全生研常任委員会編「地域子ども学校と地域子ども組織」(1978)

 本書は、全国生活指導研究協議会(全生研)が、1968年から取り組んでいった「ひまわり学校」の実践について書かれたものである。
 これまで広田や遠山のレビューで、70年代以降学校サイドからの「教育の担い手」としての役割の撤退の傾向があるのではないのか、という問題提起をしてきた。しかし、この議論で焦点をあてていた70年代において、明確にそれが実証的に示されている事例も乏しいのではないのか、ということを念頭に置いてきた(※1)。それに対して本書は、むしろ学校側の教育の担い手としての機能を強化していこうとする意図が明確になっている点にまず注目したい。

 「ひまわり学校」の取り組みは、学校では「真に科学的で、民主的で民族的な教育をおこなうことが、不十分にしか果たされない」(p32)という前提に立つ。そして、地域社会の教育力の低下(p13)のなかで、地域というフィールドにおいて教員が積極的にその教育的活動に関わらなければならない、という問題意識を持っている。そしてここには明らかに「父母からの不信感の払拭」として、「ひまわり学校」の取り組みが位置付いていることもわかる(p40,43)。ここには教員集団の「組合活動」としての性質に対して、すでに批判的なまなざしがあったことも示唆する内容であるように私には思えるが、その不信感の払拭として、また合わせて教師自身が(教員が接触的に子どもに奉仕していることを、親に見せていくことの手段として)地域活動を行うことで、父母との教育課題の共有を可能にしていく手段としても位置付いているといえるだろう。更に教員にとっての実験的な実践の場としても位置付けることで(p26)、教員自身をこの取り組みに取り込むことができるような意図も含んでいるといえるだろう。

 しかし一つ気がかりなのは、「ひまわり学校」でないと民主的教育ができないのは何故なのかという問題である。これについては本書では明確にされていない。教育雑誌「生活指導」では、このような地域子ども学校の実践をめぐる論稿が60年代から多く見受けられるようである(本書の巻末に関連文献として記載があった)ため、「生活指導」誌上では議論されていた可能性がある。しかし、今回はそこまで読んでいないので、私の推測になるが、この理由として考えられるのは、一つに既存の学校制度に制約が強くされてきていることへの反動の可能性だろう。また、前回レビューした小川太郎が指摘した地域の班組織「ピオネール」を念頭にし、そのような組織の形成を意図したこともありえるように思う。本書でも、小川と同じく「学校くささ」の問題を取り扱っていること、その担い手として教師が想定されていることなどに共通点が見出せる(※2)。
 いずれにせよ、夏休みをはじめ、休日において教員が担い手となる制度的な取り組みとして、それが学校ではできないものを志向したものとして、「ひまわり学校」の理念はあったと言える。

 もっとも、ひまわり学校にも「学校くささ」があるものとして批判もされている(p32)こともあり、全生研としてもこのひまわり学校の取り組みは、保護者とも共同的に実施し、将来的には地域の活動家たちの中で教員はあくまでその一員にすぎない中で、ひまわり学校を運営していくという理想もあったようである。埼玉のひまわり学校についての詳細な資料となっている、埼生研編「地域にひらく「ひまわり学校」」(1978)では、長期的な見通しを立てたひまわり学校の取り組みを行っていくことが目指されている。

「〈遠いみとおし〉ひまわり学校は、地域青少年組織として、地域の民主的な人々(労働者、勤労市民)によって指導・組織されていくべきものであり、われわれはその地域の民主勢力の一員としてこれに参加することになる。このときは、すでにひまわり学校の性格は、基本的に異なってくる。」(「地域にひらく「ひまわり学校」」p112)
「〈当面のみとおし〉当面、前述の可能性(※地域の担い手)がないところでは、サークル員(※教員)が主体となって、可能なことをとりくんでいく。その場合、地域の実情や条件を考え、その力量に応じてできることをやっていけばよい。」(同上、p112)

 このひまわり学校の取り組みの全体像については私自身も全く押さえられていない状況である。80年代以降どう活動が変遷していったのかも気になる。また、本書ではこのひまわり学校の取り組みが全国的に広がっていったことが述べられているが(p178)、実際は規模が小さいものといえる。埼玉のひまわり学校の取り組みにおいては確かに開校初年の1970年の86人から、1977年の940人という規模への拡大が見受けられる(埼生研編1978、p200-201)。しかし、これは小4〜中3までを対象としたものであり、資料を見る限り一学校単位にしてしまうと、概ね一学年1、2人程度であると推測できる(cf, 埼生研編1978、p133)。このことから、実際に参加した児童、生徒がどのような者だったのか、というのも非常に不明慮であると言えるだろう。少なくとも、学校教育全体からの規模でいくと、本書の出版当時でも非常に規模は小さいのである。
 これはそのまま「学校側の担い手としての役割の強化」の議論における位置づけも非常に難しいものとなるといえる。しかし、教師を地域に駆り出す論理については注目すべき点もあり、全体的に見てどのような影響力を持ちえたのか、といった議論は、他の事例も検討するなかで、論点となってくるだろう。


※1 このような撤退の議論においては、60年代と70年代も少し傾向が違う可能性もあるのではないかとも私自身最近では考えている。実際に確認できる議論の一つとしては60年代後半に公的に実施を行うことが禁止された「補習教育」などが挙げられるだろう。補習教育は、戦前には「進学準備教育」という名称で呼ばれていたものだが、特に受験を控えた児童・生徒に対し、放課後等に補習をさせるものとして、60年代まで多くの学校で慣習化していた。しかし、受験の過熱の問題を背景に、1965〜67年に東京都教育長であった小尾乕雄の出した通達(小尾通達)を中心にして以後撤退していったものである。日教組の「日本の教育」などにおいても、補習教育の問題が取り上げられていたのは1967年頃までだったと記憶している。
参考:http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000060918
 ただし、この補習教育(準備教育)の問題にせよ、戦前からごくわずかな進学者層の支援として教師の好意から、ないし親の要求に基づいて行われてきたという側面が強く、60年代の進学の大衆化という文脈の影響を受けて社会問題化したという見方も無視できない。ある意味で補習教育も教師負担の増加を背景に禁止されるに至ったという見方が可能であり、純粋な意味での役割の縮減ともいえないのである。

※2 また、「生活指導」誌の地域子ども学校に関連する論稿の初期には、小川自身もいくつか論考を提出している。しかし他方で、社会とのつながりの理解をするための「ピオネール」という位置付けを、本書で述べられる「ひまわり学校」から認めることはほとんどできないように思える。印象としては、地域破壊に端を発した、子どもの自律的組織という性質が強いように思える。また、担い手の議論についても、教師に限らず、地域の活動家などにも目が向いているという意味でも、小川の理論を継承しているとはいいがたいのである。


(読書ノート)
p7「一九六〇年代以来の「高度成長」とか「地域開発」とかいわれる独占資本本位の政策によって、国土は荒廃し、都市生活も農村生活も破壊的な影響を受けた。こうしたなかで、「地域の教育力」の重視とか再建とかいうことが、近年、いろいろなひとからいわれるようになった。しかし、その意味するところは、ひとによって必ずしも同じではない。
あるひとは、地域の自然の破壊を憤り、子どもたちに豊かな自然を回復し、自然のなかで学んだり遊んだりすることを保障してやりたいという意味で、「地域の教育力」に回復ということを主張している。そして、わたしもまたこの主張に賛成である。」

p11「伝統的な地域子ども組織に対する発想は、悪い遊びをしないように、また、地域での子どもの生活の全体について標準化と統制をはかろうとすることである。このようにして、遊び仲間のもつ教育力をおとなの直接の統制下に置こうとするのである。戦時中の大日本青少年団の意図とそのやり方とは、このようなものである。」
p11「「民主的な」ということの、子どもたちによっての緊急のマクルメールは、遊びと遊び仲間としての交わりの私的性格を素直に承認して、子どもの組織の名で、むやみやたらに取り締まらないことである。そういうことをしたがるから、子どもたちは子ども組織を嫌うのであることを指導者は銘記しなければならない。」

p13「地域社会の教育力とは、ほんらい、地域において子どもとともに生活していることが、子どもを教育する力としても作用しているということなのである。子どもは父母や地域住民の生活のそば近くで眺め、家庭や地域社会の構成員としてなんらかの役割を持って行動し、利害を共にしたり反しあったり、家庭や地域の人間関係・社会関係に順応したり反発したりするなかで、認識や行動能力を獲得したり、モラルや生活感情を育てたりするのである。これらのことは、必ずしも生活者自身に自覚されているものでさえない。それほどに日常的でさえあるのである。」

p23「T市についていえば、数年前まではPTAが町ぐるみの子ども会を担当していた。その実態はおおよそ右の段階の1に当たる。PTAが子ども1人あたりいくらという形で予算を組み、上からオカネがおりてくるから、輪番の校外活動部委員が夏休み、冬休みに否応なしに子ども会を開くということになる。しかし、ここ数年間、T市の大半のPTAは子ども会活動をその活動からはずし、それを町内会、自治会に移行した。」
p25「しかし、ジュニア・リーダーたちがそうした遊びだけの専門家になってしまうのは、かれらのせいではない。それは、ジュニア・リーダー養成が一般に民主的な住民組織とまったく関係なしに、市の社会教育課だけによって行なわれているところに原因があるのではないだろうか。社会教育課がその養成コースのなかで、民主的な住民自治のあり方、住民運動の現実と未来、地域子ども会、子ども組織の民主的将来像などについてどれだけのことをこれらの青年に教えているのであろうか。」
※ここには明らかに自治意識を養わせる取り組みをすべきという意識がある。「市の社会教育課だけが」、という表現は何を理想としているのか?

P26「そうした観点からみるとき、地域子ども組織の発展と拡大のために、まず第一に必要なことは、いま以上に多くの教師を地域子ども学校に参加させていくことである。そうした試みは地域民教連や地域の教員組合の協力を求める動きとして、また、それらがその中心組織となっていく動きとして現われている。教員組合がそれの主催団体となることについてはなお検討していく余地があると思われるが、しかし教師を除いて、地域子ども学校の組織者、指導者に大量になれるものはいまのところ他にないことを考えると、教員組合はなんらかのかたちでその確立に関与することは必要だろう。」
P26「多くの教師を地域子ども学校に組織していくためには、なによりもそれが教師にとって魅力的な場となる必要があろう。それに参加することが、教師の奉仕活動ではなく、教師にとって楽しい研究となり、しかも実践的技倆習得ともなることが必要である。その意味では、ひまわり学校開設の当初の目的であった、民主的学校、民主的教師集団追求という課題を積極的に継承していく必要があると同時に、それに地域の父母にふれ、地域の現実に深く学ぶという課題を加える必要があろう。そうすることによって教師たちを地域子ども学校の活動家、地域子ども組織の援助者にしあげていく必要があるだろう。」

P30-31「従来、子ども会などの活動に、勉強の苦しみから解放される、一日一レクとして楽しむ、というよう形で参加する、あるいは組織される傾向があるのに対して、ひまわり学校は(自治)問題を自覚的に取りあげてきています。“うちの子どもの教育をどうしたらよいのかという疑問や要求、せめて夏休みのある期間だけでも、こういった疑問や要求に応えてくれるような行事を持ってほしいという父母の要求”などに直接応えるものとしてはじまった香川ひまわりにも、それは貫かれていたと思います。」
※この説明からは、なぜそれが夏休みになされねばならないのかが明確にされていない。
☆P32「さきに埼玉ひまわりの開設の意義を取りあげましたが、その(1)で、集団づくりを、学級や学校の枠をこえたところで検証する、といったとき、その基底には〈地域に民主的な青少年組織をつくる必要がある。しかし、ほとんどの学校では子どもたちが、自分たちのうけた教育から必然的に民主的青少年組織をつくりだすということになっていない。学校という特定の条件内では真に科学的で、民主的で民族的な教育をおこなうことが、不十分にしか果たされないならば、教師として、学校というわくをはずした場合にも、それを求めることが当然であろう〉という観点があったわけで、ここには、ひまわり学校で集団づくりを通して、青少年組織を身のまわりに組織していく自治的能力を教育しよう、という考えがこめられていたのです。」
※これは既存の学校から外れるという意味での、別の教育が志向されているのが明確。

P33「さきにも言いましたように、ひまわり学校が教師主導型子ども組織だと言われ、学校くさいもので子どもを組織している、と指摘されるのは、この集団づくりでおこなう民主的訓練の方法を、ひまわり学校の中で展開することにあるのですが、それは埼玉の観点でもあきらかにしたように、ひまわり学校を通して、子どもたちの中に、自分たちの身のまわりに働きかけて、子どもたちが自分たちの民主的な子ども組織をつくりあげられる力を育てようということにあるのです。それを教師の側にひきつけた問題で言えば、教師の教育活動の模範的実践の場というものであります。」
※なぜそれが学校でできないかを問えば、もはや学校では制約が強すぎて不可能であるから、という見方しかできないだろう。
P38「こんにち全生研会員が全国で展開している地域子ども組織づくりの取り組みは!ますます幅広く多面的になっています。」
P40香川のひまわり学校は1968年8月開校
P40「その経過について簡単に触れてみれば教育こん談会の中から提出された地域の父母の教育要求や学校と教師への批判に対して、組合教師が民主的教育の意義について宣伝したり説得するだけでは教こん活動発展はないと反省されていた時、「教組の先生が考えている、わたしたちの要求に応えてくれる民主的学校や民主的教育とはどんなものなのか、実際にやってわたしたちの子どもを立派にしてみせてくれ」という父母の具体的要求を前にして、組合がこれに答える使命を自覚することから「ひまわり学校」がはじまりました。」
※これをどう読むかなかなか難しい。

P42「かつて、大きなたたかいの時にのみ地域へ入るやり方が「苦しい時の神だのみ式の父母とのつながり」として反省され、日常的な「父母集団つくり」が重要な課題として自覚されました。そしてその実践形態として公的なPTAの民主化や学級PTA活動と同時に、私的なサークルとしての教育こん談会形式の自主的活動が各地で展開され定着してきました。」
P43「しかし、こうした教育こん談会の中でも常に、父母と教師がいつももどかしさを感じる問題が続きました。とりわけ学校くさいあるいは教師くさい啓蒙主義的ないし意識の統一先行主義的な問題状況がたえず再生産されました。逆に学校や教師への不満や批判のいいあいに終わるなど、父母の教育要求を結局、誰がどのように提起するのかというルートが保障されてきませんでした。こうして父母の具体的要求にもとづく具体的行動がひき出されないという状況が続いてきました。学校民主化や民主的教育実践創造のための地域の父母との連携という目的をもちながら、いくら重ねても教師の目に地域が写らない、地域が見えないということになりました。」

P43-44「その(※丸山武が「生活指導」1973年11月号で紹介した足立の地域子ども学校の取り組みの)重要な特徴のひとつは、父母の具体的要求や具体的行動をつくりだす上でのポイントとして、親と子どもがいっしょに参加し、楽しむ活動—親子ハイキング、親子キャンプ、親子スポーツなど、ひと口にいって「親子活動」に取り組み、これを重視したことです。それは親子レクリエーションであったり、親と子の文化活動であったりしました。それらを通して父母たちは、集団の中の我が子を目の前にし、集団の中で育つ子どもたちを発見する重要な最初のきっかけにしました。」
※ここには当然、父母も教育されねばならないという、旧来的な教育実践の観点があったといえるだろう。以上の部分はP7-城丸、p18-竹内、p28-大畑佳司、p38-高橋廉が執筆。

P48香川ひまわり学校、1969年7月の生活指導にも報告あり
P49-50「たしか香川にもこれまでいくつかの臨海学校がもたれてきました。それは主として青年・婦人・学生の民主団体のそれこそ献身的な奉仕の上になりたっていたといっていい、そしてこのことが、新しいタイプの「ひまわり学校」を生みだすもとになったといえると思うのです。ただ「楽しく三日間を過ごさせる」「労働者や活動家の両親に代わって水泳をたのしませてやろう」といったものから「学校」としての積極的意義が追求され、将来に向かっての展望をみとおせるようなものにしたい。ここのところあたりからこの「学校」の質はかたまりはじめたといっていいのです。」

P56-59 四つのひまわり学校の日程
P61「したがって、「あまりにも短すぎる」とグチることは、わたしたちの力量の不足と経験の足りなさを表明しているともいえるのです。わずかな期間であるにしろ、二泊三日の中で、何をこそ教え、何をこそ捨象しなければならないか、そのことを明らかにすることが、総花的日程から脱する道だと思います。
このことは?の教科指導に端的にあらわれています。特に、三豊教室では、国語、算数、理科、社会、図工と貪欲なほどに教科の指導を日程にのせていますが、このことについては、第一回実行委員会から問題に出され、終止論議の中心となりました。それは、「授業をさせることでサークルの力量を問うのだ」という須藤の挑発が刺激ともなっているのですが「授業」の本質にせまる問題であるからこそ大きな波紋を呼び起こしたと考えられるのです。「小一から中一まで集めて授業が成立するはずがない」「科学的系統性などといっているがカリキュラムをどう理解しているのだ」といった手きびしい批判(?)が出されたものの、それを完全に説得しえず、実践的には日程の変更で、教科の学習を短縮させるといったあいまいさを残したままになっています。」
※どちらがよいのかについて判断されていない。

P81-82「「教育こんだん会」は、一九六八年四月、地域の民主的婦人団体が教師の援助のもとにはじめた、教育の諸問題について話し合う会です。はじめのうち、わたしたち教師は「講師」というちょっと高いところにいるというかたちで参加していました。しかし、しだいに、父母の悩みや要求を聞き、その解決のしかたを教えるというありかたをこえて、父母と教師がきびしく相互批判しながら民主的教育をさぐってゆく方向へとむかっていったのです。」
P105埼玉のひまわり学校の日程
※学習活動あり。

P178「ところで、地域子ども学校・子ども組織の実践はーー全生研としては主としてひまわり学校という実践形態で展開してきたものーー一九七〇年代後半に入ってから急速に、しかも加速度的に、全国的に拡がってきた。住民自治の思想と運動は、一九六〇年代は主として、公害反対闘争を中心としたものであったのに対して、一九七〇年代の特徴が、教育闘争になってきたことは直接関係することなのであるが、民主的な子ども学校・子ども組織の拡大と深化の問題は、裏を返せば、今日の子どもたちのおかれている社会環境・教育環境がよりいっそう悪化し深刻化していることの裏付けになるのである。そして、そのことは、今日の子どもたちの発達を保障するという点で危機的状況すら生み出しているということである。」
※60年代の統括の仕方として公害を位置づけるのが正しいかどうかは微妙。むしろ全盛は70年に入ってからだったはずだから。おそらくこのあとがきは小出湧三のもの。