ジークムント・フロイト「フロイト全集 第19巻」(2010)

今年最後になりますが、岩波書店フロイト全集から、「制止、症状、不安」(1926)を読みます(p192を除く)。今回もジジェクの議論の考察をしますが、先に結論を言えば、この論文におけるフロイトの「不安」の捉え方から、ジジェクの主張の矛盾を指摘できるのではないかと思い、取りあげました。

(読書ノート)
p47-48 「(※儀礼的なものにおける)なかったことにすることへの努力は、出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱うその決然とした仕方において、正常なものに対して際立った様相を呈するが、しかし、そこから先なんの対抗策も採られることがなく、出来事もその帰結も気にされることがない。他方で神経症においては、過去を自ら解消し、身体運動によって抑圧しようと努める。同じこの傾向によって、神経症において実によく頻発する反復への強迫を説明することもできる。この強迫が実行される際には、いくつもの互いに対立する意図が共存しているのである。欲望に添う形で起こるはずであった仕方では起こらなかったものは、別の反復によってなかったことにされるが、その際あらゆる動機が加わってきて、この反復にとどまろうとする。神経症の経過がさらに進むと、症状形成の第一級の動機として、外傷的体験をなかったことにしようとする傾向がしばしば出現する。」
※記憶の消去を欲望し続ける行為(反復)によって想起不能とする考え方。

P56−57 「不安を自我の危険に対する反応であるとみるならば、生き延びることができた生命の危険に引き続いて起こることが非常に多い外傷的神経症を、生命の不安あるいは死の不安の直接的帰結としてとらえるのは自然で、この場合、自我の依存症や去勢は考慮に入れられない。まさしく先の戦争〔第一次世界大戦〕による外傷的神経症を観察した大部分の人々はこう考え、自己保存欲動が危険に晒されるだけで神経症が生じうるのであって、性欲の介在など一切必要ないし、精神分析による錯綜した仮定も一切必要のないことの証明がなされたのだと勝ち誇ったように発表した。……日常生活において認められるより単純な神経症の構造についての私たちのあらゆる知見によれば、神経症が危険に晒されるという客観的事実のみによって生じ、心の装置のより深い無意識の層が関与することがないということは、まずありえないことである。」
※もともと一方向的に設定された不安が二方向になった?過剰な不安と不安の禁止?
P58 「私たちは不安を、これまでは危険の情動信号と見なしてきたが、今では不安は、去勢の危険に関することが非常に多い点からして、喪失、分離に対する反応であると私たちには見える。」

P62 「ところで、「危険」とは何であろうか。出生という行為においては、生命維持のための客観的な危険があり、現実にそれが何を意味するかを、私たちは知っている。しかしながら、心理学的にはこのことは何も言っていない。出生の危険と言う時、その語にまだ心的な内実は全くない。確かに私たちは胎児に関して、それが生命の破滅というありうべき帰結について何か知識らしきものを持つと前提とすることはできない。胎児に気づくことができるのは、彼のナルシス的リビードの経済における巨大な障碍にほかならない。巨大な興奮量が彼のもとに押し寄せ、新種の不快の感覚を生み出し、少なからぬ器官が無理に備給を高め、それは程なく始まる対象備給の序曲のようなものである。」

P83−84 神経症の発症原因として、「生物学的要因」「系統発生的要因」「純粋心理学的要因」が挙げられる…
「生物学的要因は、人間の幼児の寄る辺なさと依存症が長引いたものである。……人間は、動物と比べより未熟なまま産み出される。そのため、現実の外界の影響はより強いものとなり、エスからの自我の分化は早い時期から推進される。外界の危険の意味が高まり、唯一この危険から護ってくれ、失われた胎内での生活を代替してくれる対象の価値は巨大化する。つまり、この生物学的な要因が最初の危険状況を作り出し、愛されたいという欲求を生み出すのであり、この欲求は人間から離れることがなくなる。」(p83)
第二の系統発生的要因は、小児の性欲が潜伏するという状態をもとに、その抑圧における危険とされる。
「第三の心理学的要因は、私たちの心の装置の不完全さに求められる。その不完全さは、まさしく心の装置が自我とエスに分化していくことに関係し、それゆえ、結局のところ外界からの影響にまでさかのぼる。現実の危険に対する配慮によって、エスからの一定の欲動の蠢きに対して自我は防御し、その蠢きを危険として処理するように強いられる。自我はしかし、内部の欲動の危険に対しては、自分にとって疎遠な現実の一部に対するようには効果的に身を護ることはできない。自我はエスと内密に結びついているので、欲動の危険を拒むには、自我は自らの編成に制限を加え、欲動による自らの損害の代替物である症状形成に甘んじること以外には道はない。」
p90 「こうして、後の生活における不安には、二種類の根源様式があるとされた。一方は、不随意的、自動的なもので、出生の状況に類似した危険状況が出現する際に、その都度経済論的に説明可能な不安の根源の様式である。他方は、そのような状況が迫りさえすれば、その回避を促すために、自我によって生産される様式である。この第二の場合、自我は、こういってよければ予防接種の場合のように不安に身を任せ、弱められた発病によって、弱められていない発作を逃れるのである。自我はいうならば危険状況を活き活きと表象するが、その際この不愉快な体験が仄めかしや信号にとどめられるという、見逃しえぬ傾向が認められる。」

☆p93 「現実的危険とは、私たちの知っている危険であり、現実不安とは、そのように既知の危険に対する不安である。神経症的不安とは、私たちの知らない危険に対する不安である。ゆえに神経症的不安がまず探求されねばならない。分析によって私たちは、それが欲動危険であることがわかった。この、自我には未知の危険を意識へともたらすことで、私たちは現実不安と神経症的不安の区別を消し去ってしまい、神経症的不安を現実不安と同じように扱えるのである。」
p96 「現実不安は外部の対象から脅かされるのに対し、神経症的不安は欲動欲求に脅かされる。この欲動欲求がなんらかの現実的なものである限り、神経症的不安もまた、現実によって根拠づけられると承認しうる。私たちは、不安と神経症の特別に親密な関係の見かけが、以下の事実に拠るものであると理解した。すなわち、自我は不安反応の助けをかりて、欲動危険からも外部の現実的危険からも身を護るが、心の装置の不完全性のためにこの防衛行動の方向が神経症への道を開いてしまう。」
p99 「母親が不在であるという外傷的状況は、ある決定的な点において出生の外傷的状況とは別のものとなっている。出生時には、人が不在を体験するような対象は存在しなかった。不安が唯一の反応として現れたのである。それ以降、満足の状況が反復されることで母親という対象が作り上げられ、今では欲求が生じた場合には、この対象は強度の高い備給を、つまり「思い焦がれ」というべき備給を被る。この刷新にこそ、痛みの反応は関連づけられねばならない。すなわち痛みは、対象喪失に対する本来の反応である。また不安は、この喪失がもたらす危険に対する反応である。さらなる遷移を通し、不安は対象喪失自体の危険への反応となる。」
p192 フロイト精神分析が医学でなく、心理学であることを強調する。

(考察)
 今回は主体への問いを、これまで提出したものも含め、いくつかの切り口から考察してみます。

○「生存欲求」と「承認欲求」
 まずは、「生存欲求」と「承認欲求」という区分についてである。社会運動をめぐる議論などでも、両者を定義しつつ、「生存欲求から承認欲求へ」という形で現在の承認欲求をめぐる議論が強調されることがある。
 この両者は、フロイトが区別する2つの根源的不安(p90)をベースにしているといっていいだろうし、ジジェクの議論においても、主体の「過剰と欠乏」という言い方で表現されていた議論(ex.ジジェク1999=2007、p113)と関連するものと言ってよい。ただし、完全に一致している訳ではなく、かなりのズレも見出すことができるのではないか?

 フロイトは両者の区別を簡潔に経済論的に(この言葉の意味がよくわかりませんが)リビドーの影響を受けたものと、自我が介在するものと分けます。註釈などに書かれていますが、フロイトの考え方はもともとこのようなものではなく、リビドーの直接的影響を強く主張していたようです。これはフロイトの研究関心にも関連しているそうですが、もともと生体的な反応への関心が強く、おおざっぱに言えば、反射的なものに近いものとして不安も捉えていたようです。
 しかし、この二つの根源的不安の関係性は少々複雑です。自我の作用である神経症的不安は未知への危険に対する意識を持つことが可能であるが、それがすでに「知っている」、外的脅威が目の前にあるものとして認識する現実不安との区別も消失させてしまうのである(p93)。
 これは、「我慢すること」などの例として考えればわかりやすいでしょう。我々はお腹がすくと食欲がわきます。これは空腹の状態を生体的に知らせるものであり、それが続くと危険になることから現れる「現実的危険」に位置付きます。しかし、我々はこの類の危険が迫ったとしても、我慢することで空腹の状態を維持することも可能です。その際には、それが欲求の現われとして表現されることもありません。これは自我のなせる業であると、フロイトなら言うでしょう。予防接種の例えは基本的にこれと同じことを言っています(p90)。

 しかし、ここで問いたいのは、「生存欲求」というのが、だいたいにおいて我々が生存する欲求を指しており、現代社会においておおよそそれが解決されている、という意味で用いられることです。ここでは、フロイトの想定したような素朴な状態を考えるべきではないでしょう。「生存欲求」の領域というのが、すでに自我の議論を多分に含んだものとしてとらえられるのではないかということです。

 ジジェクの議論する「過剰した欲動」による主体と「欠如した欲望」の主体という対比も、基本的には生存欲求的なものを指して読んでいる傾向が強いです。しかし、別の著書でですが、ジジェクは結局この線引きは主観的な問題でしかなく、客観的な(生死の区別)のようなものとしてとらえるのを拒否する態度をとります。

「つまり、生き残るために必要な従順と「過剰な従順」との境界線をどう引くのかということである。もちろん「客観的な」基準はない。主体がささやかな生存を超えるようなことをして、過剰な物質的職業的利得あるいは権力をもたらしたときに「過剰な従順」になると言うのでも十分ではない。唯一認められる考え方は、実際の従順の身振りが非常にささやかだったとしても、従順の身振りがそれ独自のジュイサンスを主体に提供した瞬間、「過剰な従順」になるのだ。」(ジジェク「幻想の感染」訳書1999、p89)

 これは時に「生権力」の時代であると呼ばれる際に用いられる議論かと思いますが、我々の生存を脅かす議論というのは、むしろ不可視的なものである。これは端的にベックの「危険社会」の話でも議論してきたような危険として生存を脅かすことになる。フロイトの時代には「既知か未知か」という素朴な議論を行う余地があったのかもしれませんが、現在はそのような議論が通じません。特に「予防」という観点から死の回避を試みるという動きからは、それが生存欲求という観点から「過剰」なのかを判断することが困難でしょう。

 では、ジジェクはリスク社会における生存問題についてどう考えるのか。「厄介なる主体」6章でジジェクはリスク社会の問題を取りあげますが、この「生存」の基準の問題に触れることはありません。ジジェクのリスク社会の議論は、専門家による政策決定とそれに従属する一般市民という「環境管理型権力の回避の困難さの問題」に終始します。

 また、何が「過剰か欠乏か」の議論の関係で言えば、「承認欲求」についてはどう考えるのか、という問題が別にあります。ジジェクの危惧するのは社会だとか文化の「標準化」にあり、自らが従者となり、主人を求めるマゾヒスト的態度もこの「標準化」幻想がはびこっている現状から問題提起します。ジジェクが期待するのは、我々は思っている以上に他人であり、そのような「標準化」はそのような状況とマッチしていないというものでしょう。そして、そのような「標準化」からではなく、私の欲望としての欲求を強調すべきである、という点です。そういう意味でジジェクは最低限の生存の議論をしているようで、実際はほとんど無視する立場にいると考えてよいでしょう。

○<法>と<禁止>のカント的解釈とそのポストモダン的変化
 ジジェクのとらえる<法>および<禁止>の考え方はカント的であるという。
 通常の法律の理解も含め、「法」というのは、誰かの利益に資するものであり、「禁止」というのは、その誰かの利益に資する「法」そのものを解体しようとすることに対する禁止であった。これは私がこれまで議論してきた「法」という言葉の解釈であった。また、高橋由典が「屈折した帰還」(高橋2007、p176−177)と表現している場合の体験選択の変化も溶解体験たらしめた出来事に固執する意味で「法」をなしているとも言える。単純な資本主義批判においては、「法」は資本家の利益に資するものとして批判の対象ともなりえた。
 しかし、ジジェクの<法>解釈はこれと異なる(ジジェク1999=2007、p248−249)。このカント的な<法>は主体が確かに存在しているものと知っているものの、この<法>とは何であるのかを永遠に知らず、<法>そのものと、その実定的な具現とのあいだには、絶対に埋まりはしない裂け目があるものとしてとらえられる(ジジェク1999=2007、p247)。

 ジジェクは「トーテムとタブー」の解釈から未だ象徴には至らぬ猥褻な/非去勢の<父=享楽>と、殺害という原罪により象徴権威による規範・禁止を命ずる<法>としての父を区別し、更に、「モーセという男と一神教」にて描かれた父、象徴権威を体現する一なる世界という統一構造を具えた父の殺害の2つの殺害を扱い、<法>と<禁止>の概念を固める(注1)。
 しかし、「いわゆる「ポストモダン」な主体の形成には、しかるべき象徴的<禁止>を欠いているがゆえに、言うならば想像的な<理想>が無媒介に「超自我化」する事態を内包してしまう」(ジジェク1999=2007、p253)とみる。象徴的な大文字の<他者>を消失した世界においては、大文字の<他者>が<現実なるもの>のさなかに実際に存在するかのようにみなされることになる(ジジェク1999=2007、p241)。

 ところで、カント的な<法>の定義付けにおいても、通説的な「法」や「禁止」は矛盾なく組み込むことが可能である。我々は<法>が空洞であることを「了解」している。しかし、これは無意識的な了解である。その空洞性を了解しているからこそ、更なる具体的な「法」を<法>へと組み込み、マゾヒスト的な態度をとることをも可能にするのである。このような態度をとることで、<法>から直接享楽を受けることが可能になるのである(ジジェク1999=2007、p240)。このような見方からすれば、おそらく、通説的な「法」に対する「禁止」というのも、この変形された<法>概念から導くことが可能である。これに対し、ジジェクのいう道徳的な欠乏の主体は<法>が空洞であることを「理解」している。実質的には<法>に意味が付与されていく訳だが、そこに介する無意識化を防ごうとするのである。

 ジジェクは象徴的な大文字の<他者>的なものに立ち返る事自体を拒否する。
 「いま必要とされているのは、あるひとつの<現実>を強く掲げ、その想像的な相対物もろとも悪循環のなかへ囚われてしまう代わりに、<想像なるもの>を粉砕しうる不可能性の次元を(再)導入することである。」(ジジェク1999=2007、p263)
 ジジェクが要求しているのは、あくまでマゾヒスト的主体の否定であり、幻想を走査することにより空洞化した<法>をあえて遂行する主体である。


○キャサリン・ベルシーのジジェク批判とジジェクの<出来事>の解釈…純粋模倣の否定と政治性の強調
 ここでもう一冊、ジジェクの議論を深めるためにベルシーの「文化と現実界」(訳書2006)を取りあげたい。
 ベルシーの議論の焦点は、ジジェクラカン解釈とラカンの本来あるべき解釈とのズレについてである。ラカンとの関連でいえば、<現実界>に対する解釈であり、ジジェクがこの<現実界>を空無なものと同一視している点が批判の対象である(ベルシー、p98)。
 また、ジジェクの批判として強調されるのは、彼が観念論に陥っているという点であり、具体的には9.11における解釈の問題を例にしている。

「なぜ9・11がかくも衝撃的だったのか。おそらくそれは、ますます観念論的になっていく文化に対する、名づけられない現実界のつかの間の侵入を代表象していたからかもしれない。」(ベルシー、p109)
「(※タワーへの衝突をリアルに再現できる、アメリカの映画技術の偉大さとは)対照的に、9・11はアメリカの絶対的な防衛力や、西洋の知性の確実性に疑いを差しはさんだ。だがこれにもまして、9・11は欧米の全世界図をも、私たち自身の台本を書く能力意識をも疑問に付した。これらの飛行機は私たちの心理の抑圧された断片ではなく、逆に、外部からの暴力的な物質の侵入だった。」(ベルシー、p110)

 この事件についてジジェクは「既に見なれたハリウッドの幻想を現実に再現したものだ」と評価したという(ベルシー、p109)。つまり、我々の想像の範疇にすでに存在しているもの、我々の内部にあるものだと述べる。
 その一方でベルシーはこの事件を我々の想像より外部にある物的な侵入、対象aの影響の強さを強調する。やはり9・11は我々にとって脅威として映っており、それは我々の想像を越えた所にあったからであると。

 この議論の賛否については私自身判断する気はない。ただ、私自身が把握できてないラカンの議論も含めてむしろベルシーの主張を基本的に支持することを前提に議論をしたい。というのも、仮にベルシーの主張を前提にしたとしても、ジジェクの主張が揺らぐことはないと確信しているからである。どういうことか。

 ジジェクは「厄介なる主体」3章にて、<出来事>に対する議論をアラン・バティウを経由して議論している。ここでいう<出来事>とは、フランス革命といった歴史的事件、我々の思想を根底から覆す出来事のことを指す。そしてこれは私の議論してきた「溶解体験」の話、さらにジラールの模倣論でいう「キリストの殺害」などが該当する。話の要点は、3章の<出来事>の解釈の仕方が、基本的にベルシーの批判の再批判となっている、ということにある。
 端的にジジェクは、バティウが強調したのと同様に、一般的には<出来事>が他の事象とは独立して現れる、と考えられるような性質を否定し、その文脈依存性を支持する。確かに当時のフランスの状況から得られる社会の状態を<知>とすれば、その<知>の積み重ねによってフランス革命を説明することはできず、その意味では無から現れている。しかし他方で、フランス革命は、それまでのアンシャン・レジームが抱えていた過剰や矛盾を可視化させるようにした出来事なのであった(ジジェク1999=2005、p231)。そう、それは我々の社会からは見えないものであるとみなされていたが、確かにすでにどこかに(社会的な無意識の領域に)存在していたものであって、<出来事>というのは、それが表面に、意識にあがってきたものにすぎない、と考えているのである。
 文脈依存的であるということは、それに先んじる<出来事>が常に存在していることになる。そして、それは<出来事>と呼ばれるものが、イデオロギーに呼びかけられることでしかないとする(ジジェク1999=2005、p255−256)。

 ジジェクは「トーテムとタブー」の解釈において、我々に起きなければならなかった出来事であるという形で、その不可避性を強調するが(ジジェク1999=2007、p154)、要するに真の意味で<出来事>と呼ぶことができるものはこの原父の殺害しかない、ということをジジェクは言いたいのである。ジラール風に言えば、それ以外のものは全てその<出来事>の模倣にすぎない。奇妙だが、この部分については、ジジェクジラールはよく似ている。
 このような主張は、つまり、高橋の議論の所で考察した「純粋模倣」と呼べる領域の存在そのものを、ジジェクは認めていないということだ。純粋模倣の領域はその脆弱性が指摘され、良い模倣に組み込まれる可能性があった、と解釈してきた。しかし、ジジェクによれば、そんな脆弱な空間などもともとないものなのである。純粋模倣自体が特定の文脈から外れたものとして扱われていたからである。したがって、模倣論的には、基本ジジェクの主張は、「良い模倣」か「悪い模倣」か、2つに一つなのである(注2)。

 しかし、ジジェクは資本主義を支持する良い模倣に対しては反対の立場をとっている。なおかつ、悪い模倣と呼べる「過剰な愛着」に対しても、その過剰性を批判する。これらのことはジジェク自身かなり自覚しているものといえる。だからこそ、われわれに残った選択肢は<悪しきこと>か、<さらなる悪しきこと>でしかないと、結論で述べるのである(ジジェク1999=2007、p296−297)。

 確かに、この「純粋模倣」の全否定というのは、かなり極端であるように思えるし、ベルシーが観念論的であると指摘したのももっともだと思う。しかし、ジジェクはこのような強調をするだけの意味をそこに感じていたのだと、同時に感じる。それが「厄介なる主体」における政治に対する考え方に反映されているのではないか。資本主義を批判するジジェクが強調するのは「今日われわれが置かれているグローバル化という状況のなかで、政治的なものの領域がいかにして再創生するのか」であり(ジジェク1999=2005、p396)、経済活動の脱政治化に対する再政治化、また政治化の現場から経済活動の領域を排除されることの回避にある(ジジェク1999=2007、p225−226)。このためには、声を上げ、行動する「主体」なくしては政治性の獲得はありえないと考えるのは、もっともであり、だからこそいくら悪いものであろうが「主体」にこだわるのである。

 この固執は一理あるものと考えざるをえないと思うが、それでもなお「主体」を前提にすることを批判する余地は与えられてもよい。何故なら、この「主体」の強調をするために、<法>の遵守をも必然的であるかのように語っている印象がなくもない。ちょうど、ドゥルーズガタリが「アンチ・オイディプス」で語ったような「欲望機械」の概念を思い出す(注3)。一見、必然的な概念として持ち込まれていないように見えるものの、それを回避することがあたかもできないかのように語る、一種の閉鎖性の構造がとてもよく似ているのである。そもそも我々は<法>に遵守する必然性などない。これが必然的に見えるのは、実際に営まれている政治が「法」を形成しているがために、無条件にその「法」を了解せざるをえない世界に我々が投げ入れられている、というだけではなかろうか。

 このジジェクのこだわりから生じている影響がいくつかある。一つは前回述べた「個か集団か」という論点である。ジジェクのいうように、もともと象徴的な<法>がなければ共同体を作るための礎を失うのであれば(cf.ジジェク1999=2007、p154)、何故幻想を走査することであえて個にこだわった形での<法>を目指すのか、個人化は資本主義に好都合ではないのか、という点に十分答えられない。結局ジジェクの前提からは、共同体的な<法>が除々に弱体化していく方向にしか議論が進められない。

 もう一つは「過剰か欠乏か」の議論である。これについても最初は生の議論を経由しつつ、結局は「存在」を否定している訳だが、どちらで扱うにせよ、課題はあまりにも多い。
 まず、後者についてだが、特に問題なのは、現状の「法」についての考え方である。おそらく、従来的な考え方における「法」は「法律」にはじまり、「規範」や「専門性」まで含めてくると、確実に我々が享受している「法」は増え続けていると考えた方がよい。このような「法」を「存在」否定のレベルまで落とし込むというのは、つまり法を独立したシニフィアンとして置き去りにしたままにせよ(我々はその「法=記号」から何らかの意味を見出すことを禁止する)と言っているようなものである。仮にそれに遵守するにせよ、「何故我々はそのシニフィアンそのものの放棄をしようとしないのか、なぜその増殖について何も語らないのか」という問いにジジェクは答えることはできない。
 同じ議論を前者で行うとこうなる。生の議論の難しさはフロイトとの関連から議論したが、ジジェクは「最低限度の生」を規定することはない。これはリスク社会の議論においてこの「最低限度の生」の話について言及しなかったことにも現れている。この「最低限度の生」の基準というのは我々が個々でカント的な<法>を遵守している限りで問題とならないだろうが、それを決壊する主体が現れる時点で引き上げがなされうる。ジジェクはこの引き上げについて批判は加えられない(結局主観論でしかないから)。

○欲望対象の両義性理解の話、および「自発性」について
 最後にメラニー・クラインの転移解釈で議論した、通常の転移と善悪の両義性理解の話を参照したい。これらの話をそれぞれ、欲望対象の「転移モデル」と「両義性モデル」と呼んでおこう。
 ジジェクのいう「主体」は、ラカン的な欲望の考え方、「欲望とは、他者の欲望である」という主張と結びついており、クラインで検討した欲望の議論にも関連づけることができる。ジジェクのいう<普遍なるもの>と<個別のもの>にできる裂け目を埋めるのが主体形成であるという議論は(ジジェク1999=2005、p279)、ちょうどクラインの良い乳房という<普遍なるもの>と悪い乳房となって乳児に脅威を与える<個別なもの>の間にできた裂け目そのものと言っていいのではないだろうか。
 この裂け目を埋めるための主体モデルはクラインの議論から持ってきても2つあることになる。良い乳房を良いものであることを前提にしつつ転移していった「転移モデル」的主体と、良い乳房と悪い乳房が実は同じものであるととらえた上で次の行動を起こす「両義性モデル」としての主体である。ここではクラインの良い乳房は象徴的なものとしてとらえておく(注1)。
 「両義性モデル」において、ジジェクの議論で悪い乳房に対応する概念はどこに見出せるだろうか。これはおそらく「神聖な父」と「猥褻(非去勢)な父」の話になってくるだろうと思われる。ジジェクの議論では、父の猥褻性が介入されることを禁止することによって、象徴的な「神聖な父」が見出された。しかし、現在はこの象徴性が失われ、父は猥褻化してしまった。しかし、この猥褻な父はマゾヒスト的性格を付着させる想像的なものである。そして、ジジェクはこれを回避するためにカント的<法>に立ち返ろうとする。つまり、乳房の話と関連させれば、ジジェクは逆側からアプローチしていることになる。現状「悪い乳房」しか見ることができない我々はそこに「良い乳房」の概念をぶつける必要がある、とみるのである(そしてそれは良い乳房としての象徴的対象に立ち返るものでもない)。そうすると、「転移モデル」的主体もまた、良い乳房からの転移という訳ではなく、むしろ「悪い乳房」を悪いものとすることを前提にする転移としてジジェクがとらえていると読み返すことができる。
 しかし、「両義性モデル」においては、その両義性ゆえに欲望から外れる可能性を指摘したはずだ。ジジェクもまた「転移モデル」に対しては批判的であるがために「両義性モデル」的主体の志向するが、「両義性モデル」に対する態度が一意的である(両義性モデルにおいては、「主体」であることそのものから外れる可能性もある)。この点については今度東浩紀の「存在論的、郵便的」のレビューの際にまた検討したい。東もまたジジェクの態度に対する批判を唱えており、この論点とも関連している話であるように思う。

 また、「自発性」に対する問いというのも、ジジェクを介してある程度明確化できただろう。自発性というのは、この「両義性モデル」としての主体そのものなのではないかと思う。ラカン的な「他者の欲望」的性質前提にし、その他者の欲望に自覚的になることで自らの欲望を導出する試みは、自発性と呼ぶにふさわしい。しかし、このこと自体の困難さと問題点についてはジジェクへの批判を通して検討できた部分であるといえるだろう。
 とすると、自発性問題の未解決部分は、前提として導入したラカンの話になるが、これもまた発達心理学の話から今後おおよそ解決してしまうように思う。この点についても今後検討する。



(注1)余談になるが、ジジェクフロイト解釈も、クラインの良い乳房も、いずれも「象徴界」の存在を前提にするために用いられたものであるが、どちらについても私は批判的な立場を取らざるを得ない。
 クラインについてはすでに議論してきたように、良い乳房の議論を象徴的なるもの(=<法>)についての議論と結び付けるのには無理があると思う。あくまでこの良い乳房は(少なくとも乳児については)想像的なものに過ぎない。
 また、フロイトの「トーテムとタブー」の解釈は、私がドゥルーズの「意味の論理学」で解釈したものとは異なる解釈をジジェクはしている。確かに神聖なる父は我々にとって「なくてはならないもの」として想定される。それはちょうどエディプス・コンプレックスの話でいう「原風景」の有無の問題ともよく似ている。父の殺害だとか、子どもが親の性行為を見たとかいう事象は、実際にあった(見た)かどうかが重要であるとは少しも考える必要がなく、ただあったものと想定すればよいだけのものなのである。この態度の取り方は私は納得できない。そのため、私の「トーテムとタブー」の解釈もそれが象徴的なものの生成(ジラールのいうキリストの殺害という<出来事>の発生)を論点とするのではなく、むしろその模倣的儀式であるジラール的なスケープゴートの話を想定して解釈したのである。要するに象徴的な「神聖な父」を厳密に定義することはできないということである。むしろそこには「猥褻な父」も混在せざるを得ないのではないか。
 ジジェクは象徴的な「父」の議論をする際に、あたかも過去にはそのようなシステムが存在したかのような語りをしているようにも見えるが、この点については過大評価されるべきではないだろう。

(注2)ちなみに、ベルシーはジジェクが崇高と昇華を混同しているという指摘をしている。「カントの崇高は、想像力が自らの力量不足を認めてひるみ、しりごみして、理性という超感性的な能力に助けを求めるからである。対照的に、昇華は個体を気体に変える過程だ。あるいはフロイトのメタファーを使えば、性的欲動を社会的に許容できる企画に変える過程である。」(ベルシー、p221)この昇華というのも、基本的には純粋模倣の話と全く同じことを言っており、この混同に対する批判もあまり有効とはいえない。ジジェクにとっては、そもそも昇華などありえないからである。

(注3)あえて簡単にジジェクドゥルーズガタリの主張する点の違いを述べるのであれば、ジジェクは<法>に対してダブル・バインドな態度を取っており、方向性として「私」へ向かうが、ドゥルーズガタリは「私」に対してダブル・バインドな態度を取るため、共同的な領域(=<法>といってよいだろう)へと向かうことになる。この点についてはとても対称的であると思う。

理解度:★★★★
私の好み:★★★★
おすすめ度:★★★