中野敏男『大塚久雄と丸山眞男——動員、主体、戦争責任』(2001)

 1冊目ですが、今の関心に結びついたきっかけになった本です。
 昔は、記録と一緒に本の一部コピーとかもしていたのですが、何故か見当たらなかったため、極めて断片的な内容になりますが、私の読書記録の意図もわかりやすくなると思うので、掲載します。
 ちなみに今回扱っているのは、1999年に「現代思想」に掲載された「ボランティア動員型市民社会論の陥罪」という論文の部分のみです。本書での内容変更は確かなかったと思います。

 この論文では、ボランティアが活性化してきた状況に対して批判的であり、それが特に政策と結びつくことの問題を指摘しています。
 自発的に行っているボランティアというものを「現状の社会システムに適合的なように水路づける方策」に位置付けた場合、抽象化された主体=自発性がその抽象性ゆえに「公益性」をリードする支配的な言説状況に親和的にならざるをえない(cf.p280-281)。
 新自由主義ネオリベラリズム)な政策はこのような動員を巧みに行い、市民参加を活性化させつつ、それを利用するようになる、という主張である。

 中野が指摘した「水路付け」の問題であるが、唯一はっきりしていないのは、この水路付けの範囲についてである。これが「公的な政策」の中に位置づけられた場合においてはその問題が生じるということはまず明らかであるが、
これはよりゆるやかな私的なグループであったり、1対1といった場面になった場合はどうだろうか?

 これは、つまりこのようなボランティアを介した統治問題に対して、私的なグループなどの関わり合いというのは、抗することが可能なのかという問題に結びつく。
 中野は議論に対して、明確な回答を与えることなく論文を終えている。

 これが不可能だと考えるならば、公的な政策の中に私的グループや個人間の関わりというのも全て包摂されてしまっているために起こるのだと解せる。
 これが可能だと考えるなら、どのように公的政策に縛られない組織などを作るのか、という論点になるかと思います。

 そしてもう一点気になったのは、「自発性」という言葉の意味について。
 実際に何をもって「自発的」とみるかはかなり難しい問題(厳密には不可能?)ではないのか。
 にもかかわらず、その点について言及することなく、ただただ現在の新自由主義的政策批判の材料としてこの言葉を用いていることに対して、一種のいらだちを感じました。

 これは転じて、専門的な分野に属していない人間が、非専門分野に関することを安易に使ってしまう、という問題にもなります。
 このような議論の進め方について、疑義を唱えるにはどうすればよいか。本書で感じた一連の疑問が、現在まで私自身の読書指針となってます。

(今改めて振り返ってみて)
 このボランティア動員論批判については、仁平(2011)が言及しており、「ボランティア活動が政策に「従属」していたとしても、その政策が規範理論的に擁護可能なら、その「動員」への批判は限定的に解除されてよい」という形で再反論している(仁平典宏2011、p424)。
 もっともらしい反論ではあり、私も同じことを考えてはいたものの、このような批判の仕方はかなり弱いように思える。
 この客観的なものと思われる「規範理論」なるものが一体誰の手により作られるのか、となると、なぜその者が政策への従属から回避可能であるのに、ボランティアにそれができないのか、という問題もあるし、そもそもそのような「規範理論」なるものは成立可能な代物なのか、という批判も考えられる。

 そこで、私自身が当初考えた方向性というのは、自発と非自発、主と従といった二項対立図式を突き崩す点にあり、それを哲学の議論から徹底的に引っぱってこよう、というものだった。
 この視点から十分な批判を今できるかというとまだ疑問である。また、そもそも中野自身が社会学という分野にいるため、この学問の越境というのが、批判を弱めてしまうかもしれない(※1)。

 このため、社会学的な視点から、批判を加える方法はないものかと考えていたが、最近になって、「心理主義」という切り口からこれができないか、と考えるようになった。
 これは「<支援>の社会学」(2008)の崎山論文を読んだ際に思った。心理主義という歴史的文脈の変遷と、自発性云々の議論が結びつかないか…という論点である。
 「歴史が証明している」という説得のさせ方は、私自身は結構信頼を置いているので、自分では納得の行く反論の仕方ではないかと考えています。実際に結びつくかはなんともいえませんが。


理解度:★★★★
私の好み:★★☆
おすすめ度:★★

(2021年2月4日追記)
※1 これについてのまとまった回答を本日付の日記帳に行いました。