遠山啓の教育論ーその歴史的変遷から—

 今回は予告していた遠山啓の議論を検討していく。広田のレビューにおいては、70年代の教師側からの教育の役割を縮小するような議論の例として取り上げることを予告しておいたが、これについては最後に取り上げたい。むしろ、今回は遠山の議論をできるだけその全体像から捉えてみたいと思う。というのも、私自身が遠山の議論を読んでいく中で、独特の矛盾を持っていると感じ、それをできるだけ形にするのが有意義なのではないかと思ったからである。
 文献としては近年刊行された「遠山啓エッセンス」から、1,2,4,5,7巻(いずれも2009)と、2冊の単行本「教育問答 かけがえのない、この自分」(1974)と「競争原理を超えて」(1976)を読んだ。これらはすべて教育雑誌等に掲載されたいわばバラバラの論文によって構成されている。このため、全体性というのがよく見えてこない部分があり、他の解釈を行う余地もあること、また遠山の他の論考から別の議論の可能性もあるかもしれないことはあらかじめ断っておきたい。
 なお、今回「遠山啓エッセンス」から引用する場合は、(論考が書かれた年,巻数:ページ数)という形で示す。また、論考が長くなるため、今回はノートを掲載しないことにした。

○松下良平による遠山啓の批判について
 まず導入として遠山の議論を行った松下良平の論考(「楽しい授業・楽しい学校論の系譜学」森田尚人ら編「教育と政治」2003、p142-166)を検討してみたい。松下は1960年代の科学主義批判を内包しながら70年代に登場した、「楽しい授業論」の例として、遠山と板倉聖宣を取りあげる。授業における楽しさを前面に出し、一見子どもの自由な活動の保障と、学びを保障しているようでいて、実際はルールの枠組みに縛られているにすぎず、そのような授業のあり方がソフトな生徒管理の手段として用いられる点を問題視している。

「そのさい、彼らの議論の出発点にあったのは、〈文化を本来的なやり方で学ぶこと自体が楽しい〉というテーゼである。ところが彼らは、楽しい授業・学校論を自覚的に唱え始めることと並行して、文化を本来的なやり方で学ぶことに伴う楽しさとは異質な“娯楽的な楽しさ”をも肯定的に評価するようになる。そのとき、そのようなトリックを正当化してくれたのが、子ども中心主義のレトリックであった。つまり、子どもたちによる学習の拒否をくい止めたいという関心からさまざまな楽しさの必要性を説くようになったのだが、そのような関心と教育の思想を実現しようとする関心とを無批判に接合させたために、異質な楽しさの大同団結が教育学的に正当化されてしまったのである。」(松下2003、p153)
「要するに、〈数学=ゲーム〉論の教育への導入は近代の教育(学)を拘束してきた教育目的—手段の枠組みを乗り越える契機になりうるにもかかわらず、逆に〈数学=ゲーム〉論が教育目的—手段の枠組みの中に回収されてしまい、その本質が骨抜きにされてしまったということである。」(松下2003、p149)
「こうして、九0年代以降今日に至るまでの間に、楽しい授業・学校論は、「カウンセリング」と並んで、押しつけではなく子どもが喜んで受け入れるソフトな管理(学校秩序の維持)の道具としての機能をいっそう剥きだしにしていく。その結果、楽しい授業・学校論のそのような役割は、もはや隠しようおない事実として多くの人がはっきりと自覚するようになったのだった。」(松下2003、p157)

これについては遠山のこのような議論をもとにすれば全くもって正しいと言えるだろう。

「学びと遊びはなぜおもしろいか。それは、自分の自由な思考や行動を発揮する余地が何ほどかあるからである。その点ではスポーツと同じである。もしすべての行動が前もって規定してあって、それから外れることが許されないとすれば、スポーツなどをやる人は1人もあるまい。
 しかしスポーツにはルールがあり、これは自由を拘束し、自由の前に立ちふさがる壁である。この壁と自由との闘争のなかから緊張した喜びが生まれる。
 学びにも同じものがある。スポーツやゲームにおけるルールに相当するものは客観的な真理であり、これは動かすべからざる他者として研究者の前に立ちはだかる。そこに闘争が起こる。
 スポーツやゲームのルールは人間の定めたものとすれば、学問における真理は創造主の定めたものである、といえるだろう。
 ルールや真理による制限のなかで最大限の自由を発揮しようと懸命になるところに、深味のある、どこまでも深まっていくおもしろさが湧いてくるのである。その点では学びと遊びは全く同一のものであり、区別することができない。
 だから、学びのために遊びをやるとか、遊びのために学びをやるのか、というせんさくは、私の見方からすれば無意味である。なぜなら、それはもともと同一物だからである。」 (1975,4:97-98)
 「はじめて子どもは空箱のゲームをやらせたとき、こちらがびっくりするほど彼らは湧き立ったが、それはゲームそのもののおもしろさのほかに、自分たちが生まれてはじめて、解答者から出題者の立場に移った喜びがあったといえよう。換言すれば、それは自分が先生と同じ立場に立った意外さであった。
 解答者にとって出題者は自分には未知の、しかも意のままにならない他者であり、そこに緊張感が生まれてくる。空箱のゲームについていえば、空箱の中身を出題者は知っていることが、挑発的なのである。」(1975,4:100)

 この主張は先述した松下のような解釈のように、「ルール」を超えて、その改変を伴うことにこそ、創造性があるのではないか、という見方を認めることがないように一見すると読み取れる。同時に、子どもの遊び論自体を狭く捉えてしまい、こどもの日常の遊びにおける「ルール」の取り扱いについて無視しまっているようにも思える(※1)。
 松下の議論は総論として、特に「現在の教育をめぐる議論への影響」を考える意味では全面的に肯定してもいいように思っている。しかし、一方で「何故遠山のような議論がこの時期に登場したのか?」だとか、「何故遠山はこのような過ちを犯したのか?」という問いには何も答えることがない。今回の私の問いは、ここにある。

○松下の見落としていた点と考察の方向性について
 この問いを考えていく上でまず、 松下が遠山の議論をしている中で少なくとも2つ大きな事実誤認があるであろうことを指摘しておきたい。

(1)「ルール」なるものに関する認識自体が遠山の考えるものと異なっていると考えられること。
 松下の提示した「ルール」観は我々の通常の「ルール」に対する理解とも合致しており、正しいように見える。しかしこの「ルール」観は、遠山の考える「科学」や「学問」、そして「真理」と直結しており、それらの解釈を考えると、松下のような「ルール」観を遠山がとっていたとは言い難い。
 これまで私自身も、ルネ・ジラールの議論をヒントにして、「秩序(=ルール)」について検討してきた訳だが、「地下室の批評家」のレビューにおいて私は、学校教育の場における「良い模倣」なるものは、「具体的な他者としての教師を純粋な媒体とみる場合」と「教師を仮の媒体としてしかみない場合」、双方に想定されると述べた。簡単に言ってしまえば、松下の批判はこの前者のケースしか考えていない。この場合において教師は「真理の支配者」と同一視されており、だからこそ、教師のみを模倣すれば(教師の教え、教師の与えたゲームのルールだけを忠実に遂行すれば)よいという状況が生じる。しかし、遠山は後者の立場をとっていると考えるべきではないか、と指摘したいのである。
 まずもって、遠山は「数学」という学問に対して、単一なものであることを大前提にしている。これは、一方で生活単元学習における「系統性」嫌いに対する批判として、子どもには子どもなりの論理があり、そこに系統的なものが存するのではないかと指摘する。

「経験主義の第二の特徴は系統ぎらいである。一切の系統的なものは児童の自発性に対する敵対物であるという傾向は根強い。……そのような見かたに立つなら、一切の系統は押しつけであり、自発性の侵害であるといえよう。しかし、果たして子どもの精神は完全に無定形の流動体であり、無論理そのものなのであろうか。
 最近の児童心理学はその逆を証明している。子どもには子どもの論理があり、一定のシェーマをもち、その限りにおいて法則的であることがしだいに明らかにされている。」(1960,1:70)

 そして、「学問の系統」は「教育の系統」とは確かに異なるが、それは子どもに合わせて修正すれば噛み合うものであると述べている。なおかつ、ここでの「学問の系統」なるものは、その単一性が想定されている。

「学問の系統をそのまま教育の系統とするのは間違いです。しかし、その両者をまったく別物として切り離すのは、正しくありません。
 元来、人間の認識の発達には一定の法則があり、それは大局的には子どもの認識の発達法則と符合するはずです。だから、この両者は深く関連しあっており、教育の系統をたてるには、なによりも学問の体系を考えてみなければなりません。まず、おおまかな体系は学問をもとにしてつくり、その上で子どもの理解力に照らしあわせて修正すべきでしょう。」(1968,4:11)

 また合わせて科学の教育は、芸術の教育とは異なって、「複数の人間が共同して歴史的にかたちづくってきたもの」なのであり(1959,7:88-89)、先人の成果を学ぶことなしには、科学教育が成立するわけがないと見ている。仮に新しい真理の発見があったとしても、それは真理の変更であるという風には見ていない。松下は当然真理の複数性を想定しているからこそ、「一つの」真理の外を想定しようとしない遠山の議論を批判したわけだが、遠山にとって真理とは単一のものであり、仮に数えることが可能な真理があるにせよ、連続性を持っており、一つの真理の体系に内包されているのである。だからこそ、トランプゲームにおけるルールも正当化されるのである。
 ただこれには確かに松下のような批判に類似した形で、「実際の教育活動」を行っていく上では、このような固定したルールを用いた方法をとらざるをえず、それが遠山考える意図とは異なった形で作用する可能性は大いにありえる。このような実践を語る場合の遠山の論調は後述するように、68年頃を境に変化しているようにさえ思える。この点についてはまた後述する。

(2)50年代、60年代の遠山の議論を松下が全く捉えていないことによる松下の批判に「奇妙さ」が現れること。
 この問題は (1)の事実誤認もある意味でこの文脈を含んでいるといえるが、松下が遠山の議論をする際に「楽しい授業論」なるものが60年代の「教育の現代化」「教育と科学の結合」「系統学習」の批判の上に成り立っているということに集約される。というのも、これら三つの議論について、全て遠山は60年代には肯定する議論を行っているのである。2つの論点は(1)で引用した内容にも如実に現れているが、「教育の現代化」についても遠山自身が教育雑誌上で「数学の現代化」という言葉を1959年に唱えたのが初出だと述べている位である(1963,1:121)。つまり、遠山は自己批判してしまっていることになるが、一見すると何故遠山が「自己批判」として「楽しい授業論」を展開したのか理解できなくなってしまうのである。遠山は60年代の議論について修正を述べておらず、この両者は矛盾することなく議論されたものと考えるべきだと私は思うが、何故このような状況が生じるのか、考えてみる価値があるだろう。

○遠山の「学習観」と1968年における「転換」?
まず、遠山の学習観について捉えておく必要がある。これは、「競争原理を超えて」(1976)で述べられている「術・学・観」の議論が、包括的な議論として妥当なのではないかと思われる(1976,5:123ー134)。遠山はこの3つの側面から学習なるものの全体を捉えようとする。まず「術」とは通常反復学習を伴う模倣と教え込みによる学習土台を作るものである。次に「学」とは学問、科学の学であるとし、自然のかぎられた一側面に対して分析と総合の環のなかから真実を追究するものであり、複数学問はあるものだから柱のようなものとして考えている。最後に「観」とは、教えることができない世界観・人生観を指し、これは児童生徒の「完全な自由」のもと選択しながら学び取るものであるとする。そして「年齢に応じておおまかな配分を決めるとしたら、幼年期には術、少年期には学、青年期には観に力点をおくようにすべき」イメージのものである(1976,5:134)。
この中で、人生観・世界観については60年代の遠山もやはり「教えることはできない」ものであり、教師に教えられるのは、そのような人生観・世界観を自力でつくっていくための土台作りにあると見ていた(1965,1:155)。学問や科学に対する考え方もやはり反映されている。しかしこの中で「術」については過去の主張の裏付けが乏しいように思う。50年代から60年代の議論においてこの反復性を強調するような語り口は私が読んだ内容の限りでは見当たらなかった。ただ後述するようにこれを「ゲーム」として位置づけるとすれば、一貫した遠山の議論として認めてよいように思う。

 では、この枠組みを遠山がとってきたと仮定し、その上で遠山の論考を再構成してみたらどうなるか?これが今回私の試みたことだった。もちろん、これは「仮説」に過ぎず、厳密な正しさの検証は学者による議論を待ちたいと思うが、一言でまとめるならこうである。「1968年頃に遠山の議論は『学』の領域について、教師が教えるべきものであることを放棄し、自分自身で学ぶものでしかなくなった」という仮説である。
 まず参照するテキストは、エッセンス4巻に収録された1968年の一連の「授業のあり方」をめぐる論考にある。この論考は矛盾した主張が多く見受けられるが、特に注目したいのは、子どもの学習における教師の位置付け方である。一方で遠山は、教師は子どもの想定する答え方に対して、網羅的に理解しておくことが必要と述べ、そのような想定が子どもの自由確保することを指摘する。
 
「集団的ではなく、個人的な研究に終わっているために、子どもの多様な反応を前もって予想できず、そのために子どもに最大限の自由を許して、しかもそれを一定の方向に導いていくことができない。その結果、子どもを束縛して教師の敷いたレールの上を走らせるという生気のない授業になるか、それとも子どもの好き勝手にして、方向のない無秩序な授業になるか、どちらかになるほかない。」(1968,4:65)

 これはそれまでの生活単元学習を批判した遠山の議論においては一貫した態度に裏付けられていると思う(1966,4:79)(1959,7:89ー90)。しかし、全く同じ授業論のシリーズにおいて遠山はこのようなあり方を否定してしまう。

「B しかし、その反面において、子どもを集団のなかにおくことはマイナスになるだけだ、ということになりますか。
A そんなことはありません。たとえば完全個別指導になると、それまた教育の効果はあがらないものです。1対1の個人的な家庭教師でやったとき、教育はかえって困難になります。
B そうでしょうね。子ども同士で学びあうということがなくなると、やはり教育効果はあがりませんね。ほかの子どもの考え方や着想法を、知らず知らずのうち学びとっていく、という利点がなくなりますからね。」(1968,4:60)

 ここでは、集団学習の意義が語られるわけだが、それが「学び合い」の中の「ほかの子どもの着想法を学べる」ことを根拠にしていることに注目しなければならない。先述した教師の授業の中には、当たり前のように子どもの着想法は想定可能であった、つまりそのような着想法は教師の手で教えることが可能であるはずにかかわらず、あえてそれが子どもの集団学習の中で見出されるべきであると述べられているのである。これは後によく主張されることなる「常に優等生が優位になるのではなく、劣等生が優位になる授業展開をせよ」という論の根拠として「劣等生の思考法から優等生が多くのことを学ぶ」(1973,7:154)といったレトリックの源泉ともなっている。ここには、「何故教師が教えてはならないのか」という問いが残り、それに答えていないという問題が生じるのである。
集団主義の意義については坂本秀夫の議論でも出てきたが、「集団生活のルールを学ぶこと、社会性を身につけること」は集団でしか学ぶことができず、家庭教育では不可能な学校教育の領分として正当性が与えられていた。ここで問題は、このような学習がいかになされるのかという問題である。坂本の議論においても、それは集団規範の単純な外的押しつけというものではなく、「民主的」に、合意的形成を行うものとして捉えられていた。では、「教科学習」はどう考えればよいか。68年以前の遠山の議論は生徒の自然発生的な自発性によっては科学的ものを学ぶことはできないものとみなされていた。しかし、ここではそれが否定されてしまっているのである。何故かそれは生徒自身で自発的に学べるものとなってしまっている。
68年以前の遠山は当然、「学」は教師の手によって適切に選ばれ、教えるものでなければならなかったはずである。

「たとえば、つぎのような問題について、われわれは十分な内部討議をしたことがあるだろうか。
(1)数学は諸科学のなかで、どのような位置を占め、どのような役割を演ずることができるか。
(2)さらに広くみると、文化全体のなかで数学はどんな部分を受け持つか。
(3)将来高度の工業国となるだろうし、またそうならねばならない日本の未来に対して数学はどのような貢献をすべきか。
(4)すでに高度の発達をとげた数学はどのような構造をもっているか、そしてそれはどのような方向に発展するだろうか。
このような問題と正面からとりくんだ討議が行なわれたことがあるかないか、私は知らない。このような問題をひっくるめて、それを「数学論」と名づけることにしよう。問題はそのような数学論がほとんどなされていないということにある。数学者自身が数学論を持ち合わせていないとしたら、外部に向かって説得力のある要求をかかげることは困難であろう。」(1967,7:40-41)

ミケランジェロセザンヌの絵を見たことがなくても、芸術的にすぐれた絵は描ける。セザンヌを知らぬことは絵かきの恥にはならない。しかし、科学はそうではない。ガリレオの業績を避けてとおりながら物理学を学んだとはいえない。
 芸術教育とおなじ原則で科学教育を論じようとすると、そこのところでまちがいが起こる。子どもの自発性をのばし、興味をつけてやりさえすれば、それだけで科学教育ができるかのような幻想がそこに生まれてくるのである。いわゆる生活学習というものは、芸術教育では何らかの成功をおさめる可能性はあるだろう。しかし、科学教育で成功する可能性は絶無であるといってよい。子どものなかから科学の成果をひきだすことはできないからである。」(1959,7:89-90)


 しかし、それが明らかに衰退している傾向が見られるのは事実である。この原因を考えるには、おそらく「術」の領域がそれまでの遠山の議論にはなかったものだったと考える必要がある。そしてこの「術」はいわば「学」とは呼べないもの、つまり学問や科学ではないものであり、60年代まで熱心に議論していた「真理」の領域ではないのである。仮に「術」の領域が「最高のものとの接触」(1962,1:81)「全宇宙と一体化する喜び」(1964,7:107)、また「すばらしさにおどろくことのできる精神=科学的精神」(1953,1:46)といったものを獲得できるものであったとしても、そのような態度獲得によって真理に到達するのではない。やはり科学的な真理は、遠山の論理では先人の業績に学ばないと、そしてそれを適切に選び、教える教師を介さないと不可能だったはずなのである。科学が単純なものではないことは芸術教育を批判する遠山が強調してきたことだったはずなのだから。ゆえに、それまで師によって与えられなければ成立しえないはずの「学」の領域の性質が変化してしまったと解釈するほかないのである。

 では何故このような状況になってしまったのか?まず、エッセンス7巻において、大学教育について語る遠山の議論に着目したい。ここでも遠山の議論はとらえづらさがある。ここでは端的に、70年代の遠山の議論の中心となる競争主義批判を大学教育の立場から見たものである。特に注目したいのは、遠山の「大学紛争」の評価である。遠山はまずもって日本の大学が民主的であることを評価し、大学紛争が日本の学歴主義、競争主義の弊害を受けていることの現われとして捉えている。しかし問題はその先にあり、それでは「学歴主義」や「競争主義」が仮に消失した場合、遠山は「大学紛争」がなくなると考えたかどうかである。どうにもこれがNOであったと考えているらしいように見えるのである。「大学紛争」なるものにおいて、かなりの部分大学生は悪者扱いされているが、それは「学歴主義、競争主義」に染まってしまった結果であるともいえる。だが、そのようなものがなくなったとしても、学生紛争に見られたような悪い学生は消失しないであろうことが、遠山の学生批判に含まれているのである。引用してみよう。

「今日の学校、とくに大学の社会的機能は、その表看板の通り、教育と研究にあるのではなく、人間の差別づけのための機構にすぎないのである。現代日本はある意味では民主的な社会である。戦前にはいわゆる家柄や毛なみが、かなり物をいったが、敗戦はそのようなものを吹きとばしてしまい、誰にも出世の機会が与えられるようになった。その点、ヨーロッパはもとより、アメリカにくらべても民主的になり、毛なみはほとんど物をいわなくなっている。毛なみにかわるものとして登場してきたのは学歴と学閥である。そのような社会構造を背景として、大量の若者が大学に殺到してきて、大学生の数はすでに150万を越えているといわれている。この150万の大学生がすべて好学の青年であるかどうか疑問である。おそらく、かなりの部分は学問はきらいだが卒業証書がほしいという若者であろう。このような社会構造が大学紛争の真の原因なのであり、その原因がなくならない限り、紛争はなくならないだろうと思われる。」(1969,7:46)

「私は、数学論は各人が自分で苦労して創り出していくほかはないと思う。がんらい、そのようなものは他人に教えてもらえるような性格のものではないのである。そのようなものを創り出していくには、学生たちが自発的に仲間をつくって、そのなかで相互討議によって、時間をかけて創り出していくのがいちばんいい方法だと思われる。ところが、そういう自発的なサークルは思ったよりずっと少ないのではないか。どうしてそうなのか。
 まず第一に、激しい入学試験を経てきているので、勉強そのものを苦痛で嫌うべきものだと考える習慣がついているように思える。」(1970,7:51)
「もう1つの原因は、学校の授業課目が昔より多くなり過ぎている点にあるようだ。……これだけ人の講義ばかり聴かされたら、自分でものを考える余裕はなくなり、最後には自分でものを考える能力そのものを喪失してしまうのではないかと心配になる。」(1970,7:52)
「ところが、こういう実質的な改革要求は1つも出てこない。あれほど大がかりな大学紛争が起こったのに、そういう要求はほとんど出てこないで、前よりも悪くなったところが少なくないようである。」(1970,7:52-53)

 大学紛争はまさに教育の現状批判の上に成り立っていた。具体的な改善項目を提起する一方で、とりとめのないような批判、ある意味で自己目的化してしまった批判も同時に含まれていたことはしばしば指摘される点である(※3)。だからこそ、遠山がどのように大学紛争を認識していたかは重要な問題になるだろう。これについては、他に遠山が大学紛争について言及した論考があるなら読むべきだと感じているが、私にはどうにもこの大学紛争を介して「学問の真理」を「学生」と共有することが不可能だと考えるに至ったのではないか、と思うのである。

 これは「数学論」のあり方を述べる際にも同じである。数学がいかに役に立つか、という問いは、すでに引用したように当初数学と社会との繋がりを数学者達自身の手によって語ることで共通のものとし、国民大衆にその関連性を理解させ、数学者の待遇の改善を図らねばならない、といった所から出てきていた(1967,7:40-41)。このような社会との関連性の必要性、むしろ社会のニーズに答えた教育のあり方を主張していく態度は、論が古くなるほど強い印象さえあった(1956,1:60-61)(1965,1:157)。しかしそのような態度も結局「学生自身にしかわからない」という結論によって、それが教師によって与えられるべきであるという見方を放棄してしまうのである(1970,7:51)。これは「学」の領域の撤退の一例といえるだろう。

 もう一つの材料として、「学問の切り売り」(1972)という論考を挙げたい。ここではまずもって大学紛争によって人間的な教育を行わず、「学問の切り売り」をする大学教師が批判されたことに対して、「そもそも学問は洗練されたものであって、それ自体感化力を持ち得るものである」と再反論している(1972,7:142)。これは76年の「学」の発想と合致し、かつ60年代の学問の統一性とも結びついた主張である。しかし、遠山のここでの論調にはある意味での諦念を感じていると読んでしまうのは私だけだろうか?どうにもここには「学問の魅力についてわからない者にはわからない」ということが了解されているように思えてしまう。これは「真理」という切り口から見返してみると、そのような「真理」が共有されえない可能性があることを認めていることにならないだろうか?このような発想というのは、60年代半ばまでの遠山には恐らく見られなかったように思う。多様性を保ちながらも一つの統一性を持ち得ていた「真理」がありえないものではないのか、と疑念がここにはあるように見えるのである。
 最終的にこの信念の揺らぎが放棄されるまでに至ったかどうかはわからないが、疑念は残り続けていたのではないかというのが私の読みである。
 その結果現われてきたのが「学」の領域が教師から生徒のものへと移行するという状況だったのではないかと思うのである。そしてここでそれが「術」の領域という、別の「教授のため」の領域を作るきっかけとなったのではないだろうか?更にこの「術」の中で「遊び、ゲーム」による「楽しい授業論」が展開されていったのではないだろうか??この論理に基づけば、「学問をゲームとして捉えている」という松下の批判は妥当ではない。ただし、逆にこのような文脈で遠山を理解しない限りは当然のようにミスリードされてしまうだろう。そして先述したように遠山の論考が断片的であったがゆえに、その関連性を見出し難く、遠山自身も特段の配慮をしなかったがゆえに、全体として、松下の批判は妥当と呼ぶほかなかったのである。
 
○広田の議論と関連して
 以上のような、教師の教える領域の撤退というのは、見方を変えて、広田の議論に結びつけることも不可能ではないといえないだろうか?つまり、遠山は「教える」エージェントとしての教師が、まさに「真理の伝達者」としての役割を担えると60年代まで考えていた。しかし、70年代になると、その信念が崩れていくなかで、「教師不信」の一つの現われとして、その役割は子ども自身が見出すべきものとして再評価されていったのではないか、という見方の可能性である。この発想もまた、原因を「学生紛争」に見るか、「受験競争」に見るかといった分かれ方がありうるものの、決して親を介した形での役割の変遷ではないのである。その批判のエージェントは親ではなく、遠山も含めた、競争主義、押しつけに教育の批判者達によってなされたとも言えるのではないか??

 もちろん、このような撤退の可能性というのは、実際の教師の過剰な関与の想定を前提にはしている。むしろそのような撤退というのは、「昔の教育」と比較してみた場合には当然ではないか、という見方を遠山はしているといえる。

「私は進路指導とか生活指導とかということばを信用しない。それはいちおう美しいことばであるが、そのことばの裏にあるものに思いいたるとき、無神経にそのことばをつかう気にはなれない。なぜなら、そういうことばのなかには、しばしば、子どもたちの未来を点数から予言できるという不遜な思いあがりがひそんでいるからだ。
むかしは進路指導とか生活指導とかということばはなかったし、生徒たちの心のなかにまで押しいってくることはなかった。ただ、生徒たちの能力をねぶみし、彼らの未来を予言する、というかわった趣味をもった教師が少数ながらいた。私も私の未来についての予言を聞かされたことがある。しかし、いまになってみると、私自身についていえば、そういうこざかしい予言は1つも当たっていなかった。」(1978,7:177)

 しかし、この認識は半分事実誤認である。「国会図書館デジタルライブラリー」で調べると、遅くとも進路指導は1943年、生活指導は1922年から、言葉自体が使われていることがわかる。当然このような「教員の過重さ」というのは、子どもの進学率の上昇、就職の選択可能性の増大という実態に起因しているだろう。それはいわば「社会からの要求」という側面が強いのである。そして、かつての遠山はそのような社会の要求に応える必要性を訴えていたはずなのである。

「小・中学校、とくに小学校では、教育の目標はもっぱら「良い子」をつくることにおいても、大した不都合は起こらないでしょう。社会に出て「飯の食える子ども」をつくることは生々しい実感として迫ってはこないはずです。……しかし、高等学校や大学となるとそうは行かないのです。それでは「飯の食える人間」という要求が重くのしかかってきます。……つまり、高等学校や大学の教育目標は社会の改造という理想主義的なものより、社会の持続という現実主義的なものに重心がかかっています。……入学試験と就職が、よい教育を行なっていく上で大きな障害となっていることは明らかですが、これらの障害に対して、ただ「花園を荒らす者はだれだ」という式の批判をしても大して役に立たないでしょう。それらのものは、社会の持続という根強い要求に根拠をもっているからです。」(1956,1:60-61)
「教育制度が、多くの社会の現実的要求によって決定されるとするなら、それに対して現実的な態度をとるためには、教育者はもっと社会の要求に素直に耳を傾ける必要がありましょう。」(1956,1:64)

 しかし、70年代の遠山は全く逆の主張によって教師の入学試験の競争への加担や進路指導の必要性について否定を行ったのである。

「ところが、最近には、とくに日本では、中学の先生は教え子を高校へ入学させるのが本来の義務であるかのように思われている。それが社会通念になっています。先生のなかにもそう思っている方が多いし、親たちもそう思っています。受け持ちの先生は自分の子どもを高校に入れてくれるのが義務であるかのように考えている。そのへんを考えなおしてみる必要はないでしょうか。」(1975,5:70)
「たとえば、自分のクラスの子どもをいわゆる一流校といわれる高校に入れたとしたら、そのクラスの子どものためにはなったでしょうが、その分だけほかの学校の子どもが泣く思いをしているわけです。日本全体のためからいうと、なんの役にもたっていない。」(1975,5:70-71)

「中学の教師の任務は教え子に中学卒業にふさわしい実力をつけて送り出すことで、そのあとで彼らが就職するか進学するかはまったく責任外のことである」(「教育問答」p142)
「こんなことをいうと、なんて官僚的で不人情な考え方だと頭から反対する人が多いでしょうが、少なくともたてまえはそうだと思います。だから、卒業してからの就職も進学も生徒たちの私事であって、中学校がかかわりあうべき公事ではない、というべきでしょう。
 ところが、この私事と公事とのけじめが混同されて、教師のほうも生徒のほうも、私事のためにさんざん苦労している、いや、そればかりか、公事のほうはおろそかになっている、というのが実情です。」(「教育問答」p142-143)

 ここでは高校については触れられていないもの、大学入試についても否定していることから当然同じ態度であるといえるだろう。社会のニーズの拒否というのは、先程まで議論してきた「学」の領域の撤退とも密接に関連付いているといえるだろう。ただし、他方で学校内では教育に対する目標を持ち、それを評価するという態度までは否定していなかった。これがなければ、学校の存立意義が否定されかねない。少なくとも遠山はそこまでの放棄は行っているとはいえない。しかし、その評価の取り扱いは、競争主義に用いられることは否定され、決して学校外で用いられるべきではなく、学校の中でのみ使うべきだと主張された(「競争原理を超えて」p39など)。
 しかし、ここで問題となってくるのは、その「学校で学ぶべき基準」についてである。これについては、私自身読んだ内容の中には残念ながら出てきていない。遠山の議論は基本的に現在の学校制度批判に終始されており、自らの主張を補足しないのである。そして問題になってくるのは、授業を受ける際に「優等生」「劣等生」が時には理解度の逆転するような授業をせよと言っている点である。

「クラスのなかのいちばん「できない」生徒が理解できるような教え方、これが、じつはいちばん「できる」という生徒にもたいへんためになる教え方です。ものごとの本質をもっとついた教え方でなければ、いちばん「できない」子どもは理解できません。いちばん「できる」子にとってもきわめてためになる教え方です。
そういう考えにたつならば、クラスのなかのいちばん「できない」子をできるようにする教え方を教師は工夫する、それを目標に自分の力量をみがくことが教師の仕事になってくるのではないかと思うのです。」(「教育問答」p47-48)

「さきほど私がいいましたように、優等生も劣等生も同じスタートラインにならぶようなまったく新しい教材で授業をしてみる。そうすると、遅れたいわゆる「落ちこぼれ」の子のほうが優等生を追い越すことがしばしばあります。そういうことがきっかけになって、いわゆる「落ちこぼれ」の子がやりだすということがしばしばあります。中学•高校以上になると、そういう配慮が必要ではないか。そのためには、教育の体系というのは一本道であるという考え方をあらためないといけない。」(1975,5:70)

 このような授業展開は、教材の提出の仕方次第で可能であると遠山は信じていた。例えば学年が上がって既存の学習内容を復習する際に、それまでの捉え方とは別の方法の解法を提示したり、問題の体系をあえて変更する形で生徒に見せることで、「新鮮さ」を与えることがその前提にあったといえるだろう。
 しかし、このような発想が現場で通じるものであるという教師間での合意があったかどうかは疑問も大いにある。「教育問答」においても遠山は自身を批判する者の考えについても見解を述べるように努めていると見えたが、これは、遠山自身の発想に対して反対者が一定数いたことへの配慮であるとも読める。そして、実際の所、「できない者」への配慮のみを行う授業を展開して何らかの「達成基準」に達することができるのかどうかにも疑問はあるし、何より無着らの明星学園での実践が大いに批判の的にされ得たことも考慮すると、少なくとも学校内でなんらかの「学問的」な達成基準を設けてそれを達成するという仕組みを作るのが現実的だとは思えないのである(※2)。明星学園の教育が仮に失敗だと見るのであれば、ある意味で当然の結果であったといえるのではないだろうか。
 遠山は日教組の集会などでも講演を行っており、また日教組の方針でもあった「週休2日制」に対しても賛同していた(「競争原理を超えて」p177)。見方を変えれば、社会のニーズを否定しながら閉鎖的に展開しようとする学校教育論を展開していくという方向性は遠山に限らず、日教組としても共有していた部分が大きくあったであろうということである。それは現状を踏まえれば決して「学校機能の縮小」であったとは言えなかったかもしれないが、押さえるべきはこのような主張において明らかにその機能縮小を行っていく方向性が存在していたことであり、広田的な議論でいう「学校と家庭の関係性の力学」の問題を考える上では、やはり家庭側からの働きかけに限らず、学校側からもそのような積極的な撤退の意向が見られたということである。


※1 私自身の経験となってしまうが、このようなゲームの例として「なぞなぞ」を挙げることができるだろう。しばしば小学生などがなぞなぞを問いかけるのは、遠山の言うような出題者の優越感と同時に、そのルールは時折「出題者の児童だけの論理」に基づき作られているという場を見かけた。遠山の想定は全ての生徒が同じルールを共有した上でなされる遊びについてである訳だが、そのような遊びの成立はそもそも例外的であるのではないかと思うのである。

(追記:9月23日)
※2 もっと言ってしまえば、そもそも遠山自身がそのような「評価」自体を放棄してしまっているのではないか、と読める部分もあるのである。このような発想は、学校で何を学ぶのか、という具体的な内容の放棄とも読める。

「点数を絶対視する考えの底には、人間の能力は測定可能であるという人間観が横たわっているが、ぼくは、この人間観を許すことはできないのだ。宇宙のなかでもっとも複雑で精妙な被造物である人間が、テストなんかで測定できてたまるものか。人間とはいくら考えても考えつくせないほど底知れないものなのだ。人間を描くことをおもな課題としている文学作品がつぎからつぎへと書かれてもけっして種ぎれにならないのは、そのためだとぼくは思うのだ。」(「競争原理を超えて」p223)


○補論:他の説明可能性について
 遠山が「転換」を行った理由として、他の見方の可能性についても3点言及しておこう。
 まず、「障害児との出会い」が発想の転換を生んだという見方である。1968年に八王子特別支援学校(当時の養護学校)で授業を受け持つことになったことの影響については言及されており、このきっかけによって、落ちこぼれをベースにした授業、楽しい授業論を展開していった原因とみる可能性である。転換があったであろう時期とは一致しているが、私自身がポイントとしてみた「真理観」の転換というのは少なくとも直接に言説から拾うことができないこと、「落ちこぼれ」に対する着眼が教師に対する「教える領域」の縮小を直接説明できなかったため、不十分だろうと判断した(もちろん影響力はあったといえるが)。

 2つ目に、遠山自身がそもそも全体的に相対主義に陥ってしまっており、信念らしき信念がなく、現場の批判を行うのに終始した必然の結果、という解釈も不可能ではない。事実遠山にはそのような立ち振る舞いを50年代から行っていたといえる。

「以上のように、相反する積極主義と消極主義の教育観は、ともに継承と創造という教育の本質の2つの側面に存在の理由をもっている以上、一方を肯定し、一方を否定するという「あれか、これか」的な断定をくだすことはできない。先にのべたように、この2つの教育観はともにそれぞれ一面的な真理をふくんでいるからである。
 もし現実に行なわれる教育のなかで、この2つの教育観をおなじ平面上に混合したかたちで共存させていたら、この相反した教育観は相殺されゼロとなってしまうおそれがある。だから、つぎになすべきことは、こも2つをより高い次元のなかで統一することである。」(1975,5:138)

「子どもがどのようなものやどのような問題に対して学習意欲をもつかという問題に簡単な答えは存在しない。またそのようにしたら子どもの学習意欲をよびさますことができるか、という問題に対しても一言でいえるような解答はない。しかし、一般的な心得というものをあげることはできるだろう。」(1966,4:78-79)

 要するに、絶対的な立場を否定しつつ、異なる2つの価値観の比較で良し悪しを決めるということである。ここで良し悪し自体を決めることは問題があるといい難いが、私が問題と感じるのは、相対主義的な態度をとったときに、その態度が統一した根拠のもとなされているのかどうか見えにくくしてしまうという点である。もっと言ってしまうとただただ批判だけを並べたいだけなのか、とさえ思えてきてしまうような発想の仕方である。遠山の議論が相対主義的な発想を自己目的化しているのではないかと思える部分は確かにないといえないのである。「楽しい授業」に対するこのような弁明は最たる例だろう。

「「楽しいだけ」というのは、その後に「何の役にも立たない」という言葉が続くことを予定している言い方であろう。
ところで、われわれがこれまで創り出してきた「楽しい」というレッテルをはった授業のなかで、全く何の役にも立たないようなナンセンスなものが1つでもあっただろうか。
 おそらく「楽しい」という言葉の嫌いな人でも、それを1つとして指摘できないだろう。」(1977,4:88)

 これは「楽しい」ことが「ためになる」ことと無関係であることはありえないという絶対主義の否定の上に成り立った批判なのであるが、これは先述したような「学校で何を学ぶか」という議論に何も答えたものにはなっていない。遠山も「すべての子どもが賢くて丈夫な人間を育てる」ことが学校の本来の目的であると明言する訳だが(1975,5:60-61)、「賢い」「丈夫」とは一体何を指すのか、それが遠山のいう実践とどう結びつくのか、到底理解できないのである。このような批判の仕方はある意味で正しいと私も思う。だからこそ、60年代まで「生活単元学習」を中心に批判した遠山は「学」の領域を擁護したが、70年代の「競争主義」の批判をする遠山は「学」を否定してしまうのである。そういう意味で私が今回取り上げたのは、かなりポジティブに遠山を解釈したものといえるかもしれない。

 3つ目の解釈として、相対主義にも関連するが、遠山の態度があくまで現場教師の変革の必要性というのを訴え続けてきた結果ではないか、という見方が考えられる。すでに引用した部分においても、教師が教えることの領域の重要性は繰り返し訴えてきていたが、もう一つ引用しよう。

「教師は生活的興味だけではなく、知的興味をも呼びさますことを努むべきである。ただ、生活的興味が自然発生的であるのに比して、知的興味はより間接的で教師の積極的な指導を必要とすることが多い。その際、最低限必要なことは教師じしんが興味を持つことである。」(1953,1:41)

 もし生徒主体の目線よりもむしろ教師目線での議論を重要視していたとみなすのであれば、このような見方は可能である。少なくとも68年の転換以前の遠山には、「個」に対する着眼というのは、ほとんど皆無であったといってよい。つまり、学校の授業において、集団での授業が行われる状況をまず前提にして、そこでいかによい授業を展開していかなければならないのか、というのが大きな問いであったということは可能ということである。これは、「個」の着眼と共に集団の尊重という態度へと軌道修正されていったが、なお既存の競争主義の状況がいかに異常であるかを繰り返し主張していたのが遠山なのである。ただこの説明はある意味で「教師に対する相当の執着」が条件となってくるが、全体としてそこまで強いものがあるという印象がなかった。教師の倫理観についてそこまで繰り返し述べられていないということである。


(追記:11月15日)
※3 例えば、小熊英二「1968【上】」(2009)においては、1968年以後の東大闘争について、以下のような指摘がされる。このような議論の中では、何が具体的に求められているのか、反対運動の内容からは読み取れないのである。

「彼らのとって重要なのは、要求項目が実現するか否かではなく、「思想の表現」「主体の奪還」のために、闘争のなかで生の充実感を得て「主体の確立」を行なうことであった。一一月二二日付で助手共闘が出したアピールは、「われわれは……闘争のために生きているのではない。生きるためにこそ闘争しているのだ」と述べている。
目的は闘争のなかで「主体の確立」をすることであれば、要求項目は一種の方便で、受託困難な要求を突きつけて闘争を行ないつづければいいことになる。そして実際に、大学側が七項目を事実上受諾してよいと言ってきても、東大全共闘は「七項目の飲み方」や「七項目の精神」を掲げ、ひたすら「ノン」を唱え闘争をつづけていった。」(小熊2009:838)

「これらのアピールや発言からうかがえるのは、彼らにとって闘争が、やはり具体的目的を獲得するための、政治的行為ではなかったということである。これらには、大学側への具体的な要求はほとんど書かれていない。書かれているのは、「ぼくら自身は奪還する」「生きている」「自ら創り出す」という実感を得る表現行為としての闘争への賛歌であった。安田講堂再占拠という「表現行為」は、みごとに学生たちの心を捉えたのである。」(小熊2009:727)