エリアス・カネッティ「群衆と権力」(1960=1971)

 今回は、ジラールドゥルーズを繋ぐ意味でエリアス・カネッティを取りあげます。もともと1971年に訳書がでましたが、2010年にも表紙が新しくなった新版が出ているようです。どちらともページ数表記は同じになっているようですが、私は上巻を1971年版、下巻を2010年版で読みました。

(読書ノート、上巻)
p9 「解放が起こっているあいだ、差別はかなぐり捨てられ、すべての人びとが平等だと感じる。人びとのあいだにはほとんど隙間がなく、身体と身体が押しあうほどの緊密状態のなかで、めいめいの人間は自他の区別もつかぬほど他人に近くなる。そして、このことによって、軽減の巨大な感情が起こってくる。人間たちが群衆となるのは、誰もが他人より大きな存在でも優れた存在でもなくなるこの幸福な瞬間のためなのである。
 しかし、これほど望ましい仕合わせな、解放の時間も、それ自身の危険を孕んでいる。その瞬間は、ある幻想に根ざしているのである。突如として平等を感じた人間たちは、本当に平等になったわけではない。また永久に平等と感じるわけでもないであろう。……ただ真剣な発心だけが、人間たちに古い結びつきを廃して、新しい結びつきを生みださせるのである。
P9—10 「しかし、群衆そのものは崩壊する。群衆はそれに対する予感をもち、それを恐れている。群衆に合流してくる新たな人間たちによって、解放の過程がつづく場合にだけ、群衆は存続することが可能である。群種の増大のみが、それに属する者たちを。かれらの私的な重荷の下で喘ぐことから守ってくれるのである。」

P79 「しかし、いずれにせよ、二つの群衆は、それらが規模と強さにおいてほぼ同等であるという前提があれば、互いに相手を存続させるものである。群衆を存続させるには、敵側の優越はあまり大きすぎてはいけないし、あるいは少なくともそう思い込んではいけない。」

P333 「生きのこる瞬間は権力の瞬間である。死を眺める恐怖は、死んだのは自分以外の誰かだという満足感に変る。死んだ者は地面に横たわっているのに、生きのこった者は立っている。その光景は両者が戦って一方が他方を倒したような錯覚さえ与える。生きのこることにおいては、どの人間も他のあらゆる人間の敵であり、この根源的な勝利にくらべれば、どんな苦痛も取るに足らない。だが、生きのこった者がひとりの死者に向いあっていようと多数の死者に向いあっていようと、この状況の重要な点は、かれが自分を唯一の人間だと感じていることにある。かれはそこにただひとり立つ自分自身を見出す。そして、この瞬間がかれに与える権力についていえば、それがかれの唯一性の意識に由来するものでありそれ以外のなにものにも由来しない、という点を決して忘れてはいけない。
 あらゆる人間の不死に対する志向には、生きのこりたいという激しい欲望が多少とも含まれている。人間は常に生きていたいと願うだけでなく、他の者たちがもはや存在していないときにも、生きていたいと願うのである。かれは誰よりも長く生きたいと願うし、それを知りたいと願う。そして、かれ自身がもはや存在しないあかつきには、かれの名が代って存続していなければならないのである。」
p334 「生きのこった者が自分の殺した者と向いあう瞬間は、かれをある特別な種類の力で満たす。それに匹敵しうるような力はほかにないし、これほど反復を求められるような瞬間はほかにない。」

(読書ノート 下巻)
p3 「暴力はその行使の時期をのばせば、権力となるが、危急存亡の時機、退くにひかれぬ瞬間が訪れると、その権力は再び純粋な暴力に逆転する。権力は暴力よりも一般的であり、暴力よりも広い空間にわたって作用する。権力は暴力よりもはるかに多くのものを含むが、暴力のようには必ずしもダイナミックではない。権力はもっと儀式的であり、ある程度の寛容さえ備えている。」

p37−38 「原始的な命令は逃走に帰着する。逃走は、ある動物に対し、別のもっと強い動物によって、それ自身の外部にいるあるものによって、命ぜられる。逃走は自発的な外観を呈するにすぎない。危険はつねにある具体的な形をとり、その姿を見つけないかぎり、どんな動物も逃走しないのである。」
p39−40 「命令の結果として実行される行動は、他のいかなる行動とも異なっている。それは見知らぬものとして経験され、漠としたものとして記憶される。決してわれわれ自身のものではないあるものが、見なれぬ風のように、素早くわれわれのかたわらをよぎる.命令の実行にあたって要求される迅速さは、われわれが自分の行動をよそよそしいものとして記憶する理由のひとつであるかもしれないが、その全部ではない。命令の重要な局面は、命令が外部からやってくるということである。われわれは自分ひとりでは命令のないことなど思いつかなかたであろう。命令は、われわれに課されている人生の諸要素のひとつであって、われわれ自身の内部から発展してくるものではない。……かれらは決して自分自身の名において語らないであろう。かれらが他の人びとに要求することは、かれらが要求するように告げたことなのである。」

p41 「どんな命令も勢力と棘とから成り立っている。勢力は命令受領者にその遂行を、しかも命令の内容通りの遂行を強いる。棘は命令を遂行する者の内部に残留する。命令が正常に期待通りに機能すれば、棘は少しも見えない。棘は隠れており、誰からも疑われず、その存在は命令に服従する前にある微かな、ほとんど目につかない抵抗によって、辛うじてそれと分るにすぎないかもしれない。」
※この棘は暴力と権力との連結を説明するのに有用である。いわゆる内面化。もしくは、権力の変形。
P43—44 最初は逃走命令として機能していた命令に何故われわれは服従するようになるのか?これは一種の買収が成り立っていることに起因する。「つまり、主人はその奴隷あるいは犬を、母親はその子供を養う。」

P49 「棘を形成するにいたるのは、孤立的な状態にある命令だけである。一個人への命令に含まれる脅威は、完全に消滅することはありえない。つねに個人として命令を遂行してきた者は誰でも、自らの本来の抵抗を、怨恨の硬い結晶ともいうべき棘として保持する。かれがこれを除きうる唯一の道は、みずからその同じ命令を他の誰かに与えることである。棘は、かれがかつて受領し即座に次に回しえなかった命令の、秘密の写し以外の何ものでもない。この写しという形態においてのみ、かれは命令から自分を解放しうるのである。」
P49 一方で群衆には棘が介在す余地がないという。「恐怖を抱きながら、かれはかれらにもっと近づき、たちまちかれら全員がその動きに感染してしまう。最初それらの少数が、次にもっと多数が、最後に全員が動きだす。同じ命令の即時的な拡がりは、かれらを群衆に変え、すぎにかれらは全員一丸となって逃走する。
 命令はすぐさま拡散されるから、いかなる棘も形成しない。棘を形成するような暇はまるっきりない。……群衆逃走をひき起こす脅威は、ほかならぬその逃走のなかで消滅するのである。」

p56 「昇進は命令の棘の隠密の作用が外部に現われたものなのである。
 兵士の内部に、これらの棘がじつに法外な程度まで蓄積されているに違いないことは、明白である。かれのすることなすことはすべて命令にもとづいている。かれはそれ以外には何もしないし、してはならないのである。これこそまさしく軍隊の公然の軍規がかれに要求するものにほかならない。」
※交換的に作用する棘。

☆p70−71 「棘を負わされすぎているために時おりそれらの棘によって麻痺させられる精神分裂病者は、このサボテンのような、苦痛と頼りなさの塊りは逆の状態、群衆のなかにいるという幻想におちいらざるをえなくなる。……かれは他の人びとと再び結びつけられているという感じを受けるのである。もちろん、この救いの実態は幻想である。というのは、かれが自分の自由を手に入れる、ちょうどその場所で、新しい、より強烈な強迫がかれを待ちかまえているからである。」

☆p84 「棘はその宿主のなかに、かれの権威に服さぬ無縁のものとして生き続けるのであり、したがって、かれにいかなる罪の意識をも抱かせないのである。かれはかれ自身を責めずに、棘を責める。この棘が、このかれの権威に服さぬ無縁のものが、かれのあるところ必ず影のようにあい添ういわば真の罪人なのである。命令がかれにとってよそよそしいものであればあるほど、命令がかれに行なわせることに対する、かれの罪の意識はますますうすれてくる。それだけにまた、棘の存在はますます分離独立的なものとなる。」
※命令の存在の有無が何よりのポイントであり、それと区別される私の存在は、その命令の存在に依存している状態?私を擁護するということにどのような意味が見出せるのだろうか?命令の増大は確実に私を強化しうる。
P84−85 「それゆえ、命令にもとづいて行動した人間たちが、自分たちには全く罪がないと思うのは本当である。もしかれらが自分たちのおかれた状況を直視する勇気をもちあわせていれば、自分たちがかつてこれほど完全に命令のなすがままになっていた事実に、恐らく驚きに似たものを感じるにちがいない。だが、そのように洞察を加えたところで何の価値もない。その洞察は一切がとっくにい終ったあとで初めて生じるのであり、過去にのみかかわるものだからである。そのとき起こったことは、依然として再び起こりうる。かれらが直面させられる新しい状況が古い状況にきわめてよく似ているときでさえ、かれらが再び同じような行動をとらぬであろうという保証はないのである。」
※このような性質からあえて棘という概念を導出したのだと考えられる。カネッティは最終的にこのような命令を受けないような手段や命令の支配権を動揺させる勇気をもたねばならない、とする。

P144−145 「模倣は外面的なものにかかわる。人びとの眼前に模写されるものが存在しなければならない。……模倣する者の内面的な状態については、何も示されていない。猿や鸚鵡は模倣するが、われわれの知るかぎり、模倣の過程において、猿たちの内部は全く変化しない。猿たちは自らの模倣しているものが何であるかを知らないのだ。」
ジラールのいう模倣はこのような捉え方ができない。このような模倣の捉え方は三角形的ではないからだ。対象がそこには介していない。
 教育において、それが機能する場合に、このような模倣によって達成されるということは果たしてありえるのか?ありえないというのが私の見解。広田照幸も参照?
 多層的な位階を想定することはできないだろうか?位階の元に新たなる位階を用意し、上位の位階については無視可能となるような構造を作り上げること。テストによる序列化もある意味この一部。ポール・ウィリスの話もこれと関連する?
P145 「何かを模倣するときの無造作こそ変身の真の会得を妨げるものなのである。
 なぜなら、変身そのものは、他方では、模倣の二次元的な構造からはみでた固体のようなものだからである。模倣と変身との中間に意識的に踏みとどまる過渡的なひとつの形態が擬装にほかならない。」

p148−149 「人間たち動物たちが互いに離れることもなく、人間たちが本当の動物たちのように振舞い、動物たちが人間たちのように口をきいた神話時代は過ぎさった。たしかに神話的な動物体験を通じて、人間は自分の都合のいいように、ほとんどあらゆる動物を利用することを学んだ。人間の変身は擬装となった。人間が身につける仮面と皮の下で、人間は自分自身の目的を明確に意識しつづける。人間は依然として人間そのもの、つまり動物たちの主人であることをやめないのである。」
※ここに介在しているのは、位階の話である。位階の交換が不可能となったということ。
P155 「仮面の真の効用は孤立にあるのではなく、儀式にあり、もし仮面が儀式の際に馴染みふかい期待どおりの仕方で活動すれば、仮面はまた人びとを安心させる効果をももつ。この場合、仮面は仮面の背後にある危険な権力と、仮面を見る者とのあいだに遮蔽物として立つのである。仮面はしかるべき扱いを受ければ、この危険な権力を、仮面を見る者から遠ざけておくことができる。仮面は危険を仮面自身のうちに集め、それを含んでおくことができる。」
P156−157 「かれらは未知のものを恐れる。かれは仮面をはぎとられるのを恐れる。かれが仮面に完全に没頭することを妨げるのが、この恐怖である。かれの変身はじつに大きな効果をあげるが、完璧ではない。仮面は変身に加えられた制限である。」
※未知のものとは、位階・秩序を揺るがすようなものを指す。
P157 「権力者は自らの胸中に秘めた敵意をつねに自覚しており、したがって擬装せざるをえない。だが、かれは擬装によってすべての者を騙しおおせるわけではない。同じように権力を望み、かれの権力者としての資格を認めず、自らからのライヴァルをもって任じている別の連中がつねに存在するのである。」

P165  「変身することなしには、かれは自らの食物を手に入れることはできなかったろうが、変身はまたかれに課された何か、かれが飢えを満たし満腹と平和を得たあとでさえ依然として課されつづけた何かであった。かれは、あたかもどこを見ても流転変転以外の何ものもないかのように感じ、かれ自身の存在が不断の流動状態のうちにあるのを感じた。そして、このことがかれの胸中に、変身の禁止によってしか満たされることのない、堅固さと永続性を求める衝動を喚起せずにはおかなかったのである。」
※いまいちピンとこない説明ではあるが、権力を求めるようになった、という言い方であればなんとなくわかる説明。
P167 「主人がかれの犬にその好きな獲物を勝手に追いかけることを許さず、何よりもまずかれ自身の利益にかなうような狩猟だけを認めるのと全く同様に、奴隷の主人は奴隷が次から次へと変身できないようにしてしまう。」
※教育はこのような奴隷制度の状態よりも巧みになされていたものと考えればよいのではないだろうか。単純な従属ではなく、主となるという幻想を与えるのである。

P253 「この位置感覚はパラノイア患者にとって基本的に重要なものである。権力者は自らの地位について抱く独特の感じは、パラノイア患者のそれと決して異ならない。……多くの点で脅威を感じているシュレーバーは、星辰にしがみついて離れない。」
シュレーバー症例の扱いがドゥルーズガタリと異なる。D/Gはスキゾフレニアの症例としているが、カネッティはパラノイアだとする。フロイトパラノイアと診断していたそうだが、スキゾフレニア的な要素もあったらしい。まあ詳しいことはよくわからない。
P271 「このパラノイア妄想の綿密な考察からさしあたり確実にひきだしうるひとつの結論がある。すなわち、パラノイア妄想においては宗教と政治が分かちがたく錯綜しているという事実である。世界の救済者と世界の支配者とは全く同一の人格にほかならない。それの核心においては、一切が権力渇望である。……われわれは、シュレーバーに類する症例において、パラノイア患者が自らの渇望する奇怪な地位を現実には手に入れなかったという事実に間違っても惑わされてはならない。他の者たちはそれを手に入れたのである。かれらのうちの何人かはその昇進の形跡を巧妙に拭い消し、その完成された体系を秘密にしておくことに成功した。他の者たちは運が悪かったり、そのための時間があまりになさすぎた。」

(考察)
○カネッティへの感想と考察
 私自身、あまり本書には期待せず、群衆の話を扱っている本として読みはじめました。上巻においては群衆の細かな話があり、あまり面白くありませんでしたが、下巻の権力の議論に入ってからは随分しっかり読んでました(上巻は下巻の5分の1位の労力しか使いませんでした)。下巻だけ読んでもあまり大きな差し支えはないかと思います。

 最終的な印象としては、ジラールドゥルーズと同じように、権力・欲望・精神分析という軸で議論されていた本ですが、両者以上に単純明快な説明であり、納得のいく点もとても多かったです。ただ、本書の終着点はあまり明るいものではなく、本書で問題提起されたものは解決不能なものとして扱ってる点に不満が残るかもしれません(カネッティの主張は「なんとかせねばならない」で終わっている)。一つのポイントは精神分裂病ドゥルーズのように、「二つの方向に分かれる」ものとして扱わず、ほぼ常に権力奪取、権力の転換という像で描いている点である。これはシュレーバー事例についてもいえる。精神分裂病パラノイアはD/Gにおいては分割して扱っていたが、カネッティにおいてはほぼ同義と言ってよい。これは、「逃走」というのを、外的脅威によるもので決して自発的なものではないと説明している部分とも密接に関連する(下p37−38)。
 そして、権力の扱い方についても、暴力との関連から話を進めており、ジラールのいうスケープゴートの話もよりわかりやすく理解できます。
 
 さて、棘の話であるが、これは自発的な服従を促す内面化の話と同義と扱ってよさそうである。この棘を取り除く方法として「群衆となる」ことと「他の者に対して同じ命令を課す」を挙げている点をどうとらえればよいか。二つ説明方法を考えてみる。
 一つは棘に内在されている権力構造の忘却を伴うことである。これはジラールの「悪い模倣」にも結びつく。この忘却と逃走というのは関連性が強いようだ。ただ、これはそれ自体だけでは構造そのものを転換しない可能性もまた存在する。この忘却は構造の転換の可能性もあるだろうが、ただただ忘却するだけに留まる可能性もある。
 もう一つは私を制約していたはずの棘が責任付与の対象として利用される可能性である。これは「他の者に対して同じ命令を与える」場合に想定可能である。棘はそれ自体で私にとってネガティブなものであったが、私が受けたのと同じ方法で他者にその命令を与える時、私がその命令を与えたことをより上の権力を持っていた者の責任に帰すことが可能だからである。私にあった棘を私自身が悪用(?)することで棘は取れるという説明である。

 本書でも「模倣」と「逃走(=変身)」という言葉が用いられている。
 「模倣」についてはジラールの用法と異なっており、ドゥルーズの解釈と同じだ。それは外面的な部分の一致だ(下p144-145)。そして、「変身」においては人間的なものであり、内面性に富んだものとして描かれる。そして、権力者は「変身」させないための手段として「模倣」を要求する。しかし、ジラールの模倣論はこの原則に則っていない。模倣もまた変身と同じように内面的な過程(主客未分の状態からの生成過程)を経ているものとして考えていた。また、ドゥルーズガタリも最終的にこのような混在状況を描いていた。だとしたら、この二分化をどう考えるか?

ドゥルーズにみる二分法の議論とその批判
 私自身は簡潔にこの両者を理念的なものとしてとらえるべきであると考える。しかし、ドゥルーズの議論においては、この二分にこだわる部分があまりにも多いことはこれまでも示唆してきた。
 「意味の論理学」で言えば、まずゲームの話である(「意味の論理学」上p113-116)。ここではルールに沿ったゲームのあり方を批判し、随時変更がなされるゲームを評価する。これを社会一般の我々の行動なりに結び付けて説明するとどうなるというのか?特に「社会ゲームのルール」に対する我々の理解というのは、部分的なものでありかつ明確な理解もあると考えるべきではない。むしろ我々は仮に(ドゥルーズが批判するような)何かに従属的な立場に立った上で行動しているにしても、逐一(今まで自分が認識していなかった)ルールを発見し、また無知さゆえに容易にルール改変も行いうる存在であると考えるべきではないか。このような状態においては、チェスだとかを想定したゲームのルールと同じような制約の議論を持ち込むことはできないだろう。
 次に「コピーとシミュラークル」の話である(「意味の論理学」下p139)。コピーは純粋な善き対象の「模倣」である。シミュラークルドゥルーズの説明からは実体がいまいち理解できなかったが、非相似性、倒錯、本質的な方向転換を含意したものとして扱われる。もし、コピーを模倣の話と同義にしてよいなら、すでに批判した通り、そのような模倣モデルは現実的ではない。
 最後にアンチ・オイディプスの話ではあるが、明確に部分指摘をするのが難しいが、資本主義の批判等をする際に類似の二分法が用いられているように思う。

 このような二分法を採用しなければいけなかった理由を考えることは簡単である。前回の議論と関連させればよくわかる。内面化やアーキテクチャからの逃走のためには「私」という観点からの否定が大きなキーポイントとなる。この「私」という観点を疎外する要素というのは、「私」による逃走の疎外要因となるため守らなければならない。ドゥルーズが批判を加えるものすべてはそのような疎外要因についてのものである。「私」とそれ以外を区別するためには二分法がどうしても必要なのである。
 しかし、この「私」だけではやはり不十分であることもドゥルーズはよく理解している。このためにアンチ・オイディプスではそれまでの議論が全て無駄になる可能性を許容しながら、「個人的無意識」から「社会的無意識」を繋ぐための方法を用いなければならなかったのだ。

 特にゲームに関する二分法については「社会的無意識」から我々を見ているような印象を強く受ける。ニーチェのいう社会における全ての要素を理解した立場から見れば、我々の行動は制約されたルールのもとで行動している存在のように見ることも可能であろう。しかし、これも疑問点となる。そのような目線に立ってなぜ物事の指摘をすることが可能なのか、という問題である。残念なことに、ドゥルーズはそのような目線を獲得した者の立場から、この二分法を用いてしまっているようにも見えてしまうのである。このような立場の取り方はニーチェなら超人というであろうが、なぜ神と呼ばないのかの理由が私にはわからない。ニーチェもまじめに読んだ方がよいのだろうか…

理解度:上★★★☆、下★★★★
私の好み:上★★☆、下★★★★☆
おすすめ度:上★★☆、下★★★★☆