ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」(1969)その1

 今回もドゥルーズを読みます。
 最初読んでいた際はノートがこれの3分の1程度だったのですが、もう一度読み返した所、現在の分量になり、更に増え続けそうだったので、今回については、途中でノート作り自体はあきらめています…
 また、今回はジラールとの比較を中心に考察をしようかと思いましたが、あまりに内容が濃かったため、2回に分けて、前半では本書の内容をまとめていくことに専念していきます。他書との比較等は次回に持ち越しです。
 今回も河出文庫版を使用しています。

(読書ノート、上巻)
p15−16 「生成することの固有性は、現在から逃れることである。生成することが現在を逃れる限り、以前と以後、過去と未来の分離や区別を、生成することが背負い込むことはない。一回で二つの方向〔=意味〕へ行くこと、射ることが、生成することの本質である。」
p17 「純粋な生成、限定されないものは、イデアの作用を逃れる限りで、また、モデルとコピーに同時に反抗する限りで、シミュラクルの物質である。」

☆p22 「あらゆる物体は、別の物体との関係では別の物体に対する原因であるが、何の原因なのか。物体は、一定の事物の原因、まったく別の本性のものの原因である。その効果〔=結果〕は、物体ではなく、正確に言うなら「非物体的」なものである。効果は、物理的形質・特性ではなく、論理的ないし弁証論的な属性である。効果は、事物や事物の状態ではなく、出来事である。効果が実在すると言うことはできないが、効果が存続するとか存立すると言うことはできる。」
p23−24 「物体の中に、物体の深層の中にあるものは、混在である。物体は、別の物体のあらゆる部分の中で共存する。……しかしわれわれが、「拡大すること」「減少すること」「赤化すること」「緑化すること」「切ること」「切られること」などで言いたいことは、まったく別の種類のことである。もはや事物の状態や物体の底での混在のことではなく、混在に由来する表面での非物体的な出来事である。」
p24−25 「非物体的な結果は、別の非物体的な結果に対しては、決して原因ではなく、単に「準—原因」である。各場合において、非物体的な結果は、リアルな原因としての物体の相対的統一性や混在に従属しているが、おそらくこの物体の相対的統一性や混在を表現する法則に従っている。」

p51 「意味は、まさしく命題と事物の境界である。意味は、このような何かであり、同時に外ー存在かつ存立であり、存立に相応しい最小の存在である。この意味において、意味は「出来事」である。出来事を、事物の状態の中での出来事の空間的—時間的実現と混同しない条件で。したがって、出来事の意味は何かと尋ねてはならない。出来事は、意味そのものなのである。」
p52 「明確に認められるが、全論理学的作品は、直接的に意義に、すなわち含意と結論に関与していて、間接的にしか意味に関与していない。間接的にとは、意義が解消しないパラドックスや意義が創造しさえするパラドックスを媒介にしてということである。反対に、幻想的作品は、直接的に意味に関与し、パラドックスの力能を直接的に意味に関係付ける。」

p62—63 「意味とは、可能な指示の操作を遂行し、可能な指示の条件を思考するためにも、私が既に据えられている球面のようなものである。意味は、私が話し始めるや常に前提とされている。この前提がなければ、私は始めることはできないだろう。別の言い方をするなら、私は、私が語ることの意味を語ることは決してしない。しかし、その代わりに、私は、私が語ることの意味を、別の命題の対象として据えることは常にできる。今度は、私は、その命題の意味を語らないわけだが、こうして、私は、前提とされるものの無限後退に入り込む。」

p113−114 通常のゲームのルール…(1)規則の集合が、ゲームの実行以前に存在し、ゲームが為されるなら、定言的な価値を持つことが必要(2)規則が決定するのは、偶然を分割する仮説、失点と得点の仮説である。(3)仮説は、複数の指し手を基礎にゲームの実行を組織する。(4)指し手の帰結は「勝利か敗北」の二者択一に向けて整理される。
☆P115−116 異常なゲームのルール…(1)先在する規則がなく、指し手ごとに規則が発明され、指し手が当の規則に書き込まれる(2)指し手の集合が、全体として偶然を肯定し、絶えず偶然を各指し手へ分岐させる(3)指し手は、リアルにも数的にも区別されない。質としては区別されるが、存在論的には同じ(4)規則なきゲーム、勝者も敗者もいないゲーム、責任なきゲームこのようなゲームは理念的なゲームである。思考されるしかないし、無—意味として思考されるしかない。理念的なゲームは純粋思考の無意識である。
P123−124 「アイオーンこそ、理念的なプレイヤーあるいはゲームである。……アイオーンは、精確には二つの図表の境界であり、二つの図表を分離する直線であるが、二つの図表を連節する平坦な表面、不可入な硝子や鏡でもある。だからこそ、アイオーンは、セリーを横切って循環し、絶えずセリーを反転させて分岐させ、一つの顔の下では、唯一の同じ出来事を命題の表現可能なものにし、もう一つの顔の下では、事物の属性にする。」

P127−128 「先ず、空白の語は、任意の秘教的な語(それ・物・スナークなど)によって指示される。この空白の語や一階の秘教的な語の機能は、二つの異質なセリーを調整することである。次いで、秘教的な語の方は、カバン―語、つまり、セリーを分岐させる機能を持つ二階の語によって指示されうる。これら二つの位階に対応して、二つの異なる姿形がある。」
p128 第一の変形。「われわれの知るところでは、意味を授けられるすべての名前の標準的な法則は、まさしく名前の意味は別の名前によってのみ指示されうるということである。自己自身の意味を語る名前は、無—意味以外ではありえない。無—意味は語「無—意味」と一体をなし、語「無—意味」は、意味のない語、言いかえるなら、無—意味を指示するために慣習的に用いられている語と一体をなす。」
p134—135 「反対に、構造の観点からするなら、意味は、いつでも余分にある。自己自体を欠く無—意味が、過剰を生産し、過剰を過生産するのである。ヤコブソンの定義によると、ゼロ音素は、いかなる一定の音韻価も所有しないが、音素に対立するのではなく音素の不在に対立する。それと同じように、無—意味は、いかなる特定の意味も所有しないが、それが過剰に生産する意味に対立するのではなく意味の不在に対立するのである。そして、無—意味は、そう望まれがちではあるが、その生産物と単純な排除関係を保ちはしない。無—意味とは、意味を持たないものであるが、同時に、そのままで、意味の贈与を遂行することで意味の不在に対立するものである。そして、無—意味で理解されるべきは、このことである。」

p166 「それゆえに、分裂病の言葉を、シニフィアンのセリーがシニフィエのセリーの上を絶えず動転して滑っていくことと定義するのでは、まったく不十分であると思われる。実際、もはやまったくセリーはないのであり、二つのセリーは消えたのである。無—意味は表面で意味を贈与するのを停止した。無—意味は、シニフィアンの側でもシニフィエの側でも、すべての意味を吸い込んで呑み込む。アルトーが語るところでは、無—意味である<存在>には歯がある。第二次と呼んだ表面の組織の中では、物理的物体と音響的語は、非物体的な境界によって分離されて連節される。そうして、意味は物体の能動と受動から由来するものの、意味は、能動でもなく受動でもなく、能動と受動とは本性的に異なる成果となって、物理的物体と混同されないように言葉の音を保護するのである。反対に、分裂病の第一次的秩序の中では、物体の能動と受動の二元性しかなく、言葉は同時に能動と受動となって大きく開いた深層へ吸い込まれてしまう、」
p169−170 「註釈者だけが次元を変えることができるわけだが、それこそが、註釈者の最大の弱みであり、註釈者がどの次元にも住んでいないことのサインである。キャロルのすべてを引き換えにされても、われわれはアントナン・アルトーの一頁も与えないだろう。」

p173 「出来事は、物体の能動と受動とは別の本性である。ところが、出来事は、物体の能動と受動からの成果である。意味は、物体的原因とその混在の効果である。こうして、意味が原因によってくわえ取られるリスクが常にある。意味が自らを救い出すのは、また、意味がその還元不可能性を擁護〔=肯定〕するのは、因果関係に原因と結果の異質性が含まれている限りにおいてである。……すなわち、出来事は二重の原因性に服しており、一方では出来事の原因である物体の混在に、他方では出来事の準—原因である別の出来事に服している。」
p180−181 「本当は、内在的な準—原因から出発する意味の贈与と、命題の他の次元に対して引き続く静的発生は、超越論的な場においてしか為されえないのである。……すなわち、綜合的な人称的意識の形態も主観的同一性の形態も持たない、非人称的な超越論的場に呼応しているだろう。そこでは、主観は常に構成されるものである。基礎が、基礎が設立するものに似ていることなど決してありえない。基礎について、それは他の歴史であると語るだけでは十分ではない。基礎は、他の地理である。ただし、別の世界というわけではない。」
p181 「では、超越論的な場は、姿形も差異もない底-無し、分裂病的な深淵ということになるであろうか。超越論的な場の表面の組織から始めるなら、そういうことにはならない。」

p186−187 「われわれが規定しようとしている非人称的で前—個体的な超越論的場は、対応する経験的な場に似てはいないし、しかしまた、未分化の深層と混同されない。超越論的な場を、意識の場として規定することはできない。……意識は統一化の総合がなければ何ものでもないし、<我>の形態や<自我>の観点がなければ意識の統一化の総合もない。反対に、個人的でも人称的でもないものは、特異性の放出である。その際には、特異性の放出は、無意識の表面で起こり、ノマド的配分による自己—統一化に内在的な可動的原理を有している。このノマド的配分は、意識の総合の条件である固定的で定住的な配分から根本的に区別される。特異性は、真の超越論的な出来事である。……特異性は、個人的・人称的であるどころか、個体と人格の発生を取り仕切る。」
☆p195 「この新たな言説の主体はと言えば、もっとも、もはや主体などではないのだが、それは、人間や神ではなく、なおさら神に代わる人間でもない。それは無名のノマド的で自由な特異性であり、それは人間・植物・動物の個体化の質料と人格性の形態から独立に人間・植物・動物を駆け巡る。超人とは、他でもなく、存在するものすべての高次のタイプである。」
※神であることは否定されているものの、これを神と呼んでも悪くない気もする…

p222 「しかし、表面の物理学には、必ず形而上学的な表面が対応している。一方では、総体として捉えられたりそれを包み込む限界内部で捉えられたりする物体、他方では、任意の命題、これらの間に作り出される境界のことを、形而上学的表面(超越論的場)と呼ぶことができる。後に見るように、この境界は、表面に対して一定の音の特性を含んでいて、この特性によって、言葉と物体、物体的深層と音の連続体を区別する割り振りが可能になる。」
p223 「こうして、意味は、命題の中に存続する表現されるものと物体の状態にやって来る出来事として、表面で二つの側に同時に配分される。この生産が破産するとき、表面が鉤裂けや爆発で破れるとき、物体は深層に落下し、すべては無名の脈動に落下する。そこでは、語そのものが身体の情動以上のものではなくなる。意味の第二次的組織の下で唸っている第一次的秩序である。反対に、表面が持ちこたえる限りは、意味は、表面で効果として広がるだけでなく、表面に結び付けられている準—原因を分有する。そして、今度は、意味が、個体化を生産し、物体と物体の混在とを計測して決定する過程で引き続くすべてのものを生産する。なた、意義を生産し、命題と命題に指定される関係を決定する過程で引き続くすべてのものを、つまり、第三次配列のすべて、あるいは、静的発生の対象を生産する。」

p226 「高所とは、まさにプラトン的なオリエントである。そして、哲学者の為す操作は、上昇・転向として、言いかえるなら、運動が由来する高所の原理の方へと自己を向ける運動として、その運動のおかげで自己を決定し自己を満たし自己を認識する運動として決定される。哲学と病気を比較してはならない。むしろ、まさに哲学的な病気がある。観念論は、プラトン哲学に生まれつきの病気であり、その一連の上昇と下降によって、哲学そのものの躁—鬱的形態である。躁がプラトンを刺激し指導している。」
p226 「ニーチェは思考と方角決定の問題のすべてを問い直す。別の次元に従ってこそ、思考活動は思考の中で産出され、思考者は人生の中で産出されるのではないのか、と。」
p228−229 「ニーチェが深層に再会したのは表面を獲得しながらのことであった。ところが、ニーチェは表面にとどまらない。ニーチェには、表面が、深層の眼によって更新された観点から裁かれるべきものと映るからである。」
p230 「深層も高所もない、これがすべての思考と思考の何たるかの再—方角決定である。……そこでの変わらぬ眼目は、イデアを解任すること、非物体的なものは高所にではなく、表面にあることを示すこと、非物体的なものは最高原因ではなく優れて表面的な効果であると示すこと、非物体的なものは<本質>ではなく出来事であると示すことある。」
p234 「前ソクラテス的な者とプラトンに対抗するストア派の大発見は、高所と深層から独立し、高所と深層に対抗する、表面の自律である。すなわち、深くの物体にも高くのイデアにも還元不可能な、非物体的な出来事、意味や効果の発見である。到来するすべて、また、語られるすべては、表面に到来し、表面で語られる。」
ヘラクレスの話もこれと同旨(p232−233)。

P263−264 「あるいはむしろ、出来事の現在とは、出来事を表象する動的瞬間の現在、常に過去—未来に二分され反—実現と呼ぶべきものを形成する現在にほかならない。……人生は、私とは無関係に、現在として確定可能な時期とも無関係に、未だー未来と既にー過去に二分される非人称的な瞬間とだけ関係して、至る所にその特異性を投げるからである。この両義性が、本質的に傷と死の両義性、致死傷の両義性であることを示したのが、モーリス・ブランショにほかならない。死は、私や私の身体と極限的ないし確定的な関係にあるもの、私の内に設立されるものであり、同時に、私と無関係であるもの、非身体的で不定で非人称的なもの、それだけで設立するものである。」

P271 「いかに合流が緊密であっても、本性を異にする二つの要素、二つの過程がある。すなわち、一つは、表面の沈黙した非物体的な直線を伸ばす裂け目と、もう一つは、裂け目を曲げ、裂け目を深くし、裂け目を身体の奥に刻み込んだり実現したりする、騒々しい外からの打撃と内からの圧力である。これは、ブランショが区別していた、先ほどの死の二つの相ではないだろうか。」
P275 躁鬱の話:「すなわち、アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、複合過去しか持たないのである。ただし極めて特殊な複合過去である。アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。……これが、二つの時期の交接を表現し、アルコール飲みが躁的な全—能性を享受しながら一方の時期を他方の時期の中で経験するやり方を表現する。」
☆P279 「裂け目が何らかの形態で身体に受肉したり身体で実現したりしないようにできるかという問いを、一般規則によって決裁できないのは明白である。身体が裂け目の危険に曝されるのでなければ、裂け目など言葉にすぎない。……何故、健康だけでは十分ではないのか、何故、裂け目が望ましいのかを、われわれが問い尋ねられるとすれば、それは、おそらく、裂け目を通って裂け目の緑でだけ思考してきたからであり、人類において善良で偉大であったことはすべて、自己破壊を急ぐ人びとにおける裂け目を通って出入りするからであり、われわれが勧誘されるのは、健康よりは死であるからである。」

p286 「この意味で、クロノス的現在の二つの面、つまり、絶対運動と相対運動、大域的現在と部分的現在に対応して、クロノスは現在の冒険を表出するのである。すなわち、一方では、クロノスが破裂したり収縮したりする限りでは(分裂病の運動)、深層のクロノスに関連する冒険を表出し、他方では、錯乱した未来と過去に応ずる際には(躁鬱の運動)、クロノスの多かれ少なかれ広大な延長に関連する冒険を表出する。」
p292 「たしかに、瞬間が現在を絶えず未来と過去に分割するので、アイオーンにはまったく現在がないように見えることだろう。しかし、それは外見にすぎない。出来事において過剰であるものは、廃墟化されずして実行されることもありえないが、それでもやはり、完了されているはずである。クロノスの二つの現在、根底からの転覆の現在と形態への実現の現在の間に、第三の現在があるし、アイオーンに属する第三の現在があるはずである。」
p293 「アイオーンの現在は、純粋な操作の現在であって、合体の現在ではない。アイオーンの現在は、転覆の現在でも実現の現在でもなく、反—実現の現在であって、実現が反—実現を覆すのを妨げ、反—実現が実現と混じり合うのを妨げ、裏地を付け替えにやって来る。」

☆P299—300 「一般規則としては、二つの事物が同時に肯定されるのは、両者の差異が否定され内側から削限される限りにおいてだけである。ただし、この削除の水準においては、差異の生産と差異の消滅が統御されると見なされるのである。たしかに、この場合、同一性は無差異の同一性ではないが、一般に、同一性によって、対立するものは同時に肯定される。その際には、対立するものの一方が深められて他方が見出されたり、対立物の総合へと高められたりするわけである。」
p301 「ニーチェは、健康が病気に対する生きる観点になり、病気が健康に対する生ける観点になるように、健康と病気を生きることを勧める。……健康で病気を肯定し、病気で健康を算定するこの方式こそ、まさに<大いなる健康>ではないだろうか。これによって、ニーチェは、まさに病気であるまさにその時期に、高次の健康を経験するようになる。逆に、ニーチェが健康を失うのは、病気である時ではなく、もはや隔たりを肯定できなくなるとき、自身の健康を通して、病気をもはや健康に対する観点にできないときである。」


(読書ノート、下巻)
p31−32 「善き対象は、本性的に、失われた対象なのである。言いかえるなら、善き対象は、最初の一回目から、既に失われたもの、失われてしまったものとしてのみ出現し現出する。」
p33 「したがって、善き対象によって決定される躁—鬱態勢は、パラノイア分裂病態勢の中に挿入されると同時に、あらゆる種類の新しい特徴を提示する。もはやシミュラクルの深層世界ではなく、高所のイドラの世界である。」
p35 「言葉の形成の第一段階を保証するのは、抑鬱態勢の高所の善き対象である。というのは、この善き対象こそが、深層の雑音から<一つの声>を引き出すからである。」

p41 「しかし、本質的な差異は、次の点にある。すなわち、地帯は表面の所与であって、地帯の組織化には、深層でも高所でもない第三の次元の構成・発見・備給が含まれているということである。地帯の対象も「投射」されていると言われるかもしれないが、投射といっても、もはや深層の機構のことではなく、表面による表面での操作を示すのである。
P42−43 「いかにしてこの生産は行われるか、いかにしてこの性的態勢は形成されるのか。明らかに、その生産と形成の原理は、先行する諸態勢に、とりわけ分裂病態勢に対する抑鬱態勢の反作用に求められなければならない。実に高所は深層に反作用する奇怪な力を持っている。高所の観点から見ると、深層は向きを変えながら新たな仕方で方角を定めて広がっていくようである。そして、猛禽が上空から見下ろすと、深層は、多少なりとも容易に広げられる襞、あるいはむしろ、表面で囲われた局所的な孔にすぎない。おそらく、分裂病態勢への固着や退行には、抑鬱態勢への抵抗、表面の形成を不可能にするような対抗が含まれている。」
※高くから見れば深さのあるものも浅くみえるということ(表面と良く似ている)。
p46−47 「すべての器官と同じく、ペニスは深層での冒険を知っている。深層では、ペニスは細分化され、母の身体の内部と子どもの身体の内部に置かれ、攻撃するものであり攻撃されるものであり、有毒な一片の食べ物、爆発する排泄物に同化される。そして、ペニスは高所での冒険も知っている。高所では、完備で善き器官としてペニスは、愛と刺戟を与え、同時に退去しながら、全き人物や声に対応する器官を、言いかえるなら、両親を組み合わせたイドラを形成する。メラニー・クラインは、以上のような観点から、分裂病態勢と抑鬱態勢がオイディプス・コンプレックスを告げる早期の要素を提供するということを示している。言いかえるなら、悪しきペニスから善きペニスへの移行が、厳密な意味でのオイディプス・コンプレックスへの到達、性器の組織化への到達、対応する新たな問題への到達のための不可欠な条件であるということを示しているのである。」
p48 「オイディプスは、平和をもたらすヘラクレスのタイプの英雄である。」

p51 「ところで、何故、善き意図は不利になるように見えるのか。先ず、善き意図の企画は繊細すぎるし、表面にしても壊れやすいからである。性的欲動の下では破壊欲動は作用し続けているので、性的欲動の労働は破壊欲動によって指揮されているのではと疑われるからである。表面でのイマージュとしてのファロスは、何かにつけ深層のペニスや高所のペニスによって取り戻されるリスクを冒している。例えば、ファロスとして削除されるリスクである。というのも、深層のペニスそのものが、貪り食って去勢するものであり、高所のペニスは失望させるものだからである。したがって、前—オイディプス期への退行には、二つの去勢の脅威があることになる(去勢—貪食と去勢—喪失)。
P52 「したがって、オイディプスの企画の危険は、内的な進化にも由来するはずである。……要するに、オイディプスの企画は、新たな固有の不安、新たな罪責感、先行する二つの去勢に還元されない新たな去勢を産出するのである。オイディプスにおける「去勢コンプレックス」の名に相応しいのは、この新たな去勢だけである。」
P56 「それにしても、何故すべてがかくも悪くなるのか。何故新たな不安と新たな罪悪感が生産されるのか。……善き対象としての超自我が、リビドー的欲動そのものを非難し始めるからである。」
☆P57 「投射されたイマージュとしてのファロスは、子どものペニスに新たな力を与えたが、反対に、母における欠陥を指し示すのである。ところで、この発見は本質的な仕方で子どもを脅かす。というのは、その発見の意義は、ペニスは父の所有物であるということであるからである。それはまた、父を帰還させ現前させることを切望するなら、子どもは父の本質を裏切るということであるからである。父の本質は、退去に存していたし、再び見出されたものとしてのみ見出されうるはずであった。すなわち、不在と忘却の只中において再び見出されるが、忘却を消散させてしまう「事物」の単なる現前の只中には決して与えられないものとしてのみ見出されうるはずであった。したがって、この時期に、本当に、子どもは、母を修復せんとして母の腹を裂き内蔵を抜いてしまい、父を帰還させんとして父を裏切り殺害し死体に変えてしまったということである。そのとき、去勢、去勢による死が、子どもの運命になる。去勢は母の姿に映し出されて、いまや子どもは不安を体験するし、去勢は父によって復讐の印として課されて、いまや子どもは罪悪感を抱かされるわけである。」
P58 「この去勢だけが、「コンプレックス」という特殊な名に値し、貪食—吸収による深層の去勢と欠如—失望による高所の去勢から原理的に区別される。それは、吸着という表面の現象による去勢である。」
P62−63 「同時に、この最後の変身は、他の変身と同じ危険をたぶんもっと激しい仕方で課せられることを想起しておくべきである。というのも、裂け目には特異なリスクがあるからである。すなわち、裂け目は表面と不可分であるのに表面を壊してしまうリスク、去勢の単純な痕跡を別の表面に繋げてしまうリスク、さらに悪いことには、深層の分裂や高所の分裂に吸い込まれて、表面の破片までも全般的潰滅へ到らしめてしまうリスクである。この場合、終端で始点が再び見出され、死の本能が底無しの破壊欲動を再び見出す。これが、以前にも見たように、死の二つの姿形の混合である。」

P84-85 「すなわち、去勢は、予め形而上学的表面を描き出して開始させ、去勢が引き出す脱性化されたエネルギーによって既に形而上学的表面に帰属している。そして、去勢は、性的次元だけではなく深層と高所の他の次元についても、その変身形態をこの新たな表面に投射して登録することになる。第一の方向は精神病の方角として、第二の方向は生育する昇華の方角として決定されるはずである。そして、二つの方向の間に、オイディプスと去勢の両義的性格を持つ神経症がある。死についても同じである。すなわち、ナルシス的自我は、二つの側面から、ブランショが記述する二つの姿に従って死を見詰める。一つは、人称的で現在形的な死であり、それは自我を引き裂き自我に「矛盾」し、自我を外部からの打撃と深層の破壊欲動に委ねる。もう一つは、非人称的で不定形的な死であり、それは自我から「遠ざかり」、自我が引き留めていた特異性を放出させ、「ヒト」が死にヒトが死に続けて死に終わらない別の表面において自我を死の本能へと高める。」

p111 「反対に、症候から純粋な出来事の実現不可能な部分を引き出すこと、ブランショの言い方では見えるものを見えないものへ高めること、食べる・排泄する・愛する・話す・死ぬといった日常的な能動と受動を、ノエマ的な属性まで、対応する純粋な<出来事>までもたらすこと、症候が上演され実現が決定される物理的表面から純粋な出来事が素描され上演される形而上学的表面へ移行すること、症候の原因から作品の準—原因へ移行すること、これこそが芸術作品としての小説の対象であり、芸術作品としての小説を家族小説から区別するものである。」
※現実的なところからの「飛躍」の担い手が芸術であれば、そこに何か意味があるのか??

P139 「当の区別は、二種類のイマージュの間に移るのである。コピーは、二番目の所有者、善き基礎のある請求者であり、類似性によって身元保証される。シミュラクルは、偽の請求者のごとくであり、非相似性を基に構築されており、倒錯、本質的な方向転換を含意する。……このとき、われわれは、プラトンの動因の総体をよりよく定義することができる。すなわち、善きコピーと悪しきコピーを区別すること、あるいはむしろ、常に善き基礎のあるコピーと、非類似のため常に損なわれているコピーの勝利を確かにすること、シミュラクルを抑圧すること、シミュラクルを底に鎖で繋いでおくこと、シミュラクルが表面に上昇して到る所に「潜入する」のを阻止することが眼目である。」
※問題になるのは、コピーの性質について。コピーというのはあくまで客観的な目線により成立しているに過ぎず、主観的には完全にシミュラクル的側面を含んだものが営まれているのではないのか?これが媒介の問題だった。コピーされている者には、そのコピーされているもの自体が意識されていることはない(媒体志向の場合、自身はシミュラクルされているが、自身が意識できない部分においてコピーとして成立している)。もしくは、コピーされる媒体自体が不完全なものであることにとっくに気付いている状態にある(対象志向の場合)。そこでいうコピーというのは、客観的に見れば同じものかもしれないが(暫定的な媒体を乗り越えて行き、最終的に神を媒体とする段階になって完全なコピーとなる)、すでにその客観は神の視点を獲得していることが前提である。ここで問われるべきは、神の視点からこれを捉えること自体に問題がないのかどうか、という点である。
 仮に現実において神の視点に立つことが可能である、といえるのであれば、それは、対象としている物事のすべてが終わったあとになって、初めて与えられるようなものだ。このような目線は「完全な過去志向性」のもと成立するのである。もっと言えば、このようなもの言いを現実に当てはめたいのであれば、過去の出来事に依存することなしには成立しない。ここで現実性という前提を解除するならば、これらの前提を崩すことも可能であるが、そのような行為に有効性を与えてよいものか?

P141 「それゆえに、われわれは、コピーに押し付けられるモデル、コピーの類似性を派生させる<同じもの>のモデルの関係で、シミュラクルを定義することはもはやできない。シミュラクルになおモデルがあるとするなら、それは、他のモデル、内在化される非相似が由来する<他なるもの>のモデルである。」
※結局最大の争点はこの部分にある。ドゥルーズはこの二項対立をゆずらない。ドゥルーズ的には部分的に同じものが含まれている場合もすべてコピーの領域として処理してしまうのであろう…
 確かに私の提案した媒体モデルというのは、上位の階層と下位の階層が別々に存在するものとしてとらえており、上位の階層の揺るがなさを前提に、下位において競争させるものだった。この上位の階層と呼んでいるものを最大限に抽象化してしまえば位階そのもの(支配者と従属者)を認めるかどうかまで詰めることができる。しかし、これをもし否定するのであれば、それ以上の差異をどこに設けることができようか?ドゥルーズはそこに差異の存在を認めるが、差異あるものが階層を生むことにはならないのだろうか?

P148−149 「シミュラクルは、劣化したコピーではなく、オリジナルとコピー、モデルと再現を否定する説教的な力能を隠匿している。シミュラクルに内在化される少なくとも二つのセリーについて、どちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない。<他なるもの>のモデルを呼び出しても足りない。どんなモデルもシミュラクルの眩暈には抗えないからである。あらゆる観点に共通の対象がないように、特権的な観点もない。階層も可能ではない。」
P198 「交換と真の反復の対立というテーマが、クロソウスキーの全作品を駆け巡っている。というのは、交換が含意するのは、交換される生産物の等価性に伴う正確さである。交換は偽の反復を形成し、われわれは偽の反復の病人なのである。反対に、真の反復は、交換不可能で置換不可能で代理不可能なものに対してわれわれが担う特異な行動として現出する。その誤が変更不可能である限りで反復される詩のようなものである。もはや相似る事物の等価性が重要ではないし、<同じもの>の同一性されも重要ではない。真の反復は、特異な何か、交換不可能な何か、「同一性」なき差異ある何かへ届けられるのである。」
※ここでは贈与の話が強く意識されることになる。交換と成立と権力の成立。

P221 「だから、ニーチェの反復はキルケゴールの反復とは何も縁もないし、より一般的には、永遠回帰における反復は、キリスト教の反復とは何の縁もない。というのは、キリスト教の反復が再帰させるものは、一回だけ再帰して、一回以上は再帰しないからである。ヨブの富、アブラハムの子ども、復活する身体、再び見出される自我は、一回しか再帰しない。「あらゆる回の代わりに一回」再帰するものと、あらゆる回に無限回、回帰するものとの間には、本性の差異がある。だから、永遠回帰は全体であるにしても、分離する構成員や発散するセリーについて語られる全体である。」
※多層的反復は想定されることはない。
P230 「倒錯者とは、欲望する何者かではなく、欲望をまったく別のシステムに導入し、そのシステムの中で、内部の限界の役割、潜在的な虚無点や原点の役割を欲望に演じさせる何者かである。倒錯者にとっての<他なるもの>が、現実的実在を授けられる欲望対象ではないように、倒錯者はもはや欲望する自我ではない。」
※これは、ジラールの悪い模倣者でないことを示す内容だが、その内容に一貫性はあったか?

P233 「他者は、知られざるもの、知覚されざるものを相対化する。というのは、私にとっての他者は、私が知覚するものの中に知覚されざるもののサインを導入して、私が知覚しないものを他者にとっての知覚可能なものとして捉えるように決定するからである。私は、可能的な他者が見ないし思考しないし、所有しないものなら、何一つとして欲望しない。ここに私の欲望の基礎がある。私の欲望を対象に向かわせるのは常に他者である。」
※逆説的だが、神が媒介者であれば、他者の領域を乗り越えることも可能ではなかろうか??
P236 「要するに、構造としての他者とは、可能世界の表現であり、表現するものの外ではいまだ実在しないと捉えられる表現されるものである。」

P250-251 「他者は、正規に作動するなら、可能世界を表現する。ただし、この可能世界はわれわれの世界の中に実在するものであり、そして、この可能世界が展開されたり実行されたりするや必ずわれわれの世界の形質を変えるのは、少なくとも、リアル一般の秩序と時間の継続を構成する法則に従っているからである。フライデーはまったく他の仕方で作動する。フライデーが指し示すものは、真と想定される他の世界、唯一真の還元不可能な分身であり、また、この他の世界の上の、フライデーでもなければフライデーでもありえない他者の分身である。他者ではなく、他者の全き−他者。レプリカではなく、<分身>。純粋な元素を啓示する者。」
P251−252 「他者は、私の欲望を対象へ落とし、私の愛を世界へ落とす。性が生殖に結び付けられるのは、他者を通して性の差異を通り過ぎるこんな回り道を経る場合だけである。性の差異が設立され確立されるのは、先ずは、他者を通して、他者によってである。他者なき世界を創設すること、世界を立て直すことは、回り道を避けることである。欲望を対象から切り離すこと、身体を通る回り道から切り離すこと、そうして、欲望を純粋な原因である<元素>に関係付けることである。」

(解説?) 
 本書での中心的な問題はキャロルのアリスの冒険についてであり、「純粋な出来事」についての論考ということになります。私の理解の範囲内で、まとめてみます。

 セリーとは、とりあえずモノの名前と意味連関の一定の集まりとでも考えておきましょう。これはちょうどソシュール的な意味でのシニフィアンシニフィエの連鎖(モノの名が意味を持ちその意味がまたモノの名となる…)と重なります。ただ、この連鎖もさほど大きなものは(無限に近いものは)想定されていないので、あくまである程度のまとまりです。2つのセリーの関係は非常に密接であり、セリー形態は必ず少なくとも二つのセリーの同時性によって実現されるという(上p77、トートロジカルな定義だが)。そして過剰なセリーは不足のセリーへ意味を贈与する。
 そして本書は「表面」と「深層」、「高所」という3つのキーワードからまず論考を進めます。「表面」は非物質的で、理想的には特異性に満ちている。この特異性はセリー間を絶えず横切って循環するようなものである(上p101)。これはルイス・キャロルにより提示される。「深層」はアントナン・アルトー分裂病の話から、物質的で、セリーが消失し意味そのものが発生しないような混沌を意味している。表面は脆弱なものとして扱われており、意味の無限後退を行うのであれば、この深層の領域に転落する。「高所」はプラトン以後の哲学でしばしば用いられている概念であり、端的に一方向的な志向性を意味する(上p226)。
 アルトーはキャロルの小説について薄っぺらいものであるとして批判しており、まさに両者の属する領域は物質的/非物質的な領域として完全に分断される(上p169−170)。この徹底的な分断はアルトー目線からは確実である。が、キャロルにとってはどうなのか?確かに分断されているように思えるが、ドゥルーズはこれに修正を加えていき、「表面」の重要性を説く。
 深層においては、表面と同じような溶解(自他の同一化)が見られる。「深層の生成と表面のアイオーン」として説明する(上p304)。しかし両者の性質はことなる。深層での同一性はまさにジラールの内的媒介のような印象がある。表面のアイオーンは「反対のものの同一性によって起こるのではなく、不調和なもの共鳴、観点についての観点、遠近法の移動、差異の差異化によって起こるのである」(上p304−305)。深層で起こるような位階の破壊のような考え方は表面にはないようである。
 また、高所については深層そのものを排除しようという動力が働くという。これは高所が一方向性を示しているのに対して、深層は多方向に見えるために修正を加えようとするのである(cf.下p42−43)。このような両者の問題を回避しながら「表面」での跳躍を続けていくことが重要であるとします。

 これを読み解く上で役に立つのが「ヘラクレス」と「アイオーン」というキーワードです。
 ヘラクレスは高所と深層、そして表面を知るものの比喩として用いられ、なおかつ自律的な表面を獲得するとする(cf.上p234)。ヘラクレスは表面に再上昇したり、再下降し、二重の闘争を行う(上p233)。ニーチェもまた、プラトン的な高所一辺倒の議論に対し疑問を感じ、その方向の修正者として描かれる(上p226〜)。
 また、アイオーンはクロノスとの対比から用いられる。クロノスは現在の目線から「原因としての物体の能動と、深層の物体の混在の状態を計測」し、アイオーンは「現在を無限に過去と未来に分割する」ものである(cf.上p118−119)。
「クロノスは有界で無限であったが、アイオーンは、未来と過去としては限界がなく、瞬間としては有限である。」(上p288)。アイオーンの定義付けには疑義を挟む余地がありそうだが、とりあえずスルーしておこう。アイオーンは、純粋な出来事を可能にする時間認識である。なおかつ、クロノス的な現在の2つの側面、分裂病的運動や躁鬱的運動とも異なる軸がある(上p286)。躁鬱の話は上p275の引用を参照。アルコリズムは効果の探求を行っているとされ(上p274)、これはアンチ・オイディプスをめぐるノスタルジーの話にもかなり関連性があるといえる。

 このような表面を跳躍していく上で「ヘラクレス」的な状態にいたる冒険を、メラニー・クラインの精神分析を交えて下巻にてとらえ(第27〜29セリー)、ルイス・キャロルからもとらえ返す(第33セリー)。オイディプスもまたヘラクレスである(下p48)とする点については、アンチ・オイディプスを読んだ後だと奇妙に思えてくる。これについてドゥルーズは、ファジーな議論を展開しながら処理しているように思う。ざっくりした議論の多かった「アンチ・オイディプス」の内容からはちょっと考えづらい位、繊細であるように思った。簡単にいえば、ヘラクレス的な状態というのは、常に危機を抱えており、自律的な表面から崩れる可能性を持つ。そのような状態になってしまえば、オイディプスは非難の対象となり、アンチ・オイディプスの議論とも整合性をつけることができる。
 ただ、ここで用いられている「ファロス、オイディプス、去勢」あたりの用語は精査が必要と思われる。これは次回の議論で検討して、そこから考察を進めていきたいと思う。