た行

富永健一「日本の近代化と社会変動」(1990)

今回は富永健一の標題著書を中心にして、『ヴェーバーの動機問題』について考えてみたい。 富永の近代化論については、パーソンズの系統として、つまりアメリカ社会学の系譜として語られるのが普通であろうし、私自身もこのことには賛同する。例えば、矢野善…

滝沢克己「日本人の精神構造」(1973)

今回は前々回から折原浩の議論を理解する上で取り上げるべき人物としていた滝沢克己の著書を取り上げたい。両者は年齢的にも大きな隔たりがあるが、大学紛争時代にはそれなりに深い交友関係があったようである(cf.折原浩「東京大学 近代知性の病像」1973,p4…

ベンジャミン・C・デューク「ジャパニーズ・スクール」(1986)

今回は、日本人論を意識している「外国人研究者から見た日本の教育」に関する著書を取り上げる。 〇「頑張り主義」と「競争」は両立するのか? まずもって本書において気になるのは、日本の教育において共有されていた「精神論」に対してかなり肯定的にとら…

角田忠信「日本人の脳」(1978)

今回は、日本人論の関連で、角田の著書を取り上げる。 角田の日本人論というのは、恐らくは「最強」の部類だと思われる。通常、日本人論として認められるものというのは、それが「一般的な日本人」について妥当であるかどうかの検証というのが難しく、それ自…

田中一彦「忘れられた人類学者」(2017)

本書は、1937年に日本の農村を中心にしたフィールドワークをもとに著した『須恵村』で知られるジョン・エンブリーと『女たち』の著書で知られるエラ・エンブリー夫妻がみた須恵村などについて記した本である。 本書の考察をする前に、まず本書を読む前の段階…

ジョン・W・ダワー「人種偏見」(1986=1987)

本書は第二次大戦前後の「日本人論」を分析したものである。 杉本・マオアのレビューの際にも「日本人論」には「日本人から見たもの」と「欧米人から見たもの」の2つがありえることを指摘したが、本書はその両方の議論について当時の言説からその異同につい…

土居健郎「「甘え」の構造」第三版(1971=1991)

今回、当初予定していなかった土居のレビューを行うことにした。杉本・マオア(1982)のレビューがなかなかまとまらないのもそうだが、日本人論の代表書の一冊と言われる本書を読んでみて、そもそも本書を日本人論の著書と位置付けるのが適切なのかどうかとい…

高橋勝・下山田裕彦編「子どもの〈暮らし〉の社会史」(1995)

今回は「子ども論」関連の著書を取り上げる。 これまで私が見てきた子どもに対する「地域の教育力の弱体化」論というのは、そもそもいかなる意味で「教育力」が作用していたのか、実証的側面において乏しく、更にはそのような「地域の教育力」の存在そのもの…

竹内洋「革新幻想の戦後史」(2011)

本書は、進歩的文化人を中心にした「革新」の思想周辺の戦後の変遷を追ったものである。 全体としては多分に実証的な議論に基づいており、「進歩的文化人」の異端さを浮き彫りにするのに一役買っているといえるだろう。以前、大久保のレビューで紹介した「旭…

竹田青嗣「現象学は〈思考の原理〉である」(2004)

今回はこれまでレビューしてきたフーコー、デリダの議論を相対化してみる意味で、竹田の著書(本書と「現象学入門」1989、「エロスの現象学」1996)を参照してみたい。竹田はフーコーらの議論をポストモダニズムの議論として一括りでまとめているが、私自身…

遠山啓「数学と社会の教育」(1971)

今回は再度遠山啓の文献をレビューしつつ、前回の遠山の議論の補足を行っていきたい。本書もまたバラバラの論文集という形態をとっており、前回の「遠山啓エッセンス」と重複しているものもある。また、論文の初出はほとんどが1968年以後の内容となっており…

十川幸司「来るべき精神分析のプログラム」(2008)

今年最後のレビューは久々に精神分析関連の著書である。十川の著書は以前「精神分析への抵抗」を読んだ際に、なかなか私に近い解釈もしているなという印象を持っていた所である。本書においても、基本的にはメラニー・クラインの解釈も類似している印象があ…

遠山啓の教育論ーその歴史的変遷から—

今回は予告していた遠山啓の議論を検討していく。広田のレビューにおいては、70年代の教師側からの教育の役割を縮小するような議論の例として取り上げることを予告しておいたが、これについては最後に取り上げたい。むしろ、今回は遠山の議論をできるだけそ…

ジャック・デリダ「他者の言語」(1989)

次のレビューはウェーバーにしようと思っていたのですが、思っていた以上に理解が進まず、結局デリダを先に取りあげることにしました。デリダについてはこれまでも簡単に触れるような機会はありましたが、今回本書と「法の力」(訳書1999)、「精神分析の抵…

贈与論序説—高橋由典「行為論的思考」再訪

今回から何回か「贈与」をテーマにしたレビューを行いたいと思います。これまでも「模倣」と「贈与」の関係性については検討してきましたが、少し詰めた議論をしてみたいと思います。 まず、これまで私自身の用語としてまとめた「純粋模倣」について復習する…

高橋由典「行為論的思考」(2007)

今回は、作田啓一の「溶解体験」議論の流れを汲んでいる、高橋由典の著書を取りあげます。(読書ノート) p4−5 「先ほどもふれたように、体験選択は意図的な選択ではない。この選択はふつうの意味での選択(行為選択)を行おうとするときには、いつでも「す…

ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」(1969)その2

今回はアンチ・オイディプスと意味の論理学の比較を行ってみたいと思います。比較といっても、徹底的な比較をするときりがないので、部分的な言葉と人物に注目しながら、考察してみたいと思います。○メラニー・クライン引用の比較…オイディプスの部分的支持…

ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」(1969)その1

今回もドゥルーズを読みます。 最初読んでいた際はノートがこれの3分の1程度だったのですが、もう一度読み返した所、現在の分量になり、更に増え続けそうだったので、今回については、途中でノート作り自体はあきらめています… また、今回はジラールとの比…

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、宇野邦一訳「アンチ・オイディプス」(1972)

ようやくですが、ドゥルーズとガタリの考察に入ります。次回もドゥルーズの「意味の論理学」をレビューする形で考察は2回に分けます。訳書は河出文庫のものです。(読書ノート、上巻) p38-39 「分裂症者はひとつのコードから他のコードへと移行し、すばやい…