竹田青嗣「現象学は〈思考の原理〉である」(2004)

 今回はこれまでレビューしてきたフーコーデリダの議論を相対化してみる意味で、竹田の著書(本書と「現象学入門」1989、「エロスの現象学」1996)を参照してみたい。竹田はフーコーらの議論をポストモダニズムの議論として一括りでまとめているが、私自身は少なくともこれまでフーコーに対して支持的に、デリダは批判的にみてきた。この違いを通して竹田の議論を批判的に捉えてみたい。

 竹田の批判を行うにあたって直ちに指摘されうる点は、ポストモダニズム相対主義(p61)と竹田のいう現象学の議論の違いはどこにあるのかという点にある。竹田のいう現象学的解釈も真理などは存在しないことに同意しているようにしか見えないにも関わらず(p67)、ポストモダニズムの議論との違いをどう説明しているのかという点に焦点をあてねばならないだろう。

○竹田のポストモダニズム批判の本旨について――主客二元論による見方への批判
 この違いとして一つ想定されるのは、ポストモダニズム的な言説が「否定」を行うことに満足し、何ら生産的な議論をしていないことが批判されていると見ることによる違いである。

「これは、〈主観と客観〉の問題は論理上解けないよと言っているに等しい。ポスト構造主義は、〈主観—客観〉図式を脱却するどころではない。わたしたちがふだん使っている〈主観〉とか〈客観〉といった言葉の意味を、もう一度新しい視線から確かめ直してみるという発想ではなく、むしろその図式を前提した上で、およそ認識は不可能だと言うにとどまっているのである。」(「現象学入門」p181)

 確かにそのように読める批判をこのように竹田は行っている。しかし、おそらくそのような見方は、竹田の解釈としては正しくないと思う。むしろ本旨はポストモダニズムの議論が<主観/客観>図式を前提にした議論を行っている点に向けられていると考えるべきだろう。

「人間の「自己中心性の可能性」を「他者」によって批判するというのは、ありうべき誘惑である。それは「自己中心性」の欲望を一挙に否定するものだからだ。しかし、それは人間が生活世界の中で抱く欲望の諸相を、外圧的な理念によって批判することにつながる。それは結局、形式論、構造論的な批判に近づかざるをえないのである。
実存論的な欲望の批判は、構造論的な欲望批判(ドゥルーズフーコーなど)とは視点が逆向きになっている。構造論的な批判は、人間の欲望をひとつの構造、制度として捉え、この「制度」を外在的に(超越的に)批判するが、実存論的な批判は、それ自身の内的な(生きられている)構造に捉え、それ自身のうちに自らのありようを超え出る可能性を捉えるのである。」(「エロスの現象学」p81)

 ここで竹田は(竹田の捉える)ドゥルーズフーコーによる構造主義的な議論が、外在的な批判を展開している点について批判をしている。この批判はいかなる意味で妥当するのか。竹田はこうも述べている。

「フランス哲学会のある例会で、ひとりの現象学者が「他我」問題について質問を受け、彼は当然、他者とは私の主観のうちに構成されるさまざまな世界の妥当のひとつだ、と答えた。すると質問した哲学者はこう切り返した。――私は私があなたの意識の一部に還元されることを認めないし、この場にいる誰もそんな馬鹿なことを認めないだろう――と。
 この哲学者は、現象学は「他者」を自分の意識表象としてしか信じていない、と言って非難しているのだが、現象学独我論であるという批判の多くは、じつはこの頑固な哲学者の意見の域をほとんど出ていない。しかしまた、<主―客>図式を前提にする限り、この非難は当然出てくるものだと言っていい。」(「現象学入門」p159)
「そして、フランスの現代思潮である構造主義、そしてそのあとをつぐポスト構造主義も、それぞれ違った観点からではあるが、いずれも現象学の“独我論”的性格を強く非難攻撃する。」(「現象学入門」p160)

 本書のp221でもポストモダン思想について「人間の意識が「構造化」されている」という前提に立つことを批判しているが、その本旨はその後のページを追っていくとやはり「主客二元論」を前提にすることへの批判をすることがポイントになっているといってよいと思う。

 では、主客二元論に立つことが何故いけないのか。これも説明の一つとしてp155のように「主客二元論に立つと現実言説と一般原語表象を混同してしまい、論理的矛盾が生じるため、現象学における自我論的還元の方法をとることでこの矛盾が解消される」という考え方も採用できるかもしれない。しかし、これも論理的優劣の問題しか説明していないことを考えると、有効性を説明するには弱いようにもみえる。そこで別の説明として与えられるのが、「我々自身の認識に立脚した判断」のプロセスを追うことができるという発想である。
竹田はハイデガーを引用しながら、<主観―客観>図式を批判しつつ、人間はつねに形成的過程にあるものであると述べる。もちろん、竹田はこの議論を支持しているとみてよい。

「ものはただ対象化されるだけの存在だが、人間はむしろ、つねに対象化しつつある存在である。この違いにこそ、事物存在と人間の存在のありようの本質的な相違があることは誰にもわかるだろう。じつはこの点に、人間ともの、〈身体〉と機械、〈主観〉と〈客観〉との間の、存在論的な非対称性、つまり「存在論的差異」ということのカギがあるのだ。ハイデガーはおおよそそのように言う。
人間の存在は、確かにある面では対象的存在として捉えられる。しかし、人間の、つねに対象化しつつ存る存在本性、これは対象としては捉えることができない。つまり〜のためにという観点から、<主観―客観>を等価的、対称的な二項として前提する近代認識論の図式は取り払われる必要があるのだと。」(「現象学入門」p185)

 もう一点、押さえておくべきは人間の「エロス的原理」に対する現象学の射程についてである。P246に見られるようにエロティシズム(これはしばしば「エロス」という同じ意味で用いていると考えてよいだろう)のありようは、「現象学的方法によって探究されるべき本質領域である」とみなされているのである。もっとも生物は全てエロス原理を持ち合わせているとみなされているが(p199)、動物はこれが「生理的にほぼ一義的な限定をうけてい」るのに対し(p211)、人間は「価値対象性」によって規定され「幻想的」性質をもったものとみなされる(p211)。確かにこのような「エロティシズム」の欲望論は、主客二元論的発想からは捉え難いものであると、という見方は「あながち」間違いとは言えないだろう。

 しかし、ここであえていくつかこの主張の正しさについて確認をしていきたいと思う。この議論が正しい(ここでは、主客二元論よりも優れている、という意味)と言うためには、いくつかの条件をクリアしておく必要がある。

1:このようなポストモダンニズム批判自体が「正しい」と言えるものなのか。
2:ポストモダニズム的主張自体は、何故選択されたのか?(この主張のメリット、現象学のデメリットとは何とみなされてきたか)
3:仮にポストモダニズムの議論が「正しくない」と言えたとして、現象学的な見方が「正しい」と言えるのか?

○竹田のいうポストモダニズム批判という括りは妥当なのか?
 1について。竹田のいうポストモダニズムの議論なるものも、結局否定的でなければならない絶対的な状況が想定されており、その意味で一つの価値判断に基づいていると言うことができる。確かにデリダの議論については、私自身もこれを「贈与」をめぐる態度の取り方においてそう読むしかないと考えた。つまり、デリダは贈与についての議論において、「反対贈与」がなされない贈与(純粋な意味での贈与)は少なくとも認知ができないものであるとみなしていた(cf.デリダ「他者の言語」p79)。デリダは贈与の条件に「現前」と言う言葉を用いるものの、この言葉の意味を矛盾なく説明することは私にはできなかった(この矛盾について「幽霊」と言う言葉の用法と絡めて説明をした)。結局それは「どちらともとれる」形でしか捉えることができないため、私はこれに「複数性の担保」という価値判断があると判断したのであった。そして、このような価値判断を前提にして、これを否定しようとすることは、それが「前提」であるがゆえに無意味なものとされるのである。この限りにおいて、竹田の批判はデリダにおいては正しいと私は考える。
 しかし、フーコーについては、私のレビューの中でこのような贈与の可能性自体が否定されるような議論をしている訳ではないとみなしてきた。フーコーのいうパレーシアの議論は真理をめぐる議論として、<他性>なしには真理が成り立たないと述べる(フーコー「真理の勇気」p429)。一つは私自身が魂への専心を行っていく過程の中に真理性を見出す「他界」において、もう一つは私自身が他者であることを他者に示しながら<存在>をめぐる問題(これは哲学的生の問題とも言い直される)を「別の生」として提起することによって(cf.フーコー「真理の勇気」p300)、達成されるものとされていた。この「偽りなく語る」パレーシアというのは、具体的な「他者」に向けられる言葉であり、ここでの「真理」とは、その具体的な他者にとって真理であり、かつ私にとっても真理であるとされるようなものであると言えるだろう。この前提自体はそのまま「具体的な他者なしには真理はありえない」という命題を真にする。しかし、このパレーシアの実践について、ソクラテス的なパレーシア、キュニコス派のパレーシア共に「キリスト教的なパレーシア」とは異なった「非現前性」(フーコーの定義によればこの「現前」とは、「過渡的な状態、変化し続けている状態を排した、確定した状態」を指すと解すことができた)をことさら重要とフーコーは捉えていたといえる。この限りにおいて、「具体的な他者なしには真理はありえない」という「価値判断」は留保されることになるのである。
 また、p221のような物言いはフーコーには妥当しない。フーコーはむしろこのような拘束性に対してつねに自由でありうることを繰り返し述べてきている。

「——ギリシア人たちなら魅力的で納得のできる別の選択肢を提供してくれると、あなたはお考えなのですか?
——いや、違います!私は代わりの解決策を求めているわけではありません。何か或る問題の解決策を、違う人々によって別の時代に提起された別の問題の解決策の中に見出すことなどできません。私が書こうとしているのは、解決策の歴史ではないのです。
私の思うに、なすべき作業は、問題化の、そして絶えざる再問題化の作業です。思考を固定化してしまうもの、それは、暗黙裡にあるいは明示的に一つの問題化の形式を是認し、人々に受け容れられる解決策に取って代わりかねない解決策を求めるような態度です。ところが、思考の作業に何らかの意味があるとすれば――諸制度や諸コードを改革することに存する作業とは異なって――、それは、人間たちがみずからの行動を問題化する仕方を根本から捉え直すことにおいてです。……思考の作業とは、存在するものすべてに密かに住みついているかも知れない悪を告発することではありません。そうではなく、それは日常的なもののすべてにおいて脅威を及ぼしている危険を予感すること、そして堅固なもののすべてを問題含みのものにすることなのです。」(「ミシェル・フーコー思考集成10」2002、p73-74、インタビューの内容からの引用)

 フーコーは自身の系譜学の分析を何らかの「解」として理解されること(これは恐らく竹田のいう「真理」と同じなのではないかと思う)を極度に避けていた。「解」なのではなく、それは「再問題化の作業」、つまり、どのように主体が自由の諸実践を行ってきたのかを示す中で、いかなる生がありうるのかを繰り返し問い返すことであった。

「私がしりぞけていたのは、――たとえば現象学実存主義がしがちなように――主体の理論があらかじめ前提にしてしまうことなのです。そして、この主体の理論から出発してたとえば、ある形式の認識がどのように可能なのかという問題をたててしまうのです。私があきらかにしようとしたことは、主体はどのようにして、ある限定された形式において、狂った主体ないしは健全な主体、非行者の主体ないしは非行者ではない主体として自分自身を構成するのか、ということなのです。そして主体は、真理のゲームや権力の実践などのいくつかの実践をとおして、そのような主体としてみずからを構成する。だから私は,ある種のアプリオリな理論をしりぞけなければならなかった。それは、主体の構成つまりさまざまな形式の主体と、真理のゲームや権力の実践などのあいだにありうる諸関係を分析できるようにするためなのです。」(「フーコー・コレクション5 性・真理」2006、p313)

「――区別することが必要です。第一に、たしかに私は、主権をもった創設的な主体、偏在する主体という普遍的形式は存在しないと考えています。私は、主体のこうした考え方に対してはとても懐疑的ではっきりと反対です。私は逆に、主体は従属化の諸実践を通じて構成されるものであり、あるいは、より自律的な仕方としては、古代におけるように、解放の諸実践、自由の諸実践を通じて構成されるものだと考えています。もちろんそれといえども、文化的環境において見いだされる一定数の規則、様式、慣用を通じておこなわれるわけですが。」(フーコー・コレクション5 性・真理」2006、P343−344)

 竹田は明らかにフーコーの批判を「言葉と物」における「構造主義」と一般に位置付けられた発想に根拠を置いており、人物フーコーを批判するには非常に参照が足りないと言ってよいだろう。ドゥルーズ、はたまた全面的に否定はしていないものの、メルロ=ポンティなどに対してもポストモダニストとして位置付け、それらを全て批判しようとする態度自体が私には欺瞞にしか見えない。
 もっと言えば、デリダの見方についても、必ずしも正しいと言えない余地もあるのではないだろうか?結局私がデリダに対して与えた評価というのは、「否定的な議論しかしていない」ことについて、直接デリダ本人が「およそ認識が不可能」などと言っている訳ではなく、論理的な結果として「そう読むしかない」と判断したにすぎなかったのである。これは見方によっては、私自身の不十分な価値判断にしかならないという反証可能性は残っているのである。

 これに関連するが、竹田は「現象学入門」でデリダの「声と現象」の一引用をもとにして次のように述べる。

 「デリダが言うのはこういうことだ。フッサールは<ありありとした現在>の明証性が一切の「認識の正当性の源泉」だと言うが、そもそも<ありありとした現在>などというものは、時間的には一接点でしかない。この現在とは、その直前、そのまた前の時点での知覚直観の<再表象>が加わっているのでなければ、とうてい成立しがたいのではないか。
 とすれば「ありありとした現在の明証性(=現前)」は、すでに「再現前」によって先構成されていることになる。現象学は<還元>によって明証性の最後の根拠(起源)をとり出すというが、それは論理的に不可能である、と。」(「現象学入門」p180)

 ここでいう「再現前による先構成」とは、私が指摘した「幽霊」の議論における「あらゆる決断は幽霊を内包する」(cf.デリダ「法の力」p61-62)でも全く同じように見出すことができるといえるだろう。まさにこのような先構成があったからこそ、デリダのいう「現前」が循環的論法となり、定義されていないとみなせた一因だったのである。そして竹田はこの議論をもとに、先に引用したp181の「およそ認識は不可能だと言うにとどまっているのである。」という結論を導いている。しかし、よく考えてみると、竹田の議論も私のデリダへの見解と全く異なるところがあるように見えない。そもそも竹田のいう「現象学」もまた、「絶対的な真理が存在しない」ことを前提にしているのであり(p67)、このような議論「だけ」を取り上げてデリダの議論を否定してみせるのは、そのまま竹田の「現象学」の批判にしかならないのである。このような論点から<主観―客観>二元論を前提に置いていることを見出し、それをもって「現象学」との優劣を判断しているという議論のレベルに留まる以上、結局竹田も「解釈」のレベルを抜け出して、デリダを批判しているようには見えないのである。

 このような議論を展開していくと、このような議論よりもむしろ「結局ポストモダニズムは、その手法によって何をしたかったのか?」という問いもまた重要になってくるのではないかと思う。竹田はこれに対して「非生産的」というレッテルを貼りつけているが、そのようなことはフーコーはもちろんのこと、デリダに対しても妥当するか、かなり疑わしいように思える。そこで2.の論点が問題となってくる。

ポストモダニズム現象学が何を捉え損ねたと捉えてきたか?
 2.ついて、ポストモダニズムがその議論のメリットとして感じたことは何だったか。
 例えば、精神分析が見出した「無意識」である。これはフーコー現象学では見いだせない論点であると述べている(ミシェル・フーコー思考集成9、p304)。主体論における「躓き」、つまり「今の私」と「なりたい私」とのズレをめぐる問題について、精神分析はその説明として「無意識」の考え方を採り入れた。精神分析の「病理」解釈はまさに主体論の躓きに基づき、主体化できなかった無意識との対話を試みようとする。このような解釈は、現象学的な理解では導き出せないのではないかという論点である。
 また、デリダが提出した「誤配」の発想も、突き詰めれば矛盾した言明をデリダはしていたように思えるが、発想自体は擁護しうるし、これも現象学が捉えることができるものなのか議論の余地がある。デリダの誤配は、特に郵便/メッセージの送り手の死によりメッセージが確定しないような場では回避不可能としている点である意味問題もある。しかし、基本的にはそのようなレベルまでつきつめるまでもなく、些細な「誤配」についてありふれているものだという認識はあまりにも正しく、これを深く自覚しておくことについても何ら問題はないはずのものなのである。そしてこれはしばしば竹田の想定するような「宗教的対立」といったものとは違う次元での「意見の不一致」の説明原理たりうるものである。
 竹田のポストモダン批判は、ここでいう表面的な有効性については全く無視しているし、この誤配の可能性も現象学的な主観論に留まる限り、見出すことは不可能である。恐らく現象学的アプローチは、この誤配もエロス原理によって説明しようとするだろう。しかし、「誤配」自体はエロス原理のような有機的な意味合いを含んでいるのか議論の余地のある性質のものであるため、結果としてその性質を否定してしまうだろう。

○「真理」と「絶対的明証性」の差異について
 しかし他方で、フーコーの引用が前提としていた「現象学」という言葉は、「主体」ありきの議論をしているという意味で、竹田の理解とマッチしていない部分があり、そもそもここでの「メリット」は機能していないのでは、という再批判が考えられる。竹田の関心もまたフーコーの意図していることととても似通っているように見える。ただし、竹田はフーコーのような分析枠組みにおいて、エロス性を押さえることはできないと述べている点で、結局フーコーがやろうとしていることはフーコー自身の枠組みでは捉えることはできない、と言っていることになるのである。
 これは意見が割れる論点だろうが、そもそもこの優劣の問題は、実際の分析の場においてしか比較できないのではないのだろうか、とも私には思えてしまう。そして、実際に竹田がこのような現象学の枠組みで語ろうとしている、本書のp107-108や「現象学入門」p156のような語り口というのは、私自身どうしても同意ができないのである。引用しよう。

「さて、竹内はフッサールの「絶対的明証性」という概念を、「いつも一切の真理を構成する」もの、と受けとっているが、これなどもよく出回っているまがいの現象学理解である。
フッサールの「(絶対的)明証性」とはどういう概念だったろうか。さしあたって言えば、ある事象の現実性が〈意識〉にとって疑えなくなるような最終的根拠のことだ。」(「現象学入門」p155-156)
「論理的には、いくら明瞭な記憶があってもそれだけではその記憶が絶対に正しいことの根拠とはなりえない、と言うことができる。しかし、生活世界においては、誰であっても、いま見たような心の状態を持てば六時という約束が正しいことをそれ以上「疑えなく」なる。たしかに六時だったという確信がいやでもやってくる。だから「だから「明証性」とは、〈私〉がさまざまなものごとを「正しい」とか「ほんとうだ」とか思うことの、絶対的で「必然的な」根拠である。」(同上、p157)

 竹田はまずp107-108の部分で、我々人間が一つの「判断」を行っている「事実」について、それをそのままその成員の内的な「確信」へと直接結びつけてしまっている。しかし、これは竹田の言う程自明なことなのだろうか??ここには「政治的な妥協」といった形で、「確信」とは異なった一種の「合意」の可能性があらかじめ否定されており、どのような議論においても「確信」的な「合意」が形成されているものであると断言しているのである。これは明らかな誤りであると述べることはできないが、少なくとも具体的なケースに当てはめて、本当に「確信」がされているのか議論されねばならないのではないだろうか。
 また、「現象学入門」p156について考えてみると、確かにこのようなケースにおいては発言者がその場にいるような「対話」の場面においてはパラドクスが発生する可能性を考えること自体がほとんどナンセンスであるように思える。しかし、これが文字を介するなどして、「発言者」との意味調製を行うことができないようなケースにおいては自明ではないし、情報(そのパラドクスが語られているコンテクスト)が少ない程パラドクスに陥る可能性は高まるのである。「作者の死」の場面では、パラドクスが起こりえないなどと言えないのである。(※死んだ人などどうでもよいと言う発想はどう考える?)
 
 竹田の議論はこのような形で「私」が「確信」する状況を操作的に取り出そうとしている印象が強い。もちろん、これは動物との対比によって人間性をとり出そうとするときにも、同様の「うさんくささ」が出てくるのである。「現象学入門」p157では、フッサールの議論を「絶対的真理」を構成するものとみなした点が批判された。恐らくは、竹田は竹内芳郎のいう「真理」の議論を「他者にも等しく正しさを与える」という意味で捉えているし、実際に竹内の著書を引用した部分では(竹内芳郎「具体的経験の科学」、頁数は不明)竹内はそのような解釈を行ってしまっていると言ってよい。

「そして彼(※フッサール)が生涯賭けて追及したのは、いつも一切の真理を構成する必当然的な絶対的明証性であって、そんなものは科学の世界にも、また生活世界にも、また他のどんなところにもありはしないのだということに、彼は最後まで気づかなった(あるいは気づこうとしなかった)。」(「現象学入門」p154-155、竹内の著書からの引用部分)

 しかし、全てのポストモダニストが竹内と同じような「真理」の解釈をしているのかどうか、という論点については、それぞれの論者の言い分を取り上げ、批判すべき内容ではなかろうか?特にフーコーにおいては、これは正しいと言えない。
確かに、これまでの私のレビューの中で、フーコーの「真理」観に関して言えば、竹田の言い分が誤りとはいえない。フーコーは「他者との関係性なしに真理はありえない」という立場に立っている。他者との対話の中から私を確認することこそ、フーコーの「真理」の定義である。フーコーの権力論(真理論も同じだが)はミクロな権力に焦点をあてているとよく言われるが、このミクロの権力論自体は、いわゆる「生活世界」、竹田のいう現象学が重要視する領域をも対象にしているように思える。竹田は「素朴」な確信を現象学においては中心としているのであり、「真理」といった意味を構成するものではないと言いたがっているように思えてならないが、これは「真理」の定義の与えられ方によってかなり意味が変わってくるのではないか?結局、フーコーの「真理」観は、ミクロな(その場に対峙した)他者との真理のゲームを行うという意味合いを持っているのに過ぎず、それが世間、社会、「自然の摂理」といったレベルでの「真理」を構成するものであるとは必ずしも限らない、という立場を明確にしている。

 この両者の違いについてどう考えればよいか、そして竹田は両者の違いをどう考えていたといえるか?竹田は両者の違いについて、結局「ポストモダニズム」の側の現象学の解釈こそが、絶対的明証性を絶対的真理と結びつけていると述べているように思える。そしてp75に述べられているように、現象学の根本問題である認識問題において、絶対的なもの(真理)の前提を取り除かなければ、「世界観」の対立関係の克服にはならないと言っているに過ぎないのである。この説明で私などは、以前レビューした「理念型」の話を思い出したが、むしろ竹田のいう現象学的な立場から言えば、ヴェーバーが述べていたように「理念型」に「意欲する人間」の意欲そのものは混同してはならず、カッコ付けしなければならないと解釈できるように思える。しかし、この態度自体はポストモダニズムの発想においても、その「価値判断」がされない限りは、つまり「単一な理念型で説明することはできない」ことを断言することによって「単一な理念型が存在しうる」ことを排除しない限りは、共有しているものである。この点から見ても、フーコーは全く「価値判断」を行っていると言い難い(と私は読んできた)。ある意味現象学の「デメリット」はポストモダニズムの側から十分説明されていないと言えるかもしれないが(ただし後述する竹田の「エロス性」の擁護の仕方自体が「デメリット」なのではという見方はありえるだろう)、このような極端なポストモダニズムのひとまとめにした把握については非常に違和感を覚える。


 最後に3.の論点についてだが、これについては2つの論点から疑問を付しておきたい。
現象学的アプローチで排除される人間の存在
 P11にあるように、竹田の議論の出発点は、二重の視点、自己の中に「他者」を持つ者であることが大前提となっている。このため、このような他者についての視点を持てない人間がいる可能性には視野に入ることがないのではないか。十川幸司のレビューで確認したように、「自閉症」というのは、このような他者の目線を持っていない人間の境界的なケースとして、精神分析の議論では持ち出されている。彼らのような人間を竹田はどう考えるのかが、この現象学的アプローチからは見えてこないのである。下手をすると彼らは排除されかねない。
 特にこれは竹田が「自我論的還元」の誤った説明を批判する際に問題となりうる(p33)。結局竹田はここで誤った「自我論的還元」の考え方にある私にとっての世界を消去するという発想自体が誤りであると述べているように思える。竹田にとっては、私の世界を消去するということが仮にありえたとしても、それは他者の世界と同時に消失するような性質のものであると考えるであろう。これはそもそも人間は「私としての目線」と「私の中にある他者の目線」を同一のものとしてとらえる(これが竹田の現象学的アプローチの前提である)ことから導き出せる批判なのである。この批判は現象学的アプローチが普遍的な正しさを立証するプロセスにほかならないように思えるのである。
 また、この排除はp212のような動物との対比で人間を定義付けようとする際にも見られるといえる。そもそもここで述べられている「世界の限界」というのは、個別のケースによる側面が強く、明確な分割は困難である。実際、泳ごうとするのをあきらめる人間も当然いれば、泳ぐことのできるライオンも存在する。そのような例外事例だけをとってしまえば、ライオンの方が人間よりも世界の拡張という観点から優れていると言えてしまう。だが、もちろんそう実際に言われることはない。何故だろうか?
 これは竹田の議論に総じて言えるが、竹田の言う現象学的アプローチというのは、「本質学」であり、根源的事実ではないのである(p246)。しかし、ここでいう「本質学」なるものをどう捉えるのかが難しいのである。ここでの「本質」とは、「概ね妥当である」ということに過ぎない。つまり、人間とライオンの比較についても「概ね妥当」ということである。これは結局現象学もまた「絶対的は真理は存在しない」(p67)と考えていることから当然の内容である。しかし私が気がかりなのは、本質学としての現象学が何らかの見解を批判する際の態度にある。批判とはある主張の排除を行うことに他ならないが、現象学がよりかかる「概ね妥当」という価値でもって批判するのは妥当なのかどうか、という点は議論の余地はあるし、私はむしろ妥当と考えない立場なのである。それは批判する主張(本書ではそれが、ポストモダニズム的な議論に対してである訳だが)を排除する必要性を感じないからである。論者が否定するのではなく、読者が判断すれば十分であるように思うのである。
 当然このような「本質学」の曖昧さは多分の誤配される可能性にも目を向けねばならないだろうし、論者である竹田自身もそれをしっかり了解しつつ、議論を展開すべきかと思うが、どうにも本書からそのような配慮があるとは感じられないのである。

 もっとも、このような現象学的アプローチが我々の社会にとっての善を考える上で重要なアプローチでありうるという点は認めてよいと思う。特に人間の確信や信念の構造を押さえること(p62)、それが致命的な対立をしている者相互の分析からなされ、相互承認のためのルールの模索につなげていくこと(cf.p69)は非常に重要かつ建設的な議論であるように思う。私が述べているのは、それがあくまで方法論の一つにすぎないことを明確にしなければ、不必要な排除の原理を伴う価値判断と機能してしまうという点に限る。

○「エロス」原理による分析を行おうとする現象学は主客二分論を回避していると言えるのか?
 そしてこの「人間の確信」を捉えることについて、「エロス原理」との関連から議論しようとしていることが、私にはどうしても「うさんくさく」見えてしまうだけである。これはその定義付けをめぐるうさんくささと、そのような原理を採用せずとも、人間間の対立関係等に対する理解を深める方法はあるのではないかということ(これは、ある意味でフーコーの議論の仕方が典型例とみなせるだろう)という点に尽きる。
 
 では、実際の所、「エロス」はどのように語られているのか。本書以外での使用部分を列挙してみる。

「純文学とエンターテイメント文学、芸術音楽と大衆音楽、伝統的な絵画とポップアート、こういったカルチャーとサブカルチャーとの伝統的な境界線はますますあいまいになってくる。このあいまいさは、文化と社会の〈聖/俗〉の距離が小さくなっているという事態と相関しているが、こういう局面で、文化が人間をひきつけるのはその特別な世界への見方によってではなく、いわばエロス・イメージとしてなのである。
現在のカルチャー、サブカルチャーのありようは、一般社会に、ある特別の見方、特別の表現を提示するというより、ある新しいもの、華やかなもの、価値あるものがここにあるというエロス・イメージを提示する。それを裏返して言えば、最新の文化のモードにこの社会における、よきもの、価値あるものの源泉がある、という一般的な感受が成立しているということだ。このとき文化は、エロス・イメージによってひとびとを誘惑するような力となったのである。」(「エロスの現象学」p203-204)

「<意識=心>はある意味でつねに自分自身についての<知>(対象化能力)である。もしそれだけなら<意識=心>はまったくの独我論的世界だろう。しかしこの<知>にはつねにすでに自分自身についての<非知>(自分の<気遣い>がなんであるかをあらかじめは知らない)を孕んでいる。この<非知>てゃ、一方で自己の自由な表諸能力を超えて、つねに現われ出る新しい対象(知覚直観、本質直観として原的に与えられるもの)であるが、もう一方でそれは、その対象の意味を通してのみ了解される自己の<気遣い=欲望>のありようである。またしたがってこの<非知>は、それ自身が対象に向けられた覚(=エロス的能力)でもある。」(「現象学入門」p200)
「人間が生きるとは、まず自分の生の関心(志向性、気遣い)があり、それに応じて、現われとしての世界がさまざまな意味の変様体として“開示”されるということだからだ。」(同上、p199)

「だがここでひとつ大切なことがある。それは月面探査船の場合はあらかじめ一定の目的を与えられているが、人間という探査船では、この目的があらかじめは与えられていないという点だ。人間はどのように生きるか(行為する)を、そのつどの対象世界の意味の現われに応じてのみつねに新たに設定することができるだけだからだ。
 つまり、<主観>という探査船は、世界の現われによってのみそのつどの自分の<気遣い>(=欲望、目標)のありようを自己了解するのだ。そしてまさしくこのこと、<主観>はあらかじめ特定の目標設定を持たないということ(自分の<気遣い>の何であるかを知らない)こそ、人間にとって世界が無限の意味として開かれており、そこでさまざまな疑いや確かめがなされることの根拠なのである。」(同上、p196)

 このようにしてエロスは定義されており、「知」と「情動」の分離という問題と「知」と「エロス」の問題を並行に語っている節もあり、「情動」とも密接に関連したものとされているといえる(「現象学入門」p205-206)。このように定義される「エロス性」というのは、「具体的な意味」を付与することはできない性質のものである。そしてそれは同時に人間にとっては特別な意味合いで存在しているものとみなされる。
 しかし、p131のような説明はそれ自体矛盾を期待していると言わねばならない。これは、私自身の発想がポストモダニスト的だから、と言われてしまえばそれまでであるが、結局宇宙人が行うゲームと人間が行うゲーム(これは人間が他の動物のゲームを一緒に行う場合でも同じかと思うが)において人間が楽しめない理由は、エロスの問題では呼べるのだろうか?むしろただ単に宇宙人のルールを我々が理解できない以上のものではないのではなかろうか??
ここに掛け金とされているものは、いわゆる「暗黙のルール」が「非知」的に作用し、それが人間のエロス性(=幻想的身体性??)となるのかどうかという点にある。しかし、竹田が行わなければならないと述べているような「価値」の相違の説明をもし行うのであれば、よく考えればそれは「知」としての説明を行うほかはなく、その「知」的な説明というのは、あくまでルールとして記述されるものだからである。つまりそれは「非知」を捉えたことには全くならないし、むしろ捉え損ねてしまうことにしかならないのではなかろうか?そして、エロス性の分析によりそのルールを知れば、その相違を超える可能性があるのであると竹田は述べた。しかしこれは言い方を変えれば、人間と宇宙人がわかりあえないのは、エロス性如何の問題ではなく、「ルールを理解していない」と述べているのとまったく同じなのではないだろうか?現象学があくまで分析的なものであるという言い分をするのであれば、直ちに主客二元論を非難する道理はないと考えるのは、結局「知」そのものが排他的な「対象化」を伴い、主客を分離してしまうものだからである。したがって、主客二分論の手法をとっていることそのものについて批判をすることは、突き詰めてしまえば現象学的アプローチに対する立証可能性までも否定しているのと同じとなってくるのである。つまり、「エロス性」に基づいた行動原理なり、意識なりを説明しようとしたとしても、それは説明できない、正しくは説明し尽すことは「エロス性」の定義上否定されてしまっているがために不可能となっているのである。
 にも関わらず、竹田のような議論はそのような「差異の不在」を認めようとしていないように見えてしまうこと、それこそが現象学的立場の問題だ、ということはやはり主観論に陥ってしまっている、という形で批判されてしまうのではないだろうか?特に竹田の議論は現象学的な分析によって、人間の対立構造についての説明を具体的には行っている訳ではなく、あくまでもメタな領域に留まり、その正当性を訴えているに過ぎないのである。しかし、それは具体性がないからこそ、「エロス性」を擁護可能なものにしているに過ぎないのではないのか、と言えないだろうか?少なくとも私にはそのようにしか見えてこないのである。この議論を正当化するには、結局ポストモダニズム現象学などという対立関係から正当性を語るのではなく、具体的コンテクストの比較から、現象学的アプローチの有効性についての具体的議論を積み重ねていくことしかないように思うのである。

○日本のポストモダニズム受容そのものの批判でしかない可能性は?
 最後に蛇足となってしまうが、羽入辰郎をレビューでみてきた「ヴェーバーヴェーバーの解釈者(研究者)の関係」をめぐる議論である。正直な所、竹田の批判にもこのような傾向が強いようにどうしても見えてしまう。つまり、竹田が批判しているのはデリダフーコーなどが直接言明した議論なのではなく、それを解釈した日本のポストモダン思想の支持者たちだったのではないのか、という論点である。
 
「日本におけるポスト・モダニズムの源泉は、何と言ってもジャック・デリダミシェル・フーコージル・ドゥルーズというフランス現代思想三人衆である。……八〇年代を通じて日本における批評と思想は、瞬く間にこの新しい思潮一色に染まってしまった。」(「エロスの現象学」p353)

 もちろん、この仮説は、羽入の時のようなヴェーバー研究者に対する露骨な批判が明確に見て取れないため、棄却されるべき内容であるだろう。しかしながら、とりわけフーコーの議論が「言葉と物」から「監獄の誕生」あたりまでで議論されていた「構造主義」、権力論の解釈を一歩も超えることなく(とりわけ、「性の歴史 第1巻」では十分に読み取ることが可能な、権力の位置付けの双方向性といった観点を無視した)議論をしている点からは、ある意味でそのような通俗的な(日本のポスト・モダニズム論における)フーコーの枠組みを継承したまま、それらを批判している傾向がどうしても否めないのである。
 人物批判という枠組みは非常に難しい。私自身の基本的なスタンスもその意味では私自身が参照した文献のみを対象として、その議論を批判するというスタンスを取るしかなく、私の読んでいない著書における論点をフォローすることはできないのである。これを回避するためには、過度な一般化を避けていくことしかないだろう。そして、もし一般化の試みをするならば、それに見合った検討を加えていかなければならないだろう。もちろん、対象とすべきもの(人物)から直接考察を行う過程の中から、である。


<読書ノート>
p11「誰も「自分の生」という世界から抜け出ることはできない。しかしもう一方でわれわれは、自分の視線から距離を取り、自分と世界全体を一つの客観的な関係として眺める視線をもっています。この対象化する視線は、人間の観念本性的能力で誰でもそなえているものです。つまり「実存の世界視線」と「客観化の世界視線」の二重性ということが、人間の世界像の基礎をなしている。このことは理解できると思います。」
※まずこの主張から理解できない。この説明では排除が正当化される。これは理念型にすぎないという批判の仕方は可能かもしれないが、そもそも人間という概念事態が個々を尊重すべきであるという含みを持っているわけであるから、理念型だからといって排除が正当化されないと、「人間」の概念から考える者からは当然批判がありうるだろう。理念型的把握と個性の尊重とは、対立関係に容易に結びつく。
P15「しかし現象学のエッセンスは、われわれを「生きられている生活世界」に立ち戻らせ、そもことで普段われわれが意識することのない「自分自身を可能にしてくれている条件」を明るみに出すことにある。このことでわれわれは、かえって自分自身が「世界」と「歴史」に内属しているその本質的なゆえんを深く理解する」
※ここでいう「歴史」への内属性とはどのような意味か?

P33「この(※平凡社哲学辞典における現象学的還元の)解説では、「自我論的還元」では「私にとっての世界」が還元されただけで「他者たちにとっての世界」は還元されずに残ることになっているが、これは間違い。「自我論的還元」は事物の存在確信についての還元で、「間主観的還元」は、主体としての他者の相互的存在確信についての還元。フッサールの構図は、われわれがもっている「客観世界」という自然な確信は、単に自分にとっての世界の存在確信だけではなく、他者たちもまたこの世界を客観的なものとして確信している、という自分の確信によって強められ確実なものとなる。というものだからだ。」
※おそらくこれはp11を前提にするから誤りだと指摘されているものと思われる。

P61「現代のわれわれの思考は、図式としては第三のニーチェ・モデルにますます近づきつつまります。この考えは、思考の類型としては、「真理」など存在しないとという懐疑主義相対主義ということになります。しかしこの思考には大きな弱点がある。それは、この言い方では「普遍性」の概念が成立せず壊れてしまうということです。」
「真理」という概念は現在では廃棄されても不都合ではありませんが、「普遍性」の概念は別です。たとえば自然科学の知見はあきらかに普遍的なものですし、われわれの「人間」や「文化」や「善悪」「美醜」といった概念は、絶対的なものでは決してないけれど、大枠の普遍性をもっています。相対主義ではこのような現象をまったく説明できなります。」
※ユニバーサルなものとは真理ではないのか??また、相対主義の範囲を不必要に拡張している嫌いがある。後述のフーコーの捉え方が典型的。
P62「しかし、「確信」であるからには、それぞれがその世界観を確信するにいたる「条件」があるはずです。なぜなら、人間の「確信」や「信念」というものは、けっして恣意的なもの(単なる思いこみ)ではなく、必ず一定の構造的条件をもつものだからです。」
※ここでの問題は必ずしもわれわれの世界は確信により成り立っている訳ではないという点。ここでは事例として確信さの対立について議論している訳だが、そうでない場合についてはわからない。私の言語系では、この「確信」とは普段我々が行う判断、「価値判断」の総称である。

P67現象学においても「「絶対的な真理」というものは存在しない。」とされる
P68「(4)しかし、この認識領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理が現われる。すなわちそれは、世界観、価値意識の「相互承認」という原理である。」
P69「(5)ここから、異なった世界観、価値観の間の衝突や相剋を克服する原理は、ただ一つであることが明確になる。すなわち、それらの「多数性」を相互に許容しあうこと、言いかえれば多様な世界観、価値観を不可欠かつ必然的なものとして「相互承認」することだが、この世界観、価値観の「相互承認」は、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠とする。「自由の相互承認」が各人の相互的心意によっては確保されず、「ルール」を必要とするのと同様に、世界観と価値観の「相互承認」も、その確保はルール形成によってのみ可能となる。」
※しかし、これは生活の条件を平等化しようとしていることを大前提にした発想である。また、このルールとは何を指すのか?

P75「現象学の根本問題は認識問題です。つまり「世界観」についていくつかの信念の対立が生じたとき、どのような考えでこれを克服できるのか、ということです。原理はただ一つだけです。われわれが世界観についての信念を絶対的なものとして「前提」するのを止め、なぜそのような信念が成立したのか、という信念成立の条件を遡って問うという方法しかありません。このときはじめて、どれが正しい(客観的な)世界観かという問いは終焉し、世界観の多数性の本質的理由が明らかになるからです。」
※これを「現象学的還元の発想」ととらえる。
P76「それ以上の余計な説明は不要であり、むしろ還元の概念を混乱させるだけです。ですから、「超越論的主観」や「純粋自我」は可能か否か、といった問いはまったくのスコラ議論なのです。これらの問いの意はつまり、“厳密な還元は可能か”ということですが、このような問い自体、まさしく還元ということを“真理主義的”に思考しているために現われたものです。」
※この問いがスコラ議論だとしても、根源の問いのプロセスに着目した(竹田のいう)現象学的解釈が自明の問いとして成立することとは関係がない。

P87「さて、現象学という方法の根本的な意義についてはこれくらいにしておきます。何より重要なのは、深刻な世界観の対立、信念の対立が生じたとき、これを克服する本質的な原理として現象学は構想されたということです。ここに現象学の根本動機があります。」
P90「ラカンフーコー構造主義
P97「社会主義国家の原理は違います。ここでは政治権力の根拠は「理想理念」です。このような政策こそ万人を幸せにするはずだという一つの政治的理想がその正当性の根拠であり。いまは万人が賛成しなくても、いずれそのことが実証されて人々はこれに賛成するはずだ、という考え方です。この理想理念によって、使命を感じた人間が前衛党を作りその組織を正当化されるわけです。」

P99「したがって、この自己再編的な「絶対的システム」に対して、いわばどこまでも「回収されない否定性」を対置すること、こういった構えが対抗思想としてのポストモダニズムの思想的エッセンスとなります。ジャック・デリダが提唱した「脱構築」というキーワードが一時ひどく流行しましたが、まさしくポストモダニズム思想の特質をよく表現しています。」
フーコーの「微細な権力の網の目」の話を参照して述べている部分だが、この主張はフーコーに妥当しない。
P100-101「いまから考えると、この思想は、きわめて思弁的な性格を含んでいたことが分かります。それは高度資本主義社会の人間の微妙な閉塞感を表現するいわば“文学的”な思想であり、現代社会とその制度的現実に対して「精神の内的自由」を対置する、徹底的な「否定性」の、ヘーゲルの言葉では徹底的な「イロニー」の態度の現代的な表現でした。規範と制度で凝り固まった愚かしい現実社会とその諸制度が人間を圧迫しているが、自分たちはあくまで否定性を貫いて内的な精神の自由は確保したい、ここにポストモダニズム思想のややロマンティックな本性があると言えます。だからそれは、現実社会を改変してゆく新しい明確な展望を打ち出すという点では、明らかな弱点をもっていました。」
※この見方はまったく逆の事実に基づく可能性はないだろうか?つまり、社会の影響力があまりにも大きくそれが改変不可能であることが了解されていく中で生まれてきた思想こそがポストモダニズムなのではないか、という系譜の可能性である。

P106「たしかに、ハーバマスの「対話的理性」の思想を少し単純化して言えば、同じ人間としてとことん誠実に対話を重ねれば必ず合意を取り出せる、というわけですから、そうとう理想主義的、規範主義的です。そんなことはありえない、と直感的にわれわれは思うし、とくに「徹底的な否定性かっこを身上とするアイロニストはそうです。」
P107「しかし、にもかかわらず、ハーバマスの思想には考えるに値する重要な直感があると思います。」
P107-108「しかし一方で、たとえば、「戦争」とか「教育」とか「政治的不正」とか「若者の犯罪」とかいった問題について、大学のゼミや公的な委員会などで議論するような場合、われわれはそのような問題について、どれだけ話しても妥当な考えや適切な解決策など出てくるはずはないし、またそもそもその可能性などまったくないのだ、と考えてはいません。そのような場所では、人は大なり小なり、よい仕方で考えるならば妥当な答えや正当な考えが出てくる可能性があるはずだ、という「信憑」をもっているのです。」
※「妥当な考えや適切な解決策などない」ことは当然、議論をする以上は大前提の話になる。しかし、「妥当な考えや正当な考えが出てくる可能性があるはずだ」という信憑を持っているかどうかは微妙ではないか?例えば、それが妥協の産物でしかないような場合、それを「妥当な考え、正当な考え」と呼んでしまってよいのだろうか?

P115「イデオロギーとは第一に「立場の思想」であり、つまりある特定の立場を普遍的であると称する思想です。第二に「理想の思想」でありこれこそ最適の公準であると主張する思想です。だからそれは本質的に「共同的性格」をもつのです。当人たちが主観的にどれほど真摯で誠実に問題を解決するために議論する意志があるとしても、ある議論の場に、対立するイデオロギーが存在すれば、そこから「妥当性」を取り出せる可能性はありません。」
P119「これをひとことで言えば、現代の政治的主張(思想的主張を含めて)は、つねに特定の階層、利害、立場を代表することで「イデオロギー性」を帯びる傾向をもっている。したがって、これをつねに解毒し、市民社会を「自由な相互承認」のより高い成熟に向け換えるような政治思想の役割が、きわめて重要なものとなるのです。」
※これはメタな主張となる。しかし、この主張は安易に宗教などの「信念」とその政治性との分離を強調しており、果たしてそれは生の問題に対して適切な態度を与えられるかは疑問である。生の問題は常に政治性を帯びうるものであり、それを政治性から排除せよという主張は、生の排除の正当化にしかならないのではないのか?結局竹田が指摘するのは極端な二項対立図式の問題でしかなく、生の問題をそのような発想で排除してしまわないかどうか、といった問いの立て方はしていないのである。

P131「実際、われわれが宇宙人のゲームのルールを理解してそれをプレーしてみたとしても、もしも宇宙人と人間との幻想的エロスの本質が異質なものであれば、われわれは宇宙人のゲームをまったく楽しむことができず、あるいはその面白さスリル、つらさ、困難などを経験することができず、したがってその本質をつかむことはできない。……このことを理解できないのが、「心的内容」を度外視してルールやシステムの体系を事実的に認識すれば言語の本質を把握できるとする、現代の実証主義的思考の本質的な欠陥なのです。」
P110「勝ったり負けたりすることについての希望を、力量や運などといった要素を取り入れてその可能性と“戯れる”ことのエロスがゲームの本質です。……ゲームの本質からは、すべてが運だけで進むルーレットのようなゲームもありうるし、修練、努力による力量だけを競いあうようなゲームもありますが、そこでは結果が未決であり、希望と可能性が組み入れられていることが、人間にとっての、ゲームのエロスの根本的本質なのです。」
※結局、エロスの共有ができないということは、ゲームのルールがわからないという言い方で説明できるのではないか。

P150「デリダは「作者の死」の概念によって、表現作品が単なる「表意的意味」を表現するのではないこと、したがってそこに「作家」とその一元的理解という関係ではなく、表現と受け手の間に解釈の本質的な多義性、多様性が成立することをよく示唆しました。その功績は認めることができますが言語の本質理論としてはこの考えは適切とは言えず、したがって「言語の謎」を解明することもできないし、言語論をつぎの地平へ展開することもできないのです。」
デリダに限れば、この総括は支持する。

P155「ところでいま、言語からこの発語者—受語者の暗黙の関係をそっくり抜き取るとどうなるでしょうか。わたしはそれを「一般言語表象」と呼んで「現実言語」と区別しました。すなわち、そこでは言語は、「発語者—受け手」という信憑関係の本質が抜き取られるために「一般的な意味」しか表示しない言語、となるのです。発語者—受語者の関係が生きている言語が「現実言語」ですが、「現実言語」と「一般言語表象」とを区別しないことによってさまざまな「言語の謎」が現われます。その代表的な例が、あの「クレタ島人のパラドクス」なのです。」
デリダの偏向した議論の結果は確かにこの違いを生む。しかし、だからといって、現実言語こそ普遍的なものであるという解釈も同時に問題である。
P156「こうして、すぐに分かるように、現実言語では、人は、ある発話者が“どういうつもりで”ものを言っているのかをつねに志向しつつ聞くために、そのようなパラドクスは起こりえません。」
※むしろこのような自覚がないことの問題が大きいのかもしれない。これは価値判断をその場で一度留保しつつ、コミュニケーションを遂行しようとする、竹田的な現象学的理解に基づく訳だが、同時にこれはクレタ人のパラドクスに解を与える可能性を保障するものでもない。それはあくまで了解されるままである。私が問いたいのは、そのような留保が普遍的に正しい捉え方なのか、ということである。これはそのまま竹田的な現象学的アプローチがどのような場合にも妥当と見るべきか、という問題となる。

P178「「私的言語」の批判は、現実言語がそのつどの「企投的意味」を表現するということと、独自の「私的内面性」を表現するということを混同しているのです。すなわち現実言語では、言葉は必ず「一般意味」を手段として個別的な「企投的意味」へと向かおうとしているわけです。」
※言語が「いわば個人の“交換不可能な”「内的心性」の表現なのではない」ことは認めるが(p177-178)、「どれほど単純に見える言語行為でも、必ず「一般意味」を利用して、そのつどの各自的な「意」の投げかけあい(関係企投)を行なっている」という意味で言語の「企投的意味」を定義する(p165)。別の説明では「その基本関係は、言語行為は、一般に、言語によって他者と世界を共有しようとする関係的な試み(企投)であって、人は、「語の一般意味」を利用して自分のそのつどの「企投的な意味」を他者に投げかけようとする」とする(p163)。

P199「「身体」は、一般的には、移動によって栄養分の捕獲(=生命の維持)を行なうことの必要と結びついています。「身体」をもった生き物にとって世界が基本的に「空間性」として現われるのはそのためです。しかしまた、「身体」がこの行動をとることの根拠を「エロス」という概念で考えることができます。「身体」がある対象に引きつけられるという事実性を、われわれは「快=エロス」と呼びます。エロスはひとことで言うと引きつけ(と遠ざけ)の力動の原理ですが、この「力」は物理的な引力ではなくあくまで心的な力動性を指します。」
※「身体」についてのこの二つの説明の関係性はどう捉えられているか??更に、先ほどゲームとの関連性で説明されたエロスと、ここでのエロスは同値関係をもったものとみなしてしまってよいのだろうか?
P199「生き物は定まった「餌」をつねに求め、対象を見出すとそれに近づき捕食しようとします。自分にとっての敵や嫌悪すべき環境に対しては、そこから距離を取ろうとします。それは例外のない生き物の生理的原理、言いかえればエロス原理です。感覚する主体にとって、〈世界〉はエロス的構造(快—苦、快—不快、あるいはエロス的可能性—不安)として構造化され、行動するものとしての身体にとって、〈世界〉はまずは「方位性」として生成されます。」

P200「人間の身体性の本質は、さしあたり動物一般の身体性との違いとして捉えられます。そしてその違いを表わす基本概念は「幻想的身体性」です。」
※生物はすべてエロス的原理に基づいているという解釈でよいのか?これは矛盾だと思うが。
P202「まず、現象学的には、「身体」は実体としては措定されません。「身体」の本質が問題なので、さしあたり「身体」はどういう経験として存在しているのかを内的に問う必要があります。」
P204「つぎの本質契機を「能う」と名づけることができます。「身体」は原事実として到来的な「情動性」ですが、これがつねに「主体」にとっての行為の目標や目的を作り出し、世界は目的相関的に分節され、これに応じた意味連関を編み上げます。世界は「可能性」の連関となるのですが、「身体」はまた、そのつどこの可能性と意味の連関に対応した「能う」という能力の連関としてわれわれに現われます。」

P207「人間は「真・善・美」を求めるというプラトン的な考えを、イデアとしての「真・・善・美」を求めると考える必要はありません。人間の欲望が、基本的に「よいもの」「素敵なもの」「立派なもの」へ向いていると考えれば、誰もが常識的に理解できることです。ただこの体制は「構造化」されている、という点が重要です。「構造化」されているとは、「身体化」されまた「無意識化」されているということです。」
P211「たとえばこれを、動物の「身体性」の本質と比べると人間的〈身体性〉の特質は明らかです。まず「エロス的感受」のありかたが違います。何が「エロス」であるかは動物では生理的にほぼ一義的な限定をうけています。人間のエロスは「幻想的」であって、単に空腹に対応して一定の食べ物を欲するだけでない。人間が「物」を欲するという場合、それらの諸物が、何かステキなもの、他者一般が欲するよいものであるがゆえに、それらを欲するのです。」
P211「つまり、人間の「エロス的感受」はすでに「価値対象性」によって規定されているわけです。たとえば、これを象徴するのが人間の性的な欲望で、それは単なる性衝動ではなく「エロティシズム」を固有の価値対象とします。「エロティシズム」は人間独自の性の幻想で、すでに「美醜」や「よし悪し」という価値審級によって編み上げられ“身体化”されたものです。」
P212「たとえば、ライオンが獲物を追いかけていて、獲物が川の中に入って逃げてゆけば、泳ぐことのできないライオンにとっては、そこがいわば世界の限界です。ライオンにとって川があるというきちは世界の限界であり、それは自然環境によって完全に限定されています。しかし人間の場合事情が違ってくる。人間は、川が一つの限界であることを乗り超えようと試みます。つまり、泳ぐ能力を身につけようとします。泳げるようになるまでは川や海は行動範囲の限界ですが、訓練することで身体の能力、「能う」の条件を拡大させ、川や海という限界は超えられるものとなります。」
※ライオンも泳げるものは泳げる…このような説明にはどうしても恣意的な判断を感じずにいられない。私が感じるのは、フーコーなどの説明に対しても竹田が説明したい「ポストモダニズム」ありきで、実態を捉えようとしない態度がそこにあるのではないのか、という考え方の可能性があるのではというもの。

P221「ポストモダン思想では反=意識主義、反=主観主義が強く主張され、それは「主体の形而上学」といった言い方で流布していますが、この主張の中心的動機は、人間の意識は「構造化」されている、社会的構造に規定され拘束されているという考え方にあります。ここには、たとえば「主体」は規律権力の内面化に与するものだから主体化は危険だ、というフーコー的構図の影響などが強く見られますが、このような主張は状況論としてならともあれ、原理論としては単なる独断論を出ません。
フーコーがいつ「反—主観主義」的なコンテクストで主体化が危険だなどと言ったのか??前半の内面化への寄与については確かに説明しているが、それ以降の危険意識は、竹田の独自解釈に過ぎないのではないか。おそらく、竹田はフーコー読解を「言葉と物」を中心に行っているものと思われる。
P221-222「たとえばラカンのような思想家は、はじめから「主体」の概念を「主観主義」や「意識主義」から切り離すような仕方で使います。つまりラカンで「主体」と言えば、それはほとんど「無意識」と同義です。」
※このようなラカン解釈の是非は私に判断できない。しかし、少なくとも、ジジェクがこのような解釈でラカンを解釈していたかと言われると微妙な感じもする。しかも、竹田の現象学的解釈も、意識主義をそのまま是認しているという前提を置くと、問題が出てくるように思うが。

P225「本質観取を行なってみれば、「主体」の本質は、つねに到来する「情動性」と、これを対象化しつつ自己の存在可能を企投する「対象化的意識」との関係意識、として取り出せることが分かります。人間の「主体」はもちろん「意識」それ自身ではないし、そう考えることは人間の考える機会のように見なすことです。しかし一方で人間の「主体」は、身体からやってくる「気分」や「情動」それ自身(これは無意識と呼んでもよい)でもない。動物と比較してみると容易に理解できますが、人間の「主体」は、身体的要求として自己を押してくるこのような「気分」「情動」と、これを対象化し自覚し理解しつつ新しい「存在可能」へとめがける「自己意識」との絶えざる関係の意識です。」
※問われるべきはこのような緊張関係を大前提とみなしてよいのか、に尽きる。
P225「要するに、理性や意識だけが人間の主体であるという考え方は誤りですが、無意識こそが主体であるという言い方も正しくありません。繰り返せば、私は私であるというこの自己意識と、いつも自分をい動かす形で到来する情動との、その関係の意識こそが「主体」なのです。」
※よくわからない。どちらもやはり否定するのか?否定しかしていないのではないのか?

P226「このように、一般的な自己ルールと新しい「情動」との間でつねに揺れ動きながら、そのつど自己自身へめがける存在配慮をつかもうとすること。このような条件と構造が人間的「主体」ということの本質であり、また「自由」という概念の前提的根拠なのです。」
※そのような主体とは、責任を付与できる者なのか?
P237「この始原の「断裂こそ人間存在の起源」であり、この根源的な「欠如」こそ人間の欲望の空虚な中心である。これがラカンの人間論の根本的なメッセージです。人間的欲望の本質は、その存在が、主体の幻想的な「断裂」あるいは「分裂」い根源をもつ点にある。だから「対象「a」は欲望の中心欠如を象徴化する機能」である、とも言われます。人間の欲望がある「根源的な欠如」への欲望であること、これがいわば誘惑する「眼差し」のもつ力の根拠だというのです。こうして、ラカン構造主義は、人間欲望の「起源的本質」を“言い当て”ようとし、そして“言い当てた”と考えるのです。」
精神分析の四基本概念、141頁の引用をもとにしている。もっともこれが根本的な話なのかがジジェクからは読み取れないのである。ジジェクはむしろ、他者に従属するような法に対して、それは他者のものであることから自らのものとは不一致をみることを第一に押さえていた論点であったようにも思えるのである。

P242「現象学では、「欲望」の起源は何か、欲望一般を“可能にしているものは何か”と問いません。「欲望」は経験としての現事実だからです。」
※結局これは、欲望の存在の自明視以外の議論になるのか?確かにジジェクは「欲望」が自明なものであると捉えており、この点を共有しているといえる。しかし、それはやはり自明視して考えることに問題があるように思われることを、私はフーコー的な視点から捉えてきたのである。言い換えれば、フーコーは欲望の存在を自明視している訳ではないのである。
P244「エロティシズム的対象が“隠しつつ誘う”力は、なるほどその対象の本質的な「欠如性」「空無性」を示唆しますが、しのことがエロティシズムの根本的な“幻像性(=代理性)”なんら意味しません。人間にとって情緒性、つまりロマン性、センチメンタリズム、エロティシズム等々は、その発生的機制がどのようなものであれけっしれ「代理物」ではないからです。
※ここでいう代理物とは何を意味するか。
P243-244「バタイユでは、「美」が象徴的な「死」の禁止線を“乗り超え”させる力です。エロティシズムの本質には「美」という対象性が不可欠ですが、ラカン的な欲望の形而上学では、「美」の意味を取り出すことができません。美は人間的欲望の「対象的な意味」です。ラカンでは欲望の対象はつねに何ものかの「シニフィアン」(代理性)ですが、われわれが「美」に引かれるのは、それが何かを代理しているからではない。「美的なもの」は、ニーチェによれば生を高揚させるものであり、そこに「よい」や「ほんとう」という価値が感受化されているからです。そして感受化された対象はもはや「代理物」ではありません。」
※この代理の否定性は本当に自明なのだろうか?そうは思わないが…結局これは純粋模倣に対する問いと同じと私は考える。ジジェクは端的にこれを否定する。そして、純粋模倣の性質に対して「美」だとか「善」という価値判断を用いることが誤りであることは純粋模倣をめぐる議論で考察した点であった。純粋模倣自体には善悪の価値が介在しようがないのである。

P246「なにより重要なのは、これらの探究が起源的、根源的な問いではなく、あくまでわれわれの生の経験に定位するものであり、そこから現象学的方法によって探求されるべき本質領域であることを、はっきり理解することです。およそ人間的領域の問いは「本質学」であって、根源的事実や根本的真理とはなんら関係がないのです。」
※この違いがわからないか、非常にわかりづらい。というのも、欲望の要因に対しては本質学的見方と言えるかもしれないが、欲望の存在そのものついては根源的事実であると認めていると解釈するほかないからである。結局これを解消するためには、竹田的な現象学的アプローチはあくまで方法論の一つにすぎない、ということを強調することしかないように思う。言い直せば、ここでいう「生の経験」とは、人間の経験として必ずしも「普遍的」でないにも関わらず、素朴な前提として了解させることで普遍化してしまう。このことはそのような「生の経験」を他者が共有できない可能性をあらかじめ排除してしまう。曲解してしまえば「私がそう思うのだから間違いない」があたりまえのようにまかり通ってしまう可能性さえあるのである。したがって竹田的な現象学的なアプローチは、前提の部分において躓きがあることについて配慮しなければ問題が出てくると指摘するほかない。

P250「ラカンによれば人間の欲望は「存在欠如の換喩である」とされますが、現象学的にはむしろ「存在過剰の換喩である」と言ったほうが妥当です。人間的幻想の本質は「欠如を満たすこと」であるより「存在を捏造すること」だからです。あるいは、存在のたえざる「打ち消し」ではなく存在のたえざる「乗り超え」だからです。」
ジジェクも発想も結局過剰性を批判し、欠如性に立脚「すべき」だったことを考えれば、あまり変わらないともいえる。

P259「繰り返して言えば、どんな社会思想も、社会を事実学として考え客体的な構造体と捉えたり、現状を相対化するための社会イメージとして扱ったりするかぎり、近代思想のイデオロギー的性格、立場の認識であることを克服することができません。まずは、「社会」がわれわれにとってもつ「本質」についての普遍的な了解を深めていくことが重要であって、それが「本質学」をうちたててゆく上での第一のポイントです。」
※揚げ足をとってしまえば、このような本質学の探求はそのまま排除の正当化になってしまう。
P261「ある考えが「原理」であるとは、それが真理や根源であるということとはちがっている。ある考えが「原理」であるとは、むしろ第一に、それが普遍的な可能性を開示して目標を作り出すような考えだということであり、第二に、より大きな可能性の原理が示されるときには、いつでもそれに代替されうるものだということです。」
※このような文脈で「根源」を捉えるなら、やはり人間における欲望の存在は「根源」として解釈しているとみるしかない。なぜなら、欲望の存在には変更可能性を認めないからだ。ここでの原理は、社会はゲームではなく、社会をゲームと考えようという原理として例示される(p259)
p263「現象学を「思考の原理」についての学、あるいは「思考の原理」についての思考である、と捉え直すことは、まず「ほんとうの世界はこのように存在している」といった独断論的物語や思考を打ち倒すことである。そして、その代わりに、誰かが世界についての像の考え方や信念や主義をもって生きるということの、また多くの人がそのような信念や世界観をもちながら互いに関係しあっているということの、その本質的な意味を問う方法を作り出す、ということなのである。」
※すでに欺瞞を含んだままこのよう現象学が提起されること自体に危惧を感じる。