森田洋司/清水賢二「新訂版 いじめ」(1986=1994)

 今回は前回の大久保のレビューで引用されていた、森田・清水の「いじめ」を取り上げる。読んだのは新訂版であったが、最初の部分のみが追加されているようであるため、本旨については、1986年の時点での議論であるとみなしてよいだろう。

 まず最初に簡単に本書の内容をまとめてみよう。
・いじめを生む背景はまさに大人の世界の反映である(p11-12)
・教師の問題は、基本的にいじめの問題に真摯に取り組まないことにのみに限定されている(p97)
・管理主義も確かに原因の一つと位置付いている(p134)。それはいじめが規範意識の衰退として捉えられ、その規範意識の衰退は過剰な校則による「外からの規制」が生徒自身の「内なる規制」を阻害しているものとして説明される(p136、137)
・管理主義的な環境は逸脱を許さないにもかかわらず、大人の言動は一貫性をもたず、大人社会の規範こそが弛緩している(p138)。こども文化がギャグ、パロディを面白がるようなふざけの文化には大人文化への侮辱感が含まれている(p137、138)
・一方でいじめは管理主義だけでなく、野放しの自治主義からも生じるものである(p155-156)
・教師がすべきは教室での異常を感知する力であり、連携を高めながら問題にとりくむことである(p210、213)

 ここまでで管理主義に関することで二つのことが確認できる。
 一つは本書における管理主義の言説がいじめの原因となりうる可能性の一つとして語られているに過ぎず、いじめが児童・生徒の自発的な規範意識の欠如によって説明されている以上、当然放任的な環境においても起こりうるということに対しても否定的な態度を取っていることである。
 そして、もう一つは教師が管理主義のエージェントとみなされていないことである。このことは極めて奇妙である。管理主義とは紛れもなく学校の中での営為が影響して(それが校則として)生徒を無気力化させるものであるにもかかわらず、坂本秀夫が非難したような校則批判の方向性を持つことなく、「教師に管理主義をやめよ」という提言も行っていない点である。これは、例えば遠山啓の場合であれば、教師に対しても直接競争主義の担い手になってしまっていることに対して改めることを要求するほうがむしろ筋が通っているように思える。しかし、原因が競争主義や管理主義にあることを述べているにも関わらず、森田らはこれらの改善を現場に要求しないのである。大久保正廣はいじめ問題における管理主義還元説を強調しているが、このような態度を還元的と呼ぶのは横暴であり、必ずしも一般的な議論とは言えないことが確認できるだろう。

 なぜこのようなことになっているのか説明することは可能で、「いじめに対する有効な手立てはない」、管理主義が「個人の力ではどうすることもできない」ものである、と見ているように困難であることを大前提にしているからである(※1)。そして本書では基本的に「対処療法」の必要性とその方法の言及にとどまっているのである。このような態度を批判するのは簡単であるが、むしろ自殺やいじめの問題をはじめとしたこどもの「心」の問題に言及されるようになった70年代半ば以降から、このような対応困難を前提にした言説が主流になっていったのではと(検証をすべき内容だが)感じる。遠山の批判もあくまで「でも現実は…」という形で批判する者たちにそのような態度では駄目である、と再反論を繰り返しており、明星学園の事例においても焦点は「実際に(競争主義なりの)現場に身を置いている者の責任者としての親」による理想論の批判であった。はたまた、久徳重盛の議論のように、原因と対応の不一致という状況もある意味で当時の社会問題の原因に関する議論のされ方の典型例であるように思えてきてしまう。80年代においても脱学校論・校則批判論などを中心に問題の根本的解決を図ろうとする勢力があったことは事実であるが、次第にそのような議論は、それに反対し、その事実を受け入れた上でどうするか模索する議論に転換する傾向があったように思えるのである。特に本書においては対処療法でもよいから現場教師に生徒の実態を捉えてもらい、いじめの問題に取り組むことを強く求めている。これには当然社会問題としてのいじめの問題の強さが了解されており、根本的な解決についても必要性を否定はしていないが、「できることをやる」ところから始めるべきであるという論調と言える。これは根本的解決を図る側からすれば非難の対象とさえなるが、結局そのような根本的な解決は埒があかないとみなされているからこそ、対処療法でもすべきとされるのである。

 思うに、このような議論が主流化する中で、「社会問題」の原因とされる網羅的な社会変動の議論(p222-223がまさにそれである)というのは一人歩きを始めてしまっている感が否めない(※2)。P226には問題の解決が主張されるものの、その具体的な言及がされず、社会変動論は普遍的な性格を強めざるをえなくなる。しかし、そうだとすれば、一体その社会変動論が「原因」であると語ることにいかなる意味があるのかについても考えていなかければならないのではないか?それは本当に原因(問題点)なのかという議論と合わせて、その「原因」が曲解されていく可能性についても配慮せねばならないだろう。

 すでに広田のレビューにおいて、社会問題が網羅的に語られる性質を確認してきたが、80年代頃の議論において、このような一人歩きをはじめるような傾向と、そのような実践の基盤を失った問題意識が(時には全く関連性を持ちえない)実践的なものと結びつき、再構成された形で実践的な領域が議論されることがあったのではないか、それこそが、例えば「家庭の教育力の低下」言説として語られているのではないか、という可能性を見出せるように思える。この点については大いに当時の議論からの裏づけが必要な部分であるだろう。今後のレビューではその部分に特に注視していきたいと思う。

※1 もしくは、学校と家庭の対立図式を国家制度等の外的なものの問題であると位置付けられることで、学校内の問題である校則問題自体をどうするのかという議論に結びつくことはなかったと読めるかもしれない。以下のような議論のされ方は80年代当時にも当然ありえたように思う。

「乾(※彰夫)は、一九七〇年代半ば以降の教育問題の特徴について、「それ以前社会的に大きな関心をよんだ教育問題の多くが、政府および地方教育行政当局の政策・施策と、それに抵抗・批判し、その転換を求める運動との間の対抗を中心に構成されていたのにたいし、その対抗軸が直接にはみえにくい諸問題に移っていった」〔乾 一九九六〕と指摘している。そのなかで、親たちの教育要求も「国家統制や競争に批判的でありながらも同時に『わが子の教育』に関しては学習指導要領どおりの『学力』保障を学校・教師に求める」など複雑でアンビバレントなものとなっていく。……七〇年代末から八〇年代初頭にかけての「校内暴力」とそのもとでの教師と子どもたちの深刻な対立、あるいは学校の「荒れ」を契機とした地域社会と学校との間の関係断絶などは、能力主義的な教育競争の昂進のなかで、本来手をつなぐべき教員・学校と子ども・親・住民とが対立し相互に不信感を深めていったという点で、きわめて悲劇的な事態であった。」(「高度成長の時代2 過熱と揺らぎ」2010、p200-201、木戸口正宏の指摘)

※2見方を変えれば、大久保が批判したような「ポストモダンの教育論」も、このような分断の状況がなければ成立しない類の議論であるといえるだろう。そのような態度の是非は置くにせよ、問題とそのための実践の結びつきはこのような議論からはむしろ距離が置かれるべきとさえされるだろう。


<読書ノート>
p11-12「社会とのつながりを出来るかぎり少なくし、家族のようなわがままの言える狭い世界に閉じこもり、外の世界では自分だけの保身や利害にきゅうきゅうとする傾向は、現代の子どもたちだけでなく、少なからずいまの大人たちの生き方である。子どもたちの姿は、こうした生き方をしている親たちの姿の反映ともいえる。」

p97「さらにいじめられても教師に頼れないのは、とりあわない教師やことなかれ主義のサラリーマン教師がいることである。いじめから逃げず、問題に正面から取り組み、子どもたちと一緒に悩み苦しんでいる教師もたしかにいる。しかし、他方では相談を受けてもとりあわない教師や、くさいものにはふたをしてもみ消しを図る教師のいることも事実である。」
※もっとも、教師に頼らない最大の理由は「いじめっ子からの復讐へのおそれ」であるとする(p96)。また「もし、教師が押さえつけようとすれば、いじめは教師の眼のとどかないところで続けられるだけに終わる。」ともする(p97)これについて管理化という文脈で考えると、どう読めるか?

P112「今日の子どもたちのいじめの場となっている教室はどうであろうか。きびしい受験戦争が子どもたちと、彼の入った教室を支配する。あるいは、学業成績オリンピックが毎日子どもや教室のなかで開かれているといってもよい。それは彼が望もうと望むまいと、生まれたときからそこに参加することがなかば義務づけられている。問題なことは、そのゴールに限りがないということだ。子どもたちは絶えず偏差値の論理にさらされ、人並みかあるいは優秀な成績を残さなければならない。より早く、より高く、そして、より偉くだ。子どもたちの間に、無限の競争が繰り広げられ、勝者と敗者、自分にとっての敵と敵の向こうにいる敵の敵という区別がつけられてゆく。より正確にいうなら学校による階層的秩序が形成され、浸透してゆく。味方はいない。この目に見えない鎖の輪から、彼は決して逃れられない。自ら自分の身体のそこに縛りつけ、やがて来るかもしれないはかない勝利に向けて、ともかく体を引きずって歩まねばならない。
もちろん、教室の教師もこの戦いあるいはオリンピックの渦から逃れることはできない。教室のなかから勝者を数多く生み出すことが、世の中の評価を高めることなのだ。そのため、そのため、勝利の切り札である参考書的知識を子どもの群れのなかにいかに効率よく注入するかの努力が払われる。」

p116-117「教師のありようもまた、学校のなかでの「いじめ」を加速させることに大きくかかわっている。さきに述べたように、いじめのなかでも長期化し特定の子どもに集中し固定化するいじめ問題の背後には、子どもにたいし影響力の弱い教師の存在があるというのもそのひとつの例証であろう。」
p117「いまの学校のなかで行われている教育を農場作業にたとえるなら、野菜の早期栽培早期肥大をはかったものとみられる。そのため、まずよい種子か悪い種子かの選別が行われ、悪い種子は早く取り除き、よい種子にたっぷりとした肥料を施し、おんば日傘で育てようとする試みがなされる。野菜を育てる基本的な土壌作りや整備、あるいは自然環境にあわせたその野菜なりの成長などは、効率という視点から切って捨てられる。すべての学級がとはいわない、しかし全国の多くの学級でこうした教育がなされていることはたしかだろう。その切り捨てられた子どもの病が問題化してあらわれているのが、子どもの自殺であり、非行であり、登校拒否であり、そしていじめ現象だと思うのだ。」
※ここで述べられる切り捨てとは、具体的にどのような意味において、何を根拠として切り捨てるものとみなされているのだろう?麻生誠の引用をもって「世の中で望ましい目標とされるだけの学業成績あるいは進学を遂げられるのはせいぜい二割の子どもにすぎず、八割の子どもには能力上あるいは社会構造上厳格に制限されているのが現状」とあるが(p117)、これはおそらく七五三言説を根拠に述べていると思われる)、いうなれば、社会に切り捨てられていると解釈するほかない言い分であるように見える。

P134「現代の青少年が無関心、無感動、無責任という三無主義といわれたり、シラケ世代といわれたのは一九七〇年代のはじめである。この後、三無主義は五無主義といいかえられ、新たな項目がいくつかくわえられたが、基本的には三無主義の風潮が現代の青少年に根強く残っている。彼らは大望を抱かず、せいぜい自分の間尺にあう等身大の望みを願い、私的空間でのささやかない幸せを求めることでよいと考えている。それは個人の力ではどうすることもできない無力感であり、巨大な組織社会のなかの管理機構からの退行現象である。」
※これは「教育が人格の陶冶や社会的・文化的貢献という機能を縮小させ、たんに学歴を得るための私的な手段となり、過度に競争原理がもちこまれたとき、学校社会は極度に利益社会的色彩を強めることになる。」(p134)、こと、また疎外論的解釈によって子どもの「個別化」が語られもする(p132)。
しかし、これが「そもそもの機能」とみなされている教育的意義を全く実証していない。これは個人の力ではどうすることもできないとされる。

P135「小・中学校の規範状況の管理化の最大の契機となったのは非行や校内暴力の深刻化である。小・中学校では問題が深刻になるにつれて、校則や規則を細かく定め、あるいは生徒指導というかたちで子どもたちの行動を規制する方向をとったのである。頭髪の長さから靴の色にいたるまで、身につけるものはすべて細かく規定され、子どもたちの学校生活は規則やきまりによって運用され、子どもたちは常に逸脱がないかどうか監視されている。これらはさきに規範の社会化のところでふれたように、権威によるタテの社会化であり、義務の感情に依存した一方的服従を強いる社会化である。」
※では、なぜ校則に対して批判をするような言説に乏しいのだろう?

P136「こうして、子どもたちは、学校生活のインフォーマルな場面のきまりでも、自分たちのために守りつくり変えるのではなく、学校や教師のために守るという態度をつくりあげてしまう。上から強制された規則を守ることは義務であり他律的であるがゆえに、主体的な規範意識は育たず連帯性は失われる。いじめがたんに教師や級友の眼の届かない通学路やトイレや階段の下で行われるだけでなく、休み時間や放課後の教室や級友の前で公然と行われるのは、こうした子どもたちのインフォーマルな空間を支配している規範が極めて弱く、無秩序に近い状態にあることを意味している。いじめが起こったとき、まわりの子どもたちの批判的な表情や言動はいじめを抑止する重要な要素であり、現代の子どもたちはこうした否定的な反作用がみられないのは自分に危害やおよぶことへのおそれが一つの要因であることは前にも述べたとおりである。それとともに、あるいはそれ以上に子どもたちのインフォーマルな空間を自分たちによって維持し守っていこうとする規範意識の欠如も重要な原因である。」
※この言説と生徒の自治性は無関係ではいられないだろう…

p137「しかし、ギャグやパロディがより一層おもしろくなるのは中野収が指摘しているように、既存の規範や権威がきわめて強固であり、ときには人びとに重苦しくのしかかるほどの力をもっている場合である。個々の力ではどうにもならない存在であるがゆえにそれを逆手にとる痛快さがあり、また逆に風刺をぶつけてみたところでゆらぐような存在ではないゆえに、逆手にとることも許容されるのである。
生活のすみずみにまで親や教師が口をさしはさみ規則でしばられた生活、受験競争のなかで鬱憤するストレス、シラケた気分のなかで感じるやり場のないフラストレーション、いまの子どもたちにのしかかるこうした重圧感や無気力感のはけ口としてのギャグやパロディはさしあたり一番おもしろいものであろう。」
p138「しかし、いまの子どもたちのふざけた文化の底流には既存の道徳、倫理、規範にたいする侮辱感をふくんでいる。それは子どもたちの世界に大人たちから強要されてくる規範状況と、強要する大人の側の規範状況との落差の大きさによる。親も教師も子どもたちには倫理観や道徳意識を培い、健全な規範意識を育てさせるためにきびしく教えこもうとする。許容性の幅はきわめて狭く、少しの逸脱も許されない。これにたいして、大人の言動は一貫性をもたず、ときには逸脱することさえある。大人社会ではあらゆる規範が弛緩している。この落差が現代社会ではますます広がりつつある。」
※根拠は??赤松などの議論に基づけば、昔の子どもこそ侮辱表現が著しかったようにも思えるが。

☆P149「ともあれ、悪いことと知りつつ、つい手を出してしまう傾向は子どもだけでなく、大人にも共通する心性である。大人の世界では、ギャンブル、アルコール中毒、麻薬、セックス産業などのいわゆる「被害者なき犯罪」といわれる領域でこうした傾向が典型的にあらわれてくる。それはこの領域の規範意識が比較的弱く、しかも人間の欲求にひそむ情動的反応を強く刺激する誘発性があるからである。しかし、いじめには被害者がある。そこにふくまれる「おもしろさ」とは他人の悲しみや苦痛を犠牲にして得られる満足感であり、きわめて残忍な性格をおびている。
戦後、私たちの社会は豊かさを築きあげた。しかし、その反面では豊かさのなかで自分の欲望を抑え、耐えることを知らない子どもたちを作り出してきた。彼らは、自分の欲求のおもむくままに行動し、自分の行為がどのような結果を招くかを考慮しようとしない傾向がある。いじめはこうした豊かさのなかから生まれてきた利己的な欲求充足行為であるが、このことは現代の少年非行にも同じように見られる特徴である」
※ここで大人の世界において「管理社会」言説は無効と言ってよいのではないか?とするなら、学校による管理問題はどう考えればよいのか?

P155-156「ところが、いじめは過剰な管理主義からだけでなく、野放しの自治主義からも形成される。教育集団に限らずおよそ社会集団内には個々の主体性の尊重という価値理念がふくまれている。主体性の尊重に根ざした個人主義は他者の尊重と相互の協調をともなってはじめて学級集団に適正な秩序化をもたらす自治主義へと発展していく基盤となる。しかし、主体性の尊重といっても指導原理を欠いた自由放任主義はかえって集団成員の利己的欲求を肥大化され、学級集団を無秩序な状態へと追いやることになる。」

P181「私たちは、一九七八年を今日的ないじめ病の始まりの年、いじめ元年とみる。」
※これを非行少年の増加と、その年にいじめの仕返しに同級生の首を刺して殺すという事件が起きたことを根拠とするが、校内暴力の言説といじめの言説は流行していた時期が異なることも無視できない。
P187「また、病の間の重層化の底にも、たしかに最近の社会変化の影が大きくさしている。たとえば、社会の都市化や成熟化によって促されている急激な価値観や規範意識の多様化は、非行とそうでないものを区別し読み分ける明確な基準の混乱を導くと同時に、こうした病にたいする許容的な態度を人びとの間に確かに生み出している。」

P210「学校のいじめ問題に対しては、まずなにはともあれ、実態を把握するために教室のなかの教師とその集団の「感知性」を高める必要があることが強調されよう。またもうひとつ心しておかなければならないことは、すべてのいじめを見ることはできないが、事件となりそうなひどいいじめからのシグナルを十分目にするチャンスはある、ということである。」
※何故か校則などに対する批判が与えられない。これは「いじめの原因に根ざした根本的な問題解決は難しい。いじめにたいする有効な手立てはないとさえ思えるほどだ。」という前提に基づき(p201)、「とにかく表にあらわれた病状への対処療法をめざす必要がある。」(p201)とされているからである。結局ここでは社会変動論などの語りは回避、改善の余地のないものとして受け入れるべきものとされてしまっているからこそ、校則批判などにも目が向けられていない、といってよいかもしれない。しかし、そのような態度において、批判は批判としてもはや機能しているとは言い難い。要因論が一人歩きをしてしまう恐れがここで現れてきているともいえるのではないのか。
P213「教師は、自分だけで悩むのでなく、ときには事件となり得ることも考慮に入れ、学校外の親、地域社会の人、そして行政機関などとの連携も積極的に考えるべきだろう。」

P222-223「高度経済成長の時代を経て、急激な都市化が進んだ。その結果は、大都市への人口の集中、都市的生活様式の大衆化、あるいは都市空間の変容などであった。核家族化や情報化なども都市化に付随し、あるいは都市化と平行するかたちで進んできた。都市化は、昭和の生活革命の象徴的術語であり、現在も進行中なことがらなのである。それだけに、いじめとも深くかかわっていると同時に、そのかかわりをすべて述べることは不可能である。ただ、最低つぎのようなことだけはいえよう。
都市化にともなう人口集中、都市的生活様式の大衆化などにより、家族の紐帯の脆弱化、地域社会の人間関係の希薄化や匿名化、利害化が進行した。それによって、家族や地域社会のなかでの子育て能力が低下し、子どもの規範意識の形成、あるいは直接的に子どもの逸脱行動を統制しようという機能が、家庭や地域社会にあまり望みえなくなったことは事実である。」

p225「そして、それでも少年たちは点数をつけられ、階層分類され、大多数は早くから、学校だけでなく社会的な落ちこぼれとしての運命づけをされる。なぜなら、学校化の社会は、また、一元的な業績中心の世界で、絶え間のない評価の社会にほかならないからである。一度張られた負の刻印はなかなかはがれない。むしろ、負の刻印の重みに耐えかねて、少年たちは逸脱の道をしばしば歩む。」
※当然、イリッチの名も出ている(p224)。
P226「いじめの背後にはこうした核家族化、情報化、都市化、そして学校化の状況がひそんでいる。いじめは、普段、私たちが気のつかぬこうした背後の状況に表を出し、気づかせてくれるひとつの貴重な窓なのだ。
いじめ問題の解決には、こうした社会的状況の解決も必要となる。むしろその方がさきなのかもしれない。いたずらに学校の責任だけ指摘しても、根源的な問題解決にはならないことはいうまでもない。そこにいじめ問題の複雑さがあり、解決の困難さがあるのだ。」
※しかし、ここでいう社会的問題の解決とは、具体的にどうすればよいのかに、何も答えていない。