斎藤喜博「斎藤喜博全集 別巻2」(1971)

 今回は50〜60年代において校長としての教育実践を行い、影響力のあった斎藤喜博を取り上げてみる。私自身読んだのは60年代後半から70年代初頭にかけて行われた対談集である本書と刊行10年足らずで5万部は売り上げていたという(「斎藤喜博全集 第4巻」1969,p462)「授業入門」(1960)、及び同年に出版されている「未来誕生」が収録された全集第4巻の2冊を読んだ。引用については、「第4巻」「別巻2」という形で表記していく。

○「教師責任論」の強さについて
 特に「授業入門」ではそうであるが、何よりも教師に対して教育の担い手としてとしての責任を強く要求しているというのが、斎藤の議論の特徴の一つといえる。「別巻2」では、p225、p228-229においてみられるが、「授業入門」ではこのように語られる。

「教師ほど自己とのきびしいたたかいを必要とする職業はない。そのことは、授業が、科学や芸術と同じように、追求を重ねていかなければならないものであり、教師と子どもとが一つになって、きびしく真理を追求していくという態度と方法をとらない限り、子どもをよくすることはできないからである。そして、そういう態度や方法をとるということは、常時、自己とのきびしい苦しいたたかいをしなければならないからである。しかし一般的にいって、教師ほどそういう真理追求のできないものはない。そこから出る、自己とのきびしいたたかいのできないものはない。」(「第4巻」P188-189)
「だからそれは、次代の人間の文化の問題にかかわるたたかいである。次代に生きる子どもを、授業によって文化的に変革させていく仕事である。
そのために教師は、教科の学習をし、すぐれた授業方法を考え、子どもの将来の文化、将来の生き方につながるような、大きな振幅を持った授業を、休むことなく深めなければならない。それを、専門家としての教師が、専門家としての仕事をはたすための根本原則としなければならない。
そういう授業をしようとすれば、とうぜん、教材研究も、授業方法も、教師の生き方と関係してくる。芸術家や科学者のばあいと同じように、教師にとって「授業がすべてだ」ということになってくる。自分の私生活全部を注入しなければ、充実した創造的な授業はできないということになってくる。」(「第4巻」P200)

 このような教師責任論の語りというのは、教師自身が教育運動を対外的に行っていく場合には、つまり、教師の精力が子どもではなく「国家」や「行政」に対して向かうような場合においては、保護者などから非難をされないためにも必要な観点だったと言うこともできるだろう。そのような運動をするためにも求められた倫理的要請であったと読めるような部分もある。

「校長が悪いからとか、仲間が悪いからとか、設備がないとか、学級定員が多すぎるとか、子どもが悪いとか、そういうことばを教師はいま、禁句にする必要がある。もちろんこういうことが乱暴なことだ。だが私は、それでも、いまの教師は、そういう決意をし、実践をし、悪い条件のなかでも教師の力で、これだけのことができるのだということを、はっきりと示してみる必要があると思っている。自分たちの腕をそこまでみがいてみる必要がある。」(「第4巻」p5)
「ほんとうに子どもが悪いのではない。子どもが悪くなるのは、教師とか教師の指導法とかに、どこか問題があるのだ。
もちろん子どもは、学校教育だけでよくなるものではない。家庭とか、父母とか、社会とかの、さまざまな条件のなかで子どもはよくなったり悪くなったりしていく。……だが、それにもまして、いちばん大きな条件になるのは教師の力なのだ。
専門家である教師である私たちは、いちおうそう考えなくてはいけないのだろう。そういう決意の上に立って実践し実証してはじめて、設備とか、定員とか、教材とか、社会的条件とかに向かって、強い自己主張をすることもできるようになる。」(「第4巻」p9-10)

 このような責任論は特に子どもが悪であるという考え方を否定し、仮に子どもが結果として悪であったとしても、それは教師のせいである、という語られ方をすることになる。「第4巻」p9-10でもすでに語られているが、別の部分でもこう指摘される。

「私は、子どもを信頼することは、どんなに信頼してもよいと思っている。教育でだいじなことは、子どもは、どの子でもよい子だと思ってやることだ。
教師が、子どもを馬鹿で怠け者だと考えれば、子どもは馬鹿になり怠け者になる。教師が子どもをその反対に考え、そういう気持で子どもに向かえば、子どもは、自分をかしこい、勉強好きな子どもと思うようになるから、子どもは自分の力を十分に発揮し、のびのび勉強に励むようになる。」(「第4巻」p17)

 また、ここから一歩進めて子ども自身は生得的に勉強を望んでいるかのような語りもされることになる。「未来誕生」では以下のように述べられる。

「子どもは、どの子どもでも勉強がきらいではない。勉強し、自分を豊かにふくらませていくことを、どの子どももがのぞんでいる。だがそのためには、そういう子どもの要求を、みたせるような条件をつくってやらなければならない。学校では、子どものそういう要求をみたさせる場面が授業である。
学校においては、授業によって子どもが変わっていく。勉強したいという子どもの要求を、みたさせるような条件を持った授業をしていれば、子どもは満足し張り合いを持って、努力し追求することを喜ぶようになるが、そういう条件を持っていない授業をしていると、たちまち怠惰になり、反抗的になり、消極的になり、勉強することがきらいな子どもになってしまう。」(「第4巻」p368)

 しかし、この教員責任論の語り口は時代を下った別巻2では少し傾向に違いを認めることができる。つまり、教師に全ての責任を負わせるのではなく、対外的な影響により、教師がよい授業実践を行う阻害要因となっていることが明確に語られだすのである。例えば交通安全対策であったり(「別巻2」p218-219)、親の教育要求との対立しても語られた(「別巻2」P212⁻213)。またこれは国の悪政の責任を学校になすりつける結果でしかないとさえ言われる(「別巻2」P216⁻217)。そして、専門家としての教師は、このような行政からのなすりつけを排除しつつ、全力で仕事を尽くさなければならないとされる(「別巻2」p228-229)。このような外圧に対する語りは「授業入門」においてはなく(※1)、むしろ教師自身が国や県の都合のよい態度を追随しようとしていることが問題である、という語られ方をするのである。この意味でも、「授業入門」においては、教師責任論の強さを認めることができる。

「ところが実際にはその反対のものが多い。担任の教師は合唱の指揮をとっているのに、校長はPTAとか、地教委とかの方目を向け、担任や子どもには背を向けている。PTAとか地教委とかも、合唱している教師や子どもの方は見ないで、県の方を向いている。県は文部省の方を向き、文部省はまたどこか遠くの方を見ている。こういうことがたくさんあるのだが、ほんとうの学校集団は、それとは反対に、いつも子どもの方へ全部が目を向け、子どもをよくしようとしている。」(「第4巻」p171)

 総じていえば、「別巻2」での斎藤の議論は教師責任の全面性から離れているともとれるが、相変わらず強い(「別巻2」p225)。「よい教育は、よい教師により成り立ち、例外はない」ことが強調されるからこそ、それがサラリーマン教師といったものへの批判としても現れてくるのである(「別巻2」、p200,p200-201)。


○「保護者批判」への派生について
 また、この教師責任論の強さは同時に、保護者の教育要求が悪であることを正当化することにも繋がっている(「別巻2」p212-213)。私自身、このような教育の担い手としての教師観は、明治以降の近代日本教育が、その近代化の遂行のために正当化することを許された論理であったように思うし、60年代にはまだそのような見方が優勢であったのではないかと思う。
 これは、斎藤の議論に限らず見られる議論である。例えば、以前少し取り上げたが、金沢嘉市などもこのような立場で教師の教育を正当化していた部分が見受けられる。昭和33年頃の話だそうだが、それまで小学校で行われていた補習教育を、校長であった金沢が独断で廃止を行った際に、保護者からは実施を継続してくれないか、という要望が出されていたが、断固として対応しなかった。

「今度は、校長や学校の言うことは理想としてはわかるが、現実を考えればそうはいかないから、もう少し融通をきかせてもらいたいこと、放課後になってから、先生が子どもの質問に答える時間その他で少しは時間をとってもらえないだろうかということであった。それも直接代表をたてて校長に申し入れるということではなく、六年の学級父母会から担任を通して「こういう希望を持っているということ、そういう父母のいること校長に伝えてほしい」という形で伝えられてきた。
しかし私はゆるさなかった。」(金沢嘉市「ある小学校長の回想」1967、p95)

結局金沢の場合においても、教師として、理想の教育というのがあり、「教育の理想は曲げられない」(同上、p96)という信念から、保護者の意見を取り扱おうとしないのである。
 このような見方が優勢であったことと、広田照幸のレビュー以後議論してきた70年代以後の「教育の担い手としての親」の重要性の指摘も、恐らくは無関係ではないだろう。60年代以前も保護者からの要求というのは、特に学力をつけさせるといった観点からは強く要望され続けていたと言えるだろう。しかし、教師が力関係として「優勢」でいられたことによって、コントロールすることもできたのである。少なくとも言説上では(※2)、このような教師優位の論理が正当性を帯びていたことは、この「教師責任論」の強さとも関連しうるのかもしれない。そしてこのような「教師責任論」は、すでに斎藤の議論においてもみられるように、外部からの教育要求を排除しようとする態度によって、弱体化をみせはじめることになったとも言えるのではないか?このような見方も少し興味深いように思える。


○「苦行」の正当化と「弁証法的否定」の関係性?
 教育における「苦行」としての語られ方に注目すると、これも「授業入門」と本書における議論は少し性質が異なることがわかる。「授業入門」においては、教師の責任論の派生として、真理探究者としての教師は「常時、自己ときびしい苦しいたたかいをしなければならない」とみなされていた(「第4巻」p188-189)。しかし、別巻2における教育の「苦行」性というのは、教育の担い手である教員の苦行ではなく、教育の対象である子どもの苦行として現れている点で明らかに異なっているのである(「別巻2」p161,116)。
 もっとも苦行自体の重要性は、むしろ保護者や社会の側からリスク回避の教育を志向していることに対する批判として現れていることをまず押さえねばならない。そして、それに対して「達成感」こそがよい教育のカギであることが強調されることになる。そしてそのようなものを避ける教育というのは、自主性を剥奪し(cf.「別巻2」p160)、創造性を阻害する(cf.「別巻2」p116)ものと捉えられることになるだろう。
 しかし、このような形で苦行としての教育を捉えた場合、「弁証法」的発想に非常に近づくように思えてくるのである(「別巻2」p252-253)。つまり、「否定による乗り越え」と「苦行による乗り越え」が非常に似た意味を持ち合わせているように見えてくるのである。「別巻2」のp355などの言葉も、これは「教師」を対象にして語られた言葉であるものの、「絶えず新しい次元に自分をたかめていく」ことは、恐らく「子ども」に対しても同じように必要とされるものであったといえる。ここでは「子ども」は「主体」としてその必要性を要求されている訳ではなく、「客体」として、教師がそのような教育を与えていくことに重きが置かれて議論はされている。
 このような否定性の議論は、小川太郎の議論においても、「矛盾」の克服という形で重要性が語られていた所である。マルクス主義的な議論などの影響もあり、恐らくはこのような「弁証法的」議論の正当性も60年代にはかなり有効なものとみなされていたのではないかと思う。70年代にはとりわけ「人間性」という観点がこの「自主性」ないし「創造性」のキーワードとして広く語られてきたと言われるが、斎藤もやはり「人間性」については自分が先駆者だったとさえ言っている(「別巻2」p187)。しかしながら、70年代の文脈が、ここで語られている「否定性」までも引き継いでいたとは考えにくい。少なくとも遠山の論理では、70年代の「落ちこぼれ」達になされるべき教育というのは、「できる子」との協調のもとに実践される「わかる教育」であった訳だが、この「落ちこぼれ」には更なる否定(≒苦行)を与えようとすること自体が忌避されていたのではないかと思うのである。露骨な「弁証法」的説明は否定なしには語りえない訳だが、このような70年代の落ちこぼれ言説がその阻害要因として作用し、正当性を失わせていった可能性は認められるだろう。


○職業教育の忌避
 最後にもう一点、本書から見ておきたいのが、「外的な圧力」の議論に関連して、職業教育自体もそのような圧力に関連するものとして批判的に捉えている点である(「別巻2」p312)。このような職業教育観は後期の遠山啓の議論にも見受けられたし、その前提には坂本秀夫などとも共通する、「後期中等教育=高校までは差別のない普通教育を実施するべきである」という、戦後民主主義教育思想の系譜の影響を見て取れる。このような議論がOECD教育調査団のレビューで少し検討した「高校の多様化論」とは全くマッチしないことは必然的だろう。そもそもこの多様化論とは、職業の多様性に対応した側面が非常に強いものだったからである。
 しかし、ここで私などはそのような職業教育を全否定してまで行わなければならない「原点にたちかえった教育」(cf.「別巻2」p313)とは一体何だったのだろうということを強く疑問に持ってしまう。そしてこのことを正当化してきたのが「創造性」や「人間性」に立脚した教育であったのではないだろうか?しかし、その内実は一体何だったのかが私には理解できないのである。思いつくことと言えば、私にはただただ「否定性」ありきの議論、国家なり社会なりに抗することありきの議論が生み出す「意味のない」内容なのではないかとさえ考えてしまうのである。


※1なお、「未来誕生」の方では少し異なる形での外圧の影響が語られる。つまり、国家なり社会なりの要請と呼ぶよりかは、地域(ボス)からの要請との対立関係として語られているのである。

「(※教師の気力がない)もう一つの原因は、この先生たちに、さまざまな圧力がかかっていたことだった。先生たちは、そういう圧力におびえ、伸びられるすぐれた素質を持っている人たちが、少しも伸びられずにいるということだった。
ここの先生たちは、村出身であり、学歴も低い人たちが多かった。ところが、村には資産家が多く、先生たちより高い学歴を持っている人たちがたくさんいた。そういう学歴の上からも、出身階層の上からも、先生たちは村の人たちに頭が上がらなかった。その上、教師の実践が貧弱だったし、校長も、教師としての実践や主張をすることがなかったので、学校も教師も、村の人たちから軽蔑されていた。校長や教員は、教師としての主張をするどころか、ただ村の有力者のいうままに動かされているのだった。何かあると、有力者が学校にはいってきて、校長や教員に圧力をかけていくのだった。」(「第4巻」P288-289)

 もっとも「授業入門」は学校での実践記録としての側面も強く、あまり外圧的な影響について語るような内容でもなかったという見方も不可能ではないだろう。時期によって語りの違いがあったかどうかは、もう少し斎藤の著書を読む必要があるだろう。

※2 ※1の引用に見られるように、実際の教育現場においては、「地域の有力者」などとの力関係によっては、教員はむしろ保護者・地域に従属せざるを得ない状況も当然ありえたであろう。しかし、教育言説上においては、70年代以降は弱体化していったと言える「学校側の正当化論理」がそれ以前には有効であったということである。


(読書ノート)
p23「科学の成果に学ぶとか文化遺産を教えるとかいう言葉でよくいわれてきましたが、真理は一つであって、たとえば、「二たす二は四である」というようなことを子どもに教えることが科学を教えることなのかどうか。そういう考えで、科学を教える、あるいは科学的な力を育てることになるのかどうか。そのへんにぼくは疑問を持っています。」
☆p23-24「教師のほうで、社会科なら社会科で、ある一つの概念を子どものなかに育てようとするばあい、子どものがわでは、うその概念ではないんだけれども、一人ひとりの子どもが学ぶなかで、その意味はやはりちがっているんではないか。育っていく過程で、「二たす二は四である」ことはちがいなくとも、その意味は、子どもの内部の条件との関係のなかで、ちがってくるのではないか。……文学教材という観点からは、先生のお話のような考え方で、ある程度それに気づきやすくなっているのですが、科学というものは、なにかきちんとした「真理は一つである」というような言葉にとらえられてしまって、既成の教育内容があって、それがもう科学的に証明されているんだというよっかかりがあるんじゃないか。誤解をまねくといけないが、べつに私は、教育内容は科学的に研究されなくてはならないということに反対しているのではないのです。教師の生きた教材に選択されてくるときは、文学教材でいまいわれたような考え方が働いてこないと、ほんとうの子どものための教育内容にはならないと感じさせられているわけです。」
※勝田守一の言い分。結局これは「真理は意味を持たない」という見方の言い換えでしかないようにも思える。その意味をどう与えるのかについては確かに多様でありうるだろう。

P24-25「この問題は二つにはっきりわけて考えたほうがいいんじゃないかと思います。科学の成果を教えるということですが、教科研はじめ民間教育研究団体が、教材内容、教科体系の問題にひじょうに努力をはじめてきたことは、いまの日本の社会、教育行政、学校教育の方向などが、真実を、科学の成果さえも踏みにじって、妙ちくりんな、主観的な方向へ持っていこうとする力が強く働いてきているとき、基本的な問題として、次代を背負う子どもたちに、科学というゆるがすことのできない学問の成果をふまえて、真実というものに忠実にしたがう人間を、真理を追求することのためにどんな努力でもできる人間を、つくっていきたいという思想があるわけですね。」
※斎藤の応答。しかし、勝田の問いかけとは少し解釈が異なるようにも見える。

P30-31「具体的に例をいいますと、いままで跳箱がとべなくて、跳箱はこわいもんだと思っていた子どもが、先生やなかまの子どもたちといっしょにやってとべるようになった。そのときその子どもには大飛躍だと思うんですね。いままでの閉鎖された世界から開かれた世界へ移った。移る過程のなかで、私のいう子どもたちの持っている可能性というものが引き出されてくるんだと思います。……実際のところ、高校を卒業しても自分が何になるか、何に適しているかなんてことは、そうはっきりしていないばあいが多いんじゃないですか。……そうだとすれば、子どもたちに瞬間瞬間に快適な生活を送らせ、能力をそのときそのときに発揮させるようにする以外方法はないのではないですか。子どもたちが、おとなになったとき、さまざまな境遇なり環境なり社会条件のなかにおいて、よい師匠にめぐり合ったり、友だちめぐり合ったりして、自分の能力を発揮することができるようになるかどうか、これは教師の責任ではない。……先のことは先のことと考えてよいのではないかと思います。」
※後述されるように、この発想は、現在の可能性を追求するために、未来に対する思考は停止してよいという発想に繋がってしまうのである。

P38-39「それは別の問題として、(※教師と学者がお上の学校観を)克服した立場として地域社会と学校のあり方を考えてみたばあい、地域社会といっても西洋のような近代的地域社会はない。むしろひじょうに古い、あるいはアンバランスのある社会であって、創造的、民主的、生活的地域社会は政治的にも発生をつぶされてきている。東京のような都会のばあいはちがいましょうが、地方にいくほどつぶされてきてない。お上のものではない、民衆のための学校教育をつくろうということが、民主教育をおたがいにつくりあげていく努力になるわけですが、古さどころか統制されているなかで、親たちが統制画一教育のほうをある程度まで本気で考えちゃっている。受験準備教育のほうへ、政治からも、マスコミからも流されてくるもののほうへ、親たちが移ってしまっている。こういう現実のなかで、地域と学校の関係はひじょうにむずかしくなってきている。極端にいうならば、現在の日本の状況のなかでは、学校教育は地域と対決せざるをえない運命をになっているんじゃないか。一度お上の学校は排除してきたが、現実の地域社会は、その排除の運動が成功しなかったか、もしくはなかったので、学校教育と地域の間にアンバランスができた。そこで必然的に対決しないかぎり学校教育を民主教育にしていくこともできないし、地域社会を改造——というと語弊があるかもしれませんが――つまり民主的地域社会につくりかえていくこともできないんだと考えています。」
※斎藤の敵対感。
P39「現在の日本の学校教育は地域に対して学校教育の本来のあり方を主張するどころか、逆に地域のさまざまな古い要求を受け入れちゃっている。自分が苦しい思いさえすれば、少なくとも民主教育の芽くらいは、自分たちの学校教育のなかに出てくるはずで、そういう場があるのに、教師はそれさえやらないで、向うの要請のままにやってしまっている。これは俗な問題ですが、五段階評価は不当だと、心で思っていても、五段階評価の成績表をつける。あるいは親たちがテストをやってくれといえば、テスト主義教育で心で反対してもワークブックを買ってテストばかりしている。」

P101-102「これは一つの願望としてあってよいわけです。でも、はたして理想の社会が全面発達させるかどうかはわかんない。しかし、いかに発達していない人でも、どこか一箇所でも発達したところがあれば、その人はそれでじゅうぶん生きていけるような社会が、理想の社会であって、どこか一箇所にケチをつけることがあれば、それで蹴落としていくような社会は、まずい社会だと思うんですよ。いまの社会こそまさに、入学試験がよくしめすように、数学もできにゃいかん、英語もできにゃいかん、国語もできにゃいかん、というように、テスト者のいう全面発達を子どもに期待しているわけですよ。だから数学はできないけれど、絵はすばらしくよくできるという子は、教育のチャンスを失ってしまう。」
松田道雄の主張だが、発達の定義とは何なのか?そして、職業教育の実践を不要を訴えることと、このような評価の仕方の関連はどう考えればよいか。
P103「全面発達については、すぐれた社会のなかでは、おのずから、全人間的にみんなが高まっていくということは考えられることですし、またすぐれた保育園、学級、学校のなかで、さきに話の出た相互影響によって、教育の本質的意味で、子どもが高まっていくことはあるわけです。……そのためにあらゆる方法や工夫をし、相互の人間の力を使っていくべきで、それは当然の義務であり、あれができるようになった、これができるようになったということに、全面発達という言葉を使ってはいけないんだと、いちおう考えています。」
※斎藤の主張。

P116「ですから、教育という仕事は、いやなことをさせるときがある。いやなことや困難なことをやりとげたときに、はじめて創造があり、ほんとに明るい子どもができるのでしょう。
ところが、じっさいのいまの教育界では、それをさせないような力がある。たとえば跳箱ではけがをすることがある。学校安全会なんかみてても、パーセントばっかり出てくる。……しかし、ぼくは親たちにいうんです。——少しくらいけがをしてもしようがないんだ、けがを恐れていたら、先生たちは跳箱などやらせないで、ドッジボールや野球ばかりさせることになる。子どもたちも消極的になってしまう。学校としては、いちばん合理的に段階的な指導をして、子どもたちにけがをさせないことようにするが、ときにはけがをする子どもが出ることもある。」
p117「まえの島小の子どもたちは、十二月でもはだしで体操をやっていたんです。学校でははだしになれとはいわないですが、はだしでとんで歩いている。ぼくは、十二月にはだしで体操しては風邪を引いてしまうなどというのではなく、子どもたちが十二月にもショートパンツになりはだしになってとびはねてしまうような、積極的な健康な子どもにすることが必要だと思うのです。」
※しかし、このような実践を科学的と呼ぶんだろうか?

P159「杉浦(※明平) 暴れないということの理由の一つには、暴れさせないようにがんじがらめにしているということもある。これは教育の扉だと思うんですよ。学校でつまらないことまで、あれをやっちゃいけない、これをやっきゃいけないとうるさい。ちょっとなぐったりすれば暴力だと新聞にのったりする。男の子は片目くらいつぶれることがあってもしようがないんだと、わたしは思ってるんですがね(笑)。まあ、されないほうがいいけど、そのぐらいに最近思うんです。
斎藤 戦前はそうとうの悪童ぶりがありましたね。現在の子どもは、どうにもできないところから、極端な子は刃物を持って殺傷事件をおこしたり、自殺するとか、家出するとかの方向にいってしまう。ふつうの子は賢い子どもになってしまって、それは一見、合理的らしいけど、それほど合理的なものでもない。自主的らしいけど、ほんとの意味の自主性でもない。これは教育だけでなく社会全体の問題があるんでしょうね。」
※「少年犯罪データベース」によれば、戦前のナイフでの刺殺事件だけでも事例が結構あるが…

p160「学校教育自体も、ひじょうにマスコミ化してきている。そのために、ほんとうの自由とか自主性とかを子どものなかにつくることが、いまの教育には欠けているんですね。教師は、言葉の上ではひじょうに進歩的だし、一般的なこともよく知ってもいるし、ある意味の自己主張もしているけれど、マスコミ文化の影響を身体全体で受けている、また政治や社会の影響を受けている。そういう人間が、常識的な通俗的な、形式的な仕事をしているから、子どもの内部にあるものを引き出して、ほんとうの意味の自由や自主性を、子どものなかにつくる教育がされない。」
p161「だから教育はきびしいものなんだ、困難に耐え、発見し獲得していく作業によって、自分を形成していくんだ、その意味から学習もある意味では労働なのだ、と親たちにはいっているんです。いまの日本の政府なんかのいっているのはテスト教育ですから、困難に耐えて発見したり獲得したりしなくってもいいわけですよ。アチーブですから、子どもたちは、ささっと3番なら3番にマルをつけて済ましてしまう。そういう安直な合理性で生きているのですね。」
※いまの感覚から言えば、かなりの屁理屈ではなかろうか。これは1966年の時点での話だったが、70年代にはおそらく同じ説明ができなかっただろう。

P162-163「こういう基本的な事実はありながら、ぼくがやっぱりいちばん教師への不満として感じるのは、教師が自分を出さないことです。人間としての自分なり、教師という実践者としての自分なりを出さないで、なにかのっぺらとしているんですね。」
P163「サラリーマン化しているってことは、月給をもらっただけ教えればよい、ということなんですね。」
※杉浦の指摘。
P164「愛知県では中学校を卒業するとき警察が全部指紋をとるんです。十何年かつづいている。県下全部やるんです。」
※これも杉浦の発言。

P180「みんな方言を使わなくなるのは、先生がわるいもののように教えているからではないかと思いますね。」
※杉浦。教師の大部分が「自分の生活を持ってない」といい(p179)、「歴史と文化のなかで、いま(※地方文化が)いちばん強く残っているものは方言」とも言う(p180)。標準語は「ただ政治的なもの理由で都合がよいから採用したにすぎない」し(p181)「やはり、方言を使ってやることで、子どもとの生活的交流があるということ」だという(p181)。らだし、「方言を使ってやるということは、方言ばかりでしゃべるということではない」らしい(p181)。何が言いたいのやら。結局教師の精神論か?
P182「言葉の内容を、子どもの生活なり感情なりと具体的にかみ合わせながら、中身をふくらませた言葉として教えてく作業が必要です。」
※斎藤の発言だが、杉浦もそのとおりだという。
P184「おたがいに刺激し合い、流派、傾向が出てきますが、けっきょく最後はその人以外にはなにもないんですよ。刺激し合うことはできるし、よいことです。それによって文体にも似たものが生まれたり、生活を共同にすることによって感じ方に似たものが出てきたり、いつもしゃべっているので、同じような日本語を使ったりということはありうるけれども、最後の創造ということになれば、その人一人のものだと思うんですよ。」
※杉浦の主張。「芸術と同じように、教育はぜったい模倣ではできないものだと思う。」とする(p185)。なお、ここでの例として斎藤とともに無着の「山びこ学校」も引き合いに出される。

P187「近代学校教育の発生からのことはわかりませんけれども、少なくも戦後の教育のなかで、教育は人間がするものであり、人間を創造するものだということを出したのは、ぼくだったと思うのです。教材、教科体系を科学化するとか、授業手法の道しるべである教授学をつくっていくとかいうことは必要なのですが、その二つがどんなによくなっていったって、教育はやはり教師という人間がやるものです。すぐれた教科体系や教材があり、教授学があって、さまざまな専門家の力を借りた授業案をつくってそのとおりやっても、Aという教師がやったときはマルが出て、Bという教師がやったときはサンカクが出てしまう、ということが教育にはありうると、ぼくはいっているのです。人間がやることですからね。」
※この議論において、それの成功要因が斎藤の論理では全て教師に還元されることになる。
P196「教育ですから、設備があることが原則的に望ましいってことはたしかです。しかし、その設備なり備品なり道具、機械は、人間がつくり人間が使ってるわけです。ところが人間のほうはだめで、創造力もなく、それを使いこなすことができないとすると、いっそう悪いことになってしまう。骨折ったり考えたりすることのできない人間にしてしまう。テレビを買い、冷蔵庫を買い、電気洗濯機を買い、自動車を買うことによって、人間が物質文明の結果である機械によって堕落させられるのと同じになる。教育という仕事は、そういうものではなく、もっと骨折り、つくり出し、考え出すべきものですね。」

P200「学校のなかにいると気楽だから、学校のなかでだけ生活して、帰ればテレビみてる人が多い。それじゃ教育はおしまいなんですね。が、最近そういう傾向がたいへん強い。組合だってそうなんです。日教組なら日教組という組合のなかにばかり集まってしゃべってる。……これは日教組だけのことじゃないですよね。教員は自分の城のなかにいちばんたてこもりやすい立場にあるので、それだけに、ますます一般の人間としての、ふつうの人間としての生活をつとめて持ってもらわないとね。酒飲もうが、酔っぱらって暴れようが、そういうことはかまわない。たいせつなのは別のことです。ところが先生はそういうことに対しては、自分でやはり自分を神聖化しようとして、一種の魔術をかけるわけです。それに教育の好きなPTAのお母さんなんかがひっかかる。」
※杉浦の主張。
P200-201「ただそのばあいでも、常識的に近所隣とおつき合いしてればいいんだということではない。いまのお話はそれだけの問題ではないと思うのです。一人の人間として、市民として、その時代なり、政治なり、社会のなかにいやでも生きていかなくちゃならないし、その影響も受け、それに答える責任もある――そういうところにいつも立ちもどっていく。」
※斎藤の応答。以上、1967年の「教育と人間」より。対談自体は66年中に行っている。

P212-213「極端にいえば、学校と親というものは仲よしになれないもの、むしろ反対になってしまうものだ。政治であれば、橋をかけてくれといえば橋をかければよいわけです。もちろん政治にも理想がなければならないわけですけれども、実際には現実的に対処することが多い。教育というのはそうではない。ある程度理想的なものがあります。将来に向かっていくという。親というのは、だいたい政治とか社会とかからくる現実的なものとか、また小学校、中学校なりで受けた体験から判断していまの子どもをみるから、いまの子どもはどうもぐあいが悪い、いまの学校はぐあいが悪いと考える。そういう親の願いに合わせて教育すれば仲よしになれるわけですが、そうでないと親とはギャップができる。学校や教師は、いまの学校教育には、そういう宿命のようなものがあることを決意して、そこからむのさんのいうように学校の独自な性格なり主体性というものを持たなければならないのじゃないかと思います。」
※この先行する、むのたけじの発言は「農村地帯では農政の混迷で親がトロンとしてしまい、将来どう農業経営をやればよいかみとおしが立ってないから、親の虚脱がそのまま子どもに感染しているのです。」「いまの親たちの教育観やいわゆる教育要求には、狭い利己主義から生まれた有害な要素も多く含まれている。教育はそれに対して教育専門家としてきびしく対決していかなくてはならない。それをやっていくなかでこそ、教師と親たちの本物の握手も期待できる。」(p212)と述べられる。またこの対談の口火がこの内容となる。

P214「一般的に、親には自分の体験から出た郷愁的な願いなりまた現実の社会へ適応していくための願いみたいなものがありますね。学校はそういうものにべたついていくものじゃないということを痛切に願いとし意識として持っていて、しかし現実はなかなかそうはいかないという悩みを持てば、七転八起の苦しみをしても、そのなかで学校の主体性、創造性というものをつくり出す努力をすると思うんです。」
※校長ほど「無限大な責任を負わされている商売というものは日本にはほかにない」と言う(p214)。親の体験とは、素朴に脚色されていることを前提にしている。
P214「最近は交通安全教育などということもはいり込んできて、家庭で子どもが遊びにいって交通事故にあっても学校の交通安全教育が足りないなどと責任をかぶせてきます。」
P215「しかたがないから通牒がくると通牒対策というものをやる。すると本来の学校の授業なり教育というものを創造していくことができない。」
P215-216「私、世界各国の映画のなかで子どもが描かれる形というのを少し比較研究したことがあるんですが、日本の映画で子どもの出てくる映画と外国のそういう映画をくらべてきわ立った特徴というものは、子どもは非常にいい子なんです。子どもはよくて親がだらしないというのが一つのパターンで、親はいつもぐうたらだったり、ぐちっぽかったりどうしようもない、それにもかかわらず子どもはすくすく伸びていく、じゃそれを見守っているのはだれかというと、学校の先生だということになっているんです。日本では昔はどうったか知らんけれども、少なくとも近代では親には期待しない、すべて学校がやってくれるものだというイメージが強烈にあるんです。」
佐藤忠男の主張。しかし、海外の事例において、教員をどう位置付けて分析したのかを考えると、微妙な感じもあるが。

P216-217「教育行政そのものが、国家全体の矛盾のはけ口、矛盾をかくすベールみたいなものに使われることが多すぎるのではあるまいか。教育ないし教育者が負う必要のない責任、負ってはならない責任をどこで食い止めるかという歯止めがないんですね。しすて責任は上流から下流へ、ほとんど無原則に押し流されてくる。」
※むのの発言。いわゆるジャーナリスト。しかも「そういう事態になるとこんどは責任のつじつまを生徒の犠牲で合わせようとする。」(p217)と述べられる。
P218-219「交通安全というものが問題になって、世のなかから批判が出てくると交通安全教育をしろといい、誘拐犯人が出てくると、学校で防衛策を講じろという。……そのときどきの政治の弱点を全部学校や教師に責任転嫁して、学校や教師によぶんのことをやらせるから、教師は本来の仕事ができなくなってしまうことが非常に多いと思うんです。」
※これは斎藤の発言。これについて佐藤は「教育する権利がはっきりしていない」ことと結びつけ、「国家が独占している」ものとする(p219)

p223「実際は授業を五時間なら五時間やって、放課後補習をやってもそんなに効果がないということを教師はみんな知ってやっています。」
※そうなのか?このような主張はやはり生得論的な解釈が強いということか?しかし、それこそ教育をする者の態度としては矛盾していないか?
P225「私は「寝ても覚めても授業のことを考えろ」「全生活を投入して授業をやれ」などというから、そういう先生たちからは「人権じゅうりんだ」などといわれてしまいますけど、どんな職業だって全生活を投入しなければ、よい仕事などできないわけです。教師の場合は、うちにいっても教科書をみて、翌日、子どもとどう勝負しようかなどと考えるようでなくては、よい仕事はできない。それを「近代的だ」などといって、手ぶらで学校へいったり。自動車を買ったり、マージャンをやったり、二十代のうちから土地を買ったり家を建てたりして、消費文化時代のなかにすっぽりとはまり込んでいたのでは、どうにもならない。」
※「すべての仕事は全生活を投入しないとよい仕事ができない」というのはある意味で残業を正当化する病理的発想。

P228-229「学校というものが主体性を確立していくためには、専門家としての自分たちの仕事を具体的なものにし、仕事によって事実を動かし、新しい事実をつくり出して、みんなの前に実証していくということをしなくてはならない。そのためには、行政面からくるさまざまな責任転嫁の仕事を思いきって切ってしまって、子どもの事実を動かすという、専門家としての仕事に全力をつくさなければならない。教師が専門家としてのしごとをしていけばいくほど、父母とのギャップはできるものだということを認識して仕事をしなければならない。これはたいへんつらいことです。……しかしそういう切なさというものを身にしみて思いながら、それが本来教師に背負わされている宿命みたいなものだ、それが教育というものだという決意をして、事実をつくり出していかなければならない。だから父母と仲よくする、大衆から学ぶということは、基本の線としては腹の底へほんとうに身にしみて持っているけれども、そんなことは口に出さないで、現実には手を結べないのがいまの教育の現実だと考えるほうがよい。」
※とてもわかりやすい専門性論。しかもこれは決して学問的な議論ではなく、実践的な成功事例の提示として要求されるような専門性である。しかし、では「事実をつくりだす」とは具体的に何を指しているのか??言葉としては「ほんとうに目も覚めるような子どもをつくり出」すこと(p226)と述べられたりするが、ここでは教育行政からの押し付けが問題とされているため、明確に望ましいものへの言及がない。しかし、その望ましいものが親に受け入れられるかどうか、という問いかけについては結局放棄してしまう態度しかとっていないのではなかろうか。おそらく、よい教育は親にとってもよい教育であるはずである、という見方しか斎藤はできないのではないか。
P229「古くは太閤検地以来、人に欺かれつづけてきた農民はなかなか他人を信用しない。」
※??むのの発言。

P252-253「科学というのは正しいという考え方がありますね。科学というものは非常に正しいものであって、科学的真実は一つしかない。したがって、法則化していってついにほんとうに真実なものに究極にぶつかれば、これを教えればまちがいないという意味で科学という言葉が一つ使われると思うし、それから、法則化すればだれもが応用できるからということで使われると思うけれども、それに対して創造というのは、単純にいうと弁証法的なものじゃないかという気がするんですがね。つまり、一つこれが正しいといっても、かならずそれを何か否定するものはあるはずで、その否定に対してさらに乗り越えようとする願望を持ったときに創造が行なわれる。そういうふうに単純に考えているんですがね。」
※やはり行き着く先は弁証法という表現。親への理解も結局弁証法の渦に巻き込むからこそ、問いを不問にすることを許してしまうのである。しかし、それはただの問いの放棄でしかない。

P297「教育は創造であり、創造は絶えざる自己破壊によって促進されるものであるから、自分がためされることをおそれてはならないはずです。」
※むのの発言だが、自己破壊とは自己矛盾そのものでは?
P298-299「そういう教師に教えられたせいでしょうね、高校生と話しあってみて近ごろ痛感するのですが、いまの十代には逆説が通じませんね。たとえば斎藤さんがくそまじめな教師は悪なんだといったのは、ほんとうの意味でまじめであることを要求するから一つの逆説としておっしゃっているわけでしょうが、そういうのが通じない。だから話をするときに、一本調子のタネもしかけもございませんという話をしないと高校生たちは安心しないんです。あるとき高校生の集会で、「私は日本の青年の敵になりたい」といった。むろん、若い世代と手をつなげるおとなになりたいという必死のもだえをそう表現した。若い世代におべっかなんか使わずに、どっちも素っ裸になって戦い合えるおとなになりたいという意味でいったのですが、その高校生たちは不安そうに手をあげて、「私たちの敵になりたいというのは実は私たちの味方になりたいという意味なんでしょう。ねえ、ねえ」といってきかない。味もそっけもないですよ、念を押されちゃう(笑)。つまり、ものをめくってみる発想が若者たちには育っていませんね。思考が浅いんですよ。これはむしろ教師というよりも世の親の影響が大きいと思うんですがね。ものをひっくり返してみるということがないでしょう。一種の水ぶくれの繁栄ムードのなかで現在に安住する。もっといい本物があるかもしれないが、冒険してしくじったら元も子もなくなるといって足をすくませる親。そういう親の姿に対して、教師は敵対関係を持たないといけないんじゃありませんか。教育は完結のない創造行為ですもの。」
※むのの主張。文脈が十分に理解できていないが、この「悪」という表現は、ジジェクのそれと同じだろうか?仮に善と悪が同じ意味であると考えることの批判であるとするなら、ある程度一致するとみてよい。問題は結局それを逆手に「善と悪が違う意味であると考えようとしない」となることには別の問題がある。ここには「同じ意味か違う意味か、どちらに転がるかわからない」という選択肢を放棄しているのである。むのがどちらの文脈で言っているのか、最後の一文からは前者の立場をとっているとみるしかないのではないか。何故なら、後者の立場からは、完結の有無は判断できないからだ。

P306「この前長野県へいってびっくりしたのは、いまだに信濃教育界が西田哲学に固まっている。みんな西田哲学の本を読まないと教養ある教師とは認められないんだということです。」
※佐藤の指摘。しかしこうすると「一つの問題」から出発して勉強していくという態度に欠けるという(p307)。
P309「いまのむのさんのお話のように、限界性を認めた上でそれを突破して新しい可能性をっていくことを、子どもたちに、学習という事実でもっておしえていくということが教育の基本だと思うんですね。」
※直前にむのは弁証法という言葉を使っている。

P312「普通教育のなかに職業教育を持ち込もうという考え方は、いちばん危険な考え方ですね。職業教育は重要なんだからそれはそれで別に独立して強化すればいいと思いますね。高校を卒業したあとに一年ぐらい各自それぞれの職業教育にいけばいいし、大学を出た人間でもその職業につくにはその職業学校にいけばいい。それから転職したかったらそこの職業学校にはいり直せばいい。そういう形で職業教育を徹底的にやる学校は必要だし、それはうんと充実しなければいけないけれども、普通教育のなかに職業教育を持ち込むと、必ず普通教育をだめにする。役には立たないですね。」
※佐藤の主張。斎藤も「職についてから自分の得意の分野にはいっていくやり方」を支持するし(p312)、むのも「高校段階だけでは選別はできませんよ。」という(p312)。もっとも、むのはこの部分を見る限り少しソフトともいえるが。しかし、全体としては外からの押し付けの論理の一つとして、職業教育も位置付けられているといえる。
P313「もっとほかにやるべきことがあるのです。原点にたちかえって、教育というものを徹底的に検討しなおしてみる必要があるのです。いまこそそのときでしょう。」
※以上、「日本の教育を考える」(1971)から。対談自体は69-70年に行う。
P333「私としては、差別をしないというのが、教育観の中核みたいになって、実践としてあると思うんです。」
※差別の文脈はどうとでもとれる。対談者の川上武は「差別のなかでは、ほんとうの人間の可能性は開かない。」ともいう(p333)。70年の対談。

P355「さっきお話が出たように、創造的な仕事は自分を否定しなければできないことですし、自分を否定していくということは、絶えず新しい次元に自分をたかめていくということなんですから。」
P356「文学者とか画家とかいう自由職業をのぞけば、教師なんか、もっとも自由な職業だと思いますよ。小・中学校の校長などは、東大の教授よりも権限がありますしね。自由がありますよ。
だから悪く言えば、どんなにでも怠けられるのです。先生たちでも同じようなところがあります。それだけに先生たちは、少しぐらい苦しいことがあっても、自由を生かし、そのなかで責任を果たし、仕事によって自分を生かすとともに子どもたちを生かしていってほしいと思うのです。そういう質の仕事をしてほしいですね。」