フランソワ・ベゴドー「教室へ」(2006=2008)

 この本を知ったきっかけは、本書の映画版にあたる「パリ20区、僕たちのクラス」を見たことでした。本書と同様、淡々とした内容で、パリの中でも多くの移民が住む地区の学校の、コレージュ最終学年(中学3年に相当)のクラスの1年間の日常が描かれているという内容です。細かな描写一つ一つがとても示唆的であり、訴えてくる、という感じではないが感じるものは多い、そんな内容でした。例えば、こんな部分。

「よし、考える時間はもう十分だな。では、自分の人生について語るのが難しいのはなぜか、理由を二つ挙げなさい。」
 三人の手が挙がった。
「何か思いついたのは、たった三人だけか? 二十五人中これだけとは大したもんだな。二十五人中三人といえば割合はいくつだ?」
 三人の手が下がり、二人の手が挙がった。現在手が挙がっているのは二人だ。
「はい、ジハド
「えーと、四人に一人です」
「そうだ、その通り、四かける三が二十五で……もういい。自分の人生について語るのが難しい二つの理由が何か、聞かせてもらおう」(p184)

 ちなみに主人公的な役割である「私」はフランス語の教師である訳だが、日本ではまずありえない光景ではないだろうか。ポイントは人生を語ることよりも算数が難しい、という点にある訳だが、それ以上に、教員もまた他教科になってしまえば、基礎的な知識が充分にない状態である、という部分も興味深い。日本の教育の比較として読むと、このようなささいな違いに出会うことは本当に多い。おそらく、他の部分で語られる数字についても、受ける感覚は私たちと異なるのではないだろうか??

「年度始めにはっきりさせておく。ベルが鳴ったらすぐに整列すること。整列するのに五分、階段を上るのに五分、席に着くのに五分かかっていたら全部で十五分も無駄になるんだぞ。計算してみなさい、授業ごとに十五分無駄にしていたら一年でどれくらいになるか。一週間の授業が二十五時間、それが三十三週間、合計で三千分以上の無駄だ。他の学校では一時間なら一時間きっちり授業するところがある。そういう学校と比べたらおまえたちは三千分の遅れを背負うことになるんだ。結果は推して知るべしだろう」(p8)

 さて、今回は本書の中でも大きな論点になるであろう2つのテーマについてとりあげたいと思います。

○多民族の混在、多元的な生徒たち
 あえて中心的なテーマを挙げるのであればこれだろう。おそらく著者も主要な読者層はフランス人に向けていると思われるので、この多民族の統合教育についてのメッセージ性は強く出した十分な理由があると思う。
・生徒文化について
 前に取りあげた「ハマータウンの野郎ども」とはどうしても比較してみたくなる。本書における学校はおそらくは底辺校に近く、その意味でカウンターカルチャーの影響も強く受けそうな雰囲気があるからである。野郎どもの特徴にもあった「授業中に挙げ足をとる」ような行動というのは、確かに本書でも最初の部分で描かれている。先程引用した三千分の遅れの話の続きである。

 耳にピンクのプラスチックのピアスをしたクンバが手を挙げずに口を開いた。
「先生、一時間なんていうことはありえません。授業はどこでも、よく知りませんけど、五十分とかであって一時間なんてことはありえません。例えばここなら一時間目が八時二十五分から始まって終わりが九時二十分です。一時間じゃありません」
「五十五分だな」
「一時間じゃないじゃないですか。先生一時間って言いましたけど、一時間じゃありません」
「まあ、とにかくだな、言いたいのは時間を無駄にしすぎているということだ。ほら今だって無駄にしているぞ。紙を一枚出して半分に切りなさい」(p8)

……アマールが架空の自己紹介にしてもいいか質問してきた。
「好きにしなさい。でもおまえの本当の自己紹介も読んでみたいけどな」
「ぼくの名前はアマールです、から始めてもいいですか?」
「好きにしなさい」
クンバが手を挙げずに口を開いた。
「先生。私はわたしの名前はアマールです、にはしません。わたしの名前はクンバです、にします」
「おまえ人をからかってるのか?」
 クンバは紙の上に屈み込んで笑いを隠し、頭の赤いヘアクリップが見えた。(p9)

 確かにクンバは授業の妨害をここで行なっているし、この学校での授業はほとんどうまく成り立っているとはいえない。しかし、「ハマータウンの野郎ども」と違って、彼らが集団として悪さをするようなことはない。理由はいくつかあるだろう。一つは学校には「退学処分」という形で生徒を他校に転向させることができる権限があり、カウンターカルチャーの集団を作ることの阻害要因になっていること、そしてもう一つ考えられるのは、彼らが移民の集まりであるという部分である。彼らは教室の中で共通の話題を見いだすのにも苦労するだろうし、学校の外についても、故郷を剥奪されている中での生活を送っている訳で、「野郎ども」で見られたような学校外の様子とは基盤の安定感も異ならざるをえないだろう。実際、「退学処分」に対する記述は本書で3回、映画版では1回あったが、どちらもその後の生徒の反応はきれいに「ない」状態であった。それがあたりまえの事であることの認識であり、それは一種の連帯の欠如でもあるように思う。

・「フランス」のナショナリズムの捉え方と実態
 国家としてフランスに対する考え方(もっと言えばヨーロッパとできるかもしれないが)は、サッカーが話題に出される際にはっきりと現れている。彼らはフランスのサッカーよりも明らかにアフリカのサッカーの話題を持ち出している。これは教師についてもそうであるらしく、「アフリカのサッカーがある日は休みにすべきだな。そうなれば生徒も教師も満足なのに」という記述もある(p151)。(注1)フランス代表を応援しようとするものはほとんどいない。同じヨーロッパであってもむしろスペインとかイングランドを応援しさえする。また、オーストリアの国の存在が生徒に理解されていないにもかかわらず、アフリカのベナンの国の大きさが生徒たちの話題になる。

 フランスの公立学校はこのような他国の文化流入を排除し、フランスの国家意識を強調しているだろう。「ライシテ」と呼ばれる公教育における政教分離が確立されており、本書ではさらに学校で他の国の名前を書いてはいけないというエピソードも描いている(p254)。そして日本から見ればこれでもか、といえるようなフランス語の文法の授業の多さというのも、それを反映させているのだろう。

 一方で、教師のフランスの統合教育に対する熱意を感じる部分もある。中国人のミンの母親に国外退去命令が出た際の裁判への参加や弁護士報酬のカンパなどを教師たちが積極的に行なっているという部分である(p222−223)。そして、教師が連名で提出した請願書はこのように書かれている。

 ミン君はまったく通常に、他の生徒と同じようにこのコレージュで学んでいます。いえ、それだけではありません。コレージュの教員一同は、今日はそのほとんどが傍聴に来ているのですが、ミン君が三年間で目覚ましい進歩を遂げている点を特に強調してお伝えしたいと申しております。そして、今もし彼が中国へ戻るようなことになれば、それはまさに規範的というべき移民統合プロセスが中途で無残にも断ち切られてしまう結果になるのだということも、ぜひご理解いただきたいと申しております。(p237−238)
 これがもし規範的でない生徒の退去命令だったらどうだっただろう?この問いに答えられる記述は探せてないが、おそらくそうはならなかったと推測することは可能だ。彼は優秀であり、規範的であるからこそ、教師達の支援を受けたということである。そして「退学処分」という形での学校からの排除はあたりまえのようになされている。この違いにどんな理由・背景があるかはよく読みとれないが。
 蛇足であるが、同様に退去命令の対象になるはずの、彼の父親はなぜかこの命令から免れたこと(それを、「連中」(おそらくは政府のことだろう)のきまぐれであることに教師たちは皆同意している)や彼のこの裁判の結果が結局退去命令を正当とした点もまた興味深い。


○学校の教育システムについて
 次に学校内の制度面に対する描写についてである。これについてもかなり意図的にエピソードが盛り込まれているといってよい。

・強力な権威主義的性格をもった学校と教師
 「問題のある生徒」が多い学校のためか、生徒を叱る場面も非常に多い。スレイマンという生徒がフードをかぶっていて注意される話などは何度も出てくる。この生徒を叱る部分については、確かに明らかに校則やそれに準じるものに対する違反というのが含まれている。しかし、本書での叱る描写については、むしろそれ以外のものが多いのが特徴といえる。

……ディコが突然、教室の反対側に座っているメフディに向かって、大声でおーいと呼びかけた。私がびっくりしてみせると、彼はそれがどうしたと言わんばかりの態度をとった。
「そんなことしたらだめだろう?」
「おれ何かしました?」
「また始める気か?」
「何かおれに用ですか?」
「また校長室行くか?」
「おれの知ったこっちゃないです」
「よし、じゃ行こう」(p138)

 ディコは普段からクラスで余計なことや反発的な態度をとる生徒である。その影響もあってか、何故怒られるのかわからない状況が生まれている。本書において怒られる基準は最終的に割とはっきりとしており、「授業に関係のない、スムーズな授業を妨げる行動」は全て懲罰の対象となっている。以下は美術館見学に行く際の説明をしている時の一コマ。

 左の列の一番前、ディコは必ず何かやらかしてくれる男だ。
「友だち連れて来てもいいですか?」
 聞こえない振りをすること。
「先生、友だち連れて来てもいいですか?」
「授業の始め、私はおまえに何と言った?」
 私の負けだ。
「おれは質問してるだけです」
「授業の始め、私はおまえに何と言った?」
 関係ないことを一言でもしゃべったり外に出すと通告しておいたのだ。
「でもこれはただの質問じゃないですか」
「よし、出ろ」(p179−180)

 この後外に出てから余計な声を出したことで「問題行動」であるとされ、「おしおき部屋」にあたる校長室へディコは連れて行かれる。確かに問題の多い学校であるが、それ以上に「問題行動」の基準も低く、ささいなことが「問題行動」とされているのである。
 しかし、興味深いのは、ここに教師側の心理が描かれていることではないだろうか?同じく、教師の心理描写がこの場面にもある。

 クロードとシャンタルが、校庭のコンクリートの上でつかみ合いをしている二人の生徒を落ち着かせようとしていた。四時間授業をした後で頭が麻痺状態になっていた私は、一切ためらうことなく彼らを引き離しにかかった。一人目の生徒のフードを引っ張り、一人目をつかんでいた二人目を突き飛ばした。二人目は後ろ向きにひっくり返り頭を地面に打ちつけた。私は内心しまったと思った。
「こんな風にけんかしたらだめだろう?」
「押してんじゃねえよ」
「何だと? 今何て言った?」
「何押してんだよ」
 けんかをしていた一人目の方は、私が気をとられているクロードとシャンタルの目を盗んで逃げ出した。
「教師に向かってその口のきき方は何だ!」
「押すなっつってんだよ」
 彼がそのまま立ち去ろうとするので私は袖をつかんだ。怒りで私の鼻息は荒くなっていた。
「謝りなさい」
 彼は私の手を振り払って行こうとするので三メートルほど行ったところでまたつかまえる。それを五、六回繰り返した。
「謝るんだ!」
「押すんじゃねえつってんだろ」
「教師にそんな口のきき方をするな」
 私は奥歯をぎりぎり食いしばったまま声を出していた。(p101−102)

 生徒にとっても、怒られたことに対して、なんで怒られているのかわかっていない描写の方が多い。そして、クンバにいたっては、意味もなく怒られていることを理由に授業は全て一番後ろに座り、発言も一切しないことを決め、それを教師に手紙で宣言している(p60−61)。彼女はクラスの中では優秀な方の生徒であり、自分は教師の態度次第では敬う気持ちでいるが、教師がそれを裏切っているようにしか見えないのである。

・外見だけの民主的制度
 本書におけるコレージュにおいては、学校の校則や授業時間などの事項について、また懲罰会議という特に問題のある生徒に対する退学・停学処分を行なう場においては、校長、教職員代表、父母代表、生徒代表(懲罰会議を除く)による合議体による議論がされる。校則などについても生徒たちに発言権があり、懲罰会議については、生徒と生徒の保護者が参加し、自己の行為についての弁解を述べることが可能となっている。しかし、この仕組みについては、完全に崩壊したものとして描写されている(注2)。もちろん表面上は生徒代表は大人と対等の立場であるが、代表となったサンドラとスーマヤは全く参加する気がなく、二人で笑い出す中、まじめな議論がされる(p68)。彼女らは対等であるため、その場で文句が言われることなく、会議後に偶然同じクラスの教師だった私があとで注意する(p72)。
 また、懲罰会議についても、弁解の機会についてはほとんど機能しているとはいえない。生徒達はすでに権威的な学校に対してうんざりしており、反論する気にさえなっていない。また、映画版での描写だが、弁解において生徒の母親が弁解のために熱弁を振るうも、アフリカ系の言語でしゃべっているため、何を言っているのかわからず、それを判断材料にできない始末である(丁寧なことに、この部分だけ、アフリカ系の言語の字幕は表示されていなかった)。

 さらにひどいことに、懲罰会議の場において、生徒自身の評価を除外した形での退学処分もなされている。しかもそれを誘導したのは校長である。なお、生徒本人は来ておらず、母親のみ弁明をしている。

 校長は懲罰会議の対象となった生徒の行為について説明を行った。重大な規律違反が今年度になってから通算八回、一ヶ月に一度の計算だった。最後に校長は、退学処分を求めた。「それによってヴァグベマは他の学校で新たなスタートを切ることができます。また同時に、双子の弟のデジレと少し距離を置くこともできます。教育システムには、必ず全員を受け入れるだけの余地がちゃんとありますから大丈夫です」
 ヴェクベマを担当する教育指導員は次の点を強調した。父親が盲目であることが、何をしても罰を受けないで済む、という感覚を子どもたちに植えつけてしまったこと。ヴェグベマが問題行為を起こすのは、ひとえに自分の苦しみを吐き出すためであること。小学生のときは叱られるといつもひっくり返って転げ回って泣いていたこと。
 保護者代表の一人は、五年一組にいたことがヴェグベマに悪い影響を与えていたのではないか、と主張した。それに対してはバスティアンが、五年一組が悪い影響を及ぼすクラスになったとすれば、それはヴェグベマの存在が大きな原因だと反論した。
 ヴェグベマの母親はその間にも三回、四回と息子の携帯に電話をかけていたが、留守番電話につながるだけだった。母親の発言の番になった。母親はもう一度チャンスを下さい,四年になれば(※フランスのコレージュは六年から五年、四年、三年という形で学年が上がる)きっとちゃんとしますから、バカンスの間は国に帰らせます、向こうには教師をやっているいとこがいるので、彼のこともよく面倒を見てくれるでしょう、といったことを一通り言った。話し終えると、審議を行うので母親は退席するよう求められた。母親は出て行きドアが閉められたにもかかわらず、校長は内密の話をするように声を落として言った。
「皆さんには、この問題に関するあらゆる情報を知っておいていただいた方がいいと思いますので、ひとつ申し上げます。昨日実はヴェクベマのお父さんと話をしました、この懲罰会議の準備のために。で、このお父さんがですね、自分の息子は呪いをかけられていると信じているようなんですよ。さらにヴェグベマのお兄さんについても同じように呪いがかかっていると言うんです。で、このお兄さんと言うのが、以前わが校に通っていたんですが、やはり大変な問題児だったのです」
 私たちはヴェグベマの退学処分を可決した。(p228−229)

 この内容については、結局決め手が彼自身の問題ではなく、兄の問題であったり、「呪い」という根拠に乏しいものを取りあげた上での退学処分を行っている点が確認できる。
 この権威的性格は日本と比べると問題視されそうであるが、他方でこれくらい権威的な性格がないと授業どころか、学校自体が成立しないのではないか、という雰囲気もなくもない。そのあたりの難しさも提示しているような気がする。
 
 今回は取りあげませんでしたが、フランス語を教えることの難しさ、フランス語そのもの(というか他の言語についても同じだろうが)を語ることの難しさや常識的な知識が通用しない、といった描写もまた多く、本書の興味深い部分でした。
 本書の原題は”Entre les murs”で、「壁の中」がより直接的な訳です。この壁は学校と社会との壁を指しており、著者自身がこの学校の中で起こっていることを、教育書で言われているようなつまらない議論における学校像ではなく、ありのままに伝えたいという強い意志のもと書かれた本だそうです(p273)。実に面白い本でした。

理解度:★★★★(フランス人でないとよくわからない部分も多い)
私の好み:★★★★★
おすすめ度:★★★★★

(追記:3/3)
(注1)この部分はミスリードでした…ここではサッカーの話題が並列的に語られています(サッカーに興味のない教師や、逆にサッカーの流れをうまくつかって授業をやってみると提案する教師)。この休みの提案も、生徒がサッカーのことで興奮しているので授業にならないから、という意味合いが正しそうです。

(追記:2014/2/20)
(注2) ただ、見方を変えれば、生徒を退学させるためのシステムとしてこの合議体は適切に機能しているといえるかもしれない。学校における問題となる要因(生徒)について、学校に所属する者皆の総意という形で退学処分を行うのである。例えば、この処分を無効であるとして裁判で争う方法もきっとあるだろうが(そのような争いがあるかどうかはよくわからないが)、日本におけるような生徒への不利益処分を校長や教員によるものとして行う場合とはまた意味合いが異なってくると言えるだろう。