『マトリックス』を見直してみる

 本以外のレビューということで、今の流れで『マトリックス』をレビューします。

 『マトリックス』といえば、ビッグブラザー的世界観が先行しやすいようにも思えますが、今回は排除プログラムとしてのエージェント・スミスに注目したいと思います。というのも、マトリックスの世界というのが、まさにレッシグや東の言っているアーキテクチャによる統治であり、そこから得られるものがあると考えるからである。

 まず、アーキテクチャについて確認しよう。
「ここで、「アーキテクチャ」とは、個人の自由意志に頼らず、人間の行動を管理し、秩序づけるさまざまなシステムの総体を指している。具体的には、モノとヒトの物理的な移動を制御する都市計画や交通体系、財を配分する市場、情報の流通を制御するコンピュータ・システム(コード)などが挙げられるだろう。」(東浩紀「文学環境論集」2007、p778)
「価値観の多様性をできるかぎり認めるが、そのかわりに共有するアーキテクチャへの攻撃は決して許されない。裏返せば、アーキテクチャの厳格な保守があるからこそ、価値観の多様性が可能になる。」(同上、p780)

 この「アーキテクチャ」はひとまず一つの層として描いており、それをコミュニティの層との対比から説明している。その定義付けには曖昧な点もあるものの、基本的には、アーキテクチャによる管理があるからこそ、コミュニティの多様性が確保できる、という点に集約される。
 このアーキテクチャの層の中でも、注目するのは、その排除的な性格の側面についてである。

 エージェント・スミスマトリックス上のプログラムの一つである。そしてスミスは排除のプログラムとして機能している。これはアーキテクチャの役割として挙げていた点とまさに一致する。アーキテクチャは人間の最大限の自由を尊重するように機能するが、主に反抗する者に対しては、それを排除するように機能する。
 エージェントは基本的にマトリックスの世界に従順な人間(マトリックスのプログラムへ干渉しない人間)には手は出さない(ただし、排除の手段としては利用しているが)。もちろん、この排除についても、基本的には主の生存自体は確保される範囲である。スミスの場合はマトリックスのルール遵守の範囲内での排除、ということになる。

 しかし、スミスが一度ネオを倒したあとにネオが復活し、スミスそのものにネオが入り込むことで破壊した。
 リローデッド以降、スミスは復活し、その力を強めていく。

 スミスがネオに接触した際に何が起こったのかというと「主(マトリックス自体)を守ること」と「排除すること」、想定される2つの目的の転換だ。
 通常のエージェントの場合は、スミスも含めて、主を守ること(破壊しないこと)が優先されていたと考えられる。排除はあくまで手段である。
 他のエージェントは、スミスのプログラム破壊のあった際に逃げ出している。確かに彼らは排除のプログラムであるものの、脅威である存在がいる場合は、退却するのである。

 ネオはスミスの体内にそのまま入って破壊をするが、これは不完全なものだった。なおかつネオのもつコードがスミスにも移されたようである。
 そこでスミスは自分が何をすべきかを知った。これは、恐らく排除のプログラムとしての自覚、というべきだろうか。だからこそマトリックスの世界に留まった。
 彼は、排除のプログラムの本性を理解したのだといえる。
 スミスは1作目でモーフィアスにマトリックスの世界から自由になるために人間を滅ぼす、と言っている。が、スミスは先にこの目的を達成してしまった。リローデッドでは、すでに自由になれたと言っている。しかし、自分がいるためには目的が必要である。そこでやはりスミスはまだ自由でないと確認する。そして、スミスは手段が目的へと移り変わり、ネオを倒すために奮闘することとなる。



 私自身がアーキテクチャとの兼ね合いで作品『マトリックス』から学べると思う点は2点あると考える。まず「アーキテクチャの厳格な保守」はそれ自体不完全であるという点だ。
 これは、実際に排除不可能な特異な存在が現れた時点で表出する。アーキテクチャに指示された排除が機能しない場合、アーキテクチャそのものはどうなるか?
 これが主と直接結びついているうちはそのコントロールが可能であるが、そのコントロールから外れ、完全な自律(スミスのいう自由)をしている場合にはどうなるのだろうか?
 スミスのような状態は偶然であるようであって、必然性も帯びているとはいえないだろうか?であれば、自らを強化するのも排除に必要であるとしてプログラムの内部でその強化が遂行されうる。
 また、排除の手段として利用していた従順な人間もこれの徹底のために、コピーという機能に転換を果たし、自己を複製することも理に適っている。

 私自身、レボリューションズでのスミスとネオの空中戦は最初見たときわざわざ実写でやることではない、と思ったものだが、このスミスの強化を説明する上では必要な演出だったといえる。
 リローデッドでネオと対峙した際、数で圧倒しようとしたが、ネオの様に空は飛べなかったため、最後には逃げられた。レボリューションズでは、マトリックスの物理法則も無視できるほど強化されたため、空も飛べるようになったのである。

 作中では、スミスの強化は丁寧な弁証法的過程を描いていたため、最終的にスミスを倒したのは、ネオのみの力ではなく、主であったデウス・エクス・マキナ(機械の世界の支配者)の破壊プログラムだったようである(注1)。
 ただ、やはりこのアーキテクチャというのは、現実にはそれ自身不可能性を備えているといえる。この点はレッシグを取り上げる際にまた議論したい。


 もう一点は、アーキテクチャのプログラムの設定如何によっては、それは主を内部から破壊することを意味するという点である。こちらの方がむしろ、我々にとっては教訓かもしれない。
 この内部破壊(マトリックスの秩序の破壊)は作中では主従の逆転を生まない。マトリックスを作った機械はスミスによって人類を滅亡させられることになるが、滅びる訳ではないし、スミスは基本的にはマトリックスの外部にまでその力を発揮できないからだ(注2)。
 しかし、これが仮想現実ではなく、現実における排除のプログラムだったら、どうだったか?それが自律的なプログラムであり、矛盾の構造が露呈された場合、主従関係を覆すことにもなりうる(従者として存在できるかも疑問だが)。

 これは、端的に徹底的な排除のプログラムを作ってはいけない、主に従順さを求めたプログラムでないといけないという問題でいられればよい。しかし東のいうように、広汎な自由とセットでこのアーキテクチャを語るのであれば、自由の拡大がそのまま排除を強化したアーキテクチャを生む恐れ自体もあるのではないだろうか。そうすると、ここには自由の拡大ということの限界を語る必要性も出てきてしまうのではないだろうか?そういう論点を見いだせるように思える。


 最後に、<支配>の話と関連して評価したい点。1作目『マトリックス』では、黒幕がはっきりしなかったので、陰謀論的にビッグブラザーしか想定できなかったですが、2作目、3作目では、そのような扱いはされることはなかった点について。1作目でスミスは人間を「自然の秩序に反する生物」であるとして非難しています。また、レボリューションズの最後の場面でこのような会話があります。

(以下、英文私訳)
ラクル:「他の人はどうするの?」
アーキテクト:「他の人?」
ラクル:「(マトリックスから)出たがってる人たちのこと。」
アーキテクト:「もちろん、彼らは解放するさ。」
ラクル:「信じていいの?」
アーキテクト:「私を何だと思う、人間か?」

 機械側にとっては、あくまで秩序の維持が最優先されていることを示唆する会話です。<支配>することが目的ではないということでしょう。これは転じて結局<支配>などするのは人間だけだ、ともいえます。
 おそらく作者側は、ビッグブラザー的世界観は回避したかったんだろうな、という風に思いました。それだけでも2作目と3作目を作った意味はあったんでしょう。

 久しぶりに3作続けてみましたが、総じて随分見方が変わったなあ、という感想でした。


(追記 6/17)
 そういやスミスって1作目で人間をウィルスに例えてたけど、結局自分がウィルスになっちゃったんだよなあ…なんたる皮肉。

注1:もし、ネオがスミスを何とかできていたら、あたかも死んだかのようなその後の描写はいらない。また、デウスのみでなんとかなったなら、ネオを使ってスミスを倒すなどという発想にはそもそも至らない。まあ、あのタイミングになって初めてデウスが破壊プログラムを完成させたという駄案もありますが、ネオとデウスの共同作業だったと考えるのが一番筋が通っている。

注2:統治の議論においては、素朴に主従関係(例えば、資本家と労働者)を想定しているものと、そのような前提があまりはっきりしていないものに分かれるかと思います。
 マトリックスの話でいえば、もし現状の機械の「支配」を認め、人間が従者であるとしたら、歴史のどこかのタイミングで、それまで支配の立場にあった人間と従者であった機械の関係性の転換があったと考えることができます。 スミスはこれら2者に対して干渉する3番目の立場としてそれまでの主従関係を崩しにかかりますが、マトリックスなしで機械が自身を維持できるのであれば、主従の転換をせずに何とかする方法があるということになります。逆に、マトリックスなしでは機械はその生命(?)の維持ができないのであれば、主従転換の可能性もあったでしょう。