ウルリヒ・ベック「危険社会」(1986=1998)

 ドイツの社会学者、ベックの1986年の著書です。ちょうどチェルノブイリ原発事故のあった年の本ですが、環境問題について広く扱っています。このためノート量が恐ろしいことになってしまいました…
 私自身は大学の卒業論文で読んだのがきっかけです。当時は専門的な枠組みをどのように素人にも共有することが可能か、という見方で考えていました。

(読書ノート)
p4−5 「自然は産業技術によって姿を変えられ、世界規模の市場で取り引きされるものとなった。その結果、自然は産業システムの内部に組み込まれた。同時に、自然は、産業システムの内部でわれわれが生活する場合の不可欠の前提となった。われわれが消費や市場に依存しているということは、別の側面から見ると、新しい形態の「自然」に依存していることを意味する。」
p9 「本書が問題としているのは時代思潮の不確実性である。イデオロギー批判的なアプローチでそのような不確実性を否定してしまうのは、あまりにも冷笑的な考え方である。かといってそのような不確実性にそのまま身を委ねるのも危険である。本書の課題はこうである。時代思潮の不確実性をいかにしたら、社会学として実り多く示唆に富む形で理解し把握しうるか。」

p24−25 「近代化の過程はその課題と問題に対して、「自己内省的」となる。諸技術をいかにして発展させ応用させていくかという問題に代わって新たな問題が生じる。それは重要な領域でテクノロジーが危険を生み出す、あるいは生み出す可能性があるが、その危険を政治的また科学的にどのように「処理」するかという問題である。」
p28−29 「この危険はシステム上不可避であり、多くの場合、不可逆的な被害を引き起こす。また、その危険は本質的には目に見えないが、因果律にはのっとっている。そして、最初は危険をめぐる(科学的もしくは反科学的)知識の中に、またその中にだけあらわれる。危険は知識の中で加工され、極小化あるいは極大かされたり、誇張あるいは過小評価されたりすることがある。そしてその限りにおいては、社会が自由に定義づけることができる。このため危険を定義する手段と定義づける権限をもつ地位は、社会的にも政治的にも重要になる。」

☆p32−33 「「平均」がいくらか問う時、その人が平均というだけですでに、社会的に危険状況が不均等に存在している事実を否定している。ひょっとすると「平均値から見れば心配ない」鉛の含有量であっても、それが致命的となる集団と生活環境があるかもしれないではないか。」
p35−36 「所得や教育などは、人間が消費したり経験することが可能な財産である。これに対して危険は、その存在や分配の状況を理解するためには、本質的に論証の努力が必要である。例えば、健康を損なうものや自然を破壊するものは、個人の感覚や肉眼では認識できないことが多い。危険が表面化した場合でさえも、危険を社会構造とともに客観視するためには、権威のある専門家の判断が必要である。……いずれにせよ、危険を危険として「視覚化」し認識するためには、理論、実験、測定器具などの科学的な「知覚器官」が必要である。」

☆p37−38 「社会的に分離されている個々の現象の因果関係を決定しただけでは、危険であるというには十分ではない。身をもって危険を感じとるためには、安全性や信頼性が失われたという意味での規範的な見方が前提として必要である。危険が数値や数式の形で提示されても、その内容は基本的に個々人の規範的な見方次第で大きく違う。……そこで、危険の存在自体を信じることが必要となる。危険そのものは数値や数式の形では、身をもって感じることができないからである。……いかに技術的な体裁をとっても、問題は、遅かれ早かれ、それを受け入れるか否かということになる。そして、どのように生きたいか、という古くて新しいテーマが浮上してくる。つまりわれわれが守らなくてはならない人間のうちの人間的なるものとは何か、自然のうちの自然なるものとは何なのかという問題といってもよい。」
p38−39 「危険の確定を行う場合、自然科学と人文科学、常識と専門家の合理性、関心と事実というような相互に対立するものが十分な共生関係に育っていないのである。危険の確定は、この相互に対立するどれにも与しない。両者にまたがる新しい形で行われるのである。それぞれの分野で固有の問題として取り扱うことによっては、危険を確定することはできない。またそれぞれの分野の合理的な基準のもとに展開させ固定することによっても、確定できない。危険を確定させるために必要なのは、学問分野、市民団体、企業、行政、政治などの分野間の溝を埋める協力関係である。しかし、おそらく、それらの分野の間では、分野をどう定義するかで対立したり、争いが生じたりして、このような協力関係も崩壊してしまうであろう。」
※少々楽観的?危険の規範的な見方の形成問題。これが一意的な解でもない。これは何らかの合意調達を必然と考えるが故にでてくる発想。これを恊働という見方で考えれば、その合意はまやかしにしかならないのはほとんど自明ではなかろうか。

P41 「他方、国民の中にある批判や懸念は、本質的に、専門家による見解と対抗専門家による見解との弁証法的な関係から生じている。科学による論証とその論理に対する批判がなければ、危険ははっきり認識されないだけではない。批判や不安の対象や事件がしばしば目に見えないことから、危険に全く気づかないことも多い。ある有名な言葉を引用すれば、社会的な合理性によって裏づけられていない科学的な合理性は無意味であり、科学的な合理性のない社会的な合理性は盲目なのである。
 二つの合理性について一般的な協調のイメージを抱いてはならない。現実はその反対である。すなわちどちらの合理性が妥当するかで競合し対立しているのである。二つの合理性のそれぞれにおいて全く異なった点が検討の中心となる。すなわち、社会的合理性においては、工業的生産様式を変革することが重要であり、科学的合理性においては事故の可能性を技術的にコントロールすることが重要である。」
※危険は知ることの問題と関連していると考えている。

P44 「ここでもう一度はっきり述べておきたい。結果としての被害が生じるかどうかは、仮定された因果関係の解釈に科学的な根拠があるかどうかとは全く関係ない。しかも、科学者の間や関係分野の内部においてさえも、因果関係に関する見解は大きく異なることが多い。つまり、何が危険に当たるかという定義を下すことによって生じる社会的な影響は、科学的な裏づけに依拠していないのである。」
P45 「言い換えれば、高度に細分化された分業体制こそ、すべてにかかわる真犯人なのである。分業体制が常に共犯となっていることが全般的な無責任体制をもたらした。それぞれが原因であり、かつ結果であり、それと同時に原因ではない。登場人物と舞台、作用と反作用が常に入れ代わる可能性があるので原因が消えてなくなってしまう。この結果、システム的な思考の必要性は当然のこととして受け入れられている。
 以上において例示的に示されているように、システム的な思考が何を意味するかは明らかである。つまり、自分の行いに対して個人的に責任を持つ必要もなしに何事かをなし、さらにその行いを続けることができるというわけである。」
p47 「しかし、他方危険の論証が社会に衝撃を与える場合も、非現実性つまり未来の予測された危険に基づいている。そうなると、その危険は、それが現実に生じた場合、事後の処理が実際には不可能になるかもしれないほどの規模の破壊であるかもしれない。そこで、予測されている段階で将来の危険をくいとめることが重要となる。それゆえに、危険の意識の根元は現在にあるのではなく、未来にある。危険社会において、過去は現在に対する決定力を失う。決定権を持つのは未来である。非実在的なもの、虚構のもの、擬制的なものこそが、現在の経験や行動の「原因」と言い換えてもよい。今日われわれは、明日の問題である危険を防止し、和らげ、対策を考えるために行動を起こす。さもなければ何もしないかのどちらかである。」

p82 「危険に曝されているか否か、自分の曝されている危険の程度や範囲、あるいは、それがどういう形で現れるか。これらについては、原則として他者の知識に依存しているのである。危険状況は、こうして階級状況では見られなかった依存性を生み出すのである。つまり当事者は自分にふりかかった事柄に何の権限も持ち合わせていない。知る主権の重要な部分を失っているのである。有害物、危険物、敵はあちこちで待ち伏せをしている。しかし、それが自分にとっていいのか悪いのか、自分で判断することはできない。知識をつくり出す人々の見解や論議に委ねなければならないのである。」
※これは大きく分けると、私にふりかかる危険要素の程度を測定することができないことと、どれの程度危険なのかという尺度の存在、両方の欠如による。仮に前者の問題が解決しても、後者の問題は確実に残る。
 科学の知はいままでの我々の生活の自然にまで知を与える。

P86−87 「通常の需要とは違って危険の方は(宣伝などで)その需要が喚起されるだけでない。危険は売れ行きに応じて販売期間を延ばしたり縮めたり、つまりは操作自由なのである。危険の定義を変えることにより、全く新しい需要と、また同時に市場がつくられる。特に危険を回避するための需要はさまざまに変化する。危険はどのような解釈も可能であり、どのような因果関係の推定も可能である。その需要は限りなく増大するのである。」
☆P89−90 「世界は危険を知覚している者と、危険を知覚していない者に二分される。その場合、大衆は危険を知覚していない者に属することになる。……国民一人ひとりのイメージは、まだ十分に専門知識を有していない素人技術者ということになる。こういう人間には技術に関する詳しい知識を与えてやればよい。そうすれば、専門家と同じように、技術が操作可能なものであり、危険といっても本来は危険でない、と考えるようになるだろう。大衆による反対、不安、批判、抵抗は純粋に情報の問題なのである。技術者の知識と考えを理解さえすれば、人々は落ち着くはずである。もしそうでないとしたら、人々は救いようもなく非合理な存在である。
 しかし、この見解は誤っている。たとえ、高等数学を駆使した統計や科学技術の装いがほどこされてはいるといっても、危険について述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくるのである。このような判断は、われわれが自然科学や技術科学の領域を無制限に侵犯することによってのみ下すことが可能なのである。」
※この議論はもう少し具体的にしてもよい気がするが、的を得ている。リスク・コミュニケーション論者にもこのような誤った前提を置く者がいる。

P96 「自分の説明や経験は、科学が知らぬ存ぜぬでこり固まっている限り、世間には通用しないということを、農家の隣に新しい化学工場が建って以来、農家の牛が黄色くなったとしても、これが「科学的に証明されない限り」問題にもならないのである。
 それゆえ、親たちは微力な個人ながら、近代化に伴う危険に関しては反専門家になる危険は親たちにとっては単なる危険にとどまらない。ひどい苦しみの中で叫び声をあげ、青ざめている子供たちそのものである。自分の子供たちのために彼らは戦う。この高度に専門職業化の進んだ世界で、誰もそれぞれ何かしら権限を有しているが、近代化に伴う危険を所管している者はいないのである。そこで近代化による危険に対しては告発者が登場するのである。危険の告発者たる両親はデータを集め論理を構築する。」

p100−101 「危険学者たちはそのうえすごい魔法も使用できる。……普通の言葉に直せば、許容値あるいは許容量規定である。わからないということの別の表現である。科学者はわからないということが絶対ないので、このわからないということを表すのにたくさんの言葉や方法や数値を使う。危険と取り組む際、自分たちもまたわからないのだ、ということを表す主要な言葉は「許容値」という言葉である。さてこの言葉を解読してみよう。
 ……許容値により、その範囲は限定されるものの、有毒物質の生産が許され公に認められる。汚染を制限する者は、結局汚染に対して許可を与えたことになる。これは現在許可されたものは、例えどんなに有害であったとしても社会的に下された定義では「無害」ということを意味する。なるほど許容値によっては最悪の事態は避けられるかもしれない。しかし、これは自然と人間を少しなら汚染してもいい、という「お墨つき」ともなる。「少し」がどのくらいかが問題なのである。植物、動物、人間が耐え得るのは、ほんのわずかな危険なのか。それとももう少し大きい危険なのか、また少しといってもどのくらいか。ここで「耐え得る」とは、どういうことを意味しているのか——。許容値規定をめぐって、先進文明の汚染対策の現場からはこんな無邪気で恐ろしい問いが発せられているのである。」
※結局危険の存在自体を否定することになる?
P105 複合的要素の相乗効果による危険は、個々の要素からの危険とは異なる!
※ただし、事例はない。
P109 「誤った推論はどこにあるのか。まさに、何も起こらないということがそれなのだ。行われたはずの人体実験が行われていないのである。正確に言えば、人体実験は行われている。ある一定量の毒物を実験動物と同様に人間に対して投与しているのである。ところが、人間の反応については体系的にデータを取ったり、その値を吟味したりしない。動物実験の場合には、人間には何ら役に立たないのに、非常に慎重に報告書にまとめられ、相関性が検討されてきた。それが人間が示す反応については、用心して知らん顔を決め込む。あとから誰かが名のりをあげ、実際この物質が私に害を及ぼした、と証言したら別であるが。人体実験はやはり行われているのである。しかし、目に見えないし、科学はこれを体系的に管理することもしない。データ収集もなければ、統計もなく、相関関係が分析されることもない。」
※これもまた実証的には提示されない。そして動物実験まで全否定している!ベック自身これは人間が実際に悪い症状を訴え、検証し、それを長期的に集めた場合(これは限定された条件の中での出来事ではないので、もはや実験とは言えない気もするが)に見解を示せるものだと考えている。
P110 「一種の長期実験とも言うべきものを、行わなければいけない。この実験で、実験動物である人間が、専門家が批判的にどんなに額にしわを寄せようとも、自らを救う運動の一環としてやらなければいけないことがある。それは毒物によって自分自身にどんな中毒症状が表れたかというデータを集め公認させることである。」

☆p114 「被害者たちの危険意識は環境保護運動や産業化への批判や専門化への批判においてさまざまな形で現れる。その意識の中にも、今の議論に対応して、多くの場合、科学批判的な意識と科学信仰的な意識の二種類の意識がある。ここで科学信仰が確固とした基盤として登場するという実態は逆説を意味する。つまり、近代化を批判するにあたって基本的に必要なものが、まさにその近代化への信仰であるからである。そこでは、危険意識は伝統的な危機意識でもなければ、一般の人の危機意識でもない。それは本質的に、科学によって規定され方向づけられた危険意識である。なぜなら、そもそも危険を危険と知覚し、自分の考えや行動の基準とするためには必要なことがある。それは、多くの場合、客観的にも、時間的にも、空間的にもはるかに離れているさまざまな要因の間に、基本的に目に見えない因果関係があることを信じ、多かれ少なかれ恣意的な予測を信じることである。そして、どんな反論にも動じないという免疫をもつことである。」
p122 「不安や不確実性を克服するための伝統的な制度である、家庭、結婚生活、男女の役割、階級意識、そしてそれに関連する政党や機関は、このような状況でその意義を失う。同時に、不安や不確実性を克服することが、個々の人々に要求される。このように、危うさを自分で処理することが強く要求されるようになると、遅かれ早かれ、専門教育、病気の治療、政治などにおける社会的制度体も新たな要求に直面せざるを得ないだろう。そうなると、危険社会では、不安や不確実性といかにかかわるかが生活経歴上や政治上も文明社会に生きるための重要な資格となる。そして、資格取得に求められる能力を育てる専門教育や教育機関の重大な任務となる。」
※読み替えると、不安や不確実性に対処できるような主体を形成することが求められており、教育に持ち込まれるという見方も可能。

P180 「失業が人生のある局面において配分されるということが、新たなる貧困の特徴になっている。貧困が広がり、一段とひどくなっているのにかかわらず、私的なことに転化され隠れたままになっている。」
P190 個人化のよる階層崩壊、それに伴う参照点の消失…「その結果、人間はますます、自分のことがわからなくなり、自分は一体何者なのかと問い、自己確証を行う迷宮の迷い込むことになる。」

P265—266 「これと同時に、制度への依存性によって、個人化した社会は、紛争の可能性や、伝統的な階級の境界を横断した結合や連合に対して、抵抗力のないものとなる。労使関係の対立は、特定の対立として中心から退き、中心にはさまざまな形態の対立が押し出される。そこでは、私的存在のなかで排除された社会性がそのつど紛争を起こしつつ優勢になっていく。おそらく、自分の庭の近くの家並みの続く長い通りが整備された、学校での子供の情況がきびしさを増した、あるいは近所に核廃棄物保管施設ができた、といった出来事が、「集団的運命」という観点を意識させるのであろう。」
※これも実証的な証拠が欲しい。

P314 「すなわち、近代化に伴う危険が科学化の対象となることによって、潜伏していたものが顕在化してくるということである。」
P315 「すなわち、自己内省的な近代化は、民主主義の高度な発達、科学化の貫徹があって初めて成立するのであるが、科学と政治の区別をなくしていく。科学による認識の独占と政治による変革の独占はその境界線が不明になる。」
P317—318 「この点から、科学も二つの発展段階に区別することができる。すなわち、単純な科学化の段階と自己内省的な科学化の段階とに分けられる。科学の応用は、既成の世界、すなわち、自然と人間と社会に対してまず始められる。それが自己内省の段階になると、科学は自らの生み出した物そのもの、自らの欠陥そして科学が生み出す結果として発生する諸問題と対決しなければならない。すなわち、文明による第二の創造物に直面するのである。」

P330-331 「つまり、もはや科学を媒介としているというだけではない。厳密な意味において科学という構造の中にとり込まれているのである。この事実は「素人による反対」の重要性を減少させるわけではないが、素人が媒介手段としての「対抗科学」へ依存するようになることを示している。すなわち、危険を診断しその原因と闘うことは、多くの場合、科学化のもつ多くの測定器、実験装置、論証の手段などを利用して初めて可能となる。このために高度な専門知識、新しいタイプの分析に対応しうる能力、および一般的に費用のかさむ技術的な設備や測定機械を必要とするのである。
※なぜこのような対抗科学としての対抗が必然化するのか??
P342 「守られるべき境界線や管轄領域をはっきりさせる境界線はもはや存在しない。すなわち、科学の有効性と科学の成立、科学の成立の状況と科学の応用の状況、価値の次元と事実の次元、科学と政治、これらは相互に浸透して、簡単には分離することのできない新しい領域をつくり出す。」
※このような差異の消失は、「実験」という環境そのものの否定など、議論の余地のある観点を無視しながらなされているように思える。ジラールの模倣論さえ適用できるのではないか?なぜなら、基本的にこの危険社会の議論は負の分配の問題を扱っているから。科学同士の対立の話はどこから来た?むしろ、科学対素人の問題が重要である。

P365—366 原因排除か対処療法か…「近代化に伴う危険は近代化自身が生み出したものであるという認識は失われる。これは糖尿病、癌、心臓病など文明病に対する処置を例にとることにより、はっきりと見ることができる。これらの病気はまずそれが発生した領域において克服し得るものである。つまり労働負担の軽減、環境汚染の改善、健全な生活と十分な栄養補給により克服できるのである。これに対して、さまざまの症状は医薬品によっても軽減することができる。もちろん、病気克服のためのこれらの二つの異なる方法は互いに相入れないものではない。しかし、本質的な治療を考えるならば正直いって後者の方法など問題外である。にもかかわらず、われわれはこれまで医学的また化学的な「治療法」を選んできたのである。」
※たとえが非常に悪い気がする。これだとまるで糖尿病や癌などが食生活や環境などを原因に発生したかのように読みとれるが、その認識は正しいのか?また、我々がこれまで対処療法をとってきたという認識も正しいのか?もう少し具体的な証拠が欲しい。
☆P369 「すなわち、発展の形態としては、未来を固定化してしまう発展か、それともさまざまな可能性を未来に残す発展かという二つの発展のパターンが考えられる。そのどちらかを選択するのだろうか。まだ未知ではあるが予測はできる「副作用」という人類の未踏領域に向かって一歩を踏み出してしまうのだろうか。あるいはその前で踏みとどまることができるのか。一度歩き出したらもう立ち止まることは困難である。したがって、われわれは後者の道を選ばなければならない。そこでは決定を修正することによって、後になって認知された副作用を解消することが常に可能となる。」

p378 産業社会における半面的な民主主義…議会制民主主義の原則に従う決定と、企業や科学に属する決定
p390—391 「政治(サブ政治)の領域では唯一の、あるいは最善の解決策というものはなく、さまざまな解決策が存在するだけである。その結果、政治の決定過程はどんなレベルのものであっても、もはやどこかの指導者とか賢者による事前の規範的決定の実施とは見なされなくなる。かつては、この規範的決定にあっては、決定のもつ合理性は議論の余地がないほど絶対であった。つまり、下部機関や利益団体、市民グループの反対の意志や「非合理的抵抗」があっても、それに有無を言わさず実施することができたし、また実施しなければならなかったのである。現在はそうではない。むしろ、政策プログラムの立案や決定の構成、さらにはそれらの実施は「集団による行動」の一つの過程として理解されねばならない。それは理想的な表現をすれば、集団で知恵と能力を出しあって学習したり創作するということである。しかし、反面そのために、政治的機関の性質上集中して属するべき決定機関が分散してしまう。政治=行政システムはもはや政治が行われる唯一の場所、あるいは中心ではありえない。まさに民主化によって、形式的な権限や機能の規定にもかかわらずさまざまな形で政治への参加が生じ、政治的取り引きが生じ、法の解釈が変えられる。そして、これらに対する抵抗も生じる可能性がある。」
p398 「司法のサブ政治としての独立の傾向は、法廷に持ち出される多くのテーマや紛争が社会的な一義性をなくしたことによって一層強くなった。」
p398−399 「立法権は州レベルでも、連邦レベルでもあるいは欧州共同体というレベルでも、同じレベルの、または上位のレベルの立法権とすぐに衝突する。この種の立法権の紛争に対して司法の審査手続きが行われると、裁判官の判決は政治システムの中に入り込み重要な位置を占めるようになる(法律学者の行政独占を強める)。そして、それによって政治システムの形成力の範囲が狭められる。」

p418 「医学というサブ政治においては、それがもつ高い実効性と匿名性が結合することによってその形成権力が強められている。医学というサブ政治はその境界を自由に越えて、政治に影響しうる範囲を大幅に上回る範囲で社会変化を引き起こすことができる。ところが政治の場合は、議会における審議を経なければ、実行への門は開かれないのである。今述べた意味で病院と議会(もしくは政府)とは十分比較しうる存在であろう。それ以上に、両者は社会的生活基盤の形成と変化に関しては機能的に同一である。ただし、議会は、病院のように影響力の大きい決定を下したり、その決定を直接実行に移せる可能性をもたない。この点で議会のもつ力は病院とは全く比較にならないほど小さい。」
p421 「こうした条件の下で「既成事実の政治」が推し進められており、それは生と死に関する文化的基盤にまで及んでいる。この結果、医学という職業は、「新しい知識」をつくり出すことによって、医学的治療サービスの意義と価値に関する外部の批判や疑問から逃れることが可能になる。大衆からの期待と大衆のもつ判断基準にはもはや拘束されない。「内省」的な基準、すなわち医者が、研究、診断や治療を通じてつくり上げ、定義を与えた変更可能な基準がその代わりに用いられるようになる。」
p423−424 「一般化していうと、医学においてサブ政治のもう一つ新しい特徴が現れている。それは他のさまざまな行動分野でもいろいろな形で観察されている特徴である。通常の政治にあっては意識された影響と実際の影響とは基本的には一致する。しかし、サブ政治にあっては、意識された影響と実際の影響や社会の変化とは全体として一致しない。言い換えれば、引き起こされた社会の変化によって、それに対応する権力が獲得される必要はない……このようにして比較的少人数の人間遺伝子工学の研究者と専門医師たちは、問題意識も計画も持たずに(それは見たところ臨床医学にあっても通例であるが)、われわれの生活を覆そうとしているのである。」
※この社会の変化と権力の関係の問題はこの文にかかる。「職業としての医学に携わる個人の利害関係と、職業としての医学が主張し果たす政治的または社会的役割とははっきり区別される。警察官、裁判官、行政職公務員については、彼らが任されている支配権力で、領主のように私腹を肥やさないように、法律規則や管理や上司が存在するのである。彼らの個人の経済的利益とその職務の有する目的や副次的影響とが一致しないような制度的仕組みになっているのも、そのためである。ところが、医師にあっては自分が引き起こす社会変化とは切断されている。医師は自分が引き起こす変化を自分とは関係ないもの、臨床医学の副作用として片づけてしまう。」(p423)
 リスクを残しているという状況は医学の怠慢の結果である、という風に読めてしまう。また、結局制度的枠組みでできることが、あくまで枠組みを作ることでしかないことを実証しているようにも読める。枠組みを無視して公務員などが不正をすることまでは規制が不可能であるということである。そうすると、その形式的なものだけで我々が本当に満足するかもまた疑問であり、政治による決定と専門性の決定を対立させた場合に、政治が絶対的に優勢となることもなくなる(これが実際の政治不信の問題でもある)。

P441 「企業家や科学者は、既存の社会秩序を革命によって覆そうとする計画に日夜かかわっている。しかし、これらの計画に関して彼らは何も権限をもたないし責任もないと公言しているのである。企業家や科学者はもはや信頼するに値しない。また、社会的に期待されている役割も果たしていない。」
※責任の問題と責任の発生は我々の委任した人物により初めて生じることとは全くことなる。まず、匿名性の有無が問題ではないか。そして、政治的な責任というのが、そもそも何かよい方向に機能すると考えてよいものか?これも形式的なレベルでの評価でしかなく、実態にそぐわないといえるのでは?
P444 「いったん危険が発生すると、政治がそれについて何も知らないことのために宣伝を行っているということで公然と批判が起きる。そして、有権者の支持も失われる。危険は国家の管轄するところとなり、問題を起こした産業における危険の発生過程への国家の介入も求められることになろう。それまでこの産業は政治の枠外で自由が与えられてきたのである。ここで規制の必要が生じる。生じた危険はその発生を許してはいけないものである。」
P449 「民主主義化によって達成されるべき目標は明らかである。つまり研究や投資に関する決定がなされて、その後で公の場で政治的議論がなされるという事態を打ち破らなければならない。この要求を言い換えればこうである。マイクロ・エレクトロニクス、遺伝子工学等がどのような影響をもたらし、どこまで許されるかについて、議会において議論されるべきである。それも基本的な決定が下され実行に移される前にである。その結果として生ずる事態は容易に予測ができる。企業の合理化と科学的研究とを官僚制と議会とが邪魔することになるのである。」
P457−458 「私の解答はこうである。サブ政治の影響力を一定範囲で育て法的にこれを保障することによって、それ(※「死や生を定義する科学研究を、法令や議会の決定によらずいかにして統制しうるか」(p457))が可能となる。最も基本的なものは、明らかに、強力かつ独立した司法、それからマスメディアの受け手としての強力かつ独立した大衆である。もちろんそのための前提条件が満たされることも必要である。これらはサブ政治による統制システムの中の二本柱である。もちろん、過去の経験が教えるように、この二つだけでは十分ではない。これを補完するものが必要となる。独占を行う者が等しく価値を認めるのは自己統制であるが、この自己統制は自己批判によって補完されなければならない。」
※後半の「補完」については、専門家同士の議論の重要性を指摘する。
 ベックは最後に3つの方向性を提示した。旧来の産業社会型をそのまま維持するか、古い型の民主主義に戻すか、脱中央化した政治(サブ政治)の重要性を認めていくか。おそらく最後に示した立場がベックの理想と思われる。
 やはりベックには真理が一つであるという信仰が強いようである。これはハーバマスなどもそうだが、議論のなかで真実を見出すことが可能であると考えているということを意味する。しかも、そのコミュニケーションの中で真理となる枠組みの存在を前提にさえすることになってしまう。この前提は「受忍なき合意」には必要である。



(今改めて読み返してみて)
 私がベックを評価していたのは、総論として科学(専門性)への問いを提起している点です。危険が噴出した際には個別の問題としては提起されますが、それを専門性というものまで拡大した、それ自体を問うというのは、根本的な諸問題の解決策にも繋がるものだと思います。
 ただ、各論的に見てしまうと、随分と適当なことを言っているようにも思いました。例えば、生活習慣と生活習慣病の関係性についての記述(p365−366)。あたかも我々の食習慣などが悪くなったことが原因であり、更には食生活等の改善でこれらの病気にかからないかのような既述がされています。これはちょっと調べればわかることですが、かなり疑問で、どちらかというと「発達障害は家庭環境が悪いのが原因。家庭環境がよければかからない」並のトンデモ因果関係論を展開しているように思えます。

 今回取り上げたいのは「リスクコミュニケーション」に関するものです。「専門性(サブ政治)と政治」についても重要な議論をしていましたが、次回に持ち越します。3つの切り口からリスクコミュニケーションを考察してみます。

切り口1:確率と価値
 ベックを初めて読んだのは、私が卒論でこのリスクコミュニケーションを扱おうと思った際にでしたが、その際に取り上げた見方です。
 我々のリスクに対する判断モデルとして、確率論の期待値モデルをそのまま適用させてみれば、「危険因子をもつ事象が発生する確率」と「その危険に対する損失」の積で、その期待値を産出することが可能となる。つまりこの期待値の大きさによって、我々の危険意識を測量できないかと(当初)考えた。
 このモデルのメリットは危険事象の確率の議論と、それに与える価値の議論を分割可能にした点である。そしてもう一点、この「価値」の問題を明確にすることで、リスクコミュニケーションを機能させるための作動条件を確認できる点であった。つまり、この危険の損失というのが無限大になっている場合、事象発生の確率がいくら小さくても、無限小(つまりは0)でない限りは、リスクは無限大になるのである(0以外の数に無限をかけたら無限になるということ)。このようなリスク評価が行われる状態においては、確率をめぐる議論はそれ自体どれだけ厳密なものであろうと不毛なものとなる。もし、損失価値に無限大を導入するなら科学を語る必要はもはやなくなってしまうのである。この無限大の導入は、「人の死」としてなされる場合がわかりやすいだろう。

 では、無限大によるリスクコミュニケーション不能がどうすれば回避ができるだろうか。3つ考えられる。
 1つは、無限大化しうるリスクを隠蔽することである(危機が起きても死にません、と強調すること)。この態度はベックが強く批判しているものであり、事象が起きたあとだと対処できない対処法である。
 2つ目は、民主主義的な決定を行うことである。そのようなリスクがあることをあらかじめ、自分自身の意志を反映した決定で「許可」する形とするものである。前にレビューしたレッシグが好んだ方法である。が、この方法には「許可」において私自身の意志を反映できるのかという問題と、危険のある決定は必然的に回避してしまう可能性があるため、根本的な解決策とはなっていない。
 そして3つ目だが、利益の観点を加えることである。これはリスクコミュニケーション論に対する私の結論とも関連するが、「リスクのみを議論していて、問題など解決するはずないではないか」という考えを前提にする。なぜ、負の贈与のみを取り上げるのか、実際の負の贈与の分配問題ほど、不毛なものはないと思う。実際、原子力発電所を受け入れている自治体は金銭的に潤っている。利益が与えられ、なおかつ適切なコミュニケーションが行われた上での決定がなされれば、事後的な危険は問題視されなくてもよいのではないだろうか?その場での民主的な決定を行っているという条件は、ベックの意向にも沿ったものである。
 ただ問題なのは、利益を受けていた者と事後的に不利益を受けた者は非対称になること、原発の例でいくと、原発を設置した自治体の周辺自治体は利益がないのに、被害が拡大すると、リスクのみを受けることになるという可能性がある、という点である。この場合、事後的に補償を行って解決してしまえばよいのでは、という考えもあるかもしれないが、事後的な解決を行うような方法はベックの指摘する民主主義の方法には沿わない。

切り口2:不利益と利益の可視化の問題
 ところで、「危険に対する価値観」というのは、極めて主観的なものであり、個々人の認知のあり方が重大になってくる。
 ベックは危険が専門性によってもたらされると指摘した。しかし、これは必ずしも専門家の意志が関係するとは限らない。例えば、新薬の使用についてはどうか。これについては、通常、副作用などの発生が国の安全性の基準をパスしたものについて、国内での使用を認めている。ここで、国がこの基準を厳しくしていた状態があったとしよう。その中で、その薬がないと死んでしまう可能性が極度に高い人がいる場合、その人や家族は、新薬を求めないことがあるだろうか。多少のリスクの可能性を置いといて、使用したいと思うのではないだろうか。仮に副作用で亡くなったとして、その薬を使ってしまったことについてどう考えるだろうか?
 逆にすでに国で認められている薬を使用しており、そのリスクで亡くなった場合はどうだろうか。この両者の場合で態度の取り方が変わるのではないか、と考えられるのではなかろうか?

 この切り口で言いたいのは、リスクがとりわけ強調される議論において、利益はないのか(なかったのか)、という問題である。ベックは少なくとも、利益を直接的には前提とせず(技術の発展という文脈でそれを認めるが)、終始不利益を強調する語りをしている。そして、ベックは更に、このようなリスクの存在を専門家の怠慢の問題として片づけようとしてしまう。この認識はおかしいのではないか、と思う。これはベックが専門性よりも政治を評価するときにも見られたが、不利益の存在を強調することで、そこにあったはずの利益の存在を隠蔽してしまってはいないか?
 
 この議論の前提として見られるのは、レッシグでの議論にも似ているが、共同での決定による「許可」の領域、自己責任の領域、共同での決定のよる「禁止」の領域の3つである。自己責任の領域の有無についてはどのようにとらえるべきか難しい。
 それは「許可」の領域に属しているともいえるが、リスク論においては、共同の決定の不完全性に加えて、実際にリスクのあるものを許容した決定をした際に実際に使うかどうかという問題が発生する場合に生じる領域であるととりあえずいえるだろう。理念的には、自己責任の領域は徹底的に除去する可能性もありうる。しかし、この厳密な制約は、死のジレンマを抱えた新薬問題においては、かえって不利益になりうる。
 また、自己責任の問題も、リスクコミュニケーションが有効に作用しているのであれば、問題ないのではないか?その薬の服薬による効果と副作用の危険の可能性がしっかり理解できており、その上での服薬がなされていれば、問題ないのではないのか、と考えられる。しかし、現実にはこのような選択肢がとられることは難しい。
 それは、実際にその自己責任問題を認めないという動きから確認できる。たとえば、子どもがモノを喉に詰まらせて死亡した場合、まず、危険表示をしたかどうかが重要である(「飲んではいけません」という説明責任を果たさないといけない)。しかし、それでも問題であるとされる場合は、自己責任の領域を認めず、「禁止」の領域を作ることで解決がはかられることになる。もちろん、この「禁止」が問題でないのは、死のジレンマのような問題がなく、禁止したモノと類似した効果のある代用品があるということがポイントにもなってくる。

切り口3:専門家と素人…「確率」への懐疑
 しかし、よく考えると、どれくらいの確率で危険があるのか、という問題を確定させることは可能なのだろうか?確定はもちろん不可能であるが(未来の事象に対する予想であるから)、それを妥当なものとして設定することは可能なのだろうか?ベック自身の回答は可能であるとするが、それには時間がかかり、専門家のみでは解決が難しい問題だとしている(p109−110)。しかし、本当にそうなのだろうか?
 ベックは動物実験の有効性や制限された「実験」環境でのリスクの問題は不十分であるとし、実際の影響からこのリスク問題を考えるべきだと言う。これは要するに、実際の環境に遭遇しないと、そのリスクがわかるはずがない、という意味である。そしてそのような情報は専門家ではなく、素人の測定の積み重ねを重視することになる。
 あくまで素人も専門性のルールに遵守するべきである、という考え方はベック特有のものであると思う。これはベックがハイパー近代の支持者であることと強く関連しており、そのために専門性の要素は生き続けることを前提に議論した結果であるといえる。もちろん、このような考え方自体を否定して、専門性に依拠しない(恣意的な)政治決定を行うという選択肢もあるかと思うが、ベックはそれを認めない。これはやはり、ベックが科学自体の意義を基本的には認めている根拠となっていると思う。
 しかし、ベックのいう専門性は、専門性そのものの破壊も含んでいる。それが制限的な環境での「実験」の概念の崩壊にも結びついている。制限された前提を無視した形で集められた情報たちは、それを集約して統計化することに意味があるのか?どのような因果があるのか、という問題を、一定の制約を加えずに行わずに扱うことにはやはり無理があるように思う。それはもはや科学などではない。偶然の事象に対して恣意的な因果を結びつけることにしかならないし、そのようなことをすることに何の意味もない。ベックの言っていることは矛盾しているのである。
 しかし、ベックの言い分もわからなくもない。少なくとも情報は不十分であり、そこから何らかの決定を行う場合の困難さがあるが、科学に依存することで信仰として、不十分さを隠蔽してしまうことの問題は確かにある。いずれにせよ、この切り口は最初の期待値モデルの批判としてなりたつことはわかる。そうすると、仮に「価値」について適切な配慮ができても、「確率」に対する適切な設定は不可能であり、どちらにせよリスクコミュニケーションは不可能であるようである。

 以上考察でした。二つ目の切り口についてはまだまだ不完全な部分があります。今後の課題にしたいです。
 ハイパー近代の目線から、ということで取り上げようと思ったベックですが、よく読むとあまりいい例ではなかったかなというのが正直な感想でした。次々回にでも代役を立ててみたいと思います。

理解度:★★★★
私の好み:★★★
おすすめ度:★★★☆