スラヴォイ・ジジェク「大義を忘れるな」(2008=2010)

<考察>
 今回はジジェクの議論をまとめてみたい。
 ジジェクの主体論は基本的に「大文字の<他者>」に依拠しようとする主体と、そのような主体に対する「幻想」を走査しようとする主体(これをラカン的主体とここでは呼びたい)の2つが対比されながら展開されていた。本書ではこのあたりの議論について、おそらく「厄介なる主体」の時よりもわかりやすい説明を行っているようにも思う。ジジェク自身への批判も紹介しながら、批判者の誤解についても説明を加えている。

 「否定の否定とは、対立軸の無効化である」、確かにこれはヘーゲルに忠実な論点といえるだろう。ただ、ジジェクはこのような差し引きの行為について幾分楽観視している感は否めない。サラマゴの小説「見ること」の例で考えてみよう(※1)。民衆がとったここでの「差し引き」とは、無効票を投票するという行為だった。これはある意味で既存の法に従いしながら、ある意味で「想定外」の反応を行うことによって、「対立軸の無効化」を図ろうとする例である。ただしここには前提がある。それは「権力者が民衆の行為に対して『過剰』な応答する」という点である。つまり、投票者の行為が彼らの正当性基盤を崩した、という自覚を伴うという点である。結果自体は権力者に有利な結果が出たにも関わらず、正当性の基盤が崩れたから彼らは自戒するであろう、という見方である。しかし、この「正当性」というもの自体が大文字の<他者>に依拠したものであろう。もし、権力者側がそのような大文字の<他者>へ依拠せずに、あくまで自身の権力に固執するような場合において、民衆の行動は何も意味を持たなくなる。
 簡単に言えば主体がこの「差し引き」を行う場合、主体ではない他者による応答なしには、この差し引き(否定の否定)自体が機能しないということである。そして「他者」から見れば、これは何かしらの大文字の<他者>への依拠なしには成立することがない行為でもある。これは悪く言えば「大文字の<他者>」という考え方にすがらない限り機能する発想とはいえない。にもかかわらず、ジジェクは「大文字の<他者>」にすがるな、という。これはなかなかに不誠実ではないかと言えないだろうか?確かにこの方法によって「私」は「大文字の<他者>」に依拠しない、つまり幻想を走査した主体として振舞うことが可能である。しかし、そのような主体は、別の「大文字の<他者>」に依拠せざるをえない主体の存在を前提にしているのではないか、と。

 これは同時に主体側の問題にも結びつく。つまり、主体が「差し引く」行為というのは、「大文字の<他者>」への依拠を行わないことを前提としなければならない。ロミオとジュリエットの差し引き(p615)に見られるように(※3)、「否定の否定」の対立軸の無効化はそれ自体非意図的でなければならない。「否定の否定」そのものは意図的か非意図的かを問わず作動することが可能である。しかし、「大文字の<他者>」を回避するためには、そのような意図を含めてはいけない(※2)。つまり「対立軸」の存在そのものを主体が放棄していることが前提とされなければならないのである。
 しかし、他方でジジェクは、前回考察したように、超自我の作用から立ち上がる<象徴界>の再形成について批判的であった。もちろん、超自我がこのように作用しうるのが現代的特徴であるという前提は共有しながらの主張である。
 ラカンのいう「欲望の法」というのは、いまいち私が理解ができていないのかもしれないが、思うに「私自身の命令に従え!」という態度である。他方でそのような法は「他者の欲望」を回避することはできないことも同時のジジェクは了解している筈である。では、この矛盾しうる両者の主張をジジェクはどう調停するのか。一つの主張は「他者から与えられる法に対して、空虚に振舞うこと」とされる。

 ジジェクが対立軸を放棄しようとしていないのではないか、という懐疑は、特にジジェクのこのような主張と関連する(なお、「大義を忘れるな」のp612も同旨の内容である)。

「ある暴力行為を神的暴力として認定するのを可能にする「客観的」基準は存在しない。はたからみれば、たんなる突発的な暴力にすぎない行為であっても、当事者にとって神的なものになる可能性がある。そう、その行為の神的な性格を保証してくれる大きな<他者>は、存在しないのである。それを神的なものとして解釈し受け入れる、賭けともいうべき仕事は、完全の主体の仕事である。」(ジジェク「暴力」2008=2010:p244)

 神的な正義は意味を欠いたしるしであり、そのしるしになんらかの「深い意味」を読み込む誘惑に負けてはならない、ともジジェクはいう(p243-244)。ここで問うべきは「意味の誘惑に負けてはならない」のが、あくまでも何かをなさんとする主体に対して訴えられている、ということである。そして、同時にそれは主体からの訴えを受ける側には、必ずしも要求されている訳ではない、ということである。これは、神的な性格を付与する絶対的な審級が存在しないからこそ、受け手の主観の問題による問題であり、その主観への「賭け」を行っていくべきであることの主張と読める。ここでは「賭け」が受け手の主観にあることが重要である。
 しかし、「賭け」のポイントをこの点に焦点化してしまえば、主体に制約したルールであったはずの「意味の欠落への自覚」は解除されてしまわないだろうか?なぜなら、「賭け」自体は主体の制約条件に直接の影響しえないからである。ここには、主観同士の問題を客観的に語る際に陥る矛盾が内包している。つまり、主観対主観のやりとりを第三者的にみるジジェクからすれば、これらの議論は矛盾しない。しかし、これを主観問題としてこだわるのであればなおのこと、「賭け」の問題と「意味の欠落への自覚」のどちらが優位かをはっきりさせるべきであり、それはもちろん主体のあり方の問題に比重が置かれるべきなのである。

 確かに、ジジェクの議論を、主体の問題に固執していた点から次第にこのような受け手の状態にまで着眼した議論にまで展開してきた、という解釈も可能ではないかと思うし、その意味ではさほどの問題はないとできるかもしれない。そのような語り方をジジェクが行ってきていることを踏まえれば、主体側の態度が重要であることは自明であるからである。しかし、私には、ジジェクの物言いがこの点をしっかり押さえた上で一貫した主張をしているとはとても思えないのである。

 言い換えると、こうも言える。主体が<法>に従って空虚に振舞う、という時、二重の意味が含まれている必要があるだろう。一つは自らが<法>の意味が空虚であると引き受けるということ、もう一つは<法>の意味が空虚であることが他者に対しても等しく共有されることを前提とするということ、である。ジジェクは前者については当然の前提であることを認める。しかし、後者についてはあまり真剣に前提にしているとは考えづらい。

 ジジェクの態度が一致しない点は実際いくつかあり、それを引用の最後の部分の※に列挙しておいた。共通していえるのは、何らかの「カタストロフィ」を伴うようなものに対してジジェクは自身の考えと矛盾した形で資本主義や原発を批判するのである。なぜジジェクはこれらの批判を行うにあたり「大文字の<他者>」にすがるのだろうか?先ほど述べた矛盾した語りと関係するんじゃないかと勘ぐりたくもなる。つまり、「差し引き」の実践の必要性を強く感じているものについては、必然的に「権力者」側の想定として「大文字の<他者>」に依拠せねばならない。ところがこれが権力者と同じようにみなされた者たちを必然的に排除することにも繋がっているのではないだろうか?おそらく、ジジェクはこの点についての配慮が足りないのである。もしくは、この「差し引き」の実践に不可欠な私の中に存在しない「大文字の<他者>」を呼び起こさなければならないことへの代償なのではないだろうか。
 だからこそ、ジジェク的主体論については一種のもろさがある。これはジジェク的な主体論自体がもろいと評価することが必然であることを意味しない。もちろん「差し引き」という形の抵抗において、決して成功しない可能性を引き受けることを前提にした形での主体論もまたありえるだろう(これがある意味で真のジジェクラカン的主体論といえるかもしれない)。しかし、この差し引きが成功するという(これはある意味で、「差し引き」という行為に意味があるという評価を行う、ということもできるが)前提を組み入れた途端に、それはもはや態度としての矛盾にしかならないだろう。

※1 サラマゴ『見ること』の議論については別の著書ではこのように議論している。「これは、支配政党だけでなく民主主義のシステム全体をも崩壊させる組織的な共同謀議なのか。そうだとすれば、黒幕はだれなのか。黒幕は、どのようにして数十万の人々をひそかにまとめあげ、こんな転覆的行為をするように仕向けたのか。一般市民は、投票についてきかれると、それは個人的なことなので話せないとだけ答え、こうつけ加えた。白紙投票はわれわれの権利ではないのか、と。温和な抵抗にどう反応してよいか分からない、しかし反民主主義的な陰謀が存在すると確信している政府は、すぐにこの市民の動きを「純然たるテロリズム」と呼び、非常事態を宣言する。これによって政府は、憲法が保障するあらゆることを一時的に停止できるようになる。」(ジジェク「暴力」p261)この説明も、白票の山を「民主主義の崩壊」とらえるという大文字の<他者>を導入した議論でしかない。

※2 ここでいう非意図的というのは、意図を放棄せよということと必ずしも一致しない点もおさえておきたい。意図的で非意図的であれ、「対立軸」となっている点についての参照を放棄していること、何かしらの意図があるのなら対立軸については気にかけないということを意味する。

※3(12月6日追記)今回のレビューを機に「ロミオとジュリエット」を一度読んでみたが、このような例で議論するとしても解釈は難しい印象を受けた。作品中からロミオとジュリエットの「抵抗」の解釈をどうみるかが難しいのである。2人の困難は一国内のモンタギュー家とキャピュレット家の対立(いがみあい)によりもたらされているが、よく内容を読めば、そもそも2人が結ばれることに対して明確な形で反対していた審級もなかったと思えるからである(ここでは、対立関係の主であるモンタギューとキャピュレット自身に二人が結ばれることを拒否しようとする描写がないことを意味する)。極端な読みをすればこの対立軸に対する自覚はまずもってロミオとジュリエットの間にしかなかったのではないのか、とさえ読める。二人が神父(神)の審級のもとで結婚が許された際に生じるとされる「ヘゲモニーの対立を揺るがす」ことの意味がよくわからないのである。
さらに言えば、仮にこの「抵抗」が機能する対立と抑圧ががロミオとジュリエットに「与えられていた」として、純粋な二人の関係性の問題として(非意図的な行為として)位置付けることも難しい。何より彼らは結婚を神の名のもとに求めているし、それがある種の抵抗の起点として機能するが、この神による裁断は「二人の関係性」から外れるものではないのか?言ってみれば「神の判断」を盾にして対立関係を否定しようとする行為にも読めるのである。(また、この神の審級とは別に、国自体を総ている「領主」による審級があることも注目せねばならない。領主はいわばモンタギュー家とキャピュレット家から見れば上位に位置付いた秩序を持ち、作品中でもいくつかの裁断を行っている。領主の持つ秩序と「2人の関係性」との関連性についても検討の余地があろう。)
少なくとも、ジジェクここでの例えとして「ロミオとジュリエット」を取りあげるのは、あまりよいとは思えない。シェイクスピアの意図はジジェクの意図とかなりずれているように思える。この点については、もう少し読み込んでみて、また取りあげたい。


ジジェクによるフーコー批判について
 ジジェクフーコー批判は、ジジェクの著作のいたるところに見られるが、実際にどのように批判を行っているのか。「厄介なる主体」からいくつか引用してみる。例えば、ジジェクフーコーを「倒錯症の哲学者」と呼びながら、次のように指摘する。

「倒錯症者は、すでに自分が求めている答え(享楽をもたらすのが何者かという問題に対する解決法、<他者>への対応)を知っているがゆえに、あらかじめ<無意識>を排除してしまうのであって、彼は自分自身の答えに疑念を抱かず、その姿勢に揺るぎはない。」(ジジェク「厄介なる主体2」訳書2007、p12)

 また、「性の歴史」の第二巻、第三巻を想定しつつ、フーコーキリスト教以前を取り上げる理由について次のように解する。

「権力と抵抗の堂々巡りを断ち切ろうと、フーコーは「堕罪以前」の世界という神話を持ち出し、その世界の規律は罪過を咎めようとする普遍的な道徳秩序を強要された結果ではなく、自己形成されたものであると説く。」(前掲書、p18-19)

そして、フーコーが「無意識」を意識していない結果として、以下のようにフーコーの議論からは<過剰な愛着>から逃れることができないと説く。

「要するに、フーコーセクシャリティに対して規律を賦課し、徹底管理しようとするディスクールについて説明するとき、彼の考慮の枠から漏れてしまっていることがらとは、権力のメカニズムそのものが、エロスをかき立てる道具と成り下がっていくプロセス、つまり、権力が「抑圧」しようと躍起になっている対象によって汚穢されてしまうプロセスなのである。」(前掲書、p23)

 ここでの指摘について、「主体の解釈学」から見た反論はどう述べることができるか。
 まず、2つ目の引用、フーコーキリスト教以前を考察していたことについて。ここでの自己形成については、パレーシア的実践においては対話的性質を同時に持ち合わせていたことから一定の留保が可能であるといえる。堕罪以前に注目するのは、むしろ「私」に着眼した主体観から離れて、そこに「私」に働きかける他者の位置付けを捉え直すために、もしくはそれを相対化するために導入されたという方が妥当である。

 次に1つ目の引用、フーコーが<無意識>を排除していたという点について。この批判はある意味で妥当だということができる。フーコーが「自己への配慮」の議論を行う際に求めていたのは、「私」の絶対的な意識化であるとみなすことができる。そこには一見無意識が排除されたかのようにも見える。しかし、ポイントは、フーコーが主体化にあたって「霊的なもの」を排そうとした点にある。この霊的なものは「主体化する私」と「本来あるべき私」との裂け目を閉じる効果をもつ。つまり、あたかも主体としての私が現勢化したかのように認識させる。しかし、フーコーはこれに対して批判的であることがわかる。これはむしろフーコーが徹底的に「意識化」を図ろうとしたのとは裏腹に、そこだけでは完結しないこと(これを無意識の領域と呼ぶことも可能だろう)を暗示していることを意味する。これは「大義を忘れるな」ジジェクの述べているラカン的主体像と一致した議論であるようにも思える。これも妥当な批判であるとは言い難い。

 最後に3つ目の引用。これについても<無意識>を意識していると解せるフーコーの議論において批判可能であるように思える。しかし、「主体の解釈学」から離れた政治について語るフーコーの言っていた「法律」という点を踏まえると妙にひっかかる。「法律」自体はそれ自体いともたやすく「道具化」されてしまう。それを願っていた者の意図とは関係なく過剰に意味が溢れてくる。もっとも、ジジェクの批判で想定している論点は、セクシャリティが内包する過剰さについてであった。セクシャリティ自体は確かに過剰性を持ちえるが、それがフーコーの言うような霊性を持ち合わせない以上、過剰さが現勢することはないと解することもできる。しかし、それが「法律」という形式で現勢する以上、過剰さを否定することはできなくなるのである。もちろん、ここではおそらく「法律」コミットしようとする主体に対しても同様に批判がなされることになる。

 さて、ここで、私がジジェクを批判した論点とジジェクフーコーを批判した論点がとてもよく似ているように思えてくる。私はジジェクが「差し引く」行為をする時に大文字の<他者>に依拠しようとしている点を批判した。ジジェクフーコーが権力にすがっているように見るときに、フーコーの批判を行っているのである。これはある意味で興味深い所である。
ここで、「フーコーの権力論」と「フーコーの真理論」という2つの考え方を仮に立ててみたい。前者は通説的な、「性の歴史1」を頂点にする、ある意味で一貫性をもったフーコー論、そして後者はパレーシアの議論に見られる末期フーコーに焦点があたったフーコー論である。フーコー自身は前者から後者に移行したと主張しているように見えることはこれまでも何度か指摘してきた。
 両者の違いははっきりしている。権力論については権力をめぐる贈与・交換がなされている世界の議論を行っており、そこには「真理」が介在していることが自明である。それに対して後者についてはそのこと自体をカッコ付けすることで、そもそも真理の贈与・交換とはいかになされてきたのか、に焦点を当てていく。
 ここで問題となるのが、「フーコーの真理論」についての意味の与え方である。私自身もこれを「真理の勇気」のレビューまでは評価を保留したいと思っているが、これまでの議論、「主体の解釈学」のレビューでは、フーコーの中にこれが一貫しているのかという疑問は呈しておいた。そしてとりわけそれは既存の法律に基づく個人の利益保護がされているという事実がある中で、「新しい法律、新しい関係性」を立ち上げることがどのような影響力をもつのか、という点に見出された。この新しい法は既存の法律と同じ運命を辿り、ジジェクの批判の通り過剰な愛着を回避できないのではないか。そのような解釈は十分に可能である。フーコーから検討しなければならないのは、この点についていかにとらえているのかを読解していくことであると思う。

<読書ノート>
p175-176 「一見したところ、ラカンの大文字の<他者>は、フーコーの装置という概念の出来の悪い兄弟のように見える。装置の方が社会分析により多くの実りをもたらすからだ。しかし、主体の地位に関する行き詰まりが装置にはある。まず(狂気の歴史において)、フーコーは主体性という抵抗の核を装置から排除する傾向にあった。次にフーコーは、立場をすっかり逆転させ、抵抗する主体性を装置の中にラディカルに取り込んだ(権力それ自体が抵抗を生み出す、等々。これは『監獄の誕生』のテーマである)。最後に彼は「自己への配慮」がなされる空間を素描しようとした。そうした空間において主体は、装置の内側で、自己への関係を通じて自己固有の「生の様式」を文節化でき、こうして装置から最小の距離を再びとることができるようになる。ここにおいて主体はつねに、装置の褶曲、障害であり、ことわざ風に言えば、装置のスムーズな作動を乱す砂粒なのである。ラカンの大文字の<他者>を「措定すること」は主体的な身振りであり、つまり「大文字の<他者>」は、主体の想定によってのみ実在する潜勢的な存在なのである。(こうした契機は、「国家のイデオロギー装置」というアルチュセールの概念には欠けている。というのも、この概念は、大文字の<他者>の物質性、つまりイデオロギーとしてのさまざまな制度や儀式化された多様な実践における大文字の<他者>の物質的存在を強調しているからだ。これとは反対に、ラカンの大文字の<他者>は、詰まるところ潜勢的であり、潜勢的なものとして、その根本的な次元において「非物質的」なのである)。」
※いくつか問題があるが、最も大きいのは、末期フーコーの議論を、全面的に政治的なコンテクストで読んでいる点ではないだろうか。大文字の<他者>については、「いるかのように語る」ことが禁止されるということ?

p248 「ベンヤミンの「神的暴力」でいう「神」は、古いラテン語の金言「民の声は神の声」でいう「神」と同じ意味で理解すべきである。つまり、「われわれは<人民の意志>の単なる道具としてそれをやっている」という倒錯的な意味ではなく、主権者の決断にからむ孤独を勇敢に引き受けるという意味で。それは、大きな<他者>の保護を得ずに絶対的な孤独のなかでなされる(殺したり、危険を犯したり、命を捨てたりする)決断である。それは、道徳からはみ出すとしても、「不道徳」ではない。つまり、天使のように無邪気に殺してよい、という許可を行為者に与えるのではない。」
p285 「では、毛沢東のどこがまずいのか。切断せよ、分裂せよというこの命令を弁証法的綜合と対立させる、そのやり方がまずいのである。
毛沢東は、「綜合」とは敵を破壊することあるいは敵が服従することであると、あざけるように述べるとき、彼の過ちはまさにこの嘲笑的な態度にある。彼は、これが真のヘーゲル的綜合であることを分かっていないのだ……。結局のところ、ヘーゲルのいう「否定の否定」とは何であるのか。まず、旧体制それ自身のイデオロギー的-政治的形式の内部で否定される。次には、この形式自体が否定されねばならない。」

p288 「以上が、「否定の否定」を拒絶した——すなわち、「否定の否定」が、ある立場とそれに過剰に根源的に否定する立場の妥協ではなく、いかに真の否定であるか理解できなかった——毛沢東の理論的過ちの代償である。毛沢東が、終わりなき否定、ニ分割、細分化……という「悪無限」に陥るのは、彼が、この形式自体の自己関係的な否定を理論的に定式化できないからなのだ。ヘーゲル流にいえば、毛沢東弁証法は<悟性>のレベル、固定された概念上の対立のレベルにとどまっている。それは、概念的規定のもつ、厳密な意味で弁証法的な自己関係性を定式化できないのである。」
p293 「革命はたんなるガス抜きではない。やがてしらふの状態に帰ることが決っているカーニバル的な馬鹿騒ぎではないのだ。毛沢東の問題点は、「否定の否定」の不在、すなわち、革命の否定性を真の意味で新しい肯定的秩序に変換するのに失敗したことである。革命の一時的な落ち着きは、ことごとく単なる多くの旧体制の回復に帰着した、そのため、革命の火を消さずにおく唯一の方法は、<文化大革命>において頂点を迎える、無限に繰り返される否定という「見せかけの無限」であったのだ。」
ジジェクの議論は何らかの肯定的秩序に依拠するということ?それは達成できないにせよ??

p338-339 「「大きな<他者>は存在しない」というラカンのモットーが、なぜ倫理的問題の核へとつながるのかは、いまや明らかである。このモットーが排除するのは、まさしくこの「<最後の審判>の視座」である。すなわち、どこかに——たとえそれがまったくの仮想的な参照点であるとしても、たとえわれわれがその場所を占めることができず、また実際の判断を下すこともできないと認めるとしても——われわれが自分の行為を評価し、その「真の意味」、その真の倫理的地位を表明するのを可能にする基準があるにちがいない、という考えである。「正義としての脱構築」というジャック・デリダの考えでさえ、「無限の正義」という、永遠に先送りされ、つねに来るべき状態にありながら、われわれの活動の究極の地平でもある幽霊を支えるユートピア的希望の依存しているように思われる。
ラカン倫理学の過酷さは、われわれはこうした基準への参照を完全に放棄しなければならないという、その要求にある。そして、この要求に込められているのは、この放棄によってわれわれを倫理の不確定性ないしは相対性のなかに置く、あるいは倫理的活動の基盤そのものを掘り崩す、ということだけではない。大きな<他者>の保証を放棄することは真に自律的な倫理学の条件であるということも、そこに込められているのだ。」

p459 「<真理>はけっして押し付けられない。なぜなら、<真理>への忠誠が度を越して強制的なものとなった瞬間、われわれが扱っているのはもはや<真理>ではないから、<真理-出来事>に対する忠誠ではないからである。スターリン主義の場合、問題は単に<真理>の強制、つまり<真理>の状況に押し付けることではない。むしろ問題は、強制された「真理」——中央集権的な計画経済、等々のヴィジョン——そのものは<真理>ではない、ゆえに、それに対する現実の抵抗はそれ自体が偽りであることのしるしである、ということだ。」
p463-464 「私がフェティシズム的な否認をしているというさらなる「証拠」は、スタヴラカキスが「倒錯的逆説」と呼ぶもの、すなわち、私が今日では「既存の体制に代わるグローバルな新体制というこのユートピア的な場を開いておくことが、これまでになく重要である」と主張しながら同時にユートピアを拒絶している、ということである。これもうそ。私は様々な意味でのユートピアについて論じてきたのだから。例えば、単なる想像上の不可能なものとしてのユートピアと、既存の社会関係の枠組みの内部からみて「不可能」に思われるものを実演=制定するというより根源的な意味でのユートピアについてである。そう、後者のユートピアは、この関係からみた場合にかぎって「場をもたない」のである。」

p477-478 「したがって、スタヴラカキスは<現実界>と象徴化に収まらない過剰な現実の経験とを同一視するが、それはラカンのいう(あるいはラクラウのいう)<現実界>とは何の関係もない。ラクラウのいう「敵対性」は、<象徴界>の外部にある<現実界>の実在性=肯定性ではない。それは完全に<象徴界>に内在するもの、<象徴界>の内的な欠陥あるいは不可能性である。<現実界>は、<象徴界>の安定性を外側から壊乱する超越的、実質的な現実ではなく、<象徴界>秩序それ自体の内的障害、躓きの石なのである。ラカンのいう<現実界>に関する、こうした経験主義に基づく誤読をみれば、スタヴラカキスによる「否定性」という語の奇妙な使い方もうなずける。彼にとっては、象徴化におさまらない過剰な経験としての<現実界>が「否定的」なのだが、そこには<現実界>は象徴化に抵抗する<他者性>として機能するがゆえに象徴化を掘り崩すという表面的な意味しかない——しかし、この<現実界>そのものは、あふれんばかりに豊かな経験の実在性=肯定性であるのだが。ラカンにとって、事態はこれとはまったく逆である。確かに、初期のラカンは、時折、<象徴界>以前の現実を指し示すために「<現実界>」という言葉を用いている。しかし、この<現実界>は、欠如なき状態という純粋な実在性=肯定性である。そう、この頃のラカンが繰り返し述べているように、現実界においては何も欠けていない、欠如は<象徴界>によってはじめて導入される。だからこそ、ラカンにとって否定性とは、<象徴界>を外側から突き崩す<現実界>のことではなく、<象徴界>そのもの、暴力的な対象化をともなった象徴化の過程、つまりは、豊かな経験を意味作用を作り出す一なる徴へと還元することである。」
※端的に<象徴界>なくして<現実界>はない、という(p478)。

p486-487 「近代社会は、究極的、超越的な保証の欠如、あるいはリビドーにかかわる語でいえば、完全な享楽の欠如によって規定されている。この否定性に対処する方法は、主として三つある。ユートピア的方法、民主主義的方法、ポスト民主主義的方法である。最初の方法(全体主義原理主義)は、否定性を排除するユートピア的で調和的な社会に到達することによって絶対的享楽の基盤を再び手に入れようとする。第二の民主主義的方法は、政治的な場において「空想の横断」に相当することを行う。つまり、それは政治的敵対性の場を生み出すことによって欠如そのものを制度化する。第三の方法、消費主義的ポスト民主主義は、政治を非政治的行政に変形することによって否定性を無効にする。」

p547 「ネグリは、ドゥルーズの思考の根源的な二重性を度外視しているのだ。ドゥルーズのなかには、相容れない二つの存在論がある。潜勢的な流れの生産力を称揚するドゥルーズは、もう一人のドゥルーズ、物質的生産と<感覚>の潜勢的な流れとのあいだに解消しがたいギャップを措定し、感覚の潜勢的な流れを非物質的で不毛な効果=結果と見なすもう一人のドゥルーズに、いつまでもつきまとわれているのである。」
p548 「ドゥルーズは理解しがたい飛躍をして、先に見た概念的空間を、生産対表象=代表という伝統的対立に結びつけるのである。潜勢的なものの領野は発生を促す生産力の領野として(再)解釈され、この領野は表象=代表の空間に対立するのだ。ここでわれわれが目にしているのは、よくあるおなじみの話、分子的で多数多様な生産性の場が、全体化を目指すモル的組織によって抑制されている、等々といったよくある話ではないだろうか。このようにドゥルーズは、二つの論理を生成と存在という対立の下に同一視しているように思える。その二つの論理は原理的に両立しえないにもかかわらず、である(二つ目の論理の方にドゥルーズを押しやる「悪」影響を、フェリックス・ガタリのせいにしたくもなる)。厳密な意味での生産の場は、潜勢的な空間そのものではなく、潜勢的な空間から構成された現実への移行、マルチチュードが崩壊して一つの現実へなだれ込んでいく動きなのである。原理的に言って生産は、潜勢的なものの解放空間を制限すること、潜勢的なマルチチュードを規定/否定することなのだ。」

p548-549 「ドゥルーズが一人で書いたテキストのなかに、いかなる意味においても直接的に政治的なものは一つもないということは決定的に重要である。ドゥルーズ「自身」は政治に関心のない、きわめてエリート的な書き手だった。したがって、唯一の哲学上の重要問題は、ドゥルーズガタリに向かったのはいかなる内在的な行き詰まりからなのか、ということになる。」
p550-551 「そして、これはまたしても唯物論と観念論の対立ではないだろうか。ドゥルーズにおいては、これは『意味の論理学』と『アンチ・オイディプス』との対立を意味している。<意味-出来事>、純粋な<生成>の流れは、身体的-物質的原因が複雑化することから生じる(能動的でも受動的でもなく中立的な)非物質的触発=情動なのか、身体という実定的な存在物はそれ自体<生成>の純粋な流れの産物であるのか、という対立である。あるいはまた、潜勢性という無限の領野は相互作用する複数の身体から生じる非物質的な効果=結果なのか、それとも、身体それ自体がこの潜勢性という領野から出現し自らを現働化するのか、という対立である。」

p552-553 「ドゥルーズ存在論は明らかに、二つの異なる政治の論理と実践に翻訳できる。生産的な<生成>の存在論は、分子の集団であるマルチチュードの自己組織化という左翼の主題につながっていくことは明らかだ。この分子の集団は、全体化を目指す権力のモル的システムに抵抗しこれを掘り崩すというのである。これは、抑圧的で物象化されたシステムに対立する自発的で非序列的な生けるマルチチュードという旧来の考え方であり、哲学上の観念論的主観主義に結びついた左翼的ラディカリズムの典型例である。問題は、ドゥルーズの思想を政治化するときに考えられるモデルがこれしかないということだ。もう一つの存在論、<意味-出来事>の不毛性の存在論は、「非政治的」に見える。しかしながら、このもう一つの存在論が、ドゥルーズ自身も気づいていなかった政治に関する独特の論理と実践を含んでいるとしたらどうだろう。」
p553 「これが意味しているのは、不毛な潜勢的運動と権力の現働性とのギャップを受け入れるべきだということである。この解決策は見かけよりもパラドクシカルだ。つまり、潜勢性は表現力のある生産性を表すが、これに対して現働的国家権力は表象=代表の水準で機能するということを念頭に置かねばならない。生産性は「現実的」であり、国家は表象=代理的なのだ。これは、生産性対<存在>の実定的秩序という哲学上のパラダイムから脱出する方法である。真のギャップは現実とその表象=代理とのギャップではない。現実とその表象=代理は対立しておらず同じ側にあって、同一の実定的<存在>の秩序を形成しているのだ。したがって生産性は、実体的<存在>のたんなる見かけに対立するような形而上学的原理でも現実の発生源でもないのである。」
p556 「だから<左翼>は態度を変えて、外見は今までより穏健に見えるがじつはもっとラディカルな戦略を取るべきなのだ。すなわち、国家権力から身を引いて、社会生活の組成そのもの、社会全体の構造を支えている実践すべてを直接変えることに集中すべきだというのである。」

p600 「こうした行き詰まり(国家という形式の内部でも外部でもうまくいかない)に対してバティウが与える解決は、国家という形式から距離を置くことである。国家の外部に立つ、ということだが、それは、国家という形式を破壊するような外部に立つことではなく、国家という形式を破壊することなくそこから自身を「差し引く」という身振りなのである。」
p612 「バートルビーの政治のバティウ版と呼ぶべきものに対して適切に応答するには、ヘーゲルをもって応じるべきである。つまり、「適切な基準」という問題全体が偽の問題なのだ。差し引きは、間違いなく「否定の否定」である。言い換えればそれは、支配的権力を直接的に否定-破壊するのではなく、権力の領野の内部に留まり、まさにその領野を掘り崩し、新たな肯定的空間を切り開くことなのである。要点は、差し引きには二種類あるということだ。バティウは、純粋な差し引きによって社会的-民主的立場が得られると考えるとき概念的に退行しており、この退行は徴候的である。民主的な差し引きは差し引きではまったくない。差し引くことによって原理主義者としての宗教的アイデンティティを構築するのは、「虚無主義的な」テロリストなのだ。こうした者たちにおいて、ラディカルな破壊はラディカルな差し引きと重なるのである。もう一つの「純粋な」差し引きとは、<ニューエイジ>的な瞑想の世界に引きこもることであり、こうした差し引きは、社会的現実の領域をそのままにしておきつつ、自らの固有な空間を創るのである。では、差し引きが本当に新たな空間を創造するのはいつなのか。唯一の正解は次の通り。それは、そこから身を差し引いたシステムの座標を、身を差し引くことによって掘り崩し、そのシステムの「徴候的捩れ」の点を狙う撃つときである。」
※民主的な差し引きとは、「アイロニカルな没入」そのものである。バティウは民主的な差し引きと純粋に破壊的な否定とを区別する基準を見出そうとするが、ジジェクはこれを批判する。

p611-612 「しかし、これはさらなる問題を生み出している。こうした運動の宗教的基盤という問題である。バティウは、「こうした運動には、宗教上の特殊性に結びついた内的限界がある」と述べている。しかし、この限界は一時的なものなのだろうか。バティウはそうほのめかしているように思える。この限界は、こうした運動が自らを普遍化する(必要がある)ときに、運動の発展過程における例の「第二の、高次の」段階において克服される(必要のある)ものなのだろうか。ここでの問題は、宗教それ自体ではなくてその特殊性にある。バティウがそう指摘しているのは正しい。だが、そのイデオロギーが直接的に<反-啓蒙主義>という形をとるヒズボラのような運動にとって、宗教の特殊性は現在においてすでに致命的な限界なのではないだろうか。」

p613 「サラマゴの小説『見ること』のプロットを思い起こそう。……無効票を投じるという行為によって、支配者たちは被支配者たちに対してすべての責任を負う状況に追い込まれる。そうした行為が、最も純粋な差し引きのあり方である。政治を正当化する投票という儀式に参加せず、そこから退くというだけの身振りによって、国家権力が支えを失って崖の先に浮いているように見えてしまうのだ。……権力者たちは、正当化されていないのだから、苦労して、自らの行いによって正当性を得なければならない。」
※「投票をせよ」という命令に忠実でありつつも、大文字の<他者>への従属を回避する行動がまさに、無効票を投じる行為ということである。投票に行かないことは逆に大文字の<他者>への従属を意味する(他の人が行為することに依存することで。p613-614)。
p614 「このように正確な意味で、差し引きはもともと、ヘーゲルの言う「否定の否定」なのである。最初の否定は直接的な破壊であり、否定の相手と共有する現実の領野において、その相手を暴力的に「否定」/破壊することである。これとは逆に、本当の差し引きは、相手との闘争が行なわれている領野それ自体の座標を変えてしまう。バティウの説明には、この決定的には、この決定的に重要な点を見逃しているところがある。……中心となる軸は、(国家という領域から退き、自分固有の空間を創造するという)「引きこもり」としての差し引きと、(多種多様な敵対から基本的敵対へと移動し、真の分割線を引くという)「最小の差異への縮減」としての差し引きとの対立軸である。困難ではあるがなすべき務めは、これら二つの次元が重なり合うアクションを起こすことなのである。」

p615 「ヘゲモニーを握るこの対立をめぐるロミオとジュリエットの身振りは、まさしく差し引くという身振りである。愛が二人を特異化し、二人はヘゲモニーを握る対立の支配圏から身を差し引き、二人の固有の愛の空間を創設するのだ。この愛の空間は、二人の愛がたんなる掟破りの色恋沙汰としてではなく結婚として成就した瞬間に、ヘゲモニーを握る対立を動揺させる。ここで注目すべき重要なことは、愛のために身を差し引くという二人の身振りは、「個別の」(民族の、宗教の)領域の「実質的な」差異に対してのみ「有効」なのであり、階級の差異に対しては有効ではないという点である。階級の差異は、「差し引くこととは無縁の」差異なのであり、この差異から身を差し引くことはできない。というのは、階級の差異が、社会的存在の個別の領域のあいだの差異ではなく、社会空間全体に走っている亀裂だからである。階級の差異に直面した場合、恋人同士が結びつくための解決策は二つしかない。愛し合う二人はどちらか一つを選択しなければならないのだ。下の階級に属する恋人が上の階級に寛大に受け入れられるか、それとも、上の階級に属する恋人が、従属階級との政治的連帯を表明して自分の階級との縁を切るか、このどちらかなのである。」
※ここで階級というのは、ある意味で多種多様な敵対関係の塊として考えられているかもしれない。何故なら、そこに「真の」分割線が引かれていないからだ。「真の」とは、ジジェクのいう個別性、実質性に立脚したものである。また、身を差し引く領域自体を無傷にしておくことは生政治に見事に調和しているとする(p615-616)。

p680 「この状況を通じてわれわれが直面するのは、きわめて根源的な形で現れた、現代の「選択社会」の袋小路である。通常の、強いられた選択の状況では、私は、正しい選択をするという条件のもとで自由に選択する。そのため私にできる唯一のことは、押し付けられたことを自由に遂行するようにふるまうという空疎な身振りである。しかし、ここではそれとは逆に、選択は実際に自由であり、それゆえにいっそう苛立たしいものとして経験される。われわれは、われわれの生活に根本的に影響する問題について決断しなければならない立場につねに身を置きながら、認識の基盤となるものを欠いているのである。」
※このような語りはジジェクは好きである。ジジェクチェルノブイリ事故後の昔通りに生活を営む農家に対して、「彼らは単に放射能に関するわけのわからない話を無視しているのである。」(p680)と、面倒な情報を聞かないふりをしているのだと断じる。何故そうわかるのか?同じく、「厄介なる主体」では資本主義を肯定する者に対して、実質的に否定する語りもあった(「厄介なる主体1」、p389)。このような語りをするジジェクにもまた、やはり大文字の<他者>に依存している節がある。もっと言えば、p615で「個別的、実質的」なものを「真の分割線」とみなしたが、「民族の、宗教の」というカッコ書き部分をどう解釈するかというのも、問題になりかねない点である。ジジェクの態度が定まらない状態では、真の分割線の議論自体が信頼に値しないものとなる。結局、ジジェクが問題視するのは、「システム的悪」なのである(p684)。そして、システムに対しては(正確には、「ジジェク」がシステムとみなしたものとなるが)我々はそのリスクを受け入れることを禁止している(何故なら、それは我々にはわからないものだ、とジジェクが恣意的に判断しているからだ)。