ジョルジュ・バタイユ、湯浅博雄他訳「至高性 呪われた部分」(1976=1990)

 前回の議論を踏まえ、バタイユを読みます。何冊か読んだ中で一番内容が濃い印象だったので、本書を取り上げました。

(読書ノート)
p10 「原則として、労働へと拘束されている人間は、それなしには生産活動が不可能となるような最低限の生産物を消費する。その逆に至高者は生産活動の超過分を消費するのである。……
 それと相関的に言えば、けっして有用性というものによって正当化されることのないようなかたちで諸可能性を享受することは至高なのである(有用性というのはつまり、その目的が生産的な活動にあるもののことである)。有用性を超えた彼岸こそ至高性の領域である。」
p11-12 「労働者が奮発してワイン代を支払い、飲むというのは、その最も本質的なところから考えると、彼が呑み込むワインのうちに、ある種の味わいという要素、ある奇蹟的な要素が混入することになるからだと私には感じられる。そしてそういう要素がまさに至高性の基底をなしているのである。それはまったくささいなことだ。が、しかし少なくとも一杯のワインはある短い時間、自分が世界を自由に取り扱っているという奇蹟的な奇蹟的な感覚をその労働者に与える。」
※重要なのは、「自分が世界を自由に取り扱う」点。
p12 「われわれは生存するためにさまざまな欲求を充足させねばならない。もしそれに失敗すれば、われわれは病み、苦しむことになろう。が、しかしそういう必要で不可欠なものが問題となる場合には、われわれはただ自らのうちでいわば動物的なものが下す命令に従っているだけなのである。人間的な意味での欲望の対象はそういう欲求よりももっと遠くにあり、それは私の言う奇蹟なのである。つまりそれは至高な生―\それを欠くと病み、苦しむといった不可避的な必然性に定められている必要なものを超えた彼方としての至高な生なのだ。」
※統治との関連で考えると、やはりその作用は不可避に思える。われわれはすでに世界に投げ入れられており、それがあって初めて至高な生を見出せるのではないだろうか?そのような統治回避の方法がどこにあるというのか?
p13-14 至高なものとは定義困難で、多様なものである

p17 「認識するということはつねに努力すること、作業することであり、つねにある程度の隷従的な操作であって、そういう操作は非限定なまま再開され、無際限に繰り返される。けっして認識は至高ではない。もしそれが至高なものでありうるとすれば、それは瞬間のうちに生起しなければならないだろう。ところが瞬間とはあらゆる知の外に、その手前に、あるいはそれを超えた彼方にとどまっているのだ。」
p18 「瞬間の意識がほんとうにそれとしてありうるのは、あるいはその意識が至高なのは、非―知においてのみだろう。われわれが瞬間から逃走することなく、瞬間のうちにいるのは、ただわれわれのうちで認識のあらゆる操作を廃棄しながらそうするというときだけであろう。あるいは少なくともそんな操作を中和し、無効にしながらそうするほかないだろう。そしてそういうことが可能なのは、もろもろの強烈な情動の効力―\思考の絶え間ない展開を砕き、中断し、後景へと退ける効力―\の支配下にあるときであろう。」

p23 奇蹟や聖なるものを意味する言い回し…「不可能なことなのに、それでもそこにある」こと。
p39 死について…「ただ確実なのは、死を意識するということが自然的な所与からは大きく遠ざかったことになるという点である。動物はただ単にこのような意識を持たないだけではない。さらに動物は、自らの同類のうちで死んだものと、生きているものの相違をそうと認めることもできないのである。……それは自然なのだが、しかしそれはわれわれが打ち勝つことのできなかった自然、いやそれだけではなく、われわれがそれに対峙することさえできなかった自然、それに対して戦うことのできるという好運にさえ恵まれなかった自然なのである。」
※恣意的な介入はないか?動物と人間の違いに意識の有無が介在する。至高性と欲望が結びつき、さらに欲望と人間は結びつき、この意識と至高性は結びつくことになる。したがって、死への意識自体(生権力の作動条件でもある)はひとつの欲望でしかなく、ひとつの恣意以外の何物でもないことになる。生権力回避の条件もここに介在しうる。

p42 「死の恐怖はまず未来という時へと自己を投企することに結びついて現われるが、そういう自己投企は自己を一つの事物として定置することの結果であるから、それはまた同時に意識的に個人化するということの条件になっている。不安のうちに存在するのは、労働するということを通して意識的に個人となった存在者なのである。……というのも彼が絶え間なく自分自身で自己に到達しようと務めるパースペクティブにおいて、死の可能性はつねにそこにあり、そして死は人間が自己に到達すれのを妨げるから。死がわれわれにとってまさに死とはそういうものであるという在りようをしているのは、死がわれわれを妨げ、自己に到達することができないようにする限りにおいてなのだ。」
※死への意識自体は問題とならないだろうが、過剰反応という状況が個人化に向かうということは言い切れるだろう。生殖は一種動物的でもあるが、生殖を捕捉さえする状況を生みうるということ。

p47-48 「しかし本質的に言えば、至高性とはもろもろの限界を受け入れることの拒否なのだ。死の怖れのせいでそれを尊重するよう促される制限、つまり諸個人の生活が勤労と安寧のうちに営まれることを一般的に保証するために尊重するよう促される制限の拒否なのである。至高な生をふたたび見出すために、殺害するということが唯一の手段というわけではもちろんないのであるが、それでも至高性はつねに死が命じる感情の否定に結びついているのだ。……つねに至高性は、死に結ばれているあらゆる衰弱を、強力な意思によって一掃するよう強いるのであり、また心底からの戦慄を支配するよう強いるのである。至高な世界、あるいは聖なる世界、つまり実行の世界に対立する世界がまさに死の領域であるということは、けっして衰弱の領域であるということではない。至高な人間の観点からすれば、衰弱とか死に関する恐怖に充ちた表象などは、実行の世界、すなわち従属の世界に由来するのだ。」
ジラールとはまた見方が異なるが、機能的なものを見ているに留まる。従属は必然、必要に服しているとする。

p52-53 「原始的な人間が最も中心的に心を奪われていたのは、至高菜物、驚異的なもの、有用性を越えた彼方にあるものであった。が、まさにそれこそ知識の進歩によって明晰化された意識が拒絶するもの、疑わしく、断罪すべきものとして茫漠たる薄明のうちに投げ棄てるものである。その茫漠たる薄明は、精神分析が無意識という名称を与えたものだ。」
p53 「すなわち至高性というものはなんらかの努力、それに向けて調整された努力に応じて、当然期待されるような結果ではありえない、ということを。至高なものとは、まったく恣意的なものからしか、あるいは好運からしか生じることはできないのだ。」
※偶然性の廃棄は必然的に至高性を失わせる、ということになる。未来に対する不確実性というのが、至高性に寄与する。ただこれは単なる不確実という意味でもない。序列の不動が確固たる事実であることもまた至高性を奪う。至高性に期待するのであれば、これを曖昧にすることが必要である(ハーバマスの生活世界の復権も同じ文脈)。
 しかし、夢というのを考えるということは、他方であまりにも漠然とした将来像に対する視野も与えている。無限の選択肢は至高性と異なるのか?これはジラールのいうように、至高性の発生が対象との結びつきを要することと関係する点にあることが重要な論点。この偶然性はそもそも何かの対象があることを前提としている。その対象に到達するのか・できるのかどうか、が問題。

p86 「そもそも最初から、至高者というのは次のような矛盾する場なのだ。つまり主体を具現化し、消化する存在であってその外的な様相となっている。が、それは全面的に真なわけではない。なぜなら本質的には至高性は内的な様態で与えられるからであり、ただある種の内的な通いあい(交流)のみがその現存性を真に表示するからである。」
p87 「このように、そもそも王の示す真実が、外部的なものの決定力に左右されるままであってはならないとする欲求は、きわめて強く抱かれていたので、だれを至高者に選ぶかという問題はほとんどの場合、運命があらかじめ定めていたエレメント、たとえば血統のように、いろいろな手段を駆使するということがけっしてそれに代わるようなことはありえないエレメントに依存していたのだ。」
※ただし、この血統は頭のよさの遺伝といった形での血統とは明らかに異なる。何故・何が異なるか?遺伝は生物学的なものであることが認識されているが、至高性を生む血統においては、至高性たらしめるものと、その血統を結びつける余地があったのだろう。まさに至高性ありきな状況があり、それを結びつけるのである。

p88 一方でそのようなことは粗雑さを含んでいる。「が、それにしても、至高者が外部に向かって明らかに表わさねばならなかったのは、ある内奥の真実であった。至高者は、したがって預言者とか聖人と似た状態にあったのだ。すなわち主観的な聖性の外的な効力がそこに現われる奇蹟によって、自らの神的な性格を証明する預言者や聖人のような状態にあったのである。」
p97-98 「つまり、われわれが服従するのをやめるときには、《私》それ自身の真実が問い直されているのだ。が、しかし反抗とは、《われわれ》が反抗するときに始まる、というのではないだろう。むしろこう言うべきではないか。つまり至高者それ自身が諸種の禁止を―\社会がそれに基づいて成り立っている禁止を―\全的に受け入れるのを拒んだとき、あるいは至高者がある意味でそれらの禁止を侵犯することを、すべての民衆の名において自らに引き受けたとき、反抗は始まっていたのであり、至高者は他者たちの名においてこう言うことができたのだ。すなわち「我服従を拒めり、故に我あり」と。」反抗するものは否(ノン)によって定義される。

p149 「《貴族階級》とは、少なくともこう言えるだろう、つまり至高な恩籠の、消えることがない痕跡である、と。」
ラカン的な象徴的なものと同じものを感じる。至高性との関係。
p172 「差異づけの解消は、まず初めには至高性の否定である」
※年齢差があるということはライバル関係の回避になるかもしれない。対立なくその地位を引き継ぐ可能性が用意されているのだから。
p183-184 「根本的に、至高性は何ら個人的なものを持たない。わずかに、蓄積(生産を増やす配慮)と消尽(直接的な快楽)とを対置する決定のなかに、ある個人的価値が関与してくるだけだ。個人の決定が意味を持つのは、それが一般の賛同に支えられた一つの価値を表現している限りにおいてである。」

p223-224 「至高性―\そしてエロティシズム―\においてわれわれがみとめる動物性への回帰は、ただ単に動物的な出発点とは根本的に異なっているばかりではない(侵犯は限界の不在ということではない)。動物性への回帰は、この回帰がまさにそれに対立する世界のなかで、複雑な絡みあいを構成するのである。人間の世界とは、結局、禁止と侵犯の混こう(※ここ漢字)以外ではないのだ。……したがって人間的なという名称は、素朴なひとたちが想像しているような、安定した位置づけを指すのでは断じてない。実はこの名称は、人間に特有に固有の、見たところ定めない均衡を指すのである。人間という名称は、互いに相殺しあう運動のありえないような組み合わせとつねに関係しているのだ。」
p231 「贈与の起源には至高な無欲さがあるのだが、この無欲さよりも競合の原理のほうが優越しているとみなすことはできない。もしそうしたならば、目下の議論において問題となっている諸項を逆転させることになってしまうだろう。つまり贈与者の側にこそ、計算があることになろう……。実際にそうなのだとすれば、贈与という戯れ=賭は停止してしまうだろう。……つまりこうした贈与の原初的形態においては、贈与者は慣例として無欲さを装うというのが決まりだったのだが、しかしそれでもそういう装われた無欲さは、節度を超えることなしには力を発揮しなかったであろう。結局、優位を占めたのは、節度を超えた人間、己の至高な性格を他に認めさせた人間であった。」
※何故至高性と純粋無欲さとむすびつくのだろう?これは他人の評価を超えるものではないのに、何故か個人に還元しようとしている。

p233 「ブルジョワにあっては、至高な尊厳の追求は、もはやこの尊厳に結びついた財産の追求でしかなくなっている。そしてこの財産の所有の先には、ある空虚な動きしか残されていない。つまりそこにおいては、至高な真実が、その客体的な形態にまで、物質的な形態まで還元されてしまうような、空虚な一つの動きしか残らないのである。ブルジョワ社会における贈与は、原始社会の贈与がしばしば有していた攻撃的な価値をもう直接には持ちあわせてはいない。」
p233-234 「そういうわけで、ブルジョワ社会においても、より多くの人間的尊厳を示しているか否かという人間の等級化のために多大な努力がはらわれ、厖大な消費が行われているのであるが、こうした努力や消費は、この等級化の意味を明らかにしていた至高なイメージに関連づけられなくなってしまったのである。残っているのはただ、形の上だけでより人間的にならんとして、各人が他のあらゆる者たちと争う、尽きることのない闘争だけである。」
※ここに共産主義が介入してくる、とする。しかし安易。

p246 至高性の否定が至高性と一致している状況?
p271 「至高性はひとを、欲望から権利放棄という欺瞞へ導くのである。」
p271-272 「過去の自由人なら憤慨したであろうと思われることが、保証される必要があった。すなわち、労働の支配である。物が至高な瞬間に対して勝ちを占め、対象が主体に対して優位を占める必要があったのだ。至高性とは、主体に他ならぬ目的の、手段である物=対象に対する優越性の肯定であるにもかかわらず、である。」
唯物論への批判。
p274 人間の至高性と、神の至高性の区別…「ニーチェひとりが、このような至高性を、瞬間の君臨へと戻したのである。」
p322-323 芸術のための芸術は、過去の遺産を直接に引き受ける場合にしか、その至高性を獲得できなかった。「けっして言説に頼ることなく、沈黙のうちに、そして、決定的な無関心という至高な動きのなかで」要求されるべきもの、とする

(考察)
 今回問いたいのは、バタイユの贈与と無欲さ(p231)をめぐる議論である。これは、ミメーシス・模倣をめぐる議論とも直接的に関係してくる話である。バタイユは贈与の議論について「エロティシズム」においても、若干異なる語り口で述べている。

「贈与はそれ自身、放棄であり、動物的享楽や留保なき直接の享楽の禁止である。」(訳書1973、p320)
「しかし、この消費の形式を許す放棄、禁止によって基礎づけられた放棄のみが、贈与を可能にしたのである。性行為のように、贈与も重荷を軽減するが、もはや贈与はいかなる程度においても、動物性がそのまま解放されるような手段ではない。そして人間性の本質が現われるのは、この乗り越えからなのである。」(p320−321)

 ここでの「動物性」との関係性は、矢野も議論していた動物の問題とも関係している。動物というのが我々の動物性に対する考え方を二重に否定させることで溶解体験に結びつけるものであった。

 ジラールのミメーシスの議論を思い出したい(ジラール「羨望の炎」のレビュー参照)。ジラールの議論では「内的媒介」と「外的媒介」の違いについて考えた際に、模倣の媒体となるライバル自身が主体の欲望に巻き込まれるようなものについて、「内的媒介」と名付け、それはおよそ「悪い模倣」という呼ばれ方がされていた。逆にライバル自身が主体と同じような模倣をとらない態度を続けることが、「外的媒介」たりうる用件であり、これは「よい模倣」と位置付けたのである。、
 問題はバタイユの至高性の議論をジラールの議論にどう結び付けられるかである。ポイントは贈与の位置付け方である。贈与の本質はその非対称性にある。交換の対極にあるのが贈与である。ジラールの考察で行ったように、内的模倣と外的模倣において主体に与えている状況というのはあまり変わっていない。違いは位階の崩壊の問題と関係していた。ライバルである媒体の方が主体と同質化していく時、それは内的媒体と呼ばれる。一方でそれが同質化を遠ざけ続け非対称的な関係であり続けるとき、それは外的媒体と呼ばれる。内的媒介は秩序の転換を企むが、それは同質性に向かう模倣である。したがって、バタイユの至高性は、外的媒介と結びつくべきものであるといえる。
 さて、ジラールのいうダンディズムというのは、外的媒体のあり方そのものであった。そこで指摘されているのは、ライバルである媒体もまた欲望を持っているが、主体が持っているような欲望を決して模倣しない。そして、むしろ「私を模倣せよ」とさえ言っている。ここでは、ライバルの態度に無欲さなど、どこにもない。むしろ逆に貪欲ささえ見受けられる。バタイユの言う無欲さは結局、見返りを求めない態度、という意味である。これは別に「節度を超えた人間」である必要性などないし、「動物的享楽の停止」とも関係がない。バタイユが指摘するような話はどれもライバルである媒体の内面の態度のあり方を問うものである訳だが、そのような内面のあり方を問う必要はないということだ。「至高性」はあくまで模倣を行う主体の問題であって、問われるにせよ、ライバルの「態度・姿勢」までであり、その内心には介入する意味がない(つまり、実際に見返りを求めているのかどうか問うことも意味がない)のである。ジラールは模倣の議論において、媒体の内面の問題までは取り上げていない。このことが、私がジラールの議論を基本的に支持する理由である。

 ここでのバタイユの批判はそのまま「人間性」に対する問いかけ方への批判にもつながる。ここでの人間性の強調は、道徳的な人間のあり方を至高性に結びつけ、道徳的な人間であることの支持につながる根拠となる。前回の矢野の議論においても、このことは継承されているのである。「人間性」の問題を問うためにわざわざ動物性などを持ち込む必要性などないのである。結局これは、教育における「道徳的な人間」像を信仰する根拠となりかねない(実際にバタイユの議論を前提にしている論者の中にそのような傾向が極端に見られる場合がある)。私が指摘したかったのは、このような教育像のロジックに問題点があることであり、このような教育像以外の「溶解体験」の存在を明確にすることであった。

理解度:★★★★
私の好み:★★★
おすすめ度:★★★