作田啓一「生成の社会学をめざして」(1993)

今回も、欲望の議論に繋がるような本をレビューします。

(読書ノート)
p3 「しかし、マルクスの考えている無意識は制度が人間の中に作り出したものであり、フロイトの考えている無意識は人間の理性によってはとらえられない欲動(Trieb)に根ざしている、とされている。」
p3 「欲動は本能に近い概念であるが、本能よりももっと根柢的な層に位置している。たとえば、食欲という本能はそれを刺激するものが固定しており、また目標も固定している。欲動の場合は刺激物と目標が固定していない。」

p7 「しかし今問題にしているのは、自分だけを目的として幸福に生きることができるかどうかということではなく、人間は一般にいつまえも、自分だけのためであっても、生き長らえようとする願望をもっているかということなのである。どうして人間はこうなのだろうか。それは生の欲動と死の欲動、エロスとタナトスのあいだの調和が壊れてしまっているからなのだ。動物の中ではこの調和が保たれている。人間の中だけでは両者は調和せず、相互に対峙しているのである。」
※黒石の欲求・欲望の定義とは異なることがわかる。ここでの動物にも欲動は存在しているのである。
p7−8 「動物の個体は個体として平静に生き、種の一員として平静に死ぬ。ところが、人間の個体は個体として情熱的に生きる。つまり愛を激しく求める。エロスが肥大しているからだ。一方、人間は種の一員として安らかに死ぬことができない。個体が種の一員であるという限界を越えて、個体であり続けようとするからである。この独立への衝迫はタナトスの肥大を意味する。」
※この理由は、人間の早産にあり、独立までの間、大人の保護を要するからだとフロイト—ブラウン説はみているようである(p8)そして、エロスの肥大→タナトスの肥大という経路をとるようである。

p14 フロイトはまず、ニルヴァーナ原則、興奮をゼロにまで低減させようとする傾向に死の欲動タナトス)を見出したが、よく考えると、エロス概念にも緊張・興奮にはじまり、その解消によって終ることを考えると、エロス/タナトスはコインの表裏にしかならない。→これを新しいエロス概念とした
p15 そこでエロス概念の修正をフロイトは行う。「エロスはもはや緊張とその解消というサイクルを反復する傾向ではなく、対象と合一の範囲をますます広げる傾向とされるにいたった。つまり、諸要素を結びつけて全体を形成するエロスは、同じパターンを反復する働きではなく、より広い全体を形成する努力となる。」
「エロスにファウスト的な自己超越の情熱が付与されることに対応して、同じパターンを反復する働きのほうが、今度はタナトスとして定義されるにいたる。」
※結論を先取りすると、ここの議論が矛盾している。タナトスの定義が崩壊してないか?

p16 フロイト批判としてシャハテルの提出する対象中心性…「胎児から出発した子供が身体的、精神的に発達してゆくと、外界の刺激を好んで受容し、外界の対象との遭遇を通して自己の諸能力の表現を楽しむことができるようになる。」
※しかし、このような心性ができるのは何故か、という問いは残る。

p19-20 ミンコフスキーによる死の2つの側面…「内在する死」と「通過点の死」前者は生に従属する形で「緊張の続いた目標達成過程のあとにやってくる休息」として存在するもの。後者は外からやってくる。
※しかし、動物は「死を予見しうるほど知性が発達していない」ため「通過点の死」は知らない。「内在する死」を知るのみとされる(p22)。ただ、この論点で人間全般が「通過点の死」を知るという議論に結びつけていいのか?
p23 「不滅の個体であろうとすることは、全体から全く独立した個体であろうとすることにほかならない。」※この論点は重要かもしれない。死の考え方と自己の独立の考え方は同じ側面をもっている。私でないものが私であれば、私が存在する必要はないし、そこへの執着も存在することはなくてもよい。

p32-33 定着の論理と生成の論理は両方適用でき、そのどちらを適用するかは個人の選択にまかせられている。「しかし、人間の社会においては、さらに限定すれば特に近代の社会では、リアリティを分割する機能をもつ言語・概念を通してリアリティにアプローチする慣習が発達してきた。その結果、近代人は生成の世界をも定着の論理で考える傾向が広がった。……この種のアプローチ(※知覚や感情や動機を定着の論理で説明すること)は一般人の常識を超えると社会学者によって自負されているが、もともと定着の論理を広く適用するのが近代人の常識なのだから、社会学決定論は常識を超越する方向にあるのではなく、常識を綿密にする方向にある、と言わなければならない。こうして、社会学決定論のもとでは、どんな粉飾が施されようと、人間は環境や状況によって決定される操り人形にすぎない、ということになってしまう。いくら、人間には自発性がなどという粉飾だけの言葉で飾っても無駄である。生成の論理を適用しない限り、自発性なる語はどんな内容も指示することはできない。」
※補足。つまり自発性は本来「生成」の世界に属するものであるため、安易に定着の世界に属する言葉によって「自発性」を唱えても何かを説明したことにはならないという批判である。
しかし、そうすると生成の論理はどのようなものなのだろうか?「体験はその経験を生きる主体の直観の記号でしか表現できない。直観の記号とは、たとえば詩の言葉、メロディやリズム、絵画の中の色彩や輪郭や構図である。これらの記号表現の根底にある論理を仮に生成の論理と呼んでおこう。」(p30)と定義している。かなり正確な説明だろう。一般的な生成の概念と呼ばれるものの説明であるが、「仮に」という、かなり慎重な表現も用いている。このため、定義不可能性についての可能性、というものもまだ議論の余地はある状態。
→「科学の立場に立つなら、生成の世界を定着の概念により影としてとらえたうえで、その影から生成のリアリティを構成し直すほかはないのである。」(p35)ベルクソンやバーガーにも一定の距離を置いている。

p41 「溶解体験(※主客未分の経験の中でも対象中心的な没入)はそれが繰り返されないから、やがて忘れられてゆき、生きていくうえでの支えではなくなってゆく。しかし、ともかく数年のあいだは、この非日常的体験は日常生活に影響を与え続けた。私の言葉で言えば生成の世界は定着の世界とは無縁の単なる幻想ではない。前者は定着の世界での日常的行動に影響を与えうるのである。」
※これもまた重要な論点。ミメーシスの議論にも関連するが、結局生成と定着の議論を二分することについても、考慮の余地があるということ。二分するのであれば、相互関係についても注意を払いつつ、考察を進めることが重要であるということだろう。

p53 <監視する他者>と<育成する他者>の区分…「社会や集団のフォーマル、インフォーマルなルールを押しつける、自己にとって定着の意味をもつ他者」と「自己の中に成長のルールを発見し、そのルールに即して自己を成長させようとする他者」
※これは新しいフロイト区分としてのタナトスとエロスと関連する。したがって、この成長という言葉には「拡張」という側面が含まれる可能性がある。しかし、これは拡張なのか、という疑問がやはり発生する。枠組みの乗り越えが忘却の上に成り立ち、その忘却を甘受し続けるのであれば、それは拡張ではなく、ただの運動・移動である。
「現実の他者の多くは、この2つの類型を要素として含む混合型である。ただ、どちらの要素が優勢であるかにしたがって<監視する他者>か<育成する他者>かのどちらかに分かれる。」(p53)とする。結局ここの区切りは「生成と定着」しかないはず。この育成という言い方が「教育」と「学び」に似た(曖昧な)軸を感じる。どちらも成長自体に結びついているはずなのだが、言葉のチョイス的に後者の優位を感じてしまうのは何故だろう。
p57 育成する他者がIに対応し、監視する他者がMeに対応
p64 Iがエロス、生成の世界に属し、Meがタナトス、定着の世界に属する

p71-72 「子供は個々の対象に関して生きているものと生きていないものとの区別を言語の習得以前から知っているが、言語はこの区別を生・対・死という形で2分法化し、一般化する。そして、子供は自分も生きものである限り、いつかは必ず死ぬことを予知する。この「通過点の死」の観念に人間は終生とらわれる。死へのとらわれから脱け出そうとして、人間は個体の不滅を願う。」
※「動物化するポストモダン」という言葉ほどこの議論の批判として妥当な言葉はなかなかないのではないか。但し、動物化とはむしろ歴史的に「発見された」状態と見た方が正確かもしれない。
p76 「大きな「Me」の塊がいくつも投げ込まれて、流れをとどこおらせているのかもしれない。「I」の流れがか細くなっていることを感じた時、人はもっと完全に、もっと充実して生きたいと願う。これが自己超越の欲望である。自己超越あるいは自己完全化の欲望がこのようなものである限り、この欲望は思春期に特有のものではなく、生涯を通じて人間を動かし続けるものと言わなければならない。」
※上に同じ。安易に成長の議論を持ち込みすぎており、「教育」と「学び」における議論のねじれと同じことをしている。

p88 「防衛の態度から解放されると、主体は客体を自己にとって有益かどうか、有害かどうかの観点からのみ眺める功利主義的な関心の代わりに、客体への純粋な関心をもつことができるので、客体の全体が知覚され、その知覚にもとづいて客体の全体と自己の全体とを結びつける態度が生まれる。これが対象中心性である。……母親への埋没状態から独立した主体は、より以上の自己充実(自己完全化)をめざして自由に客体と交わっていく。」
※読みかたによってはここでの自己充実は、主体と客体が分化した状態から、さらにそれを徹底的に分化させていくための動き、とすることもできる。
p93 「そこで、主体は対象を超えた何かが対象に宿っていると感じるので、対象のどんな精確な知覚も十分にそれをとらえてはいないと感じる。対象はとらえ尽くすことができない謎を常に秘めている。それゆえ、対象中心的な結びつきは孤立した特定の対象との結びつきであるよりも、むしろそれを超えた何ものかとの結びつきである。この結びつきにより、自己は個体の限界を超える。ここで再び、対象中心性を特徴とする自我を超個体我と呼ぶ理由が見いだされる。」
※こじれた議論をそのまま通す根拠となる内容。まさにミメーシスの議論。「すごいもの」への出会いとそれによる感染・模倣。そしてそれによる「成長」。この主張のおかしさはむしろミメーシスの議論をすることで見えてくる。
 まず、重要なのは、ミメーシスが今示したようなパスのみを通じて起こるわけではないということ。ジラールの一連の「悪い模倣」の議論が適例。そして「良い模倣」の議論がしばしば「悪い模倣」の議論をしばしば無視したままなされてしまうことも、ここの主張の問題点である。悪い模倣としての「溶解体験」もまた存在するのである。
 もう一点、これがなぜ「学び」サイドの議論と結びつくのかが理解できない。宮台真司がミメーシスの議論をするとき、むしろこれを「教育」サイドの議論ととらえているし、これについては私も賛同している。超越の世界に与えられたか・自ら手に入れたかは関係ない。単に自らの主観に立った上で、より大きな世界かと「思う」かどうかだけだ。教育論(つまり、我々は教育によって何を与えるか)を語れば、「教育」サイドになることはある意味当たり前ではないのか。

 結局何がおかしな議論なのか。p24の「生のサイド・死のサイド」の図式に立ち戻りたい。生のサイドは修正されたエロスであり、ここには内在する死の循環が含まれる。そして死のサイドには通過点としての死が存在する。両者ともに別離・独立するための方向性が存在し、一方は「自己完全化」、他方「死からの逃走」として描かれる。何がおかしいかは簡単で、一方は生成による拡張を「必然」とする可能性、他方は死への恐怖と逃走を「必然」とする可能性である。どちらにせよ必然性は存在しないはずだ。そうたらしめるものが何なのかについての言及はない。ちなみに「死からの逃走」とは、死を引き伸ばそうと願望することだ(p22)。
 そしてこの図式というのは、「成長たらしめる反復と単調な反復」という軸によって構成されているのではないのか?これは「生成と定着」の軸とは異なる。定着の側面を全て生のサイドに送り、「生成」を前提としながら「成長/非成長」という軸によって構成していないか? 何故監視する他者やMe、定着の世界がまとめて「死のサイド」としてまとめたのだろう?この矛盾点が根本的におかしな議論を生んでいる。
 さらに、死のサイドの要素というのが、必然性の世界のみしか存在せず、存在しない可能性についての考慮が全くない。この軸ので議論すること自体が実体に可能性さえある。

p84「したがってそれは、自己完全化ないし自己超越という方向性をもっており、無方向のエネルギーではない。人間は人間である限り、普遍的な目的に方向づけられている。」
※自己完全化の定義の議論についての続き。読み方によっては徹底的分化、すなわちさらなる「独立」化を生むという読みが終始可能だが、やはりp15の修正されたエロスの議論の文脈を引き継いでいると思われる。
 まず、より大きなものを希求するとする意思として自己完全化は定義されている。しかし、実際に自らが完全化(いわば「成長」)所まで定義として含むのか。やはりここは「成長/非成長」の軸を見出すことが可能な構図のなかでは、直接的言及がなくても、前提とせざるをえないのではないか。

p94 「そこで、詩人や小説家は彼らの対象中心的経験を表現するために、あらゆる既成のラベリング用の言語をできるだけ遠ざけようとする。彼らは彼らの経験を喚起するために新しい言葉や文体を作り出したり、それができなければ既成の言葉や文体に新しい意味を盛りこめようとする。しかし、経験の対象はとらえ尽くすことができない性質を帯びているために、同種の経験を別の言葉や文体で表現しようとする努力を、飽きることなく繰り返すのである。」
※この議論は「生のサイド」の話なのか、「死のサイド」の話なのかわからない。

p173 ターナーの「真の自己」の話
p174 この20年(?)の間で真の自己の同定が制度所在観から、衝動所在観へ変化している。システム化による影響が大きいとみる。
p176 「「ありのままの自己」と「望ましい自己」の対立、現実我と理想我の対立はターナーの図式には存在しない。それはおそらくアメリカ文化の理想主義的特徴のせいだろう。その理想主義のゆえに、「ありのままの自己」は常に「望ましい自己」への上昇傾向を含むものとして定義される。……しかし、私がここでターナーのリアル・セルフの意味論を持ち出したのは文化比較のためではない。ターナー自身が、その文化的背景のゆえに気づかなかったリアルという言葉の意味を明らかにしたいからである。」


(今改めて振り返ってみて)
 ノートだけ読んでもなかなか私の関心がわかりづらいと思いますので(自分も読み返しただけだとよくわからなかったw)、その整理を。

 結局私が疑問に思っているのは2点ある。
 一つは、本書で「生成」と呼ばれるものが直ちに肯定的に評価されていることである。これはp53あたりに露骨に現れており、「生成」が「成長」を意味する、と説明する点である。
 しかし、『生成』の定義は、この考察の場において厳密に「既存の枠組みを解体し、それとは異なるであろう枠組みへ再構成される」ことであるとして、まず考えたい。この定義はドゥルーズのいう「反復」と同義である(注1)。

 この『生成』はそのもので直ちに<大なるもの>を志向したり、「成長」を意味するものでさえない。これらは何かしらの意図により付随されるものである。
 ところで、この<大なるもの>と「成長」の違いは何を想定しているかというと、<大なるもの>は純粋に新たな知を獲得することだとか、何かしらの能力の上昇を意味する。一方で、それを「成長」と呼ぶ時、何かしらの『望ましい状態』が想定されており、そこに向かって『生成』されている場合に用いられていると考える。

 さて、本書で議論される溶解体験というのは、「自己は対象の中に没入し、対象は自己の中に浸透する。自己と対象は1つの全体の中で融合している。自己と外界とのあいだに境界線は存在しない」(p36)状態で起こるものである。この体験はわれわれの日常に影響を与え、活力を与えるものであるとされる。ここでの溶解体験のエピソードは極めてポジティブ、肯定的なものがチョイスされている。
 これはまさにミメーシスと呼ばれる議論と一致するものである(注2)。とりわけ教育論で語られるミメーシス論は概ね作田のいう溶解体験と同じようなことを言っている。しかし、この溶解体験、必ずしも良いものだけではないことには注意したい。これはジラールが「羨望」によるミメーシスを語る際に見られるものである。それは簡単にいえば「羨望」する人のようになれないという一種の絶望が生む溶解体験である。さらにはその妬みは他者にさえ「感染」するとされる。そこには「羨望」する人のようになりたいというポジティブな意味合いは存在しない。

 これは結局、我々が自分より大きな存在であるとみなした者・物に対する態度の違いである。我々は<大なるもの>に接した場合に、必ずしもその<大なるもの>に向かい続ける訳ではない、ということではなかろうか?ジラールの議論においては、それは脱落さえも生むことになる。この『生成』というのは、成長の可能性も含みつつも、危機でもあるのだ(注3)。少なくとも、このような緊張感を本書から感じることはできない。



 二つ目の疑問は、フロイトの場合は新しいエロス・タナトス概念の中に<大なるもの>への志向として、かつ人間はここへ志向されるかのように(必然性として)描いている点である。
 この必然性とは何か。簡単に言えば「自由への志向」であるといえると思う。「生命の高揚はまさに溶解体験に見いだすことができる」と言われるのは、まさに「監視する他者」は既存のルールを押しつけ、我々を不自由にするが、「育成する他者」は内的なものをそのままに尊重している、という違いからも窺える。つまり「自由への志向」が必然性の賭金である。
 ただし、ここでの<大なるもの>というのは、やはり主観的なレベルにおいてでしかないと思う。つまり、今現在の私によって<大>に見えれば(私に存在する境界を、外部にまで拡げる=自由化)、それでよいのである。

 この議論でやっかいな障害が2点ある。
 一つは我々が自由を望まない可能性についてである。「マトリックス」もある意味1作目では「マトリックスに留まり幸福を享受するか」「マトリックスから脱出して、自由になるか」という幸福/自由の対立する状況であった。幸福であれば、不自由さにも目を瞑ってよいのではないかという考え方は「動物化」の話なのではないか、とふと思ったのである(「動ポモ」をちゃんと読み返さないと正確かはわかりませんが)。動物化した我々にとって、この議論は必然ではない、という可能性である。 

 もう一点は我々は「忘却する」可能性がある、という側面からの障害である。極端ではあるが、認知症の状態を考えるとわかりやすい。私が<大なるもの>に近づいた(自由になった)瞬間があったとしても、忘却によってそれがなかったことになる可能性が出てくるのである。翌日に同じこと(大なり小なりの溶解体験)があっても、私は同じように<大なるもの>に近づいた、と実感するはずである。私にとっては自由になり続けているが、客観的にはそうではない、という状態の問題である。


 まあ結局、私の中でのフロイト評というのは、我々自身を理解する手だてを与えてくれている点で評価してますが、必ずとも全肯定ではありません。すくなくとも、エロス/タナトス構造の分析、という点においては、本書を読む限り、うさんくさいとしか思えない。機会があれば、フロイト自身の著書も読んでみようかと思います…


(注1)ドゥルーズは「差異と反復」の中で反復を3つの種類に分類している。このうちの一つは結果としては全く同じものへと反復するものであるので、必ずしも生成の前後で性質が異なっている必要もまたない、とも言えるか。

(注2)ミメーシスは模倣と訳されるが、模倣という言葉はネガティブに捉えられていることがある(少なくとも、ドゥルーズジラールの模倣論を批判している)。この模倣は確かに結局同じものをコピーすることを意味するのであろうが、ただ、「何故模倣するのか」まで問うのであれば、ドゥルーズジラールもさして大きな違いのある議論をしているようには私は思っていない。

(注3)結局、ミメーシスの議論を評価する立場は、この不確実性を踏まえてもなお評価をしているのである。グレゴリー・ベイトソンなどもその一人であり、彼もこのような溶解体験をどれくらい生み出せるかに重きを置いていたし、宮台の議論においても、よいミメーシスの機会を生む「可能性」のある環境を整えることを主張している。


理解度:★★★★☆
私の好み:★★★
おすすめ度:★★☆