ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」(1969)その2

 今回はアンチ・オイディプスと意味の論理学の比較を行ってみたいと思います。比較といっても、徹底的な比較をするときりがないので、部分的な言葉と人物に注目しながら、考察してみたいと思います。

メラニー・クライン引用の比較…オイディプスの部分的支持から非オイディプス
 両著書で参照されている人物において、大きく関係性が変化したのが、クラインといってもいいのではないのだろうか。
 「意味の論理学(LSと略す)」においては、ヘラクレス的な状態にいたるまでの説明、「深層」から「表面から表面への跳躍」への冒険の説明としてクラインは引用された。クラインはフロイトが見出したエディプス期以前にその素地が存在することを母子関係から見出した(前オイディプス期)が、このオイディプスに至る冒険についてドゥルーズは一度肯定的にとらえる。そして、問題を、その「ヘラクレスとしてのオイディプス」の脆弱さ、表面がいつでも深層に落ち込む可能性についての指摘をしたのである。
 しかし、「アンチ・オイディプス(AOと略す)」においては、クラインの議論はほぼ全て否定的な解釈を行っている。読書ノートで言えば、オイディプスについても(AO上p229−230)、去勢についても(AO下p150−151)否定的に解釈されているといえるだろう。

 引用から、ファルスについての見方も比較してみよう。
 「ファロスは表面の道具であって、攻撃欲動、悪しき内部対象、深層のペニスが母の身体に負わせた傷を修復するためのものであり、善き対象を安堵させ、立ち去らぬように説得するためのものである。」(LS下p47)

 「この共通な、超越的な、不在な何かは、ファルスあるいは法と名づけられ、それがシニフィアンを指示することになる。シニフィアンは、連鎖の総体に意味作用の諸効果を分配し、そこにもろもろの排他作用を導入するのである。まさにシニフィアンが、三角形化の形争因として作用し、つまりは三角形の形態とその再生産を可能にする。こうしてオイディプスは<3+1>の定式をもち、超越的なファルスという<一者をそなえ、これなしには当の各項は三角形を形成しえない。……採取や離脱のエネルギーとしてのリビドーが、離脱した対象としてのファルスに変換され、このファルスは、ただストックと不在という超越的形態においてのみ存在するからだ。この変換こそが、まさにあらゆる性愛をオイディプスの枠の中に陥らせる。」(AO上p142−143)

 両者の違いは「高所」の話に関連すると言ってよい。私自身がAOからLSを読んだ際に一番違和感を覚えたのも、実はこの「高所」という言葉であった。LSにおいては、表面の説明のために一度でも高所を知ることが必要であると考えられ、それがクラインの「善き対象」と結びついたのだが、AOについてはこれについても否定的にとらえるようになったのである。
 これは端的にクラインが「非オイディプス」ではなく、「前オイディプス」の議論を行っていることへの批判として現われる。欲望機械はそれぞれの部分が絶対にひとつの全体に統合することがない総和の中で作動する(AO上p82)。
クラインは部分対象を発見したものの、それを消費的観点から判断し、欲望的生産を把握し損ねており、彼女のいう部分対象が一つの全体に帰している(包括的性格をもつ人物から搾取されているように見える)と指摘するのである(AO上p86−87)。


モーリス・ブランショ引用の比較…裂け目をめぐる議論
 ブランショについては両著書において重要な位置を占めている。彼の死の議論は私自身よく分からないとAOレビューの際にも書いたが、LSでは大分意味がわかるようになった。
 LSでのブランショは読書ノートでは「上p263-264,p271、下p84-85,p111」で引用されるが、まず簡潔に身体的なものと非身体的なものの両義性として扱われ、「現前せず、過去と未来から切り離せない出来事としての死」と「最も辛い現在に到来して実現される人称的な死」という二つの死である(アイオーン的な死とクロノス的な死と読み替え可能なようにも思える)。
 そしてこの二つの死の解釈からは裂け目が生まれるという。

「沈黙の知覚不可能な裂け目が表面にあったのだ。それは表面の<唯一無比の出来事>、自己にぶら下がり、自己を見下ろし、自己自身の場の上を飛ぶ出来事である。真の差異は、内と外の間にはない。裂け目は内でも外でもない。裂け目は、境界にあり、無感覚で非物体的で観念的である。だから、裂け目は、内と外に到来するものと、衝突・交差の複雑な関係、リズムの異なる二つの歩調の間歇的合流の複雑な関係を持っている。」(LS上p269)

 この裂け目はリスクを伴うものであるが(LS下p62-63)、それでも望ましいものであるとする。その理由については、「おそらく、裂け目を通って裂け目の緑でだけ思考してきたからであり、人類において善良で偉大であったことはすべて、自己破壊を急ぐ人びとにおける裂け目を通って出入りするからであり、われわれが勧誘されるのは、健康よりは死であるからである。」とする(LS上p279)。非常にわかりやすいドゥルーズの「賭け」の部分である。この健康はニーチェの健康に対する見方を参照していると言っていいだろう(LS上p301)。結局この裂け目がアルトーとキャロルの架橋としてとらえられたのだ。

 しかし、AOにおけるブランショというのは、やはりよくわからなくなってくる。ブランショはクラインが見出した部分対象の問題を起源的な全体性に依拠することなく、諸断片の生産について問題提起した人物とされる(AO上p83)。あらゆる生成は死への生成であり(AO下p213)、器官なき身体は死のモデルであり(AO下p210)、そして欲望機械の循環の中では、死のモデルを、死の経験というまったく別のものにたえず翻訳し、転換することが重要であるとする(AO下p211)。何故ブランショの言う「死」の議論が分かりづらかったのか。それは、この「死」の概念が欲望機械や器官なき身体の概念と「くっついて」いたからである、といってよいのではないか。これらの概念に結びつくことで、「死」の議論というのは回避が不可能となったのである。LSにおいてはそれを選択の問題として扱う余地があるようにも読めたが、AOにおいては選択の余地を見出すことができなかったのだ。私が「生」の問題に違和感を覚えていることは過去に述べたが、AOでも同じような違和感を覚えたのである。これは端的に言えば、AOの欲望をめぐる議論自体が不可避のように読めるということとリンクしている。


ニーチェ引用の比較…無意識の文脈に注目しながら
 最後にニーチェである。クラインは具体的な手段を、ブランショが抽象的な方法のための引用とするなら、ニーチェは目的を提示するための参照先となっており、両著書において共通の目標と言ってもいいのではないだろうか。
 その姿勢は基本的に変わらないかと思うが、AOについては十分に意図が拾い切れていない。ブランショ同様、LSと比べればぼかされているような印象がある。LSでは上p195の超人への言及がやはり重要かと思う(読書ノート参照)。

 「ニーチェをこういう歴史の中に巻き込むのは誤りだろう。なぜなら、ニーチェは、父の死を反芻し、その死を内面化するために、おのれの旧石器時代の全部をすごすような人物ではないからである。むしろ逆である。ニーチェは、父の死や神の死をめぐって作られたあらゆる歴史〔物語〕には心底から厭き厭きして、こういった主題に関する終わりなき言説に終止符を打とうとする。」(AO上p204)
 「ただし、ニーチェがいいたいのは、次のことではまったくない。彼は、(※フロイトの言うように)神の死が無意識の中にまで達するには長い時間がかかる、といいたいのではない。彼がいいたいのは、無意識にとって神の死はどんな重要性ももたないという知らせこそが、意識に到達するのに時間を要するということなのである。」(AO上p205)

 さて、ここでポイントにしたいのは、この「無意識」という言葉の用法である。この無意識の用法は精神分析の話でもかなりめんどくさい概念であるように感じている。そこで、私の方で二つの無意識を定義して、それをベースに議論したい。

・「個人的無意識」とは、個人の記憶から引き出されているものであるが、それが断片化され、他の記憶とランダムと呼んでいいレベルで結びつくことのできる意識の領域を指す。村上靖彦のレビューで取りあげたナラティブ・セラピーの話もこの領域を介する例といえるだろう。私自身が語る言葉の中には一定の志向性をもっていないようなノイズが存在することがある(夢もまたその一つといっていい)。そのようなノイズの総称と考えている。フロイト的無意識と呼んでもいい。
・「社会的無意識」とは、社会を構成するための道のりとしてあったものを断片化したものである。例えば、ある制度にはそれを定めるまでの(合意形成などの)プロセスがあったと考えられるが、通常そのようなプロセスは明示されることがなく、インフォーマルな言説空間をさまよう。このため、我々がその制度を受容する時にはそのような文脈を知らない状態で受け入れることが多いといえるだろう。このズレにあたる部分が社会的無意識の領域である。これをニーチェ的無意識とも呼びたい。
 この両者の関係は基本的には「社会的無意識」が「個人的無意識」を内包していると考えてよいだろう。

 この2つの定義を行った意図は「無意識」という言葉によって我々が思考停止してしまう状態を防ぐためである。今後「無意識」の用法を調べる意味で別の本も読むつもりですが、思考停止による両無意識概念の同一視に問題があるのではないか、という可能性を検討します。
 今回、無意識の用法を検討したのはAOのみでしたが(時間の制約上)、この二つの定義づけの方法を行っても、矛盾することはなかったように思います(そういう意味でD/Gの無意識の用法を私自身は信頼しています)。そして、D/Gの議論は個人的無意識の話から、社会的無意識の議論へと展開していくように思えます。いくつか引用します。

「欲望機械は、無意識の根底でとどろき唸りをあげている。イルマの注射、<狼男>のチック・タック、アンナの咳き込み機械、そしてまた、フロイトが組み立てたあらゆる説明装置、これらはすべて神経生物的な欲望機械なのである。生産的無意識のこうした発見は、二つの相関項をもっているようだ。まずこの欲望的生産と社会的生産の間、症候学的組織体と集団的組織体との間には直接的な対決があり、これらは本性を同じくしながらも、同時にその体制においては異なっている。他方で、社会的機械は欲望機械に抑制を及ぼしており、無意識の抑圧は、この社会的抑制と関係をもっている。ところが、オイディプスの主権が確立されるとともに、こうしたことはすべて見失われ、あるいは少なくとも奇妙な形で妥協させられることになる。自由連想は、多義的な接続に対して開かれる代りに、一義性の袋小路の中に再び閉じ込められる。あらゆる無意識の連鎖は、一対一に対応させられ、線形化されて、専制君主シニフィアンの下に吊り下げられることになる。」(AO上p104-105)
 ここでは個人的無意識の議論がなされているといえるが、オイディプスの主権の確立は無意識の本来あるべき状態を操作することになる(村上靖彦の「治療」の話と同じような仕組みがそこにある)。

「侵犯、罪責感、去勢、はたしてこういったものは無意識の規定であるのか、それとも聖職者のものの見方にすぎないのか。無意識をオイディプス化し、これに罪責感を与え、これを去勢するためには、おそらく、精神分析以外にも、別の諸力が働いている。ところが、精神分析はこうした動きを支え、最後の聖職者を生み出している。オイディプス的分析は、無意識が行うあらゆる総合に対して超越的使用を押しつけ、これは無意識の総合を確実に変質させるのだ。だから、分裂分析の実践的課題とは、この変質を逆転して、もとに戻すことである。つまり、無意識の総合作用が、内在的に使用されるようにすることである。脱オイディプス化すること、父—母の蜘蛛の巣を破壊すること、信仰を打ちくだき、欲望機械の生産と経済的社会的備給に到達することである。」(AO上p214-215)

「分裂分析はあらゆる解釈を放棄する。なぜなら、それは無意識の材料を発見することを、断乎として放棄するからである。つまり無意識は何も意味しない。反対に、それらは諸機械を構成している。それは欲望の機械なのである。分裂分析は、これらの欲望の諸機械が社会諸機械に内在しながら、いかに使用され、いかに作動するかを発見する。無意識は何も語らず、機械として作動する。」(AO上p341)

「前意識的革命の場合においては、切断は二つの社会体の間に存在して、革命的社会体は、新しいコードや利益の新しい公理系の中に欲望の流れを導入する能力によって評価される。無意識的革命の場合、切断は社会体そのものの中にある。この社会体は、肯定的な逃走線にそって欲望の流れを交通させる力をもち、また生産的切断の切断にしたがって欲望の流れを裁断し直す力をもつからである。分裂分析の最も一般的な原理は、欲望が常に社会野を構成するということである。あらゆる点で、欲望は下部構造に属しているのであって、イデオロギーに属しているのではない。生産が、欲望的生産として欲望の中にあるのと同様に、欲望は、社会的生産として生産の中にあるのである。」(AO下p244-245)
ここで、「無意識」と比較対象とされているのが「前意識」だが、無意識のような欲望的生産を持ち合わせていない意味で前意識は批判の対象となっている。

「つまり、ある集団は階級の利害とその前意識的備給の観点からは革命的でありうるが、しかしそのリビドー備給の観点からは革命的ではありえず、ファシズム的警察的なままのことさえある。現実に革命的な前意識的利害は、必ずしも同じ性質の無意識的備給を含んではいない。利益にかかわる装置は、決して欲望の機械として働くわけではない。」(AO下p245-246)
「階級は「系列的」にとどまり、党や国家によって代表される。二つは同じ尺度に属していないのである。なぜなら階級利益といったものはモル的な大集合の次元にとどまっている。これはただ集団的な前意識を規定するだけで、前意識は必然的に判明な意識において表象されるのである。この水準において、意識が裏切るか裏切らないか、疎外するか疎外しないか、歪曲するか歪曲しないか、これはまったく問う余地のないことである。これに対して真の無意識は集団の欲望の中に存在し、この欲望は欲望機械の分子的次元を活動させるのである。問題はまさにここに、集団の無意識的な欲望と階級の前意識的利益の間にあるのだ。」(AO下p82-83)
 ここで言えそうなのは、「前意識」的革命にできることが、すでにある秩序をミックスすることで組み替えることはできるが、それ以上のことはできない、ということである。これを可能にするのは欲望であり、「無意識」なのである。

 このような無意識の議論が行き着くのは、ニーチェのいう超人思想となるが、このような無意識は、私がナドーをレビューの際に、その意味がわからないとした「メランコリー」の議論を全てカバーしているものであるといえるだろう。ナドーの議論におけるメランコリーは「積極的な忘却」であり、「全面的な忘却」であり、「忘却による痛みを伴うもの」であると定義した。ニーチェ的無意識というのは、これらの忘却を網羅していることでノスタルジーを克服できる。そして、この無意識への着眼というのも、メランコリーの実践の方法をいくらか示唆しているともいえる。

 しかし、ニーチェ的無意識に到達するためには、フロイト的無意識だけでは不十分なのである。フロイト的無意識は基本的個人間関係の中から見出されるものであって、そこにはニーチェ的無意識に開かれた領域も確かにあるが、不十分なものなのである。これは、感覚的にはあたりまえの話で、個人的無意識のベースは個の記憶にあり、その記憶の外側にまで広がっている訳ではない。ただ、外側に開いているにすぎない。実際に外側を進むためには、別の原理が必要なのである。
 思うに、ドゥルーズガタリが、否定的に思えるような形で、分子的組織体とモル的組織体、分裂病パラノイアを結び付けたこと(AO下p230)はこの原理を説明しているのではなかろうか。この融合は肯定的に導入されているようにも見えないが、それでも個人的無意識と社会的無意識を繋ぐためには回避することができない考え方なのである。欲望機械は社会的機械と結びつく中で社会の記憶を吸収していくのである。

「ここで同時に二つのことを言わなければならない。まず技術的社会的機械とは、欲望機械が、歴史的に規定されたモル的状態の中に結集したものでしかないということである。次に、欲望機械とは、社会的機械と技術機械とが、欲望機械の分子的状態に戻されたものであり、この分子的状態こそが他を規定するのである。」(AO下p334)

 しかし、何故無意識だけが望ましいのか、に答えたことになっているといえるのだろうか?ここに潜んでいるのは、基本的に循環的なモデルであって、意識からアプローチすることと何が違うのかがよくわからない。これは、なぜAOで資本主義が批判の対象になるのか、とも結びつく。LSにしても、AOにしても二項対立的な描写から結局両者を関連付ける手法は同じように見える。この二項対立的な考え方に対する批判は次回に持ち越したい。


○受忍の問題の再考…「規律訓練型権力」と「環境管理型権力」の話に戻ってみる
 最後にドゥルーズの議論から距離を置いて、改めて問題の所在を確認してみます。
 もともとは自発性の問題をめぐる議論をこのブログでは展開してきました。そして、さしあたり問題としてきたのは「受忍」をめぐる議論でした。より具体的には、支配的なものに対する不満があったとしても、それを受け入れるのは何故か、という問題です。
 メラニー・クラインの話を少しまとめてみよう(注1)。クラインは「善き対象」と「悪い対象」の議論をフロイトオイディプスの前段階の話として持ち込んだ。これは、「善き対象」としての乳房と「悪い対象」としての善き乳房の不在をめぐるジレンマであり、最終的に善き乳房の不在というのは、自分のせいだという罪悪感から受容していくというものであった。これはある意味理にかなっているものである。前々回、クラインの話を三角形モデルとして乳児(主体)、母(媒体)、母の乳房(対象)と描いたが、この三角形は実際には成立するとは考えづらい。なぜなら、乳児にとって「母」と「母の乳房」を別物としてとらえることはおそらくできないからである。この両者は同一視されており、媒体を構想できない。このジレンマの解決を第三者のせいとしてとらえることはできない。乳児には二者関係しか見えていないからである。結果としてジレンマの解決は代替物による補完(ex.おしゃぶり)か自分の非として説明する可能性しかないのである。
 クラインの説明はフロイトの「トーテムとタブー」における原父の殺害の話にも一致する。ここには確固たる三角形があるが、父の不在によって母を獲得しようとしなくなるのは、父への愛着や殺害の罪悪感から説明される。クラインも受忍についてはこの愛着・罪悪感を経由したものとして説明する。
 しかし、現代的な受忍をめぐる問題を考えるのであれば、このような受忍方法の話だけでは不十分だろう。それが「規律訓練型権力」と「環境管理型権力」をめぐる問題ではなかっただろうか。両者の違いは暴力の有無というよりかは内面化過程の有無によるものだ。この内面化はまさにクラインやフロイト的なものを経由したものであるといえる。では環境管理型権力における受忍とは何なのか?

 これはレッシグの所で議論したアーキテクチャの問題として扱うことができるものだった。その受忍は完全性を持っているとは言い難いが、内面的なものとは異なった物理的制約や専門性の問題によって、受忍を強制することであった。
 おそらく、非難されるべき受忍の議論は、フロイトが本来言っていたような形での受忍の領域を超えていると考えてよさそうである。ただし、その結果として現われる、D/Gを支持した考え方というのは、このような物理的制約、専門性は解除されるべきだ、という主張なのではないか?専門性が障害となる場合は、それを排除せよと言っていることになる。

 もう少し具体的に、何を非難しているのかに注目しながら考えてみる。内面化の話においては、クラインとフロイトの話は少し異なるように思える。クラインの「善き対象」と「悪い対象」というのは、かなり具体的なものであり、しかもこの議論では「善き対象」が不可避的に善いものとみなしやすい。なぜなら、それは自らの生に限りなく直結しているものだからだ。善き対象を回避することは、その意味で用意されているとはいない。ジレンマ状態が続けば、悪い対象も含んだ形での受忍をしないといけない。
 しかし、フロイトが「トーテムとタブー」で言う受忍は少し目線が異なる。三角形的関係における父というのは象徴的な原父であり、トーテミズムにおいては、民族文化ごとに、それが自然的なものに対してであったり、動物であったりに結びつけられ、いわばそのものが神格化している。トーテミズムにおいては、同じトーテム集団に属する者の婚姻は禁じられ、他のトーテム集団と婚姻する必要があるのである。ただ、これは結局同じトーテムに属しているものは全て神格化されている「原父」の所有物であり、その成員である私が所有することができない、という論理と解せないか。このような前提の上で、このタブーを冒すリスクというのは、むしろ文化的な制裁ではないだろうか。クラインのような場合と比べれば、生命の危機はいくらかやわらぐように思う(恐らく真に逃走したいと思えば、それは不可能ではない)。

 おそらく「規律訓練型権力」と「環境管理型権力」を逃走との関連で議論した場合、前者は逃走することは不可能ではないだろう。しかし、後者についてはほとんど不可能である。まさに逃げ道を想定することが不可能になるのである。そして専門性をめぐる議論における「NO」という意志は、おおざっぱに(ベックのいうように)同じ専門性の議論をしながら行うか、専門性そのものを否定することからはじめるしかない。

 ここで、ナドーのレビューで指摘した「D/Gの言いたいこと」と「実際に言っていること」のズレを説明することができるようになると思う。「D/Gの言いたいこと」において、このアーキテクチャの議論は単なる否定に留まらない、ベックのような議論に平行して語ることが可能である。しかし、実際に言っていることは単純な否定である。この違いは社会的無意識の域まで達することができるか、個人的無意識の議論に留まるか、の違いとして説明可能である。そして、個人的無意識に甘んじる、ないし無意識の操作を受けることで、社会的無意識に到達できないリスクは多大にあるものと解せる。アンチ・オイディプスにおいては全面的ではないが、意味の論理学においてはしばしば表面(純粋な出来事)の脆弱性が指摘されることで、この問題が指摘されてきた。

 これは「私」の意識の問題からも考えられる。とりわけ「トーテムとタブー」の議論における内面化回避のために必要だったのは、この「私」が私をとりまく「文化」を徹底的に否定する必要があった。専門性の議論においては科学という合理性の下に作用しているので、別の可能性として同じ科学を語る可能性もあるが、専門性を介在した、強制力のある合理性に対し「私」がNOという必要がある。では、ドゥルーズがこの「私」を強調しているのかというとそうではない。むしろ社会的なものと私が混在したものといってよいだろう(AO下p334など、LS上p186-187,p263-264あたり参照)。確かに言いたいことは「私」の議論のみではないだろう。

 この「私」の強調を避けるような形においてAOは徹底している。AOでは「欲望すること」を絶対的に存在するものとしてとらえてはいないが、まるでそれが不可避であるような語り方を巧みに行っている。これは「私」に還元されないような語り方であり、一度はそのような還元を行おうとしたLSの語り方からは一段階進化しているともいえる。が、その分わかりづらい部分も多いといえる。意味の論理学は相対的にわかりやすい。
 私自身もここまで関連づけて議論できるとは思ってなかったので、随分深く考察したくなってしまった。ここでD/Gの話は一旦終わりにして、今後「千のプラトー」でこの話がどう変化したかまではみていきたい。

理解度:★★★★
私の好み:★★★★
おすすめ度:★★★★


(注1)以下の説明では、妄想—分裂ポジションにおいて語られるような父親のペニスの話だとか排泄物の話は、私の理解の追いついていない部分なので、除外している。差し当たって、大倉得史「育てる者の発達心理学」(2011)で語られている程度のクラインに関する記述を行う。