は行

日高六郎編「現代日本思想大系34 近代主義」(1964)

今回は、日高六郎の近代化論の指摘をもとに、これまでの大塚久雄を中心とした近代化論の議論を少し整理してみたい。というのも、本書における日高の指摘については、他の論ではなかなか見られないものがあり、かつそれが適切な指摘であるように思えるからで…

藤田英典「市民社会と教育」(2000)

以前黒崎勲のレビューで藤田英典の議論に触れたが、今回はその続きである。本書と黒崎「学校選択と学校参加」(1994)を中心に検討していくが、この両書を読んでみていわゆる学校選択制をめぐる「藤田-黒崎論争」の見方も少し変わった所があった点があったた…

萩野富士夫「戦前文部省の治安機能」(2007)

今回は「国体の本義」をめぐる議論の補論として、荻野の著書を取り上げる。本書の主題は戦時期を中心にした文部省の「教学錬成」、「臣民」としての国民育成の機能についての議論を中心としているが、その中で「国体の本義」や「臣民の道」についても触れら…

ピーター・B・ハーイ「帝国の銀幕」(1995)

今回も「近代の超克」の議論に関連したレビューを行う。 本書は戦時中の映画についての分析を行ったものであるが、特にその映画の「大衆性」に注目し、そのことと戦時の統制的なイデオロギーとのズレについての描写を中心的に行っていることが特徴的である。…

日比野登「財政戦争の検証」(1987)

本書は1960年~70年代の美濃部東京都政に対する評価をめぐる議論に関連して、革新自治体に対する批判に加担した政府・自治省を強く批判した本である。美濃部都政の評価に関する議論は今後もできる限り検証していきたいが、今回も論点整理の一環でレビューし…

マイケル・ブレーカー、池井優訳「根まわし かきまわし あとまわし」(1976)

本書は日本の外交交渉(バーゲニング)の分析を通じて日本人論を展開する本である。ただし、p227やp228に見られるように、既存の日本人論に対して一定の批判的な視点があること、そして本書を通して語られる日本人論は、かなり複雑な印象がある。 少なくとも…

サミュエル・ハンチントン「分断されるアメリカ」(2004=2004)

本書は「文明の衝突」で知られるサミュエル・ハンチントンの著書である。 世間的には近年のアメリカの動向を予見していた著書としても評価されているようであるが、私自身の関心から言えば、これまで「日本人論」に対してあまり語られないのではないかと指摘…

ダニエル・H・フット「裁判と社会」(2006)

今回は日本人論の検討の一環で、法社会学的アプローチをとるダニエル・フットの著書のレビューである。 本書は、日本人論に対して一定の懐疑を持ちつつも、とりわけ『制度』の影響についての検討を、訴訟をめぐる分野から行っている。しかし、特に序盤で語ら…

D.W.プラース「日本人の生き方」(1980=1985)

本書はライフヒストリーの手法を用いて、日本人の生き方、特に成人し年を重ねていく中で、どのような人生を送ってきたか(送ろうとしてきたか)に着目した研究である。 まずもって、ライフヒストリーの手法という意味では一種の模範となる一冊ではなかろうか…

本多二朗「共通一次試験を追って」(1980)

今回は前回少し予告していた、大学入試制度の議論を取り上げてみる。 本書は、一新聞記者による共通一次試験制度への移行に伴う様々な動きについての報告である。私が本書を読んだのは大学院時代であったが、大学院時代に読んだ本の中でも読んでおいてよかっ…

タルコット・パーソンズ、武田良三監訳「社会構造とパーソナリティ」(1964=1973)

前回、父母の役割について意図せずとも、その役割の再生産過程に加担してしまうとみなさねばならないケースについて少し検討した。今回はパーソンズの著書を確認しながらもう少し踏み込んだ議論をしてみたい。本書はパーソンズの論文集という形式をとってお…

ミシェル・フーコー「フーコーコレクション5 性・真理」(2006)

今回は永らくレビューを続けてきたフーコーの議論について一区切りをつけたい。本書はフーコーの単行本以外での掲載論文・インタビュー等について時系列でまとめた「ミシェル・フーコー思考集成」(全10巻)をテーマ別に6巻に再構成したものの5巻目にあた…

「理念型」の考察―羽入辰郎「学問とは何か」を中心に―その2

(その1の続きです。)○妥当性問題…理念型の「妥当性」を判断する者は誰か? すでに何度か理念型の「妥当性」については触れたが、その考察をしよう。この妥当性というレベルで「理念型」を議論せずに「あてはまるかどうか」のみで考えることはそもそも理念…

「理念型」の考察―羽入辰郎「学問とは何か」を中心に―その1

今回はずっと保留してきたヴェーバーの「理念型」についての考察を行っていきたい。それにあたり、羽入辰郎の文献と、その批判を行っている折原浩の議論を中心に検討しながら行いたいと思う(※1)。今回は考察が長くなったため、ノートは省略する。また、内…

ミシェル・フーコー「真理の勇気」(2009=2012)

随分と時間がかかってしまいましたが、今回はフーコーのレビューです。1984年の2〜3月のコレージュ・ド・フランスの講義内容となっていますが、フーコー自身が84年6月に亡くなっているため、「最終講義」という位置付けがされる本となります。 以前行った…

広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」(1999)

ウェーバーについて読み進めてはいますが、なかなかうまくまとまりません…。気分転換の意味も込めて、今回は教育関係の本と取りあげてみたいと思います。広田のこの著書については新書で手に入れやすいものですので、今回はノートを控えたいと思います。○本…

ミシェル・フーコー「主体の解釈学」(2004)

今回は改めてフーコーを読みます。前回のフーコーのレビューから一通り「知への意志」以後のフーコーの著作を読み返し、紆余曲折した結果、まず、コレージュ・ド・フランスの1981−1982年講義にあたる本書を取扱うことにしました。次はいつになるかわかりませ…

ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」

前回大澤が引用していたベンヤミンをレビューしておきたいと思います。訳は晶文社の著作集(1969)からのものです。(読書ノート) p10 「自然法は、目的の正しさによって手段を「正当化」しようとし、実定法は、手段の適法性によって目的の正しさを「保証」…

ジョルジュ・バタイユ、湯浅博雄他訳「至高性 呪われた部分」(1976=1990)

前回の議論を踏まえ、バタイユを読みます。何冊か読んだ中で一番内容が濃い印象だったので、本書を取り上げました。(読書ノート) p10 「原則として、労働へと拘束されている人間は、それなしには生産活動が不可能となるような最低限の生産物を消費する。そ…

ミシェル・フーコー「性の歴史1 知への意志」(1976=1986)

さて、今回はフーコーを読もうと思います。 随分と時間がかかってしまったのはフーコーのどの本をベースにするのかを選ぶのに時間がかかったのと、自分自身がフーコーの議論に袋小路にされてしまっていたのが理由です(汗)。まだ十分に議論を掴み切れていな…

フランソワ・ベゴドー「教室へ」(2006=2008)

この本を知ったきっかけは、本書の映画版にあたる「パリ20区、僕たちのクラス」を見たことでした。本書と同様、淡々とした内容で、パリの中でも多くの移民が住む地区の学校の、コレージュ最終学年(中学3年に相当)のクラスの1年間の日常が描かれていると…

ジークムント・フロイト「フロイト全集 第19巻」(2010)

今年最後になりますが、岩波書店のフロイト全集から、「制止、症状、不安」(1926)を読みます(p192を除く)。今回もジジェクの議論の考察をしますが、先に結論を言えば、この論文におけるフロイトの「不安」の捉え方から、ジジェクの主張の矛盾を指摘でき…

ユルゲン・ハーバマス、長谷川宏訳「イデオロギーとしての技術と科学」(1968=2000)

前回、「専門性(科学)と政治」についての論点を保留していました。今回はハーバマスが似たようなテーマで書いた本も参考にしながらこの点を考察してみます。今回読んだのは、平凡社ライブラリーのものです。(読書ノート) p70−71 「技術的な規則や戦略の…

ウルリヒ・ベック「危険社会」(1986=1998)

ドイツの社会学者、ベックの1986年の著書です。ちょうどチェルノブイリの原発事故のあった年の本ですが、環境問題について広く扱っています。このためノート量が恐ろしいことになってしまいました… 私自身は大学の卒業論文で読んだのがきっかけです。当時は…

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート「<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性」(2000=2003)

中野論文を読んでからまず興味をもったのは、新自由主義的な「統治」の性質の問題でした。フーコーなども読んでましたが、「自発的」な主体がどのようにして従者として組み込まれていくのか、そのメカニズムを追った本をよく読んでいました。 その中でも最も…