フリードリヒ・ニーチェ「権力への意志」

 今回はニーチェを読みます。訳書は理想社版のニーチェ全集から、11巻と12巻を取りあげます。

(読書ノート、上巻)
p22 「ニヒリズムとは何を意味するのか? ——至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。」
p30 「この仮説の前提、——いかなる真理もないということ、事物のいかなる絶対的性質もなく、いかなる「物自体」もないということ。——このことは、それ自身ニヒリズムにすぎないが、しかも極限的ニヒリズムである。このニヒリズムは、これらの諸価値にはいかなる実在性も対応しておらず、また対応もしなかったということ、むしろこれらの諸価値は、価値設定者の側における力の一徴候、生の目的のための一単純化にすぎないということ、まさしくこのことのうちに事物の価値を置き入れる。」

p47−48 「「デカダンス」という概念、——堕葉、頽落、廃物は、それ自体では断罪されるべきものではない。それは、生の、生の増大の一つの必然的な帰結なのである。デカダンスの現象は、生のなんらかの上昇や前進と同じく、必然的である。それを除去しようということは、意のままにはならないのである。理性は逆に、それにその権利をみとめようとする。
 背徳、病気、犯罪、売淫、困窮がもはや発生しない状況が、社会的結合がありうると考えるのは、すべての社会主義体系家にとっては恥辱である・・・しかしこれは、生を断罪するということにほかならない・・・いつまでも若々しくあるということは、社会の自由にはならないことである。しかもその最盛期においてすら社会は汚物や廃物をつくりだすにちがいない。社会が精力的に大胆に前進すればするほど、社会はますます失敗や出来そこないで満たされ、ますます衰退に近づいてゆく・・・老朽は制度によっては除去されない。病気も除去されない。背徳も除去されない。」
p52 「意志の弱さ。これは、ひとを誤らせがちな一つの比喩である。なぜなら、意志なるものはなく、したがって、強い意志も弱い意志もないからである。衝動の多様性や分散、それらの間の体系の欠如が、結果的に「弱い意志」となり、或る単一の衝動の優勢のもとでそれらが共存していることが、結果的に「強い意志」となる。——前者の場合には気迷いや重心の欠如があり、後者の場合には方向の精密さや明瞭さがある。」

p267 「徳は徳の説教者たちに対して介護さるべきである。すなわち、彼らは徳の最悪の敵である。なぜなら、彼らは徳が万人にとっての理想であると教えるからである。彼らは、稀有のもの、模倣しえないもの、例外的な非凡のものという徳の魅力を、——徳の貴族主義的魔力を、徳から奪いさる。」
p269 「善人の固有性を吟味してみよう、なぜそれらが私たちに快感をあたえるのであろうか? それは、私たちはなんら戦う必要がないからであり、不信、用心、精神の集中や厳しさをなんら私たちに課することがないからである。私たちが怠情で、お人好しで、気軽であっても、安穏としていられるのである。こうした私たちの快感こそ、私たちがわが身からそれを投影し、固有性として、価値として、善人に帰するそのものなのである。」

p281 「私たちは、事物への欲望がはげしくなればなるほど、私たちはその事物にますます多くの価値をあたえる。「道徳的価値」が最高の価値となっているとすれば、このことは、道徳的理想が最も満たされない理想であったということを物語っている。人類がますます高まる熱情でかきいだいてきたのは、雲霧にすぎない。人類はついにはおのれの絶望を、おのれの無能力を、「神」と名づけてしまったのである・・・」
p281 「道徳における贋造とは何か? ——道徳は、或ることを、つまり、何が「善であり悪である」かを知っていると称する。このことは、何のために人間が現在しているのかを、その目標、その使命を知っていると主張することにほかならない。このことは、人間は目標を、使命をもっているということを知っていると主張することにほかならない——」

p289 「道徳の発展がたどる傾向。——誰でも、おのれ自身がそれで成功するようなもの以外の教えや事物の評価が通用しないことを願望する。したがって、あらゆる時代の弱者や凡庸な者どもの根本傾向は、より強い者たちをより弱化せしめること、引きずりおろすことであり、その主要手段が道徳的判断である。より強い者のより弱い者に対する態度は烙印をおされ、より強い者の高級な状態は悪しざまな別名をつけられる。
 多数者の少数者に対する、凡俗な者の稀有な者に対する、弱者の強者に対する闘争——。この闘争を最も巧妙に中絶せしめるものの一つは、精選された、繊細な、要求するところの多い者がおのれを弱者として示し、粗暴な権力手段を放棄するときである——」

p330 「三つの主張、すなわち、
 高貴ならぬものが高級なものである(「下賎な者」の抗議)。
 自然にそむくものが高級なものである(出来そこないの者どもの抗議)。
 平均的なものが高級なものである(畜群の、「中位の者ども」の抗議)。
 それゆえ、道徳の歴史のうちには、一つの権力への意志があらわれているのであるが、これによって、ときには奴隷や圧迫された者どもが、ときには不出来な者や自己に苦しむ者どもが、ときには凡庸な者どもが、おのれたちに最も好都合な価値判断を貫徹しようとこころみている。
 そのかぎり、生物学の立場からすれば、道徳の現象はこのうえなく疑わしいものである。道徳はこれまで非常な代価をはらって発達してきた。すなわち、支配者とその特有の本能、上出来な者や美しい本性、なんらかの意味での独立者や特権者が犠牲にされてきたのである。」
※平等観と道徳。
P332−333 「衰退の本能が隆盛の本能を支配してしまった・・・無への意志が生への意志を支配してしまった!
 ——このことは真なのか? もしかすると、このように弱者や凡庸者が勝利をしめていることのうちに、生の、類のより大きな保証があるのではなかろうか? ——もしかすると、それは生の総体的運動における一つの手段にすぎないのではなかろうか、テンポが遅くなったにすぎないのではなかろうか? 何かもっとひどいことを防ぐ一つの正当防衛ではなかろうか?
 ——もしも強者が、すべてにおいて、価値評価においてすら、支配者となったとしたら、強者が病気や苦悩や犠牲についてどのように考えるかの結論を引きだしてみよ! 弱者の自己軽蔑こそその帰結となるにちがいない。すなわち、弱者は、消滅しようとつとめるにちがいない。だがこれは、はたして望むに価することなのであろうか? ——また、私たちはもともと、弱者の影響が、彼らの繊細さ、顧慮、精神性、柔軟さがみられない世界を、好むであろうか? ・・・」

p364 「——初歩心理学は、人間の意識された契機しか考慮せず、「意識性」を魂の属性とみなし、意志(言いかえれば意図)をすべての行為の背後にもとめたが、この心理学は、第一には、人間が何を意欲するのか? との問いに、幸福と答えさえすればよかった(「権力」と答えれはならなかった、これは非道徳的であるかもしれなかったからである)、 ——したがって、人間のすべての行為のうちには、その行為でもって幸福を達成するべき意図があるのである。」
p369−370 「科学性。調教としてないしは本能としてのそれ。——ギリシアの哲学者たちのところで私がみてとるのは、本能の衰退である。さもなければ彼らは、意識された状態をより価値多いものとみなすほど、はなはだしい失敗はなしえなかったであろう。意識の強度は脳神経伝達の容易さや敏速さに反比例する。彼らのところでは本能についてこれとは逆の見解が支配している。これはつねに弱化した本能の徴候にほかならない。
 じじつ、私たちが完全な生をさがしもとめるのは、意識されることのもはや最も少ないところでなければならない。常識の、常識人の、あらゆる種類の「小人」の事業への復帰。いちどとしておのれの原理を意識することのない、原理に対してはいささかの戦慄をすらおぼえるところの、幾世代以来の蓄積された正直さや賢明さ。理屈っぽい徳をのぞむことは理屈にあったことではない・・・哲学者はそのようなものをのぞめば危険にひんする。」

(読書ノート、下巻)
p71−72 「原因もなければ、結果もない。言葉のうえでは私たちは因果ということからまぬがれることはできない。しかしこれはなんら問題ではない。私が筋肉をその「結果」から分離せしめて考えれば、私は筋肉を否定してしまっているのである・・・
 要約すれば、生起は、結果としてひきおこされたものでもなければ、結果をひきおこすものでもない。原因は、結果をひきおこす能力ではあっても、生起に捏造しくわえられたものである・・・
 因果性による解釈は一つの迷妄である・・・「事物」とは、概念や心象によって綜合的に結合されたその諸結果の総計のことである。じじつ、科学は、因果性という概念からその内容を抜きとり、この概念の比喩のための定式として残存しめたが、この定式においては、いずれの側を原因ないし結果とみなすかは、根本においてどうでもよいことになってしまった。二つの複合状態(力の位置関係)においては力の量は等しさを保っているということが、主張されている。」
p73−74 「(b)「主体」は、なんら結果をひきおこすものではなく、一つの虚構にすぎないということがわかってしまえば、引きつづいてさまざまのことがわかってくる。
 私たちは、主体を範型として事物性を捏造し、それを雑然たる感覚のうちへと解釈し入れてきたにすぎない。私たちがもはや結果をひきおこす主体を信じないから、結果をひきおこす事物も、私たちが事物と名づけるあの諸現象の間の交互作用、原因と結果も、また信ぜられなくなってしまう。
 このことでもちろん、結果をひきおこすアトムの世界もまたなくなってしまう。そうしたものを想定するのは、つねに、主体が必要であるという前提のもとにあるからである。
 最後に、「物自体」もまたなくなってしまう。というのは、それは根本において「主体自体」を構想することにはならないからである。しかし私たちには、主体は虚構されたものであるということがわかった。「物自体」と「現象」という対立は支持されえない。しかしこのことで、「現象」という概念もまた消えうせてしまう。」
p75 「(d)私たちが「主体」と「客体」という概念を放棄すれば、「実体」という概念もまた放棄される——したがってこのもののさまざまな変様 たとえば「物質」とか「精神」とかその他の仮説的本質、「質料の永遠不変性」などもまた。私たちは質料性を放棄する。」

p111 「「未知の世界」という概念は、私たちにこの現世を「既知のもの」として(退屈なものとして——)暗示する。
 「別の世界」という概念は、あたかも世界は別様でもありうるかのごとく暗示し、——必然性と運命とを廃棄する(服従し、順応することの無益——)。
 「真の世界」という概念は、この現世を、不誠実な、欺瞞的な、不正直な、まがいものの、非本質的な、——したがって私たちの利益にもかかわりあいのない世界として暗示する(——この現世に順応せよとは勧めない。この現世に反抗するのがよりよいことである)。」
p111 「それゆえ、私たちは三種の仕方で「この」現世から身をひく。すなわち、
a) 私たちの好奇心でもって、——あたかも興味深い部分はどこか他のところにあるかのごとく。
b) 私たちの服従でもって、——あたかも服従する必要はないかのごとく、——あたかもこの現世はいかなる究極的な必然性でもないかのごとく。
c) 私たちの共感や尊敬でもって、——あたかもこの現世はそこに値せず、不純で、私たちに対して不安であるかのごとく・・・
 要約すれば、私たちは三重の仕方で叛乱をおこしている。私たちは「既知の世界」を批判するために或るxをでっちあげたのである。」

p113 「つまりこうである。自負心ある、生の上昇をたどりつつある民族は、別様であることを、衰退し価値を喪失していることであるとつねにみなすのである。そうした民族は、見知らぬ世界、未知の世界を、おのれの敵と、おのれの反対物とみなし、見知らぬものを完全に拒否して、好意心をおぼえることがない・・・民族というものは、他の民族が「真の民族」であるということを許しはしないであろう・・・」
p114 「実際に歴史のうちにあらわれるような「別の世界」は、どのような述語でもって印づけられているのか? 哲学的、宗教的、道徳的先入観の痕跡でもって。
 これらの事実から明らかにされるような「別の世界」は、存在しない、生きていない、生きようと欲しないことの同義語にほかならない・・・
 総体的洞察。すなわち「別の世界」をつくりあげたのは、生の疲労の本能であって、生の本能ではない。
 結論。すなわち、哲学、宗教、道徳は、デカダンスの症候である。」

p138 「一方が「原因」、他方が「結果」という二つのたがいに継起する状態は、——偽である。第一の状態はなんら結果をひきおこすものをもってはおらず、何ものも第二の状態を結果としてひきおこしたのではない。」
 問題は、権力を等しくしない二つの要素の間での闘争である。それぞれの要素の権力の尺度に応じて、諸力の新しい配置が達成されるのである。第二の状態は第一の状態とは何か根本的に異なったものである。本質的なことは、闘争しつつある諸要因が別の権力量をともあってあらわれでるということである。」
p139−140 「権力量は、それが働きかける作用と、それが抵抗する作用とによって表示されている。働きかけも抵抗もしない無関心は、それ自体では思考されうるかもしれないが、存在しない。権力量は本質的には、暴力をふるい、暴力に対してわが身を防衛する一つの意志である。それは自己保存ではない。あらゆるアトムが全存在のうちへと働きかけているのであり、——権力意志のこの照射が無きものと考えられるなら、アトムも無きものと考えられてしまう。このゆえに私はそれを「権力への意志」量と名づける。このことで表現されているのは、機械的秩序そのものを無きものと考えることなしには、この秩序から思考しのぞかれることのできない性格なのである。」

p146 「共通の栄養現象によって結びつけられた多数の力を、私たちは「生」と呼ぶ。この栄養現象には、それを可能ならしめる手段として、いわゆる感情し、表象し、思考するはたらきのすべてが属している。言いかえれば、(1)その他すべての諸力に対する抵抗のはたらき、(2)これら諸力を形態とリズムにしたがって調整するはたらき、(3)摂取しないしは排除することに関する評価のはたらきが属している。」
p152−153 「弱者が強者へとおしよせるのは食料不足からである。弱者は忍びこんで、強者とできるだけ一体となろうと欲する。逆に強者はわが身を守って撃退し、強者はこのような仕方で徹底的に没落しようとは欲しない。むしろ、生長しながら、強者は二つないしそれ以上に自己分裂する。一体化への渇望が大きくなればなるほど、ますます弱さがそこにあると推測してよい。変化、差異、内面的崩壊への渇望が増大すればするほど、そこにはますます大きな力がある。」

p168 「動物的機能こそ、すべての美しい状態や意識の高所にもまして原理的に何百万倍となく重要である。後者は、それが動物的機能にとっての道具となる必要がないかぎり、無くもがなのものである。意識的生の全部、すなわち、霊魂とともに、心とともに、善意とともに、徳とともに、精神、いったいこれは何ものに奉仕してはたらいているのか? 動物的根本機能、なかんずく生の上昇の手段(栄養・上昇の手段)の能うかぎりの完成に奉仕しているのである。
 だから、「肉体」とか「肉」とか名づけられたものに、言いようなくはるかに大きな重要さがあるのである。その他のものは小さな付随物にすぎない。生の全連鎖を紡ぎつづけ、しかもその糸がますます強力となるよう紡ぎつづけるという課題——これこそが課題なのである。
 ところが、見よ、心、霊魂、徳、精神が、あたかもこれらのものが目標ででもあるかのごとくに、こうした原理的課題を転倒しようとの正式の誓いをたてていることか! ・・・生が変質するのは、意識が誤謬をおかす異常な性能をもっていることに制約されている。意識は本能によっていささかも制御されることがなく、このゆえに、最も長期にわたって最も根本的につかみそこねるからである。」
p172 「要約して言えば、精神の全発達にあって問題なのは、おそらくは肉体である。すなわちそれは、一つの高次の肉体がおのれを形成しつつあるということの可感的となっていく歴史である。有機的なものはさらにいっそう高い段階へと上昇していく。自然を認識しようとの私たちの熱望は、肉体がおのれを完成しようとする一つの手段である。ないしはむしろ、肉体の栄養、居住の仕方、生活法を変化せしめるべく無数の実験がなされているのである。意識と意識のうちでの価値評価、あらゆる種類の快と不快は、こうした諸変化と諸実験を示すものである。結局のところ、問題なのは人間では全然ない、人間は超克さるべきであるからである。」

p201 「(3)生成はあらゆる瞬間において価値を等しくしており、その価値の統計は恒常不易である。言いかえれば、生成はいかなる価値もまったくもっていない。なぜなら、生成がそれで測定されることができ、「価値」という言葉がそれとの連関において意味をもつような或るものが欠けているからである。世界の総体的価値はその価値を引きさげられえず、したがって哲学的ペシミズムは笑うべきものの一つである。」

p237 「人間の思考がおよびさえするかぎり、そのかぎり人間は復讐という病菌を事物のうちへと引きずりこんだ。人間は神自身をこのことでもって病気ならしめ、生存一般からその無垢を奪い去ってしまった。つまり人間が、あらゆるかくかくであるということを、意志へと、意図へと、責任性の作用へと還元したことによってである。意志についての全理論、これまでの心理学におけるこの最も宿業的な偽造は、本質的に罰を目的として捏造された。罰というこの概念に、その尊厳を、その権力を、その真理を保証したのは、罰の社会的有用性であった。あの心理学——意志の心理学——の創始者は、刑罰権を手中にしていた階級のうちに、何よりもまず、最古の共同体の最高位をしめていた僧侶の階級のうちに、探しもとめられなければならない。」

p326−327 「最後に、女性! 人類のこの半分は、弱く、典型的に病気で、むら気で、移り気である、—−—女性は、それにしがみるくために強者を必要とし、なおまた、弱者であることを、愛することを、謙虚であることを、神的としてたたえる弱さの宗教を必要とする——、ないしはむしろこう言うべきであろう。女性は強者を弱化せしめ、——強者を圧倒することに成功するときには支配すると。女性はつねに、デカタンスの典型と、僧侶とぐるになって、「権力ある者」、「強者」、男性に対して謀叛をはかった——。」
p346−347 「最強の者は、最もしっかりと拘束され、監視され、鎖につなぎとめられ、監督をうけていなければならないと、そう畜群の本能は欲する。畜群にとっては、自己圧制の、禁欲的隔絶の、ないしは、もはや我にかえることのない消耗させる労働における「義務」の制度が、必要なのである。」
p355 「最も強い最も生産的な本性の持ち主たちにのみ彼らの生存を可能ならしめるために許されているもの——閑暇、冒険、不信、逸脱そのもの——、このものは、それが中級の本性の持ち主どもに許されるなら、この者どもを必然的に没落に向かわしめ——そしてまた実際に没落せしめもする。ここでは、勤勉、常則、中庸、確たる「確信」が、その所をえている、——要するに「畜群の徳」が。すなわち、この徳のもとでこうした中級種の人間は完全となるのである。」

p458 「3 この思想(※永遠回帰の思想)に耐える手段、すなわち、すべての価値の価値転換。快感をおぼえるのは、もはや確実にではなくて、不確実性。もはや「原因と結果」ではなくて、不断に創造的なもの。もはや保存の意志ではなくて、権力。もはや「すべてのものは主観的であるにすぎない」と謙虚に言うのではなくて、「これもまた私たちの作品! ——私たちはこのことを誇ろう!」と言うこと。」
p465 「——この世界は権力への意志である——そしてそれ以外の何ものでもない! しかもまた君たち自身がこの権力への意志であり——そしてそれ以外の何ものでもないのである!」
※「永遠回帰」に耐えるために必要なものとして「人間の力の意識の最大の高揚」を述べている(p459)ことと関連か。

(考察)
ニーチェの権力論について
 これまで議論してきた権力をめぐる議論について少しまとめておこう。大雑把に言って、これまで2つの論点を議論してきたように思います。
 
 まず、フーコーは権力論を語るにあたって、「権力とは抑圧させるもの」であるという見方に対して批判するところからとりかかった。実証的なレベルで見れば、性言説の18世紀と19世紀の違い、抑圧的な言説が19世紀に登場し、18世紀における言説はむしろ肯定的な言説があったという点に見いだしています(exフーコー「異常者たち」訳書2002、p297)。そして、これを戦略的な権力観として読み替えるわけですが、この説明をブルジョワ層の保守的態度の現われとして、抑圧的言説を説明していました。
 このような抑圧的な権力観は、そこに支配的な権力の行使者が想定されています。これは資本主義批判としてカテゴライズしてきた一連の論者に共通の前提でした。その一方、ジジェクのような立場からはこの見方が真逆に解釈されており、このような権力観をむしろ支配される側が積極的に受容しており、そのような態度に対する批判を述べてました。

 もう一点、フーコーの「生権力」の議論から、「暴力性/知」、もしくはドゥルーズを経由した「身体/魂」という2つの権力観からみる権力論というのもありました。フーコーの場合はまだ明確な議論をしていませんが、ドゥルーズにおいてはこの2つの権力観(クロノス的権力、アイオーン的権力)が独自の領域をもつものとして定義されていました。


 ニーチェの権力観について、この2つの論点からまず考えてみます。ニーチェの強者/弱者、そして超人/人間/動物といったカテゴリーによる語りから見えてくるのは、まず、「支配する/される」区別については、そのどちらも弱者の位置に置くことで批判をしているという事です。ただ、どちらかというと、ジジェクのように弱者は支配される側に立ち、強者をおとしめようとする者として描かれています(上p332−333)。弱者としての権力者である徳の説教者は、徳そのものの価値、さらには生の価値をも下げ、また病気に意識を向けることでなおさら弱体化に寄与することとなる(上p47—48、上p267)。そして、弱者はそのような善人、有徳者を求めているのである(上p269)。
 しかし、この「支配する/される」の区別、権力の上下関係自体をニーチェは否定することなく、むしろ肯定的にとらえている。弱者の権力関係とは異なる、強者の権力関係をそこに描こうとしている。そのような権力観はまさにアイオーン的権力観と呼んでよい。そこには物理的なアトムの世界は存在しない(下p73−74)。また、2つの事物間における因果関係なるものも認めない(下p71−72)。そこにあるのは結果だけである。

 しかし、ここで問題が生じる。どうやらニーチェの認識する現状は弱者による権力関係がはびこっている状態であるらしい。そこから強者の権力関係を立ち上げるためには、一体どうすればよいのだろうか??この問いに対しては「権力への意志」の内容だけではフォローしきれない。そこで、「ツァラトゥストラ」の議論を拾ってみたい。この作品において、強者はどのように語られているのか?

○「ツァラトゥストラ」は強者をどう語るか?
 「ツァラトゥストラ」の第四部では、ツァラトゥストラがさまざまな者たちを自身の洞窟に招き入れるという場面がある。ある者は彼を探し求めて出会い、ある者は彼に挑戦的な態度をとって彼との問答の結果、彼を認めることになる。ツァラトゥストラはもはや超人といっていい存在なのかもしれないが、彼が招き入れた者たちもまた強者として扱ってよい存在となっている。
 さて、ツァラトゥストラは彼らの問答においてどのように彼らを「支配」させたか。それは、ひたすらノーという姿勢においてであった。

「そしていまでは、教えを説く者の言ったことが『真理』なのさ。説教する者も小さな人間だったから、奇妙な聖者として、小さな人間の代弁をして、自分について『私が——真理である』と証言したわけだ。……
 でも、おお、ツァラトゥストラ、あんたは、ずうずうしいそいつの前を通り過ぎるときに、『ノー! ノー! もう一度、ノー!』と言った。——ずうずうしいやつも、そんなに丁重に答えてもらったことがあっただろうか?」(「ツァラトゥストラ<下>」訳書2011(光文社古典新訳文庫版)、p255)

 この「ノー」という言明は同時に権力関係における真理の導入を防ぐ役割も持ち合わせている。ここにおける真理の発生は、ある意味で「支配する/される」両者の共犯性により、その真理を求める者と受け入れる者の関係の中に見いだされるものである。ニーチェは一貫して「真理への意志」に対しては批判的な態度を取っていた。このような対称的な関係性の構築が弱者を生む源泉であると考えていたからであろう。その結果として現われてくるのは、権力者の支配が、彼の要求を通す(支配される側に要求を受け入れさせ、それを真実とする)ものではなく、非対称的なものに留まるということである。ツァラトゥストラは権力者として道徳を押しつけるよう振舞おうとする者に対して、懇切丁寧に「ノー」と突きつけ、そのような考え方が誤りであることを指摘するのである。
 このような「ノー」という否定は、弱者と呼べる者の中でも、徳を押しつける者に対する方法であった。徳を押しつける者は、平等を語ることで、強者を貶めようとする。では、支配される弱者に対してはどういう態度をとるのか。明確に述べている部分は見当たらなかったが、これは端的に「無視」すべきである、と言いたいように思える。

 「もしも連中が——ただでパンにありつくようになったら、大変だ! 今度は何を求めて叫ぶようになることか! どうやったら食べるか——が、まさに連中の気晴らしなのだ。だから連中には、苦労させよう!
 連中は、略奪する肉食獣だ。「仕事をする」とき——でさえ、略奪している。「稼ぐ」とき——でさえ、だまして略奪している! だから連中には、苦労させよう!
 そして、もっとましな略奪獣になってもらおう。もっと繊細で,もっと利口で、もっと人間に似た略奪獣に。なぜなら人間が最高の略奪獣なのだから。
 人間はすべての動物からその長所を奪ってきた。つまり、すべての動物のなかで一番苦労してきたのは人間なのだ。」(同上、p139−140)

 この部分についても、弱者の一定の訴えを前提にしている訳だが、弱者としての人間には彼らなりの望ましい生き方があり、「権力への意志」では中級種の人間という表現もされている(下p355)。もちろん、ここには彼らのような立場の者がいた場合に、彼らのためにあるものを与えるべきではない、という主張も含まれている。そのような態度がジジェクのいうマゾヒスト的な態度を醸成しているとも言えるだろう。
 ただ他方でツァラトゥストラは、彼らを総じて愛しているという。

 「人間は、1本の綱だ。動物と超人のあいだに結ばれた綱だ。——深い谷のうえに架けられた橋だ。
 向こうに渡るのも危険。途中も危険。ふり返るのも危険。ふるえて立ち止まるのも危険。
 人間の偉いところは、人間が橋であって、目的ではないことだ。人間が愛されるべき点は、人間が移行であり、没落であることが。
 俺が愛するのは、没落する者としてしか生きることができない人間たちだ。向こうに行く者たちだからな。
 俺が愛するのは、大いなる軽蔑者たちだ。連中は、大いなる尊敬者であり、向こう岸へのあこがれの矢であるからな。」(「ツァラトゥストラ<上>」訳書2010(光文社古典新訳文庫版)、p24)

 ニーチェ自身、このような弱者が蔓延するような社会を一種の必然としてとらえている点に注目したい。デカダンスの現象は生の増大の一つの帰結とみている(権力への意志 上p47—48)。そして、人間というのを動物と超人の間にかけられた橋として表現し、そのような不安定な位置にいる者を愛すると言うのである。ここには弱者を一方的に排除するつもりはない態度が現われている。そして結果的にどのような態度としてそれが示されるかといえば、弱者の要求を受け入れる訳ではないような、非対称的な贈与行為をすることで、彼らを苦労させながらも彼らなりに「まともに」させようとするのである。

○強者は権力をいかに獲得するのか?
 さて、問題はここからだ。弱者に対するニーチェの処方はある程度わかった。ただ、このような態度が現状を打破するような態度として通用するのかどうか、というのは別問題として出てくる。弱者たちは強者たちを取り込もうとする。そしてすでに弱者による権力構造がそこにあるのだとしたら、そこに強者が入り込む余地はあるのだろうか?
 もし、すでにそのような構造があると認めてしまう場合、これは困難であると言うべきだろう。すでに支配する弱者と支配される弱者、両者による関係性が確立した中には強者の出る幕はもはやない。彼らの中だけで世界は完結し、強者のような態度の取り方(贈与による働きかけ)は何も意味をなさないのではないだろうか。ポイントは強者にいかにして「権力」を手に入れるのかという問題とも関連する。
 ニーチェはこのような疑念に対して、かなり楽観的な見解をもっているように思える。これは「ツァラトゥストラ」で彼の洞窟に招かれた者たちがどのような者かを見ればある程度はっきりするように思う。彼らは王や僧侶、かつて富者だったがあえて乞食となった者など、基本的に弱者の世界においても支配する側にいた者たちが多い。彼らは「神」のいた時代における支配者であったが、神が死んでから、ツァラトゥストラの生き方に惹かれ、ある種の改心をした者たちだった。彼らはすでに「権力」を持っているといえる者であり、すでに権力行使が可能な者たちである。このような状態の想定であれば、あまり権力獲得に対する問題というのはないであろう。

 ニーチェは権力に対して、そこに因果関係を認めておらず、闘争の中にしか権力関係はない、と述べるが(「権力への意志」下p138)、この主張は権力に因果性を認める者の存在することを排除することはない。権力の因果性を認める立場に対しては、その考えを改めるべき、としかいえない。現在の権力の構成要素には連続性を前提にするものもある訳だが、それを否定するだけの力はニーチェの主張にはない。この方法によっては、権力観を転換し、弱者による権力関係の転換をされることもできない。
 結果、ニーチェはどういう態度をとったか。彼は権力への意志を持つように強く主張する訳だが、これもまた歴史的な必然性があるかのように語ろうとしているようにも思えるのである。これは「ツァラトゥストラ」においても、「権力への意志」においても同じように思える。彼は超人の到来を強く主張していく中でそのような語りになってしまっている所があるような印象がある。ここがニーチェの議論の限界点だろう。

 今回はこの辺にしておきます。フーコーとの議論の違いについては次回に持ち越します。また、これまで述べてきたニーチェ観についても訂正しなければいけない状態であるようです(特にドゥルーズガタリの議論で行なったニーチェ的無意識の話)。これまでニーチェは社会の広がりを意識しながらの語りをしているように思っていましたが、実際に彼の本を読むとそんな印象はまったくありませんでした。随時内容を書き換えたいと思います。

理解度:★★★★
私の好み:★★★☆
おすすめ度:★★★☆