十川幸司「来るべき精神分析のプログラム」(2008)

 今年最後のレビューは久々に精神分析関連の著書である。十川の著書は以前「精神分析への抵抗」を読んだ際に、なかなか私に近い解釈もしているなという印象を持っていた所である。本書においても、基本的にはメラニー・クラインの解釈も類似している印象があった。ただし、認識のズレも見受けられるため、今回はそのあたりの議論を抽出しつつ、これまでの議論の整理をしてみたい。

 過去のレビューを振り返ってみると、精神分析の議論をこれまで検討してきた理由の一つは、精神分析の著書周辺で議論される「権力」と「生成」をめぐる考え方の検討にあった(東浩紀のレビュー)。本書でも議論されるようにドゥルーズ=ガタリフーコーなどは確かに精神分析の分野に対して、そのプロセスが「規範化」のプロセスであり、その定着化に対して批判を行い、別の生成の可能性について議論していた。これについては「純粋模倣」という概念を提出しながら、精神分析側から、そしてそれを批判する側の両面から批判的な検討を行ってきた。
 私自身がここで特に注目し、強調してきたのは、本書でも出てくる第三項の介入、つまり「汝と我」とは別にその関係に介在しうる第三者の可能性についてであった。そして、この第三者の介入によって説明されうる「社会的無意識」と「個人的無意識」(ドゥルーズ「意味の論理学」のレビューを参照)を混同するという問題を持っているという問題提起を行った。十川の著書においては、エディプスと早期エディプスの違い(エディプス段階における空想と、前エディプス段階の空想の区別)についての考察と関連するものである。これが問題であるのは、2つの無意識が同じものとして取り扱われることで、特に「社会的無意識」しか存在しないことを前提として議論がされることによる問題、<法>に服していない領域が存在しない、という議論を必然化しようとする見方に対して批判を加えようとした。
 また、ここでいう<法>に対する考え方は、「フロイト全集第19巻」のレビューで少し整理した。ジジェクもある意味でこの<法>により主体化される必然性を説き、それと自己には常に距離があることを指摘しつつ、主体化論を展開していた。これはやはり<法>に服していない領域が存在しないからこそ、それを逆手にとっているものと解せる。ただ、私自身も<法>に服していない領域は「生まれつき」持っているようなものではないことだけを指摘し、本書でいうエディプス期以後については、そのような必然性がありうることまでは批判したつもりはない。しかし、この<法>を介在した主体化自体が必然的なものとして語られること、<法>から離れようとする欲望が必然的に存在し、いわばそれが促進されていくような語り方に対しては批判的に捉えた。
 これに対してフーコーは、そのような<法>がない領域の存在の否定までは行わずに、なしうる主体化論を展開しようとしたものといえる。主体化には二者関係が存在しなければ成り立たない(真理は一人の判断では成立しえない)ことを述べつつ、第三項がそこに介入することがないような条件について考察していた、という解釈が出来るように思える。

 また、この精神分析の必然的語り口の問題とは別にもう一点、特に教育との関連で言えば、この精神分析の実践というのが、教育関係としての理想形を追求しているという意味で参考になりうる要素を持っているといえるだろう。特に十川の議論の中からは人間性を尊重した「創造性」を重きにおいた精神分析の必要性(P188)に顕著にみられる点である。

○十川の哲学者への批判…哲学者はどう語るか
 さて、十川はドゥルーズフーコー精神分析を批判していることに対して再批判を行っている(P188)。そこでの大きなポイントは「規範化」である。「治療」や「健康」などという言葉を確かに精神分析家は用いるが、それは「規範化」を伴わないものであるという主張を行っている。
 これについては二方向から批判できる。まずは、実際にドゥルーズフーコーがどのようにして批判を行っていたのかを見返すことである。ドゥルーズにはあたらないが、フーコー精神分析に与えた批判について、このような記述がある。

「要するに精神分析の本質は科学ではなくて、告白の上に成り立つ自己についての自己の作業技術なのです。この意味において、精神分析は管理の技術でもあります。それというのも、精神分析は自らの性的な欲望を中心に構造化された人物をつくり出すからです。このことは、精神分析が誰ひとりとして助けられないことを意味するのではありません。精神分析家は原始社会におけるシャーマンとのさまざまな共通点をもちます。もし患者がシャーマンの実践する理論に信頼を寄せれば、彼は救われる可能性があります。精神分析についても同じことです。このことは、精神分析がいつでも神秘家の実践であることを意味します。なぜなら、精神分析はそれを信用しない者を助けることはできないからであり、このことは多少なりとも上下身分的な関係を暗示しています。
 しかしながら精神分析家たちは、精神分析が自己についての自己の作業のひとつとして教えられ得るという考えを拒絶しているということは、認めなければならない。」(「ミシェル・フーコー思考集成Ⅹ」訳書2002、p150)

 ドゥルーズがどうかはわからないが、少なくとも、フーコーは「規範化」という相から精神分析批判を行っている訳ではない。それがあくまで統治の技術の一つとしての正当化をもち、それが特に「告白」の形式をとっていることに対して問題視しているのである。「真理の勇気」のレビューで触れたように、フーコーは「告白」の様式をキリスト教に求め、その儀式は自らが真理を語る可能性を否定してしまうものであると批判していた。精神分析についても、そのことに抵抗的な態度が見られない訳ではないが、形態として、一種の「信頼」がある限りは、同じ結果になるではないか、と述べるのである。問題は規範よりも、「信頼」をめぐる問題なのである。
 もっとも、ここで言う「信頼」の議論について、フーコーの主張はやや大雑把な感じも否めない。結局ここでフーコーが批判しようとしているのは、私自身の実践を阻害する、盲目的な信頼についての批判である。しかし、真理の議論を行う上ではむしろ他者との対話の場面というのは必要であり、ある意味でそこには一種の「信頼」関係を前提とする場が必要と述べられているように解釈できる。むしろそこで求められるのは、「関係性を崩壊」する覚悟さえある、パレーシアの実践であると説いていたのである。

 また合わせて、「規範化」とは何かという問題も厄介である。p91を文字通り読んでしまうと、十川自身の規範化自体が何を指しているのか不明慮である。結局前エディプスにおける規範化というのは、いわゆる「社会化」の一つであるとはいえるだろうが、あくまで一対一の人間の関係性をベースにしたコミュニケーションの基礎を身につけるという意味での「規範化」と解釈すべきだろう。麻生武のレビューでも見たように、確かに前エディプス期においても、指さしなどの動作は他の動物には見られない「人間的」なものとして位置付けられていた。そのようなものも含めて基本的には本書における「規範化」を定義している。
しかし、フーコードゥルーズをP188で批判する際には「外圧的」規範化に特定して、そのような規範化を精神分析は付与しているものとしてフーコードゥルーズを解釈し、十川はそれを批判しているようである。しかしこれもフーコーに立ち返れば、的を外しているといえる論点であるといえる。
 更に言えば、私がメラニー・クラインを批判した際、むしろ精神分析側(クライン)の主張が、エディプスと前エディプスの違いを無視してなされていたものと解釈していたことを考えると、十川の批判は、クラインの読解をめぐる解釈の違いの問題がむしろ大きいように思える。この問題を考える場合、十川が取る精神分析論の構成の取り方に言及せねばならない。これが批判の二つ目の方向性である。

○十川の前提とする精神分析「理論」による批判の問題点
 十川の目指す精神分析論は、エッセンスをフロイト等の先人から持ってきたものと強調しつつ、その矛盾点を取り除きながら理論化を試みているものと解釈することが可能だろう。しかし、その際にその理論があたかも「フロイト」の理論だったり、「クライン」の理論だったりと述べる際の態度を取ることは問題があるようにも思える。結局、エッセンスから持ってきた議論は、その人物の議論であると十川が述べているように見えてしまうことが問題ではないかということである。
 言い換えると、十川が本書の前半でフロイトのミスリードや矛盾点を議論する訳だが、結局その上で十川が実践する精神分析論が何なのか、それがフロイトとどう関連しているのかが不明慮なのである。結局ドゥルーズフーコーを批判する時に持ち出す精神分析論は、十川が構成し直した精神分析論であって、フロイトやクラインの精神分析論を批判したフーコーらの指摘は妥当であり続ける可能性は大いにあるのである(そして私はフーコーの主張を支持する)。
 もっといえば、十川は「理想的な精神分析の理論」の立場からフーコーらを批判してしまっている。ある意味一番問題なのはこの点である。十川も理想と実践の差異については言及しているのであるが(P194)、これは、結局「理論」を根拠にフーコーらを批判する根拠自体も弱体化させる。
 フーコーの批判は特にキリスト教の批判をするときは過剰であるという嫌いは確かにあり、近代的な統治形式における「告白」に対しても少なからずその影響を与えている。しかし、この問題を精神分析の実践の場における「躓き」、理論と現実のミスマッチによって「規範化」がなされてしまうという可能性まで否定することは不可能だろう。特に十川の理論というのは、現状の精神分析家の間でも十分共有されていないという認識も前提にしている印象を読み取れるし、その認識のズレは、そのまま十川が提示した「理論」からも離れていく可能性を指しているのである。

 私が本書の態度に最も賛同できないのは、「哲学者と分析家」という区別を、このような議論の問題を無視して区別してしまい、不必要に批判を加えてしまっている点にある。このような区別を「理論」で押し通そうという態度自体が、最近読んでいる70〜80年代の人間性を訴える教育論との類似性を強く感じてしまったのである。


(読書ノート)
p20-21「精神分析は患者の現在を扱うものであり、それが患者の過去と多くの経験の介在によってまったく異なったものになるなら、精神分析の発達論とは基本的に無関係である。にもかかわらず、発達論が精神分析の臨床において意味を持つのは、乳幼児の徹底した観察に基づき、乳幼児の経験様式をいくつかの発達論が、私たちが理論モデルを立てる上でヒントになりうるからである。しかし発達論から理論モデルを構築する場合には、例のメラニー・クラインがしたように、乳幼児の経験を大人の経験へと直接に結びつけるといった、素朴な印象に基づいた理論化は避けなくてはならないだろう。大人の中に子供のあり方を見るという考えは、それを文字通りに取るなら完全な誤りであり。たとえ比喩だとしても誤解を生む比喩でしかない。私たちは、あくまで乳幼児の経験様式の変遷を、現在の経験様式を考える上で参考になる一つの虚構として把握し、そこから理論モデルを引きだすべきだろう。」
※クラインの議論を素朴な印象という表現で揶揄するのは妥当なのかという問題…

p30-31「欲動の回路は、ある特定の器官を中心に組織化される。欲動の回路は欲動自己を形成するが、この欲動自己は快の方向へ向かって、ベクトル的に作動するのが特徴である。この快の方向の終点は、かつてあっただろう母親の身体そのものとの充足である。しかし乳児はもはやその充足に至ることはなく、断片化されたものとして経験している母親の身体の一部を欲動の対象とし、その対象との間で充足を試みようとする。欲動自己のもう一つの特徴としては、欲動自己の作動は空想を生みだすということである。」
※母親という素朴な前提…母親に依拠している必要など微塵もないのに。

P46「このようないくつかの問題点を踏まえた上で、私たちが現在の時点でフロイトの心理・性的発達論の構想の核心として読み取るべきことは、ある欲動は必ず一つの器官を中心に組織されていて、その欲動は他の欲動と連動して作動しているということである。」
P50「しかし、忘れてはならないのは、エディプス・コンプレクスとはフロイトの議論の中では、本来は、欲動の水準の問題であり、それが情動の問題へと置き換わるのは二次的な過程だということである。」

P51「ある時、男の子は、母親や妹の性器を見て、そこに男根がないのを発見し、彼女らは男根を奪われたのだと思い込む。そして自分もいつか男根を失うのではないかという不安を抱くようになる。また、幼児のセクシャリティの性質が多形倒錯であるゆえに、男の子の男根を巡る欲動は、自分の最も身近な養育者である母親にも向かうが、男の子は父のように母親と関係を持ち、父親の場所を奪うと、父親から報復として男根を奪われるのではないかという恐怖を抱く。それゆえ男の子の欲動は母親に向かわず、さらには自ら男根の機能を麻痺させてしまう。これによって性の潜伏期が始まる……とフロイトは論じている。」
※このプロセスは発達論的な意味で、必然性を帯びているとみなされているのかどうか??そして、この説明は全く論理性に欠くため、それ自体に説得力を感じない。一応十川はこれをフロイトの言い分として説明しているが、十川自身の精神分析実践の根拠について説明が全くされておらず、十川がこれを支持しているようにも読むのが不可能でない。

P52「ところでフロイトは最初、エディプス・コンプレクスの理論を欲動の水準から構想していながらも、あるときはこの理論を情動の水準で説明し、またあるときは両者が混在した形で論を展開している。私たちがフロイトのこの理論を理解するさいの困難さは彼の議論におけるこのような水準の移動がその原因の一つとなっている。」
※それはすでに「フロイトの」理論としては不備があると認める必要があるのではないか?フロイトは公式にそれまでの混同についての説明を行い、修正を訴えていたのか?
P52「実際、情動の動きと男根という器官との直接の結びつきはない。しかし、フロイトはエディプス・コンプレクスをあくまで欲動の水準で捉えているゆえに、彼はつねに男根を問題にするのである。」
※この説明の仕方は十川の独自解釈でしかないのでは。フロイト自身の考えとしてこれを語ることは問題だと思うが。

P53「この女の子の空想について、フロイトは次のように考えている。女の子は男根期になると自分に男根がないことに気がつく。しかし、女の子は男根はないことをすべての人に普遍的なものとは考えない。最初すべての人には男根があったが、自分は失ってしまったのだと考える。それゆえ母親に男根がないことを知ったときは、自分に男根がないのは母親のせいだと思うようになる。ここから母親に対する蔑視が生まれる。」
※envyの議論を性的なものに閉じ込めて語っているように見えるが。そしてそもそもenvyは成立しているのか?envyが成立するのはいかなる状況においてなのか?しかし、普遍性を強調しているからこそ、男根期なる一般名詞用いていると解釈すべきだろう。

P57「ここまで男女の区別がないが、性器を巡る欲動は、男根を持った男の子と、陰核とヴァギナを持つ女の子では空想内容が変わってくる。前者はエディプス的空想を抱き、後者は身体内部の空間と結びついた空想を持つ。そして、それぞれその空想の変化によって欲動の作動も変化する。」
※このあたりは男女の子どもすべてに作動しているかのように語っているように見える。
P60「潜伏期に起きることは、イメージや言語を通した社会的規範の介入である。」

☆P70「フロイトは『集団心理学と自我分析』において、「精神分析はそもそもの始まりから、最初から同時に、全く正当な意味での社会心理学である」と明言しているが、個人の心理と社会真理を同じものとみなす発想は、一九一〇年代以降のフロイト理論における一貫した方法論ともなっている。……つまり、フロイトにとって社会は自己と同様にエディプスという構成原理によって構成され、超自我という心的審級がその両者を繋ぐ結節点となっているのである。」
※「『トーテムとタブー』などのテクストでもわかるように、フロイトは社会の構成も欲動の水準で説明できると考えていた」(p73)ことに対しては批判的である。

P76「このようなシステム論的な観点から、フロイトのエディプス・コンプレクスの構想を改めて捉え直すならば、エディプスとは自己システムと社会システムがカップリングを形成(および調整)していく過程で生じる自己システム内の作動上の変化だと再定義することができる。このエディプスの再定義は中後期のフロイトの構想を厳密に引き継いだものである。」
※これはフロイトの批判上で主張されるものである。
P77-78「しかしクラインは、これをフロイトのエディプスと基本的には同じ性質を持ったものと考え、理論化をおこなった。この早期エディプスという構想は、発表された当時にはさまざまな反論があったが、現在では、フロイトのエディプス・コンプレクスがより早期の心的世界にもあることをクラインが発見した、ということはすでに教科書的な定説となっている。
しかしフロイトのエディプスとクラインのそれを、その構造の類似ゆえに一つのエディプスへと還元してしまうべきではないだろう。この二つのエディプスはいずれも自己システムと社会システムのカップリングの過程であり、私たちの定義からしてもいずれもエディプスと呼ぶべき過程である。しかし、早期エディプスでは、主として情動の回路を中心としたカップリング形成にともなう心的作動の変化が問題になっているのに対し、(フロイトの)エディプスでは、主として言語の回路を中心としたそれが問題になっているのである。」
※さて、この違いはどう生きるのか?そして、結局これは第三項として父の存在を認めることになるのか?

P80「クラインはここに父親のペニスを導入して、双数的関係が三角関係へと変わるという論を組み立てているが、その後、出現する結合両親像からもわかるように、この父親のペニスは第三項の役割を果たしてはおらず、結局は、より巨大な迫害対象生みだすことになってしまっている。」
☆P80-81「乳児の攻撃性が緩和されるのは、欲動の回路に情動の回路がカップリングし、欲動の作動が調整されることによってである。このような欲動と情動の回路のカップリングは次の二点において、自己の作動の様式を変化させると言うことができる。まず第一に身体機能の調整である。第一章でも述べたように、欲動と情動はいずれも運動系のシステムであり、身体運動と密接な関係を持つ。しかし欲動の回路が作動するだけでは、身体の筋肉の緊張性、現代性の動きはうまく噛み合わない。そこに情動の回路がカップリングをなすことによって、身体機能の統一性が形成され、自由な運動が可能になる。第二点は、心的空間の形成である。欲動の作動は二次元的なものであり、空間的な広がりを持たない。一方、情動は自己を他者へと開き、そこに間主観的な領域は三次元的なものへと拡大し、そこに心的空間が誕生する。そして、心的空間の生成は、認知能力をも含めた自己の心的機能の飛躍的増大をもたらすようになるのである。」
※この主張は概ね認めてもよいように思える。

P81「(※早期エディプス状況で生じていることの)一つは欲動の回路と情動の回路のカップリングがもたらす、欲動の回路に対する規範的な作動である。……だが、欲動に対するこのような規範的機能は、情動の回路が持つ運動調整系の作用によるものであり、フロイトの発見したエディプスのように外的な規範が内面化し、欲動の回路を統制するものではない、ということには着目しておきたい。」
※ここでの「規範的」という表現を用いるのは違和感もある。運動調整系の作用と聞くと、これは非常に動物的な運動機能を想起させるが、規範的という表現は普通逆に人間的なものに充てるからだ。
P81-82「第二は情動の回路の作動がもたらす認知的作動である。この認知的作動は、感覚対象の統合と身体機能の統一、そして心的空間の形成をもたらす。つまり早期エディプスを乗り越えることによって乳児は、情動を基盤とした広義の認知機能を獲得するのである。」

P83「すでに述べたように、情動の回路はコミュニケーション・システムを形成すると同時に、当のコミュニケーション・システムが自らの回路を形成するさいに重要な役割を果たしている。コミュニケーションというシステムと内的関係を持つ情動の回路が自己内部に生成することによって、自己は最初に「社会化」される。」
P85「さらに、自閉症者が地図やカレンダーに対する異常なまでのこだわりを示すことはよく知られているが、それは彼らが世界を二次元的に処理するための方法である。彼らの自己システム内では、情動の回路が欲動の回路とカップリングを形成するほどに十分に形成されていないために、彼らの心的世界は基本的には二次元的な広がりしか持たない。」
P85「後に述べるように、言語的コミュニケーションとのカップリングは、情動的コミュニケーションとのカップリングが前提条件となって形成される。したがって自閉症者の自己システムには言語的コミュニケーションとのカップリングは形成されない。」

P88「ここに哲学者と分析家の思考方法の違いがはっきりと表れている。一つは、早期エディプスについての考えの違いである。ドゥルーズは早期エディプスが、情動の回路の関与による欲動の内的調整過程であるとは考えず、外的規範の強制過程であると理解している。しかし実際、早期エディプス過程は、自己が自己として形成されるために通過しなくてはならない不可避の過程である。この過程なしに、自己の形成はありえない。クラインにとって、これは彼女の実践の前提となっている事実である。」
※クラインの物言いからは、ドゥルーズの解釈を私は支持したくなる。十川も指摘しているクラインの第三項の挿入ということが、外的規範の強制過程であるように、(特にクラインの初期の議論において)どうしても見えてしまうのである。これを思考方法の違いに還元してしまうのは適切ではない。言い換えれば、自閉症の患者についても、外的規範の強制過程は作用しうるのではないのかと思う。
P91「フロイトは、この時期を三歳から五歳と考えていたが、この欲動の亢進に対して言語的コミュニケーション・システムが強力に規範的に作動し、欲動を制圧する過程がエディプスと呼ばれる過程である。早期エディプスは、規範的な過程というよりむしろ認知的な過程だが、エディプスは基本的に規範的な過程である。この点が、早期エディプスとエディプスの作動様式の本質的な違いともなっている。」

P133「精神的な病が生じるのは自己システムが社会システムと関わりを持ち、それを自らの不可欠な構成要素とすることによってである。自己システムと社会システムは異なったシステムであるゆえに、一方が他方と完全に同化することはない。この二つのシステムは異なったシステムとして作動し続けるためにシステム間の齟齬が生じる。そこに自己がこの世界で感じる居心地の悪さが生まれる起源がある。」
P134「精神分析が決定的に精神医学と袂を分かつのは、このように分類された病気、あるいはその分類の根拠となる症状という観点から患者の自己を見ないということによってである。」

P180-181「さらにこれに加え、分析家は外部からの批判に対し、思考停止に陥ることが多いことも、批判が機能しない原因でもある。分析家はただ臨床において思考を重ねるのであって、抽象的な思考をするのではない――このような考え方が分析家の間では支配的である。しかし本質的な批判に対しては、その批判を重要な問いとして受け止め、自らの行為を考え直してみることが必要だろう。」
※これはもはや精神分析の目的の捉え方の違いにしかならない可能性もある。教育を考える上では、このような外と内の考え方は、学校教育の議論と大いにアナロジー認めることができる点に意義があるか。

P188「私たちは先に精神分析は「健康」を目指すものだと述べた。そのさいの「健康」とは正常化=規範化とはいかなる関係もないものである。それはその患者が持つ力の発露である。……分析治療を経験することのよって、患者はもはやかつて与えられた形に従って生きるのではなく、自らが自己に形を与えて生きるようになる。であるならば精神分析とは、患者の自己システムの作動から創造的な側面を引きだす行為に他ならない。分析治療を正常化=規範化と関係ではなく、創造の関係で捉え直すことは、私たちが新たに精神分析を構想するうえで念頭に置いてきたことであった。」
※これは教師が生徒の創造性の担い手であると言っているのとほとんど同じレベルで意味を持たない。精神分析家がその実践において「規範化とは無関係である」であることを担保するものなど、どこにもないのではなかろうか。十川自身の実践に限って言うならばまだ議論の余地はあるが。この主張はフーコードゥルーズ=ガタリの批判に応答したものだが、彼らの批判はやはり妥当性を持っていると解するしかないのでは。彼らはまさに十川の述べるような根拠のない精神分析と自律的主体化の関係の問題に焦点をあてているように思える。そして、最後の文は明らかにパフォーマティヴな言明である点が矛盾を明示している。
P189-190「私たちは先に自己システムの形成過程にすでに社会システムの関与が前提とされていて、社会システムの関与がなければ、自己システムはそれ自体としても成立しないということを論じた。この観点から見るなら、近代社会に生まれた子供にとって、最初に最も親密に自己と関わる社会システムが家族という社会システムであり、自己がこの家族という社会システムとカップリングをなすことによって、近代の自己は形成されるのである。この最初の社会システムが自己に与える形は、それが自己の可能性が最も高い時期になされるゆえに、自己の最深部までに影響を及ぼす。」
※ここでいう家族の社会システムは情動的な「規範化」を指すということでよいか?しかし、これはいわば社会システムの「条件」である、という位置付けの方が正確ではないのか?私はわざわざ社会システムという言葉でまとめる必要性はないと思うが。

P194「精神分析は自己システムの作動形式を変える経験である。分析家の長期間にわたる治療的コミュニケーションの形成は、患者の自己システムの個々の回路を変化させ、システム全体の作動を新たな様式に変える。それによって、患者はこれまでとは別様に感じ、考えるようになり、そして他者や世界に対し、以前とは異なった仕方で関わることができるようになる。だが、これはあくまで理論レベルでの話であって、実際の分析は理論通りに進まないことの方が多い。経験的なレベルではさまざまな事柄が起こりうる。まずは理論に比較的沿った例を挙げるなら、ある患者はそれまで「化石のような」生を送っていたが、分析を経験することによって、生きることの苦しみも喜びも味わえるようになっている。」
人間性の議論を明らかに経由した言い方。
P229「とすれば分析家は、精神分析を通過しない自己の変容体験から、精神分析の経験と接続可能な局面を読み取ることによって、より自在な形で、患者の経験を動かすことができるようになるだろう。だが、そもそも分析家がどれだけ治療的作動コードにのみ基づき患者の経験を動かそうとしても、患者の経験それ自体は、そのような意図からは外れ、より多様で深い経験へと変転していく可能性を持っているのである。」
※しかしこの意図から外れるという性質は程度問題であるようにも思うし、全ての人に一律に当てはめようとすることも妥当と思えない。