ルネ・ジラール「地下室の批評家」(1976=1984)

 ジラールの2冊目です。「地下室の批評家」は4つの論文をまとめた著書になっています。核となる最初の論文がドストエフスキーの文学評論で、最後の論文が「アンチ・オイディプス」を批判したものです。この本をチョイスしたのは、この論文が入っていたからです。
 読書ノートもこの2本の論文からしかとってません。他の論文は読まなかったというよりか、あまり参考にならなかったので。

(読書ノート)
p77—78 「社会的現実と個人の心理のあいだには、表面的な不一致にもかかわらず、深い一致がある。『分身』がすでに精神病理学的な幻想と日常的なリアリズムの混合物を提供しており、この混合物はその一致を前提としている。きわめて重要な意味をもつ場面は、分身のほうの新ゴリャートキンが、課長に対するライバルの地位を奪うためにたいへん古典的な策略に頼る場面である。二人のゴリャートキンのライバル関係は社会学的観点から見て、非常にはっきりした意味のある状況として具体化されている。ドストエフスキーに登場する小役人たちの強迫観念を理解するには、十九世紀中葉の帝政官僚機構、その厳密なヒエラルキー、不要で薄給のポストの増加という事情を念頭に置かなければならない。下級官僚の群がこうむった「非人間化」の過程は、官僚制度によって生じた猛々しい、不毛なライバル関係を融合しているので、いっそう迅速で、効果的で、陰険である。絶えず互いに対立している諸個人は自分たちの具体的な人格が崩壊しつつある事実を理解できないのである。」
ジラールは何を糾弾しようとしているのか?
p79 「もしこの二つの中編が実は同じ一つのものだとすると、ゴリャートキンの幻覚の究極的な原因は自尊心にあるはずである。自尊心の強い者は孤独な夢のなかでは自己を唯一不可分のものとして考えているが、挫折においては、軽蔑すべき存在と軽蔑する観察者とに分裂する。彼は自己に対して<他者>となる。挫折によって、彼は彼自身の無価値をあばいて見せるこの<他者>の立場に、自己を敵対して、立つことを余儀なくさせられるのだ。したがって、自己の自己に対する関係および他者に対する関係は二重の両価性によって特徴づけられている。」
※私は私の同一性を疑っていない。
P79—80 「挫折によって、二重の運動が発生する。軽蔑する観察者、つまり<私>のなかの<他者>は絶えず<私>の外部の<他者>、勝ちほこるライバルに接近する。他方、すでに見たように、この勝ちほこるライバル、この私の外部の<他者>の欲望を私は模倣し、彼は私の欲望を模倣するのであるが、彼は絶えず<私>に接近してくる。意識の内部の分裂が強化されるにしたがって、<私>と<他者>との区別はあいまいになる。この二つの運動が互いに同一地点をめざして接近し、分身の「幻覚」が発生するのだ。意識に打ちこまれた楔のように、障害はあらゆる内省の二つに分裂しようとする傾向を激化させる。この幻覚現象は地下室の生活を規定しているあらゆる主観的および客観的な分裂の帰結であり、総合なのである。
 一八四六年のこの作品が見事にわれわれに感じさせるのは、客観的なものと主観的なものとのこのような混淆である。精神医学は社会構造を問題とすることができないので、分身の問題を正しく提起する能力がない。精神医学はこの種の病人に「客観性の認識力」を取り戻させて、その病気を直そうとする。」

p112—113 逆説的に一般利益を持ち込むことの説明…「自己神格化を天職としている<自己>は他者の存在が突きつける恐るべき問題を認めようとしない。しかしそれでも、<自己>は哲学的省察以前の実際的な次元で、その問題を解決しようと努めないわけではない。この力学の初期の段階では、<自己>はみずからをライバルに打ち勝つほど十分強いと感じている。とはいっても、<自己>はみずからにその優位を証明しなければならない。<自己>が求める証明が自分で見て満足のいくものであるためには、競争が正々堂々と行なわれる必要がある。そこでぜひとも必要とされる解決策がもちろんその気高さなのだ。勝者と敗者との判定が文句なく下されるためには、「フェア・プレー」の規則を尊重しなければならず、また<他者>にもそれを尊重してもらわなければならない。「一般利益」は常に引き合いに出されるが、それはこの駆け引きの自己中心的な目的を隠さなければならないからである。もっとも、気高さを説く道徳はこれ以後引き続き現われるものに比べると、まだ全然「地下室的」ではないが、<自己>が自己の優位の証明を行なう義務を自分に課すという意味において、すでに地下室的なのだ。<自己>はみずからの神性、つまり他者に対する優位を本当に信じているのだが、具体的な証明なしですませるほど十分信じこんでいるのではない。<自己>は自分を安心させる必要があるのだ。」

p144 「人間はキリスト教なしで自己の神格化をはかるので、自分自身を十字架に架けるのである。地下室を発生させるのは、逸脱しただけで、死んではいないキリストの自由なのだ。<他者>と<自己>との対立のなかで練り合わされず、すりつぶされない人間の本性は一片すら存在しない。サタンは自分自身に対して分裂しているから、サタンを追放する。偶像は偶像を破壊する。人間は諸々の幻想を少しずる涸渇させていくが、そこには神に関する低級な諸観念も含まれており、これは無神論によって消滅させられる。」
p145 「ドストエフスキーの芸術は文字通り預言的である。未来を予言するという意味で預言的なのではなくまさしく聖書的な意味においてそうなのだ。それは飽くことなく神の民の偶像崇拝への失墜を告発する。それは偶像崇拝から生じる追放や深刻な分裂、苦しみを明らかにする。キリストへの愛と隣人への愛が同じ一つのものである世界では、真の躓きの石はわれわれの他者への関係である。もし<他者>を偶像のように崇拝し、かつ地下室の底で憎悪することを望まないなら、自分自身であるかのごとく愛さなければならないのは、<他者>である。良きにつけ、悪しきにつけ、精霊に捧げられた世界において、人々を誘惑する可能性があるのは、もはや黄金の仔牛ではなく、そのような<他者>である。」
※問題は、結局<他者>を尊重するというのが、キリストの話と不可分になってしまっている点である。少なくともジラールは不可分なものととらえているとしか読めない。

p155 「一切の事物の根底には、人間の自尊心が、それとも神のいずれかがあり、この二つは自由の二形態なのだ。……自尊心とその弁証法を自覚することは、現実の切り抜き遊びを断念することであり、とりわけ唯一の普遍的な洞察である宗教的洞察の統一性をめざして、個々の分断化された認識を超えることだ。
 しかしその弁証法を支配するためには、知性以外のものが必要である。自尊心そのものを克服しなければならない。……自尊心はいつも分散と最終的な分断、すなわち死へと向かう。しかしその死を引き受けることは、統一への再生である。したがって散らさず、集める作品、完全に一なる作品はそれ自体で死と復活の形式、すなわち自尊心の克服の形式をもつだろう。」


p233 「フロイトも彼の後継者も錯乱の領域を明確にできず、錯乱を説明することに成功しなかったのは事実である。この挫折から錯乱は汲み尽くせないものであり、無限であると、ドゥルーズガタリは推論する。錯乱は精神分析から逃れるので、錯乱と一緒に、錯乱にうち誇って、未踏の地平に向かって逃れて行けるだろう。ここでもまた、精神分析の魔力、すなわち手を切ったと思っているときでさえ、依然として残るその影響力を指摘しておく必要がある。フロイトが失敗した仕事を首尾よくやりとげる者などいるはずがないのだと、著者たちは信じこんでいるのだ。
 錯乱をめぐる挫折が決定的なのかどうか、精神分析や現代のその他のあらゆる化学的主張によって解読が文字通り禁止されているいくつかの文学先品によって、その挫折がすでに部分的に派乗り越えられていないかどうか、はっきりしたことは誰も知らないのである。」

☆p238 「ニーチェルサンチマンに対して、本源的かつ自発的な欲望、彼が権力への意志と名づけるそれ自体に原因をもつ欲望を定立する。もし欲望が自分にふさわしい対象をもたないとすると、権力への意志は何に向かって行使されるのか。無意味な重量挙げ運動に還元されるのでないかぎり、それは必然的に他者の欲望によって価値づけされた対象に向かって行使される。権力は他者とのライバル関係においてそれも今度はみずから進んで引き受けた競争を通して、その姿を現わす。権力への意志にはなんの意味もないか、それともライバルの欲望との関連において対象を選択し、その対象を奪うか、そのいずれかである。ということは、権力への意志ルサンチマンの定義は同じ一つのものでしかないことを意味する。」
p238−239 「他者の欲望よりももっと力強く自己を肯定する欲望は存在しないのか。おそらく存在するだろうが、しかしその差異は副次的、一時的であり、効果的にそうであるにすぎない。欲望が葛藤の場のライバル関係から勝ち誇って出てくるかぎり、その欲望は他者には何も負わず、自分は正真正銘本源的かつ自発的な欲望だと考えることができる。その逆に、欲望は敗北を経験すると、かならず自分をルサンチマンであることを思い知るのであり、最初は権力への意志として高々と飛翔すると信じこんでいただけに、その敗北はいっそう屈辱的なのである。権力への意志は勝利を収める場合にのみ存在する。
 ところがその勝利自体が架空でしかない。欲望は激しくなればなるほど、ますます敗北に身を捧げる破目に陥る。問題はその欲望自身の性質や、ライバルの欲望に打ち勝つ客観的能力とは全然関係ない。もっとも「強力」な欲望であっても、相手がライバルであることを拒否するようなライバル関係においては、たちまち自分を圧倒する強者に出会う。……ニーチェにおける狂気への歩みは権力への意志ルサンチマンに、そしてルサンチマンが権力の意志に絶えず転換することと一体化しており、この転換が精神分裂病の「両極」間の振子運動、高揚と失意の恐るべき交代に内容を与えている。権力への意志はモデルである欲望に邪魔されて、激化した模倣である。これは自発的かつ熟慮された欲望という外観を自己確認するためにしか、自分の本質を認識しないのである。」
p240 「ドゥルーズの企てはルサンチマンから権力への意志を区別〔差異化〕しようとし、能動力をあらゆる反動力の除染から切り離そうとする新たな努力であると定義できる。そしてそのために、能動力を反動の力の奥深くに埋め込み、ニーチェがまだあまりに実際的でありすぎ、つまり十分に現代的ではなかったので、思い切って投げ捨てなかったあらゆる活動をルサンチマンのせいにする。」

p244−245 「錯乱には少なくとも外見的には多大な差異があるように見えるが、実際にはそれとともにもっと多大な同一性が存在する。というのも、分身が絶えず見え隠れしているからである。要するにもっと極端な無意識的模倣が、それも今度は非常にあからさまな形で現われているのだ。というのも、われわれの主張をなかなか理解しようとしない観察者でも、この段階に達すれば、精神分裂症者の芝居がかったしぐさについて語るだろうからである。錯乱は障害物=モデルの袋小路に入り込んだ欲望の必然的な帰結にほかならない。」

p254 「これは二人の著者たちが目に止まったあらゆる三角形的関係、模倣による一切のライバル関係、そして分身たちのあらゆる競合を、自分たちが教えられた通りの精神分析エディプス・コンプレックスに忠実に関連づけているということだ。たとえば彼らはストラビンスキーの死の直前にしたといわれる、この音楽家は一生のあいだ自分にどのような能力があるかを父親に証明したいと思っていたという告白を取りあげる。ドゥルーズガタリはそれが現代社会に猛威をふるっている広範な洗脳の一つの証拠だと見る。精神分析エディプス・コンプレックスを発明する必要はない、患者たちはすでに完全にエディプス化されて、精神科医のところへやってくる、と彼らはいうのである。
 ここで精神科医にではなく、そこから解放されたと主張しているドゥルーズガタリに一つ質問しなければならない。というのも、精神科医の返答はわかりきっているからである。ストラビンスキーはいったい誰に対して何ごとかを証明したいと望めば、エディプスの命令の犠牲者だというレッテルを貼られずにすむのだろうか。彼はいったい誰のライバルになれば、精神分析に脅かされずにすむのだろうか。彼の兄弟か、恋人か、アパートの管理人か、それともほかの音楽家たちか。そうされずにすむ相手は一人もいないのだ。というのは、かならずいつもライバル関係は三角形として姿を現わし、闘わずしてフロイト構造主義に譲渡された永遠のエディプス・コンプレックスに自動的に関連づけられるからだ。」

p258 「身代わりの生贄は共同体の全員を一致団結させ、みずから暴力にはけ口を提供する。したがって、身代わりの生贄は自分が一身に集めた暴力を死のなかに運び去ってしまうように見える。事実上、非暴力が、共同体を毒していた相互暴力に取って代わる。暴力と非暴力は同一の過程から生じるのだが、この過程はけっして本当には理解されないので、常に両者とも、現世的で邪悪な一時期のあとで超越的な幸いをもたらす存在となる唯一の実体〔生贄〕に関連づけられる。生贄の聖なるものへの変身は、神格化された祖先や神話上の英雄、もしくは神を仲介して行なわれるが、それらの新的存在の背後には、常に身代わりの生贄のメカニズムが見出せる。」
p259−260 「儀礼もまた身代わりの生贄から生じる。儀礼は共同体を結束させ、かつ創設するメカニズムを反復することで、危機が再発するのを妨げようとする。したがって儀式の主要な要素は現実に行なわれた殺人を模倣した供儀の形式をほぼかならずとるが、その殺人は「父」の殺害ではむろんなく、身代わりの生贄の殺害である。
 というわけで儀式自体が模倣なのだが、今度はもはや周知の秩序解体的、破滅的な結果を生む他者の欲望に関わる模倣ではなく、共同体を結束させる暴力に関わる模倣である。……どのような形式であれ、聖なるものに関係するすべては実は決定不能である。一切の決定の原理を提供するのは、儀礼および疑似儀礼のどんなに弱まり、非聖化した繰り返しにおいてさえ、身代わりの生贄のメカニズムなのだ。」

p265−266 「フロイトエディプス・コンプレックスの相反する二面、つまりその構造解体的側面と構造生成的側面が提起する問題を正面切ってはけっして取り扱わない。フロイトは決定不能なものには関与せず、おのずと決定されるがままにまかせておく。彼の理論がふるう神話的な威力はそうした一歩退いた姿勢と一体となっている。儀礼から少しずつ自由になっていく思想は常にすべてを自分私人で決定したがるが、身代わりの生贄の秘密が暴露されないかぎり、決定不能なものをけっして有効ではない決定の原則と取り代えないほうが、思想のためには良いのである。」

p283−284 「ニーチェは法〔禁忌〕を殺したと告げる一方で、法があたかもまだ存在しているかのように、精神分裂病的な振子運動を法に関連させている。法は確かに死んだのであり、精神分裂病的な振子運動が起こるのは、それが死んだからであり、もはや法が存在しないからである。人々が法にしがみつくのは、そのうしろの方から歩み寄ってくる分身を見ないようにするためである。」
※分身というのは、一種の記憶のメタファーともいえるだろうか。

(考察)
○「ジラールドゥルーズガタリ」の論点
 今回は、「分身」という言葉に特に注目してノートを作りました。ジラールが評価するのは、ドストエフスキーの分身に対する観察眼についてです。作家として分身について追求していき、最終的にドストエフスキーが辿り着いた先には神がいた、という展開は若干強引すぎる感じもありますが、「分身」という枠組み自体は有効でしょう。
 基本的にここでいう「分身」というのは模倣理論でいう「媒体」にあたりますが、羨望の炎で語られていた媒体と比べると、実在性に乏しさがある。ただし、模倣理論的には矛盾点なく説明可能で、要するに、「分身」というのは、すでに模倣が行われ始めている状態におけるライバル関係、さしあたって言えば「内的媒介」という状態にある三角関係の中にあることを意味している。そして、もう一つの意味合いとして、この分身というのは当事者たちに自分たちの差異の理解ができていない状態であることも示しているようだ。ライバル関係にある状態において、分身に気付くことはできないことにジラールは批判的であり、ドゥルーズガタリの議論に対しても、同じ理由で批判を加えることになる。ジラールは、単純に言えば、差異化を求めることに内包される同一化を批判し、同一化を求めることに内包される差異を評価する。
 ただ、このような単純化は正確ではない。後者については比較的わかりやすい。ここで言われる差異というのは、まさに位階の存在を尊重することであり、より生産的な言い方をすれば、その位階を形作っている既存のルールに対する正しい理解を含んでいる。
 では前者はどうか。同一化というのは、後者の差異の意味の反対で、位階の存在を無視することである。では、差異化とはどういうことか?ここでの差異はジラールの言う差異とは異なる。既存の位階を破壊しようとする点が異なるが、この場合、2つ可能性がある。一つは新しい位階を持ち込もうとするパラノイア的なものの介在、もう一つは位階を無視し続ける分裂症的(スキゾ的)なものの介在である。

 この分裂症的な状態については、次回詳しく説明できると思うが、ジラールはこの分裂症的なものの存在自体を認めない。この説明のために、ジラールドゥルーズガタリの議論の最大の貢献者であるニーチェに対する批判を加える。それは一つに志向性がない状態において権力への意思はどう行使されているのかという問いかけ(p238)や、仮に何らかの文脈に依存しないような、自発的な意思を想定してみたとしても、それは一時的にそう見えるものでしかない(p238-239)と批判してみたりする。結果的にニーチェのいうルサンチマンと権力への意思は同一のものであって、区別することはできない。これはかなり納得のいく批判であるように思える。
 ルーチェのいう権力への意志は、D/Gは絶対的な「肯定」であるととらえる。しかし、ジラールは、そもそも我々はすでにこの世界に身を置いてしまっており、それを無視することはできないと考える。無視できない状態である以上、今置かれている世界の否定によって成り立つしかないし、それはルサンチマンと一緒である。このような現実的な考え方でD/Gに批判をするのである。ただし、この批判には、ナドーが言うように、記憶をめぐる議論の中でそれを積極的に忘却するという形で対応できないか、という可能性がある(その方法についての問題があるが)。

 リッツアのレビューで、D/G批判の方法を挙げましたが、ジラールのような批判の仕方が2つ目の方法になります。端的に「彼らの言っていることが現実的でない」というのがその要点です。
 このため、残るのはパラノイア的な形で、既存の位階を自己の望む新しい位階へと転換させるために(ライバルに打ち勝つために)位階を滅ぼすのである。これはジラールのいう内的媒介の状況と全く同じである。


ジラールの模倣理論の教育への応用
 いわゆる、これまでのミメーシスの議論というのは、教育の分野においては、プラトンなどを参照した、美的観点を重視する論調がスタンダードである。基本的によい模倣の話にしか着目することがない。
 特に宮台真司の言うようなミメーシスの議論は人物に立脚したものであり、媒体としての固定の人物を重視する点でジラールの話とも親和性もある。宮台の議論を踏まえたミメーシスの話はかなり風呂敷を広げることになってしまうため(注1)、今後のレビューの際に改めて検討することとして、ここでは、学校教育の場において、模倣理論がどう影響を与えているものととらえられるかに専念したい。

 ジラールの議論の面白い点は「外的媒介」と「内的媒介」を区別している点にあった。どちらにしても模倣は発生しているが、両者の性質は異なる。もちろん、学校教育においては「外的媒介」として教師が振る舞うことのできる状態がベストである。
 しかし、他方で「外的媒介」というのは、「運動/静止」という区分で見ると、静止的に見えてしまう。このため、有意義でない教育について語られる際のテンプレートは、「教師のいうきまりを素直に従うことが大事だが、それに生徒は意義を感じることはできない」というものであり、文字通りの模倣(真似)を行うことだけが目標とされており、そこには溶解体験などのような起こりえない、という状態が示される。
 ここで思い出したいのは、作田啓一のレビューの際に用いた「生成/定着(運動/静止)」という軸と「成長/非成長」という軸のズレである。ジラールの模倣理論における「外的媒介/内的媒介」というのはほぼここでいう「成長/非成長」と同じとみていいが、どちらも生成的なものであり溶解体験の存在を前提にしているのである。このような教育観のズレはどこで発生しているのか?

 ここで暫定的に用いたいのは、前回のレビューで用いた「上層の位階」と「下層の位階」という考え方である。ジラールの「外的媒体」の議論の説明として、「上層の位階」においては不動の位階を維持しながら、「下層の位階」での位階の崩壊(ないし転換の争い)を促すことで、「上層の位階」は維持する、というものである。これはキリスト教的な発想で「上層の位階」を説明するなら、意義はないが、そうでなければ議論の余地はある。
 ただし、このような二層論で行われるのは、内的媒介で想定されているような状態ではない。そこには上層の位階への何かしらの理解(了解)を含んでいるといえるだろう。内的媒介の場合には、このような了解は見いだすことが出来ない。
 
 学校教育の場において模倣理論による「よい模倣」が発生する状況というのは、二種類考えることができる。
 一つは、学校で用いられているルールの美について模倣される場合である。簡単な例でいうと、算数の問題を自力で解くことができたことの喜びや、問題の解き方がわかったという感覚である。ここには一つの発見が存在する。それは、自らのなかでルールの一部を発見することができたという喜びであり、そのルールに対する興味を持つ瞬間でもある。ここでいうルールは主体にとっては完全なものとして現われている状態ではない。完全なルールというのはもっと大きなものだ。ルールがこういうものだと感じる瞬間、大なるル—ルへ前進する志向が生まれる瞬間が三角形の成立を意味する。
 この場合、主体は対象志向性が強いものになっている。媒体に想定される者(教師)というのは、通過点に過ぎず、仮の媒体でしかない。真の媒体はすでに連鎖された欲望の三角形の奥にある。

 もう一つは、シンプルに媒体を志向するケースである。文字通り、教師みたいになりたいと考えるような場合である。これは対象に職業としての教師を置くこともあるかもしれないが、およそ想定されるのは、「愛される存在」であり「尊敬される存在」であり、「クレバーな存在」であったりする媒体に対する羨望を持つ場合だ。こちらの方がシンプルな欲望の三角形モデルをとる。恐らく、対象は不特定な人から尊敬のまなざしを受ける、という地位の獲得といえるだろう。
 この場合に模倣されることは、媒体(教師)がたどったパス(媒体が今のような状態になるまでにどのように過ごしてきたか)そのものとなる。これは具体的に教師からパスが提示されているのならば、そのようにたどることだろう。

 この2つのモデルは相互性も認められる。ルールから入った場合も暫定的ではあるがそれを教える教師そのものも模倣する可能性はあるし、逆に、教師の模倣から、ルールの美を見いだす可能性も考えられる。

 これらいずれの場合においても、教師という立場は、内的媒介で語られるようなライバル関係を形成することはない。なぜなら、前者の場合は通過点に過ぎない関係性であるし、後者の場合は、対象を媒体が独占している訳ではないからである。ただし、前者については、内的媒体を教師という媒体とは別の部分で形成する可能性はある。テストにおける位階付けがそれにあたる。生徒同士のライバル関係が形成されるのである。
 模倣理論的にも学校教育において単一のルール体系を設けて、そこで模倣させ合うようなやり方はあまり健全ではない。教師の立場は、生徒内部で崩れようとする秩序をうまくコントロールし、崩壊しないようにすることだ。そのためには、複数のルール体系を巧みに用いた方が都合は良い。新たなルールの設定は生徒に対するよい模倣の要因にもなりうるし、教師はその外的媒介として振舞うこともできるからだ。
 これらのルールそのもののよさを崩壊させないような形で、他のルールも擁立する。一つの場に複数の位階があること自体、秩序の崩壊を意味しているようにも思えるが、それを矛盾と思わせないことが重要になる。

 さて、「上層の位階」と「下層の位階」を前提にして議論する場合、「上層の位階」はどのようにその立場を維持しているのか。
 まず、上層の位階とは何なのか、という問いを考えてみる。これは一定の価値に根ざしたもの、わかりやすいものだと、下層の位階は算数・数学といった教科の位階で、上位の位階に道徳を置くという方法で考えられる。ただ、基本的にはその際の位階は固定的なものであり、反抗されることはないが、なんらかの欲望による模倣が発生することはないものとなる。
 基本的に学校教育において要求されるのは、まず、授業内における「沈黙」である。授業は一対多の活動が基本にあり、教師の声を生徒に届けるための条件付けが必要となってくる(注2)。この条件の最初のものとして挙げられるのがこの「沈黙」である。そして次に来るのは、その声を効率的に聞くための態度をしっかり身に付けさせることだろう。

 この「沈黙」や聞く態度の要請は、生徒側からその時その時で生じた素朴な疑問をさえぎることに繋がる。また、すでに不満のある生徒に対しては、その要求を封じ込め、授業を成立させるために必要なものとなる。不満がある場合以外にも、例えば「学校で学ぶ内容は面白くもなんともないが、将来のことを考えると必要なものだ。だから勉強している」という場合も、良い模倣がされているとはいえないが、授業は聞いている。この場合も上位の階層は秩序を維持しているといえるか。
 おそらくは、「直接的な抵抗(位階崩壊)を避ける行動をとる」ということが内面化されるような状況というのは、これに貢献すると考えてよいと思われる。要するに、上位の階層の存在そのものを放棄し、(実際は私がその位階の下位に組み込まれているにもかかわらず)それを自分の認識から切り離してしまうことは、確かに上位の階層の維持に繋がるのである。
 おまえはおまえ、わたしはわたしという態度の取り方は上位の位階にとっては非常に好都合である。下位にいるものが上位に登ることを放棄しているのはもちろん、そのためのルール改変についても放棄していることを意味しているからである。確かに学校空間において、このような態度を醸成することがあるならば、それは批判されるべきものかもしれません。
 これについては、後日別の本のレビューでもしかしたら具体的に説明できるかもしれません。確かポール・ウィリスの「ハマータウンの野郎ども」がこのような文脈で読むことができた気がします。

 ただし注意したいのは、ここには学校空間で行われていたことを内面化した結果、社会一般についてもそのような態度をとるようになっている、という一種の飛躍が介在している点です。この部分には批判の余地もあります。これは実は、ドゥルーズガタリオイディプスの批判を行う場合に、同じような飛躍を前提にしているように思えます。これも次回改めてみてみます。


(注1)宮台のミメーシスの議論は、学校内に留まらず、その外部との関係性も踏まえたものである。この論点を踏まえた考察は後日また行ってみたい。
(注2)いわゆる「学びの共同体」論的な授業像とはかなり異なっていることですが、基本的にはそこで内面化されるものについては同じものなのではないかと思います。「学びの共同体」というのはその内面化の過程がより巧妙な形になった、とでも言うべき状態なのかと思います。

理解度:★★★★
私の好み:★★★★
おすすめ度:★★★☆