「進歩的文化人」とは何なのか―竹内洋「革新幻想の戦後史」再訪

 前回のレビューで苅谷の指摘した「進歩的知識人」というのは一体どのようなものを想定しているのか、竹内洋が「革新幻想の戦後史」などで述べていた「進歩的文化人」とは違うのではないのか、と指摘した。今回はこの「進歩的文化人」を「革新幻想の戦後史」を再読などを通して、その性質を考察したい。

 結論としてはやはり苅谷のこの進歩的知識人なる表現は、竹内のいう進歩的文化人とは異なる意味合い、かつ歴史的には誤った意味合いで語られていると考えるべきだと思われる。竹内洋のいう「進歩的文化人」は福田恆存の議論にもかなり影響を受けているようなのでそちらも参照すべきかと思うが、まだそちらは十分に検討できていない。ただ、私が竹内の議論を読み取った内容からは、これまでの「進歩的文化人」という議論は次のような3つの関連した要素を含んだものであったように思える。

 

(1)脱政治的であること

 

 まず押さえるべきことして、進歩的文化人という言葉自体が、タテマエとしては特定の政党(思想)に与せずにいる立場にいる者であることを意味していた点がある。

 

「「知識人」という用語も「文化人」と同じく、「知識階級」という言葉の左翼臭を脱臭した中立語として使用されるようになったのだろうと考えられる。「知識人」のほうは、「文化人」とちがって、インテリゲンチャの訳語である知識階級に近いから、文化人と知識階級の間をとった用語である。左翼臭がもっとも強いのが「知識階級」、もっとも弱いのが「文化人」、中間が「知識人」だったことになる。」(竹内洋「革新幻想の戦後史」2011,p263-264)

「丸山は反体制気分に傾きやすい青年や知識人に、共産党共産主義に代わるもう一つの「進歩」と社会変革の可能性を鮮やかに示した。丸山晩年の言葉を借りれば、「本当の社会主義」を含んだ民主主義である。多くの読者は、共産主義を信奉したり、共産党員にならなくとも、政治的に進歩的であり、良心的たりうる保証を、西欧的な学識と教養にあふれた東大教授と岩波書店から受け取ることができた。あるいは、共産主義共産党以上に、真に進歩的であり、良心的であるという自信と誇りを手にすることも可能だった。」(同上、p319、水谷三公丸山真男――ある時代の肖像」からの引用)

 

 一方で、福田恆存の定義には、これがあくまでタテマエに過ぎず、「日本が共産主義体制になる事を好まない人でも、結果としてはさうなる事に、少なくともさうなる可能性を助長する様な事に手を貸してゐる」人であるという位置づけがなされていた(竹内2011,p492)。これは、私が以前「『親方日の丸』の研究」の記事で、(竹内も含め、一般的に「進歩的文化人」と認められている)矢川徳光を取りあげた際に、自らの主張する「総合技術教育」と共産主義教育が実質的に同じものであることを認めていることにも同じ事情を認めることができる(cf.技術教育研究会「総合技術教育と現代日本の民主教育」1974,p120)。

 これと同様に、谷沢永一などは、進歩的文化人的言説のルーツを大塚久雄に求め、彼の言説が「本音」を述べようとしないことについて、次のように指摘している。

 

大塚久雄における言論活動を瞭然と特徴づける第一の志向はこうです。

 つまり、どんなことがあってもけっして本音を吐かないほのめかしを主とする朧ろ語法の活用です。自分の心底おくふかくにしまいこんである正味の考えを、あからさまな定言命題のはっきりした用語をもって表現する直面の言立てを慎重に避けます。社会主義者であり共産主義者である内実は、仲間同士の頷きあいと目配せによる交流の場合にのみ、気は許して多少は露呈しますが、そういう正直な無礼講の機会はあまり多くなかったようです。

 一般世間に顔出しするときには紳士的な居住いを正し、社会主義者であり共産主義者である厳ついご面相を露呈しないために、近代主義者の仮面をかぶり、自由主義者の衣裳をこれ見よがしにまといます。日本を社会主義化しようなんて無作法な直接話法をもって突出したりせず、社会構造の発展段階について考えてみよう、という風な思い入れの姿勢をとります。」(谷沢永一「悪魔の思想」1996、p292)

 

 このこと自体も、日教組などの組織の状況などを考えると部分的に当てはまるかのような印象も感じられる、という意味では苅谷の想定していることも、この側面からは間違っていないように思える。他方で、このようなタテマエにホンネがあるかについて、全ての進歩的文化人と呼ばれた者達に対して妥当するかどうかは微妙である。例えば、松下圭一を仮に「進歩的文化人」であると認めるのであれば、彼は明らかにこのようなタテマエとホンネの論理を持ち合わせてはいない。彼の場合はむしろ「否定的な価値=封建的(権威的)な日本の否定」ありきになり、それ以外の肯定的価値観について無頓着でいるという表現の方が正しいように思える。だからこそいともたやすく新自由主義的価値観との共犯関係を持つことになったのである。

 

(2)価値のある「進歩的なるもの」を提示すること

 

「実際、一九四九年に書かれた「岩波新書の再出発に際して」には、「封建的文化のくびきを投げすてるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせて国民的誇りを取りもどすこと」とある。左派知識人やシンパによって「進歩的文化」は目指すべき文化だった。」(竹内2011、p266)

 

 先述のように、進歩的文化人が批判を行っていたのは封建的なものであった訳であり、その意味で一見「新しい」ものを提示しそれを目指すための立場に立つのが進歩的文化人であった。しかし、ここでいう「進歩的」であることは、少なくとも苅谷が述べたような「西欧的な価値観」と同義であったかと問えば、ほぼ間違いであると言う他ない。

 俗流の日本人論に立てば、松下がそうであったように、「封建的な日本」について批判をし、近代的価値観としての自治(主体性)を求めることが革新的であったかのように思える。しかし、進歩的文化人と呼ばれている論者が参照していたのは、ソ連や中国であった場合も多く、「共産主義社会主義」が近代的であったのかという疑問が出てくる。少なくともこれまで私のレビューで繰り返してきた日本人論的な「近代=欧米的価値観」とは異なるものを志向していたものであったといえるだろう。

 最近読んだもので言えば、例えば教育史の分野で知られる中野光のこの語り口は、進歩的文化人が取った「近代」への懐疑について、適切に言い当てているのではないかと思える。

 

「歴史における「近代」は果たして人間を幸福にしたのだろうか。公教育制度というものが成立し、すべての子どもが学校教育をうけるという事実がつくり出されたのはたしかに「近代」においてであった。それは封建社会における身分的差別や抑圧から人間を解放し、新しい資本主義的社会に生きるにふさわしい能力をつける「自由」を与えた。そして、万人が科学的知識や技術を身につけたとき、人間の社会はかぎりなく進歩・発展していくことができるにちがいない、との希望さえいだかせた。……人間の無限の発達可能性にも信頼をよせたのだった。しかし、現実はどうだったのか。

十九世紀の後半、近代化の波がせきをきって押しよせた日本は、形のうえでは近代的公教育制度をつくりあげていったが、そこでの教育は、コメニウスやコンドルセが期待したものとは全くちがったものであった。公教育はひとりひとりの人間の発達可能性を追求したのではなく、天皇を主権者とする軍事強国の「臣民」形成に奉仕させられた。そのような政策に抗し、臣民形成の基本路線に修正を加えようとする運動や実践が展開されはしたものの、結果的にはファッシズム的権力によって弾圧され、侵略戦争はすべての国民を動員していったのであった。だから、「近代」への懐疑は、まずそれが人類を破滅に導きかねない戦争を否定する思想、価値観、そして行動を発展させないかぎり、ぬぐい去るわけにはいかない。」(中野光編「講座日本の学力1 教育の現代史」1979、p428)

「戦後の日本国憲法教育基本法は教育を通して実現する価値を「平和」に求めたかぎり「近代」概念を改めてかがやかしいものにした、といってよかった。戦後教育改革は、しばしば教育における「封建的なもの」の払拭=近代化ととらえられたことは戦後史を自覚的に生きてきた人々の知るところである。しかし、そのような立場に立つだけでは歴史的真実の全体は見えなかった。だいいち「近代」は多くのヨーロッパ諸国民やアメリカ人にとっては歴史の夜明けだったかもしれないが、植民地住民および本国の労農階級にとってはぎゃくに新しい闇の時代到来だったのだ。戦後の日本人の多くは「近代」の表面のかがやかしさに眼をうばわれて、いわばその裏側をみることができなかった。たとえば、朝鮮認識のたちおくれなどはその具体的な証拠である。アメリカ軍政下にある沖縄への関心が深まったのもやっと戦後数十年たった一九六〇年代であったことなどは、近代化=進歩ととらえる人間がいかにめしいたものであるかを物語る、といえよう。」(同上、p429)

「いったい「近代」教育はいつ、どのようにして、荒廃ないし危機をうみ出してしまったのだろうか。今日、私たちは、そのような根源的な問いを発しなければなるまい。だから、私たちは明治以降の教育のあしどりを決して「近代化」の一直線としてたどるわけにはいかなかったのだ。本巻をあえて「教育の現代史」としたのも教育史における「近代」をいま改めて疑い、そこにおける継承・発展すべき遺産を見定めると同時に、否定・克服の対象とすべき課題をあきらかにしたかったからである。だから、ここで「近代」と区別された「現代」という概念には、「近代」がうみ出した矛盾を止揚し、新しい歴史の時代を創り出さねばならない主体的な願いがこめられていたわけだった。教育における「現代」を日本の子どもと青年にとって真に生きがいのあるものにしていくためには、そのような立場からの研究を、現実的課題とかかわらせながら推しすすめていかねばならない。」(同上、p430)

 

 まず、この引用で確認できるのは、西欧的な意味での「近代」観というのが批判の対象となっていること、またその「近代」観というのが、戦前、明治以降の日本の歴史からみた場合の「近代」化について言っていることである。またここで厄介なのは、「進歩的」であること自体もまた批判の対象にされているということである。この場合、中野が「進歩的文化人」の立場からこの批判を行っているのかと問えば、NOと答えるほかないだろう。

 他方で中野は「現代」という名をもって「近代」を超克しようとする試みの重要性についても言及する(※1)。この態度について、欧米的ではない別の「近代」を目指す試みであると評するのは容易であろう。そもそもこのような「現代」への止揚が不可能であれば、「近代」が存在し続けるだけであり、ある「近代」が別の「近代」にとって代わるだけの話だからである。合わせて、このような漠然とした「現代」への言及というのは単に具体的な志向がないという評価ができるようにも思える。竹内は進歩的文化人が自身の批判に対して自覚的になれないことを指摘していたが(竹内2011,p317-318)、これも本質的にはここで「近代の超克」の態度をとっていることに起因していると言うべきだろう。「進歩的」という意味合いは、進歩的文化人が超克を目指すにあたり批判を行うことで、その意味をくみかえてしまうのだが、その事実を認めない、もしくは「何も志向していない」が故に、「何らかの志向をしている」という批判が無視されるということが原因なのではないのか、と思われるのである。

 

 更に、この「進歩的なるもの」を考える上で無視できないのは、「進歩的」であることそのもののイメージであった点である。

 

「「革新」はイデオロギー以前に進歩的だとかハイカラだとかスマートであるというイメージの魅力により支持されることが多かった。いまでは考えにくいことだが、一九六〇年代前半までの革新支持の空気はそのようなものだった。この大衆モダニズムと革新支持の親和関係は、若い世代や高学歴インテリにとくに見られたもので、年長世代や自営業などの伝統的職業従事者には、モダニズムと逆の伝統主義が根強かったことについても前節でふれてきた。根強い伝統主義を背景にして、大衆モダニズムは新鮮な対抗思想たりえたとも言える。」(竹内2011, P493)

 

 このような「大衆モダニズム」について、安易に日本人論的な「近代」と同一視されるべきではないし、これを同一視してしまうこと自体が、「進歩的文化人」の性質そのものの見落としになりかねない。例えば谷沢永一も終始進歩的文化人をほぼ「反日的日本人」という言葉と同義で議論している(cf.谷沢1996,p17)。これは当然進歩的文化人がえてして「止揚」の発想に立っていたから、現状を基本的に批判するという意味では正しい。しかし、それが全てであったかどうかは別途実証的に議論すべきである。むしろ竹内の引用のとおり「日本の進歩的文化遺産を蘇らせて国民的誇りを取りもどすこと」といった表現によっても「進歩的であること」が解されていたのであれば、それはむしろ真の意味で「日本的」でさえありえるかもしれない。ここでもやはり安直な日本人論に還元して「進歩的文化人」の議論を行うことはその性質の捉え損ねになるように思える。

 

(3)「大衆」理論の先導役であったこと

 

 竹内は、福田の引用も行いつつ、「大衆に応える」発言を行うような存在について進歩的文化人を捉える。

 

「帰り道、そんなことを思い浮かべながら、いま進歩的文化人はどこにいるのか、と考えてみた。そう、進歩的文化人の後裔はキャスターやワイドショーのコメンテーターではないか……。福田恆存は「平和論の進め方についての疑問」のなかで「文化人」をこう定義していた。「意見をきかれる資格ありと見なされてゐる人種であり、また当の本人もいつのまにか何事につけてもつねに意見を用意してゐて、問はれるままに、ときには問はれぬうちに、うかうかといい気になつてそれを口にする人種」。」(竹内2011、p305)

「いや内容の質の悪さよりももっとたちが悪いところがある。そもそもなにを言うかの定見をもって臨んでいるようには思われない。こう言えば、視聴者という下流大衆が納得するだろうとか、受けるだろうとか、空気を読んでコメントを言うことにある。こうしたコードこそコメンテーター文化人の最大の問題であろう。ところがそうしたコードにもとづくコメントが逆流して下流大衆の世論=空気にお墨付きを与え、あるいは、範型となって下流大衆世論が再生産されるのである。」(同上、p306)

 

 これもある意味で納得いく点である。「進歩的文化人―学者先生戦前戦後言質集」という著書があるように、進歩的文化人と呼ばれた者の多くは、戦中では熱心に日本の戦争を肯定し、翼賛体制の支持者でもあった。このことについて長浜功は全くそのような真逆の思想の転向について「反省」などしないまま、更にはそれを隠蔽し行われたことについて非難したのであった(「教育の戦争責任」1979)。

 このような「大衆受け」のよい理論を展開することは、「体制批判」という批判的言説とも相性がよい。結局自らの肯定的価値観について特に言及せずとも、そのような「大衆受け」の理論は展開可能だからである。もっとも、その理論が理論として成立しているのかは議論せねばならない所であるが。

 ただ、他方で竹内はこのような「大衆受け」について、文字通り「大衆=一般的な者」と捉えてしまったことで、大衆を捉え損ねていると、過去の竹内のレビューで私は批判したのも事実である。つまり、私自身はここでいう「大衆=一般的な者」という図式はあまり正しいとは考えていない。但し、それは一定の勢力、一種の「権力」を行使することが可能な程度には「大衆」を表現できるレベルのものではあるとはいえるだろう。まさにこのような「大衆」観と関連していたのがしばしば過度に一般化されてしまう「社会問題」、特に教育について言えば「教育病理」という枠組みでもあった。

 

 さて、以上のような「進歩的文化人」の性質を押さえた上で苅谷の指摘した議論を考えると、「進歩的文化人」が提示しているように見える「個性」というのはある意味で歪んだものであり、むしろ、「進歩」という言葉に示されていたのは、「民主主義」という言葉で説明されるべきものであったように思う。そして、そのような「民主主義」観について考えた場合、松下圭一については、典型的な「進歩的文化人」の位置付けであったといえるのではないのか、という見方が更に強まる。松下が革新勢力から手を引いたのは、特に政治的な意味においてであり、それは同時に「文化人」としての位置付けを強めるものでさえあったといえる。そして「民主主義」に与えていた意味合いというのは、極めて歪んだ形で示されたいたがゆえに、晩年の言説においてその矛盾を「民衆」や「理論家」に責任転嫁するかのように展開していったのではないのか、という見方ができる。もっとも、このような松下を進歩的文化人の系譜に位置付けたとして、それが連続的な思想のもとにあったのかはやはり疑問が残り、今後の検討課題として残る。

 

 一方でこのような進歩的文化人の系譜が苅谷の議論における「個性」重視の教育改革の動きと無関係であったとも言い難い。ではこれはどのように結びついていると考えるべきなのか。これも松下の議論に関連させてしまえば、過去の松下の「理論」の達成のために棚上げにされた形で示されることとなる民衆の「成熟」をもって、積極的に個々人に働きかける(教育する)ことが回避されたような形での個の尊重はありえたかもしれない。しかし、これが「個性」重視とは程遠く、また子どもに対しては松下もやはり歪んだ形で「教育」されるべきものとして位置付いていた。言い換えれば消極的には「個性」に関連したが、積極的には「個性」に加担していなかったのである。

 とすれば、次に考えられるのは、むしろ体制側が進歩的文化人的な意味での消極的な「個性」を拾い上げる形で、更にはそのレトリックを活用する形で、結果的に革新勢力の批判を封じ込める形で「個性」について強調した可能性である。もっともこの見方は擬制的である可能性は高く、実際の教育改革は、「個性」を否定しようとした日本的な「教育病理問題」に対する処方箋を唱えていたのであり、むしろこの「教育病理問題」における体制と革新側の認識の一致が大きな意味を持っていたように思える。この「教育病理」の言説がいかに語られていたのかというのは、今後もう少し丁寧に考察してみたいと思う。

 

(2020年8月29日追記)

※1 このような「現代」と「近代」の対比は中野光だけでなく、持田栄一も行っているのがわかったので紹介しておく。

 「近代」における「家庭教育中心主義」の底流には、すでにのべたように人間存在と教育を本来、私的個人的なものとしてとらえる思想とともに、「家庭」をもって、社会の矛盾から隔離された「自由の砦」だとする考え方がみられる。しかし、そのような「近代」における家庭観は全くのフィクションであり、「家庭」は「自由の砦」どころか、現実には、労働力の再生産を担う社会機構の一環として現存している。……

 「現代」における教育改革とかかわって家庭教育のあり方を問いかえそうとするとき、われわれは、現在、家庭教育が以上のような現実から出発し、そこにおける疎外を恢復することに焦点をおかなければならない。このような観点に立って、「現代」における家庭教育のあり方を眺めた場合、それを「共同化」し「集団化」していくことが必須の課題となる。「家庭教育」が重要であることは、今日においても異なるところはないが、それを親個人が私的にかかえこんでいたのではことはすすまない。子どもが、もともと社会的存在であってみれば、かれ等の家庭における教育のあり方も、共通の「ひろば」――社会共同の場においてたかめられるべきであろう。(持田栄一編「教育変革への視座」1973、p80‐81)

 ここで近代についての評価が土居健郎と一致していることにも注目すべきだろう。ただ土居の場合はその解決策について何ら提示がなかった訳だが、持田の場合は、やはり「共同化」「集団化」という形で個である状態を止揚しようとしているのである。いくら少なく見積もっても70年代においては、進歩的文化人と呼びうる論者の議論というのが明らかに「個の思想」を追求していたとは言い難く、むしろその否定にはじまっているのである。

 

苅谷剛彦「教育と平等」(2009)

 前々回の教育改革をテーマにしたレビューで黒崎と藤田の論争を取り上げたが、今回は藤田と同じ教育社会学の分野から、苅谷剛彦を取り上げる。本書は「大衆教育社会のゆくえ」(1995)に続き、戦後の日本の教育における「平等」観の形成について、主に知識社会学的なアプローチから読みといたものである。

 ただ、前著との大きな違いは、本書における「面の平等」と呼ばれる平等観というのは、十分に「相対化」できているという印象を感じる点である。確かに前著においてもこの「相対化」がなかったわけではない。日本と欧米の教育観について、その視点は少なからず存在している。しかし、これまで私が考察してきた「日本人論」的なアプローチからすると、前著における「相対化」というのは、どうしても既存の日本人論の枠組みから十分離れたものとは言い難かった。例えば、<差別>といった言葉の日本と欧米における言語的な意味合いの比較(苅谷1995,p168)や、それに伴う日本の能力別学級編成について考え方への言及(同上,p181)というのは、出典や論拠となるデータが示されていない漠然とした、言ってしまえば「主観的」な比較の域を出ているとは言い難かったように見える。これは仮に裏付けがあろうとなかろうと、俗流の「日本人論」というのはこのような漠然とした議論の積み重ねの上にあることを考えれば、このような論述を避け、実際にどのように行われているか/語られていたのかといった比較のもとでなされなければ、既存の「日本人論」の枠組みから抜け出ることはできないのである。

 しかし、本書においては、この点にも十分配慮がいきわたっていると言えるだろう。一つは、日本の「面の平等」を検討することに先立ち、本書第2章でアメリカにおける「資源配分のテクノロジー」の検討を行った点にある。つまり、教育費をいかなる方法で配分するかの考え方について、アメリカの場合は20世紀に入ってから個性尊重を謳う進歩主義教育運動に平行するかのように教育費配分の考え方として個々の児童(生徒)に教える時間数をベースとした算定方法を行うようになった。これに対し日本の戦後の教育費の考え方というのは、児童・生徒単位ではなく「学級」単位での算定を行うものとして整備されていった。この「学級」を単位とした考え方に「面の平等」の成果の一つが現われていると本書は主張する。もう一つは、この「面の平等」という言葉を敢えて本書で独自に定義したことに含まれる多義的な意味合いについてである。まずもって、この言葉は通常よく使う「個の平等」という言葉に対して、その見えづらさも含めた平等観を示すために用いた言葉であること、そして、それが必ずしも「個」に着眼した平等観ではなかったことを示したものであるといえるだろう。そして、日本人論との関連でより重要なのは、p12-13にあるように「面の平等」というものは「文化論的回答」ではないということである。この意味合いというのは、すでにレビューしたダニエル・フットの言うような制度論的な影響を多分に含んだ擬制的なものだと言うことができるだろう。確かに「面の平等」という考え方において日本人論的な文化的な考え方の影響を受けていない訳ではない。これはp133で参照される文部省の政策担当者の政策意図にも、つまり「生徒時間に基づく算定方法は日本に馴染まない」という言い方にも現われている点である。しかし、無視すべきでないのは、この「学級」をベースにした考え方というのが、制度整備を行った当時の厳しい財政事情のもとで、既存の学校・学級をベースに考えざるを得なかった事情も含め作られたことである(p128)。ここには明らかに文化論的説明だけでは今の「面の平等」の制度設計がなされなかったことを意味するものである。

 本書における「面の平等」は、この教員配置(教育費)の考え方に加え、広域人事の考え方も例として挙げている。つまり、都道府県単位の教員人事異動の活性化も「面の平等」の一側面であると本書はみる。そして、このことの遠因として苅谷は学力テストの影響をみる。へき地をはじめとした学力格差というのは、へき地に対する教育資源の重点的配分(p172-173)だけでなく、教員間の人事異動も多く行うことで、農村で「何となく」教育活動を行う教員の固定化を防ぐような制度運用にも影響を与えたとみている。

 

○「面の平等」についてどう考えればよいか?―その評価について

 

 本書が捉えた「面の平等」というのは、ほとんど「思わざる結果」であったと苅谷はみる(cf.p177)。つまり、このような考え方というのは、決して明確に意識化されないまま、日本の教育資源配分の議論に影響を与え続けていたものと苅谷はみている。P176では中教審答申などで「個性の尊重」「学習の個人化」に向かう方向性が何度と出たが、「面の平等」の考え方に基づき展開していたものはこの「個」に重きを置く枠組みから逃れることができたと述べる。これは「面の平等」が「無意識的」な政策であったため生き残れたともいえるだろう。

 しかし、この状況は決して楽観できない。苅谷自身もP267で、2004年から導入された「総額裁量制」が「面の平等」の考え方を変える可能性について言及しているが、特に80年代以降、初等教育予算総額の伸びが停滞し(cf.p152)、「40人学級」の考え方が固定化し「35人学級」が達成されなくなったことの一因は、この「面の平等」に対する間接的な攻撃であったことを無視できないだろう。特に財務省財政制度等審議会)がこの「総額裁量制」導入の説明にあたり、「児童一人あたりの予算」がOECD諸国の中では決して下位に位置していないこと、それを根拠に教育資源投入の「量的拡大」に対して否定的な論調を強調していることは無視できない(cf.https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/report/zaiseia160517/zaiseia160517a.htm#hajime4)。つまり、「面の平等」を体現する現行の資源配分の制度とは別の論理から、別の制度提言を行うなどをすることを通じて、「個の平等」を強調する「児童一人あたり」という考え方が制度全体に与える影響を無視できないということである。この検証は別途行われなければならないものと思うが、私自身は本書が語るようなニュアンスよりはかなり悲観的に現状の「面の平等」の衰退の可能性を考えている(※1)。

 またもう一点「面の平等」の関連で気になるのは、教育改革の議論における「平等」をめぐる議論においては、この「面の平等」の側面は無視されていると苅谷が指摘することである。この面の平等は思想として取り出す場合、「均質的な空間と均質的な時間の創出を通じて、「平等」な資源配分の基盤とみな」すものである(p241)。より具体的には、柳治男の「<学級>の歴史学」(2005)を参照しながら、学級という集団単位が教育実践や教育活動において「自明視された空間」として位置づけられていた(p254)。

 しかし、このような「面の平等」の文化的側面(=日本人論的側面)というのは90年~00年代の教育改革をめぐる議論において、具体的に焦点化されていたかどうかは疑問である。むしろそれは苅谷の言うように、「結果の平等」という均一的な学校批判として捉えられ、それが学校選択など、市場原理に任せた教育制度への転換といった論調に傾いていた(p262)。この改革側の主張も元は「日本的なもの」の是正にあったはずだが、改革側の目線から、「面の平等」に対する改善要求という可能性も、本書による「意識化」を介してあってもよいのではないのかと素朴に思う。つまり、このような空間的均一性は「学級」に対する捉え方の問題であり、この学級に対する考え方を根本的に改善することが、日本的な問題の解決になりえる可能性になるのではないのか、という見方がありえるということである。このことについては、また今後別のレビューで取り上げたいと思う。

 

○革新勢力と教育改革の関係性についてどう考えるか?

 

 最後に、本書p271の言及について考えたい。画一的な教育批判、多様性や個性を尊重する教育というのは、戦後からの系譜である「進歩的知識人」の考え方と同じであるとする点である。私自身、この主張にはかなり違和感をもった。まずこの「進歩的知識人」というのは、竹内洋のレビューでも検討した「進歩的文化人」と同じものだとして考えよう。おそらく苅谷も竹内の「革新幻想の戦後史」などを念頭においた主張だったのではないかと思う。

 確かにこの「進歩的知識人」について、松下圭一をさすものであるなら正しいというしかない。すでに松下の言説については精査したところだが、松下の主張はネオリベ言説と奇妙な共犯関係をもち、ネオリベ言説を強化することに一役買っていたのは確かである。 

 しかし他方で私自身、松下圭一の位置付けというのはかなりイレギュラーなものだったのではないのかと考えている。松下自身は早い段階で(70年代に)革新勢力には見切りをつけ、ある意味独自路線の下で言説を展開した人物だと感じているからである。その意味で俗に言う「進歩的文化人」とは別の勢力の者だとも思うのである。竹内の議論からは確かに苅谷の言うのと似た結論(つまり、革新勢力の「エゴイズム」が衰退要因となったように、個の強調がなされていたという見方)は導けるが、私は竹内のこの主張にまず懐疑的であるし、苅谷も独自にこの問題について見解を持っているかは本書から読み取れないのであった。ただ、この点は「教育改革」について読み解く上では非常に重要な論点になりうる部分であると感じる。今後この点については検証していきたいと思う。

 

※1 本書は「大衆教育社会のゆくえ」と合わせて三部作にするという構想があるようだが(p286)、3作目はこのような「大衆教育社会の衰退」の局面について検証するような内容になるのではなかろうかと予想している。いずれにせよ3作目の内容には期待したい所である。

 

<読書ノート>

P10-11「一つは、なぜ、日本の教育論議が、二分法的・二項対立的な図式にはまりやすいのかという問題への解答である。詰め込み教育「対」ゆとり教育の論争や、中央集権「対」地方分権の議論、あるいは教育の国家統制「対」教育の国民権の論争を思い出すまでもなく、私たちが教育を論じるスタイルの典型として、「白か黒か」をめぐる議論がある。……どうしてそうなってしまうのかの分析を行なっていくのだが、本書を通じて副次的に明らかになることの一つは、こうした教育の論じ方の限界がなぜ生じたのかという問題である。」

P12「(※戦後の教育に含まれる両価性に)目が届かなくなる理由は、まさに神話にとらわれていて、「歴史を自然に移行させ」てしまっているからなのだが、そうなるまでの「歴史」を明らかにすることで、私たちは安易な二分方的発想が、なぜかくも教育論議を通じて繰り返されてきたのかを理解することができるようになるだろう。」

※藤田の文明論的ストーリーと同じ。

P12-13「こうした問題群に対して、本書では「個の平等」に対し「面の平等」という形で実現されていく戦後日本の平等のあり方・でき方を提示する。個と面という二分法を用いると、すぐさま、日本的な集団主義を思い浮かべ、そうした視点からのありきたりの答えが用意されると思われるかもしれない。しかし、本書が試みるのは、そのようによくある文化論的な解答ではない。その違いを際立たせるために少しだけ議論を先取りして言えば、個人間の差異を前提にした「個の平等」を求めながらも、結果的にはそうはならなかった歴史的な制約に目を向けるのである。」

 

P40-42「このように見ると、教育の標準化を進めた背景が明らかとなる。たしかに日教組が批判したように、そこには五五年体制のもとでの政治的対立の影響がなかったわけではない。しかし、こうした調査を通して明らかとなった教育の実態を目の前に置いたとき、はたして「白黒」はそれほどはっきりしていたと言えるのか。少なくともこうした調査が教育の実態をある程度反映していたと見るかぎり、「教育の機会均等の趣旨の実現のためにも、適切なへき地教育振興策の必要を痛感せられる」と指摘した報告書が、どれだけ「民主教育」からに逸脱や反動であったのか。この問題は、それほど自明なことではない。」

※「「白と黒」、「天と地」ほどの差異があると見なされた二つの指導要領の考え方の違いは、なるほど、戦後教育史の通説にしたがえば、鋭い対立をあらわにしたものだった。そして、五八年改訂の動きに対しては、「逆コース」、国家統制の強化、「新教育」から詰め込み教育への転換といわれ、否定的な評価が主流だった。」(p28)

P50「このように、政治における五五年体制の成立以前、左右対立の時代以前の段階では、教育の実態だけに限ってみれば、教育環境の劣悪さや、そのもとで理想主義的なアメリカ流の「新しい教育方法」を実施することの困難さの認識の点で、日教組も文部省も選ぶところはなかった。しかも、いずれの陣営も、経済力の差と結びついた教育条件の差異が学力の格差を生み出している重要な原因であるという問題設定においては共通していた。言い換えれば、教育条件の不整備という文脈の上に、教育課程や教育方法の問題点を位置づけてみると、両者の間には、一九五八年の学習指導要領の改訂時に見られたような大きな問題認識の差異はなかったのである。」

 

p81 「このように、州政府による教育補助を通じて、地域間の教育格差の是正を教育財政の配分によって行なう主張が二〇世紀初頭のアメリカに登場する。これらの主張はたんに政治的な意思表明として説かれたわけではなかった。戦後の日本でしばしば見られた、「あるべき教育」の理想を語りそこから現実を批判する「教育論」とは異なり、教育財政の実態を調査した上で、望ましい教育財政の在り方を主張するというスタンスが採られていた。」

p100 「州政府や連邦政府による補助を通じた教育費の平等化の議論が盛んになっていったにもかかわらず、アメリカには、その実現を拒む大きな力が働いてもいたからである。政府による教育の統制を忌避する地方自治の伝統である。」

※ある意味で戦後の国庫負担問題も同じような地方自治観を共有しているともいえないだろうか??

P102「州政府による教育への統制を嫌うという価値を上位におけば、公教育の費用負担は地域に任されたままである。その結果、著しい教育費の格差が生じ、それが教育の不平等をもたらす。統制の忌避=自由を優先させることで、平等が犠牲になる結果を招来するのは、教育費を誰が負担するのかという問題が、すぐれて価値選択の問題と結びついているからである。」

 

P134-135「さらにいえば、これは鶏と卵の関係に似て、どちらが先にあったか明確にいえないところだが、日本の場合には、「等量、等質の教育の提供」をもって「教育機会の均等」と見なす。一定の教育機会均等観がそこに反映していたという見方もできる。これは、第二章で見たアメリカの算定方式にならえば、個別学習を可能にする「生徒時間」の考え方と必ずしも同じものとはいえない。アメリカの算定方式にならえば、個別学習を可能にする「生徒時間」の考え方を背景においているから、極端に言えば、「非等量、非等質の教育の提供」こそが、それぞれ個々の生徒のニーズに応じて「教育の機会均等」を実現するための「財政的裏付け」=教員数の算出方法≒教育の人件費の算出方法となりうるのである。

アメリカでは「出席生徒数や教員の実員数といった単位から生徒時間へ」コストの考え方が変化した(p91)。これは「学習の個人化」の流れを汲んだものであった。

P126-127「しかし、他の先進国では、この当時も現在も、生徒時間のようなユニットコストをもとに算出された生徒一人あたりの費用を計算し、生徒数に応じて教育費を配分する仕組みが取られている。学級定員の上限を決め、そこからコストを計算する日本のやり方は例外的なのである。」

P127「「パーヘッドの世界」と「標準法の世界」とは、平等の考え方の根本において、大きく異なる原理に立つ。一方は「個人」を単位に資源配分の平等を考える原理に立ち、他方は、学級や地域といった集団的・空間的な集合体を単位に資源配分の平等を考える(=「面の平等」)。」

※ただし、この思想は「厳しい財政事情のもとで、現状追認的に、今ある学校数、学級数の数を考慮に入れて」教育費を算定した結果であったという(p128)。他方で、「わが国のように、学級を固定化し、しかも、同学年編成でなければならないという考え方にたつ限り、このような(※生徒時間に基づく)教員算定方法は馴染まない」と言う言明が当時の文部省の佐藤三樹太郎によりされている(p133)。

 

P152義務教育費の伸びについて経年比較

※一人当たりの教育費は増加しているが、全体は80年頃をピークに減少。

P156−157 「このことは、一九六五年以後、財政力の弱い県ほど、小学生一人あたりの教育費支出がしだいに増えていくという関係に転じ、しかもその傾向は強まっていったことを意味する。平たく言えば、財政力の弱い貧しい地域ほど、小学生の教育により多くのお金をかけるという、ある意味「累進的な」関係が強化されていったということである。」

P176-177「中央教育審議会の各種答申や学習指導要領の度重なる改訂を通じて、教育における個性の尊重や学習の個人化に向かう方向性が何度となく出されても、教育資源の配分の仕組み自体は、過去からの慣性から逃れることはなかった。しかも、こうした仕組みを暗黙裡に残したからこそ、大きな資源配分の構造を枠づけている慣性にしたがっていけば、逆進的な教育資源の配分の仕組みを、累進的な仕組みへと、スムーズに変えていくことができたのである。」

※しかし、これは正しいようで正しくない。結局改善されていたはずの「一学級あたりの定員」の減がストップしているからである。そしてその抑制の論理の一つとして財務省の主張そのものとなっているからである。

 

P214「いや、別の見方をすれば、教育の標準化が着々と進められていた時代を背景におけば、このような悉皆による全国学力調査を実施すること自体が、教育の標準化をもう一段推し進める教育施策だったということもできる。全国一斉学力調査が提供する学力の全国平均という尺度を与えられ、テストの得点と関連すると考えられた教育条件のいくつかが数量化になじむ形で提示される。これら標準化された基準を参照点にして、「教育条件」の改善や「学力の向上を図る」施策が、それぞれの地域や学校で始まることになるからである。」

P215-216「ここに示されているように、日教組に代表される反対派は、文部省が掲げた全国学力調査の目的(※学習指導の改善や、教育条件整備の資料とすること)は、調査の真のねらいを示したものではないと見ていた。本当のねらいは、「経済政策上の労働力配置のための、生徒のふるい分けの資料」にすることだというのである。」

※「学力テスト反対派の主張も、教育条件の改善が必要なことは認めていたが、それはこうした調査によらずとも可能になると見ていた。」(p216)

P220「日教組もまた、「文部省は整備改善の仕事をなまけている」と見ていたのであり、その改善を、教育の標準化を通じて行なうこと自体には、六〇、七〇年代を通じて学力テスト反対論ほどの激しい反対意見や反対運動があったわけではない。露骨にテスト得点の向上だけを目指すような教育に対してはともかく、それぞれの地域で、「教育条件」の改善や授業改善を通じて「学力の向上を図る」ことに反対論が唱えられたわけではないのである。

その結果、表面的には激しい対立や衝突があったにもかかわらず、その底流では、国=文部省が直接手を下さなくとも、教育の標準化のための枠組みと財源さえ準備すれば、それぞれの地域がそれぞれの範域内で面の平等を求めて行動するようになる環境をつくり出すことにつながった。前章でみた広域人事への取り組みはその一例である。」

※いくつか事例を示しつつ、「一九六〇年代を通じてそれぞれの県で、人事交流や広域人事の仕組みが整えられていった」とする(p198)。

 

P235「同じ指標と二〇〇七年の学力テストの平均正答率との相関関係を示したのが、表5-8である。先ほどの一九六二年の結果とは大きな違いが見られる。県の財政力や一人あたり県民所得と、テストの正答率との間には、ほとんど優位な相関関係が見られない。財政面や経済面で見た県の豊かさと学力テストとの関係がほとんど消えているのである。それに対し、生活保護世帯の比率は、〇七年でも同様に、負の相関関係を示している。つまり、県全体の豊かさと学力との関係はほとんどなくなったのだが、貧しい世帯比率の高い県ほどテストの得点が低くなるという傾向は四十数年を隔てて残っているのである。」

P239「標準法の世界が誕生したからといって、それですぐに教育条件の均質化が達成されたわけではない。教育費の配分が、累進劇な構造へと変わるのは、小学校の場合でも一九六五年以後であった。広域人事の仕組みが取り入れられるのも、六〇年代に入ってからである。」

※この累進的な構造というのは、一学級あたりの児童数の改善や複式学級に対する改善、加配職員の考え方の見直しなどの影響があると見ている(p170、具体的内容はp172-173)。

 

P248−249 「共通の尺度をあてはめることによって明らかとなる「劣悪な教育条件」を取り出す場合、あくまでも是正の対象となるのは、個人を取り巻く「面」としての教育条件であり、個人そのものへの介入ではなかった。言い換えれば、「面の平等」とは、個人の差異を際立たせないようにしつつ、あるいは、差異が表面化した場合でも極力それを前提とした「異なる処遇」を避けつつ、間接的に「劣悪な教育条件」のもとにある不利な個人を救済するという手段であった。」

P256「ただし、ここであまり村落共同体とのアナロジーを強調しすぎると、日本文化論的な説明に陥ってしまう。むしろ私たちが目を向けるべきは、すでに第二章や第四章で明らかにした、戦前期の日本の教育の貧弱なほどのインフラストラクチャーである。」

※苅谷の立場は安易に文化論によりかかるよりは、後発効果的な、「遅れて始まった「近代」に根ざした教育の伝統」とみる立場(p257)。

p261—262 「こうした標準化の試みは、「機会の平等」をめざす政策であった。本書が明らかにしてきたのは、まさにこの点である。しかし、処遇の均質化にまでそれが及び、画一的な教育をもたらしたことで、それは「(行き過ぎた)結果の平等」と誤読された。それゆえ、「結果の平等」を是正し、「機会の平等」を実現するためには、学校選択など、市場原理に任せた教育制度に転換しなければならないといった主張を生み出すに至った。その実、言葉の正しい意味での教育の結果の不平等は不問にされたまま、戦後日本の教育が機会の平等として推し進めてきた制度を大きく変えることが、「機会の平等」の実現だと誤解されたのである。」

 

P271「しかも、こうした教育批判は、自立した個人の形成を長年望んできた戦後知識人の願望とも共鳴するものであった。戦後日本において、教育界を含む「進歩的知識人」の多くは、日本社会の後進性や前近代性を憂い、西欧的な近代社会へと変えるためには、自立した個人の形成が必要だと考えた。それゆえ、教育の議論においても、自立した個人を育てることに価値が置かれた。それを反転したのが、教育への国家統制批判であり、画一教育批判であった。」

※一見この主張は、安易なネオリベ批判言説を踏まえると妥当ではないかのようにも見える。そのような言説はむしろ進歩的文化人にも批判的であったように思えるからだ。しかし、松下圭一のようなアクターの存在を想定した場合、確かに俗流ネオリベ勢力と、ここでいう「進歩的文化人」の類の論者の主張は共犯関係にある。「とりわけ、戦後の進歩的知識人にとって、日本の「後進性」や「前近代性」(さらにいえば、「敗戦」と窮乏化)というトラウマがあった。それらを背景に置くことによって、「近代」をつくり上げることへの憧れが、個人主義の礼賛を後押しした。」(p272)

P279「「個の抑圧」というネガティブな部分の見えやすさゆえに、日本社会論や日本人論でお定まりの批判的言説が、教育に振り向けられる。そうしてこの〈システム〉を変えようとする議論がたびたび登場することになるのだが、その批判が、因果関係の究明において、どれだけ正しい認識に立っているかはほとんど問われない。そこでターゲットとなる個性にしても、創造性にしても、個の自立にしても、分権化された教育にしても、同様である。」

 

角田忠信「日本人の脳」(1978)

 今回は、日本人論の関連で、角田の著書を取り上げる。

 角田の日本人論というのは、恐らくは「最強」の部類だと思われる。通常、日本人論として認められるものというのは、それが「一般的な日本人」について妥当であるかどうかの検証というのが難しく、それ自体がしばしば争点となった。例えば、土居の「甘え」の議論についても、縫田のレビューでも捉えた「歴史性」の証明という観点から、つまり土居のいうような辞書的な意味での「甘え」の用法について、一般的な日本人にどこまで浸透しているのかという点については(その用法が使い古され、日常的に「意味」が与えられているようには使われていない可能性があるといった)議論の余地があった。

 しかし、角田の主張というのは、日本語を用いる者(正確には日本人そのものではなく、日本語に幼少期から精通している者を基本的に指す)は文字通り「全て」当てはまるものだというものである。もし、角田の議論が正しいとするならば、これほどまともな「日本人論」はないと言ってもよいだろう。

 

 さて、角田の理論というのは、いつもの「理念型α、β(類的理念型と歴史的個性体としての理念型、羽入のレビュー参照)」の枠組みで言うと、

 

・理念型α:母音・自然音における認知の左脳の優位が日本人独特のものであること(脳科学認知心理学的問題)

・理念型β:その認知が日本人の創造性に結びつく(国民性論の問題)

 

 の二種類に分けて考えることができる。角田が実際に示しているのは理念型αのレベルの議論にすぎないのであるが、理念型βについても、「飛躍」していることを認めつつも、どうも確信じみたような語り口で日本人論と結びつけて指摘している(p86-87)。

 

 

〇ツノダテストの特徴と問題について

 

 しかし、角田の議論には多く問題があるようである。これは理念型αの議論と理念型βの議論から指摘できる。先に、理念型αに関連する問題について八田武志「「左脳・右脳神話」の誤解を解く」(2013)を足がかりに検討していきたい。八田は80年代に角田の議論の追証実験を行った者としても知られる。

 まず、押さえなければならないのは、角田が理念型αで示した内容について、独自の方法で立証したことである(ここでは「ツノダテスト」と呼ぶ)。ツノダテストは次の方法によりなされた(cf.角田1978、p52-53)。

 

 最初に被験者に対し、右耳から小さな音(母音、子音、バイオリンの音、こおろぎの鳴き声といったものが使われた)を一定の間隔で流す。その後、今度は左耳から右耳の音より大きな音を、しかしそれを遅らせて音を鳴らす。被験者は両方の耳からずれた音を聞くことになるが、最初の小さい音に合わせて規則正しくスイッチを押すよう命じられている。大きな音の方はその音量を次第に大きくしていき、大きな音の干渉のため「スイッチを押す間隔が不規則になった」時点で一度実験は終了となる。

 今度はそれを逆に、左耳の音に合わせて規則正しくボタンを押し、遅れた音が入ってくる右耳の音を大きくして不規則になったタイミングで実験を終了する。

 左右の耳で行った場合で実験終了時の音のデシベル数には差が出てくるが、基本的により大きなデシベル数まで規則的にボタンが叩けた場合、そちらの耳がよりその音に対して「敏感」であったことを示す。

 日本語人の場合、母音と子音の聞き取りは同じ右耳(=左脳)で優位になり、自然音も右耳、楽器の音は左耳(=右脳)で優位になる一方で、非日本語人の場合は子音と楽器の音は日本語人と同じ結果であるものの、母音と自然音は共に左耳優位になるというのが角田実験の結果である(※1)。

 

 八田のツノダテストへの批判として注目すべきは次の2点である。まず一つ目はこの実験の追証不可能性であった。学問的にはこちらの理由でツノダテストは「科学性研究とはならない」という指摘もあったとする(八田2013、p157)。

 特に不明なのは、「スイッチを押す間隔が不規則になった」ことへの定義の問題である。八田の著書からは角田と同じ方法で実験した内容に対する明確な反証が確認できなかった(※2)が、恣意的な操作が許される状況の下で追証を行うことができていないことでその正しさが示されていないということが言われているようである(※3)。この点については、角田のその後の態度の取り方からみても、妥当な批判であると思われる。

 

 八田の言うもう一つの批判は、角田がこの実験の方法を独自のものとして行ったことに理由がない点である。八田によれば、認知心理学の実験において類似の内容を検証する際に行われていたのは両耳分離聴テストと呼ばれるものであった。これについては角田も「キムラ法」として著書で紹介しているが、「実験条件の精度の低いこと、合成手法の不完全さからその結果は十分な信頼性を有していないと癇癪している」としている(p63)。また、別の著書では「キムラの両耳分離聴テストは、言語応答(口頭・筆記)による方法をとっているために、母音以外の言語要素が同時に含まれる。そのために、実験条件によって言語半球が支配的になる」と反証している(角田「ヒトの聴覚系にみられる左右差について」久保田競ら編『感覚と行動の神経機構』1976、p223)。

 この主張の正しさは両耳分離聴テストの内容を説明する必要がある。八田の実験の説明がわかりやすいだろう。

 

「片方の耳からは六桁の数系列を女性が読み上げる声。それと対にして、反対の耳からは「犬の鳴き声」「小鳥の声」「虫の音」「自動車の通る道路騒音」「白色雑音(多くの周波数が混じっている音で『シャー』と聞こえる)」を学生に聞かせるというやり方である。学生には両方の耳に等しく注意を配分するように頼んでおいて、数系列の正答率をペアにした条件ごとに比較している。」(八田2013、p154)

「結果は、右耳から数系列が聞こえる条件は「犬の鳴き声」をペアにしたときも、「小鳥の声」でも「虫の音」でも左耳よりも優れていた。日本人では「犬の鳴き声」「小鳥の声」「虫の音」は左脳で処理されるために、右耳からの数系列の聞き取りが英国人よりも劣るという傾向は決して見られなかった。論文では、環境音の対提示条件における数系列の聞き取りに日本人でも英国人でも違いはないと結論づけてある。」(同上、p154-155)

 

 八田はこの結果について、「自然音が有意な耳から聞き取りを行った方がもう片方の耳での数系列の点数が高くなる(聞き取りにおいて聞き取りづらいノイズがない方が点数がよい)」ことを前提にしていることを、まず押さえておきたい。

 

 さて、この説明で議論せねばならない問題がある。それは「環境音」をどう考えるかではなく、「数系列」をどう考えるのか、という問題である。この実験法を用いた場合、両耳から異なる音を聞くことになるが、それぞれの音が左右どちらの脳に「聞き取りやすい/聞き取りにくい」の性質があるかによって、影響が出てくる可能性があると考えた方が自然である。端的に言えば八田は「数系列」の音の聞き取りにおける脳への影響を無視しているのである。

 基本的に左脳(=右耳)は言語を聞き取る上で有意であることは角田とその他の一般的な研究は一致している。問題は音節としての母音と子音の認識の違いであり、子音は左脳有意であるものの、母音は右脳有意とするのが、角田理論、これが明確でないか、左脳有意とするのが一般の理論である。

 ここで問題となるのは、「数系列」は言語・単節母音・単節子音のうちどれになるのだろうか、という点である。というのも、「数系列」の聞き取り自体が、他方の耳で何を聴こうが有意脳側で聞いたほうが好成績になる可能性を否定できないからである(※5)。

 八田の言うような前提を支持するためには、次のような条件が必要になってくる。左耳で数系列を聴き、右耳で環境音を聞いた場合、右耳ではよく環境音が聞こえてくる。このことが左耳での数系列の聞き取りにも好影響を与え、実験結果も左耳の方がよくなる、という条件である。しかし、この条件を提示するのであればもう一つ考えなければならないのは、数系列自体の聞き取りやすさにおける左右の耳(脳)のバイアスである。

 

 むしろ注目したいのは八田の実験で「日本人学生の成績水準の方が絶対値では勝っていた」と述べている点(八田2013、p154)である。この事実も角田理論の都合のよい方へ解釈することが可能である。まず、右耳(が数系列の場合)の結果については、「数系列」が単節の音に近いものだとすると、母音・子音共に右耳有意であるため、日本人においては右耳の方が聞き取りやすい、という解釈を行うことも可能であるからである。また左耳(が数系列の場合)の結果についても、右耳で聞こえている自然音において、それを左脳で処理する傾向のある日本人は「ノイズが少ない」分、非日本人よりも聞き取りやすくなる、という見方が可能である(もっとも、この結果は道路騒音・白色雑音では差がでないという結論にはなるが)。

 

 この実験から角田理論を立証するには、日本人の場合自然音(環境音)と言語(非日本人の場合は子音のみ)が別の脳(=耳、非日本人の場合は)から受容されることを前提にして、自然音に該当する「虫の音」などは両方の有意に良くなる(もしくは悪くなる)結果になるだろうということだが、八田の実験ではそのような結果を見出せなかった。この実験内容を見る限り、角田側から批判できるとすれば、「「数系列」が母音と子音を両方含んでいるため、十分に認知の違いを確認できない」ということになるだろう。これには一理あるように私には思える。また、このテストでは左右どちらの耳も等しく聞くことが求められるものの、これも被験者の主観の影響を無視することがかなり難しく、個人差がかなり出る印象も受ける。少なくとも、八田が言うような「両耳分離聴テストに問題がないのに、なぜ(※独自の実験手法を)開発しようとしたのか了解しにくい」(八田2013,p147)という主張が成り立つのかは素人目には判断できない。

 更に、八田は両耳分離法テストでは母音は「右脳有意であるという報告が一貫して行われてきた」としているが(八田2013、p143)、角田の参照する(もちろんキムラ法=両耳分離法を用いた)ハスキンス研究所の実験結果によれば、その傾向は一貫していないとする(角田1978、p57)。これについては、角田はそれぞれの結果の出典をほぼ明示しており、八田の分がかなり悪い。このような結果の一貫しない点についても、角田は自身の実験法にノイズが少ないことを理由に優位性を主張している嫌いがある。このような事情からも、少なくとも角田があえて別の方法でこの問題を実証しようとしたことには理由があると私には見える。

 

 以上の議論から指摘できることは、少なくとも八田(2013)の著書から行われる理念型αの批判というのは、ツノダテストの結果そのものというよりも、別の方法による議論の方が強いことになる。PETスキャンを用いた実験においてツノダテストの結果とは異なる結果が導き出されたなどという指摘や(p156)、出所のわからないシンポジウムの場において角田が「(※「スイッチを押す間隔が不規則になった」という定義について)博士課程クラスの基礎がある人なら僕のところで半年くらい習えば判断が可能です」という発言したことなどを紹介するが(p152)、決定的な研究結果を引用できていないのは確かである。

 

〇サピア・ウォーフの仮説、もしくは言語相対論からみた角田理論の問題について

 

 さて、次に理念型βから考えた場合の批判についてみていく。これについては、江村裕文「サピア=ウォーフの仮説について――文化その3―」(法政大学国際文化学部「異文化」第8巻2007、p25-53、URL: https://hosei.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=83&item_id=2989&item_no=1)の内容を参照したい。これらの議論には「強い仮説」と「弱い仮説」があり、前者は「言語決定論」というべきような、言語そのものが思考や文化を決定づけるものであるとみなす。

 例えば、土居の「甘え」の議論もこの議論に位置付くように思えるが、すでにレビューしたように、言語相対論的な影響についてはそれほど明快に議論がされているといい難かった(もっとも、土居自身は「強い仮説」を支持していたと言えるだろう)。

 一方でこの角田の議論は明らかに「強い仮説」の立場にある(江村2007,p34)。彼のいう日本人は全てが同じ脳の傾向を持っていることを前提にしているからである(※4)。

 ただ、問題なのは、角田がこの議論を基本的には日本語に限定している点である。まじめに言語学的なアプローチをする場合は少々偏り過ぎており、一般論として言語相対論が成り立たないとしても、日本語の特殊性まだは十分に考察できていないからだ、と反論されそうである。

 そして再度注意せねばならないのは、角田の実験によっては、理念型βに関わる部分の実証は何一つなされていないということである。このため、角田自身は日本人の脳と同じ傾向を持つ者として、ポリネシア語族について指摘しているものの、「ポリネシア語族の人々が日本人と同じような文化傾向をもつのか」について全く検討しないのである。少なくとも言語決定論的なアプローチを行なえば当然検証しなければならない論点であるはずなのに、「ユニークな日本人」の描写に満足してしまったからか、この点については深入りしないのである。

 角田が理念型βとの関連で議論をするときは、すべて日本人論は「なんとなく」我々に受容されていることを前提にし、それを自らの実験結果と無理やり結び付け、その「なんとなく」の証明材料であると強調するのである。理念型βの証明は何も角田の実験によってのみ導き出せる類のものでは決してなく、それに類する実験等によっても議論されねばならない点である。そして、それらの検証は何一つ示さないまま、角田は日本人の特徴を自らの実験と結びつけてしまっているのである。基本的にこの点について角田の議論は「論外」と呼ぶしかないだろう。

 

 しかし、ここでこれまで私が検討している「日本人論」の議論においてとても無視できない点がある。本書が30万部を売り上げるベストセラーであったのもそうであるが(八田2013、p186)、マスメディアには「純正な科学研究」とさえ評価されていたことや(江村2007,p34)、著名な湯川秀樹らによる肯定的な評価がされていたことである(江村2007,p39)。これは端的に言えばマスコミの「疑う力」の欠如や「「手短に結論だけ」を珍重する特性」の問題(八田2013、p187)が原因であったといえるのだろう。少なくとも、本書が出版された時期における「日本人論」の受容のされ方というのは、極めて疑うことを知らずになされていったこと、このような態度はその後の90年代以降の日本人論的語りの受容にも影響があったということになるのではなかろうか。

 

〇近年の「角田理論再評価」の誤解について

 

 最後に一部界隈で「角田理論の再評価」として取り上げられている、角田晃一らによる“Near-infrared-spectroscopic study on processing of sounds in the brain; a comparison between native and non-native speakers of Japanese”(Acta Oto-Laryngologica 136(6),2016:p568–574, URL:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4898151/

)にも少し触れておきたい。特に本論文が「角田理論」が当初持っていたサピア=ウォーフの「強い仮説」の態度からすると大きく異なる結論を導いていることについては押さえておかねばならないだろう。

 

 まず、大前提としてこの実験で用いられたNIRSという医療機器は、前頭葉のヘモグロビン量の増減により、脳の働きをみるものである。このため、角田理論で強調されていた左脳・右脳の議論とは直ちに結びつかない。Tsunoda et al.(2016)では、この点に配慮し、左脳・右脳ではなくlanguage brainとmusic brainという言い方を行い、2つの脳の使われ方の違いとして説明をまず行っている。

 この実験は、言語(日本の言語)と音楽(西欧の音楽)を聴く時の脳の働き(=NIRSによる測定値)のどちらの傾向が、虫の音を聴くときの傾向で似ているかというのを実験したのである。結果は、言語を聞くとヘモグロビン量は多くなり(language brainの受容パターン)、音楽を聞くと、NIRSによるヘモグロビン量が減る(music brainの受容パターン)ということは共通であったが、虫の音色に関しては日本人と非日本人で傾向が異なる結果となった、というのが本論の趣旨である。

 

 この結果自体は興味深い指摘であると思われる。もっとも暗黙の前提としているNIRSによる観測結果として「虫の音色を聴く際と言語を聴く場合とで同じパターンでヘモグロビン量が変化したということは、言語と同じ仕組みで脳も働いた」というのが正しいのか、といった点は追試等が必要であるように思える。

 

 しかし、Tsunoda et al.(2016)は例外がかなり多く存在している点にも注目せねばならない。まず奇妙なのは被験者選択においてである。被験者候補70人のうちから「顔や脳の手術を行った等の基準」により、過半数の37名を調査対象から外している点である。なぜこれほど対象外とした者が多くなったのかが気になる(そもそものサンプルが相当偏っている可能性が危惧される)。また、特に「角田理論」との関連で重要なのは、「日本人被験者20名のうち16名が虫の音をlanguage brainで受容し、4名がmusic brainで受容したこと」「非日本人被験者13名のうち、5名がlanguage brainで受容し、8名がmusic brainで受容したこと」という実験結果そのものである。これが「角田理論」に基づくのであれば、基本的には「日本人被験者20名全員が虫の音をlanguage brainで受容し、非日本人被験者13名全員が虫の音をmusic brainで受容した」とならなければおかしいのである。

 このことについて日本人の例外4人のうち2人は「豊富な外国経験がある」と例外処理の説明を行っているものの、非日本人側にも5名も例外がいたことに対する説明は特段触れられていない。少なくともTsunoda et al.(2016)は、「角田理論」にあったような絶対的な日本人論ではなく、相対的な日本人論(弱い仮説)にシフトしないと説明がつかないし、いわゆる「角田理論」を追証した研究として紹介するには、様々な誤解を生むことになるだろう。

 

※1 角田の場合、脳の反応の仕方が左右逆のパターンを結果を示す被験者パターンがいることを示している。つまり、通常左脳の機能を右脳が果たす反面、右脳の機能を左脳が果たすような者が一定数いることを指摘している。このような者を「逆転正常型」と呼んでいるが、議論の簡略化のため、以後の「右耳・左耳有意」の議論では「逆転正常型」のケースは取り扱わないことを前提としたい。

 

※2 直接的なのは、1990年の日本心理学会のシンポジウムで、実際にデータ収集する角田の助手の発言で、角田の方法では有意差を示すことができなったというものがあるが(八田2013,p190)、それ以外の内容では角田実験の批判は別の方法論により否定されているにすぎない。八田が行った検証実験(Hatta and Diamond,1981)も、後述する両耳分離聴テストによるものである。

 但し、角田実験の批判として頻出されるUyehara and Cooper"Hemispheric differences for verbal and non-verbal stimuli in Japanese- and English-speaking subjects assessed by Tsunoda's method."(1980)という論文では(原文を読めていないがhttps://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/0093934X80900656の要旨を見る限り)、角田実験の追試として行っているようであり、有意な差は存在しないという結論となっている。

 

※3この点については直近に出ている「日本語人の脳」(2016)においても何ら言及がなされておらず、実験方法の恣意性の問題については特に修正を加えないまま角田はその後も同じ実験を続けていたことになる。

 しかもこの点については、むしろ他の実験者が追試した際にその実験方法自体に問題があるかのように指摘している傾向が強い。八田の著書においても「数年間厳密に外国語の使用を禁じる、情動刺激や薬物使用を取り除くという条件統制」をしないと正しい結果が出ないと主張したとされるが(八田2013、p156)、更に不可解なのは、実験時に「被験者の両足うらは常に床に設置する必要があること」を主張した点だろう(角田2016、p315)。このような条件配慮をしていなかったことが追試で行われなかったことについてそれを方法論的欠陥だと明言しているが(角田2016,p24)、まずもって、この批判は最初の批判の焦点である「スイッチを押す間隔が不規則になった」には何一つ回答を与えず、この批判点に対する改善も見られなかったことは注目しなければならない。また、「両足うらをつけること」についても、その方法論的妥当性については他者に委ねたいと思うが、私が読む限りは「日本人の脳」の特徴と関連性があるとはとても思えず、ただツノダテストにおける「誤差の発生(角田理論に反する結果の発生)」に対する説明のために持ち出したものにしか読み取れなかった。

 

※4角田の実験においても「例外」と呼べる者がいなかった訳ではないが、例えば、例外とされた日本人を「病的偏移型」と名付け、「正常者のうちに数%の頻度でみられる、無自覚性の脳微損傷が疑われる興味ある例」 (p74)とする態度がそもそも適切な見方なのか、私には理解し難い。これも※3で述べたような例外処理の苦肉の説明であるように見えてきてしまう。

 

(2020年6月17日追記)

※5 本文以下の記載については誤りであると考えられるため訂正したい。というのも、ここで争点としようとした「数系列」というのは、「言語」として扱うべきであり、「単独母音」や「単独子音」の範疇には入りえないと断言できるからである。本書p84などに記載があるが、「単独母音」「単独子音」というのは1/20秒~1/13秒という極めて短い時間に出される音であり「言語という認識がもてない」レベルのものとされる。言語認識がもてる音声は角田も日本人と非日本人で脳の違いの相違を認めておらず、「数系列」においてもそれを聴くことで日本人・非日本人で差が出ない。

 したがって、ツノダテストはキムラ法と別の方法として行う理由が乏しいという八田の批判も正しいことになる。

<読書ノート>

P85-86「複合音の認知機構の差を直ちに日本人と西欧人との精神構造の差に結びつけるのは甚だ飛躍した考えと受け取られるかも知れない。しかし感性的な音が無意識のうちに論理・知的な言語半球にとりこまれて音認識をする日本人と、無意識のうちに言語半球から閉め出されて音認識をする西欧人の感覚は明らかに異質のものであり、この差が精神構造にも影響を与える可能性は充分に考慮する価値があると考える。

日本では認識過程をロゴスとパトスに分けるという考え方は、西欧文化に接する迄は遂に生じなかったし、また現在に至っても哲学・論理学は日本人一般には定着していないように思う。日本人にみられる脳の受容機構の特質は、日本人及び日本文化にみられる自然性、情緒性、論理のあいまいさ、また人間関係においてしばしば義理人情が論理に優先することなどの特徴と合致する。西欧人は日本人に較べて論理的であり、感性よりも論理を重んじる態度や自然と対決する姿勢は脳の受容機構のパターンによって説明できそうである。西欧語パターンからは人間や自然を対象とした学問は育ち難く、ものを扱う科学としての物理学・工学により大きな関心が向けられる傾向が生じるのではなかろうか? 明治以来の日本の急速な近代化や戦後の物理・工学における輝かしい貢献に比べて、人間を対象とした科学が育ち難い背景にはこのような日本人の精神構造が大きく影響しているように思える。」

P88「さて、我々日本人は学校及び社会を通じて意図的に西欧文化の吸収に勤めており、その生活様式も著しく西欧化され、文明の余慶を受けていることでは西欧諸国に遜色はない。

しかしながら日本人の意識構造は甚だ画一的であり、かつ極めて異質なものであることは、屢々外国人や日本を離れた日本人によって指摘されているところである。私は日本人の画一性は同一言語で統一されていることに由来し、また日本語母音が有意語であるという特異性が西欧人とは異質な自然音の認知機構と感覚をもたらし、自然に恵まれた日本の風土と相俟って独特な精神構造を作りあげたものと考えたい。」

 

P110「日本人の精神構造や美意識を特徴づける「わび」「さび」などで表わされる情緒性や感覚が、脳の言語音、感性音また自然音処理機構の特性として捕え得るものであるならば、日本の伝統音楽は日本人の美意識に適合した形に作られて発達してきたものに違いないし、現代の日本人もまた日本の伝統的な音楽の感覚を身につけている筈である。」

P139「ところで、非言語脳で処理される音は西洋楽器の音、それから純音、雑音などのいわゆる物そのもの、マテリアルのようなものになってしまうのですね。だから、日本人の脳は「心」と「物」というふうな形に分かれるのだろうと思います。

西洋人の場合には、自分の感性も含めた自然界全体と、理性的なものとを峻別している。ですから彼らは言葉を受けもつ左半球の方を主体的に働かせて、自然界の音・虫の声を雑音と同様右半球で処理するわけですからこれらを客体化できるわけです。」

 

P292「日本語の母音の優位性が極めて特殊なものであることはこれまで説明してきたが、日本の近隣諸国に日本語型と同型の言語はないものであろうか? ヨーロッパ系の人々と西欧語圏で生育した日系二・三世は日本語と全く異なった母音の優位性を示すことが知られている。その後、朝鮮語、中国語(広東、台湾)、東南アジアの一部の人々についても優位性を測定する機会があったが、彼らは西欧語パターンを示していて、母音の優位性という観点からみると日本語とは全く異質の言語と考えられた。日本とは文化的に深い関係にあり、言語学的にもアルタイ語系として最も近いといわれる朝鮮語が完全な西欧語型を示すことがわかったことから、日本より北方の言語については日本語型を見出すことの可能性が稀薄であると考えられた。

ポリネシア語の母音の音韻構造が日本語に酷似していることから、以前から検査をする機会をねらっていたが仲々果たせないでいた。」

 

P360-361「創造性の研究というと、日本では多くの外国の著者の引用・紹介・まとめが主な作業となることが多いが、こういう文献を莵集するという作業そのものが既に創造性を無視していることになるから、せいかく、且つ客観的な研究状況の紹介や批判になり得ても、著者の主体性が失われてしまう。しかも現代のように情報過多の時代には、世界中の膨大な研究論文を読破してまとめるということが、既に個人の能力では不可能な作業となってしまった。情報の過多は情報の欠乏にも通じるのである。

さて日本人が過去に行なった創造活動の最も活発であった時期は、日本及び日本人が、周辺諸国と隔絶して、文化の交流が絶たれ、日本人が模倣という精神活動から一時全くつき放された時期、すなわち十七世紀から十九世紀にかけての鎖国時代ではなかったろうか。現代日本の伝統とされている主として芸術の面の大部分は、実は、徳川時代のこのゆるやかな醸酵期間に形成されたものであったといわれる。明治以後の日本及び日本人は、短い第二次大戦中を除いては欧米の影響をまともに受けてきたが、この一世紀以上の間に日本人の頭脳で創造し得た文化の所産となると甚だ乏しいのに愕然とする。我々、日本人はこの一世紀の間に、あるときは過去の日本の土着のあらゆる文化を否定してまでも西洋の文明を受け入れてきた。そして現在の自然・人文科学の領域において、学習に費やされる知識の源泉は、殆どが西欧由来の文化や技術であり、我々はこの西欧化・近代化を進める上の理想像としては、西欧人の理性になり切って自然や事物を考えるという観点に立つことを画いてきたのである。

しかしこのような観点に立ち得たとすれば、それは完全に西欧人の窓枠で物を考えるということにほかならない。他の文化圏を観察し、自然を認識する窓枠は日本人である限り、日本的窓枠から抜け出て西欧の窓枠に組み変えることででき難いのではなかろうか? そしてこのような借りものの窓枠で自然認識を続ける限り、日本人の頭脳で考えた日本的独創というものは決して生れてこないのではなかろうか?」

※一種の日本人論批判。

 

P364-365「心の病気を扱かう精神科領域での日本的独創といわれる森田学説のような神経症理論は西欧的思考法からは生れ難い特徴をもっているし、最近では土居氏の甘え理論は日本人の本質に迫った研究であるが、著者のあげた日本的窓枠とも暗合している。この甘え理論の着想は、患者との面接で、彼らがどういう言葉で自分の状態を訴えるかに注目し、またそれをどう記載することが日本語として正確かという点に心を砕いたことから生れたという。日本の医者が従来行なってきた、病状を限られたドイツ語で記載し、表現できぬものは切り棄てるという、西欧の教科書をモデル化して、日本人の診療に当てはめるという態度は病態を正しく認識する方法ではない。土居氏の着想は日本語で記載し、日本語で物を考えることを徹底して続ける過程からはじめて生れたのである。」

 

P375「創造活動にとって大切なのは、右の非言語脳の働きを妨げないことにあるから、我々が読書・討議・計算・講義をきくなどの左脳の活動をしているときに、論理過程を通して良い発想法が生れるものではない。読書にしても一気に読み切るというよりは、新しい知識を得たときに、一旦本を離れて、両脳を働かせて本の内容以上に考えを発展させるということを教えられなくてもやることが習慣になっている人がいる。こういう時に、言葉の左脳の働きから、両脳の働きにスイッチ機構がすぐに戻る脳を持った人は創造のための機会を多くつかむことができることになる。」

P378「日本人は古くから心を重んじてきたが、現代は心を忘れて物に関心が向けられている時代である。逆に、西欧人は理性中心の態度を反省して、東洋の思想に目を向けはじめている。この東洋の思想というのも実は、日本人の脳のメカニズムのうちに、日本人の文化の窓枠として、日本語が続く限り、宿命として、仕組まれているのである。

西欧文明の危機が叫ばれているが、それは西欧人の窓枠を通しては、新しい時代に即した創造が生れ得ない苦悩の表明ではあるまいか。数ある文明国のなかで、異質の、しかもまだ充分に創造性の発揮されていない文化の窓枠をもつのは、実は日本以外にはないのである。……

筆者は日本人が、日本人の窓枠の異質性にめざめて、借りものでない自分の頭で考え抜くときにはじめて日本人の独創性が発揮され、その所産は世界の文化に貢献できる可能性のあることを信じたい。」

 

黒崎勲「教育の政治経済学」(2000)

 今回から新しいテーマで継続的にレビューを行いたい。私自身が丁度学生時代に研究対象としていた分野にも関連するが、90年代から00年代の教育改革をめぐる議論を読み解いていく。

 その中で特に注目していきたいのは、教員組織の自律性、『改善』の意志を持った「専門性」をめぐる議論と、80年代以降、『改善』の要求を強調するようになった「日本人論」というのがどのようにこの改革をめぐる議論に位置づけられていたのか、という点である。両者の共通点である『改善』の視点と密接に関わる形で、教育改革をめぐる議論においても、まさに何を『改善』するのかという点が争われたものといえると思う。これまで「専門性」と「日本人論」の文脈について考察してきたことも踏まえ検討してみたいと感じたので、しばらく取り上げてみることにした。

 

 この『改善』の議論を読み解く上でまず押さえておきたいのは、

  1. 実態(教育の現状)をどう捉えているのか
  2. その実態の何が問題か
  3. その問題を改善するためにどのような方法により解決するのか

 という、3つの問いのセットである。これを『改善言説の枠組み』と呼びたい(以下、『枠組み』と呼ぶ)。この枠組みが十分に焦点化されているかというのがまずもって重要であり、この三つのどれかが欠けると、その改善言説は有効性を欠いたり、虚構を語っているのと同じになりかねない。基本的に教育改革をめぐる議論の検討においては、この視点からどう語られているかを検証していくことにしたい。

 

 

 初回は黒崎勲を取り上げる。黒崎は世識書房の「教育学年報」上で藤田秀典と「学校選択制度」を中心にした論争を行ったことで知られているが、論争から出てくる論点は当時の教育改革をめぐる議論の導入としてはそれなりに適切であると言えるだろう。

 

 

○黒崎と藤田の『改善言説の枠組み』について

 

 まず、本書の黒崎の議論からわかるのは、『枠組み』(1)に関して、行政改革委員会のような、政府系の組織における現状認識をほぼ全面的に追随しているということである。このような議論はすでに中野雅至のレビューでみた「公務員バッシング」言説のような中央省庁批判・つまり「統制的」な政策を行ってきた文部省への批判や、「学校で学ぶことは役に立たない」といった議論に見られる官僚制批判の文脈を大きく依存していたといえる。黒崎が学校選択制度をはじめとした議論で「学校の自律性」を強調するのは、このような官僚制への批判として、p105のような前提に立っているからであり、「国=上からの」教育政策の硬直性が認められると考えるからこそ、「学校単位=下からの」教育政策が重要であると殊更強調したのである。更に「専門的官僚制と職業的教育者による教育行財政制度の独占についての弊害」(p93)、「専門職の独善と学校の閉鎖性」(p137)といった主張などからも、当時の行財政改革の言説で語られていた『枠組み』(1)の問題意識と基本的に区別できない立場に黒崎はあると言ってよいだろう。更に教育の専門性批判の文脈から、国民の教育権論への批判意識も相当強く、p151-152のような見方もこの『改善』に対し正当性がある根拠とみているのである。

 

 この「専門性」をめぐる国民の教育権論への批判などは私自身も「恵那の教育」の議論で実証的に示そうとしている通り問題含みなのは確かである。更に、黒崎は堀尾輝久のような国民の教育権論者を批判するのと同様に、p147にあるように藤田の議論においても具体的な『改善』に関する議論に乏しいことを批判している。しかし、ここでは藤田の言い分も聞かねばならない。これまで「日本人論」の議論の曖昧さの中でも議論してきたように(※1)、教育改革の原動力であるネオリベ勢力における日本人論をベースにした改善言説というのも正しいのかどうかという議論は当然ありえるように思える。この事実を極端に歪めて議論していたのが千石保であったが、千石は「教育病理」問題について特に飛躍した解釈を行った結果、事実を歪め日本の教育について改善を行うべきであるかのような主張を行った(千石保のレビュー参照)。これはネオリベ言説が支持した「日本人論」においても同じ前提を共有しており、多かれ少なかれ、議論の飛躍を行っている場合も多いことを示唆する。そして、黒崎もこの前提を追随しているため、藤田はこの観点をまさに批判している傾向が認められるのである(※2)。

 藤田の議論は前提として「日本の教育は(少なくともネオリベ勢力が言う程には)悪くない」し、むしろ事実誤認に基づいた改善を行おうとしている点で害悪であるというのが学校選択制批判においても主要な見方である。だからこそ、藤田はしばしば海外の教育改革の動向と日本の動向を比較し、日本の動向はその動きと反対であるかのような状況を批判する(cf.藤田「市民社会と教育」2000,p5~7)。なぜなら、日本はむしろ世界から注目された教育を行ってきたからであり、その模範となってきた方策を海外が倣っているものとみているからである。

 

 さて、藤田は学校選択制についてどうみているか。藤田の著書「教育改革」(1997)では冒頭で学校選択制をめぐって「うわさ」が必要以上の影響を与え、それが学校の「共同性」を不必要に破壊することを強く非難している(cf.藤田1997,pi~vi)。学校の教育においては信頼関係、共同性により「よい教育」がなされるものだという前提があり、「学校選択制」はその基盤を突き崩す要素しかもたず、保護者を学校教育への参加者ではなく、消費者にしてしまう。また、教員や学校に対する評価も根本的に黒崎とは相違しており、基本的に否定的ではない(少なくとも、ネオリベ言説が言うような問題はないということを確信している)。黒崎は藤田の議論に対し「改善策がない」ことを非難しているものの(p147)、これはある意味で『枠組み』の(2)が問題に値しないという認識であることから藤田が(3)の視点に(少なくとも相対的に)乏しくなっているのは当然なのである。藤田と黒崎の議論の相違において最も顕著なのは、この『枠組み』の(特に(1)の)ズレにあるといってよい。

 正直な所、この『枠組み』の(1)の論点に限れば、黒崎の方が説明に乏しいと言うべきではないかと思う。確かに両者の議論は「社会問題」に振り回されすぎていると言わねばならないほど、実態把握の議論に乏しい。特に黒崎はこの議論を「一般大衆」が『改善』を望んでいることを根拠に『改善』を要求する。このこと自体も検討しなければならないがそれほど誤りであるとは言い難い(※3)。しかし、これは『枠組み』との関連で言えば、著しく妥当性を欠いている。恐らく藤田もこのような黒崎のスタンス自体承服しかねるという理由でも、黒崎の批判に執拗にならざるをえないと言えるだろう。

 しかし、他方で黒崎が藤田批判の焦点としている『改善』への視点の欠落という点も無視することはできない。藤田の『改善』に対する視点というのは今後のレビューの課題とするが、藤田自身も過去の日本の教育全てが正しいと考えている訳ではない。しかし、何を問題をし、何を改善すればよいと考えているのかよくわからないという黒崎の言い分はそれなりに正しいように思える。藤田は恐らくは「国民の教育権論」の一派であるとは言い難く、それなりに擁護の余地もあるように思えるが、やはり『改善』に対する視点について「国民の教育権論」と同様のレベルではないといえる程の議論を行っているとは言い難いのではなかろうか。

 

○守られるべき「共同性」とは一体何なのか?

 

 学校選択制をめぐる議論の焦点の一つとして教育における「共同性」が挙げられる訳だが、これをどう考えればよいのかは黒崎がこの「共同性」について空想的に過ぎると言っている(cf.黒崎「教育行政学」1999,p49)点からも検討せねばならない点である。

 この点について、藤田の論点は2つあるように思える。一つは、素朴な「地域性」についてである。

 

「この<面>としての生活圏が重要なのは、それこそがリアルな日常生活の基盤だからである。親子であれ、仲間であれ、顔見知りの人であれ、あるいは見知らぬ人であれ、多様な他者と出会い、さまざまの関係を築き上げ、その関係のなかで喜んだり悲しんだり、思い悩んだり葛藤したり、反目・対立したり、協力し合ったりしながら生きていく、その基盤である。好きか嫌いか、好みに合うかどうかに関わりなく、対面的で包括的・多面的な関係に組み込んでいく、その基盤である。」(藤田2000、p15)

 

 そして、このことを根拠に藤田はもう一つの論点である「共生のための受容」を強調する。

「確かに現行の通学区域制の下では、学校・教師を選ぶ自由は正当な理由がないかぎり認められないことになっている。それは紛れもない事実である。しかし、この<選ぶ自由がない>という事実と、<生まれた家庭、生まれた階層、生まれた国は選べない>という事実の、どちらを優先するのかということは、私たちの社会がいま突き付けられている実に重い問題である。前者の事実を重視して、そのなかで前者の事実に起因する問題や不満の解決を図るのか、これは私たちの良識と英知が問われ試されている重大な問題である。」(藤田2000、p11)

 「この「共生」という価値は“選ぶ”という行為によってではなくて、“受け入れる”という行為、“関わる”という行為によって実現されるものである」(藤田1997、pviii)であるために、ここでは「選択をさせない」ことを強いることの価値を支持するのである。

 

 しかし、まず「地域性」の議論に限っていえば、なぜすでに「選択制」が実現している私立学校に対して「学校選択」を非難しないのかが理解できない。藤田の理屈であれば、私立学校もまた排除されるべきものであり、いくらそれを尊重するとしても、一定の地域の限定を定める主張はされてよいのではないのだろうか。少なくとも、私立中学校の選択をさせる場合においても、次のような主張は全く同じ論理になるはずである。

 

「どの中学に行くかを選ぶことができるということは、裏返していえば、どの中学に行くかを選ばなければならないということである。選択の自由があるということは、一般論としては好ましいことに思われるかもしれないが、小学生がどの中学が自分にとって好ましいかを判断することは、けっして容易なことではない。学校の選択は、お菓子やおもちゃを買う場合とは、わけが違う。……

 この選択が重要なものであればあるほど、そこに内包される問題も重要なものになる。まず、そのような重要な選択を小学生が自分の判断でできるとは考えにくい。むろん、できる子どももいるであろうが、たいていの子どもは親の好みや判断に左右されることになろう。そうなると、教育機関の階層差が中学段階から具体化することになる。現に私立や国立の小中学校で見られるような親の経済力の差や文化的好みの差が、公立中学校でも起こることになる。」(藤田1997、p85)

 

 しかし藤田が行った膨大な学校選択制度批判の議論においては、管見の限りこの論点について全く触れようとしない。正直な所何か私立学校と癒着関係があるのではないかと疑ってしまう位、棚に上げてしまっている。黒崎も指摘するように、「公立学校不信」と呼ばれる現象の一つは、小尾乕雄のレビューでもみたように学力上位層の私立学校への逃避というもので語られたり、また私立に通う保護者の不満が語られることで可視化されてきたはずである。にも関わらず、なぜ藤田は公立学校の選択に限りコテンパンに批判し、私立学校の選択は無視してしまうのだろう?

 この理由については、学生時代の私にはどうしても不可解であったが、「新自由主義的教育批判」という文脈でこれは考えるべきことなのだろうと思う。藤田の具体的な教育政策批判の一つに「週休二日制」の導入が挙げられる。この導入は藤田が「文明論的議論」と呼ぶ日本人論的文脈の影響を受けたものとして捉えていた(藤田1997,p138)。さて、ここで「文明論的」とは何を指すのか。藤田は「文明論的」と「文化論的」という用法を分け、次のように説明する。

 

「学校週五日制の導入をはじめ昨今の改革動向とその支持論は、文明論的ストーリーに与している。しかも、異常に述べたように文明論的ストーリーには種々の疑問があるにもかかわらず、いまやそれが自明視され規範化され始めている。なぜなら、文明論的解釈は変化の方向を理念化し、改革の意図と結果を等置してしまうからである。また、文明論的ストーリーのまえでは、文化論的ストーリーは保守的なものと見なされがちだからである。しかし重要なことは、文化論的ストーリーと文明論的ストーリーとの交点で諸改案の功罪を検討し、適切な改革を進めることである。そして、その際、学校教育の改革、とくに学校週五日制や公立中高一貫制といった制度改革は、一方で教育の効率性・生産性や公平性・平等性に関わる問題であり、もう一方で、青少年の生活と成長をどのように枠づけ、編成するかに関わる問題だということを忘れてはならない。それは、青少年の生活と成長に対して社会がどのように責任をひき受けるかという問題なのである。」(藤田1997,p152-153)

 

 一言でまとめれば、文明論的ストーリーおいては、「文明としてのイエ社会」で言う「単系的発展論」、つまりあるべき「近代」の型は一つであり、それ(欧米)に追随することこそ正しいと捉える文化論の視点を想定している。一方で「文化論的」という表現は文化相対主義的な見方でその優劣にこだわらない態度を指しているといえる。結局、週休二日制の議論を始め、学校選択制など、藤田が批判を行う教育改革における政策というのは明らかに「教育」の外部から語られている議論であり、それは教育の内部から問題意識が与えられることのないまま『改善』を要求されているものと位置付けているのである。確かに週休二日制に限れば、外的な影響がかなり強かったと言え、正しいということもできる。

 しかし、学校選択制については少々事情が異なる。学校選択制の遠因となっているといえる「私立中学校の選択」と相対的な公立学校の学校不信の動きというのは、学校選択制のかなり以前からあったものだし、下手をすると小尾通達の出た60年代末まで遡ることのできる議論である可能性を否定できない。つまり、この議論というのは「新自由主義的政策」とは別の文脈から問題が出てきている可能性があるし、この不信感というのは極めて全うな「教育内部」からの訴えであるということもできるのではないのだろうか(※4)。

 

 更に、藤田の主張をみていると、学校選択制を導入しないことで守るべき「地域性」というのは、「共生」の文脈でいえばむしろ無視してさえよいと言えるようにも見える。藤田は結局学校内にいる者の多様性を何よりも強調しているため、「地域性」という文脈は必ずしも必要ないのである。むしろ素朴に教育の支持基盤の一つとして、「地域」を強調しているにすぎないのであり、学校選択はその支持者(信頼)を失うことにしかならないという観点から批判していると言えるように思う。

 藤田のいう「受容」という視点は、一見「共生」という観点からいえば一理あるように聞こえるかもしれない。しかしそれは必ずしも「共生」に関する「受容」に留まるとは限らないし、藤田の議論の趣旨からはどうも多くの意味が含まれているように聞こえてならない。つまり、「多少の不満」のようなものもそれが学校運営に参加する活力になる『可能性』になるから強要しろ、とでも言いたいような雰囲気を感じることもある。しかし、翻ってこのような可能性を実現するためには、現状の学校教育がこのような『可能性』に開かれているのか、教育専門家による官僚制下においては、そのような『可能性』に閉じており、生産的な議論になりえないのではないのか、という素朴な疑問も提出しなければならないだろう。例えば、都内の私立進学率の高さは学力問題に限らず、より広い意味で「地域の公立小学校に安心して託すことのできる状況にない」ことが理由にあると捉えていること(黒崎「教育行政学」1999、p115)はそこまでずれた発想とは言い難い。この「安心して託すことのできない」状況は90年代後半当時で少なく見積っても20年近く続いていたはずである。にも関わらずそれが改善できないのは何故か、教育の専門家はそのことに対し本気で考えてきたのかと言われると、国民の教育権論がそうであったように、具体的な政策の議論を、特にその制度的な改変に関する議論を怠ってきたからではないのか、と言われても仕方がないように思える。特に標準化にこだわり続ける態度からはこのような問題解決を積極的に行う姿勢が乏しくなるのではないのかということが、黒崎の問題意識の主たるものなのであり、これについても、「ネオリベ言説を追随しすぎている」といくら言ってみても、一定の正当性が認められるように私には思えてしまうのである。

 

○「学校選択制度」はそれ単独で語ることができるのか?―「自治体行政」の着目について

 

 学校選択制度の弊害というのは黒崎も承知の上で、二つの議論があることを強調する(p96-97)。黒崎の議論は「改善」ありきであり、「創造的、革新的実験のチャンスの保障」を行うのであれば、学校選択制度はなくてはならないとみることで、その弊害の議論とは分けて考えるべきだとする。標準化に向かわない(官僚化を否定する)教育実践はその自律性に加えp112で指摘されるようなリスクや、平たく言えば「好みの問題」といった議論も生まざるを得ない。そのような教育における「好みの問題」のレベルの議論はむしろ学校選択制度でないと行えないのではないのか、と黒崎は考えている。逆にそのような枠組みがなければ、公立学校では標準的な取り組みしか行うことができず、「独創性」ははじめから否定されなければならないからである。

 このような視点からも、黒崎は暗に学校選択制度はそれ単体として機能するものではなく、その理念や複数の制度的枠組みを前提にし、その枠組みの一つとして学校選択制度は「担保されなければならないもの」として位置付けている節もあるといえる。

 しかし、藤田の場合、管見の限り、「新自由主義的政策」の一環として学校選択制度を位置づけるものの、黒崎の視点とは明らかに異なり、これを一つの独立した制度であると前提し、これを批判する態度が一貫していた。そこには複合的な制度としての一つである学校選択制度という視点には極めて乏しい状況にあった。

 これに関連して藤田の議論の問題は、この「学校選択制度」は無条件に批判されるべき性質のものであるため、その現場での運用がいかに行われていたのかという視点も欠き、この制度が「改善」に寄与した形で個々の自治体で運用されているのかという視点も全否定したことであった。正直な所、このような態度の取り方こそ「改善」のための可能性を閉ざす類の「官僚化」の産物であるようにさえ私には思える。「学校選択制度」のデメリットをどのように活用し、「改善」を促すのかといった生産的な問いをあらかじめ否定しまうため、実際にこれを運用していた自治体に対する評価さえまともにしなかったということである。藤田も学校選択制度を支持するかしないかというのは支持すべき価値観の程度問題であると言う(cf.藤田1997,p3)。しかしこの価値観というのは、行政の複合的な政策の如何で教育全体としてはある程度その重きなどをコントロールできる可能性もある。例えば、学校選択制度批判の主たるものの一つである「序列化(入学者数の減)」などについては、そのような支持されない学校は『改善』の必要性があるという理由で、「力のある校長」を入れたり、相応の教育的なリソースを導入するといった人事的・財政的政策を行うことは公立学校の平等性確保という意味では正当性が確保される見方であり、そのような対応を通じて公立学校全体の底上げをすることは可能なのではないのか。しかし藤田にはこのような目線はなく、学校選択制度の是非について先回りして批判をしてしまう。これも結局藤田が批判する「外からの(ないし上からの)」教育改革のアクターの動きからしか政策を評価せず、実際の制度改革の主体となりうる「内からの(ないし下からの)」アクターとしての自治体への視点の欠落があるのではなかろうか?この「内からの」という視点は、学校現場との関係性で言えば自治体の位置付けは微妙なものとなるという点からも、役割について軽視しているように見えてしまうのである。

 

 逆に言えば、このような自治体に対する「評価」なしに何故これまでの教育に対してまでどうこう言うことができるのか、という疑問さえ出てくる。教育実践の「地域性」の重視、現場の重視などを行いたいのであれば、『改善の分析枠組み』は自ずとケース事例に注目されねばならなくなるはずなのだが、それさえも行わないこと、そしてそのような議論が正当化されている教育の言説そのものに疑義を提出することさえできてしまうのではないだろうか?これが如何にして可能となるのか、藤田がどう考えていたのか(もしくは考えていなかったのか)については、今後、藤田の議論を読み解きながら検討していきたい。

 

 

 

※1 もっともこの曖昧さの議論は、80年代以降の「改善言説」を主とした日本人論の検証としてではなく、それ以前の日本人論固有の問題として捉えてきたところであるため、ある意味80年代以降の言説の正当性についてはまだ私自身も検証を行っている訳ではない。ただし、そのような語弊の多さというのは、80年代以降の議論においてもそれなりに有効であるように思えるし、そうであれば『枠組み』の(1)や(2)についてどのように語られ、それが正しいと言えるのか、という検証は行われてしかるべきだろう。

 

※2 例えば、中高一貫校の導入の是非について藤田が批判をする際、「西欧諸国では中等教育が六年制で行われているからといって、日本でもそうしようというのは「隣の芝生はよく見える」というたぐいの印象論のレベルで教育改革を進めようとするものであり、無責任もはなはだしいといわざるをえない。」といった言い方がされる(藤田「教育改革」1997、p86-87)。ここでは、端的に『改善』の必要性について「安直すぎる発想」というニュアンスが強く含まれている。これは、「改革の気分」という言い方をする次のような指摘からも言える。

 

「この「改革の気分」はゆがんでいないだろうか。こうした「問題」のとらえ方に問題はないのだろうか。そこで提案され、進められている改革や対策は本当に「問題状況」を改善することになるのだろうか。

 これまで見てきたように、改革推進論を支配している問題のとらえ方はきわめて一面的であり、進められようとしている改革や対策には矛盾が多く、種々の重大な問題が見過ごされており、さらには、この「改革の気分」は全体主義的な傾向をもち始めている。右に列挙した問題が重要で、なんらかの対応が必要だということはいうまでもないが、改革至上主義的な時代の気分とそのなかで提案され進められている主要な改革は、日本の教育社会と学校のあり方を根本的に変えていく可能性、しかも見方によっては、極めて好ましくない方向に変えていく可能性をやどしている。」(藤田1997、p173-174)

 

※3 例えば児美川考一郎「新自由主義と教育改革」(2000)で指摘されているように、各種メディアで世論調査が行われる中で、「学校不信」(読売新聞社「学校教育に関する意識調査」1998年4月実施)や「学校選択制の支持」(毎日新聞社、1998年12月20日世論調査)というのは、国民の意志として表明されている(児美川2000,p78-81)。

 

(2020年9月1日追記)

※4 例えば、藤田武志は1950年代の東京における私立、国立中学への入学、及び学区域を越えた「越境入学」が相当数あったことからすでに中学校が「選ばれる」ことのまなざしが一定の圧力として機能していたことを示唆している(藤田武志「受験体制の生成に関する社会学的考察」藤田英典ら編『教育学年報7 ジェンダーと教育』1999、p497-524)。これもまた、「ネオリベ勢力」とは関係のない形での学校選択を支持した系譜の一つとして位置付けることも可能だろう。

 

<読書ノート>

P10「日本において現在進行中の教育改革は、一九六〇年代以降四半世紀にわたって確立、定着してきた教育改革政策の構造を著しく変容させるものとなっている。このような構造的な変容を遂げつつある時代の教育理論の役割は、そのような教育改革の動向を観察し、評価することに留まらず、これにかかわるさまざまな関係者のそれぞれの目的意識的な実践の可能性を拡大するために、主体的、能動的にこれに関与するところにあろう。いいかえれば、教育を単に現象として対象化するというよりも、目的意識的な営みとして教育に接近するところに教育学理論本来の特性があるというのは、本書の方法的態度である。」

P13「こうして一九七一年中教審答申に集大成された教育改革政策の構図は、教育を経済的要請に即応させるものであり、国家的な長期教育計画として、国家の機関が、すなわち文部行政が教育改革を実施するという特徴を備えるものとなった。現在進行中の分権化と選択を基調とする新しい教育改革政策は、こうした従来の教育改革の構図を否定するものである。この教育改革政策の構図を根本的に変容させたのは臨時教育審議会の改革提言であり、第一四期中教審における審議経過報告であった。」

※「臨時教育審議会における教育の自由化の提言は、教育は市場における公正な競争原理を通してのみ、高度な知識と技術が集約され多様化された社会を特徴づけられる二一世紀の情報化社会に適応した活性化された姿に保たれうると主張し、教育改革を国家的長期計画として実行することを否定するものであった。」(p13)。また、46答申では「また、この教育の改革と拡充整備は国家的に巨大な資源を必要とするが、わが国の今後における社会の経済発展の見通しを考慮すれば、けっして実現困難なものではなく、それを実行できるかどうかは、もっぱら政府の決意と努力のいかんにかかっている」と述べられた(p13)。

 

P16「たしかに、わが国の新しい教育政策においても、競争の価値が強調され、学校教育の活動をビジネス界の用語によって説明し、正当化するという傾向は強固で、明瞭なものである。しかし、教育を商品化し、市場経済の論理によって教育制度の運営を語るという新しい教育政策の動向は、わが国の教育をこと改めて経済的目的に従属させるものではない。逆に、学校教育を社会的要請に応ずるとの観点から多様化し、経済的人材需要に適応させてきた従来の教育政策からの転換の基調として、分権化と選択の理念が語られているということも、確かなことなのである。すでに述べたように第一四期中教審答申が、経済的に非効率になっても教育的な意味で効率的であることを述べて、それまでの教育政策を反省してみせたことの意義は小さいものではない。」

※この議論は常に「意図せざる効果」をめぐる議論でもあり(※体制批判言説はある意味「意図した効果」を全否定し語られないことへの強調の繰り返しである)、政策提言だけでなく、エビデンスもないとその「期待される(予想される)効果」の議論はできないはず。ある意味でそれが示せていないことが黒崎の弱い点。

P20ジェフ・ウィッティ(1998)の引用…「特定の類型のコモンエデュケーションを選好する社会民主主義的アプローチはすでに正統性を失っており、増大する専門性と社会的多様性に応える方途を発見する必要がある。しかしながら、左派は、我々がこれまで研究者として、社会的不平等を再生産し、正当化してきたと批判の対象とした教育とは根本的に異なるような公教育の概念を発展させる努力をほとんどしていない。」

※これに対し「わが国の教育改革論議においても同質の問題点を見いだすことができるといえよう。」と述べる(p20)。

 

P37ハイエクの引用…「(個人主義に対する通常の誤解のうちでも一番馬鹿げた)誤解は、個人主義は社会の中に存在することによってその全体の本質と性格が定められている人間から出発するものではなく、孤立した個人、または自足的な個人の存在を前提にしている(もしくは、このような想定に議論の基礎を置いている)という確信のことである。」

※「ハイエク全集3 個人主義と経済秩序」p8-9。

 

P92「教育の民営化については、資本による利潤追求の試みであると理解するステレオタイプがある。……藤田は、市場経済における商品の流通・交換に働く原理を選択の理念と名付け、選択が民主主義社会における基本理念であることを承認するが、しかし、こと学校については、「教育政策が公論の対象として論じられ選択される公共の場を提供し、もう一方で、公共の営みとしての教育実践が展開する公共の場、教育実践に直接・間接にかかわる人びとが出会い、相互交流する場」でなくてはならないというのである。ここにはいわゆる市場原理が資本主義経済の論理を体現するものであり、資本による私的利潤の追求に対しては社会の公共性を擁護するための対抗原理を必要とするという藤田の資本主義社会についての理解が存在している。」

☆P93「堀尾の議論にも藤田の議論にも、共通して市場経済あるいは市場原理を資本主義経済の実質と観念し、現代的人権としての教育を受ける権利の保障は市場原理を否定する制度を不可避的に媒介にしなければならないという「確信」が存在する。教育に対する公共的な関心からの規制を緩和し、あるいは廃止しようとする教育の民営化政策は現代的人権としての教育を受ける権利に逆行するものということになる。しかし、そこには現代社会における教育を受ける権利を保障する公教育制度が内包する専門的官僚制と職業的教育者による教育行財政制度の独占についての弊害を批判し、これに対して改革を試みる能動的なアプローチを見いだすことは出来ない。」

 

P93-94「しかし、(※人権の理念が市場の等価交換関係の一般化に対応する歴史的な観念であるという)マルクスの定式にも別の問題が存在している。人権概念の概念的土台となる市場の等価交換関係が資本主義経済の実質と重なるとする定式からは、人権概念は資本主義社会の支配関係を覆い隠すイデオロギーに過ぎないとの結論が導きだされることになるからである。」

※「堀尾輝久は人権概念を純粋培養型資本主義に照応する社会思想と規定した」(p94)ものの、結局は「人権としての教育と市場原理による教育の民営化はメダルの両面なのであり、これを相互に対立させ、人権としての教育の価値理念によって教育の民営化に対抗することは、観念上の希求としては理解できても、論理的には混乱以外の何ものでもない」(p93)。要するに市場主義批判のために擁護する人権概念はそもそも市場主義(の源泉である資本主義)の産物でしかない、ということである。この見方もある意味では正しいという他ないが、他方で決定的な議論と言い難い。結局は「よい教育」に寄与できるのはどちらかなのかに基本的に還元される問題であり、それは理念としてバラバラな堀尾、藤田的な理解による人権擁護でも一応問題はないからである。

民主主義的な価値観により、「皆で決めなければならない」の支配を受けている可能性も高い。この意味では、「よい教育」云々のレベルでもともと議論を行なっていないこと自体が問題とも読めるか。

 

☆p96-97「こうして学校選択の自由を強調する議論は、二つに分かれることになる。学校選択の推進論の中のこの二つの論拠の違いについて、十分に注意が必要である。「保護者の意向、選択、評価を通じて」学校教育活動の多様性と適切性を確保するという前者の考え方は、教育制度にいわゆる市場原理を導入すれば、自由な競争によって学校は自ずと改革されるという信念に立っている。しかし、これは、あまりに単純な議論であり、起こりうる弊害についての慎重な考察に欠けている。公立高校においては現に「学校が選ばれる」制度になっているが、実際には、学校は序列化され、生徒が学校に選別されているのであり、その弊害は様々に語られているところである。

 ウィッティが指摘するように、単純な市場原理による学校選択制度は「混乱」をもたらすだけのものであり、あるいは「持てるもの」と「持たざるもの」との格差を広げる結果をもたらすとの批判、あるいは、公共精神を衰退させるとの批判もまた広く行き渡ったものである。市場原理を万能視する学校選択についての提言には、専門家の深い経験と理論に媒介されなければ到底成功は覚束ない教育活動の営みの実際的な過程に対する十分な考察がない。

 これに対して、後者の学校選択の意義の提唱は、公立学校制度の伝統的規範に縛られて公立学校の改革を妨げている教育行政の官僚化を打破し、個々の学校の改革の努力を導きだすためには、学校選択制度が必要であると説くものである。公立学校制度に創造的、革新的実験のチャンスを保障するために学校選択制度の必要を提唱する論者は、単純な市場原理の導入という乱暴な理念によるのではなく、学校をめぐる意思決定過程に「抑制と均衡の原理」を導入して、学校を教育行政の官僚主義からも、専門家の専門職主義によふ閉鎖性からも解放させ、教職員、教育行政当局、親、子ども、地域コミュニティの市民といったさまざまな関係者の力と働きを再結合する場として学校を再構築することを目指しているのである。学校選択制度の導入は、意欲あふれる教職員に対して「公立学校であるから」といって現状改革を妨げられることのない状況をつくりだす。他方で、学校選択制度が存在すること、そして現に選択による実験的な学校が存在するという事態は、教育行政の当局者および学校関係者に問題を抱えたまま現状を放置することを許さない環境をつくりあげるのである。」

 

P100「教育の民営化は公教育の解体ではない。もともとアルチュセールの国家イデオロギー装置についての研究に従えば、公私の区分は再生産の営みにとっては本質的な意義をもたない。その国家およびイデオロギー論の核心は、私的な機関もまた、公的な機関とならんで、社会の再生産の営みを担い、国家イデオロギー装置としての機能を果たすという点にあったからである。」

P100「教育の民営化を理念とする新しい教育政策の動向は、ハイエクの政治経済学に強い影響を受けるものであったとされる。しかし、すでに検討したように、ハイエクの社会理論には公教育の縮小=解体などと把握される以上の、近代社会の本質的理解にかかわる重要な問題提起があった。そこでは、人間理性を積極的に限界づけることによって、近代合理性の内面的抑圧から人間の自由を回復させる自覚的な志向が含まれていた。これに対して、現在進行しつつある教育の民営化政策の動向には、こうした積極的な理論的考察を見いだすことができない。それはハイエクの政治経済学に刺激を受けるものとの通説的理解にも拘わらず、ハイエクの社会理論および道徳理論の有する本質的、発展的側面を自覚的な課題として追求しようとするものではないのである。」

 

P105「行政改革地方自治が最大の政治課題として党派を超えた議題となっているのは、国家および地方公共団体の行政活動の適切性と効率性が疑われ、そのことを通して法的規制あるいは行政指導の正統性が根本的に問われるところにまで、日本の社会諸制度が行き詰まっているとの状況認識を背景としている。膨大な財政赤字の累積という事態一つとっても、そうした認識が架空のものでないことは明らかである。こうした事態に対処し得ず、既存の制度と手続にのみ安住するかに見える政治およぶ行政に対する国民の目もこれまでになく厳しいものとなっている。

こうした文脈において見るとき、教育行政についてもまた、規制緩和が叫ばれるのは当然のことである。」

P107「筆者はさきに規制緩和小委員会で意見を述べる機会があった。その場で看取し得た委員および事務局スタッフの準備と議論から推測するならば、筆者がこれまで自覚的に追求しようとしてきたような、市場原理の単純な適用による教育へのインパクトについての神話と公立学校における独創的な実験を可能にするための仕組としての学校選択を区別しようとするなどといった感覚は、規制緩和小委員会の問題発想のなかには存在していないようであった。「論点公開」の後で催された懇談会において同委員会の立場を代表して大宅映子座長が述べた発言に端的に見られるように、そこにあるものは、ほとんど市場のもつ反官僚制の機能への信念といったものによって支配されているようにみえる。」

行政改革委員会規制緩和小委員会を指す。96年の動き。この見方はあくまで委員会の態度に過ぎず、官僚制が問題であることが事実であるかどうかは別問題である。

 

P108-109「ところで、学校選択についての擁護論とは別に、規制緩和小委員会のヒヤリングの席でも話題となったのは、学校選択の理念はいいとして、はたして日本の学校教育の中に選択が問題となるほどの多様性を生み出すことが可能かどうかという点についての悲観論であった。……これらの議論は、たしかにいかにも「現実的な」ものである。しかし、これらの議論はいずれも学校選択制度を、市場原理=自由競争によって自動的に教育改革のメカニズムが動きだすという類のものと理解しているといえよう。そのうえで、自由競争は一元的な偏差値序列に必然的に帰結し、また学校選択論のいうような市場原理の前提は、画一性に慣れて来た日本の学校制度においては準備できないだろうという趣旨からのものであろう。繰り返し述べることだが、そのような、市場原理によって自動的に教育改革のメカニズムが動きだすなどという主張は、到底教育改革の実際的な理論として受け入れることはできないということは、スティーブン・ボールあるいは学校選択に反対する多くの論者とともに、筆者もまた、そう考えている。しかし、そのことは学校選択制度の理論的意義を否定するという結論に行き着くものではない。

 学校選択制度はそのような市場原理による自動的な教育改革のメカニズムを信奉するものではなく、別の根拠をもって、教育改革についての別の理論的見地から、主張されるべきものなのであり、筆者の学校選択の意義の提唱はそのようないわゆる市場原理の学校制度への単純な適用とはまったく違った教育改革問題に対するアプローチによるものなのである。すでに述べたことだが、学校選択制度の主張を二つの類型に分け、市場原理の単純な適用を原理とするものと抑制と均衡を原理とするものにわけるというのが、筆者の学校選択制度についての理論的整理の結論である。それは公立学校制度を民営化することを最終目標とする学校選択制度と、公立学校制度の再建と活性化のための必須の道具と位置付ける学校選択制度との対比であるといってもよいものである。」

 

P111「しかし、学校選択制度は機能するために前提となるこれらの教育専門家あるいは親と生徒は、もとより多いに越したことはないが、ほんの少数でもよいのである。むしろ、少数の、真に意欲的で創造的な公立学校改革の努力を、公立学校制度の枠組みの中で保障し、その実験的な試みの意義と限界、成果と問題点を広く、実際の学校教育活動の実践を通して検証することとそ、学校選択制度を必要とする最大の理由なのである。それにしても、こうした先進的な教育専門家、親、生徒などの存在を前提にすることは非現実的な想定なのであろうか。筆者は、日本の教育界の現状認識として、これを非現実的とは考えない。さらに、もし、こうした想定を非現実的に想定するならば、そもそも教育を改革するということ自体が非現実的なことになるのではないかと疑わざるをえないのである。」

※果たしてこの検証はできているのか?

P112「各学校が魅力的な学校づくりを保障する条件として通学区制度の維持が主張される場合、そうした学校づくりの試みは専門家の独創的な努力によるものとなろう。しかし、専門家の独創が独走に終わらないとはいえないし、実験がリスクを負うものであることも否定できない。仮に専門家が独走するほどであれば、通学区制度はそのリスクを強制的に子どもに負わせることになる。」

 

P137「しかし、選択は、親の教育への期待、評価を形に表わすことを可能にし、親に正統化されない教育活動には存在の根拠がないということを示すものである。誰に対しても平等で最善の教育は専門家の手によって初めて可能であるとする伝統的な公立学校の規範が、専門職の独善と学校の閉鎖性をもたらしているとすれば、親の選択の自由が、学校を解放し、専門家教職員の責任を直接に問いかけるインパクトをもつことになるのは明らかである。」

学校評価の議論として捉えるべき。

P138-139「学校選択制度に対して、公立学校制度がはたしてきた地域社会を形成する機能が失われるとする批判がある。……

 しかし、現実の通学区制度は学校とコミュニティを密接に関連させているとはいえない。生徒の人間的な成長がコミュニティのなかで実現し、教育がコミュニティを形成する重要な機能をはたすということは、むしろスモールスクール運動が強調するものであった。……すでに言及したように、コミュニティと学校をいきいきと関係づけるときに初めて、学校が生徒の教育に成功するものであり、せまい個人主義を乗り越えることができるというのがニュービジョンの設立の精神に他ならなかった。スモールスクールの運動が批判し、選択制度が改革しようとするものは、こうしたコミュニティの必要に応答せず、責任を果たそうとしない現行の公立学校制度の官僚制についてである。」

 

P145-147「藤田が問題視するのは、一貫して「市場原理がもつ教育意識『改革』の危険性」である。「学校選択は親や生徒の学校、教師に対する期待と信頼の質を変え、さらには地域の学校が保持していた共同性の質を変え、さらには、地域の学校が保持していた共同性の質を変えていく可能性がある」。この可能性が危険だというのである。その危険性に対する関心の大きさが、藤田に、「公立離れが公立学校の危険なのではない。公立離れは、公立学校の危機の表れでしかに。危機は公立離れを引き起こしている親や子どもの期待と構えの変質にある」とまでいわせているのである。

 ところで、この表現にはどこかしら妙なところがある。あえて藤田がこのような言い回しにこだわるのは、公立学校の活動の実態とは別のところで、いわば公立学校に対しては外在的に、親や子どもの教育に対する期待と構えの変質があり、それが公立学校離れという形で公立学校への反応として表れているにすぎないとでもいいたいのであろう。しかし、ではこうした期待と構えの変質とは何によって引き起こされているのだろうか。藤田理論によれば、それこそが「教育の市場化」意識の醸成であるというのであろう。そして、そうであればこそ、現在の危機の原因を公立学校の側の行為あるいは体制のなかに求め、選択などの新たな原理によって公立学校制度を再構築するなどという発想は、かえって「教育の市場化」意識の醸成の強化につながるというのであろう。他方、学校選択を公立学校制度の改革の理念とするという筆者の現状認識は、もとより「教育の市場化」意識の覚醒による教育改革に期待するというものではない。その強調点は、繰り返すまでもないだろうが、公立学校の否定的な現状が「教育の市場化」意識の醸成の原因のひとつにもなっているとするものである。さらに「教育の市場化」意識に対する最大の歯止めは、公立学校の「活性化」によって公立学校への信頼を高めることであるとも主張するものである。

 要約してみれば、藤田がいいたいのは、公立学校制度の枠組みとは別のところで外在的に生じている教育の市場化が親や子どもの「期待と構え」の変質を引き起こしているということであろう。そして公立学校の危機の構造がそのようなものである以上、学校選択は公立学校の危機を進行させるものではあっても、これを改革するための根拠にはなりえないということであろう。これに対して筆者が提起するのは、教育の市場化が危機を引き起こしているとして、公立学校の危機は公立学校の現実から内在的に生じているものであり、学校選択の原理を排除する現行公立学校制度は、むしろ逆にその市場化の促進の契機ともなっているという分析であり、学校選択の原理を排除する現行公立学校制度は、むしろ逆にその市場化の促進の契機ともなっているという分析であり、さらに公立学校の再生のプロセスにとって、学校選択の原理の採用が不可避的なものであるという制度論上の展望なのである。

 ここに公立学校離れという問題をめぐって、筆者と藤田の間には大きな現状認識の相違があることは明らかである。かりに藤田の立論がこのようなものであるとすれば、藤田にはまず自らの現状把握にしたがった公立学校の危機とその克服についてのストレートな分析を求めたほうが賢明というものであろう。」

※この議論はもっと煮詰めてもよい。つまり、問題認識の相違はどちらに分があったのか、という見方による議論である。そして、安易なネオリベ批判言説は、基本的にこの外在説を支持し、それを当たり前とみる立場にある。

 

P147「論点を明確にするためにさらに指摘するならば、藤田の議論においては、公立学校制度に対して、どのような問題の把握と改革の展望をもとうとしているのかという点が不明瞭なのである。筆者の議論を「学校がうまくいくための条件、組織としての学校の特質についての捉え方が一面的」であると批判する藤田論文において、では多面的、複合的な学校改革の筋道はどのように提示されているのだろうか。たよえば藤田論文は「教師の自覚や対応の改善、向上は必ずしも学校選択といった制度的変更を必要とするものではない」という。では、何が教師の自覚や向上を促すというのであろうか。」

※これも改善要求ありきだが、改善要求自体が不要という議論はありえる。

P148「民衆統制と専門的統制の関係を論じて、「後者が前者に良質の教育サービスを提供することであり、前者は後者に適切な期待と支持を与え、適切な参加をしていくことである」というだけなのはなんとしたことであろうか。この程度の提言なら、なにも教育社会学界を代表する論者にいまさら期待するようなものはないというのが筆者の実感である。これは、筆者がつとに批判の対象としてきた、国民の教育権論に特有の、教育専門家の教育の自由と親の教育権との間の予定調和的関係という前提と同一の類のものである。」

 

P149「藤田論文は筆者の議論に対して、「どうも黒崎氏は制度的枠組みが変われば教師の自覚と対応も変わると考えているらしい」との批判をもらしている。先に筆者の議論に対して「学校がうまくいくための条件、組織としての学校の特質についての捉え方が一面的」だとする論述も、この点をめぐるものだろう。しかし、この部分こそ、筆者と藤田の最大の争点であることを藤田は自覚して論じたのであろうか。制度として教育問題を対象化し、制度の運営と改革を通して教育の営みに関わろうとするのが教育行政学の存在理由であるというのが筆者の立脚点である。筆者は「制度的枠組みが変われば教師の自覚と対応も変わる」と「一面的」に考えているのではなく、教師の自覚と対応を変えるために有効性をもつ制度的枠組みのあり方を究明するところに教育行政学の存在理由があるとの立場に立って、その具体的な内容を「自覚的に」究明しようとしているのである。」

P151-152「国民の教育権論が、親の教育権(あるい場合には住民の教育権までも)を名目的には主張しながら、実態としては専門家の自由の確保のための理論に止まるとするのは年来の筆者の評価である。それは親の教育権を単に教師の教育権を導き出す媒介としてのみ把握するという理論構成上の矮小化を伴っている。さらに住民の教育権への言及においては、それが地方自治制度に置き換えられ、さらには国家統制からの防御機能のみが注目され、この結果、ここでも教師の教育の自由の確保がそのまま住民の教育権の保障であるかのように立論されてきた。このような理論的限界に対する認識と批判は、教育権の理論にあきたらないものの間でとみに強く意識されるようになってきている。」

※黒崎は具体例として、中野区の準公選制における「教育行政参加」と「学校参加」の区別をめぐる議論を挙げる。堀尾はこの議論のなかで両者が明確に区別されなければならないとするが、それは「教育専門家の自由を確保するために教育と教育行政の区別を説く内的事項外的事項区分論と教育の民衆統制の機関としての公選制教育委員会制度との間の理念的葛藤を回避するため」のものであるとみる(p153)。このような主張からは当然公選制の趣旨はどちらの意味も含まれて然るべきだという反論が出てくるし、実際そのような批判が出されたが(p154、宇田川宏編「教育委員を住民の手で」1991、p41-42参照)、この批判は理解されないと指摘する。

 

P190「臨教審の教育政策提言の骨格は、自由な競争が導き出すダイナミズムによって教育を活性化しようというものであった。これに対して、第一四期中教審は受験競争の弊害を正面に見据えて、我が国の教育における競争が教育の質を大きく損なうほどのものになっていることを強調するものであった。臨教審が推賞した中高一貫校あるいは私立学校の意義についても、第一四期中教審は、いずれも競争を加熱する主たる要因の一つとして、これを否定的にとらえている。」

P198「こうした一九九七年中教審答申の改革提言には、学校教育を家庭の選好の問題と捉え、学校間の競争がおのずと学校教育の質を改善するという主張がある。そこでは、公教育の質と量について整備を図ることは国家的な責務であるとする、かつての中教審教育改革論が基礎とした課題意識は、論議の表面からまったく姿を消しているのである。」

 

P206「しかし、今日、多くの人々が教育の荒廃を実感する場合、そこで想起されるものは、こうした国家権力の政策の結果についてではない。今日、学校が問題視されるとき、そこで語られるのは、例えば不登校であり、いじめであり、学校内の暴力であり、学級崩壊といった問題である。これらは、国家権力の政策の結果、あるいは権力統制によって専門職の自律性が損なわれていることから発した事態として感じられているのではない。むしろ、こうした問題は、学校の「失敗」、つまり専門家教職員の「失敗」であり、専門家教職員の自律性の無限定の強調は、こうした「失敗」に対する批判から身を守る学校の閉鎖性を意味するのであり、専門職の自律性は、最悪の場合には、学校を無責任な場所に放置することになるのではないかという危惧が、学校関係者を除けば、多くの人々の間に生まれていると言っても、あながち過言とはいえないだろう。」

※しかし、教育権論者はそうは考えない。教育問題は政策の失敗とみる。しかし、黒崎は「これを教育政策の直接の結果、あるいは教育の権力統制の結果とすることには相当の無理がある」という理由で退けようとするが(p207)、教育だけが独立した政策を担っていないことも含めれば、トータルな資本主義体制の政策として教育病理が発生するという見方は簡単に否定できないように思える。黒崎もこの点の批判におけるエビデンスが乏しい。要するに水掛け論の域を出ていないということ。

P207「すでにこれまでの論述によって明らかだと思うが、今日、教育改革のキーワードとして学校の自律性が強調されるのは、これまでの教育行政批判の理論が主張してきたような専門家教職員の自律性への信頼と尊重を説くためではない。むしろ逆に、それは、専門家教職員の自律性が実際には学校の閉鎖性に帰結していることを批判し、さらに学校をめぐる問題が教職員の専門家としての職務遂行における責任として、これを厳しく問うというものに他ならない。こうしたことは、学校の自律性を強調する教育改革の具体的プランが、学校管理責任の明確化であり、校長の役割の強調であることに、明瞭に現れている。」

 

P242地方教育行政の在り方に関する調査研究協力者会議の1997年9月公表の「論点整理」の引用…「主要国の中で学校理事会や協議会のようなものを有していないのは日本だけである。住民参加ということが大きな行政課題となっている今日、学校についても保護者、地域住民などの参加について検討すべきではないか。」

※この切り口から官僚制の問題の議論をする余地はある。

縫田清二「ユートピアの思想」(2000)

 今回は日本人論の関連で、縫田のユートピア論を取り上げる。特に今後取り上げる予定の西尾幹二の議論とも関連するため、特に「理想」と「実態」に対する見方についてを中心に検討したい。

 

○「大衆としての日本人」と「代表としての日本人」について(または日本人論の絶対性/相対性について)

 

 板倉章のレビューでも触れたが、日本人論をはじめ国民性の議論を語るにあたって前提としなければならないのは、その国民性の説明というのが「大衆(一般人)」について指しているのか、それとも「代表(為政者や影響力を持った人・集団)」どちらに重点を置いた説明をしているのか、という点である。これまでもレビューしてきた素朴な日本人論というのは、社会問題に関連することなども典型的な例だが、基本的に「代表」と思われるものを取りあげ、それがあたかも「大衆」を説明できるかのように語っていることに大きな問題があると指摘してきた。当然ここには「代表」性も満たしていないような場合もある。つまり、ここでいう代表とは「『日本』という性質を説明するのに十分である(影響がある)と認められる人物に関する議論」ということである。板倉章のレビューで取り上げたヴィルヘルム二世もまた、影響力を持ったという意味で代表的ドイツ人たりえたということである。

 しかし、この影響力を持った人物がそのまま大衆の性質そのものを代表する訳ではない。これは様々な理由が考えられるが、今後の議論をする上で押さえておきたいのは、そのような「代表」が一定の集団である場合であり、そのような集団が「国」との関連で決定的な影響力をもつような場合である。極端な話をすれば、非民主的な社会においては、このズレを致命的に持っているものと捉えることもできる。大衆と一部の集団が決定的に乖離してよいことを許している状態であり、これが国民性を実質的に定めていることになってしまうこと、そしてそこに大衆が関わっていないことを意味するからである。

 

 余談になるが、合わせてこれまでの日本人論のレビューでその国民性について「絶対的」なものとして取り上げられる場合と「相対的」なものとして取り上げられる場合があることを議論してきた。杉本・マオアのレビューでは特に欧米人による日本人論にこの傾向があると指摘されていた点である。つまり、「絶対的」なものとして取り上げられる場合は、全ての日本人があたかも同質であるかのように取り上げられ、「相対的」であるときは、程度の問題として取り上げられることになる。「絶対的」である場合は「大衆」「代表」どちらも基本的に区別することはないが、「相対的」である場合は、両者を分けて考えることも可能である、という整理ができるだろう。

 

 それでは、本書はこの「大衆」と「代表」の視点から見た場合、どちらの日本人論を語っているといえるのか?一見すると、どちらとも読み取れるかのように思われる。正直な所、「代表」の視点から見れば本書の主張もかなりの部分妥当である可能性があるようにも見えてくるわけだが、「大衆」ベースで考えてしまうと、どうしても違和感を持ってしまう。それは特に本書が一貫して国民性を「歴史的」に、過去の思想体系を捉え、その影響を確実に受けている存在として現在の日本人を規定していることに起因しているように思える。

 

○本書における「歴史性」の過大評価について―「教育」という観点の必要性

 

 この「歴史性」という着眼点は、新堀通也のレビューで考察したものであった。新堀のレビューでは特に「日本語」の用法や法などの「制度」を想定していたが、過去に成立した言語や制度というのは、その用法や制度意図までを現在に至るまでそのまま引き継いでいるとは限らないこと、その意味で「現在」の視点に立った考察を行わない限り、そのようなものを根拠にした「日本人論」は成立し難いということを指摘した。土居健郎の「甘え」の用法もまさにこれに該当する。

 本書では特にこれを「万葉集」「古事記」といった古典にまで遡り、そこで語られている内容がそのまま国民性を説明するかのように捉えていること、また、ほとんどノートには記載していないが、西洋における「ユートピア」思想について、トマス・モアやラブレー、ルソーなどから捉え、そのような思想の体系の存在を根拠にして、西欧人の「ユートピア」志向について説明を行っている訳である。

 結局本書では「日本」「西欧」どちらにおいてもこの「歴史性」から見た国民性論は成立するものという前提に立っている。しかし仮に実態において国民性に差異があったとしても、片方しか成立していない可能性もあり得ることについては何ら検討していないのである。日本人論においては、千石保西尾幹二などがそうであったように、「日本の思想はそれ自体として脆弱であり、歴史的連続性に欠ける、そのこと自体が問題である」という立場から論ずる者もあるし、本書の論述などと比べてしまうと、むしろそちらの方が理に適っているという見方さえできる。もちろん可能性としては逆に日本だけで「歴史性」が成り立つこともありえる。結局このような「歴史性」の議論に対して違和感を持つのは、少なくとも私に限れば、その歴史について何一つ理解していない人間がそのような歴史を引き継いでいる訳がないという、歴史の断絶に対する見方に起因する。結局、そのような歴史を学び、引き継いでいない状況においては、歴史は「消滅」することもあり得るのであるが、そのことを全く縫田は考慮しないのである。これはp187の語り口がいかにもこじつけに見える(「思考の原点」なるものは存在しなければならないという確信がある)点にも見いだせる。現在の日本人が「古事記」の内容について一定程度の理解でもしている者はどれくらいいると言えるのだろう?このような古典をむりやり引っ張り出してきたところで、「日本の思考」を説明できるとはとても思えないし、場合によってはこのような態度の取り方が過去への制約を助長させ、創造的な観点から阻害要因になりうることも自覚せねばならない。

 

 このような議論を踏まえた場合、日本人論における教育学や教育社会学が重要性をもってくるように思える。結局、この「歴史性」というのは、その「歴史性」に如何に我々が束縛されているのかという問いを無視できないためであり、それはそのような「歴史性」が「(意図的・無意図的であるかをを問わない)教育」を通じてどのように継承されているのか、という検証なしには語れないということにもなってくるからである。「日本人論と教育」というテーマは、これまではむしろ新堀や西尾のように「国民性(日本人論)の要素がいかに教育制度に影響を与えてきたか」という観点から語られるのが主であった。しかし、ここで検討されるべきなのは、「影響を与えうる国民性がいかに「教育」を通じて継承されているのか」といった問いの立て方である。そして、特に「思想」との兼ね合いで言えば西尾も指摘する「宗教」と「教育」とのつながりというのも重要な検討課題になってくるだろう。

 

○「ユートピア」の思想について―「実態」と「理想」のズレについて国民性は見いだせるのか?

 

 本書で指摘される日本人の「ユートピア」観というのは、西尾幹二の議論にも関連しているといえる。それは、「理想」というものについて、日本人はあまりにも実現可能なものであるかのように捉える傾向があるという指摘(西尾「西尾幹二全集 第一巻」2012,p187)との関連においてである。本書においても、日本の憲法に関する内容について、日本人はそれを絵空事であるかのように捉えることに対し否定しており、それは紛れもない現実であるという指摘があるが(p43)、この両者が結びつくものであるなら、基本的に縫田のユートピア論を西尾の議論同じ枠組みで捉えることが可能となる。

 確かに実態としてこのような議論を裏付ける議論もありえる。例えば日本人のアンケート調査における回答の趣向として語られる論点にそれを見出しうる。国際比較のアンケート調査においてはバイアスの一つともなりうるが、日本人の回答傾向が「どちらともいえない」に偏り、「はい」や「いいえ」という二項図式の極を志向しないという議論は実証的に示されているようである(例えば、林知己夫、鈴木達三「社会調査と数量化」1986,p68、p73)。このような日本人の特性について「何故」を問う場合、少なくとも西尾の議論においては部分的な回答が与えることができる。西尾は西欧人が「理念」に対し一種の耐性があり、それが実現不可能なものであることを了解しながらも、受容する能力があるものと捉えていた。この指摘をアンケート調査のバイアスと関連付けるのであれば、「理念」として提出される「はい」「いいえ」という極端な回答の要求は、西欧人にとってはそれが極端であるものと了解されながらも、それを受容することで「二項図式」的な回答を行うという説明に読み替えることができるということになる(※1)。一応林・鈴木が指摘している日本人との比較対象はアメリカ人であり、西尾はヨーロッパ人を指すものの、同じ理屈が成り立っているものとして見れば、そのような指摘も可能となる。

 しかし、この説明が成り立つとなると、日本人の「理念」の受容に対する考え方にも配慮が必要となる。結局日本人は「理念」を「理念」として割り切ることができないからこそ、中間的回答を行っていることになる。要は「一概には言えない」ことを、素直に述べることができる国民性があるからこそ、「どちらともいえない」と述べるということになるはずである。これが「大衆としての日本人論」として正しいものだとすると、縫田の説明は少しおかしくなる。縫田はむしろ「理念」と「実態」を区別できていないのが日本人であるという趣旨でユートピア論を展開していたが、むしろ大衆は「理念」と「実態」をしっかり割り切っているからこそ、中間的回答をしていることになるからである。

 

 少し話を戻すと、縫田はユートピア思想をアンリ・ベルクソンの流動的なエネルギーの議論と結びつけ説明する。西欧のユートピアの議論において体系づけられた思想は構想力(p13)を生みだし、自然の改変していく批判的な能力を生みだすものと捉えていた。しかし、日本人は自然と調和的な文化の歴史を持っていることから、このようなユートピア思想を持ちえず、「風刺的もしく、否定的要素が希薄な則物願望的段階」「孤独の自覚の不在」(p187)「「絶対」(=死)を意味すると言った極限状況にまで追いつめられていない」(p22-23)といった状況になっているのだという。この「極限状況に追い込まれていない」ような状況というのは、西尾も宗教思想との関連で説明していた部分である。ただ、「日本人が即物的」「欧米人が即物的ではない」という二項図式が直ちに成り立つのかどうかはそれほど明確ではない。特に「代表としての日本人論」としては存立の可能性があっても、「大衆としての日本人論」にはなりえないように思える。例えば縫田の議論も進歩的文化人のような存在を念頭に入れれば、ある程度妥当しているように思えるし、それは「社会問題」のフレームにおいても妥当するかのような議論は想定できる。しかしそれらは決して対比されるべき「西欧・欧米」という枠組みから実証的比較によって導き出された議論ではないのである。

 そして、このような日本人論の議論が安直な善悪の議論、もしくは成長の有無の議論と結びつけられやすく、本書もこの典型であるようにどうしても思える。結局「日本人は未熟である」という漠然とした言説を支持すること、それを実証しようともせずにあたかも成立しているかのように振る舞うことに加担することは、日本人論においてままある暴論であるが、本書もやはり「代表性」が認められるだけの立証を行っていない。本書の与える視点は興味深いものの、この正しさは別途検証しなければならないだろう。

 

※1 但し、林・鈴木(1986)では、このような差異の発生が日本語固有の問題にも起因するものとみている点には留意する必要がある。これは日本語を使う外国人にアンケート調査を行った場合、やはり二項図式的な回答を示さない傾向が認められるからである。しかし、言語に頼らないような回答方式により聞き取り調査を行った場合には、やはり日本人の方が二項図式的ではない、中間的回答を示す傾向も認められている。もっとも、この「日本語の問題」と「国民性の問題」については、どちらがよりアンケート結果の偏りに影響を与えているのかまでは明確に検証されていない。

 

<読書ノート>

P13「日本においてもユートピアと呼ばれている思考形態があるにはありますが、前に申しましたように、意識のエネルギーの発露という視覚から検討しますならば、日本のユートピアと呼ばれているものは、これら東西の典型的ユートピアに見られるような構想力にまでは達しておらず、その大部分が風刺的もしくは、否定的要素が希薄な即物願望的段階のものであると私は考えます。

 広義な概念で、同じイースタンのなかでも、例えばインドあるいは中国などのユートピアの本質には、非常にウェスタン的な、私なりに抽出したいくつかの要素というものを備えた、きわめて典型的な型で出てくるユートピアがあります。

 ただ日本だけが、どうもユートピアに関しては何か特別にその本質が定着していなかったような印象を持たざるを得ません。

 それでは日本には独自な「ユートピア」思想があったのか否かという疑問は、それ自体がきわめて根源的な方法論を含む大問題ですし、そのこと自体がひとつの重要な研究課題になり得るほどの大きな意味をもっております。いま、ここでは、それを論ずることが目的ではありませんから触れませんが、端的に申して、日本には厳密な意味での「ユートピア」思想の発想はほとんどなかったと見ることが妥当であるように私には思われます。あるいは、少なくとも日本の精神的風土において、「ユートピア」思想はほとんど定着したことがなかったと申した方が適切であるかもしれません。これに関連して、丸山正男氏が、だいぶ以前の『朝日ジャーナル』の座談会でつぎのように語っておられるのは、私にとってはきわめて印象深く記憶に残っております。すなわち、「日本は明治から今日まで理想というものが、ユートピアという形ではなくて、いつも地上のどこかの国としてあったと思うのです。時代によって、または階級や集団によってちがいますが、ある場合には、イギリスが理想であり、ある場合にはアメリカが理想であり、またプロシャ軍国主義が理想であり、ソビエトが理想だった時代もあった。……」

※これをどう評価するかだが、丸山真男に依拠する程度では足りないだろう。また、日本にはユートピアが必要だったのか、という問いもまたせねばならないだろう。また、「結局日本にはユートピア思想の伝統がない」と宣言するのも丸山である(朝日ジャーナル1959年8・9号「現代はいかなる時代か」が出典)。

P19「そこでユートピアの特質の第一は、人間による自然の変容ということになります。あるがままの自然の状態や自然のままの風景などは、たとい、それがどのように神話的・誘惑的で美しくともユートピアにはなり得ません。ユートピアは、まず批判的精神に裏付けされた人間の構想力から出発して常に周囲の自然に挑戦し、自然を人間にとってよりよきものにするために変化させてゆくような徹底的に人工的な性格のものであります。」

 

P20-21「日本では古代から近代に至るまで、自然をむしろ率直に受容して、「花鳥風月」という言葉に象徴されるように、自然の美を精神の高さと一致させて、その次元で高度な精神性を維持し、すぐれた芸術性を発揮してきました。日本人のこのような自然観はどこにその原因があるのでしょうか? むろんその解明は大問題に違いありませんが、ユートピアとの関係で、その根本的な一点だけに着目しますならば、日本人の思考の原点には、自然と人間とのきびしい対立関係を規定するユダヤキリスト教的な聖書というようなものがなく、そのかわり、日本人の精神的風土の伝統はほとんど和歌の精神によって伝えられているということが重要な一点として指摘され得ることだと思われます。

 つまり、西欧的思考の原点にあるべき原罪という意識、すなわち原始的自然状態からの人間の分離・独立(=自由)という根元的な孤独の自覚は、少なくとも日本人の伝統的な思考の原点にはありません。」

※日本文化を極度に具体化しすぎでは?

P21「日本人の精神の故郷はむしろ『万葉集』の方に集約化しているとみることの方が妥当であるように思われます。なぜなら、この和歌の伝統は、それ以前の時代から今日に至るまで連綿として天皇系や貴族社会を通じて庶民一般においてさへ、最も格調の高い精神生活の表明として持続されてきているからであります。」

※明らかに大衆を視野に入れている。しかし、「そんな故郷はいらない」という人に対し、この言明は何を意味するのか。これを「最も格調の高い精神生活」だと断じるのは誰か?

 

P22-23「つまり、ひとつの大きな革命的な時期に現われるユートピアの特色は、あくまでも現実に社会に密着しておりますから、それだけに実際の改革案という色彩が強くなり、その分だけ雄大な構想力はしぼんでしまいます。ということは、革命の時代というものは、現実の社会行動によってある種の改革が可能だという確信に基づいているからであり、たとい現実の社会の「壁」を強く意識したからといっても、自らの現実批判がたちまちその人の「絶対」(=死)を意味するといった極限状況にまでは追い詰められていないことを意味しております。しかも、こういうユートピアの基本的性格というものは西欧も東洋も区別はありません。……逆に、両者の相違が明白になるのは、最も追いつめられた意識が、「生」を志向する場合、もはや両者それぞれの思考の原点に立ち戻らざるを得ない場合だけであります。」

※「つまりユートピアというものが、仮に「生」のエネルギーであるとすれば、この場合の「生」というものは、けっして「善」だけを志向するものではなくて、「悪」というものをも含めての「生」なのであります。」(p19)というが、仮にこのような議論が日本的問題と見る可能性がありえるなら、まさに「善悪」に対する態度の取り方、その固定観念に見いだすことも不可能ではないか。しかしこれも日本の専売特許には思えない。

P26「ところで、少なくとも日本の精神的風土のなかでは、自由意志の問題がそれほど深刻に追究されたことはありませんし、そのことは日本人の孤独感の性質が、人間としての根元的なものから出てくるのではなしに、きわめて即物的もしくは生活次元的なものであるがゆえに、そこから出てくる「生」の意識のエネルギーも、生活次元的な理想のなかに解消されてしまう場合が多いことを意味しているように思われます。日本の大部分のユートピアが諷刺的段階にとどまるか政治小説の類に終ってしまうのはそのためだろうと思われます。

 ただ、あまりに生活次元的なことだけにその「生」の志向が拡大する場合には、非常に危険な方向をたどる可能性も大いにあり得ることなのであります。つまり、現実の社会生活の改善を究極の目標とし、人間の存在的価値の全体的把握を無視したような疑似ユートピアは、結局のところ強烈なる有効性の追求というところへ「生」の意識が凝集してしまうのであります。そして近代の世界史が教えるとおり、本能生活的次元における有効性のあくなき追求はまさしくファシズムやナチズムのような決定論主義に趣く可能性を常に内包しているものと考えなければなりますまい。とくに本来的なユートピア思想の定着していない日本の風土のなかにおける各種共同体には、いつの場合にもこの危険が伴っております。それは、日本の場合、「農本主義」というものと密接に関連しやすいからであります。」

※例えば、最後の日本の特殊性なども、ほとんど違いを説明する根拠がない。

 

P28-29「それはともかく、このように同じ東洋的思考のなかでも、インドや中国には古くから幾何学的シンメトリーの概念が定着しており、この部分では西欧的ユートピアと東洋的ユートピアとの間には大きな差異はありませんが、東洋的ユートピアのなかでも、日本の伝統的な思考のなかには、幾何学的であるよりも、絵画的な意味での調和を重視する傾向がはるかに強いように思われます。これも日本の美しい自然と、それに対する日本人の受容的な自然観に由来するのでありましょうし、日本のすぐれた絵画芸術はこういう思考方法に支えられているところが大きいと思われるのであります。しかし、その反面、そういう思考形態は、情緒的になることが多く、日本に典型的なユートピア思想(批判精神を基調とする)の定着することを妨げる結果にもなっていると申せましょう。

 ただ、私のこれまでのユートピアを素材とする多少の分析結果からだけでも申せますことは、「生」の意識の原形質なるものが、ちょうど生理的にみた人間の原形質の場合と同じように、決してひとつふたつの要素には集約できないということであります。つまり、個々には異質な根元的要素が「関係」的に結合してこそはじめて正常な人間の「生」の意識が生きたエネルギーとして発現し得るのであり、そのパターンを社会的な構図として把握しますのならば、ユートピア成立の根源にはかならずや共同体的志向が内在的エネルギーとして存在しているということだけは明言し得るように思われます。」

 

P43「私は、ある会合の席で、憲法は一つのユートピアであろうという意味のことを言ったらたいへん叱られたことがある……。どうも、この人たちの受けとめるユートピアというのは、絵空事という侮辱的な意味においてであるらしい。ユートピアとは、そんなに頼りのないものなのだろうか? この現世で戦争を放棄し、戦力を保持しないと明言することは、私には、どう考えてもユートピアとしか思えない。だからこそ、そこを強烈なエネルギーを見出すのだ。なぜなら、前回にも規定したとおり、ユートピアとは、人間が「生」を志向する意識のエネルギーそのものにほかならないからである。その意味で、私は憲法に関する限り、「はじめにユートピアありき」と思っている。そして、それが明文化された憲法はあくまで「現実」のものと考えている。ここではユートピアと「現実」の間は断絶はなく、両者は一直線のものとして結びつく。」

P62-63「人間の肉体から出発するという思想は、つまり、人間は生れながらにして男性であるか女性であるかのいずれかであり、お互いがすでに片割れ的な存在である以上、そのいずれか一方だけをもってしても「人間」を考えることはできないという相対的な考え方が基本になっているからである。こういうところから、一般にユートピア思想では人間創造の母体である女性の地位の重要視が非常に強調されている。女性の解放がなければ男性の解放もあり得ないし、男性の解放がなければ女性の解放もあり得ないからである。

 このようにユートピア思想の中心は、人間社会に関する一切のものに相互に矛盾する「個」の限界の自覚を強調し、この矛盾の明確な認識から「人類意識」という人間性の究極にあるべき雄大な統一場が設定されているのである。」

 

P187「これに反して、日本の思考の原点にはそのような自然と人間とのきびしい対立関係はない。というより、『聖書』のかわりに日本人の精神的風土の伝統になっているものは和歌の精神であろう。つまり西欧的思考の原点にあるべき「原罪」という意識――言いかえるならば、原始的自然状態からの人間の分離という根元的な「孤独の自覚」は、すくなくとも日本人の伝統的な思考の原点にはない。

 日本人の思考の原点ということになれば、どうしても、まず何等かの古典に拠らざるを得ないし、まず問題になるのが『古事記』であろう。多くの日本人は漠然とこれを「神話」と呼んでいるようである。」

※このように思考の原点を古典に求めようとした際に違和感が出てくる。「日本では古代から近代に至るまで、自然と対立するのではなしに、むしろ自然を率直に受容して、「花鳥風月」という言葉に象徴されるように、自然の美を精神の高さと一致させて、その次元で高度な精神性を維持し、すぐれた芸術性を発揮してきた。」(p186)とも言うが、日本の近代史を考える上で、このような古典思想があたえた影響は限定的でありうるのではないか?このような古典へのこだわりは逆に実態を正しくない方向に縛り付けることになってはいないか??そもそも古事記とは何か理解している日本人はどれほどいるのだろう?

 

☆P193「だが、いずれにせよ、日本の精神的風土のなかでは、そもそも「自由意志」の問題がそれほどまでに深刻に追究されたことはない。そこに、同じオリエントにありながら、日本にはユートピア思想が定着しない根本原因があるように思われる。つまり、日本人の孤独感の性質が、自然ときびしく対立する人間としての根元的なものから出てくるのではなしに、きわめて生活次元的なものであるがゆえに、そこから出てくる「生」の意識のエネルギーも、結局は生活次元的な「理想」のなかに解消されてしまう場合が非常に多いことを意味する。だが、ユートピアが「自由意志」を前提としてのみ成立し得るものであるとすれば、それはむしろ「理想主義」なるものの諸前提の全面的否定の上にのみ成立が可能なのである。なぜなら、「自由意志」の母胎たるべき真の自我とは、それ自体がけっして「理想」というような一定の理性目的の体系ではあり得ないからである。

 それはともかく、日本の大部分のユートピアが諷刺的段階でとどまるか、政治小説の類になってしまうのはそのためと思われる。つまり、それはユートピア(どこにもないところ)ではなくて、何等かの「理想像」なのである。したがって、その場合には、地上のどこかに理想国があって、あとは、それに追いつけ、追い越せという型で発想され、結局は地上のどこかの国の「理想化」に終ってしまうのである。」

※重要なのは、歴史の存在ではなく、その受容がいかに行われているのか、行われうるかという議論である。それは極めて教育社会学ないし教育学的な問いである。

 

P278「キブツに限らず、世界各国に存在するこの種の共同社会は、学問的に「ユートピア共同体」と総称する。といって、これらの共同社会が「地上の天国」だという意味ではない。それはこういう意味である。――人間は本来その本質において全的存在であるにもかかわらず、現代社会の人間は、好むと好まざるとにかかわらず疎外されている。全的存在たる人間は、財産や権力や機械や制度や固定観念……など、いかなるもののドレイにもならないことを意味する。それにもかかわらず、現代社会の人間は、これらもろもろの偶像崇拝者たることを余儀なくされ、そのことのために本来の全的人間は疎外されている。それならばこそ現代社会は、全的人間にとっての非現実であり、非人間性にとっての現実である。「ユートピア共同体」というときのユートピアとは、まさにこの意味の「非現実」を意味するものにほかならず、この非人間的な「現実」のなかで、全的人間を志向して生活していること自体が「ユートピア」なのである。このように、学問上で使用される場合の「ユートピア」ということばの意味を明確にしておかないと概念の混乱や奇妙な誤解が発生する。」

 

P332-333「ここではっきり認識しておかなければならないことは、キブツのメンバーは、町の労働者と同じく、すべて「ヒスタドルート」(イスラエル労働総同盟)の組合員であるということである。したがって、もし日本にもキブツと同じような組織を作ろうというのであれば、相互のキブツは、たとえば「日本キブツ連合」といった横のつながりのある組織を作るとともに、その組織は労働組合に加入し、各メンバーは当然に組合員としての権利と義務をもつ必要がある。少なくともイスラエルキブツは、そのような近代的労働関係の上に成立しているのである。

 このように、日本の各種共同社会が、いつの場合にも横の「連合」組織をもちえず、また、労働組合の方でも、これらに接近しえない根本的原因は、日本では、協同組合というものが、本来的な意味で正常に発達していないからである。」

P335「イスラエルキブツは、原則として夫婦単位の家庭をもち、親子はそれぞれ独立的に生活する。「個」の確立という近代化過程の最も端的な表現である。ところで、その近代化の問題であるが、別の意味で、欧米社会のように、市民の生活基盤になんらかの人類的な精神的共属関係をもたない日本の場合には、「共同体」という概念ほどやっかいなものはない。キブツの共同体の存在は日本の近代化過程とどのような意味で照応するであろうか?

 日本で「共同体」ということばが多くの人々に与える印象は、せいぜい農村の前近代的なエゴイスティックな連帯感や、一党一派の党派的な閥意識、滅私奉公の全体主義的傾向といったものであろう。いや、近代のドイツ社会でも、その近代化のおくれはあのナチス的な「運命共同体の理念を作りあげてしまった。それだけに、現代の日本では、一般に、「共同体」という概念はすべて封建的・前近代的なものであり、近代社会ではむしろ、この共同体から個人が脱出し、独立的な存在になることであると考えられている。むろん、そのこと自体は正しい。」

※勝手に大衆の考えを述べている!

「恵那の教育」中津川市の教育正常化運動の検証―中間考察

 今回は前回に引き続き、中津川市の教育正常化運動の考察を行う。

 

・小木曽尚寿「先生授業の手を抜かないで 続」(1985)について―丹羽実践の批判から

 

 まず、小木曽の自費出版本の2冊目の内容について、丹羽徳子の実践内容を含む恵那の子編集委員会の9冊の編書に対する批判が語られている点から見ていきたい。小木曽はこれらの著書において「中津川の教育に深く根付いている「生活綴り方教育」なるものが、特定の政治・思想を根底にもつ「社会変革」の手段として利用されてきた」こと(小木曽1985,p96)が随所に示されていることを指摘する。確かにこれは正しく、例えば、中津川の教育実践の中で実践者側のリーダー的存在である石田和雄などは次のように主張する。

 

「さらに目立つことは、教育に関する父母・国民の不安を助長させながら、その鉾さきを民主的な教育と教師に対して向けさせるやり方を(※三木内閣が)しきりにとってきていることです。今年になってから、PTAという形で、民主的な教育と教師へ対置した問題を提出させることが露骨になってきています。 

それは、今までの教育支配が生みだしてきた、子供の人間破壊や、あるいはわからない学習の増加の問題を利用して、民主教育に攻撃を加え、破壊しようと企んでいる、極めて危険な策略とみることができるのです。 

たとえば、高度経済成長政策によって、自然が破壊されたり、公害が発生していることは、誰の目にも明らかで、誰もが高度経済成長政策は駄目だったということを認めるし、その限りでは国民的な合意が成り立っているともいえます。しかし、同じ高度経済成長政策としての人づくりであり教育の問題では、中教審路線が子どもの人間破壊をすすめていくものであることを、私たちを含めて、民主的な人々が、もっとも早くから警鐘鳴らし続けてきたにもかかわらず、今日、子どもの人間的破壊が誰の目にも明らかに映るということになってはいないし、しかも、それがこれまでの人づくり政策による教育支配のせいなのだという点で、国民的なコンセンサスができあがっていないというような、そうした複雑さを教育はかかえているのです。そこに教育問題のむつかしさがありますが、支配はそのむつかしさを巧みに利用して、父母・国民の鋒を民主教育に向けさせ、攻撃を仕掛けてきているのです。 

教育問題のむつかしさということで、いますこし補足しますが、ごく簡単にいって、公害だ、といえば、それは政府の政策が悪かったんだということでの理解が早いのです。けれど、子どもがひどく悪くなっている、ということでは、それは政府の政策が悪かったからだと、直ちに理解されない状況があるのです。子どもの悪さについては、先生のせいなんだというように思われている問題や、子どもの資質や親のせいに考えられている問題が存在していて、これまでの中教審路線としての人づくり政策が、今日のような結果を、子どもの上にもたらしてくるものなのだということもわからないわけではないが、実際にはそのことがなかなかつかみきれないのです。」 (恵那の子編集委員会「恵那の生活綴方教育」1982、p129-130)

 

 この引用での発言の趣旨は少しわかりにくさもあるものの、このような教育問題は、そもそもの体制がおかしいという批判に繋がらないことへの不満として現れているものといってよい。このような「思い込み」に対して、小木曽は次のように反論するのである。

 

「「市議会」での教育論議も「非教育的」になるらしい。

 とんでもない。中津川の教育の中味が、ずっと以前からもっともっと市議会で論議されているなら、中津川の教育の今日、かかえている困った問題の大半は片づいていたといえよう。……

 市議会で市民の声を背景とした教育論議を「非教育的」と決めつける主張が、生活綴り方教育の本に堂々と出てくる。中津川の生活綴り方が、どんな立場の人達をリーダーとしているか、わかるような気がする。」(小木曽1985、p222)

 

 中津川市議会で取り上げられる「教育問題」が「非教育的」であるかどうかは、前回の中間報告で引用した議員の発言からも察することができたのではないかと思う。そもそも議員自体が教育についてわざわざ取り上げることについてためらいさえあったにも関わらず、何故教育問題を議会で取り上げなければならなかったのか。そのような前提から議会での議論を押さえねばならないように見えるのに、「反正常化側」は完全に政治的問題に還元し、これを一方的な政治的攻撃としか考えようとしないのである。

 

 また、丹羽(1982)における反論として、1976年度の坂本小学校における学力問題等を「ウワサ」として片づける態度についても、小木曽は次のように反論する。

 

「次に掲げる文章は、昭和五十一年十月から十一月にかけて一斉に行われた坂本小学校PTA主催の学級懇談会或いは地区懇談会で一般の親からどんな意見が出されたかを学校側で九ページにまとめられた資料から抜き出したものである。これをみれば当時の坂本小学校の授業内容がどんなにひどいものであったかうかがい知ることができ、そういう声が凝縮してその年の十一月六日「会」結成となったことも理解していただけよう。

 ▼算数・国語をしっかりやってほしい。基本ができていないと、中学校の三者懇談会で言われて不安。(十月十九日、六年学年委員会)

 ▼教科書がすすんでいない。学校教育の実態を知ると自習時間が多い。(十月十九日五年学年委員会)

 ▼小学校の高学年や中学校は勉強を主にやってほしい。親達が責任をもって地域はやる、学校はもっと学力をつけてほしい。(十月二十五日、中洗井五、地区懇談会)

 ▼授業時間にやる子ども会の実態や成果を先生はつかんでいるか。基礎学力低下の問題について先生の態度に不満だ。(十一月二日、星が見地区懇談会)

 ▼教科書があるのに、なんで副読本、参考書を使っているか、教科書はぜんぶ教えてほしい。(十一月二日、中切・地区懇談会)

 ▼地域子ども会もこれで三年目だが反省する時期ではないか、できれば地域子ども会は止めさせたい。(十月三十日、深沢地区懇談会)

 ▼坂小の子どもの学力が低いのではないかという不安がある。特に他の学校では教科書を使っているのに教科書が使われていないのは問題だ。(十一月九日、三年二組・学級懇談会)」(小木曽1985、p214-215)

 

 どのような意図で学校側がこの資料を作ったのかは不明であるし、これは多数の親がこう思っていたことの根拠たりえないものの、無視できないレベルの不満があったのは確かである。

 

・小木曽(1980)の内容検証について

 

 前回の小木曽(1980)のレビューでいくつか課題とした点、また根拠がはっきりしていなかった点について挙げたが、これについても確認作業を行った。

 

 まず、「中津川の親たちの「知育」に関する関心の高さには、先般、市が実施したアンケートにも如実に表われている」(小木曽1980、p47)としている点である。これは「広報なかつ川」1979年2月1日号に掲載されている、「市民意識調査」の結果で「特に力を入れてほしい市の仕事」の中で23項目中「教育」が3番目に挙げられたことを指しているものだろう。しかし、この意識調査では、高々8.6%の人が「教育」に期待しているにすぎない。一番力を入れてほしい分野とされた「医療施設の充実」も11.0%であり、この割合だけで、一般市民の関心の高さまでは指摘できるものとは言い難く、この小木曽の主張は適切ではないと言える。

 

 次に、p166-167で語られた「父母の教育要求第一次調査」の結果である。「学力・体力・生活」の3つの中でどれが最も大切な力か、を問う質問に対し、子どもの年齢層により異なるものの、全体では「体力(44.8%)」「生活(29.1%)」「学力(25.6%)」の順番になっている(中津川市学力充実推進委員会「父母の教育要求調査のまとめ」1981,p4)。ただし、このまとめでは、関係者による座談会の内容も掲載されており、「(※一番大切なのは)本当は学力といいたいのだが、生活は、人間が生きていく上において当然のことなので二位になり、三番目に学力が入ったのだろうと思います。」(同上、p18)「親はまず第一番に学力と書きたいんだ。ところが生命あってのものだね、だから、「体力」と書いたんだと思います。なぜ「学力、学力」と言われるかというと、社会にひずみがあるからだと思います。」(同上p21)というように、アンケートに関与した者からもあまり正しい結果だという認識がなかったらしい。言い換えれば、「学力要求の強さ(そしてそれが一辺倒なものである)」という認識が広くなされていたということでもある。

 

 最後に「小木曽が何故現場ではほとんど不安要素がなくなったのに教育懇談会を続けたのか」という問いである。確かに最初の問題提起であった通常の授業の実施という内容はかなり早い段階である程度解決したようであるが、一部の教師による中津川の教育支配に小木曽が不満をもった理由というのは、当時の中津川市全体の教育問題の論調などをみると、いくつか考えられるものがあるといえる。

 一つは、「教育現場は決して褒められた現状にないにもかかわらず、「反正常化」側は『恵那の教育』を讃美し続ける態度を取り続けるのに対し、当事者(にさせられた側)として恥ずかしささえある」という認識が少なからずあったのではという点である。これは小木曽本人が直接語った訳ではないものの、恵陽新聞における他の論者はこのように見ている者も複数おり、このような「根拠のない讃美」というのを、自分たち中津川市民の実践として(反正常化側はこれを「教師の親の連帯」の強調として語っていた)取り上げられることに対する憤りが強くあったものと推察できる。小木曽(1985)の内容が反正常化側への反論に終始しているのがその現われであると私は見る。そういう意味では、単純な現場の改善云々だけではなく、「正義」の問題として、恵那の教育の実践者として自らが巻き込まれることに対する反発心というのが、この正常化運動の前提として存在せざるを得ない状況だったと言うことができる。

 また、これに関連して、複数の現場から偏向教育の実践や、教育活動に真摯に取り組もうとしない教師に対して、改善を求めるような動きを行う必要性について強く感じていたという点も挙げられる。後述するように、当時の中津川市教育委員会は、現場改善に対する機能を失っていた状態であるのは明らかであり、議会や市民運動としてこれを改善要求しない限りは現場が変わらない状況であったことに対し、小木曽は正常化運動を継続していったのである。これらの理由は、教育懇談会を継続するのに十分すぎる理由だといえる。

 

・当時の中津川教育委員会と教育長の問題について

 

 私が榊編(1980)以来、重要な論点として提起してきたのは、教員組織の「自律性」の問題であった。反正常化側はこの「自律性」を「教育支配を一切受けないもの」という意味で捉え続けてきた訳だが、本来的にはこの「自律性」には専門家集団として当然に持ち合わせなければならない「(内省も含めた)自浄作用」、つまり集団内で十分な議論を行うことで時に批判し合い、誤りを正していくという性質もまた欠かすことができないものであるはずであった。反正常化側もこの側面について「専門性の向上」としては言及することがあるものの、「相互批判」という文脈ではほとんど語ることがないし、少なくとも実践のレベルでは皆無であることをこれまで私は指摘してきた。

 これは「恵那の教育」の事例においても変わらない。管見の限り、現在に至るまで、この「恵那の教育」を支持する反正常化側の立場にある論者は、偏向教育の実態に対して何一つコメントをしようとしない。そんな事実はなかったかのように振る舞い、それは「政治問題」として体制側が攻撃している以上のものではないと解釈するのみなのであった。この「コメントをしない」ことこそが、「自律性」の欠如の根本的な現われである。「コメントをしない=クレームを申し立てない」状況はまさに改善を要求していないことと同義であり、それは転じて「コメントをしないこと」は専門家集団内で行ってよいこと、そして傍から見れば「何をやってもよい」という風に見えることを意味しているにも、関わらず、このことを反正常化側は全く理解しようとしていないように見える。次のような主張もまたそのことへの批判の一つである。

 

「煽動教育においては、決して反省はない。すべて自分が正しい、とする。マルクスレーニンの革命主義も同じである。そして不満はすべて政治や社会や学園が悪いからだとするのである。これ、革命主義の革命パターンにも連なる。反省して自分が正しいか正しくないかなど考えていては革命に参加することができないからである。群衆心理を燃え上らせるためには反省は邪魔だからである。

 「一人一人の子供を、こよなく愛し、生活綴方を通しこれをよく見詰めて個性に応じその特質を伸ばす人間教育」というのが、本来の恵那の教育であった。これが民生同活動が進むにつれて、これに利用されて、と言うより塗りつぶされてしまって政党色が強まってきたのを感ずるようになったのは安保闘争以後ではなかったかと思う。これは指導的役割を果してこられた方々の、昭和30年頃の御意見と、昭和50年頃の御意見を比較してみれば明瞭である。そしてやがて党の情宣活動をも果すことになったとわたくしは思う。

 こうした政党的なものを区別しないで、これが恵那の教育だとして熱心に進めている先生方の中には「本来的なねらい」を純粋に信じ、これを教育現場に生かして見える先生方も多い。こうした政党的環境の中で本来的教育活動を進められる信念と勇気には心から頭が下がる。わたくしがさきにきびしく批判した「恵那の教育」は党の情宣活動化している異質的なものを指したのであったが、言葉不足の点お断り申し上げたい。

 わたくしは教育の中に「甘やかし」はあってはならないし、まして「甘やかし」を条件としたような煽動は絶対に避けねばならないと思う。しかも教育の中における煽動による政党の情宣活動は卑劣だとさえ思う。恵那の教育が正当活動とは縁を切り、本来の恵那の教育に立返られることを祈りながら稿を閉じたい。」(恵陽新聞1980年8月30日号、原鏡一の論)

 

 歴史的考察の是非は置いておくとして、ここでも押さえるべきは、やはり「自己批判できる組織」であるかどうかという点であり、それができない状況こそが「甘やかし」と表現されているものである。恐らくはこの組織の中には熱心な綴方教育の実践者もいたはずであるが、その組織の「異分子」(という表現が正しいかは測りかねるが)ともいうべきものがある場合にそれに対して何もいうことができない組織であるならば、組織として問題がある。このことを反正常化側は適切に捉えようとしないで、問題を政治的なものに転化してしまうのである。原鏡一のこの指摘もまたかなりの「配慮」、つまり組織内の多様なアクターの存在とそれぞれが持つ価値の全てを否定する訳ではないという留保がされた論であるが、反正常化側はこのような「配慮」を全て無視するのである。

 

 本来であれば、このような状況について指導する立場にあるのが教育委員会という機関である。教育委員会という組織が存在しているのは、直接的に政治的なるものの影響を受けることを回避するため、専門性の確保の一環のためである。しかし、渡辺春正教育長をはじめとした当時の中津川市教育委員会はこの役割を担うことができていなかった。反正常化側の勢力であった(※1)森田道雄が指摘するように、中津川教委の立ち位置は現場擁護の立場であり、敵対視されていない。少なくとも現場にとって、中津川市教委は自らの活動の脅威にはなりえなかったのである。

 

 「丹羽実践はもちろんこの時期の生活綴方実践は、こうした学校批判の正面からの「攻撃」と、行政的圧力(中津川市教委はこの動きに対して学校を擁護する立場だったが、県教委及びその出先の教育事務所、さらには一般行政の筋はあきらかに攻撃側となった)、さらにはそれから情報を得て書かれるマスコミの記事との「闘い」のなかで行われた。」(森田道雄「1970年代の恵那の生活綴方教育の展開(4)」「福島大学教育学部論集第65号、1998,p21」

 

 さて、この市教委の体制を考える上でやはり無視できないのは、渡辺教育長の立ち位置であろう。まず、彼の経歴について、教育長辞任時に議会挨拶をしているので引用したい。

 

「顧みますというと私は、中津(※ママ)の教育委員会に16年間、指導主事で昭和28年の4月1日から5年間、それから教育次長で吉田教育長のもとで5年間と、教育長を6年間と。なお県の教育委員会の人事管理の仕事を5年間やらせていただいたものですから、戦後教育行政に21年間と。もうほとんど教育行政に当たりまして大変、特に中津川の市民の皆さん方にお世話になったことを改めて深く感謝をし、厚く御礼を申し上げるわけでございます。

 特に指導主事の5年間の中で、県の教育委員会の派遣研究生として、東京大学教育学部教育学科へ1年間やっていただきまして、大変教育学の勉強をさせていただいたわけでございます。そのときの院生、学生さんが、いま名古屋大学教育学部長だとか、あるいは各大学にみんな第一線の教育学者として働いてみえますし、文部省では課長級でたくさんの人が勤めてみえまして、現在も大変お世話になっておることを感謝を申し上げておるわけでございます。」(中津川市議会第4回定例会、1981年6月11日)

 

 同じ挨拶の中で昭和13年から教員をしており、日本教育学会、日本教育法学会、日本社会教育学会の3学会に所属しているという発言もなされている。渡辺が東京大学教育学部に在籍していた時期には当然大田堯がおり、すでにいくつかレビューで取り上げた反正常化側の理論的視座を与える名古屋大学教育学部とも関係性が強い。これだけでも反正常化側とのコネはかなり強くもっていることが推察される。

 また、小木曽(1985)も、教育長退職後の渡辺の動向について次のような指摘をしていることは注目しなければならない。長文となるが引用する。

 

「しかし五十六年六月、任期半ばでご退任なさったあと再びこんなかたちであなたにお手紙をさしあげる機会があろうとは私自身、思いもよらないことであります。でも書かないわけではいられません。なぜなら、去る五十八年三月八日より三月二十六日まで、日本共産党機関紙「赤旗」本紙に連載された、中津川の教育に関する特集記事を読ませていただいたからです。とりわけ、三月十五日付、同紙にあなたの写真入りで報道された、「元教育長の気概」という記事は、中津川の教育に、わが子を託す親の立場からはとうてい黙視でき得ない内容であります。」(小木曽1985、p240)

「「赤旗」にはこう書いてあります。

 「三菱電機の社員の小木曽尚寿さんたちがきたと思います。その後何度かきました。坂本小学校の授業時間割調査結果をつきつけてきましたが、学校側で調べたら会のデーターは実際と違っていました。第一、子ども達を使って授業時間割調査をするなどゆゆしい問題ですよ。それに会が出した高校進学の業者テストのデーターも業者側から“事実と違う”という文書がきています。それをいったんですがなかなか納得していただけませんでしたねェ。」(五十八年三月十五日付赤旗

 渡辺さんあなたは六年も前のことだからなにをいっても市民の皆さんは忘れている、そんなおつもりかもしれません。無責任さにあきれるばかりです。今頃こんなことをいわれるなら、あの時(五十二年一月三十一日)、私どもがあなたに送った「公開質問状」になぜお答えにならなかったのでしょうか。」(同上、p240-241)

「渡辺さん、あなたが市教育長として本当に中津川の教育をとりしきる気概と責任をお感じになっていられたなら、六年もたってから政党の機関紙に“実はあれは間違いでして……”などといわないで親達が必死の思いで書いたあの質問書に真面目にお答えになっておかれるべきであったと思います。」(同上、p242)

「例えば特定政党支持の機関紙「しんふじん新聞」を学校で子どもにもたせることについては誰れが考えても間違っている事例です。市議会で渡辺さんは“申訳ない、今後は……”そういっておられるのに、なかなかその通りにならなかったのは、そのことに一生懸命になっておられる現場の先生が市教育長として渡辺さんがこの「赤旗」記事にに示されているようなお考えの方であることをよく承知されていた、そのことに原因があると思えてなりません。」(同上、p244-245)

 

 公開質問に答える必要性は必ずしもないのかもしれないが、そうだとしても中津川市教委の説明責任は極めて不十分であったことは、2度の学力テストの実施などからも言える。

 

「「しかし学力は高い低いだけが問題でなく、問題点はどこにあるか、またどう是正していくかが一番重要なことだ」と(※教育長は)語っているが、サツパリこの意味がわからない。市の教育部門を担当する最高責任者としての教育長の事がこれでよいのだろうか。今少し市民、子を持つ父兄にわかりやすい解明談が欲しいものだ。」(三野新聞1978年7月2日号)

 

 このような当時の説明責任の不足は、この引用に限らず、議会答弁に対しても類似の評価が与えられていた(三野、掲載日不明)。だからこそオープンな場での議論ではない、後出しジャンケンになるこのような渡辺元教育長の行動こそ、過去の教育論争をなかったことにするための工作として行われていると言われても弁解が難しいだろう。そしてその後の「恵那の教育」実践をめぐる反正常化側の言説がこのような性質を持ち続けてことも否定するのが難しい。

 

・正常化側、反正常化側、どちらが「一部」なのか??

 

 当時の教育をめぐる議論において保護者も含めた一般大衆は正常化側、反正常側のどちらの側についていたのか。これについては榊編(1980)のレビューで提起したように、少なくとも反正常化側の動きに保護者が支持する基盤が欠落していることを述べたし、中間報告で示した内容はそれを裏付ける傾向があった。しかし、反正常化側はそもそもマスコミが語ることこそ偏向であり、大衆の意志の反映である可能性を頭から否定している。

 マスコミの影響及び政治的影響(議会での議論)を排除してなお、残る議論の可能性として挙げられるのは、「夜明けへの道」の製作を中津川市国民会議が承認した際のプロセスが明らかに非民主的であったことと、それへのPTA連の反発、そして小木曽(1980)が広く中津川市民に読まれたという事実およびその評判が基本的に小木曽支持であるらしい(この評判は議会で議論されている意味で政治的影響を排除していない)という事実であった。ただこれらも正常化側が多数だったという事実の裏付けにはまだ乏しさがある。

 

 ただ、一つはっきりしているのは、先述の渡辺元教育長の議論にも見られたような反正常化側の事実の隠蔽工作が認められる点である。例えば2000年に出た恵那の教育に関する資料集では、この時期の状況について、次のように語っている。

 

「そうしたなか、いくつかの記録映画を手がけてきた日本ビデオ・映画製作所から、恵那の教育を記録映画にできないかと申し入れがあり、中津川市国民会議の関係団体や個人の協議と協力をえて、教育記録映画「夜明けへの道」は、一年に及ぶ教育現場や地域での撮影の末に完成し、各地で上映されていきました。また、八〇年に入り民教研は、すでに出版社からも問い合わせが来ていた“七〇年代の恵那の教育綴方をまとめて出版する”ことを決め『生活綴方―恵那の子』全五巻(五冊)・別巻三冊(四冊)を刊行しました(八一年)。

 子どもを見つめ、子どもをつかむ中で発達の芽を見つけ、子どもが自覚的に生活を変革していく力をもつための教育実践が広がり深まっていくなか、中津川の一部の親が起こした“恵那の教育に真っ向から反対する”動きは、背後に企業、行政、政治勢力が見え隠れしながら、執拗につづけられました。

 しかし、子どもの人間的発達を願い、教育をよくしたいとする父母・教職員の運動は大きく広がり、県民大集会や恵那地区教育大集会が開かれるとともに、恵那地域のいたる所で「教育を育てる会」の小集会がもたれるようになり、地域に根ざす教育は高校の積極的なとりくみと共に大きく前進しました。七九年には“子どもと教育に寄せる親の願いを語り合おう”をテーマに「全国親のつどい」が恵那の地でもたれました。」(恵那の教育資料集編集委員会編「恵那の教育」資料集2、2000、p697-698)

「恵那地域にを(※ママ)中心に、「地域に根ざす教育」が広がり深まるなか七六年の秋、中津川市坂本地区で親が子どもをつかった授業時間割調査をもとに「授業時間が片寄っている」「基礎学力が低下している」「文部省の示す教育をせよ」と、真っ向から反対する運動が、坂本地区の一部の親、市内の大企業、保守の市議会議員を含む保守勢力のそれと時を同じくして展開されました。学校長・教育長などに質問状を出したり、市議会での質問を利用した教育攻撃、地元の地方紙に数十回にわたって「生活綴方」教育、地域子ども会活動などに対する批判・攻撃をくりかえし、教員の人事異動に介入する動きまでみせました。」(同上、p706)

 

 この引用を初見で見た読者は少なくとも「恵那の教育」実践が子どもの可能性を広げた実践であったことを疑わないことだろう。また、あたかも「集会」に多くの人が集まり、賛同者として存在していたかのように語られる(※2)。そして、正常化側が政治性を強くもった勢力であったということも真に受けてしまうかもしれない(※3)。しかし、すでに見てきたように、事実はそこまで明るいものだったと、少なくとも当時の一般的論調では語られていないし、政治性に関しては、ごくごく一部の例外(まだ検証できていないが、岐阜県議会の正常化決議などはこれに適合していると言いうるか)を除けばほとんど虚構であると言わねばならない。集会の内容についても、小木曽は次のような批判をしている。

 

「(※「恵那の知で教育を考える全国親の集い」の集会呼びかけ資料を)少し長いがその部分を引用させていただく。

(子供達の自殺、殺人、強盗、家出を深刻な荒廃として)

「子どもたちの、この荒廃のひどさは、取りも直さず、大人達の荒廃のひどさの反映だと指摘されてきています。(中略)

 まことに、今私達の生活は、政治的、経済的、社会的に戦後最悪の危機的状況に落ちこんでいるように思います。有事立法、元号法制化、失業、物価高、増税など、様々な形で生活がおびやかされ、自由がせばめられ、主権在民がないがしろにされ、子ども達の全面的な発達をめざす努力に対しての圧力が加えられたりしてきています。」(以下略)

 続発する子供の非行、自殺に心を痛めない親はない。その原因の一つにいわれるような、大人の暮らしに起因することも理解できる。がなぜそこに「有事立法」が出てくるのだろうか。全く無関係であるとはいい切れないものの、子供の非行も「有事立法」と結びつけて考える親は、極く限られた一部の人達であろう。その人達にとって今問題なのは、子供の非行よりも、政治の流れでありそれにまつわる政党の消長ではありますまいか。

 子供の自殺も心配されておろうが、それさえも、今の政治が間違っている。それをいうための一つの現象として考えられているに過ぎない、こういったら言い過ぎであろうか。

 中津川においても、子供達の非行化を憂い、基礎学力向上を願う多くの親達の声は、政治、思想を越えたところにある。であるのに中津川の教育が、子供の非行と「有事立法」を一緒に考える一部の親と教師によって、長い間リードされて来たこと、ここに問題があったのではないだろうか。

 今子供達を非行の誘惑から守り、生命の尊さを教えるのは、政治と教育の混同を思わしめるような○○集会ではなく、学級、或いは地域での親と教師の率直なひざ突きあわせた話し合いの積み重ねの上にこそよりたしかな効果が得られよう。」(小木曽1980、p52-53)

 

「本日開催された第一回恵那地区教育大集会に教育に関心をもつ親の一人として参加した。

 親、教師のそれぞれの問題報告は日曜日の半分を棒にふってまで来てよかったと思えるような胸をうつなにものもなかった。しかし高校生二人の現状報告はとりあわけ高校生をもつ親にとって考えさせられる内容であった。

 クラスの半分以上の生徒がタバコを吸っている。それを注意した方が仲間はずれにされる。勉強が厳しすぎるあまり、非行に走るものや、無気力、無感動の生徒が多くなっている。高校に売春の噂さえある。

 子どものよりよい発達を願う親ならばこれをきいて平然としてはいられない。私はこれ程、重大なテーマを高校生自らが提起(告発といってもよい)した以上集会がこれをどう扱うか大変興味があった。しかし結果はまたいつものパターンで終った。問題は出されただけ、そのあと壇上に上った親、教師の誰もそのことにふれようとされない。親がききたいのはその生徒たちの訴えに対して、どうするという、専門職である教師としての「診断」とそれに基づいた「具体的な処置」である。」(小木曽1980、p114-115)

「これでは「教育の荒廃」そのものが人を集めるための「みせもの」になっているといわれても致し方あるまい。集会の成功、不成功はその討論の中味ではなく何人集め得たか、その「数」を「力」によみかえ誇示するだけといったら、いい過ぎであろうか。私も含めてそこに集った親達は漠然とした不安と疑問をここでも「増幅」されっぱなしで帰ってゆくだけである。

 これは今回に限ったことではない。もう十数年も前から実行委員会という主体のさだかでない人達で企画される教育の○○集会はいつもこうである。」(同上、p116)

 

「(※恵那地区教育大集会の)会場入口の受付には、学校の先生がずらり並んでおられ、参加者一人ひとりに集会の資料を手渡されていた。会場へ入ってから、その資料をみてびっくり、とんでもないのが含まれている。そのパンフレットはタイトルこそ“保育所つぶしは許さない”、そうなっているが、その記事の内容は政治的偏向いちじるしいとしかいいようのない文章で埋められている。

 その一例をあげれば、生活保護費、児童保護費等の国庫負担率一割カットに関連して

 「法律も無視して弱者をきりすてようとする政府を許すわけにはいきません」

 「私たちは子どもや障害者、老人などを守る運動と連帯して政府の攻撃をはねかえして行きましょう」

 とまあこんな調子の文章である。

 それだけでなく、さらに、ていねいにも切りとって、切手をはればそのまま内閣総理大臣中曽根康弘殿宛の要望書となるようなハガキまで用意されていた。そして集会終了後、主催者側より、参加者に対しこのハガキを出してほしいという呼びかけまであったことは子どもの先生という立場を利用し集めた不特定多数の親たちに政治活動を強いている、そういわれたとき、どう弁明されるおつもりなのであろうか。

 パンフレットに書いてある内容を、政党の機関紙でみるなら一つの見方、考え方として別にどうということはない。しかし、ここは学校の体育館であり、教育の集会であるはず、どうみても不自然すぎる。

 なによりもこのパンフレットが学校の先生によって配布されることは、教育公務員として厳しく規制されている政治的行為にふれるのではないかとさえ思える。

 あげ足をとるともりはない、しかしこのパンフレットが集会資料として配布されることに対し、主催者側内部で“こんな文書を配ることはこの集会が誤解される”、そういう声は起きないのだろうか。

 ここにこそ、この集会が子どもの教育の場を偏った政治活動の手段として利用せんとする、一部の人達に引きまわされている困った側面をまざまざとみせつけていることになろう。

 学校という公の施設で、こうしたことが堂々とできる、中津川の教育にみえかくれするこの陰の部分に、もっと、もっと多くの親が気付いてくれない限り、教室で子どもの授業を通して親の信頼と連帯を……。そういう先生方はいつまでも隅っこに押しやられていることになろう。」(小木曽1985、p164-165)

 

 小木曽の批判点はひとまず置いておくとして、無視できないのは、むしろこの集会の性質である。小木曽の言い分をそのまま支持すれば、ここで議論されているのは「恵那の綴方教育」実践のすばらしさを集会で披露するようなタイプのものではなく、むしろ保護者も含めて教育問題に取り組むことを意図するための集会が行われていたのが実際ではないか、という点である。そうすると、「反正常化側」が述べているような集会のイメージとは少し異なっていることになるのである。あくまでここでの集会は高々中津川市民の教育への関心の高さいう事実のもとで行われた集会でしかないのである。この点からも反正常化側は事実を正しく伝えようとしているとは言い難いといえる。反正常化側はあたかもこれを政治的対立図式をもって語っている節があるが、そのような図式は集会参加者層には全く適用されていない内容なのであり、それが適用されるように見える要素というのは、横槍で用意されている政府の政策に反対されている資料などしかないのである。一言でまとめれば、このような集会が行われていたという事実は、反正常化側の支持者が多数いたことの根拠には全くならないということである(これは教師の呼びかけにより参加をしている保護者が相当数いるかのような小木曽の言い方からも認められる)。

 

 今回の現地調査で検討できるのは概ねこのあたりまでである。今後も資料収集を行いながら、より議論を深めていきたいと思う。

 

※1「七〇年代全般にわたって恵那地域の生活綴方教育は、坂元忠芳、深谷鋿作、森田道雄、田中孝彦、その他の全国の研究者の方々に理論的に導かれた部分がたくさんあります」 (恵那の子編集委員会「恵那の生活綴方教育」1982、p9)とされるように、森田はこの時期の主要な反正常化側の論者の一人に位置づけられる。

 

※2 「教育を育てる会」については、実態を十分につかめておらず、今後の考察課題としたいが、小木曽は次のように育てる会についてコメントしている。

 「「中学になればテストに追われ、入りたい高校にも入れず、点数だけで子供の将来を決めてしまう状態です。万引や非行、性の問題で悩む子もいます。親も先生も本当にどうしたらよいのか困ることばかりです。」

 これは市内の小学校で子供を通して、先生から親達に配布された。「民主教育を育てる会」への入会を呼びかける文章の一部である。ここにはいま、学校教育のかかえている、のっぴきならない問題の大半がいいつくされている。

 なぜこれらは「育てる会」では話し合われるのに、PTAの役員会の議題にはならないだろうか、中学に入れば子供の将来が学力で決められることがわかっているなら、そしてそれがどんなに不合理であろうと子供達の、当面する現実がこれであることを先生方も認めざるを得ないならPTAで背骨の曲がっていることと朝、歯をみがいて来ないこと、これらと同じレベルで学力をとりあげられてもいいはずである。

 また、ちゃんとしたPTAがありながら、「育てる会」、「母親連絡会」、「新婦人の会」等の会員拡大に、先生方がこれ程熱心であるということ、これらも中津川の教育のおかれている特殊性を表明していることになる。

 育てる会、新婦人の会等をそんな特別の芽でみることはない……。親と教師が話し合うことはいいことじゃないか。私もそう思いたい。しかし、これらの団体の目的の一つに、先生方の教育運動の一環としての位置づけ、即ち国が標準として定めている指導要領までも、それを守ることを猿芝居として排斥する自由を確保するため、もう一つは特定政党の学校を基礎として基盤として活動するための「かくれみの」として育てられてきた。そう思わざるを得ない事実をみるにつけ、こうした会が先生方や一部の父兄によって、これ程までに大きく学校に居坐ることは子供の教育という面からは好ましいこととはいえない、やはりPTAがあればそれで十分、そういわねばなるまい。

 「育てる会は誰でも入れる、そこがPTAと違う」とよくこういわれる。本当にそうであろうか。現に私は数年前まで熱心な「育てる会」の会員であった。岐阜市で開かれる全県レベルでの会合にも、先生からの「御指名」により何度か出席している。それが三年程前「子供達の基礎学力をもっと大切に。」こんな発言をPTA総会などでするようになったとたんに、「育てる会」の連絡は一切なくなった。そのことを「育てる会」の本部役員にきいてみたところ「あなたは会費を滞納している。だから会員ではなくなった。」こういう返事であった。でも会費はたったの月額十円、それをいつどこで収めるのかこんなことはいつさい知らされていない。私が「クビ」になった理由は他にあり、それは私自身がいちばんよく知っている。このように誰れでも入れるといいながら、その入口ではちゃんと選別がある。これらは育てる会の性格をよく表している事例である」(小木曽1980、p100-102)

 

※3余談に近いが、ここで語られていた「人事介入」についての小木曽の説明も加えおきたい。

  この「人事介入」と呼ばれる内容が初めて明らかにされたのは、渡辺元教育長の「赤旗」記事からであると思われる。

 

 「あれは人事異動の時期で一九七七年二月ころの午後だったと思います。小木曽尚寿氏が市教育長室へきて、私に一枚のコピーを差し出し『これを代えてくれ』といいました。それは手書きで、坂本小学校の教組の活動家の名が五、六名書かれてありました。私が受け付けなかったので、彼はそのコピーを置いて、帰っていきました」(1983年3月15日赤旗・小木曽1985、p242-243)

 

 これに対し小木曽は次のような反論をしている。少なくとも、ここでいう「人事介入」にはそれなりの理由があるが、やはり反正常化側はその事実には触れていない。

 

「私達、親には先生を代える権限もなければ力もありません。しかし私達は市教育長であるあなたのところへかけ込めばきっとなんとかしてもらえる、そう信じて疑いませんでした。

 子どもの授業はいい加減で「有事立法反対」にばかり目の色を変える先生をなんとかしてほしい、親達が教育委員会にそういっていくことが、どうして“人事介入”なのでしょうか。そういう親達の声に耳を傾けその事実を調査し、公教育を進めるに不適当な先生があればそれなりの処置をしていただくのが教育長のお仕事ではないでしょうか、私は自分の子どもの義務教育の先生を塾の先生のように自由に選べない以上、「赤旗」新聞にどう書かれようとも、困ったことがあればこれからも市教委にいって行きます。教育委員会はそのためにあると思っています。ただそれはよくよくのことであり、わざわざ市教委にまで持出さなくても、担任の先生、或いは校長先生の段階で解決できればこれに越したことはありません。当時、私達がこうして何度も市教委へ“直訴”すべき事柄の多かったことは今から思えば結局その根元は、渡辺さん、あなたにあったのではないでしょうか。」(小木曽1985、p244)

 

「恵那の教育」中津川市の教育正常化運動の検証―中間報告

 今回は70年代後半の「恵那の教育」の正常化の議論を検証していくにあたっての中間報告を行う。

 この報告は中津川市を中心に私が行った資料収集の結果を、時系列で追う形でまず行う。具体的には映画「夜明けへの道」の発表のあった1976年6月から、当時の中津川市教育長であった渡辺春正が教育長をやめる1981年6月までの5年間を対象に、これまでに拾えている議論を捉えていく。今回の報告をもとに、これまでの「恵那の教育」の議論との関連性などの考察を次回行う予定である。

 今回特に資料として重要といえるのは、中津川市に本社のある(あった)二つの地方新聞「三野新聞」と「恵陽新聞」の当時の論調である。両新聞は週1回の発行である。今後また別途岐阜の地方紙にはあたる予定だが、特に恵陽新聞に至っては、1976年7月以降、それまでの一般的な新聞の論調からまるで「教育新聞」であるかのように中津川の教育問題を取り上げるよう新聞の内容を改めている傾向さえあり、1978年11月以降は小木曽尚寿による長期連載も行われている(この長期連載の内容が1980年と85年に自費出版で書籍化している)。

 

・1976年7月20日 中津川市連合PTA委員評議委員会

 

 前月6月20日(三野新聞報。恵陽新聞では25日とされる)に「中津川教育市民会議」という組織により映画製作が決定された。この市民会議は中津川のあらゆる教育機関(各小中学校、教職員組合、市連合PTA、民生児童委員会等30~40数団体。正確な数字は新聞記事により異なり把握できなかった)により構成された組織である(※1)。この連合PTAの会合の場でこの決定があまりにも「非民主的」手続をとったことが問題となった。恵陽新聞(1976.7.31)では各PTAの意見が次のように取り上げられている。

 

「教育市民会議の性格・構成について、単Pにも通知せず総会をしたが、これはどなたが何の代表で総会をしたか、全く複雑怪奇であり、こんな総会の構成はない。単P会長に連絡したというが、それは直前であり、また総会の出席者は先生が大多数だった。決ってから協力せよでは納得できない。」(落合小P)

「各団体を調べたが通知がない。手違いだけでは済まされない。総会で決めたのは横暴である。」(落合中P)

「何故十六ミリ映画でなければいけないのか。また中津川に立派な教育があるのか。例えば地区外へ行く生徒はいても入ってくるものはない。当市で誇るものがあるか。映画づくりは一部のなんとかよがりと思う。この映画づくりには反対します。」(南小P)

 

 恵陽新聞の社説欄では次のように語られる。

 「会議の母体は団体名が非常に多く羅列されているが、本質は中津川市の教育ボスのひとりよがりの官製ハガキに過ぎないのではないか。教育市民会議という組織の偉い人達がどのようにいおうと市民という言葉を使うのは余りにも押付がましいのではなかろうか。幹事会機関団体とかいう団体の中に現に私の属している団体名があがっているが、私がこの団体に属してからすでに八年にもなるが、いままでに一度も教育市民会議の名すら出たことがない。……本当に民主的に作られた組織であるならば、総会に組織に参加していない一般市民の参加をビラによって集めて総会で決定したなどと無理をしなくてもよいし、映画の制作が決まったという時点で、これ程の反対は出ない筈であろう。」(恵陽1976.7.24、立石道郎)

 

 小木曽も「映画作りが多くの先生と、一部の父兄によって強引に進められてきた」(小木曽1980:p215)と述べていたが、この総会においては、実質的に動員された「反正常化」側の職員らが中心になって決議に関与したことは想像に難くない状況だったといえるだろう。

 結局結論として「中津川の教育を取り上げるのなら、そんなに急がず、もう一度市民会議の上に戻し、教育界全体で判断すべきだと結論が出された」(三野1976.7.25)、「会の意向を市民会議に戻すと同時に単Pに持ち帰り、再度検討することになった」(恵陽1976.7.31)と「差戻し」に近い結論がこの場では出たようである。

 

 PTAをはじめとして保護者側から見ればこの映画騒動は「外から」やってきたものであった。そして、その決定について関与を事後的に議論することとなったのである。この映画に対する最初の印象が良かったなどとはとても言えず、まさに広く中津川の教育に対して「疑念」が湧いてくるような事件だったといえる。

 

・1976年9月18日 再び中津川市連合PTA委員評議委員会

 

 映画製作に対する説明や、実際の撮影の状況、そして各PTAによる話し合いの結果、実質的にこの日に映画製作が追認されることとなる。ただ、すでに話の前提として「教育市民会議が一方的に決めたとの批判があるが、あくまで総会で決った以上映画製作を進めるのは当然である」との見解が此原久夫P連会長から出ている。

 恵陽新聞(1976.9.25)の記事記載の議事からは、落合中PTAが明確な反対を表明、落合小は説明不足のため保留、坂本中はまだ議論をしており保留としたが、その他のPTAの意見は映画撮影の状況を見て賛成、もしくは問題・一部反対があるがその解消等を目指すことも含め条件付きで賛成と、結果として賛成が多数となり、PTA連として映画に協力することとなった。

 

・1976年10月16日 坂本地区教育懇談会の結成

 

 坂本地区教育懇談会の結成は結局上記の議論の延長線上にある。恐らく上記の決定が出る前後から、中津川の教育そのもののあり方についての内省の必要性が議論され、坂本小での「授業実態調査」がなされたものと言えるだろう(調査は9月28日から行われた)。

 坂本地区教育懇談会の発足時の会員は86名と報道されている(恵陽1976.11.13)。当時の坂本小学校の児童数は正確な数字が見つかってないが、中津川市議会の昭和56年度の第4回定例会の議事にて、約1200人という数字が書かれていた(6月15日議事録)。この数字を見ればそれほど多数の会員がいた訳でもないとみることもできるし、わざわざPTAとは別組織を立ち上げ、それに積極的に賛同する層がこれだけいたとみることもできるだろう。

 

・1976年12月 中津川市議会

 

 坂本地区教育懇談会の実態調査・提言を受け、年末の中津川市議会定例会は教育に関する一般質問が相次いだ。質問を行った10議員のうち、7人が教育に関する質問を行ったという(三野1976.12.19)。残念なことにこの時期の議会議事録の記録が図書館には存在しなかったものの、三野新聞では、篠原孫六議員の質問文を2回に分けて全文記載するという異例の対応をとっていた(三野1976.12.19、1977.1.1)。以下、内容を引用する。

 

「これから述べることは小学校、中学校、また学校によって程度の差はあるが、特に二ツの某学校は異常と云われている。この地域は日教組のモデル地区とも云うべき地位で、年一年と強化して今日に至っている。その名は日本的にも名が知られていて、中央のある雑誌にも紹介されている程で今回の教育映画作成もこうしたルートから手がつけられたものであると思われている。

 組合活動は法で認められているものであるが、待遇改善、勤務上のことは限定されている筈であると思うのにイデオロギーや政治的論争に深入りしすぎている。ある教師は社会科の本は五年、六年、二年間ほとんど考えず、本はまっ新しのままと云ったものも出ている。そして毎日の授業が指導案一つ書かず、思いつきその場限りのもので、生活綴方と地域活動には異状(※ママ)なほど熱を入れ正規の時間に食い込んでいる。コツコツと地味な研究を続けたり研究授業をやることなど大嫌いで、ハデな作文や地域活動と云った表面的なことに浮身をやつしているかに見える。これは今回の教育映画作成にも表われている。父母の大部分が反対していても、あの手、この手で一方的に賛成させた型でやろうとする。このかげの力は一体誰であろうか。この映画の趣意書にはあるところから流された文章がほとんどそのまま使ってあり、どんな傾向のものであるかは想像がつくものである。」

「県内で毎年施行されるところの児童、教師の発明工夫展、その他作品展、音楽会などへ出品も参加もしない。……

 こうした結果として、県下の他地区からその教育が軽べつされ、県下の教育界の孤児となり教育砂漠と呼ばれている。」

「テストは教育効果をためす一手法であって、人間を点数で評価するためのものではない。つめこみ教育反対と云うが、食物でも同じように、精神的栄養である知識をつめこまなければ人間は死んでしまう。ただその分量なり内容方法技術をどうするかをどうするかが教育者に課せられた問題である。

 学校教育にはご存知のとおり智育(※ママ)、徳育、体育の三ツの方向があり、それら三ツが揃ってその人の生活力と人格を形成する。智育を軽視するのは学校教育の否定であり教育的自殺者である。綴方と地域活動さえしっかりやっておれば勉強もできるようになる。」(以上三野1976.12.19)

 

 

「私達は地域重点の教育活動が無意味とは思っていません。そこで得られる人間的なふれ合いは親を含めて必要な事はよく判ります。然しそのことによって失われるもの、即ち学校本来の使命である授業や、学級としてのまとまりが軽視されることに多くの不安を抱き、そのことを適接(※ママ)に学校側にただしたこともありました。しかし学校側からはいつも「やるべきことは」十分やっているという返事をいただいてきたのです。ところがさきに%で申したとおり、地域重点の教育方針によって他の科目時間数は失われております。」(三野1977.1.1)

 

 この事例は一つ、二つの学校だけの問題であればそこまで深刻ではなかったのだろうが、実態はどうもそうではないらしい。次のような記事もある。

 

「新学期が始まった早々に市立第二中学の国語教育に父兄からクレームがつくなどに端を発し、ことし卒業した同三年生の国語教育が卒業生から異口同音に(本社調査)昨年一年国語の教科書は一度も開かなかったといい、先生は使用したという言葉の喰い違いがあるが、いづれにしても補助教材を多用していることは間違いない。」(恵陽1977.5.14)

  

・1977年12月 映画「夜明けへの道」の完成とその反響

 

 極めて残念なことだが、恵陽、三野の両新聞記事からは、この映画上映によって、PTA連を中心に保護者全般がどう感じたかは読み取れなかった。むしろ不可解なのは、事前段階では大騒ぎになった題材であったにも関わらず、上映会に関する記事さえも見当たらない点であった。

 ただ、「一部の論者」と片づけることができてしまうレベルで言えば、酷評しか記録が残っていないのは確かである。

 

 「この映画に対する感想を結論から書いてみよう。「失望」という言葉よりほか何ものもない。……

 秋の運動会を、あなた達は地域ごとに編成し、子供達の手で運動会をつくっていったといっているが、このあなたがたの、いい分については納得いかないものがある。私は子供達は自主的につくりあげた運動会の運営についていうのではない。地域別という方法である。同じ学年のクラスの親同士が一番交流しやすい場を、うばってしまった事になることをきづいているのか。あなた方年二・三回行なわれる型にはまった授業参観では親同士のつながりは不可能でしょう。

 またこの映画の中で地域子供会は、あなた方が育成してこられたようにいっておられるが、数年前まで、あなたたちは地域子供会の組織を拒否つづけてきたのではなかったのか。古い子供会の育成会の役員たちは皆いたいほど知らされている。

 佐義長の行事にしても、夏まつりの、ワッショにしても、多様化してくる社会で押しつぶされそうになりながらも、復活させ、また守りつづけるのに必死になっているのは、あなた達ではない。本当に地域の伝統を素朴にうけついできた親たちであるといいたい。

 あなた達はいつのときでも自分の立場だけでものをいっていることに気付いていない。この映画の中でも綴方教育が今日の恵那の素晴らしい教育基盤を作りあげてきたのだというが、そのかげで毎年三月入試発表の校庭で涙を流す親子があり、小中学生の非行指数も全国平均を上廻ろうとしている現実になぜ目を、おおうのか。親達は今の社会の中でごく普通に生きてゆく事の出来る子供に育ててゆきたいということを願っていることを忘れないでほしい。……

 とも角この映画はあなた達がこうありたいという希望なれば、まだゆるせるが、このように私達がやっているのだとの主張なれば、とてもゆるすことはできない。」(恵陽1977.12.10、白井清春

 

「昨年十二月市議会で、こうした動きを察して数名の議員が一般質問で取り上げ、教育長の善処を促した結果であろうか、少くともカリキュラムの面での改善は可成り進歩したようにみえた。これで中津川の教育が改善されたわけではない。その具体的のあらわれが、最近封切られた「夜明けへの道」という自主映画である。資金を持たないで中津川教育市民会議が自主的に作らせた映画であるだけに、父兄、先生のカンパでできた映画である。「うちの子がうつった、笑った、走った」と、素朴に喜ぶ父兄もいる。しかしそこを貫いている教育理念は、日教組理念であり綴方教育の延長線上にある。「教育の場に政治を持ちこむな」とは、日教組が常に口にする言葉であるが、この映画を見るかぎりに於ては、彼等の主張する政治理念が映画の中にふんだんに盛りこまれ、政治による教育の混乱が一そうはげしくなっていることはいなめない。・記録映画ではなく、傾向映画としサブタイトルを改めてはいかがであろう。」(恵陽1977.12.17、阿木寒子)

 

 また、坂本地区教育懇談会が市民向けに1000部印刷し(1977.12.17付で)配布したパンフレットでは次のように評す。

「「ナマの事実の持ち合わせがない他地区の人々、特に教師にとって中津川の自由な教育実践はきっと評価されるであろう。そのあまりにも自由すぎる教育実践に対しての親の不安と疑問は画面ではすべて打ち消されている。が製作に携わった教師はその過程で「親と教師が見事な合意のもとに素晴らしい教育を進めている」。これとは違う「市民の声」が決して少なくないこともよく承知されておられることと思う。」(小木曽1980,p221)」

「「父母なんかの要求は、いびつな中にもとにかく上の学校へ行かせたいという要望がある。本当に子供をしっかりした人間にするということは、ちょっとすじの違う要求が、手をかえ品をかえ表れると思う。教師はそれを乗り越えねばならない」

 これは画面に出てきた東京大学教授(当時)大田堯先生の言葉である。中津川の教育の歴史のなかで、太田(※ママ)教授がずっと以前から中津川の教育の指導的立場を果たされてきた人であることはよく知られている。はじめから賞讃する立場の人の、しかも「東大教授」という権威をたてに、親の願いを都会で問題になっている進学過熱にスリ替え、「すじの違う要求」として葬ろうとされている。映画を一時中断せしめた程の「市民の声」がこれでも大切にされているといえるのだろうか。」(同上、p227)

「今、問い直されるべきだという意見は結果的に少数意見であるかも知れない。しかし、中津川の学力水準はどうか、学校の特異の授業は、本当に子供のためになっているのか。これらは少くとも「地域」「綴り方」に優先して問われるべき義務教育の本質にふれるテーマである。これが新聞テレビであれ程とりあげられたことにより、多くの子をもつ親は、それを直接、教師に言うか言わないの違いはあっても、もうそこからそんなにたやすく目をそらしはしないと思われる。これこそ映画のもたらした大きな意義ではないだろうか。」(同上、p229)

 

 また、この映画上映にあたりもう一つ議論の種となる事態があった。地元市民向けの映画上映がこの時期なされたのとは別に、全国への普及向けの映画が別に作られていたという内容である。これは公開質問状という形で坂本地区教育懇談会が教育長になげかけ、三野、恵陽両新聞でも内容が取り上げられた(三野1978.4.2、恵陽掲載日未確認)。その映画に対する評は、恵陽新聞で次のように取り上げられた。

 

「一見して驚いたことは、内容が前回に上映されたものと全く異質のものとなってしまっていたことである。いままで父兄や教師の論議の中で教師達が、父兄の説得のために終始言いつづけてきた、いままでの中津川市の教育の点検という、映画作りの基本はその姿を全く消してしまい、とかく非難の多い、当市の綴方教育というものを、我田引水的な論理によって、合理化しようとし、つま先立の必死の背伸びとしか受けとれない映画となってしまっている。そこに何か教師達の心の底をみたようで、私は親達が子供の教育に対する心情を考えたとき、いきどおりと共になんともやりきれない暗い気持になった。

 余りにも、つくられた絵である。この映画の言わんとすることは、始めから終りまで、綴方教育の讃美であり、その上この教育こそがと自画自賛しその芽がいまこのようにでようとしていると、結論づけている。しかし、この映画の製作に当って始めにいった点検は全く姿を消し、父母、市民、教師の協力だとか、地域ぐるみの「子育て」の記録映画だといった基本的な製作姿勢は何処へいってしまったのだ。

 たとえば、昨年の十一月二十日の製作ニュースをふり返って見よう。「秋空の下撮影すすむ」の内で親と子、地域と子どもといった撮影に入ったと告げ父兄の歓心を買うような(現在ではそうとしかおもえない)記事を大見出しで載せているが、改訂版にはその片鱗すらみうけられない。

 この映画には教師諸君のいっていたような、中津川の教育の点検のための製作である、この映画をとおして、親も教師も、子供の教育を考えるすべの市民が明日の教育を考えるためとか中津川の教育の点検であるとか立派なことが言われて来たが、できあがったのは全く“うらはら”な教師達の現在の教育姿勢のどこが悪いのかという、ひらき直った態度さえ見える。父兄、市民への押しつけである。……

 この映画は市民の恵那の中津川の教育の点検という悲願を置きざりにして、私達の手のとどかぬところへいってしまった。」(恵陽1978.5.13、立石道郎)

 

 

・1978年3月 2度の学力テスト結果の公表

 

 小木曽のレビューでも渡辺教育長の反論として取り上げていた学力テストの結果であるが、中津川市立教育研究所「研究紀要 第8集」(1978)の中で確認ができた。これは国立教育研究所の「学力実態調査」と「学習到達度調査」という2つの学力調査結果として示されていた。

 この調査自体は極めて綿密に行ったように見えるものである。試験内容は国語と算数の基礎問題が出題されており、誤答分析も行い、その誤答の傾向も全題示している。

 ただ、気になる点もある。まず、この2つの調査の実施日である。中津川市における「学力実態調査」の実施日が1976年12月10日であり、「学習到達度調査」は1978年1月25日である。コロナウイルスの影響でまだ正確な裏が取れていないが、両調査とも、国立教育研究所が正式な調査として実施した時期よりも後に行っているらしいことがciniiの論文検索を見る限り確認できている。要するに、既出の学力調査について、(おそらくは国立教育研究所の許可を得て)中津川市の児童にも実施したというのがこの2つの学力調査である。

 また、具体的な調査方法については「研究紀要」では何も示されていないが、少なくとも悉皆調査としては行っていない。例えば、「学力実態調査」の方は小学5年生の調査人数は算数が251人、国語276人とされており、中学1年は数学が374人である(国語は未確認)。統計データを確認すると、1978年5月1日時点での中津川市立小学校在籍児童は合計5,197人、中学校在籍児童は合計2,528人であり、1学年800人前後は在籍児童がいるはずなのである。また、同じ日にやった割には小学5年生の算数と国語で実施人数がかなりずれている印象がある点も気になる。

 

 この2つの疑問は「恵陽新聞」の1978年6月3日号でも同じように取り上げられている。

 

「テストの方法が問題である。実施者が公平な第三者でなくて報告者自らのもので、自分が自分を、親が子をテストして公正なものであるというようなものであり、実施したクラスも無作為抽出とは書いていない。一番出来るクラスかも知れないしそのクラスだけ特訓もできるし、予め練習させておく事もできる。必ずしもそうだというのではないが、そう疑われてもしかたのないようなものを公表して市民を納得させうるだろうか。」(恵陽1978.6.3)

 

 これだけ見ると随分と偏見があるように見えなくもない。しかし、やはり基本的に学力低下が深刻なものであるということは当時の記事を見る限り、(小木曽の議論も含め)繰り返し、実証的に示されてきたところもあり、その事実に反するという前提があれば、このようなうがった見方も致し方がないかもしれないとも思える。

 例えば、小木曽も紹介し、岐阜県議会でも話題になったという高校進学模擬テストの経年比較において、中津川市も含んだ東濃地区は過去十年程度は低い基準にあったことが指摘されている(小木曽1980、p242)。新聞でも次のような記述があった。

 

「先日、岐阜日日新聞社が発表した模擬テストの結果は東濃人、とくに中津川、恵那地域の人々にとっては実にショッキングな発表だった。そのテストは県下六地区のうち東濃が最下位、しかも英語は一位の岐阜六一・四に対し三二・八。国語理科、社会といずれも最下位、平均点も岐阜の二七九・七に対し二二二・九という成績である。

 なにも成績のよいことばかりが万能ではないが、せめて平均点ぐらいはほしいものである。東濃の人間は県下で一番頭が悪いということも今まで聞いたことがないし、成績のよい若者も多数いた。それが近ごろなぜこんなに成績が悪くなったのか、教育者も父兄も、いや東濃の人々は真剣に考えなければならない。」(三野1977.2.20)

 

「高校教職員組合恵那支部の「落ちこぼれや非行は受験競争、つめ込み教育」というチラシが各戸に配布された。一読して、去る七月県議会で多治見市選出の古庄三六県議が「東濃は教育の谷間」という代表演説と、これを受けて県議会が「教育の正常化」決議を行ない、日の丸を掲げ君が代を歌おうと決めたことに対する反論とうけとれた

 学力は県下最低、非行は県下一、というあの古庄県議の演説は東濃ことに恵那地区の父兄にとってはまことにシヨツキングな問題提起であった。恵那の教育はこれでよいのか?と幾つかの新しい動きが始まったのも当然である。

 このチラシでは“学力は最低ではない”と国民教育研究所の資料をのせ、古庄県議の資料は一業者の結果だけで然かも受験率などが考慮されていないものだといっている。がたとえ一業者(新聞社)の資料とはいえ九年間も各課目とも最低とはいかにもなさけない

 非行についても「ある一時期の警察に摘発された万引だけを取りあげた」とし非行は恵那だけでなく全国的傾向だとのべている。が一時期にしろ県下一とは誠に遺憾であり等閑に付すべき問題ではない。政府や社会にも問題はあるが、みんなで責任をもち、謙虚に真剣に取り組みたいもの。」(三野1977.9.11)

 

 

・1980年9月・12月 中津川市議会

 

 小木曽(1980)の出版のインパクトが非常に大きかったことが当時の状況からわかる。三野・恵陽新聞でも紹介され、自費出版ながら発行部数は7月から3ヵ月で4,000部売れたという(1980年9月16日中津川市議会定例会議事録)。このうち3,300冊が中津川市で配られたものである。1980年の国勢調査によれば、中津川市の世帯数は14,502世帯(人口52,626人)となっていることから、4世帯につき1世帯近くが本書を手に取っていたという計算になる。9月の議会においても、本書に関連する一般質問が3人の議員からなされた。本書に対する評判については「この本がわずか3ヵ月で4,000部も売れ、その反響のほとんどがその内容を肯定し、この際改善を求める声が強く多いとすれば、議会の立場からもこれを看過するわけにはいかない重大な教育上の問題」(1980年9月16日、千村信四朗議員一般質問)、「これまで私が耳にした本の反響は、内容に対する共感の声が圧倒的に多いことです」(1980年9月16日、市岡廣議員一般質問)という形で好意的な意見が多数であったと述べられている。

 議会の質問内容としては学力低下、非行問題、映画の問題とその監督責任の議論が一通り語られるものの、9月の議会では特に真新しい議論があったとはいえなかった。ただし、12月の議会は少し事情が異なる。12月の議会で市岡廣議員は次のように発言している。

 

「まず質問の第1点は9月にも行いましたが、その関係もありまして少々くどいぞと言われるかもしれませんが、何としてももう一度渡辺教育長さんから明快な見解をいただきまして、毅然たる姿勢で問題に対処していただくため、あえてもう一度ここに取り上げることにしたものです。

 それは教育長さんの学校に対する管理、監督、指導に関するかかわりの問題であります。9月議会の折り、この主題の中で私は次のように渡辺教育長さんに対してご質問を申し上げました。それは学校を中心にいろんな活動が行われています。PTAの活動はもちろんのことですが、育てる会、母親連絡会、さらには新婦人の会などの活動がとりわけ私たちの目に触れております。学校を中心にしたPTA活動以外のこれらの活動は教育の職務を全うする上でどうしても必要な教育活動なのか、はたまた自主的な、任意的な組合活動としてあるのかとの問いかけをいたしまして、具体的な事例の一つとして特に育てる会の位置づけについて申し述べたところであります。さらに育てる会の通信文がいまもって子供たちを通じて各家庭に配布されている事実についても指摘いたしまして、こうした状況のもとでは学校の政治的中立性がないがしろにされる危険性がきわめて大きいと、危惧の念を申し上げてきたところであります。そうしてこれらに対して今後どのように指導をしていくのかをお聞きをしたわけです。

 渡辺教育長さんは私のこれら質問に対しまして、次のような見解を披瀝をされましたし、私自身もこのやりとりを通じてそれなりに理解をしてきたところであります。それによれば、まず育てる会などもろもろの諸団体は教師の本来の任務である教育実践としては異質なものであり、これらは民主団体といった位置づけにあること。この活動は民主団体の構成員の自主的な活動であるべきであり、この面では拘束時間外に活動すべきだ。明確にお答えをいただいたものです。さらに子供たちを通じて通信文を配布することについては決して望ましいことではないので、厳重に注意を申し上げ、これらけじめをつけるよう今後指導したい、このように答弁をいただいたわけであります。

 ……しかし再びこの壇上から同じような問題で質問を申し上げなければならないのはまことに残念だと言わなければなりません。皆さん、私の持っているこの新聞を見てください。この新聞は新日本婦人の会が発行しております新婦人新聞であります。ある特定な読者を対象に発行をされてる新聞であり、私がここでこの新聞を取り上げて話題にすることこそ奇異に感じられる方もおみえになると思いますが、この新聞をこの壇上で取り上げてどうこうするという気は私自身毛頭ありません。むしろ私がここで取り上げたのは9月議会で渡辺教育長さんからの明確な答弁にもかかわらずある特定の学校で、それも特定な先生を通じてまことに堂々とお母さんのもとに届けられたという事実を、この新聞を通して指摘をしたかったからであります。新聞の発行日付は1980年11月6日であります。私が9月議会で一般質問をいたしましたのは9月16日だったはずです。……この縦位置にはあて先のお母さんの名前が印刷をしてあります。その横には子供の学級名が、そして下には小さく子供の指名が印刷をしてあるわけです。発行のたびごとにこの帯封が印刷をされたのか、1度に何枚か印刷をされたのか、あて名書き謄写印刷機を使って書かれております。……まことに淡々と渡辺教育長さんのお達しなどどこ吹く風と、教育の第一線ではこんな事実がまかり通っていることです。これを見て私はある種の戦慄を覚えるものであります。」(1980年12月12日、市岡廣議員一般質問)

 

 さて、この議会後この問題が適切に指導され改善されたかというと、2度の議会質問を経てなお改善されていなかったようである。この点は恵陽新聞の小木曽尚寿の連載からも確認できる。

 

「その際渡辺教育長(当時)は、議会という公的な場で、その間違いを認められて「厳重な注意」を確約された。

 私達はこれでもう、こうした行為はいくらなんでもなくなると思っていた。

 ところがどうであろう。市内O小学校の一部の先生は、それ以後、今日まで(二月二十七日現在)機関紙は堂々と子供の親達に向けて配布されている。子供に持たせなければいいと思われてのことなのか、先生自らが親達に配っておられるケースもあるという。」(小木曽尚寿「先生授業の手を抜かないで 続」1985,p120)

 

 この動きを踏まえ、小木曽らは直接県や国に請願する署名活動を行っていたようである。後日別途考察するが、端的に教育委員会は現場の監督を行うようには機能していなかったというのは事実であり、むしろ共犯者的な立場にいたと言うしかない状況だったのである。

 

・1981年6月 渡辺春正教育長の辞任

 

 小木曽の本の出版により過熱傾向のあった教育問題の議論であったが、翌年渡辺教育長が自動車免許を更新しないまま運転(無免許運転)をした問題に対する責任問題から辞任をすることで、以降沈静化の傾向が確認できている。

 教育長の無免許運転の事件が4月7日にあり、その直後4月9日に「減給」処分が発表された。この対応の速さには「電光石火ともいうべき、早さで市も教育委員会も処分の処理をしたことである。」「この事は市民の中からこの事件を起爆点として新らしく当地の教育批判の出てくることを恐れて、市民の目をそらさせようとする意途があると、みることができるがひが目であろうか。」(恵陽1981.4.18、臼井清春)とのコメントもある。

 また、小木曽も次のように渡辺教育長の辞任をとらえている。

 

 

「ときあたかも、私どもの「小学校の政治的中立を求める請願」は県教委、文部省へ提出されている時期でもありました。中津川の教育の変革を願う市民、親の声は、ひしひしと先生の周りにも届いていたことと思います。

 先生が辞任を決意された動機は、ここにあったのではないでしょうか。

 先生が辞任にまで追いこんだのは一枚の免許証の有効期限なんかではなく、「特定政党支持」の機関紙を、先生が議会であれ程、追求されているのを百も承知で子供に持たせていた、心ない一部の現場の先生方の間違った行動である、そう思えてなりません。

 私がそっとしておけばいい先生の辞任の動機に敢てふれるのは、中津川市の教育を支配するこの間違った、教育と政治の癒着が許されていた時代は終った、そのことを、それを生甲斐としておられるような一部の先生に知ってほしい、ただそれだけの気持ちからです。

 先生がお辞めになったことだけで、中津川の教育の今、かかえているすべての問題が解決できる、とてもそんなふうにはならないと思います。……

 先生の辞任を機会に親達一人ひとりが学校とはなにをするところなのか、いまいちどそのことを真剣に考え直すきっかけとなることを期待して止みません。

 長い間、本当にご苦労様でした。今までの非礼の数々、心からお詫び申しあげペンをおきます。」(小木曽1985、p30-31及び恵陽1981.6.13)

 

(2020年5月20日追記)

※1 森田道雄の指摘によれば、1974年から発足したこの会議体は、112団体が構成団体であったとしており(森田道雄「続・教育行政の地方自治原則と市町村教育委員会」『福島大学教育学部論集』第31巻3号、1979,p18)、この数字が発足当時の数字と読んだとしても、報道と相当の乖離があることがわかる。これは学校数の数え方(例えばPTA連で1団体とするのか、各学校のPTAを構成団体とすることで多く数えているのか)によるのかもしれないが、この組織自体の定義付けの議論としては興味深い事実認識の相違である。

(2020年6月13日追記)

渡辺教育長が1979年に寄稿したもののなかにも構成団体が112とするものがある(藤岡貞彦編「講座 日本の学力4巻 教育計画」1979、p214)一方で、榊達雄の1980年の論文では118団体とされている(榊編「教育「正常化」政策と教育運動」1980、p23)。