坂本秀夫「校則裁判」(1993)

 今回は前回予告していた中で、坂本秀夫の教育権論について検討する。取り上げたのは本書と「生徒懲戒の研究(1982)」「文部省の研究(共著、1992)」「増補新版 PTAの研究(1994)」「戦後民主主義と教育の再生(2007)」である。

○「学校」と「家庭」の教育分業論の強調…そこに主体的な親をいかに見出すか?
 坂本の議論においてまず目立つのは、端的に「しつけは本来親がやるべきである」こと、学校と家庭で行うべき教育は「異なる」ものであることの強調である。そしてそこには、親が学校にしつけを任せていることに対して批判がされ、たとえそれが多数決による合意がもたれたとしても、「親」の領域であるしつけに関すること(本書では大きく分けて制服、髪型、校外生活の3つが取り上げられるが)は多数決で決するような性質のものではないことが主張される(※1)。

 本書の時代背景はまさに80年代の動向を指している訳だが、正直な所、広田が述べていたような主体的な教育を行おうとする「教育する家族」をここに見出すのはなかなかに難しい。仮に校則自体が学校の手だけでなく、PTAを含めた学校にかかわる組織全体の合意によって、「主体的」に決定されたものだとしても、それが「親の教育権」を侵害することは許されないのである。本書で仮に「教育する家族」を位置付けるなら、裁判を起こす原告が該当してくるが、極めてマイノリティな立場であると言えるし、広田が言っていたような大衆化は見られないことになる。
 この議論をそのまま受け取るならば、広田の主張は完全に棄却されることになる。つまり、教育(しつけ)の担い手が教師から親へと移っていったのは、それが主体的な家族の登場によるのではなく、「親の教育権」という、親自身を客体化さえしてしまう「権利」の標榜こそがその衰退要因として浮かび上がってくることになるのである。実際に学校の校則自体が、1988年になって文部省の指導により、見直しの流れを決定づけたことが、「しつけ」をめぐる力関係に大きな影響を与えたともいえよう。
 また合わせて、このような教育法学からの校則批判というのは、「親」ないし「生徒」の訴訟という形をとっていたが、これが「教育する家族」によるものかと言われれば議論の余地があるだろう。確かに概ね訴え自体は「学校の過重な強制」を伴う規制についての反発であるものの、原告家族が「教育熱心」だったかどうかまではいまいち見えてこない。また、生徒自身が原告となるケースもままあり、そこに家族の影響力がどれくらいあるのか、という論点も出てくる。

 しかし、「しつけ」を学校が行うのに問題があるという主張は、坂本の議論の場合、「権利」云々の問題というよりもむしろ「責任」をめぐる問題の方が決定的に重要なものである(p48)。しつけはしばしば規範が守られなかった場合の制裁として現われ、また、一歩進めば規範の逸脱を「予防」するための制度へと結びつく。校則はまずもってこの後者の位置を占めている。そして、「制裁」行為については、教師の体罰や、そうでないにせよ教師自身による生徒への苦痛の強要である。結局、そのような苦痛を与える権利があるのは、最終的に子の教育に責任を用いる親にほかならず、それを侵害することは許されないことである、という信念は坂本の議論において一貫している(例えば、「生徒懲戒の研究」p21、※1も参照)。ここでの責任作用というのは、広田が乗り越えようとした「国家政策」に埋め込まれたものでも、「親の主体性」によるものでもないのである。

○では、学校では何が行われるのか、学校に校則はありえるのか?
 この問いについて、坂本は共に肯定的な回答を行っている。前者については、「こども集団」による成長を「他人としての教師の介在」をもって行う点で、家庭とは一線を画したものとされる。そして後者については、p194-195にあるように、生徒の人権保障という立場から必要であるとの見解を示す。
 しかし、「校則」についてよく考えてみると、この主張は微妙な所がある。坂本によれば、まずもって「校則」とは、生徒の人権保障、その調整にあるとされる。ここでいう人権は、「校則」という通常の社会とは異なる、学校内での集団生活をめぐるルールであり、それは第一義的に「学習権」の保障を指しているといって差支えないだろう。そして、校則により調整されるであろう「学習権」をめぐる論点はおおまかに言って2つあると思われる。

1.学習権の行使について、生徒間で最大限活用できるようにするための校則観。これは特に「時間割」などの設定によって、生徒が教師の授業を受ける時間を統一化することによって達成されるものである。

2.生徒間の対立により個人の学習権侵害がなされる際の取り決めに関連する校則。これについてはさらに、
2−1.その調整が、その場その場の話し合い等によって調整される場合と、
2−2.対立関係がそもそも片方の生徒の非であることが明確であるため、それに対する罰則や、あらかじめの禁止事項の設定

 がありえる。通常「校則」の議論の対象とされるのは、2−2の方であるが、おそらく坂本にとっては2−2という選択はほとんどあり得ないもの(もしくは、本来的にありえないもの)であることが前提になっていることを押さえておく必要がある。この点を少し検討してみよう。
 
 問題は坂本のいう「校則」とは何か、である。2−2のような校則がありえないと思うのは、坂本が「しつけに関わるものは学校ではなく、家庭でやるべき」としている点に示されるように、生徒の態度(これは日常生活を過ごす上での態度であるが、学習態度にも繋がる)に関わることは、学校の責任問題に位置付けない点に見出せる。つまり、悪意をもった生徒による学習権の侵害、つまり授業の妨害までは「しつけ」の範疇にかかわることであって、これを校則にすることに否定的な態度を取っているように見えるのである。
 しかし、実際にこれを「しつけの問題」として片づけてしまうことこそが、学習権侵害を認めることになる可能性については、坂本は考えようとしない。

 また、これは校内と校外の学校責任の問題についても言えることである(cf.p95)。学校・親・生徒の合意により、校則の校外の適用についても私は当然ありえる話だと思う。学校外での生活が学校内の生活に影響を与え「ない」と言うことができない限り、その影響力、校外生活の問題の程度に応じて学校も含めた総意として、校則で校外生活についての制約を加えることは、「学習権の利害調整」という観点から制度化可能なはずである。
 もちろん、坂本は校外生活については保護者間の合意によって、校則とは別に設定すべきだと主張しており(p313)、一理あるとは言えるだろう。しかし、そもそも坂本の主張においては「校則」自体を校外にまで影響を与えること自体が管理主義の発想であると断じていることには注意せねばならない。これは、何を根拠にして「管理主義」と断じられているのだろう?そこに民主主義的決定による、「生徒間の利害調整」という発想がないのはなぜだろう?
 管理主義という断定をそのまま支持すれば、学校の力も借りた上で、学習権の利害調整を図ることが妥当であるという結論を、民主的に行ったとしても、それは生徒の「やりたいこと」を阻害している以上、否定されるべきである、という論理であり、ここには「学習権」の問題ではなく、「人権」という立場から問題が語られていることになる。「学習権」よりも「人権」を優先すべきであるとするなら、そもそも学校自体が「学習をする場所」という意味合いさえ失ってしまう可能性があるということにはならないだろうか?さらに、「学習権」が優先されないような校則なのであれば、そもそも「校則」自体何を調整するために必要なものかさえわからなくならないだろうか(※2)。

 このような批判は、p308で述べられる内容からすれば一見成立しないのではないかと読めるかもしれない。しかし、百歩譲って校則による生徒の自由制約を認める場合を坂本は想定しているとするにせよ、そのような「特例」の条件について何らふれていない以上、坂本の恣意的な判断で「強制」された校則なのか「合意」に基づく校則なのかが決められることになるし、「生徒が合意」している場合でも、p59で顕著にみられるように、「権利」を全面に押し出しながら合意が無意味であることを示しているようにしか読めなかった。

○なぜ学校選択制に否定的なのか…多様な生徒が学校にいることの異議と親の教育権との対立可能性について
 本書においては、学校選択制度について触れてはいないが、坂本はこれに反対の立場をとっている(「増補版 PTAの研究」p48)。ここで否定される理由のひとつとして、地域性の重要性をほのめかしている。

「また地域の学校は親にとっても重要な意味があり、学校の父母集団が地域の父母集団となり、地域社会の形成に重要な役割を果たすことができる。地域の要求を学校に提出し、教育内容に反映することもできる。」(「増補版 PTAの研究」p50)
 もっとも、坂本の議論でこのような「地域」を全面に出した主張は極めて少ないことも事実である(ノートにはこの部分以外の記載がなかった)。むしろ、本書でも「学校外」の問題に対しては学校に頼らず、保護者間で連帯して取り組むべきだ、と主張していたが、そのような「地域の教育」への意識が先行しているのではないかと思われる。
 しかし、単純な「学校選択制」の採用と「特色のある学校」に生徒を預けられた方が、親がより選びたい教育を教師(学校)に委託することが可能であるように思われるし、むしろ、逆に親の教育の「疎外」要因たりうるのではないかとさえ思えなくもないのも事実ではなかろうか。ここでも坂本はこのような「親の教育権侵害」の可能性について何ら言及しない訳だが、そうすると他に要因があるのではないかと思えてくる。そこで出てくるのは、「多様な生徒同士の交流」という観点である。これについては最近の著書において、学校の多様化政策への批判として強く主張されている点である。

「しかも(※多様化政策によって)、同じ関心、同じレベルをもつ生徒が集まって同質社会が形成されてしまう。クラス内で交友、討論によって異質な意見と衝突し、磨き合って自分を豊かにするという魅力はなくなる。話し合わなくなっても、何となく同じような考え方、感じ方になっているような同質社会が形成されてしまう、そのなかで生徒は、単純な、単細胞型の人間になっていくのである。」(「戦後民主主義と教育の再生」p53)
 「さらに、「多様化」政策によって、早期に能力別に振り分けられる。能力といっても、文部科学省の基準による学力であり、それを前提とする本人の希望によって振り分けられる。小さいときから競争と選別のなかに育てば、仲間は敵となり、心からの交流、対話、友情が育つはずはない。選別制度の徹底によって学級は分解し、人間関係はさらに希薄になる。「多様化」が徹底すれば学級はいっそう同質者の集まりとなって対話の魅力も必要性も少なくなり、人間関係が希薄になるという皮肉な結果になることはすでに指摘したとおりである。」(同上、p248-249)

  
 高校の多様化路線という議論自体は1960年代以降に登場している議論であったが、私が読んだ坂本の本の中ではこの論点は基本的に取りあげられておらず、むしろ「競争試験」による生徒の自発性の衰退という論点をもって「生徒の教育上の問題」を指摘していた。しかし、民主主義的な教育の重要性を一貫して主張していた坂本のなかでこのような「多様な生徒」の中から豊かな議論が生まれ、それがよい教育へと繋がるという視点は常にあったのではないかと思う。そのような生徒たちが集まる場所が学校であることこそ、家庭にはない、学校「のみ」が出来ることとして定義していたのだから。

「むしろ、教師は他人であり、親と異なる、ということこそ教師の本質を考える上での出発点としなければならない。親はあまりにも子どもに近く、感情生活の中に埋没しているために、子どもを独立の人間として、権利の主体として認めることが現実には難しい。また、家庭には、同年齢の子ども集団と、他人としての教師が欠けている。したがって民主的な同年齢子ども集団の中で、他人としての大人の指導の下に、規則の意味を理解し、合理的思考を身につけ、社会生活を学ぶということは、とうてい家庭ではできない。学校の中で、初めて、独立な人間同士の対等の権利関係が、人為的に、つくられる。子どもは、そのような人間関係の中で、権制の何たるかを学ぶことができる。教師は決して親に代わることができないし、親もまた教師に代わることができないのである。」(「生徒懲戒の研究」p13)

 しかし、(学校選択制度を批判する論者に概ね共通しているといえるが)まずここで地域性を捉える際に、「私立学校」はどのように取扱われるべきかという視点が完全に欠如している点を見逃すことはできない。私立学校は基本的に学区制の枠組みから外れ、まさに「特色」のある学校の中で親が教育を委託するのに適した学校であるといえる。坂本も例に漏れず、私立学校のあり方については何も言及しない。これは、やはり「親の教育権の制約と地域性(及び生徒の多様性)の問題」を正面から捉えていないからではないか、と思える。
 まずもって、第一次的な教育責任を負うのは親であり、そのような権利を奪うようなことがあってはならないことが強調されていたはずである(※3)。そして、学校が担うべき領域は定まっており、同年齢の子ども集団の中で対等な関係の中から社会規範を身につけることにあった(※4)。さらに坂本は学校外の生活については保護者が受け持つべきだという。よく考えてみるとここには学校選択制批判で強調される「地域性」にコミットする必要がある理由についてはどこあるのだろうか。極端な話を言えば、学校外の生活の問題は保護者の連帯によって、学校の枠組みとは別に地域で取り組むことが可能であろう。
 最後に残るのは「社会規範」に内在する「地域性」の問題である。要するに「地域」固有の規範等を学ぶ必要性があるか(正確には強制的に学ばねばならないか)どうかということである。しかし、これが関連付く必要があるということは、その生徒がその地域で生活を続けていくことがむしろ前提になっている必要があるということである。このような地域性の問題についてはここでは議論し尽くせないが、少なくとも坂本がこの問題についてどう捉えているかは読み取れない。
 この点についての坂本の回答を読むと、以下のような記述は見つけられる。しかしこれも「親が一義的に教育に責任をとるべき」という主張と矛盾した内容であるように思うし、先述した「制服が校則に定められていると制服を着ない自由に気付けない」という生徒の主体性批判と同じような形の親の教育権の主体性の否定にぶつかるのである。

「しかし、そこにまた、原初的な家庭教育の限界があると言えよう。親子は一般に、肉親の心情的一体感が強い。親は、自分はつねに子どもによって最善の判断をしている、親子の間には利害の対立があろうはずがない、と考える。もともと権利概念は、利害関係の対立があるところに生まれる。したがって一心同体的な親子関係には、権利関係は自覚される余地がない。いわゆる、子どもの私物化現象である。だから、親は子どもと生活を共にし、心をこめて育てているのだから、子どもについて誰よりも知っていると思い込む。しかし、子どもが独自の存在であり、子ども特有の論理・心理・発達段階をもっていることを、つまり客観的には、子どもを知らないことが多いのである。」(「戦後民主主義と教育の再生」p356-357)

○過度な海外賛美について、もしくは現状を当為で批判する論法について
 最後にもう一点指摘しておきたい点がある。これは海外の教育法との比較を行いつつ、日本の教育権意識の弱さを指摘している論者に概ね共通している点であるが、その比較の仕方がフェアでないという点である。これは端的に言えば、海外の教育法についてはその「理念」については言及されるものの、日本においては「実態」をもって比較の対象とされ、批判を行っているということへの問題である。
 坂本も例に漏れず、随所でドイツを中心にした海外の教育法に言及し、その賛美を行っている。本書ではp48が該当するが、他の著書では、例えば以下のように語られる。

「現実には、学校・教師と子ども・親の間には、隠されたきびしい権利の対立がある。それを明確に認識したうえで、権利の尊重に基づく協力関係を構築することが絶対に必要である。欧米ではすでに、学校自治共同体として、さまざまな形で法制化され、実現されている。」(「戦後民主主義と教育の再生」p290)

 何よりも問題なのは、海外の教育理念をそのまま海外の教育の実態とみなし、海外を賛美してしまう論法である。これについては私自身細心の注意を払って読んだつもりだが、海外の教育権に関連することについては、実態の内容を捉えた内容は、少なくとも坂本には一切なかった。取りあげられるのは、教育法規とそれを支えた思想の紹介のみである。しかし、実態を見ていくならば、私がレビューしたフランソワ・ベゴドー「教室へ」の極端な例のように、「理想的な教育権の行使」が機能不全に陥っている可能性は大いにあるし、日本の実態と比較するなら、そのような実情をとらえる分析が必要になってくるだろう。もしくは、日本の法理念と海外の法理念、共に理念レベルでの比較を行うべきだろう。理念をもって現状を批判することは極めてアンフェアであり、教育権を賛美するだけの状況にしかならないだろう。この点については、広田が指摘したような親への負担増という負の影響もやはりあるのである。


※1「校則裁判」のノートでは直接「しつけ」という言葉が選ばれていないが、別の著書で強制力を伴いうる「しつけ」については学校で行使すべきでなく、罰則を伴うようなものは(生徒の自己決定権に矛盾しない限り)家庭で行うべきものとされる。

「戦前の日本において、社会的に国民の価値観の多元性が認められず、教育もまた権力作用と考えられたから訓練や強制的なしつけはもちろん、強制的な生活指導すらありえたであろう。しかし、今日では教師が、生徒の生活習慣を命令と罰則によって形成することは学校教育の本質に矛盾する。個別的な生活習慣の形成は生徒自身がなすべきであり、また、生徒の自己決定権に矛盾しないかぎり、親のなすべきことであろう。教師の生活指導の中には、本質的に、強制的要素は含まれない、ということを再確認しておきたい。」(「生徒懲戒の研究」p21)
※2 もっとも、坂本は「学習権」について実質的に「人権」と同じレベルで用いており、そこには生徒自身が学習意欲を持っていることが自明のものとして捉えているような印象もある。私などは学習意欲がない生徒というのは当然ありうるように思えるが、坂本によれば、それはそのような意欲をそぐような状況(競争試験、厳しい校則等)があることがそもそも問題であるという認識であるように思う。

学生運動の第三のピークが去って以降、すなわち一九七0年代にはいって今日に至るまで、学生・生徒による政治運動、教育要求運動は殆ど途絶えてしまったといってよい。そしてそれに平行して学生、生徒の政治意識・主権者意識・自治意識もまた見る影をとどめないほど衰退してしまったのであった。
 一九七0年代以降、そういった傾向が生じたのは、一つには一九七0年代以前における文部省を中心とする政治運動抑制策が、それ以降も教育現場に大きな圧力として存在し続けたためである。そしてもう一つは、七0年代以降、教育現場に限らず社会全体に管理的傾向が拡大し、学生・生徒の政治意識・自治意識が一層抑制されるようになったためである。」(「文部省の研究」p228)

※3 「第三に、子供の教育権は、なぜ親の自然権であるのだろうか。まず親が子ども生み育てるという社会的事実があり、肉親の愛情と共同生活者として培われた家族感情の強烈さを思えば子どもを育て保護する最適任者は親以外にはない、ということは否定できないであろう。しかし、子どもの人権という視点からなおつきつめていえば、子どものために死ぬことができるもの、子どもをかけがえのない存在、目的そのもの、と考え、信じ、実行できる者は親である、ということに注目したい。子どもは自分が権利の主体であり、目的そのものとしての人格であるということを、自分を、何ものよりも大事にする親の愛情によって実感する。親の権利を奪われるならば子どもの権利を誰が守るのであろうか。国も、社会も、子どものために死ぬことはできない。国は国の政治組織を守るために国民をぎせいにし、子どもをぎせいにすることはあっても、子どものために亡びようとしない、これは歴史的な事実である。」(「増補新版 PTAの研究」p36)

※4 先述の「生徒懲戒の研究」p13の引用が該当するが、別の著書でも似たようなことを主張している。

 「生活共同体として家庭で行うのが最もふさわしい教育は、基本的な生活習慣や礼儀作法のしつけ、そして基本的なモラルを身につけさせることであろう。親が自分の人生・半生を反省して、こういう人間に育てたいという願いをもつのは当然であるが、それを自分の行動・態度の全体で、生活のなかで示す。「子は親の背中を見て育つ」と言うように……。
 では、家庭にできないこと、学校に求められる教育とは何か。まず、学校は合理的思考を身につける場所である。教師が高い専門性をもち、他人として振舞う。同年齢子ども集団のなかで自由で平等な社会規範を身につけ、教師が高い専門性をもち、他人として振舞う。同年齢子ども集団のなかで自由で平等な社会規範を身につけ、さらに教科教育、生活指導の両面から道徳規範を身につけさせる。授業と学級活動、生徒会活動を連動して討論・合意形成、民主的集団づくりを学ぶ。
 学校で行うべきものを家庭でやろうとすれば、どういうことになるか。たとえば、親が教師に代わって、家庭で合理的思考を要する教科を教えようとすれば、矛盾が表面化する。」(「戦後民主主義と教育の再生」p358-359)


(読書ノート)
p45 「ここまで言ったのは裁判官が校長の専門性、技術性に疑問をもっているということではないか。そうとすれば、専門性を理由に「著しく不合理でない限り」校則は合法的だと言いかえるのは自己矛盾というものであろう。」
※行政行為の専門性に対して、素人である裁判官の判断材料はこのような基準であることはむしろ合理的とされ、「専門性に対して過度なクレームを与えること」は司法が避けたがっているという体系が前提としてある。これに対して批判すべきどうかは、別の議論(法体系的な議論)が必要ではなかろうか。

p48 「子どもに対して第一次の教育責任を負う者は学校ではなくて親である。これは国際常識であり、国連の多くの文書がそれを示し、子どもの権利条約にもそれが明記されている。
 それとも地域慣行が丸刈りを認め、PTAも圧倒的多数で丸刈り校則を支持したことを意識しているのであろうか。そうとすれば、判決は国際常識に反し、親権が基本的人権であり多数決によって制限できないことを無視しているといわねばならない。親はわが子の家庭教育の第一次責任を持つものであって、他人の子どもに対する教育に介入する権利は持っていない。他人の子どもまで丸刈りすることを要求する権利は誰にもない。したがってPTAが多数決でも丸刈り校則支持を決定することは、越権といわねばならないのである。」
p50 「近年の学校教育の衰退を克服する道は、子どもの生活を学校にとり込むことではなかろうか。そうとすれば、髪型は、家庭教育の成果を豊かにとり込む一つの試みとして重要であろう。少なくとも、家庭教育の成果を排除することは、学校教育を一層無力にしていくことは明らかである。丸刈り強制によって家庭教育は切り棄てられ、教育は衰弱していくのではないだろうか。」

p59 「ただ制服支持の多いのは制服校であって、自由服の高校では反対に圧倒的多数が自由服を支持しているというデータもある。つまり、制服制度のもとでは画一的服装に依存するようになる。多分、自分の服装を毎日変えなくてもすむという気持、皆と同じ服装をしているという安心感、皆と違った服装をすることへの不安感が支配するのではなかろうか。そうとすれば個性と自由に目覚め、それを主張する時期に、またそれを育てるべき学校に画一的服装に執着する傾向が強まることは問題ではなかろうか。」
※如何なる意味で問題だと述べるのか??これもまた生徒達の民主的な決定を待たずして、制服強制は認められないのが自明の主張。

P75「この場合学校は、生徒にとって正しい服装はこれであると決定し、生徒の自由な決定は認めない。ここで価値観の多元性は認められない。……生徒の心理から見れば、生徒の自由な価値判断を認めないのであるから強制である。しかし、教師の心理から見れば、違反に対する指導はあっても、強制はないと信じるだろう。裁判上は具体的な権利侵害の事実や権利侵害の明白な可能性が証明しにくいから強制と認めることは難しい。」

p83 「バイク運転免許を取らない、バイクに乗らない、バイクを買わないの三ない運動は、一九七〇年愛知県の四ない運動をきっかけに他県に波及。一九七六〜八年に第一のピークに達し、さらに増えて一九八〇年第二のピークに達し、その後も漸増していった。暴走族問題が社会的にクローズアップされたのが一九七六〜七八年であるから、三ない運動は暴走族問題に刺激されて広まったともいえよう。もちろん最大の動機は高校生の相次ぐ死傷事件であった。」
p93 「暴走族減少の最大の原因が警察の取締りの強化にあったので三ない運動の成果といえないことは、当時の常識ではなかったろうか。高校生の非行化の原因は多様で複雑である。バイクに乗れば非行化する、という意見は一般のまじめなバイク少年を無視した暴論であり、バイク乗車を直ちに暴走族に短絡するのはあまりにも素朴といわねばならない。」
※このような法分野を介して因果関係について否定的な関係が持ち出されている。リスク管理の考え方はこの議論では否定しかされない。
p95 「バイク規制の一つの難点は、生徒の校外生活を規制する点にある。校外生活に対して学校、教師の監督責任はなく、安全保護の義務もない、ということについてはすでに述べた。校外生活は生徒の自己決定権、自己責任の領域であり、あるいは未成年者であれば親の監督、家庭教育の範囲に属する。とくに、親は家庭教育上バイクを認めた場合、学校がバイクを禁止すれば親権と衝突することになる。三ない運動は親権に対する干渉ではないか、という疑問が起こる。
 少なくとも、教育的に見れば、バイクをどうするかは親子が話し合って決めるべきものであろう。」
p95−96 「バイク問題こそ親が自分の責任、愛情、権威において、子どもととことん話し合うべきものであり、その絶好の機会であろう。しかし、家庭教育が衰弱した親は学校の権威に頼り、校則によってバイクを禁止してもらおうとする。校則をたてに子どものバイクを禁止しようとする親が子どもの信頼と尊敬を得ることができようか。かえってバイク規則校則によって家庭教育は衰弱し、いっそう校則に頼るようになっていくのである。」
※ある意味で学校におけるバイク規制と、法で保障されるバイク規制のダブルスタンダードが問題化している。これは、ある意味で、多様な価値が現れてきており、それらの対立としてみることも可能だ。これは、学校が閉じた空間であることを許さないし、学校なりの目的をもつことも同時に否定している。

p179−180 「判決の歴史から見れば、かつて京都府医大事件の最高裁判決は学校の懲戒権行使について「著しく不合理でない限り」合法としたが、昭和女子大事件の最高判は「社会通念から見て合理性を有するかぎり」合法とした。合法性の基準は「著しく不合理ではない」から「合理性」へと変化した。多少の不合理はかつて合法とされたが、もはや違法と見られるようになったわけである。このわずかな表現の違いに学校・教師の裁量権を限定しようとする歴史の流れが反映されていたはずである。」

p194 「今まで見てきたところでは、校則や懲戒についての学校・教師の裁量権は極めて広く、ほとんど自由裁量に近い。それは一つには学校・教師の教育専門性を裁判官が信用したからであるといえる。つまり、教師の専門性が高いからという理由で裁判官は生徒の人権制限を承認する。あたかも教師の教育専門性が高ければ生徒の人権制限は問題にならない、といわんばかりである。
 しかし、これは奇妙な話ではないだろうか。学校は生徒の人権教育の府であり、教師は人権教育の専門家であるならば、教師の専門性が高ければ高いほど生徒の自由と人権は制約されなくなっていくはずである。そうなっていないのはなぜなのだろうか。……それらの校則は教育判断によって作られたものというよりは、生徒管理のために作られたものであった。……つまり、管理権が強大であるほど生徒の自由、人権が抑制されるというように考えれば、うなずけるのである。」
※結局校則の目的が強制的だからだというのか?論述として一見正しいように見えるが、しかしここでは「強制的でない校則とはいったいどのようなものなのか?」という問いが隠蔽されている。制服や丸刈りによる制約が真に「教育判断」による結果なら可能であるという論理が成り立つような主張を坂本がしているとはとても思えない。坂本は校則はあり得ると言っているにも関わらず,このような矛盾により校則があり得るのか疑問が出てくる記述が散見される。

p194-195 「教師の教育専門性といっても教師の教育活動のすべてに高い専門性が発揮されるわけではない。教科教育の専門性と生活指導の専門性は全く異なる。とりわけ、ここで問題になっているのは校則決定、指導の専門性である。本来、校則は生徒を恒常的に規制する生活規則である以上、当然、生徒の人権・権利を守り調整するためにある。そのためには生徒参加が、規則の内容に応じて構想されなければならないし、生徒に助言するために教師の専門的知識、人権・権利意識の高さ、組織指導力がフルに発揮され、教師の専門性は、生徒・親の人権・権利保障に役立つはずである。」

p227 「学則の制定権も解釈権も学校にあり、学生は学則や学校当局の指示命令に拘束されるという主張には学生が全く教育の受動的客体であり、権利主体性を認めないという古い学校観、学生観が見える。」

p289 「部分社会論はあたかも市民法秩序によって限られた部分社会という独立王国があって、その内部では団体の意思決定機関がすべて決定でき、決定に対して個人は意義を申立てることができず、裁判所への救済を求める道も閉ざされている、という印象を与えようとしているのではないだろうか。それによって団体と個人の紛争は法的に不毛の世界となってしまうのである。
 第三に、部分社会論において、団体内部の個人は人権・権利の主体とみなされていないのが特徴である。それは多分、部分社会論の原形である法秩序の多元性論が、個人不在の閉鎖的全体社会を予定していたと思われることにも関係があろう。」
p289-290 「部分社会論は裁判の上で特別権力関係論に接して登場することはすでに見てきたとおりである。個人の権利主体性を認めず団体の意思の優越性を暗黙のうちに想定する、という意味で部分社会論は特別権力関係論を民間団体に適用したともいえるし、よりひかえ目にいえば、公権力の優越性を、民間団体に擬制したともいえそうである。」
※内部でいくら民主的な決定をしたとしても、常にそこから外れる可能性が担保されることとなる。

p290 「いずれにせよ、集団内個人の人権・権利主体性が重視されるならば、それを制限する根拠、例えば前述したような団体の目的、規制者の専門性と権限、規制すべき場所と時間、内容、規制されるべき個人の人権、権利が考慮しつつ個別的に判断する他はないのである。部分社会論はこのような課題を自ら放棄し、個別ケースの独自性を、一般論の中に融解してしまうものといえよう。」
p290 「以上述べたような部分社会論の欠陥はこれを学校、とりわけ校則問題にあてはめるとき、いっそう著しくなる。いいかえれば校則問題は部分社会論の欠陥を最も雄弁に物語る、といえるのである。」

☆p308「一口に校則といってもその内容はさまざまであり、個別的にその意味や強制の程度、根拠を見ていかねばならなかった。例えば髪型規定は生徒の自己決定権に属し、服装規定は主として生徒の自己決定権に、副次的には親権に、校外生活規定は生徒と後の自己決定権と親権に属する。それ以外に髪型・服装には生徒集団の規制原理(助言指導的基準設定)、あるいは教師の指導、規制(学習秩序の著しい違反)原理が働く、校内生活規則には教師の指導と規制原理が働くが、基本的には生徒・生徒集団の自治によるべきで、生徒の理解が欠かせない。
 つまり校則はその種類によって、生徒・親の権利・意見・理解を前提とし、またはそれに依存するものであって、それを無視して学校が強制し、違反に懲戒を加えることは許されないものがある。むしろ、一方的に強制し、違反に懲戒を加えることができるものは、生徒の人権・学習権上緊急なものに限られる特例としなければならない。」
※この記述がそもそも矛盾しているのである。坂本はそもそも「一般則」として髪型・服装・校外生活規定について学校の強制がきかないことを主張していたはずである。生徒集団や教師の関与する余地を与えていない。「一般則」として語っている以上、合意に達すれば制約してもよいという論理構成であるはずがない。また、やはり生徒の学習意欲は自明に存在しているものとみなしていると言うしかないのでは。

p313 「もっとも校外生活規則、例えば高校のバイク規則、アルバイト禁止、中学校の門限・夜間外出禁止、外出服装指定や映画閲覧規制などは、外形規制よりむしろ生徒の非行防止、危険防止目的の保護規則であったろう。しかし、基本的には同じく管理主義の発想から現われたものである。なぜかといえば、生徒が非行や危険から守るのは何よりも生徒本人の理性・自尊心と注意力である。そしてそれを支えるものは校外では親の監督であり、教育力である。本当に校外で生徒を非行と危険から守ろうとするならば、生徒の理解と誇りによって注意力を大切に育てる他はない。そして家庭の教育力を高めるためにPTA組織をフルに使って家庭間の主体的な強力、交流を強める他はなかったはずである。それなのに、反対に、生徒の意向を全く無視して規制を強制し、反対する家庭の意向をも無視するのであるから、根は管理主義的発想という他はない。その結果、生徒の自律心も親権もいっそう衰弱していく。しかもひとたび校則によって禁止し、規制するや違反を許すことはできず、画一的に遵守を強制する。ここで保護目的の校則は管理主義の校則に変質する。」
※これについても、校外問題が親たちの手で解決不能な場合は親の責任であるとして終結してよい問題なのだろうか??坂本の論理ではそういう結論しかでないだろうが。
p314-315 「しかし、校則教育は新しい学校自治のプランを必要とするだろう。生徒・親がどこまで校則制定に参加すべきか。参加すべきものは単に校則制定にとどまってよいのか、より広範な生徒・父母参加の必要はないのか、問題になってくるからである。教師にとって、生徒が自由に意見を表明し、自主的にそれを調整集約すうことができなかったならば、自分たちの教育の成果・方向を認識することもできないはずである。また親たちが自由に意見を表明することができなかったならば、親の教育要求を正しく認識することができない。手探りで教育するにひとしい。また、前に述べたように、教師集団は管理主義で一致しやすい傾向もあるから、生徒・親の自由な意見表明や学校・教師批判は管理主義への大きな防波堤になるのである。」