を媒介にしてはいるが、相手の人格に直裁に切りこみ、かれの意識に垂直的に迫ることによって、かれを全人格的に奮い立たせるーーこれが個別的接近なのである。」
P140男女二名班長制は前期的段階の一期までで、一名班長制への移行を想定
P142「〈ちから〉を教育の問題として積極的にとりくむことこそ、真の民主的教育を復活させる道だといわねばなるまい。」

P151-152「けれども、万場一致制の成立は原理的には、決定事項に対して集団内部に基本的な利害や意見の対立が存在しないことを前提条件としている。さらに、個人的利益と集団的利益とを統一し、集団決定には自主的に服従するという個人としての主体的条件と、それを保障する集団としての組織的条件がなければ、万場一致制は実質的には成立しえない。言うまでもなくよりあい的段階ではこのような条件は成熟していない。それにもかかわらず、この段階で班一票・万場一致制を採用するのは、そこから班多数決制(前期的段階一期)—個人多数決制(同上三期)—全員一致制(後期的段階)というように、集団のからの発展にみあい、総会が集団における最高の決議機関であることの実質を築き出しつつ、真の全員一致制を導き出すためなのである。」
※竹内が述べていたような論点(※多数者の暴力性)が欠けており、随分と形式化しているように思える。ここでの万場一致制とは、班の万場一致を指す。
P159「学級目標として、たとえば「服装を正しくしよう」とか「授業をまじめに受けよう」などというのがある。これらの目標は、「団結」「友情」などのように、具体的になにをどうしてよいかわからないものに比べれば、当面の目標としてはるかに分節化されており、具体化されてはいるが、それでもつぎのような問題点を含んでいる。第一に、「服装を正しく」などは、教師の管理主義的発想にもとづく場合が多く、子どもにとってそうすることの利益がわかりにくい。第二に、特に「授業を正しく受けよう」などは依然としてまだ具体性に乏しく、その達成度(努力の結果)を明らかにしにくい。したがって、第三の問題点として、その達成状況を具体的に把握し、それにもとづいて集団を評価することが困難である。」
※ここでの「服装を正しく」することを管理主義批判として位置付ける態度は、限りなく恣意的な態度である。そして管理目標の条件として「目標を守ることによって、集団が利益をうけていることがよくわかり、それを実感できるものであること。」などを挙げるあたりは(p159)、子どもの利益になる目標を選んでやることが正しい方法であり、そうでないものが「管理主義」だ、といわんとしているようにも読める。しかしそれこそ恣意的な判断の下にそれを行っているとしか思えない。このような班競争における「否定」の考え方自体が適切と言い難いとも言い換えられるか。

P161「チャイムで着席する」「始業前に教科書を机上に出しておく」ことは管理目標となりうる
P161-162「すでにお気づきのこととは思うが、管理的評価は数量のような客観的規準によって、ほとんど自動的・機械的に結果を出すもので、もしもこれを採用することに指導的な観点が加わらなかったとしたら、厳密には評価とは言えないと思う。」
※「評価」とは静的なものでは意味をなすと考えられておらず、あくまで「指導」の結果に測られるべきものとみなされる。
☆p162「機械的な評価しかしない場合は、日直はいわば点検の機械にしかすぎない。これでは日直の権威を高めることはできない。日直がそこにある種の主観的な、つまり指導的な観点に立つ判断と評価を入れてはじめて、その権威を高めることができるのである。言うまでもなく、このような評価は、集団をじゅうぶんに納得させるだけの根拠に立って行なわれなければならない。」

p164「日直班は日直を続けようと思ったら、総会での支持をとりつけねばならない。そのためには、日直勤務は正確できびしくなければならない。ところが、日直がきびしさを増すと、報復的に逆点検もきびしくなり、こうして日直制をとおして、集団における管理の重大さと、集団をみずから管理するちからとを、恒常的に鍛えあげていくことができるのである。」
p167「そのために、とくによりあい的段階では、無計画な追求を許してはならない。誤解を恐れず言うなら、それは事前に仕組んだものでなければならない。無論その場での随時の指導も必要であるが、それよりも、核の指導によって、集団の怒りはしだいに結集され、集団の中の最も弱い者こそが追求の先頭に立つことができるよう導いていかなければならない。」
p174班競争の糸口になるもの…学習の質として「学習態度・家庭学習・班学習・宿題・学習の計画化」、作業の能率として「時刻・時間の問題の観念・清掃・作業」

p198「これにたいして、人格の教育は、教科指導にあっては、体系的な知識の習得をとおしての科学的・人間的な世界観の形成、法的認識にもとづく自然や社会の改造への意志形成というすじみちをとるのにたいして、他方、生活指導のなかにあっては、それは集団のちからの行使をとおしての民主的な行動能力と目的自覚性の教育、民主的主権者としての統治能力の形成というすじみちをとるのである。」
p199「修身教育体制のもとでは、教科指導は、その根拠である体系と教科内容を宗教的、道徳的、政治的イデオロギーによって歪曲されていたために、教科指導はいうまでもなく「知育」としての性格をもつことができなかった。ここでは、教科指導は徳目主義的な教科内容の注入主義的な「教授」となったが、徳目や規範や規則の教授はすでに「教授」とはいえない。それは「教化」であり、「訓辞」「訓論」に近いものである。教科外においても、訓辞・訓練的方法による徳目の注入がおこなわれ、その遵守が管理主義的なとりしまりによって強制されることになる。このように、ここでは、教授は知育としての性格を喪失して訓育化しており、訓育は訓育独自の方法をもたずに教授的方法に依存しきっている。
また、「生活」教育体制においても、教科指導は、その根拠である教科の体系を生活経験、生活問題のうちに解体させられるために、教科指導はここでも知育としての性格を与えられない。」
※教科指導に対する見方は一見歪だが、この点が特に強調されていると理解すればある程度納得できる。教科指導の科学性など当たり前に思えるが、すでにイデオロギーの介在によりそれができていないという認識があるといえる。しかし、これは受験競争的な学力問題として教科教育を考える際には論点になりえないといえる。

P200-201「教科指導は、教科課程にもとづいて教師と子どもが交渉しあい、教科課程のうちに凝集されている人類と民族の文化遺産を子どもの学力として定着していくことを直接の目的としている。したがって、教科指導にとっては、教科課程をどのように編成するのか、どのような教科内容をどのような教材によって子どものものにしていくのかが決定的に重要な問題となる。……したがって、教科課程の編成は、研究・教育の原則にしたがっておこなわれるべきであるのにもかかわらず、国家権力は法的根拠をもつと称する学習指導要領よよび教科書検定でもって学習課程を政治的野心のもとにおこうとしているのである。」
※なぜ学習指導要領はだめなのか。「国家権力」だからである。
P201「このように、教授=学習活動は教科課程にもとづく教授活動によってリードされるものではあるにしても、それは教授活動によって一方的に学習活動を統制するような過程ではない。教授の過程と学習の過程とは相対的に独立し、相互に統制しあい、移行しあい、統一していく複雑な家庭である。教授活動は教科研究に根拠をもって展開されるのにたいして、学習活動は子どもの内側からつき動かす内的矛盾にその源泉をもっている。」
※言っていることが不可解。不可解たるのは弁証法なるレトリックのせい。

P202「ところが、現在の教材のなかにはその教材独自の教科内容が明確でないものがある。教材によっては、ある経験をさせ、ある態度をならわせればそれでよしとするようなものがある。学習指導要領にみられるような「……ものの見かたを養う」とか「……態度を育てる」といったしろものである。ここでは、教材がストレートに教科目的に癒着させられていて、教材、教材内容、教科内容の系統、教科目的といった区別がつけられていないのである。このようになるのは、その教材が態度主義的、徳目主義的に歪曲されているからである。」
※ここでの問題は、正当な系統なるものに対する説明、その系統なるものはおそらく普遍性を持っているはずなのだが、その普遍性に少しでも言及するような、具体的な議論、これまでの「研究」の成果としての議論が全くない点にある。そのような蓄積なき系統など、系統とはもはや呼ばず、ただの恣意的主観と呼ぶべきではないのか。
P203「このような教材は、実は、教科の系統から遊離した教材であり、教科の系統につながる教科内容を欠いた教材である。教材がこうなるのは経験主義的教材観のためである。」
※色濃い経験主義批判。

P204「教師は学習集団内におけるこのような対立や分裂をきわだたせることによって、ひとりひとりの子どもの学習にたいする主体性をひきだしつつ、彼の個人的思考を活発にしていくと同時に、この分裂と対立をとおして学習集団がより正確に科学的真理の習得をおしすすめ、科学的真理のもとに学習集団の連帯と統一とを回復していく集団過程がそこに展開されるのである。」
※ここでいう「対立や分裂」として挙げられているのは、教材を理解できるか、できないかといったものから、目的を持って学習できるかどうか、科学的真理のもとに生活的偏見を克服できるかどうか、といった子ども間の分裂を意味している(p204)。端的に言えばできる子とできない子の分裂である。この対立の収束は、当然「できる」ことへ向かうのであって、「できない」方へは向かう可能性すら考えないような性質を持っている。その意味で、生活指導とは異なる分裂・対立である。生活指導においては、タテマエ上のみでしかない可能性が大いにあるものの、子どもありきであるという態度をとっている。また、このような主体性の問題は、教科指導の系統性という論点とは全く関係なくと考えても差し支えないように見える。
P204-205「このように集団過程に裏づけられなければ、学習集団はできるものとできないもの、わかるものとわからないもの、学習意欲のあるものとないものに分裂すると同時に科学的認識をもつものと非科学的認識にとどまるものとに分裂し、学級集団はやがて差別的構造を体制とし、解体にひんすることになる。」
※この言い分は何を根拠にしているのか理解できない。ここで失敗していることがあるとすれば分裂の問題ではなく、対立の不適切な形成の問題であろう。あくまで対立の明確化と主体性の引き出し、「科学的真理の習得」が重要とされるのである。ただし、すでに述べたように科学的真理の議論は内容が空疎化している。

P205「どのような集団学習の形態をとるかは、当の学習集団の自己指導力によって決定されるものであって、自己指導力がたかまればあえて集団学習、グループ学習をとる必要はないのである。」
※このような平等感はすでに歪んでいるように思える。ここで議論されているのは体系化された教科学習の議論である以上、常に自己の興味と不一致する可能性を持ち合わせている。この自己指導力なるものがすべての教科(※この教科は既存の教科枠組みでない可能性さえある!)で機能すると考えること自体が歪んでいると見るべきではないのか。当然、この自己指導力は自らが興味を持ち続けるものである限りにおいては正しいだろうが、そこから外れれば自己指導力自体が弱体化するのは必至ではないのか。ここでは「助けあい学習や発表学習やバス学習」の形態の批判として述べている論点だが、このような批判自体が問題含みであるということにもなる。
P207「第二に、それ(※授業における訓育)は授業における集団過程のうえに構築される。とりわけ、それはさきにのべたような学習集団の分裂、対立から再統一の過程のうえに構築される。子どもたちは、まず、自他の学習権を擁護し、行使する学習集団としての規律をわがものにしていく。そして、学習集団の分裂や対立が差別的構造として定着することのないように、これらを目的意識的にとりくむちからを身につけていく。」
※ここでは明らかに学習権=生存権的解釈に基づいた議論を展開する。それは「学習することはあたりまえである」ものか「学習することが注入されねばならない」という価値観をもとにした主張である。あくまでも「授業における訓育は、……教授=学習過程のうえに構築されるのであって、特別に徳目主義的、態度主義的な教育内容を授業のなかにもちこんだり、また、学習態度について特別の説教や訓諭をもちこんだりすることによって果されるのではないのである。」とされるが(p206)、それは班競争において見られたようなあまりにも素朴な規範の押し付けを含み混んでいる議論であるという批判に再批判できないのでは。

P209「これ(※自治的集団)にたいして、学習集団のばあい、学習集団の自己指導は一般に教師の学習集団にたいする指導をのりこえてすすむことはありえないし、そのようなことが目的とされるわけでもない。教師による学習集団の指導は、教科内容の指導に規定され、かつそれと並行して展開されるものであるが、このような教師のイニシアティブをのりこえて学習集団の自己指導が前へ進むことは、授業においては許されない。」
P209「なぜならば、学習集団に自治的集団と同じような自主管理を認めれば、学習集団の管理権は教師の教科内容の指導や学習集団の指導のいたるところで衝突しあい、教授=学習過程がいたるところで分断されるからである。また、当の管理権を委託されたものの、いわゆる学習日直は、管理のために力をそがれて学習に全力をあげてとりくむことができないからである。」
P211「それはそれぞれの教科のそれぞれの教材に応じてその一サイクルの過程をなしており、しいていえば、学習集団の分裂・形成・確立のサイクルは授業の一時間ごとにも対応しているのである。」

P215-216「しかし、教師は学級集団が前期的段階に入っていないときでも、学級集団の形成から確立の問題にとりくまねばならないし、学習内容の形成から確立の問題にとりくまねばならないし、学習内容と学習形態をじしんのものとしてとらえ、それにたいして目的自覚的に、かつ組織的にとりくむような学習集団をつくりあげなければならない。したがって、教師は当面のところ、教科内容の指導を妨げたり、誤まらせない程度において、授業のなかに学級集団づくりの方法をもちこんで、学級集団の指導を展開せざるをえない。つまり、教師は当面のところ学級手段の班を授業内の小集団として、班長を学習集団のリーダーとして活用し、授業内での特殊な指導と被指導の関係、討論の二重方式、班内の学習問題にたいするとりくみかたを教える必要がある。」
※これは矛盾であるかもしれないと認めるが、「教科的力量を第一条件とする学級集団のリーダーは、このような自治的集団をバックとしないかぎり、小集団のなかにも、小集団相互間にも教科的なコミュニケーションを組織することができないのである。」とする(p216)これは当然である。だからこそ、p207のような言い方は誤りである。P207では、教科指導の内容のみによって、対立形成や差別構造の除去ができるかのような語りをしている。見方を変えてしまえば、教科指導のやり方は、対立、差別構造除去の方法を内包していないと言い切ることもできるのではないか??この点は竹内の方が素直である。

P223-224「ところが、こんにち、学習集団の形成をはばむ異常な教育体制が学校を支配しつつある。そのひとつは、学校経営の近代化の一環をなす教育課程管理の「近代化」の動向である。それは、学校教育の目標を測定可能な目標に分解し、その目標にもとづいて教授=学習過程を評定、管理し、その結果をまたテストによって同じく評定、管理しようとするのである。具体的には、教科主任が中心になって画一的な教材解釈、学習指導案をつくりだし、画一的な授業態度、授業展開をおこない、それを学年共通のテストによって評定するものである。このために教授=学習過程のすみずみまで管理、統制がおこなわれ、その結果、教師集団の教材の自主的研究、自主編成の方向が閉ざされ、教師じしんがそれぞれの学習集団に応じた指導を授業内で展開できないという事態がひろがっているということである。」
※ここでいう「近代化」の持つ意味はなんなのか?これに加え、能力別編成は「学習集団を差別的に編成していく方向」であり「学習手段としての統一や連帯を追究していくという課題に置きざりにされる」とし、更に「諸階級、諸階層出身の子どもをひとつの集団に組織し、かれらの生活経験、生活認識を交流させつつ、かれらを科学的真理や芸術的真理のもとに統一させ、かれらをひとつの国民にまで育てていくという近代教育の学級理念にまさに反するもの」と批判する(p224)。

P246「つまり、学校教育は、子どもの教育を受ける権利にもとづいて、子どもの集団に自治権を保障するのであり、その自治権の行使を指導するのである。」
P247「自治権を承認するのは、まず第一に、すでにみたように子どもの教育を受ける権利、すなわち、民主主義的人間に発達する権利を充足するためにあり、また、憲法教育基本法の民主的な政治教育の目的を実現していくためである。……あえてこのようなことをいうのは、われわれの実践の内部に児童中心主義的な発想から急進主義的、主観主義的な自治的活動をゆるし、そのために子どもの人間的発達を逆にゆがめている実践的傾向がないわけではないからである。」
※しかし、実際には自治権の剥奪という発想は、当為論一辺倒の状況の中では想定さえされない。
P248「第Ⅰ章で指摘したように、現代日本の国家権力は、(1)憲法国民主権理念を議会主義、多数決主義、法治主義に歪曲することによって、国民主権の全政治的過程への進出をチェックし、かつ、(2)それによって国民の主権行使と主権者意識をねむりこませようとしている。そればかりか、国家権力は、(3)これらの民主主義に関する幻想的な政治的シンボルによって国民をそのファッショ的、軍国主義的路線に従順ならしめ、(4)さらには、その路線に積極的に翼賛奉仕するような忠誠を国民に仕たてあげようとしている。」
※あまりにも説明が足りない。詳細についてはⅠ章でも指摘されていない。P27では「発達した集団にあっては、管理・運営のある部分を代表に委ねたり、専門家に委ねたりする。このことが民主的におこなわれるためには、すべての成員が委ねたことについての基礎的知識と基礎的能力をもっており、これらによって委ねたことを監督し評価することができなければならない。さらに、必要に応じてはいつでも彼と交替する能力をもっていることが必要である。」などというが、これこそ歪んだ能力観と言うべきではなかろうか?専門家をおいているのに等しい能力を国民全てに要求するという状況において、何のために分業しているというのか?ここで想定されているのはほとんど日本の国家権力なるものが「集団のちから」を要請しないような教育を行うことに対する批判「しか」想定していないようにも思える。