斎藤喜博「第二期斎藤喜博全集 第1巻」(1983)

 今回は以前レビューしていた斎藤喜博を再度取り上げる。本書でメインになっているのは「授業論」であり、斎藤自身これまでそのような「授業論」が存在しなかったことを憂い、そのような「教授」に関する議論がもっと教師に読まれる必要性を感じて書いた内容の著書がメインとなっている。平たく読んでしまえばあたりまえのことを書いているようにも思えるが、確かに一見すると授業を行うために必要な観点について適切に捉えているように思える。「教師として志す者にとっての初歩が記載されている」程度のものとして考えるのであれば、必読と評してもよいように思える。

 

○教師に必要な素質とは?

 

 もっとも、本書を深読みしていった場合には色々と問題点が出てくる。

 本書でまず注目したいのは、専門職である教師が授業を行うために必要とされる素質についてである。言うまでもなく斎藤は単に知識を教える作業を教育と捉えるのではなく、「子どもに思考させる」ことが授業として必要であると考えている。本書を通じて斎藤の授業観には現象学的な着眼点が強く見受けられ、教室に在る教師と児童の相互行為として、またその場に身を賭ける主体があって初めて授業が成り立つものであると考えている(cf.p8-9)。ただ、これだけでは説明が足りない。教師と児童の関係はあくまでも非対称な存在でなければならないものであると斎藤は強調する。つまり、教師は教材に対して文字通り「精通」し、教材によりどのような議論が成り立ちうるかを十分に想定しつつ、その要となるものついて自らの考えとしてしっかりと押さえ、それを中心にして授業の中で議論を展開していく必要があると考えるのである。

 

 しかし、これらの要素で十分かと言われればそうであるとも斎藤は考えていない節がある。例えばp23-24のような言い方は「教師万能論」とでもいえるような言い方であるように見える。少なくとも「感性」のようなものを教師は十分に備える必要があるということだろう。P193-194にあるようにこれを端的に「人間の力」という表現もしている。そしてp221にあるように、常に真理や美に近づこうとする存在であることが求められる。

 そのためにp254-255のような、より直接的にはp317やp442のように「より広い世界の」「総合的」な力が求められることになるのである。いわば教師は狭い世界のみで物事を解釈するのではなく、より広い世界というものをよく理解し、それを形にして児童に教えていくことが求められているのである。

 

○斎藤の教師論は「何か」を教えることができるのか?

 ここではひとまず、この目標とされているものが無際限に要求されるような性質になってしまっていることは置いておこう。他にも問うべきことがいくつかあるからだ。

 まず、何より重要なのは、教師のこのような「教育」が、何のためになされているのか、という極めて初歩的な問いである。斎藤にとってこの答は簡単に出せる。P302にあるように、子どもの無限の可能性を「引き出す」ためにあるものである。しかし、これは実際のところ答えになっていない。斎藤の教育思想からは具体的な目的を示すことができないし、むしろそれでよいと考えている点をまず押さえねばならない。

 このことから直ちに出てくるのは具体的な「何か」を求めることそれ自体への否定である。以前レビューした70年代の無着成恭明星学園中の保護者の対峙が典型的な例であるが、何ら具体性を求めないことを善とみなす場合、当然具体的なものは悪であり、排除の対象となる。確かに斎藤はこのことを直接言及していないものの、p254やp403-404のように一方的に画一性を批判し、それを官僚的なものとして還元して語る態度には、この見方が反映されているし、波多野完治がp473で批判している点にも同じ傾向を見出すことができるように思える。科学を一面的な態度で批判し、そこに創造性が介する可能性を一切みず、それを「機械的」なものしてしか捉えないということは、言い換えれば「機械的にやるべきものは教育として必要がない」と言っているのと同じである。要するに(教師から見て)外的に求められるような教育内容(そしてそれが児童にとって「必ず獲得されなければならないもの」)というのは、簡単に排除可能な論理を斎藤も持ち合わせているのである。

 

 合わせて、間接的ではあるが全生研的な集団主義教育の議論を全否定している点も無視できない。これはこれまでのレビューで言えば矢野智司が典型であったが、善を強要する教育の立場は、模倣論として有効たりうる「悪」への目線さえも否定してしまうのである。全生研の前提はすでにレビューしたように、「理不尽な現実=悪」に対峙する主体形成を行うため、擬制的・意図的に「悪」の環境を教室(学校)内に作りだし、そのことを自覚し、立ち向かう力をつけていくことが目標とされていた。しかし、斎藤の議論からは、このような「現実」を見る態度はそもそもない。その「善」は、「善」の世界でのみ無敵であるが、その世界から外れること、外れてしまった存在に対する責任は一切取ろうとしないのである。これは矢野智司が教師と生徒の関係が「すでに存在している」ことを自明視し、その関係性が形成されない状態を全く考えようとしていなかったことと同じである。

 このような斎藤の「善」の議論においても、当然実践の場においては妥協が求められることになる。その妥協によって結果的に斎藤の「善」の理論は機能したことになるかもしれない。しかし、その妥協に対してどう捉え・実践すべきかは何も述べられていないため、その妥協が可能となるかどうかは偶然の産物(ないし教育実践者である教師の裁量)にしかならないのである。

 

○「教材」を教師は何故選べないのか?

 斎藤が「現実」を見る態度がないことは別の問題を生むことにもなる。それが「教材」に対する議論の中に見いだせる。本書では「教材」というのは教師が熟知している必要のあるものとされている。そうであるならば、直ちに問われるべきは、教師がその「教材」を自主的に選択することが何より大事なのではないのか、という点だろう。これは文科省(文部省)検定の教科書問題をめぐる議論ではあたりまえのように出てくる論点である。教員の自主的研究のためにも、国がそれを強要することは断じて行われるべきではない、とされるものである。斎藤の主張は一見このような検定教科書批判を全面的に支持するかのようにも思える。しかし、斎藤は(少なくとも本書では)全くこの論点に触れない。本当に教材の理解が重要であるなら、他者から強要される教材を用いるのが不都合であることは自明であるにも関わらず、である。

 何故斎藤はこれを問わないのか、類推は可能である。以前斎藤のレビューをした際に述べたが、斎藤は教員の学習態度を強調しようとするスタンスが根底にあると言える。そのような教員の態度を強調していることが阻害要因となっている可能性が考えられるのである。つまり、斎藤は他者がどうこうすることよりも、教師自身の問題に焦点化して論を進めるために、「教材」をめぐる問題を適切に捉えられていないと読めるということである。

 

 教師倫理の問題だけを強調してしまうとかえって実際的な問題解決を困難にしてしまう場合はありえる。特にp13-14の議論を適切に捉えないと教師責任論だけで全てを解決しようとする態度にもなりかねないように思える。この部分では、学校で与えることができる「教材」には限界があることが述べられる。良質の教材で教えることが良いに決まっているが、学校における「環境的」な要因によって、常に良い教材が使えるとは限らないため、教師は所与の教材を用いなければならないとされる。

 確かにここで主眼におかれている「環境的」とは、いわゆる教育の「内的事項・外的事項論」における「外的事項」を指しているもの、つまり教育環境のハード面の話(物的な教材)と推測はできる。しかし、斎藤はこの主張を普遍的なものとして捉えている傾向もあり、「内的事項」である教育内容についても教師は所与のものを引き受けるべきであると解釈しても、反論可能な主張を本書から見出すことはできないのである。先述した「何を教えるべきか」を具体化できない斎藤の議論からは、この教材についても具体的に議論を行わないことは当然の結果であるように思える。

 しかし、このことを更に飛躍させると、教師は他人によってあらかじめ決められた教材を一から学び、それを教えなければならない、という問題を抱えることになる。斎藤が教師の責務を強調するがゆえに、教師は無条件で(全力で)努力し、教材を体得していかなければならないのである。そしてそのような努力を怠るような教師は「形式的・官僚的」な教師というレッテルを貼り、批判を行うのである。見る人がみれば、極めてタチの悪い体制側の人間として斎藤の教育論は写ることになるし、それを斎藤が反論する材料を(少なくとも本書では)持ち合わせていない状態が問題なのである。斎藤の盲信的な「教師万能論」はかようにして曲解されうるのである。

 

○「無限の可能性」言説についてのメモ

 

 最後に新堀のレビューで考察した「無限の可能性」言説に対する議論について少し触れておきたい。本書ではいくつかの箇所で「無限の可能性」についての言及がある。新堀は「子ども性善説」を強調するための俗論として「無限の可能性」が語られると捉えていたが、実際の言説は「実態の批判」も多分に含んだ中でそれが語られていると私は指摘した。つまり、「純粋無垢な『無限の可能性』を子どもが持ち合わせている」という主張はタテマエであり、むしろその可能性を阻害しようとする実態に対し批判し、その対抗言説として「無限の可能性」が語られている、という見方が可能であるということである。

 これは本書における斎藤の言説においても似た傾向を見ることが可能である。確かに一見すると、斎藤の「無限の可能性」論は「善」性に支えられた素朴な楽観論であるようにも思える。P444のような部分を拾えば、そう読めるのである。

 しかし、p302の方はどうだろうか。これは、p292やp296の議論とも関連するため、こちら側の引用を持って解釈したほうがよりわかりやすい。斎藤は子どもの可能性が引き出せないことを、社会の責任とすることに対して否定的である。そして、子どもの可能性を引き出すことは、あくまでも教師の授業実践によって追求されるべき問題とみなされているのである。ここでもやはり「教師万能論」との関連で「無限の可能性」が語られ、現状の教師の批判をその言説に含んでいると読めるのである。形式的な授業を行う教師は子どもの可能性を引き出せない。だから創造的な授業を展開しなければならない。この論理の中に「無限の可能性」が組み込まれるのである。

 

 

<読書ノート>

※開かれているようで、閉じた世界における教育は、やはりそれだけで実際の社会を形作るものを無視してしまう。そうするとやはり「社会に役立つ人間づくり」に寄与するどころか、それを無視して、結果的にそこから排除されてしまう可能性さえ引き受けてしまう主体形成を行いかねない、という問題は常にあり得る。

 過去の全生研のような運動的側面をもつ教育はこれをいくらか緩和していただろう。しかしそれが剥がされたまま斎藤の教育論をそのままで受容することはそれだけで「危険」と見ることもできる。

P8「この学生も云っているように、授業は、教師の持っている概念的な既成の月並みな知識を、単に子どもに機械的・形式的にわからせるだけのものではない。そうではなく、対象である教材の中にある具体的で複雑な事実をもとにし、教師と子どもがいっしょになって追求し、発見したり、獲得したり、自分を変えていったりする作業である。そういう作業を通して、実感として主体的に学びとっていく作業である。

 したがってそういう授業においては、教師は、自分の持っている観念的な知識とか、自分の狭い過去の経験とかだけにたより、それを正しいものとして、教材とか子どもの事実とかに対してはならない。自分の観念的な知識とか経験とかを、そのまま教材や子どもの中に狭く持ち込み、あてはめていくようなことがあってはならない。」

※引用されている学生の話はここまで言っていないのだが。

P8-9「授業はそういうものではない。教師が自分の持っている固定的なものとか、概念的な知識とかを一方的に教えるのではなく、教師も子どもも、教材に対して自分の持っているものを、自分の主体をかけたものとして相互に出し合い、おたがいに吟味しあっていくものである。そういう作業の中で、おたがいにそれまでの自分の持っていたまちがった知識とか、狭く低い認識とかを変え、自分自身をそれまでとちがうものに変えていく仕事である。そういうことこそほんとうの学習であり、「わかった」ということである。

 授業がそういうものになったとき、子どもたちは、追求し学習していくことが、面白く楽しく豊かなのだということを実感として学ぶようになる。」

※これだけでは説明が足りない。それでもなお、教師が教材をもって真理に向かう取り組みがなければ成立しないし、教師の主観に対して何かを議論する必要はない。ここでいう双方向性はどこまでも部分的でなければならない。しかし、ここでの言い分は教師を卑下しすぎである。斎藤的なべき論ベースで考えた場合、教師が自信を持って選ぶ教材において「まちがった知識」「低く狭い認識」はないとは言わないまでも限りなくなきに近い。この言い分が正しいとすれば、教師が子どもにそのように引き出す際において、そしてその側面を特に強調する意味においてである。もっとも、斎藤はそれを自覚しているが。

 

P9「そういう授業では、特に教師の役割が大きなものになる。それは、学習の主体者は子どもであるけれども、子どもを学習の主体者として生き生きと活動させるためには、教師が積極的に授業の中心となり、授業の組織者・演出者となっていかなければならないからである。」

P11「創造的で追求的な授業は、教室全体が集中と緊張を持っているが、それは決して古めかしく堅苦しいものではなく、明るくリラックスしたものを持っている。教室全体が生き生きと流動しており、どこからでもよいものは受け入れるという開いた楽しい姿を持っている。これは、教室全体が真理を追求しているからであり、よいものはどこからでもとり入れて、自分を太らせ自分を変えていこうとする開いた姿勢を教師も子どもも持っているからである。」

P12「教師は自分の形式的で一方的な授業を守るために閉鎖的になっており、子どもは、形式的に教師に動かされているだけであり、少しも学習に興味を持っておらず、主体的に学習にとりくまされていないからである。

 そういう授業で、子どもが、子どもの中にひそんでいる。さまざまの豊かな可能性を表に引き出され、それをさらに拡大したり変えていったりすることなど不可能なことである。」

P13-14「したがって、それほどでもない教材でも授業をしなければならないことも多いのだが、そういう場合でも、対象である教材に対して教師が自分の問題を持ち、追求する課題を持ち、追求する意欲を自分自身の問題として持っていないかぎり授業はできない。

 教師が教材に対して自分の問題を持ち、疑問を持ち、もしくは教材の表面に表現されている以上に深く読みとったものを持っており、それらを持って子どもたちにぶつかっていったとき、授業はようやく開始されるのである。教師が、自分の持った問題とか疑問とか、自分の読みとりとかを、自分を掛けたものとして子どもの前に出したとき、それが引金となって、学級全体の子どものなかに波瀾を起し、一人一人の子どものなかに新しい考えをつくり出し、教師と子ども、子どもと子どもとの間に、対立や葛藤を起していくようになるからである。

 授業は、そのようになったとき成立したということができる。それは、教師の自分を賭けての問題提出を契機として、子どもたちにそれまで気づかなかったものを気づかせたり、それまで子どもが持っていたものをゆさぶったりし、子どもたちの主体をかけた考えを引き出し、それらを吟味にかけることができるからである。そうすることによって、子どもたちの考えを多様にしたり、いままでわからなかったことを「わかった」と思うようにしたり、難しいものを子どもたちのなかにつくり出したりすることができるからである。」

 

P15「そういう意味で授業は、教師の教材解釈の高さとか深さとか、立ち向かい方とかによってほとんどきまってしまうものである。教師が教材に対して自分の解釈を深く持ち、切実に自分の追求したい問題を持っているかどうかによって、ほとんど決定的に授業の質とか方向とかはきまってしまうものである。」

P23-24「それはまた逆に云えば、教師としての洞察力とか構成力とかを持っていれば、他の人間とか社会とか自然とか芸術作品とかにふれた場合も、その底にあるものを深く洞察し正しく把握していくことができるようになるわけである。普通では見えないようなものをみたり、普通より深くとらえたりしていくことができるようになるものである。」

P46-47「やはり教師は、授業をする前に、教材に対してさまざまの解釈をし、さまざまの疑問を持つようにしておかなければならない。子どもがどう読みとり、どういう疑問を持つかという予想も十分にしておかなければならない。……

 そういう手の込んだ仕事をしておいてはじめて、文章の具体につきながら発問したり、子どもに考えさせたり、子どもを追い込んだりしていくことはできるわけである。子どもと教材と、教師としての自分の考えとを結びながら、子どもといっしょに考えるような授業をしていくことができるわけである。」

 

P117「授業がこうなってしまったのは、一つは授業の核がないからである。この時間の授業の核になるところを、教材の具体に即して教師がはっきりと持っていなかったからである。またそのことにもつながるのだが、教師の教材の読みとりの弱さ不完全さからである。さらに教師の発問の悪さがあり、子どもの発言を整理していく力の弱さがある。

 発問と子どもの発言の整理についてだけ云っても、「そうしたふしぎなものに見とれていた」のところを、「ここ大事なとこだね、何に見とれていた」というあいまいな発問をしてしまっている。だから子どもからは「いろいろな形をした虫」「あひる」「自然にひかれる気持」などと根拠のない思いつきの発言が出てしまうことになる。

 また、そういう発言が出た場合は、「あひる」という発言を反ばくし発言の根拠をきいたり、「自然にひかれる気持」を、さらに突っ込んでみたりしなければならないはずだが、それもしていない。「虫はめずらしいから見とれるが、あひるはかってるものだからみとれない」は、大事な発言なのだが、これをとり上げるどころか、教師は否定してしまっている。

 これらはみな教師の教材研究の不足に原因があり、そこから出る子どもの発言の整理の仕方の不足に原因がある。授業がごたごたしたものになり混乱し、子どもが「わからん」というようになってしまうのも、みなそれらに原因がある。」

※よく考えると、これが「教材研究の不足」と断言してよいのか、という趣もある。それは問いの立て方(問いを深めようとする姿勢)の問題なだけではないのか。

 

P184-185「文学作品をそう考えた場合、この俳句も、「農苦」とか、「世代のちがう父子の断絶」と考えてもよいし、また、小学校のように「あたたかい雪」と考えてもよいことである。また降る雪を自分の思いをこめて父子がみていると考えてもよいことである。授業は、そういう生徒のさまざまな解釈とかイメージとかをもとにし、教師の解釈やイメージを加えながら、子どもたちの解釈とかイメージとかを、自由に高めひろげていくことができればよいからである。

 ただしその場合、教師がはっきりと自分の解釈やイメージを持っていることが必要になる。教師が自分の解釈やイメージをはっきりと、しかも多様にもっていることによって、子どもたちに豊かに問いかけ、子どもたちの多様な考えを引き出したり、子どもたちの考えを拡大したりすることができるからである。また、子どもたちの考えを反ばくすることによって、子どもたちの考えをさらに高めたり変えたりしていくことができるからである。」

☆P193「それはこの教頭の先生は、音楽の教師ではないから、合唱の指導の方法や技術は持っていなかった。しかしこの先生は、子どもたちが歌っている楽曲に対する解釈とかイメージとかは十分に持っていたのだった。そのため、子どもたちの表現の弱さがよくわかり、「まだだめ、まだだめ」と云っていたのだった。子どもたちもまた、さまざまに歌いなおし、その結果、自分たちの合唱をつくり変えていったのだった。教師の教材解釈とか教材に対して持っているイメージとかは、授業においてはこのように重要なものであり、授業を支配し授業の方向とか質とかを決定していくものである。

 しかし授業はそれだけでできるものではない。教師が教材に対しての解釈を持ち、イメージを持っていれば、それだけで授業がつくり出され、子どもの持っている可能性が引き出されていくなどというものではない。もしそうなら教師という専門家など必要でなくなってしまう。教材に対する深い解釈とかイメージとかを持っている人なら、だれでも授業という仕事が簡単にできることになってしまう。

 授業はそういうものではない。やはり授業は一つの専門的な仕事であり、専門の教師の力によってつくり出されていくものである。専門の力量を持った教師が、学校という力をつかい、授業という仕事の持っている本質的な力をつかっていったとき、はじめて、すべての子どもたちは、自分の力を引き出したり、そのときどきに自分を新しくつくり変えたりするようになっていくのである。」

※この主張はこの前段の教授論とどう関連しているのかは重要な問題となる。一応単行本というくくりで連続性が認められるが、他方で雑誌掲載部分と書き下ろし部分という違いがある。ここでいう「解釈」とは、本当にp46-47やp184-185でいう「解釈」の話と同じことを言っているのか??

 

P193-194「そう考えたときまず第一に必要なことは、教師の人間の力である。教師の力量とか人間性とかが豊かであればあるほど、授業は豊かになり子どもたちも豊かになっていくからである。人間的に貧しい教師からは、貧しい授業や子どもしか生まれないのであり、豊かな授業とか豊かな子どもとかは、必ず豊かな教師から生まれてくるからである。

 それは、人間的に豊かで力量のある教師は、教室に立っているだけでも子どもたちに豊かなものを与えていくからである。また教材に対する解釈とかイメージとかも、豊かなものを持っており、しかも、子どもたちの事実に即応し対応しながら、自分のそれまでに持っていた解釈とかイメージとかを、さらにふくらませたり変更していったりする力を持っているからである。また、子どもたちの事実を、一方的に固定的にみて限定してしまうのではなく、子どもたちの出す事実を拡大したり、子どもたちの表現の底にあるより深い真実を見ぬいて表面に引き出す力を持っていたりするからである。」

P195「教師が教材を解釈し教材へのイメージを持つということは、決して単なる一般教養としての解釈とかイメージとかではない。単に楽譜が一般的に読め、国語教材の語句の意味がわかり、数学の教材の答えが出せるということではない。それは一般教養としてとうぜんわかっていなければならないことであり、そういうものが常識としてわかっている上に、それぞれの教材に表現されているものはもちろん、その底にあるものまでも読みとり、自分なりの解釈なりイメージなり課題なりを持つということである。」

P195「授業は教師がそういうものを持ち、自分の持った解釈なりイメージなり課題なりを、子どもたちの前に投げ出し、子どもたちといっしょに考え追求していったとき成立するものである。したがって、教師でなくとも誰でも、一般的な教養としてとうぜん持っていなければならないももだけを持って授業にのぞんだのでは、授業は常識的なものになり、子どもも常識的で通俗的な考えしか出さなくなるのはとうぜんのことである。まして一般的な解釈さえできないとすれば、授業が雑なものになり形式的なものになってしまうのはとうぜんのことである。

 教師の人間の力とか、力量とかは、一人の人間としての力であり力量であるとともに、このような教材への深い解釈とかイメージとか、追求力とかのふくまれているものである。そういうものをもった教師が、教室にのぞみ授業にのぞんだとき、授業は豊かなものになり、生き動いたものになり、子どもたちもそういう授業のなかで、心を開いて自分を出し、自分をつくり変えたり自分を豊かにしていったりするのである。」

※この部分を読む限り、教頭の事例における「解釈」はその前で議論していた「解釈」とは違うものである。

 

P197「そういう意味(※技術、技能は人間性によるものという意味)では、教育の場での技術とか技能とかは、まったく個性的なものであり、その人間なりその人間のやる授業なりから切り離して考えることはできないということも云える。技能はともかくとして、技術は、そのなかに一般化せる原則なり法則なりをふくんでいるものであるが、教育の仕事の場合は、そのようにわりきってしまうことのできないところもある。技能はもちろん、技術もまた、授業が質の高いところへ行けば行くほど、その人間にくっているものになり、その人間の内容とか力とかによって、生きたものになったり死んだものになったりするということも云えることである。」

※技術、技能が何を指しているかわからないが、例として「合唱の指導」における「右手を前に出す」ことが挙げられる(p197)。これは「子どもたちにイメージを伝えたり、身体の使い方を伝えたりしてく」手段の一つとして用いているという。

P199「それは教師の使う技術とか技能とかは、あるきまったものを、そのまま教えるためのものではなく、子どもが本来もっている力を引き出し別のものにしていくためのものだからである。したがって一つのものだけを示すのでなく、教師が自分の内面にあるものを、身体や言葉のすべてを使ってさまざまに表現すればするほど、子どもたちはそれをみて、自分の内部にあるそれぞれのものを豊かに引き出し拡大していくのである。

 そう考えたとき、教師のつかう技術とか技能とかは、どんな場合でも一方的にあるのでなく、相手の事実にしたがって、つくり出されたり使われたりしなければならないということになる。」

P200-201「技術とか技能とかを使う場合、教師の感覚ということも非常に重要なことになる。技術とか技能とかは、もともと実戦での事実経験と、事実のなかにある論理的なものとが綜合され結晶されてつくり出されたものである。したがってそうおう技術とか技能とかを使う場合は、教師の感覚とか直感とかが非常に大切なものとなってくる。」

P204「四番目に授業として気をつけなければならないことは、選択し省略していくということである。授業全体をとおして教材の内容を選択し単純化し授業を明確なものにしていかなければならないのだが、そのためにはまず子どもの発言を選択し省略していくことが必要になる。

 子どもたちは、教師の触発とか他の子どもの発言とかを契機にして、自分のなかにあるさまざまなものを出してくるのだが、それらのすべてを取り上げ問題にしていったのでは授業はごたごたしたものになり、平板でとりとめのないものになってしまう。したがって教師は、子どもたちのさまざまな発言のなかから、授業で発展していくための重要なものを選び出し、幾つかの問題にしぼって追求させていくということが必要になる。」

※以上「授業と教材解釈」(1975)

 

P221「教師の創造力は、教師が絶えず知的発見の喜びにひたり、自分を成長させていっているかどうかによってきまってしまうものである。教師が一人の人間として、より高い真理とか美とかに対してあこがれを持ち、より深く高く近づこうとして、具体的に追求していっているかどうかによってきまってしまうものである。」

P222-223「そう考えると、授業においては、はじめから客観的なものとか一般的なものなどないのである。教師と子どものそれまで蓄積した知識や経験や創造力を、エンジン全開に活動させ、そのときどきの対象である事実を打ち破り、事実を新しくつくり出していくことがあるだけである。しかもその場合、教師の知識とか経験とかから出た創造力が豊かであるかどうかが、授業を創造的なものにするかどうかのわかれ目となる。」

P226-227「教師が子どもの事実をよく見ることによって、適切な方法とか技術とかはつくり出され、ほとんどの子どもが自分を引き出す障害となっているものを除去し、気持よく自分を表現し、自分を新しくつくり出していくことができるようになるものである。

 そういう意味では、へんに規範を示したり、一般的な説明などすることをやめて、子どもの事実を観察し、そのなかからよいものや悪いものを発見し、全体のなかに問題を提示し、新しい事実をつくり出していくようにすべきである。そういうことこそ授業での創造ということであり、そういうことこそ、子どもが自分をつくり出すことを補助する教師の仕事である。子どもの持っているものを引き出し、子どもが自ら自分をつくり出していく作業を補助し育てるという教育の仕事である。

 そのためにまず教師は、一度、いっさいの説明とか規範を示すこととかをやめてみるとよい。いっさいの説明とか規範を示すこととかをやめ、子どもに発言させ行動させるための工夫をし、そこに表現されている事実をみつめ、事実にしたがって方法を考えるという努力をしてみるとよい。

 そういう努力をすることによって、一つでも子どもの事実がわかったら、教師はまたそこから学び、つぎの方法を考えていけばよいわけである。それこそ事実にしたがっての創造的な仕事なのであり、そういう努力を積み上げていったとき、教師も子どもも、事実は無限に豊かなものを持っており、無限に発展していくものであることを知るようになる。創造的な授業は、一回限りの完結のないものだということも知るようになる。」

 

P235「そう考えないで、学級集団とか学習集団とかを絶対的なものとし、学級集団とか学習集団とかをつくることを目的とするようなことがもしあるとすれば、それは本末顛倒であり、おそろしいことである。目的とした学級集団とか学習集団とかが、もしまちがっていた場合は大へんなことになるからである。また、固定的な学級集団とか学習集団とかを目的として、そこへ全員を向かわせるというやり方では、創造は生れないどころか、「ボロ班」などという蔑視と制裁が生れるだけだからである。」

※全生研の議論は曲解することしかできない言い方。「ボロ班」という言い方そのものを認めていない。

P237「授業を構成し、授業を創造的なものにしていく起爆剤となるものは、教師の技術であり、とくに教師の発問とか説明とかである。教師のすぐれた発問とか説明とかが、子どもの思考や発言をうながし、表現させ、それらを関係させ合わせることによって、一人一人の子どもや学級全体のなかに、活潑に新しい課題をつくり出し、全員をその課題に向って追求させていくようになるからである。」

※ここでは技術を「ツール」のようなものではなく、抽象的な発問の仕方に求める。

 

☆p253「そういう意味で教育の仕事、授業をつくり出す仕事は極めて創造的なものだということができる。教育の仕事、授業の仕事は、日常生活そのままではなく、日常生活を否定していくところに意味があるからである。それまでの固定的・概念的な知識を一方的に教え込もうとするのではなく、子どもの持っている固定的・概念的なにせの知識を打ち破ったり、いままで意識しなかったものを発見させたり、新しい疑問や課題をつくり出させたりしていくものだからである。」

※このような態度は「何が必要か?」を問えるのかどうか。

P254「こうなっている原因の一つは、一般的にいままでの多くの教師が、形式的な仕事をしたり、またさせられたりしてきたことにある。教育の仕事、授業の仕事を、創造的なものとし、つくり出す仕事としないで、一方的に教え込み、その結果を子どもの責任として評価するだけの事務的官僚的な仕事をしてきたことにある。」

P254-255「もちろんそればかりではないにちがいない。教師が教育の仕事しか知らない。しかしそれもほんとうには知らないとか、自分の専門を持っていないとか、他の芸術文化に深くかかわっていないとか、交友の範囲が狭いとか、さまざまの原因が他にもあるかも知れない。しかし直接に何よりも大きな原因は、事実にしたがって自分の独創的な仕事をつくり出し、実践によって自分を高め自分をつくり出していないところにある。」

☆P256「数年前のことであったが、全国教育研究所連盟の調査で、授業についていける子どもは五十パーセントしかいないということが質問を受けた教師の大半から出たと報告され、新聞などでも騒がれたことがあった。しかし私にはそうは考えられない。固定した知識だけを一方的に教え込み、その結果だけで人間を差別し選別しているような授業をしていればそういうこともあるかもしれないが、まっとうな授業をしていればそんなことはない。」

※「そもそも目標設定が違うだろう」という批判で終わりかねない。

 

P264「したがって授業は、子どもの可能性を引き出しつくり出すような創造的なものになっていかなければならない。そういう本質的な授業をつくり出さないで、形式的な授業によって、子どもの卑俗な名誉心や競争心や、子どもの恐怖心をつかって勉強させるようなことがあるとすれば、それは授業とは云えないものであり、そういう授業によっては、子どもの可能性を引き出すどころか、子どもを一つの型にはめ、子どもの可能性を押しつぶし、子どもに差別感や劣等感や反抗心を持たせてしまうだけである。」

※やはり全生研的な価値観は全否定にしかならない。

 

P292「そう考えると、とうぜんのことだが、政治の問題も社会の問題も、すべての教育が引き受け教育が責任を持つなどということはできない。それと同時に、社会や政治が悪いから教育の仕事によって子どもの可能性を引き出すことは不可能だなどと考えることもできない。

 いまの社会に生きている教師は、そう考えて、教師の仕事を狭く限定し、質をとり出していったとき、教師としての責任をはたすことができるわけである。教育という仕事によって、いままでの概念とはちがう、豊かに開かれた子どもたちは生み出され、いまの社会情勢のなかでも、子どもたちはこんなにもすぐれたものをもっているのだという事実を示すことができるのである。そのことによって世のなかの考え方を変えていく力とすることもできるのである。」

P294-295「教育の仕事は、教師や教育研究者が、精神の飢えを感じることによってつくり出されていくものである。絶えず自分自身や対象である子どもたちの現実に対して飢えを感じ、そこから抜け出そうとして、何かを求めつづけることによって、はじめて創造は生まれるからである。飢えを感じないということは、現状に満足し停滞し固着していることであり、自分や対象の現実に鈍感になっていることである。これでは創造的な教育の仕事などおよそ関係のないところにいるわけであり、子どもを固着させ停滞させてしまうだけである。」

※どうしても斎藤の議論はこのような精神論を無視できない。しかしこの主張は誇張である。

P296「終末的状況にある日本の現実のなかで、教師としてできることがあるとすれば、すべての子どもの持っている可能性を引き出すような質の授業をつくり出す以外にない。また教育研究者も、他のすべてを捨ててでも、授業という現実のなかに深くはいり込み、質の高い授業をつくり出す支えとなる。実践的な教授学をつくり出す以外に道はない。

 子どもたちはどれだけのものを持っているのか、子どもたちの可能性はどれだけ開花していくのか、私の見た経験においては、まったく無限である。それは学校なり教師なりの力が高まれば高まるほど子どもたちは不思議なほどにすばらしい力を出してくるからである。学校教育においては、すべてが学校や教師の力量にかかり授業の質にかかっていることである。」

 

P302「どの子どももが「無限の可能性」を持っているということは、信念とか希望とかいうことではなく、動かすことのできない事実である。すでに多くの研究者も実践者も、各地のすぐれた実践のなかで、目を見はらされるような事実を数多く見せつけられ ていることである。

 しかし子どもたちの持っている無限の可能性は、表面に現れているものではないし、また固定しているものではない。子どもたちの心の奥深くにひそんでいるものである。したがって学校教育においては、子どもたちの心の奥深くにひそんでいる可能性を、教師の授業という作業によって触発し引き出していかなければならないものである。

 そういう作業は、多くの場合、子どもたちが社会の影響を受けて持っている。通俗的なものとか形式的なものとか常識的なものとかを否定し、深部にあるよいものを見つけ出すことによって可能になる。教師が、教材の本質とか、教師として持っているものとか、子どもの発言や行動をもとにしながら、子どもたちの表面にある通俗的なものとかを否定し、別のものを引き出していったとき、子どもたちは、それまで持っていた通俗的なものとか形式的なものとかを自ら否定し、自分のなかにある本質的なものを生き生きと表に出してくるからである。

 子どもたちは、どの子どもでも、深部に必ずよいものを持っている。そういう子どもたちの持っているものを触発して表に出させ、それを見つけ、どんな小さなものでもとらえ、細い糸をたぐるようにして引き出していくのが教師の仕事であり、子どもたちの可能性を引き出す授業の中核となるものである。そういう仕事が授業のなかで意識的に集中的に行われないとしたら、それは授業とは云えないものである。」

 

P305「子どもたちは、直接的に本能的に、よいものと悪いものを感じとる力を持っているし、また、よりよい方向に自分を前進させていきたいというねがいを持っている。それはどの子の場合も、どんな姿になっておる子どもの場合も同じである。」

☆P306「そういう意味で授業は、どこまでも教師が中心になり、教師が子どもを触発したり子どもの事実に向って具体的に手入れをしたりしていくのである。そのための教師の力とか技術とかを必要とするものである。そういう教師の作業をぬきにして、一方的に一般的な知識だけを羅列的・網羅的に教え込んだり、自主学習などと云って、低い次元での学習を子どもたちにさせているのは、子どもの可能性を引き出しつくり出す授業とは本質的にちがうものであり、授業とは云えないものだと考えてもよいことである。

 授業とはどこまでも教師の具体的な作業であり、対象である子どもたちの事実を動かし事実を変えていかなければならないものである。事実を動かすことによって一人一人の子どもにも、学級全体の子どもにも、また学校全体の子どもにも、事実はわかるものであり、一人一人の可能性も無限であり無限に引き出され変っていくものだということを学ばせていかなければならないものである。」

※この前提は、斎藤の著書全体でぶれていない。

 

P312「したがって授業においては、子どもたちが心をひらいて、さまざまの自分の考えを言葉なり行動なりで表現するようにさせるこが基礎になるが、それらをすべてとり上げていくことはできない。子どもたちの発言をすべてとり上げることが平等であり民主主義であり子どもを大切にするなどというものではない。子どもたちが自分の主体をかけて出すさまざまの表現のなかから、必要なものの幾つかを選び出し、学級のなかに新しいものがつくり出され、その結果として他の全体も生きるように組織し構成していくことである。」

※この主張は、直ちに「それが可能なのか?」という問いを想起せざるを得ない。

☆P317「ついで問題となることは、教師の持っている綜合的な力の不足である。授業をつくり出していく仕事、授業を構成していく仕事は、極めて創造的なものであり、創造的な仕事は、事実を対象にし、事実を媒介にしながら、その人間の持っている綜合的な力をつかっていったとき、はじめて可能になることなのだが、教師が一般的に綜合的な力においてやせているということである。

 教師の綜合的な力とは、物を見る目であり、人間を理解する力であり、教材を深く解釈し、そのなかから新しいものを発見する力であり、事物や人間の相互の関係のなかから新しいものを見出し創造していく力であり、また他の事物や人間とやわらかく対応できる力である。さらに云えば、単に教師という狭い世界だけでなく、学問とか芸術とか人間とかの、より広い世界に教師が住んでいるということである。

 授業を組織する仕事は、単なる技術的なものではないから、そうおう綜合的な力を教師が持っていたとき、はじめて授業は豊かに組織され構成されていくようになるのである。」

※結局こういう主張が出てくるし、こういう結論でないと斎藤の議論は擁護できない。しかしこれは極端に「なんでも教育する」態度と結びついてしまっている。

 

P371「そういう体育の授業を考える場合、見落としてはならないことは、教師の美意識とか美観とかの問題である。教師の仕事はどの教科の場合でも、教師の美意識に支えられ、教師の人間観とか倫理観とかに支えられて成り立つものだが、体育の授業においてはとくに教師の持っている美意識が重要な問題となる。……

 子どもたちの行動をみる場合、旧軍隊のドイツ式の歩き方とか、ヒットラーの親衛隊の歩き方をも美しいとする教師があるとすれば、その教師の指導する行進はそうなってしまうにちがいない。しかしそれらは美しいどころか、みにくいものであり滑稽なものであり、没個性的なものである。

 そういうものは否定されなければならないものである。そうでなくても子どもたち一人一人が、自分の持っている内容を、また行進のなかで新しくつくり出された内容を、一人一人が個性的に表現し、しかも全体が一つの統一を持ち個性を持ち豊かな表現を持っているものをこそ美しいとしなければならないことである。」

※美的感覚に善悪を結びつける発想はそもそもがおかしい。

P384「しかしこの場合の技術は、単に教師が一つの知識を一方的に子どもに教え込むための型にはまった技術ではない。どのようにして子どもが本来持っている力を引き出し拡大し別のものにしているかを目的にしているものである。

 したがって授業での教師の指導の技術は、絶えず教師の人間とか、具体的な子どもへのねがいとか、教材とか、子どもの現実とかにしたがってあるものであり、つくり出されたり使われたりしていくものである。決して子どもを一つの型に入れるためにあるものではなく、教材とか子どもの事実とかにしたがって、そのときどきに流動し、生きて働くものとなっていなければならないものである。」

P385「教師の指導技術には、そういう芸術的とも云えるものが非常に多い。もちろんそうではない職人的技術、一般的技術とも云えるものも多いがそれだけではない。また職人的な技術であり、誰にでもできるような一般的技術の場合でも、それだけが独立してあるのではなく、教師の人間の力とか、洞察力とか、芸術的な感覚とかが、大なり小なりくっついており、それなくしては生きた働きをしないのが教師の技術である。」

☆p386「こう考えてくると、教師の技術は大へん人間的なものであり、教師の人間にくっつき、教師の人間から生れてくるももだということができる。しかも授業という事実のなかで、そのときどきのクラス全体なり、一人一人の子どもの事実なりにつきながら、新しくつくり出されてくるものだということになる。

 ところが教育の世界では、そういう人間的であり芸術的とも云える教師の技術にほとんど関心がなかった。それはいままで、教育実践においても教育研究においても、そういう技術を必要とするような実践が考えられなかったからであり、一般的な形式的な授業が授業だと思われ、それでよいとしていたことが多かったからである。

 しかしどの子どももが、どんなにすばらしいものを持っており、どんなに成長したいとねがっているかを知れば知るほど、教師は、どんなにでもして子どもをよくすることを考えなければならないことである。とくに、そのために役立つ生きた技術を学び、つくり出し、自分のものとして持ち、それを専門家としての力量としていかなければならないことである。そういう力を持っていないかぎり、専門家とは云えないのであり授業は成立しないのだと考えなければならないことである。」

※この主張の是非は大いに議論されねばならない。

 

P394「しかしそのような力を持つためには教師は、単に教材とか授業とかにおいても追求創造の体験をするだけでなく、他の学問とか芸術とかの世界での追求創造の体験を持っていることが必要になる。そういうものを持っていたとき、教材の本質を教材全体から直観的にとらえたり、教材に表現されている部分から、その底にあるものを深くさぐっていったりすることができるのである。」

P403-404「教師の仕事は、医師の仕事に非常に似ている。複数にいる子どもの状況を、その深部にあるものまで確実に把握し、それに働きかけ手入れをすることによって、一人一人の持っている可能性を引き出し、子どもの成長を十全に助けていかなければならないものである。

 そういう力を持っているとき、教師ははじめて専門家と言える。しかし現在の日本の教師は、そういう力を持つような訓練を受けていないし、訓練を受ける場も持っていない。そうなっているのは、日本の教師や教育研究者にもちろん責任があるが、それ以上に、教育界とか教育行政とかに大きな責任があると言ってもよい。

 日本の今までの教育界や教育行政は、教師の専門的な力量によって、子どもの可能性を画然と引き出し花咲かせるような仕事よりも、画一的で形式的な仕事をのみ要請しつづけて来たからである。創造的な教育の仕事をすることによって、どの子どもをも生かし成長させるなどということよりも、ただひたすら、画一的で無難な仕事をのぞんで来たからである。

 そういう世界では、専門家としての力量を持った教師など必要はない。専門家としての教師を育てなかったのも、また育たなかったのもとうぜんのことである。」

 

P442「またそれは、とうぜんのことであるが、豊かな創造的な授業をつくり出すためには、どうしても、教師が豊かな人間になっていなくてはならない。さらに、みがかれた感覚を持っていることが必要になるし、教師としての、生きて働く技術とか技能とかを持っていることも必要である。そういうものがあったとき、いっそう創造的で楽しい、深い授業も生れてくるのである。

 もちろんそういうものは、授業という実践をしていくうちにもつくられていくものだが、それだけでは狭いものになる。やはり他の広い分野の、すぐれたものから基礎的なものを学んだり、自己訓練をしていったりすることが、どうしても必要になる。」

※当然の要求をここでしてしまってよいものか?

P444「無限の可能性を内に秘めている子どもたちのなかから、新しい形を生み出し、つくり出すということは、一つの冒険であり、創造である。ときには何の新しい形もつくり出し生み出すことができないということも覚悟しなくてはならない。……

 もともと無限の可能性とは、現実の事実として表に出てみないかぎり、どういう可能性があるかは、だれにもわからないものである。これは個人においても、クラスとか学校全体とかの集団の場合も同じである。」

※そういえば、「いかに可能性が引き出せたか」という実例の提示は一切ない。観念論でしかない。

P462「子どもたちは、自分を未熟な教師だと感じ、子どもたちに申しわけないと思っている教師に、人間的に引きつけられるのである。またなんとか力のある教師になろうとして、必死になってさまざまの勉強をし、子どもたちからも真剣に学びとろうとしている教師に、学ぶ人間としての共感を持つのである。そしてそういう教師に親しみを感じ、その教師を応援しようとさえするのである。」

※なぜこのような子どもの心理を先回りして理解できるのか??問われるべきはここに「無関心である」という可能性が配慮されないのはなぜか、という点である。すでに教師と児童の関係性が確定してしまっているのはなぜか、という点である。やはり、このような観点は中学校以降には基本的に想定し難いように思える。

 

P473以下、波多野完治の解説…「しかし、斎藤の教授学には反面、欠点もある。この欠点は、斎藤の授業実践にはないもので、つまり斎藤の「理論」の欠点であり、理論と実践とのワレ目に生じたものであるから、生前斎藤がこれを知ったならば、かえってよろこんだのではないか、とおもわれる。

 それは、斎藤が「科学」という概念で、機械的な、反復可能なものだけを考えていたらしい、ということである。」

☆p474「わたしは、斎藤がまちがった、というのはここである。斎藤は、教育科学とは一般化をするのが目的だ、とおもっている。

 教育科学の中には、もちろん、そういう作業目的もある。しかし、それは、教育科学の中の、いわば副次目的である。これをかりに「実験的目的」とよぶならば、そういう目的は、十九世紀科学目的である。授業の科学は、そういうやり方だけでは可能でない。

 実験的目的の外に、「歴史科学的目的」というものがあり、授業に際しては、この方が大切なのだ。斎藤が「授業入門」の中で、「授業は一つ一つみなちがった創造的ないとなみだ」といった、そちらの方の「科学」である。斎藤は、これを「科学」とは考えなかったらしい。」

※ある意味でこの批判は斎藤の理論の根本的な批判点であり、至極正しい。ただ、より正確には、「一般的」であることを不用意に批判しかできないのが斎藤の理論の根本欠陥なのである。この事実を斎藤が知ったとしても、修正できたかは極めて疑わしい。

板倉章「黄禍論と日本人」(2013)

 今回は、西尾のレビューで取り上げた「黄禍論」についての本である。

 本書は19世紀から20世紀にかけて、中国人・日本人の海外への進出について、特に「人の多さ」をもって支配されるのではないのか、という議論にはじまる「黄禍論」について、諷刺画を中心にしてその受容のされ方を考察したものである。

 まず、新書であるにも関わらず、この諷刺画の紹介があまりにも豊富なことに驚いた。特に黄禍論はドイツの皇帝であったヴィルヘルム二世による絵画というのが一つ重要性を持っているが、この絵画のパロディとしての諷刺画があまりにも多く描かれていたことがわかる。本書の副題は「欧米は何を嘲笑し、恐れたのか」であるが、基本的に本書がとらえる黄禍論というのは、「まともに取り合う必要のないもの」として嘲笑の対象とされている傾向の強いものであったといえる(これは諷刺画そのものの性質であるから、ともいえようが)。

 

○「ドイツ人は内省的である」は正しいのか?

 

 西尾は特にドイツ人について、他国のことを気にしながら恐怖感を自覚するようなことはなく、あくまで自らの文明のなかにそれを見出すことができるものだと断言していた(西尾2012,p140)。しかし、本書でも中心的な位置にいるヴィルヘルム二世の思想は極めて典型的な「他者との比較」をしたがる思想であることははっきりしている。結局ヴィルヘルム二世は中国・日本を脅威として捉え、ヨーロッパが連帯する必要性をしつこく述べ続け、それがしばしば西欧至上主義的・差別主義的な観点から語られ続けたこと、そしてそれがほとんど被害妄想としてしか語られていない傾向があったことがあったがゆえに「嘲笑」の対象にもなったといえる。

 確かに被害妄想の激しいヴィルヘルム二世は一般的なドイツ人とみなすにはあまりにも例外的である(※1)から、西尾の議論の批判にならない、という言い方は正しい点がある。しかし、特に目を向けなければならないのは、一つにヴィルヘルム二世が「ドイツ人を代表する」立場にいた人間であって、その影響力を考慮するのであれば、簡単に例外として取り扱われるべきではないということ、そしてもう一つは、西尾の議論の根幹にある「文明の変わらなさ」こそが、このような奇怪な思考の持ち主を「皇帝」としたという見方も成り立つのであり、ドイツ文明(文化)の産物として無視する訳にはいかないだろうという点である。特に「社会問題」という枠組みで考えるならば、「一般大衆」であることと「例外的」であることは別物であり、「例外的」であるものこそ「社会問題」の対象とされ、しばしばそれがあたかも国民性の本質であるかのように語られる言説があることは私のレビューの中で繰り返し述べてきた訳だが、そのような観点からしても、安易に例外処理として排除する訳にもいかないように思えるのである(結局、西尾も基本的にはこの間違いがちな「社会問題」のフレームで日本人全般のことを語っているように見える)。

 もちろん、例外をヴィルヘルム二世だけに見いだせる訳ではない。黄禍論に関する著書としては古典となるハインツ・ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か」では、ドイツ人の歴史家アルプレヒト・ヴィルトの発言として、次のようなものを紹介している。

 

「ドイツ人というのは、いつまでたってもすぐに感動する民族である。ちょっと強い印象を受けただけでもう仰天してしまう。そしてわれに返ったときには、祖国ばかりかヨーロッパ中があやうくなってしまっているのだ。はじめはユダヤ人が世界を飲みこんでしまうのを見た。それから次はアングロサクソンが世界を征服した。するとその合間をぬって黄色人種の脅威が出現し、ヨーロッパ中が苦力と仏教徒で埋もれてしまうなどと予言するものさえいた。つまりわれわれは、おびただしい数の中国人におびえたり、日本人がつくったマッチ棒の経済効果にまゆをひそめたりしたものだ。」(ハインツ・ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か」(1962=1999),p194)

 

 もちろん、このような言説自体に意味があるとは私は思っていない。問題なのは、この主張がいかなる根拠に基づいて語られているのかの一点に尽きる。ここでの「民族性」は他の民族と比較してそう述べているものなのか、という点も含めて、何も参照点のない文字通りの「主観論」でしかないままに、このような国民性の主張がなされてしまっていることが問題なのである。そして、西尾の議論というのも、この域からほどんど抜け出せていないのに等しいのである。

 

○「日本人は他者の眼を気にする」は正しいのか?

 一方で、黄禍論周辺において日本が取り上げられる際にしばしば述べられているのは、日本の指導者層が他国の黄禍論の動向に対して極めて敏感であり、その影響を強く受けていたという点である。これは欧米の指導者層の立場とは対照的に語られもする。本書ではp72,p99-100,p189にあるような記述である。

 何故このような態度の違いが認められるのか。この説明の際にはp72のような議論のされ方がなされる。一方で西洋に追いつくために必死であったという見方と、他方で「差別」されることに対する忌避観のようなものという見方も垣間見れるような言い方である。別の著書においては、第二次世界大戦における日米の態度の違いおいて、次のようにも指摘される。

 

アジア主義が日本の戦争政策決定において大きな力を持つことになったのに対し、黄禍論的思考がアメリカの戦争政策決定においてそうではなかった理由は様々に考えられるが、一つの要因としては、そもそも日米関係、アジア主義と黄禍論の関係が、差別される側と差別する側という非対称的なものであったことが挙げられよう。差別される側が、優位の力に抵抗するために提示したのがアジア主義である。そういった意味ではアジア主義は、対抗的な地域主義といえるかもしれない。」(廣部泉「人種戦争という寓話」2017,p233)

 

 何故欧米に追いつくことがそこまで至上命題になっていたのかという疑問はまだ残るものの、当時の日本においてそのような態度があったことを否定するには実証的な議論も多く見受けられるように思える。その意味に限れば、「日本が他者の眼を気にする」という性質は、確かに正しいといえるだろう。

 もちろん、ここから直ちに「日本人全般」の議論に拡張できるわけではないし、欧米人がそうでないという結論は見いだせない。また、程度問題として(他者の眼を気にするのは日本に限らないが、日本の方がその傾向が強い、という議論の可能性はあるという見方で)いかに議論するかという課題も残る所である。

 

※1 もっとも、本書においては、p87-88のように、ヴィルヘルム二世の言説が与えた影響として排他的態度を広めたことを認めているが、この因果関係については、明確な説明が必要な所である。態度の取り方は同じであったとしても、影響力を与えたかどうかというのは、別の問題であるからである。本書からはその点に対する根拠がどれ程のものかは全く見いだせない。

 

<読書ノート>

P10「本書で取り上げる西洋の諷刺画は、大まかに言えば、人種主義を所与のものとして内部に組み込みながら発展してきたとも言える。従って諷刺画には「人種主義」を前提としてそれに基づいて笑いを構成しているものもあれば、逆にそれを笑いの対象として批判しているものもある。さらに、作者さえ意識していたかも定かではない形で、諷刺画の細部に人種主義的な表現が巧妙にまぎれこんでいることもある。」

P43-44「黄禍に関する言説は政治思想の性格を強く持っているが、実際にはその範疇におさまりきらない多義的な概念であり、イメージとして一人歩きしやすかった。黄禍は、国際政治の論題として語られたこともあれば、B級映画のトピックにもなったのだ。『ザ・タイムズ』などの高級紙や欧米の一流評論誌で論じられたこともあれば、大衆小説や煽情的な大衆紙の題材としても大いに活用された。黄禍という表現は、あまりにも誇大妄想的で、それが説かれた当時でも一笑に付されることも多かった一方、ヴィルヘルム二世がしたように、国際政治の舞台でプロパガンダの道具として活用されたこともあった。この時期に流布した黄禍の脅威が、後の太平洋戦争において人種主義的対立を煽る役割を果たしたこともある程度言えよう。」

 

P52-53「この寓意画(※ヴィルヘルム二世の寓意画)を媒介として、黄禍の脅威が流布したという事実は、黄禍とその脅威を説く言説が、ある意味で感覚的で映像的なイメージに依拠していたことを示している。黄禍は実際、このような漫画的な方法で訴えるのにふさわしい題材であった。その科学的な根拠は曖昧であったが、白人種の人々の意識、固定観念のなかに根を下ろした人種的優越感と、その優位が脅かされる危機感に直接訴えかけるには、幾十もの論説よりも一幅の寓意画のほうが有効な場合もあろう。」

※本書では、この寓意画のパロディである諷刺画が山ほど紹介される。

P69「カイザーの寓意画はこのようにさまざまなパロディを生んだが、カイザーが意図した、東アジアの黄色人種が喚起する脅威を題材にした諷刺画はすぐには生まれなかった。むしろ、東アジアを応援するかのような諷刺画が登場している。」

日露戦争中まではその傾向は強かったということか。

P72「細かい経緯はともかく、明治天皇にカイザーの寓意画を上奏したというこのエピソードは、当時の元老たちが、いかにこの寓意画を重要視していたかを物語っている。明治期の実質的政策決定者であった元老たちがそのときどう思ったかはわからない。文明化、すなわち西洋流の近代化を理想とし、それをある程度果たしながらも、当時の国家のヒエラルキーにおいて、非西洋人の国家であるがゆえにいつまでも文明国の地位を認められないのではないか。そう懸念したかもしれない。ただ、元老たちはたとえそのような意識を持っていたとしても、当時、排外的な行動に走ろうとはしなかった。この点は留意しておく必要があるだろう。」

※それだけ「文明国」へのこだわりが強かったということ。

 

P87-88「カイザーのこれらの演説は、人種差別を超え、人種戦争を煽るものだった。当時の西洋の新聞・雑誌においても非難されている。たとえば、カイザーはこう叫んだ。「汝らが敵に遭遇すれば、奴らは打ち負かされよう! 赦しなど与えられない! 捕虜とする必要などない!」と。ドイツ公使の殺害で興奮していたとはいえ、捕虜を取ることも否定する非人道的な内容である。……

このようなカイザーの発言は、黄色人種に対する憎悪を国内・国外でかき立てた。そして、清国に着いてから遠征軍によって行われた暴虐・略奪につながっていった。」

P96-97「イギリスの移住植民地として発展したオーストラリアは、この頃、アジア人をはじめとする有色人種を排斥する白豪主義を推進していた。白豪主義は、一九世紀半ばのゴールドラッシュによって人口が急増したあげく、労働力が過剰となったため、低賃金労働も厭わない中国人労働者がまず排斥されたことに由来する。やがてあらゆる有色人種の締め出しへと進み、入国・移住が禁止されるに至った。かくも有色人種に対する人種差別意識の強いオーストラリアの諷刺画だけに、この日中の扱いの差は印象的である。また、イギリスと日本の立ち位置も示唆的である。小さな日本がイギリスに寄り添っているようにも見えるのである。

純化も手伝って、日本が文明や進歩の側、さらにはキリスト教国の一員と同等とまでみなされたことは、西洋の日本認識の変遷を考察するうえでも興味深い。

一方、日本と対照的な扱いを受けたのは清国である。義和団という「暴民」の蜂起、その鎮圧をためらうばかりか、挙句の果てはそれを利用して列強諸国を追い出そうとした清国。欧米の宣教師や中国人キリスト教徒を虐殺し、教会を焼き払った義和団の行為は、否が応でも宗教戦争というイメージを惹起し、そのなかで日本は清国との違いを際立たせたのである。同人種の中国との対比を通して日本が文明国として認知され始めたというのは、皮肉といえば皮肉と言えよう。」

 

P99-100「欧米列強とともに(※義和団事変で)出兵する際、桂太郎陸軍大臣はすみやかに撤退することを考えていた。これは、黄禍論と三国干渉の再現を懸念してのことであった。つまり、日本が撤退せずに居残れば、中国を指導し支配しようとしていると疑われ、また何らかの干渉がもたらされることを憂慮したのである。……

ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の黄禍論は西洋諸国ではもの笑いのタネでもあったが、日本の政策決定者にとっては違っていた。黄禍を裏づけるような行動は、現時点では潜在化している白人西洋諸国の連合を生む主因となるおそれがあると考えられていたのである。」

P109「イギリスがライオンで表象されることは、すでに諷刺画の世界では確立された慣行であった。一方、日本はそれまでキツネとして表されたことはなかった。キツネは西洋文化では狡猾さのシンボルである。さらに、イソップの寓話の一つ、「キツネとライオンとシカ」が文化的背景にあると思われる。」

※その意味するところは「忠実な部下」(p109)。

P124-125「先の三点は日本の脅威を示しているが、この頃(※日露戦争期)の黄禍論の中心主題は、黄色人種の国のなかでも膨大な人口と豊富な資源を有する「眠れる大国」中国の覚醒(近代化)であったことは、先に述べたとおりである。その意味では、黄禍論は中国脅威論である。当時の風刺画家の多くはそのことを理解しており、中国もしくは中国人でもって黄禍を表現していた。」

 

P136「「この頃の日本が目標とした「文明」は、一方では排他的な原理であり、帝国主義による侵略や支配をイデオロギー的に正当化する役割を果たしていた。植民地化や保護国化といった手段による帝国主義的進出は、非文明地域に文明を及ぼすために白人の責務であるといった「文明の使命」、という考えによって正当化された。国際関係においては、文明国の基準に達しない国は、半文明国か未開国として、さまざまな制約を受け、多くの国が西洋列強の支配下に置かれたのである。

もちろん当時から、文明という一種のイデオロギーが持つ偽善性や欺瞞性、排他性を指摘する声はあった。文明の進歩により物質的にも人間社会が豊かになる反面、文明国として認められるためには自国を防衛できる軍事力を持つ必要が実際にはある。文明化は軍事化によって達成されるものでもあったのだ。」

P149-150「一九〇六年四月のサンフランシスコ地震は、三〇〇〇から六〇〇〇人の死者を出し、三〇万人の住民が住む場所を一時的に失った。実はこの地震が、学童隔離問題を引き起こす原因の一つとなった。というのも、地震でチャイナタウンが被害を受け、中国系住民が犠牲になったり別の土地へと移ったため、先に述べた中国人学童向けの学校に大幅な欠員が生じた。これに目をつけたのが、かねてから日本人・韓国人排斥連盟から圧力を受けていた市学務局である。地震の被害を受けた中国人初等学校が一〇月に再開するのを機会に、日本人学童と数名の韓国人学童をそこに移して隔離する政策を、教育委員会を動かして実現しようとしたのだ。中国人初等学校は、東洋人公立学校と改称された。市当局から見れば、排斥連盟の圧力を緩和し、非効率な中国人初等学校の運営も改善するという一石二鳥の政策であった。」

P161「しかし、この(※サンフランシスコの)措置がいかに人種差別的であるかを否応なく世界に知らしめたのは、おそらく日本の新聞である。日露戦争中にはきわめて抑制的であった日本国内の新聞の多くが、この問題ではかなり激昂している。高級紙は自制を促していたが、日本国内での報道はそのままアメリカをはじめとした世界各国で紹介され、日本人がアメリカでの人種差別に憤っていることを伝えた。

諷刺画の世界では、これまで見てきたように、この問題においてアメリカ人の加害者意識を示しているものは見当たらない。問題の発端に人種差別的な措置があったことは忘れられ、むしろ日本との対立やローズヴェルトの介入に焦点が当てられた画ばかりだ。二コマ漫画「ちいさなジャップに起こること」は、アメリカ人のそのような意識を示唆しているようにも見える。」

 

P169-170「日米移民問題は、日本人労働者が北米における具体的な脅威として広く認識されるきっかけとなった。一連の諷刺画を見ていると、そもそもは日本人学童に対するサンフランシスコ市の差別的な措置から始まったにもかかわらず、結果としては以後、黄禍は「日本禍」として受け止められるようになった。

また、日米の問題を扱いながらも、各国の諷刺画に人種主義的な表現や価値観が垣間見えるのは、これらが描かれた国の人々の人種主義的価値観がいみじくもそこに反映しているからだち言えるのではなかろうか。」

※子ども、アリ、そして猿という表現を例に挙げる。そしてオーストラリアのような排他的政策をとっていた国にその傾向が強かったことも示唆している(p166-169)。ただ、発端を排他政策にみるのは少し難がある。すでに19世紀末からあった中国人と日本人の移民問題との連続性も考えなければならない。もちろん、人種差別問題について軽視していたという見方は正しいように見えるが。

P189「しかし、当時の人々の歴史的記憶に寄り添うと、事態は違って見えてくる。(※第一次大戦への)参戦は三国干渉のトラウマを呼び覚まし、それを癒す(そして恨みを晴らす)機会と映ったはずである。事実、参戦の過程で、大隈重信首相はドイツを中国から追い出すことを「三国干渉の復讐」と考えていた。」

牧久「昭和解体」(2017)

国鉄の分割・民営化は、二五兆円を超える累積債務(これに鉄建公団の債務、年金負担の積立金不足などを加えると三七兆円)を処理し、人員を整理して経営改善を図ることがオモテ向きの目的であったが、そのウラでは、戦後GHQ民主化政策のもとで生まれた労働組合、なかでも最大の「国鉄労働組合」(国労)と、同労組が中核をなす全国組織「日本労働組合総評議会」(総評)、そしてその総評を支持母体とする左派政党・社会党の解体を企図した、戦後最大級の政治経済事件でもあった。

 国鉄の経営が単年度赤字に陥ったのは、東海道新幹線が開業した昭和三十九年。それから二十年余。公共企業体国鉄」は、労使の対立と同時に、労働組合同士のいがみ合い、国鉄当局内の派閥抗争、政府、自民党内の運輸族や、組合の支持を受けた社会党の圧力などが複雑に絡み合い、赤字の解消や経営の合理化などの改革案は常に先送りされ続けた。その結果、莫大な累積債務を抱え、ついに「分割・民営化」という〝解体〟に追い込まれ、七万人余の職員がその職場を失うことになったのである。

 国鉄当局も組合も、いずれ政府が尻拭いするだろうという甘い「親方日の丸意識」に安住し続けた。これを打破し鉄道再生を図ろうと、井手正敬松田昌士葛西敬之の、「三人組」と呼ばれる若手キャリアを中心にした改革派が立ち上がり、「国鉄解体」に向けて走り出す。その奔流は、国鉄問題を政策の目玉に据えた「時の政権」中曽根康弘内閣と、「財界総理」土光敏夫率いる第二臨調の行財政改革という太い地下水脈と合流し、日本の戦後政治・経済体制を一変させる大河となった。」(p16-17) 

 本書は国鉄が解体に至る経緯を描いたものである。上記引用が丁度端的にまとめた要約になるだろう。

 国鉄解体をテーマにした著書は思っている以上に多いようであるが、第三者からの目線からできるだけ網羅的に描いたという意味では、良い内容の本であるように思う(十分に比較できていないが)。

 以前新堀通也のレビューで「親方日の丸」言説について取り上げた。この「親方日の丸」は、国鉄がその代表格とされていたと言ってよいだろうが、「社会問題の言説としての『親方日の丸』とは何だったのか」という問いのもと本書も読んだ。p206で交通評論家の角本良平国鉄の状況を「一億総タカリ」と表現したことが言及されているが、まさにそのように捉えられるべき側面があるものと感じたし、「『親方日の丸』がいかなる意味を持ったのか」についても深く考えさせられた内容であった。平成10年に「日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律」が成立し、国鉄が残した20兆円を超える債務は国の予算から60年間で返済されることとされ、更にはP481にもあるように、国鉄からJR移行時に国鉄勤務職員を転職斡旋した際に認められた不当労働行為を原因にして、訴訟の和解金(1世帯あたり2200万円、単純計算で約220億)の支払いも平成22年に決まっている。「親方日の丸」なるものが本当に問題であるとするならば、その原因はどこにあり、いかに改めうるのかという検討は非常に重要であるように思う。少なくとも、この「親方日の丸」としての国鉄自体も改められるべきものとして、日本における新自由主義的政策の目玉の一つとして、その政策実行の初期になされたものであるという意味合いにおいても、それを批判することの検討においても国鉄の事例は多くの論点を持っているように思える。今後も検討していく予定であるが、今回は基本的な論点をまとめてみたい。

 

 「親方日の丸」としての国鉄を考える際にまず前提としなければならないのは、鉄道が我々の生活に与える影響の変化だろう。鉄道は自動車社会を迎える前の段階において人の輸送・物の輸送において中心的な役割を担っていた。

 

「即ち大都市圏や幹線系の鉄道では、鉄道と住民生活の距離は引続き近いまま推移しました。反面地方ローカル鉄道では住民生活と鉄道との距離が再び開きはじめ、むしろ住民は日常生活で鉄道の存在をほとんど意識しないような状態にさえなっていったといえましょう。ローカル民鉄の廃線が進み、国鉄でも経営再建の一環として特定地方交通線の廃止が勧告され、約2000kmが廃線、バスへ転換する等営業キロの推移にもローカル線を中心に、地方では大きい変化が出るようになりました。鉄道の輸送分担率は国鉄昭和35年の51%から昭和60年の23%に、民鉄は輸送量こそ増えたもの同じく25%から13%へと大きく減少したのもこのような、とくに地方での住民生活と鉄道との再乖離を物語るものといえましょう。」(須田寛須田寛の鉄道ばなし」2012,p18)

 

 したがって、基本的に国鉄は戦後このような変動に対応する必要性がもともとあったと考えておくべきである。端的に言えば、鉄道における「合理化」ということについて考慮し対応をしていくという責務があったということであり、かつそれは実際にそうしなければ運営に支障をきたすことが明確であったという意味で必然的に求められていたということである。

 

 この前提の上で、更に国鉄の運営に負の影響を与えたものとしてよく議論されるのは、以下の三つの点である。

 

(1)営業区域縮小に対する阻害と、更なる開発

 

 前提の影響を受けた採算のとれない線路の廃止というのは、国鉄にとっての大きな課題であったといってよいだろう。実際、黒字収支が出ている路線から赤字収支の路線を賄う、ということが常態化し半ばそれが当たり前であるという見方もあった。例えば、「三人組」の一人であった葛西敬之の指摘によれば、東海道新幹線のみで運営収支を考えた場合、運賃は半分以下でも済んだと言い方をしている(葛西敬之「未完の「国鉄改革」」2001,p153-154)。

 しかし、この赤字路線廃止の議論は政治の影響も大きく受けながら、それが抑制され、更にはその拡大まで図られる傾向があった。

 

 「池田内閣で大蔵大臣に就任した田中角栄は、鉄道による国土開発を主張し、「日本鉄道建設公団」の設立に奔走する。昭和三十九年三月に発足した同公団は国鉄に代わって新線建設を行い、完成した鉄道は、大きな赤字が見込まれても国鉄が引き受けて運営しなければならなかった。赤字を承知の上で作られた地方ローカル線は国鉄のお荷物となっていく。

 田中は『日本列島改造論』で国鉄についてこう説いた。

国鉄の累積赤字は四十七年三月末で八千百億円に達し、採算悪化の一因である地方の赤字線を撤去せよという議論がますます強まっている。……国鉄が赤字であったとしても国鉄は採算と別に大きな使命をもっている。明治四年にわずか九万人にすぎなかった北海道の人口が現在、五百二十万人と六十倍近くにふえたのは、鉄道のおかげである。すべての鉄道が完全にもうかるならば、民間企業にまかせればよい。私企業と同じ物差しで国鉄の赤字を論じ、再建を語るべきではない」」(p124-125)

 

田中首相日本列島改造論は、地方住民を活気付かせたが、地元住民にののしられながら、赤字線の廃止に努力していた国鉄職員の衝撃は大きかった。彼らの努力は否定されたのだ。」(p125)

 

日本列島改造論」という政策提言を引っさげて田中内閣が出現した結果として、国鉄はそれに歩調を合わせることを余儀なくされた。本社の新幹線総合計画部を中心に、列島改造論を踏まえた「日本列島の流れを変える」という投資計画構想が立案された。

 第二次の改定計画では、工事費が一〇年間で総額一〇・五兆円と拡大した。廃案となった計画案が七兆円規模で、第一次再建計画が四兆円程度だったが、本来抑制を図るべきものが大幅に膨らむというプロセスをたどった。この事例は、国鉄の再建計画がいかに政治の流れに左右されざるをえなかったかを如実に表している。」(葛西2001,p44)

 

 田中角栄の「日本列島改造論」(1972)が上記の議論を行う背景として都市化や公害、過疎化といった当時の社会問題があった。そしてその解決として「工業の再配置化」を謳い、それにこたえるだけの鉄道も含めた物流のためのインフラを整備する必要性があるとなされたのであった。確かにこの議論はまず縮小路線に対する阻害になったのは間違いない。

 

 

(2)収入確保=運賃改正に対する阻害

 

 また、高度経済成長に伴う物価の上昇に伴い、運賃の改正というのも必須であった訳だが、国鉄運賃が法により定められていたため、改正に時間を要することも問題となっていた。

 

「しかし、国鉄料金はいつも私鉄より高かったわけではない。昭和五五年度までは、平均して国鉄のほうが私鉄より安かった。国鉄料金の改訂は国会の承認を必要とした。国鉄料金は一般の家計に占める公共料金の支出部門で最も高い。だから、政治家は与野党とも国鉄の値上げに積極的でなかった。ロッキード事件など何か大事件が起こったりすると、せっかく値上げ案が出されても先送りされた。そんなこんなで、国鉄がまだ競争力を持っていた時代は思うように値上げできなかったのである。

 だから国鉄は、運賃が不当に抑えられているという不満をずっと持っていた。このため赤字が膨大になると、その切り札として料金値上げをもっと円滑にできないかと考えるようになった。その結果、国鉄は昭和五〇年六月、全国紙の一面を買い切って三日にわたって意見広告「私は訴える」を連載した。そこでは国鉄財政の苦境を訴え、打開策の一環として「運賃二倍論」を打ち出した。

 この意見広告には莫大なカネがかかったろうが、国鉄にとってはそれに見合う効果があった。まず、国民は「国鉄がこんなにひどい状態だとは知らなかった」と驚いた。さらに「政治家があまり国鉄をいじめるのは考えものだ」と思うようになった。これ以降、国鉄の運賃値上げはスムーズに認められるようになり、その第一弾は昭和五一年一一月の旅客五〇%、貨物五四%の大幅値上げであった。」(大谷健「国鉄民営化は成功したのか」1997,p31-32)

 

「その時(※昭和五〇年)の考え方は、五一、五二年の二年間で運賃を二倍に上げ、それをてことしてこれまでの閉塞状態を大幅に打開しようという短期決戦型のものだった。

 当時経営計画室・経理局を中心に、「国鉄運賃は抑えられすぎている。運賃が抑制された結果、国鉄という国民にとっての重要な資産が食い潰されていっていずれ十分な機能を果たせなくなる」ということを、新聞紙上で意見広告として出そうと計画が持ち上がり、そして実際に、昭和五〇年六月中旬、三日間にわたり「国鉄は話したい」「あなたの負託に応えるために」「健全な国鉄を目指して」というタイトルで、新聞各紙に全面広告を出した。昭和五一年に運賃を五割値上げし、翌五二年にも再度五割値上げして、運賃を倍に上げることにより、国鉄経営を一気に健全軌道に乗せようという目論見を世論に訴え支持を取り付けようとするものだった。

 国鉄内部・政府・与党のなかでは、「運賃の大幅値上げやむなし」という空気がだんだんと出てきた。野党も建前はともかく本音の部分では、国鉄の現状をこのまま放置していてはいけないという考え方が強くなっていった。運賃値上げを対決法案としてさんざん遅らせてきた結果、国鉄の経営が壊滅的な状況になったということは、おそらく野党の目にも明らかだったのだろう。運賃をてこにして国鉄を抑え込んできたということが、政治の場から見た時に自分達の功績になるよりも責任としてかぶさってくると認識されるほど、国鉄の経営実態は落ちてきていたのである。」(葛西2001,p60)

 

 国鉄運賃の上昇については、初乗り運賃に関する変遷はネット上に情報があったため、私自身も消費者物価の変遷との関係性については検証してみたが、戦後の運賃改定の際の上昇というのは、概ね物価上昇と比例関係にあり、その点に限ればバランスがとれていたともいえる。したがって、この運賃が改定できなかったことによる影響というのは、物価上昇と運賃改定のタイミングにあった「ラグ」の影響が大きかったと想定される。特に1970年代はこの影響を受けやすい時期であったことは間違いなく、実際に1976年の運賃改定時には初乗り運賃が30円から60円と倍になった。

 

(3)職員数の削減

 

国鉄は昭和二二年の六一万人を最高に、常時四〇万を超える人員を抱え、しかも国労動労という先鋭的な労働組合がほぼ毎年ストを打っていた。さすがに分割の前には新規採用を抑えて職員を二七万七〇二〇人にまで減らしたが、私鉄並みの労働生産性で計算すると、旅客鉄道六社で一六万八〇〇〇人で足りると言われていた。しかし、「そこまで一気に減らすのは難しい」と判断され、当初、二〇万六五〇人で出発することにした。」(大谷1997,p12-14)

 

 上記の指摘のように、国鉄の職員数は常に「多すぎる」と言われ続けていたが、その削減については国労をはじめとした国鉄の組合に反対を受け、なかなか減らすことができていなかったことが多くの著書で語られている。そしてこの職員数の議論を考える上では、国労をはじめとする国鉄内の組合との対立関係の動向についても押さえておかなければならないだろう。

 国鉄が60年代に入り赤字経営をはじめた頃から、内部でその改善を図る動きというのは存在していた。典型的なのは「マル生運動」と呼ばれる運動であった。これについては国鉄当局側から積極的に職員に働きかけ、合理化の意識付けを強く行うものであった。当時の運動の一環として行っていた研修の講師の発言として次のようなものがある。

 

「国民の多くが『国鉄は何とか労使関係を正常化できないのか』と異口同音に言っています。年中、ストライキで対立抗争しており、安保闘争でもスト権のない国労動労が先頭に立っている。こういう労使関係は改善していかなければならないのではないか。国鉄の再建というのは、労使関係が世間並みに協力体制があって初めて可能となるのです」(p87)

「当局側にも大きな問題がある。それは官僚主義です。官僚主義とは、学歴偏重に見られる人事制度、それに無責任主義、権力主義、通達主義です。この間も『生産性運動の実施通達はいつ出るのか』という質問があった。事故防止運動とかサービス向上運動と混同しているのです。生産性運動というのは一つの理念であり、ものの基本的な考え方だ。通達が出るような問題ではなく、その通達主義をぶち破っていこうという運動なのです」(p87)

 

 マル生運動自体はタテマエとしてはこのような「健全な労使関係」も含めた「健全な組織」を目指すものであったが、実態としては少し異なる点もあったようである。特に国鉄はあまりにも組織としては大きく、マル生運動への取り組み自体にも温度差があった可能性が高いが、それが国労をはじめとした組合の脱退を強要するような運動も中には見られたのであった。

 

「だが、国鉄の現場は一般の工場労働者と違って、「生産性向上」の実績を数字で表せない業務が多い。必然的にその〝矛先〟は、仕事の足を引っ張る組合活動家に向けられ、国労動労の組合員を減らすことが目標になっていく。それが各地の現場で「不当労働行為」を引き起こし、磯崎体制の崩壊につながるとは、磯崎自身、思ってもみなかったことだろう。

 現場管理者から執拗な「国労脱退工作」に晒され、または上司に部下の「脱退工作」を命じられて、悩み抜いた職員の間から自殺者も出始める。」(P90)

 

 この不当労働行為の実態について、国労はマスコミへの情報リークを積極的に行うキャンペーンを展開し、当局側は運動自体の終了と、その後の「落とし前」として「勤務評定への介入(p116)」や「ストに対する組合員への処分の軽減化(p122-123)」をはじめとして、当局側の管理権限を無力化することに成功してしまった。このマル生運動に対する組合側の勝利がその後の驕りに繋がり、それ以降、一方的な国民批判の対象となっていくことになる。

 

 

 本書もそうであるが、国鉄の解体をめぐる議論において、この労使関係の議論は無視することができず、特にこの人員削減をめぐる議論というのが、国鉄運営の「合理化」の阻害要因として語られる傾向が、少なくとも物量的には明らかに大きい。そしてこのことを前提にした場合、「親方日の丸」における「一番の悪者」とはこの組合という結論になると言ってしまうこともできなくはない。

 しかし、実際上記の(1)~(3)の阻害要因に対して、どれがどの程度その阻害の影響があったのか、という議論(つまり、その阻害要因によってどれだけ赤字が増大してしまったのか、という要因分析)は私が読んできた本のなかではまだあまりはっきり見受けられない。当然ここには与野党双方の政治家の影響もあるし、世論が与えた影響ということも検討の余地が与えられている。

 また、少し気がかりであるのは、仮に(3)の人員削減が最大の原因であるとすれば、逆に60年代に黒字収支で運営ができていたのは、本当に前提である「輸送手段の構造的変化」のみで説明できるのか、という点である。私自身現在「革新自治体」に関わる著書も読んでいるが、どうにも国鉄の赤字収支の議論は70年代に美濃部都政に起きた赤字財政の状況とも関連付けることができるのではないのか、という風にも感じたからである。特に収支の面からこの議論の整理を今後行ってみたいと思う。

 

 

国労の「怠慢」と『大衆』について

 

「当局は酷いことをする。我々は本来ならば走行中のブルトレの故障を修理するために乗務し、乗務手当をもらっていた。ところが毎日乗務するほどの故障はないという当局の一方的判断で、ブルトレから降ろされ合理化が強行された。その際、組合の努力によって、乗務はしなくても、既得権として乗務手当はもらっていた。手当を支給しておいて、さらに合理化を強行するというのはどういうことか」(p222-223)

 

 これは国労の組合員が記者に対して行った発言で、この発言も含め作業員の「カラ出張」が大きな問題とされた際の典型的な発言といえるものである。この発言自体が国労の「怠慢」を典型的に表していたとみなされていること自体が非常に興味深いように思える。

 この発言をした組合員は間違いなく、「ブルトレを動かさない日は乗務手当が出ない」ことに対して「不当な扱い」であると考えていた。それは一つにそれまでは当たり前のようにその手当を受け取っていたからであり、更にそれが失われるということは『生活上の脅威』に当たり、だからこそ国労としてそれを既得権益として獲得し、それが正当なものであることが明白であったからだったといえるだろう。

 しかし、『大衆』はそのように見なかった。現に勤務しないで手当をもらうことは「カラ出張」としかみなさなかったからである。

 

 私がこれを検討すべき点だと考えたのは、このような勤労倫理というのはどこまで「当たり前」のことなのかという部分である。少なくともここには「仕事もしないで対価をもらおうとすることは『不当』である」という価値観が色濃く反映されている。この価値観が具体的に、どのように自明視されていたのか、そしてその自明視は諸外国と比較した場合には差異があるのかどうか、という点を問う必要があるのではないか。下手をするとこの価値観が日本の労働運動に対して与えている影響も少なくないのではないのかという印象を受けたのである。

 

 また「親方日の丸」との関係性で議論するならば、一般的な『大衆』と「親方日の丸」との関係は、この観点から見れば限りなく赤の他人に近いといえる。しかし、このケースとは別の国鉄の問題から見た場合、例えばそれが「政治」の問題の部分に関連付けられる場合や、更には日常生活を行う上で『大衆』が受益者となり運賃上昇により不利益を被るような立場に立つ場合には、同胞関係にあるようにも見える。

 国鉄から見える「親方日の丸」はかようにしてその対象が曖昧であるし、『大衆』もまた曖昧な関わりをしているといえるのである。その曖昧さについて整理する作業というのは、恐らく『大衆』の性質の理解にも一役買うのではないかと思える。

サミュエル・ハンチントン「分断されるアメリカ」(2004=2004)

 本書は「文明の衝突」で知られるサミュエル・ハンチントンの著書である。

 世間的には近年のアメリカの動向を予見していた著書としても評価されているようであるが、私自身の関心から言えば、これまで「日本人論」に対してあまり語られないのではないかと指摘していた「アメリカ人論」と位置付けることができる著書として重要であるように思えた。データによる裏付けも極めて緻密に行っており、近年のアメリカの動向を理解するのに必読の書であるという意見も確かにその通りだと思える。

 

アメリカの「市民宗教」について

 本書の中心的なテーマは「アメリカの市民宗教」である。これはアメリカの入植者の文化の中にも根強かったものであるが(cf.p124)、特に1970年代以降、宗教右派の影響も受けながら、政治における宗教の重要性も高まってきているようである。特にp130-131にあるように、「無神論に対する排他的態度にも如実に現われているといえる(※1)

 この「市民宗教」においては神が存在することになっているが、具体的な名前を挙げることは本来的には避けられているものである。具体的な名を挙げ「特定の宗教」に加担することは、政教分離の原則からも好ましくなく、また語られない他の宗教にも排他的になりうるからである。しかし、ハンチントンはこの原則が現在のアメリカにおいて崩れる可能性について、積極的に検討を行っている。何よりp155-156にあるように、今日のアメリカの市民宗教は「キリスト教なきキリスト教」という状況であることは否定し難い事実とみている。もちろん、実際の国民の宗派も圧倒的多数がキリスト教である(p122-123)。いかにタテマエとして市民宗教が具体的な神を求めず、そこに多様性を求めていようとも、水面下では具体的な宗教と市民宗教を結び付けようとする者が存在している。その上、政治の場において道徳的荒廃を背景に信心深さを求める風潮も強くなっている(p485)。このような背景の中にハンチントンは市民宗教のバランスが崩れる恐れについて、特にキリスト教としての市民宗教を打ち出すことが他の宗派の排除を強めていく恐れについて注意を向けているのである。

 

アファーマティブ・アクションに対する受容と「差別」について

 教育という切り口で言えば、本書は大学入学優遇措置である「アファーマティブ・アクション」の受け入れについてもかなり詳しく論じている。特に1960年代に人種間の不平等の解消策として取り入れられたものであった政策であったものが、本書の記述を読む限り、そもそも60年代当初から本来この政策で利益を得るはずの黒人層からも広く支持されていたかどうか怪しい傾向をみてとることができる(cf.p217-218、少なくとも77年のギャラップ調査からはあまり肯定的な意見は出ていないように見える)。確かに白人と比べれば支持的であるのだが、「黒人一般」として見た場合には支持していないのである。本書では何故マファーマティブ・アクションが黒人に支持されていないのか明確には述べられていない。しかし恐らくは、このような政策を行うことが人種差別を助長するものでしかない、という見方が一般的に支持されているからという傾向が読み取れるように思える。

 教育社会学の分野では、これに関連して、コールマン・レポートやクリストファー・ジェンクス「不平等」(1972=1978)といった著書から、黒人(または有色人種)と白人の人種による学力格差問題が提起され、それが簡単に解消されるようなものでないものとして、アファーマティブ・アクションの政策も支持する根拠を与えていたように思える。これは転じればむしろそのような優遇政策がないとかえって社会的成功のチャンスの機会を確保されていないことになり不自由となるという議論も成り立つように思えてしまう。しかし少なくとも一般大衆はこのことを支持していないことになる。このような実証的議論を踏まえ、なおアファーマティブ・アクションの効果がないとみているのか、それとも相対的な議論として他のデメリットである差別助長という要素が大きくそう判断されているのかといったことは見えてこない。

 またこれに合わせて、アファーマティブ・アクションを支持する「エリート層」とは誰なのかという問題も出てくる。ハンチントンは大衆からは支持されていないこの政策は一部エリートによる強い支持によって堅持されているものと捉えている。本書ではそれが誰なのか明言されていると言い難いが、p239-240等の記述を読む限り、本書全体としては「差別を肯定する者」が、このエリート層であるかのような印象を与える傾向がある。要は差別を維持するためにも差別政策は残って当然であるとエリートは考えているということである。確かにこれも事実であるように思えるが、このような文脈からはアカデミックな分野で実証的に示されてきた不平等の問題についてどのように解消するのか、といった議論を排除してしまうことにもなりかねないように思えるのである(少なくともこの立場からは差別を助長することまで肯定する意図はないはずだからである)。

 

○「(市民宗教による)信仰」と「(意識調査における)自己肯定感」との関係について

 もう一点教育との関連で言えば、本書で示される信心深さの傾向の強化が教育に関連する意識調査に与える影響についても気になった。P503にあるように、少なくとも意識調査のレベルでは信仰の深さは愛国心の強さとも関連性が認められているが、以前千石保のレビューで示しておいた意識調査におけるバイアスの影響も無視できないように思える。つまり、信仰心の強さが意識調査における「ポジティブ」な回答を積極的に選ばせるというバイアスである。

 このことは結果として、日本がネガティブな回答の強いことに対する批判とも直結するし(千石の批判がまさにその典型であったといえる)、アメリカにおける意識調査と実態のズレを大きくすることにも貢献しうることになるだろう。確かにこの点は実証的に示されている訳ではないが、千石のレビューでも指摘した「生徒自身の成績にたいする評価」についての意識が、アメリカの場合極度に肯定的に捉えられているのも、私などは肯定的な宗教的価値観の影響を無視できないレベルで影響を与えているように思えてしまうのである(もちろん、違いの全てを説明できるものとは思っていないが)。

 

※1 他の著書においても、次のように無神論者が他のカテゴリーと比べて否定的に捉えられていることをしている。

「最も信頼できる世論調査によると、アメリカ人が大統領に望むことは、宗教的な感情を言葉に表わし、ある程度の道徳的な権威をもって語りかけ、大統領として果たすべき市民宗教の義務を遂行することである。例えば、一九八七年の「宗教および公的生活に関するウィリアムバーグ憲章調査」によれば、七〇パーセントのアメリカ人は、大統領が強い宗教的信念を持つことは重要だと答え、しかも、六二パーセントは無神論者の大統領候補には票を投じないと答えている。その反面、二一パーセントは、教会の牧師を経験したことのある候補者には投票しないとし、より具体的な項目では、四三パーセントの回答者は、「不倫関係にある」大統領候補には票を入れないと答えたのに対して、同じく四三パーセントは、不倫関係は投票に影響を与えないと答えた。」(リチャード・V・ピラード、ロバート・D・リンダー「アメリカの市民宗教と大統領」19882003p338)

 

<読書ノート>

P18-19「とはいえ、おそらく過去には同時多発テロの直後ほどあちこちに国旗が掲揚されたことはなかった。どこでも国旗が目についた。家庭でも会社でも、車や衣服、家具や窓、店舗の正面、街頭や電柱など、まさにいたるところで。十月の初め、アメリカ人の八〇パーセントは国旗を掲げていると答え、そのうち六三パーセントは家庭で、二九パーセントは衣服に、二八パーセントは車にだった。……国旗の需要は湾岸戦争のときの一〇倍になり、国旗をつくる会社は残業して二倍、三倍、あるいは四倍に生産量を増やしたという。

国旗はアメリカ人にとってナショナル・アイデンティティの顕著性が、その他のアイデンティティとくらべて急激に高まったことをあらわす物理的な証拠だった。」

☆p21「一九九八年二月に開催されたゴールドカップサッカーゲームのメキシコ対アメリカ戦では、九万一二五五人のファンは「赤と白と緑に染め分けられたおびただしい数の旗」で埋めつくされた。観客はアメリカ国家『星条旗』が演奏されると非難のブーイングをした。アメリカの選手に「水かビールあるいは得体の知れぬものが入った紙コップとごみ」を投げつけ、アメリカ国旗を掲げようとした少数のファンを「果物とビールの紙コップ」で攻撃した。この試合の開催地はメキシコシティではなくロサンゼルスだったのだが。」

P24「一九九〇年代には、レイチェル・ニューマンをはじめとする多くのアメリカ人は、「あなたはどういう人ですか?」という質問に、ウォード・コナーリーほど積極的にナショナル・アイデンティティを肯定した答えを返さなかっただろう。多くの人はむしろ『ニューヨーク・タイムズ』の記者が明らかに予想していたように、サブナショナルな人種、民族、あるいはジェンダーアイデンティティを主張していただろう。」

 

P65「入植者と移民は根本的に異なっている。入植者は、一般に集団で既存の社会を離れ、たいていは遠くの新しい土地に、新しい共同体を、「山の上の町」をつくりだす。彼らは集団としての目的意識を吹きこまれているのだ。入植者は、彼らが築く共同体の基礎を、母国にたいする集団としての関係を規定する契約または特許状に事実上もしくは正式に署名する。一方、移民は新しい社会を築くわけではない。彼らは秘湯の社会から別の社会に移動するのだ。移住は一般に個人や家族にかかわる個人的な行為であり、彼らは祖国と新しい国との関係を個人的に定義づけている。」

アメリカ住民は移民によるのではなく、むしろ入植者によるものだとする(p65)。

P66「のちに移民がやってきたのは、入植者が築いた社会に加わりたかったからだ。入植者とは異なり、移民とその子孫は、自分たちがもちこんだ文化とはおおむね相容れない文化を吸収しようと試みるなかで「カルチャー・ショック」を味わった。移民がアメリカにくるためには、その前に入植者たちがアメリカを築いていなければならなかったのである。

一般に、アメリカ人は一七七〇年代から八〇年代に独立を勝ち取り、憲法を制定した人びとを「建国の父」と呼ぶ。だが、建国の父たちが存在する前に、建国の入植者たちが存在したのだ。」

P67「アメリカの中核にある文化はこれまでも、また現在もなお、主としてアメリカの社会を築いた十七世紀および十八世紀の入植者たちの文化である。その文化の中心的な要素はさまざまな方法で定義できるが、そこにはキリスト教の信仰、プロテスタントの価値観と道徳主義、労働倫理、英語、イギリスの法の伝統、司法、政府権力の制限、およびヨーロッパの芸術、文学、哲学と音楽の遺産が含まれる。

この文化をもとに、初期の入植者はアメリカの信条を築きあげ、そこに自由、平等、個人主義、人権、代議政体、そして私有財産の原則を盛り込んだ。その後にやってきた移民は何世代にもわたってこの建国の入植者の文化に同化し、それに貢献し、手を加えていった。だが、その信条を根本的に変えることはなかった。」

※このことからアメリカは植民地社会であるという(p67)。

 

P74「実際には、一八二〇年から二〇〇〇年のあいだに外国生まれの国民がアメリカの人口に占めた割合は、平均で一〇パーセントをやや上回る程度でしかなかった。アメリカを「移民の国」と呼ぶのは、部分的な真実を拡大して誤解を招く誤りに変えることであり、アメリカが入植者の社会として始まったという中心的な事実に目をふさいでいるのである。」

※1990年の人口の49%が1790年当時にいた入植者と黒人の流れをくみ、51%はその後の移民という(p73)。

P76「アメリカを信条のイデオロギーと結びつけたことにより、他国の民族や民族文化的アイデンティティとは対照的に、アメリカ人には「市民的」なナショナル・アイデンティティがあるのだと主張できるようになった。アメリカは種族によって定義された社会よりも自由で、原則にもとづき、文明的なのだと言われる。信条による定義は、アメリカ人が自分たちの国を「例外的」だと考えるのを可能にした。他の国とは異なり、アイデンティティが属性ではなく原則によって定義されているからだ。それは同時に、アメリカの原則がすべての人間社会に適応できるがゆえに、アメリカは「普遍的」なのだという主張にもつながった。信条は「アメリカニズム」を社会主義共産主義に匹敵する政治的なイデオロギーとして、あるいは一連の教義として語れるものにした。同じような意味で、フレンチズムやブリティシズムやジャーマニズムが語られることはないだろう。」

 

P106「アメリカのプロテスタンティズムには一般に、善と悪、正と邪が根本的に対立するという信念がある。カナダ人やヨーロッパ人や日本人とくらべて、アメリカ人は、「どんな状況にも」当てはまる「善と悪に関する絶対的に明らかなガイドラインがある」と信じる人がはるかに多い。そんな指針など存在しないし、善か悪かは状況によるとは考えないのである。そのため、アメリカ人は個人の行動と社会の本質を支配する絶対的な基準と、自分たちおよび社会がそうした基準と合致しない場合の格差を、つねに突きつけられている。」

P112「この労働倫理はもちろん、アメリカの雇用と福祉に関する政策にも大きな影響をおよぼしてきた。「政府の施し」とよく呼ばれるものに頼ることは、他の民主主義工業国とは比較にならない不名誉となる。一九九〇年代末に、イギリスとドイツでは失業手当が五年間支払われ、フランスでは二年間、日本では一年間だったが、アメリカではわずか半年だった。一九九〇年代のアメリカに見られた福祉計画を削減し、できれば中止しようとする動きは、労働の道徳的価値への信念に根ざしたものだった。」

 

P122「忠誠の誓い」にある「神のもとに」という文言が政教分離に反するという判決が出たことに対し、「『ニューズウィーク』誌の世論調査では、一般大衆の八七パーセントがこの文言を含めることに賛成であり、反対は九パーセントだった。八四パーセントの人は、「特定の宗教」を明示しないかぎり、学校と官公庁の建物内を含め、公共の場で神について言及することを認めると回答した。」

P122-123「しかし、『ニューヨーク・タイムズ』によると、今回の裁判で原告のマイケル・ニュードー博士は「日常生活における宗教の悪用をすべて追放する」計画だった。「なぜ私がよそ者みたいに、あんな思いをさせられる必要があるんですか?」と彼は尋ねた。裁判所は「神のもとに」の文言は「無信仰の人に、あなた方はよそ者であり、政治的共同体の正規の会員ではないというメッセージ」を送っていると認定した。

ニュードー博士と多数意見の裁判官の理解は正しかった。無神論者はアメリカの社会では「よそ者」なのだ。無信仰の人間として、彼らは忠誠の誓いを復唱しなくてもよいし、宗教色の強い慣例を認めないのであれば、それにかかわらなくてもよい。しかし、彼らとしても、その無神論をすべてのアメリカ人に押しつける権利はない。これらの人びとが現在および歴史的に抱懐してきた信仰が、アメリカを宗教的な国家として定義づけているのである。

アメリカはキリスト教国でもあるのだろうか?

統計からすればそのとおりだ。通常、アメリカ人の八〇パーセントから八五パーセントは、自分をキリスト教徒だと信じている。」

※例として公共の土地にあった十字架が暗黙のうちに認められていることを挙げる(p123)。

また、「十七世紀の入植者がアメリカに共同体を築いたのは、これまで見てきたように、主に宗教的な理由からだった。」(p124)そして、過去の「憲法の制定者は自分たちがつくろうとしている共和国政府を存続させるには、それが道徳と宗教に深く根ざしたものでなければならないと堅く信じていた」という(p125)。また、「ヨーロッパ人は、アメリカ人の宗教への関心が自国民にくらべて高いことについて、たびたび意見を述べてきた。」(p127)

 

P129「一九九六年には、アメリカ人の三九パーセントが聖書は神の実際の言葉であり、文字どおりに受けとめるべきだと思うと回答した。四六パーセントの人は、聖書は神の言葉だと思うが、すべてのことを書かれているとおりに解釈するべきではないと答えた。神の言葉ではないとしたのは一三パーセントだった。」

☆P130-131「一九九二年には、アメリカ人の六八パーセントは、神への信仰が真のアメリカ人であるためにとても重要またはきわめて重要だと答え、こうした見解は白人よりも黒人やヒスパニックのほうに強く根づいていた。アメリカ人は無神論者を、その他多くのマイノリティ以上に好ましくないと見ている。一九七三年に実施された世論調査でこんな質問がなされた。

「大学で社会主義者無神論者が教鞭をとるとしたら?」

調査の対象になった地域社会の指導者は、どちらが教えてもかまわないと答えた。アメリカの大衆全体としては、社会主義者が教えることには賛成だった(賛成が五二パーセント、反対が三九パーセント)が、無神論者が大学の教員になるという考えには明らかに反対だった(賛成三八パーセント、反対五七パーセント)。一九三〇年代以降、マイノリティから出馬する大統領候補に投票しようとするアメリカ人の数は劇的に増えた。一九九九年に調査の対象となった人びとの九〇パーセント以上は、黒人、ユダヤ教徒、あるいは女性の大統領に投票すると回答し、同性愛者の候補に投票すると答えた人は五九パーセントだった。ところが、無神論者を大統領に選ぶと回答した人は四九パーセントでしかなかった。

二〇〇一年には、アメリカ人の六六パーセントが無神論者を好ましくないと考えていたが、イスラム教徒にたいして同じように感じる人は三五パーセントだった。同様に、アメリカ人全体の六九パーセントは、家族の一員が無神論者と結婚するのは不快である、または受け入れられないと言い、一方、白人のアメリカ人のうち四五パーセントは、家族の誰かが黒人と結婚することに関して同じ意見をもっていた。アメリカ人は、共和国政府には宗教的な基盤が必要だとする建国の父たちの見解に同意しているようだ。だからこそ、神と宗教をあからさまに否定する意見を受け入れるのは難しいと考えるのである。」

※もちろん、意識調査にすぎないというバイアスはありえる。

 

P149「しかし、彼らは本当にキリスト教徒としての信仰をもち、その教えを実践しているのだろうか?かつての信心深さは時代とともに薄れ、消滅さえし、反宗教的とまでは言わずとも、まったく世俗的で非宗教的な文化に取って代わられたのではないか? 世俗的、非宗教的といった言葉は、アメリカの知識人や学識者およびメディアのエリート層には当てはまる。しかし、これまで見てきたように、それらはアメリカの一般大衆をあらわすものではない。アメリカ人の信心深さは絶対的な尺度からすればいまでも高く、似たような社会とくらべても高いだろうが、時代とともに宗教にたいするアメリカ人の関心が衰えていけば、世俗化という論点もまた有効になるだろう。

しかし、歴史的にも、二十世紀末にも、そのような衰退の徴候はほとんど見られない。唯一、生じたと思われる重要な変化は、一九六〇年代と七〇年代にカトリック教徒の宗教への関心が急激に減ったことだった。」

P155-156「アメリカの市民宗教は特定の宗派にはこだわらない国教であり、明確な表現のなかでは、あからさまにキリスト教とはされてはない。しかし、その起源、内容、前提、および気質において、それはまぎれもなくキリスト教なのだ。アメリカ人がその貨幣において信ずるという神は、キリスト教の神を暗示している。ただし、市民宗教の声明や儀式のなかに二つの言葉はでてくることはない。それは、「イエス・キリスト」である。アメリカの信条が神抜きのプロテスタンティズムであるように、アメリカの市民宗教はキリスト抜きのキリスト教なのである。」

 

P198「ナショナル・アイデンティティの重要性の衰えは、一九九〇年代に多くの専門家によって指摘された。一九九四年にアメリカの歴史と政治学を専門とする十九人の学者が、一九三〇年、一九五〇年、一九七〇年および一九九〇年のアメリカ人の統合レベルを評価するよう依頼された。一が最高の統合レベルをあらわすものとして、一から五までの尺度を使ってこれらのパネリストが評価したところ、一九三〇年は一・七一、一九五〇年は一・四六、一九七〇年は二・六五、そして一九九〇年は二・六〇だった。」

 

P217-218「一連の調査では、八一パーセントから八四パーセントの人がテストにもとづいた能力を選び、一〇パーセントから一一パーセントが優遇措置を選んだ。」

※リプセットによる指摘で、一九七七〜八九年までのギャラップ調査の結果から。

P218「「黒人などマイノリティの地位を向上させるために、できるかぎり努力すべきである。それが彼らに優遇措置を与えることを意味したとしても、そうすべきだ」

この二度の調査(※ギャラップの87、90年の調査)では、世論の七一パーセントおよび七二パーセントはこの提案に反対し、二四パーセントが賛成した。黒人では六六パーセントが反対で、三二パーセントが賛成だった。同様に、一九九五年の世論調査で、「雇用と昇進および大学の入学許可は、人種や民族性ではなく、厳密に優秀さと資格にもとづくべきかどうか」と質問すると、白人の八六パーセント、ヒスパニックの七八パーセント、アジア系の七四パーセント、黒人の六八パーセントはそれに賛成した。……ジャック・シトリンは一九九六年に証拠を再吟味して、こう結論した。

「要するに、集団としての平等と個人の能力とのあいだの選択として問題を位置づけると、アファーマティブ・アクションに勝ち目はない。アメリカ人の大多数は、どのグループを援助しようとするものであっても、あからさまな優遇措置は拒否するのである」」

※1980年代末に優遇措置に対する幅広い反対(白人による訴訟を含む)が起こったという(p219)。

 

P221-222「二〇〇三年にブッシュ政権は、ミシガン大学の学部とロースクールへの入学許可から人種という要素を排除すべきだと主張し、人種の多様性という目的は別の手段によって追求すべきだとした。六対三の票差で、最高裁はマイノリティの入学志願者に自動的に二〇点(一五〇点満点で)を加える措置を無効とした。だが、一九七八年のバッキ事件以来、人種と高等教育に関する最も重要な決定に関して、最高裁ロースクールの入学については人種を考慮すべきだと認めた。バッキ判決におけるルイス・F・パウエル・ジュニア判事の論拠を支持した、五対四の票差による判決だった。

オコーナー判事はこう主張した。すなわち、ロースクールに入るための手続きは「狭き門の典型であり」、また「大学が多様な学生で構成されていることは国益として必要不可欠であり、したがって大学の入試に人種を考慮することは正当化しうる」。……

全体として、その判決は、『ニューヨーク・タイムズ』の社説が歓迎したように、「アファーマティブ・アクションの勝利」と見なされた。それは、アメリカの支配者層にとっての勝利でもあった。」

P223「二〇〇一年に、ヒスパニックの八八パーセント、黒人の八六パーセントを含む一般大衆の九二パーセントは、大学の入学者選抜や就職にさいして人種を利用し、マイノリティにより多くの機会を与える要素とすべきではないと述べた。最高裁の判決がでる数ヶ月前に、マイノリティの五六パーセントを含めて一般大衆の六八パーセントが黒人への優遇措置に反対し、その他のマイノリティにたいする措置には、さらに多くの人が反対した。結果として、五人の裁判官が支配者層の側につき、四人はブッシュ政権と大衆の側についた。

ミシガン大学の訴訟がくりひろげられるなかでアメリカ人は、国として人種を差別すべきでないのか、人種を意識すべきか、すべての人の平等な権利を基準に組織すべきか、それとも人種、民族および文化グループごとの特別な権利にもとづくべきかをめぐって、深く対立したままだった。この問題の重要性を評価しすぎることはまずないだろう。」

※なぜエリート層がアファーマティブ・アクションを支持するのか。

 

P239-240「二〇年以上にわたり、英語を支持する、あるいは二言語教育に反対する議案が一般投票で可決されなかった例は、二〇〇二年にコロラド州で二言語教育を停止するイニシアティブが五六パーセント対四四パーセントで却下されたときだけだった。このような結果になったのは、二言語教育支持の資産家が土壇場で多額の資金を注ぎこんだためだった。これらの資金はコロラド有権者の反ヒスパニック感情をあおるために使われ、二言語教育を打ち切れば「教室で大混乱」が起こり、「知識不足の移民の子供たちが大挙して普通学級になだれこめば、悲惨な状況」になると警告したのである。こうした事態を予測してコロラド州有権者は、教育の場でのアパルトヘイトを承認することにしたのである。」

P246「ある総合的な研究で、シャーロット・アイアムズは一九〇〇年から一九七〇年までの読本の内容を分析し、それを「国についての言及なし」から「中間的」、「愛国的」、「ナショナリズム的」、「狂信的な愛国主義的」までの五段階で評価した。一九〇〇年から一九四〇年までは、中学校の読本の内容は愛国的からナショナリスティックなものにまたがっており、一方、小学校の読本には愛国的な内容は皆無に近い状態だった。ところが、「一九五〇年代から六〇年代になると、ほとんどの教科書は小学校、中学校のいずれでも中間的からやや愛国的な内容になった」。この変化は「子供たちに共通の歴史と共通の政治観を与えるために意図された戦争関連の話が徐々に減ってきたこと」かが明らかにわかった。」

 

P258-259「この功績は過去のいかなる社会にも類を見ないようなものだが、その根底には暗黙のうちに交わされた契約があり、ピーター・サランはそれを「アメリカ式の同化」と名づけた。この暗黙の了解によると、移民がアメリカ社会に受け入れられるのは、英語を国語として受容し、アメリカ人としてのアイデンティティに誇りをもち、アメリカの信条の原則を信じ、「プロテスタントの倫理(自力本願で、勤勉、かつ道徳的に正しいこと)にしたがって生きていればこそだった、とサランは主張する。この「契約」の具体的な表現については、人は意見を異にするかもしれないが、その原則は一九六〇年代にいたるまで何百万もの移民をアメリカ化するなかで現実化したものの核心を突いている。

同化の最も重要な第一段階は、移民とその子孫がアメリカ社会の文化と価値観を受け入れることだった。」

P286「アメリカの教育はときとして生徒を無国籍化させる効果もあった。一九九〇年代初めにサンディエゴの高校生を調査したある研究によれば、高校で三年間を過ごしたのち、自分を「アメリカ人」だと考える生徒の割合は五〇パーセント減少し、アメリカに帰化した人間だと考える生徒の割合も三〇パーセント減って、他国の国民性をもつ人間(圧倒的にメキシコが多い)だと考える割合は五二パーセント上昇した。」

※謎のパーセント増での指摘。

 

P381「アメリカ人がもつ国への帰属意識は、二十世紀末にかけて強まったようだ。「何にも増して」帰属している領土的存在は、地元または町、州または地方、国全体、北アメリカ大陸、世界全体のうちのどれかと聞かれ、アメリカ全体を選んだアメリカ人の割合は一九八一年から八二年は一六・四パーセントだったが、一九九〇年から九一年には二九・六パーセントになり、一九九五年から九七年には三九・三パーセントになった。国を一番に選んだアメリカ人の二二・九パーセント増という数字は、世界各国のナショナル・アイデンティティの平均的な増加である五・六パーセントや、先進国の三・四パーセントをはるかに上回っている。アメリカの財界や知識人のエリートのあいだでは、自分が帰属するのは世界全体だと考え、自らを「地球市民」と定義づける人が増えていたものの、アメリカ人全体はますます国にたいして献身的になっていたのである。」

 

P435-436「白人のエリートはアメリカの主だった組織をすべて支配しているが、エリート以外の数百万の白人は、エリートとまったく異なった考えをもっている。彼らには自信も安心感もなく、人種間の競争では、エリートによって優遇され、政府の政策の援助を受けた他のグループに負けはじめていると考えている。そうした損害は現実にこうむっていなくてもかまわない。ただ彼らの心のなかに存在し、新興勢力にたいする恐れと憎しみをかきたててくればいいのだ。

たとえば、一九九七年に白人を対象として行なわれた全国調査では、黒人はアメリカ人の四〇パーセント以上を占めると考えている人が一五パーセントおり、三一パーセントから四〇パーセントのあいだと答えた人は二〇パーセント、二一パーセントから三〇パーセントのあいだと回答した人が二五パーセントいた。つまり、白人の六〇パーセントが、黒人はアメリカ人の二〇パーセント以上だと考えていたのだ。実際には、当時、黒人は一二・八パーセントを占めるだけだったのだが。」

※これは解釈が難しい。実際に五人に一人の黒人と接しているアメリカ人も相当数いることが想定されるから。統計上の割合と住地域における割合も加味すべき議論。

 

P459-460「エリートと大衆の違い、大衆の希望と法律化された政策とのあいだの差異を大きくした。多岐にわたる問題に関して、世論の変化が公共政策における同様の変化となって現われたかどうかを調査したある研究では、一九七〇年代には世論と政府の政策に七五パーセントの一致が見られたが、それ以降着実に低下して一九八四年から八七年には六七パーセントに、一九八九年から九二年には四〇パーセントに、一九九三年から九四年には三七パーセントになった。この調査報告の執筆者はこう結論した。「総合的に見ると、一九八〇年から持続的なパターンが見られることがわかる。世論の反映度は一般に低く、ときとしてそれがさらに低下し、クリントン政権の最初の二年間には特に低かった」。したがって、クリントンをはじめとする政治指導者が「大衆に迎合していた」と考える根拠は何もない、と執筆者は言った。」

※別の類似調査におけるアナリストの見解は、「一般のアメリカ人が、国際問題においてアメリカがはたすべき正当な役割だと考えるものと、外交政策の立案を担当する指導者の見解とのあいだに、懸念すべき差異が広がっている」

P462政治に対する大衆の信頼度はベトナム戦争後顕著に減少している

 

P476-477「一九八七年から九七年のあいだに、アンドリュー・コートらが示したところによると、神が存在するのは間違いないという考えに「強く賛成する」アメリカ人の割合は一〇パーセント以上増えた。さらに、最後の審判の日には必然的に自分の罪を償わなければならず、神は今日の世界に奇蹟を起こしたもうたのであり、祈りは日々の生活の重要な一部であり、善悪を区別する明確な指針はどこでも誰にたいしても当てはまるという考えに、彼らは賛同する。こうした賛同者の増加はすべての主要な宗派において見られた。福音派、主流派、黒人のプロテスタントカトリック、そして非宗教的な人のあいだですら、そのように考える人が増えた。アメリカが攻撃されたあと、二〇〇二年にはアメリカ人の五九パーセントが、黙示録の終末論的な預言は現実に起こると信じていた。」

P478「一九九〇年代には、アメリカ人は宗教がアメリカの社会生活においてより大きな役割をはたすことを圧倒的に支持していた。一九九一年のある調査では、子供が学校内で祈り、任意の聖書の授業にでて、任意のキリスト教徒会の会合を開くのを許可することに、回答者の七八パーセントが賛成だった。六七パーセントほどの人は、公共施設内でキリスト降誕に場面やユダヤ教の大燭台を展示することに賛成だった。七三パーセントはスポーツの試合の前にお祈りの時間を設けることを認めていた。七四パーセントは公職の就任宣誓で神についての言及を禁じることに反対だった。」

P479「一九六〇年代には、アメリカ人の五三パーセントが教会は政治に関与すべきでないと考えており、四〇パーセントがそれを容認していた。一九九〇年代半ばになると、その比率は逆転した。五四パーセントの人が教会は政治および社会問題で自由に発言すべきだと考えており、四三パーセントがそうすべきでないとしていた。」

P481「ジョゼフ・コビルカ研究をもとにした、ケネス・ウォールドの入念な分析によれば、一九四三年から八〇年のあいだに、政教分離問題に関連して最高裁で争われた二三の裁判のうち、一三件は分離を支持する結果となり、八件は政教融和的なものに、そして二件は中間的なものとなった。一九八一年から九五年のあいだには、そのバランスは劇的に変化した。合計で三三回の判決のうち、一二回は分離的、二〇回は融和的、そして中間的な判決が一回となった。」

 

P485「第二に、一九九〇年代末は好景気であり、外国からの深刻な脅威がなかったため、道徳問題が政治的な駆け引きにおいて中心的な役割をはたすことが可能になり、その状態が選挙までつづいた。一九九八年三月の調査で、一般大衆の四九パーセントがアメリカは道徳的な危機に直面していると答え、さらに四一パーセントの人が道徳の荒廃は深刻な問題だと述べた。一九九九年二月に、この国が直面している問題として、道徳問題と経済問題のいずれをより危惧しているかを尋ねたところ、アメリカ人の五八パーセントは道徳問題を選び、経済問題を選択した人は三八パーセントだった。

二〇〇〇年には有権者の一四パーセントは妊娠中絶を最大の問題とし、学校での祈り、信仰にもとづく慈善への政府支援、および同性愛者の権利もやはり重要事項となっていた。ある評者はこう述べた。一九九二年とは異なり、「もう経済ではないんだ、ばか者」。道徳への懸念は宗教に関心を集めた。選挙直後に実施された世論調査で、アメリカ人の六九パーセントは「アメリカ国内で家族の価値と道徳的行動を促進する最善の方法は、宗教をもっと取り入れることだ」と答え、七〇パーセントの人はアメリカ国内で宗教の影響力が高まることを望んでいた。」

P486「要するに、民主党の活動家は一貫して宗教的活動と献身度のレベルが低く、一方、共和党の活動家の宗教とのかかわりは二〇年のあいだにいちじるしく増大した。宗教をめぐる新たな「大きな溝」が出現したのだ。」

P503国への誇りと神の重要性について、国別の相関

※神の重要性が高いほど、国を誇りに思う人も増える相関が見られる。

 

 

 

西尾幹二「西尾幹二全集 第一巻 ヨーロッパの個人主義」(2012)

 今回も日本人論を取り上げる。

 西尾については最初に「教育と自由 中教審報告から大学改革へ」(1992)を読み、レビューする予定だったが、背景として西尾の考える日本人論について押さえておく必要があると感じたため、本書を読んだ。

 

 その考え方についてはこれまでのレビューでいえば千石保に最も近いだろう。千石はポストモダン期における日本人に対して、もともと主体性が欠けていたために、極めて流動的な思想に陥っており、それを規範の欠落と結びつけて議論していた。西尾もこの流動性を日本人の特徴として位置付けている。

 例えば、p35のように「自己主張が強く、首尾一貫している」西洋人と、「和をたっとぶ素朴な日本人」といった表現から、p96のような「自然と文化の分断」をした西洋人と「『自然』と『文化』の二元論的な対立をせず、適合させる」日本人といった語りを通じ、直接的にはp119-120のような形で日本の流動性を問題視する。

 

 ただ、西尾の日本人論として最も特徴的な視点かつ最も重要である点というのは、「理想と現実についての不一致について自覚的でない」という点に尽きる。永らく近代の歴史の中でその文化を展開してきたヨーロッパ諸国(特に本書でドイツが中心に語られる)では、特に平等に寄与する「権利」をめぐる議論を実態と結びつけながら展開させることができた(と西尾は考えている)が、日本においてはいわば「頭でっかち」になっており、うまく現実と適合できないまま、理想が追求され、原理主義的に「近代」が展開されてしまっているとみている。

 

 また、この観点は宗教信仰も踏まえてなされている点も興味深い。結局宗教信仰は一種の幻想を信仰する訳だが、そのような信仰の実践があるからこそ、西洋人は「理想」と「現実」を区別する視点を獲得できているとみなす(cf.p42-43やp187など)。しかし、日本人にはそのような区別を可能にする視点がなくあたかも思想を万能なものと捉えそれを繰り返すがために「思想は道具でしかないという自覚が欠けている」のではないかとみる(p184-185)。

 

○本書における「止揚」の用法について

 

 また、もう一点の本書の特徴といいうるのは、「止揚」という言葉の用法に対する態度である。ノートに記載したのは4ヶ所であったが、基本的にこの「止揚」というのは、あくまで実態としての状況のぶつかり合いとして描いているように思える(cf.p118-119,p319,327)。しかし、他方でp320-321で用いられる「止揚」というのは、ヨーロッパの共同体が「近代国家の概念の止揚としてではない」とされる。ここで西尾はヨーロッパの文化を形成した際の「止揚」と、近代国家という枠組みにおける「止揚」というのは、その考え方が異なると捉えている。

 この2つの「止揚」の用法というのは、私が過去に読んできた本における「止揚」の用法と比較しても、確かに正しいように思える。特にこれまで展開してきた教育における「集団主義」をめぐる議論においては、特に後者の用法、「近代国家の概念の止揚」としてのものが多かったように思える。

 

集団主義的人間は野村(※芳兵衛)のように市民的人間の否定としてではなく、反対に市民的人間の発展的止揚として成立してくるものである。それは、個別的な人間が個別的な人間のまま自分の力を社会的な力として認識し、それを政治的な力として認識し、それを自覚的に行使できるようになったとき、はじめて現われてくる人間のことである。個別的人間はこの全過程をとおして自分の力の利己的、反社会的行使と闘争していくことによって集団主義的人間になるのであって、自分の力の利己的行使を道徳的、観念的に断罪することによってそうなるのではない。そうした断罪は個別的人間から彼自身の力いっさいを奪うことになってしまうからである。

そうだとすれば、野村の協働自治人は集団主義的人間だといえない。集団主義的人間像は野村にあっては道徳的、観念的ベールのうちに閉ざされ、現実性、歴史性をまだ与えられていない。」(竹内常一「生活指導の理論」1969,p261)

 

レーニンによって確立された総合技術教育の理論を分析すると、つぎの三つになります。(一)共産主義教育の位置構成部分であり、共産主義教育を確立する能力のある世代を教育するものである。そして、この教育を実施し、全面的に発達した人間をつくりだすためには、新しい生産関係を獲得することが前提され、したがって世界観の教育や政治教育と結合されなければならない。()全面的に発達した人間の教育であり、知能労働と筋肉労働との対立を止揚させる教育である。(三)総合技術教育は、総合技術的労働教育と科学の基本との統合である。すなわち、「科学の基本」を与え、「理論と実際とにおいて生産のあらゆる主要部門」を知らせ、「教授と生産労働とを密接に連けい」させるものであり、この統合は、生徒のすべての社会的・生産的労働が学校の教育目的に従属させられるような基礎において実施されなければならない、ということです。」(技術教育研究会「総合技術教育と現代日本の民主教育」1974,p30-31)

 

「教育への政治優先的態度を取る限り、つまり、どのような政治体制においても不断にそれに挑戦する自由で創造的な人間が存在しない限り、それは政治的体制の自己発展の死を意味するからである。体制の内部矛盾を見極めそれを克服するについての、いわば止揚能力としての個性豊かな創造的、逸脱的人間が、常にどんな場合にも必要である。それは、一つの型を要求する「集団主義的」政治運動の枠外にある、「個人主義的」な人間実存の有無の問題である。政治体制の両極化がすすむ現代であればあるだけ、この政治を超えた人間づくりによる政治への逆説的な貢献が、いっそう望まれることになりはしないか。」(

片岡徳雄編「教育名著選集1 集団主義教育の批判」1975=1998,p108)

 

 これらの議論において共通しているのは、全てそれが「人間性」に関わるものであり、「止揚」という用法がいまだに達成されていないものに対して語られるものとして捉えられている点である。その当為論的な性質から、私自身はこれまでその「止揚」が現実的なものなのか(実現可能なものなのか、更には不可能なものを実態化させるためのレトリックにすぎず、非現実的な議論にしかならないのではないのか)という切り口で疑問に感じる部分も多かった。このような止揚の用法のされ方というのは、恐らく本書でいう「近代国家の概念の止揚」とも関連するものであるように思える。

 

 他方で、これとは異なる文脈で「止揚」を用いる論者もいる。

 

ヘーゲルの発見で極めて積極的なものは、人間とは、現実関係において自ら疎外した「外在態」をつねに意識し自覚しつつ「自己のうちに取戻す対象的な運動としての止揚」という契機をもつ存在である、ということにほかならない。否定の否定」とは、人間が関係において生み出したものを、ひとつの「仮象」としてつかみ直すということ、その了解と自覚においてこの「仮象」を止揚し、現実を確証しなおすということである。たとえば、ヘーゲルが見出した偉大な原理は、「労働」を人間の自己産出の過程ととらえたこと、つまり自ら作り出した対象が自己と対立するが、この外在性をふたたび自己へと取り戻す止揚にいたる過程ととらえたことにあった。」(松下圭一「シビル・ミニマムの思想」1971, P263)

 

「まして、このような文脈において考えるならば、あの「実存的嫌悪」もとづく否定のエネルギーによって社会の変革を追求するというのは、近代の歴史的かつ論理的な教訓をあまりにも無視した話であると言わなければならない。そして、そこに展望される「近代」の否定は、何か実存的(したがって主観的)な近代批判としては成立するかもしれないが、けっして弁証法的な否定として本質的な近代批判として「近代」そのものの危機を止揚するものではありえないであろう。」(田中義久「私生活主義批判」1974,p219)

 

 これらの引用では理念そのものが「止揚」する訳ではなく、むしろその理念をもとに獲得する実態についての積み上げについて止揚という言葉を用いている節がある。特に田中義久の議論は西尾の議論に通じるものがあり、田中も次のように「日本的」なものを批判的に捉えている。

 

「日常的には無原理の否定の連続としてあらわれ、しかも幻想に支えられた運動体の中でみずからの運動の対立物をことごとく否定しようとするところに発酵する心情主義——それは、形態的には、ニヒリズム、ロマンティシズムそしてアナーキズムのシンクレティカルな流動体である――は、非常に「閉じた」エピステーメと結合する。それは、きわめて特殊主義的であり、日本的ロマンティシズムの伝統的構造と重なり合う位相をもっている。このような心情主義において「自己否定」が語られる時、それは、実は、はてしなき「自己肯定」にほかならない。そして、「自己否定」即「自己肯定」という何やら骨格のない論理をもっとも自足させるかたちで包摂しうるもの、それがあの日本的ロマンティジスムである。」(田中1974, P221)

 

 恐らくここでいう「自己肯定」の議論は西尾がp215-216で述べているのと同じものなのだと思われる。否定の原理についても、それ自体が「閉じた」ものであること、何かしらの実態と結びついていないと、それはほとんど意味のない否定でしかなく(これが「主観的である」ということだろう)、同時にそれは意味のないという点で「自己肯定」していることと同じであること、それが情緒的な日本人につきまとっている考え方であるということという点を西尾と田中は共有しているように見える。

 

 ここで両者の止揚の用法との違いももう少し考えてみる。どちらも一定の「否定」を含みつつ議論を行うわけであるが、前者の「止揚」という言葉は、その契機を外的なものに見いだしているものと言えるかもしれない。ほとんど「体制批判」というものを契機にして自己が身につける主体性の次元において止揚を試みようとする議論がそこでなされている。

 一方後者が批判するのはむしろ「大衆」という主体全般(=日本人)である。もちろん、体制批判という文脈がない訳ではないものの、それよりもまず内なる主体の方に対し、批判的な視座を与え、真の意味で止揚する必要性について議論している傾向がある。

 確かに、ヘーゲルが言うような「止揚」について正しく理解するならば、「理念」が理念として止揚するような考え方はその本来的な用法として正しいとは言い難いだろう(※1)。次のような止揚の用法を見れば、それは明らかであるように思える。

 

「啓示宗教の精神は、内容としてはすでに絶対精神だったが、まだ、意識そのもの(→自分と対象とを異なったものとして区別する、という意識の特性)を克服していない。精神全般もそれの諸契機も「表象」に属しており、「対象性」という形式にとどまっている。そこで、残っている課題は、この対象性という単なる形式を止揚するということだけである(→主観的確信と客観的真理との区別を最終的に止揚して、自己と対象との同一性を打ち立てることこそがここでの課題であり、これによって絶対知は成立するのである)。」(竹田青嗣西研「完全解読ヘーゲル精神現象学』」2007,p298)

 

「しかるに精神の歩みがわれわれに示したのは、「自己意識として純粋な内面のうちにしりぞくこと」(フィヒテ)だけでも、「自己意識をただ実体のうちへと沈めこむこと」(シェリング)だけでもなかった。自己は自分自身を外化して実態のうちへ沈めるが、主体として実体から出て自己内に還帰してもおり、実体を対象とし内容とすると同時に、対象性と内容とが自己に対してもつ区別を止揚する。精神はこういう運動としてあるのである。」(同上、p309)

 

 このような議論をもとにすれば、西尾のいう「近代国家の概念の止揚」の問題点というのは適切な止揚ではないことを理由に批判が成り立つこともわかってくる。更に言えば、このような形で行われるべき「止揚」について、日本人は適切に理解していないという文脈もそこに含まれているといえるだろう。

 

 

○再び、日本人論の「一般性」を語ることの問題

 ただ、西尾の場合、このような議論に関連して、「ヨーロッパ人は『理念』を原理主義的に捉えることはしない」ことを一般的なものとして捉えている。この主張は二重の意味を含んでいる。一つは文字通りのヨーロッパ人に対する指摘を指し、もう一つはその裏返しとして、日本人は理念を原理主義的に捉えているという主張である。前者に関していえば、本書でそれほどまともな立証をしているように思えないが、検討課題とする価値はある議論である。しかし、後者についてはほとんど妥当性を持っているように(少なくとも私は)思えない。

 西尾の議論はいわゆる進歩的文化人学生運動家の行動と一般的な「日本人」を同一視した上でその批判を行っているのがほとんど明白に見えるからである。学生運動等の関与者というのは学生一般からいってマジョリティではあかったし、そのマイノリティの中でも、それらの者が「原理主義的」に振る舞っていたかという論点さえ、議論の余地が大いにある(※2)。これまでの日本人論のレビューでも繰り返し議論してきたように、西尾の場合も「社会問題」として取り扱われるものについて無根拠な一般化を図り、その際を実証的な理由なしに強調するのである。

 

 

○日欧比較の程度問題とアメリカの取り扱いについて

 

 本書は「ヨーロッパ像の転換」(1969)と「ヨーロッパの個人主義」(1969)という2冊の著書が中心となっている(著されたのは恐らくこの順番である)が、両者における違いとして、日欧の比較の程度が異なる点を挙げることができる。前者はかなり絶対的なものとして両者が比較されるのに対し、後者では相対的な違いとして語られ「程度問題」として日本人論が語られているといえるのである。

 これに関連してアメリカの取扱いについても違いが認められる。通常日本人論がアメリカとの対比で語られる傾向が強いのは確かであり、西尾がみるヨーロッパとの対比というのは、日本人論の相対化に寄与しうる観点であり、それなりに重要な論点であるといえる。

 「ヨーロッパ像の転換」においてははっきりと「日米と西欧」の図式を打ち出し、西欧に着目する意義が明確である反面、「ヨーロッパの個人主義」ではその言及が皆無であり、軌道修正したかのような印象も受けるため、後者におけるアメリカへの評価が前者と同じとみなしてよいのかはかりかねる所もある。特に日本の教育システムを明治時代からアメリカの単線型の制度の輸入であったとみなす事実誤認(cf.p126-128)はその典型であり、「日本人は比較したがる」(p143)といった「心性」の問題についても、アメリカと日本を同一カテゴリーとして議論していいのか、かなり微妙な点を含んでいるため、実質的に西尾はアメリカとの対比を放棄してしまったのではないかと思える。

 

 合わせて、後者の著書では相対的な語りをする性質から、ヨーロッパはヨーロッパで問題があることも比較的言及されている。前者ではせいぜいp133のような語り方で「近代化の問題は西洋にも影響を与えはじめている」とする程度で、ヨーロッパ的思考そのものがぶれているような議論の可能性はまずなかった。しかし後者においては、p244やp249で見られるように程度問題として、又は一部のヨーロッパ人には日本と同じ状況が見られることに言及されているのである。

 

 

○「エゴイズム」と「規範的であること」との関係性について

 

 本書において評価したい点の一つに「エゴイズム」の捉え方がある。特にドイツの大学での体験において西尾はドイツの大学生の「エゴイズム」について触れる。西尾自身その自己主張ついては決して合理的なものであるという風には思っていないものの、それなりに首尾一貫しているところもみられるとし(p35)、そのような議論から西欧的な個人主義自由主義といった理念の真の意味を西尾は捉えようとする。端的にそのような態度は「社会」の存在があるからこそなされるものであるし(cf.p19,p29)、それを相互不信を前提にしたものととらえ(cf.p27,p46-47)、そのような状況をもとにした不安の現われとさえ見ている(p27)。対して、日本人は絶対的に対比する形で社会の不在や、相互信頼を前提にした議論、そしてエゴイズムの欠落(p29)が語られるのである。

 

 この欠落という観点については、それ自体で重要な論点でありうるかもしれない。少なくとも「日本人に父性が欠落している」といったにわか精神分析の言説などよりはよほど誠実な主張であるように思える。私自身は「父性」などは「権力を持つものの『エゴイズム』を強調しろ」以上の意味を持ち合わせていないと考えているので、結局エゴイズムなるものをいかに擁護するのかという点に集約されるように思える。

 ただ、本書において奇妙なのは、松下圭一が述べたような形(松下「市民文化は可能か」1985,p204)で、「エゴイズムが強い(<私>傾向が強い)=日本人の性質」が成立していない点である。いや、正確には松下もかつてはエゴイズムを多少なりとも評価する立場にあったといえるため、正確ではない。松下の場合、エゴイズムの批判はそれが「必要以上のもの」である状況を認識した80年代以降顕著になってとみなしえた。ここで「必要」とはかのシビルミニマムナショナルミニマム)の量充足との関係からの議論である。

 このような観点からすれば、西尾は何故エゴイズムの必要性を述べるのかわからなくなるが、その議論を忌避すること自体が「徹底した孤独の確認をおこた」ることになるからであり(p29)、なおかつ個々人のエゴイズムの遂行というのが「実際はエゴイズムの完遂に決してなりえない」からであると捉えるからである(これはすでに述べた宗教倫理の議論と同じである)。

 実際、この両者の見方の違いは致命的な認識の違いに基づいている。価値判断のありようについても認識が当然違うが、事実認定のレベルでも大きくかけ離れているように思える。この違いはそれ自体で興味深い点であるといえる。

 

 ただ通常は、松下が見るように「エゴイズム」と「規範」は相反するものとして議論される傾向が強い。エゴイズムとはまさに「自己」のことを考えるものであり、当然「社会(規範)」との関係で言えば、対立するものだと考えられがちである。しかし、西尾はこのような二分論をそもそも西欧人はとらないものと考える。それは「西欧文化」に起因するものと考えている。どちらかと言えば、この「社会(規範)」が強力に作用するものであるからこそ、「自己」はそのことに影響を受け、一種の妥協を余儀なくされている。結果的にエゴイズムがあったとしても、規範が機能する。論理構成はこのようであると言ってよいだろう。

 

 しかし、このように考えていくと、前回レビューしたキンモンスの議論でも出てきた「他にありえた選択肢」について、本当に選択可能だったのかという論点が問われるべきではないだろうか?キンモンスの議論においては、日本の明治以降の平等主義的な政策についてあたかも他の選択肢がありえたかのように議論していたが、日本の民族構成等で「強力に制約された要因」がむしろ選択肢を強制し、平等主義的な選択肢しかありえなかったのではないかという問いかたをした。

 実際西尾が指摘する日本の状況というのは、問題があるものとして捉えていたが、他の選択がありえたかと言えば極めて微妙であり、「何故日本人が非難されなければならないのか(回避できなかったものについて何故非難されなければならないのか)」と思える部分が散見される。特に欧化政策については、選択しないという可能性があったのかまず多分に疑問である。そして、この「欧化」を行ったことで日本人が「不安定」な主体になったことについて批判することにどれほどの意味があるのかはもちろんだが、論理的に単一性を確保することが不可能であるものを不必要に攻撃しているように見えなくもない。

 その傾向は「日本人は比較したがる」といった議論(p143)においては極めて顕著であるように思える。この「比較」の議論についてはすでに杉本・マオアのレビューで見たように、「日本人論」は存在しても「アメリカ人論」「ドイツ人論」というのはそれとは非対称な形で現われうること、その原因が多分に「支配する者・される者」という関係性の中に埋め込まれているものである。西尾の議論は悪く言えば、このような反論できない構造を逆手にとり、あまり根拠のない日本と西欧の差異化を図っているように見えてしまう。これは特に先述した日本とアメリカの教育制度の同一視という勘違いに顕著に現われているように思えてならないし、「比較したがる」傾向について日本が顕著であるというのが日本に限らないのではというのは、杉本・マオアのレビューの際にも指摘したが、「黄禍論」といったかつての日本人・中国人蔑視をめぐる言説をみても、欧米人についても日本と同じように「比較したがる」性質をもっているようにしか見えないのである(「黄禍論」に関しては後日レビューする)。P256のような指摘はさしあたり的外れであると言うしかない。西尾の議論は結論ありきであるからこそ、このような勘違いを簡単にしてしまうのではないのだろうか。

 

 更に無視できないのは、p196-197で指摘されている「幻想としての西洋」という言説である。ここで西尾が真に意図するところが何なのかはわかりかねる所があるが、この部分に限らず、似たような主張がされている部分は他にもあった。恐らくは、「日本人は比較をしたがる」傾向をするものの、その比較を行う際に参照される「欧米人」というのが、我々が都合よく解釈する幻想でしかないという点を意味するか、もしくはp143で述べられるように、単純に「比較」の作業自体をしてもその「西欧」を文化として取り入れることは不可能であるため意味がないということを言いたいのだろうと思う。

 しかし、前者のような「幻想としての西欧」への指摘というのは、そのまま西尾が指摘してきた西欧の議論にも跳ね返ってきてしまい、自殺論法になりかねない。少なくとも、私には西尾の言説が「幻想」の域を出ているようには思えず、むしろ西尾の議論にもそのまま跳ね返ってきているように見える。このような論の展開からみても、西尾の日本批判の仕方には難があるように見えてしまうのである。

 

○西尾の教育システムへの言及について

 

 この点はすでに日本における単線型と複線型の議論の系譜を西尾が誤っていること、それが日本とアメリカとの同一性を語るために用いるために述べている嫌いがあることは述べたが、もう一点教育の関連では「大学進学率」への言及も無視できない(p125-126,p128)。キンモンスの議論とも関連するが、日本は平等主義であるから、不必要な大学生を入学させるような愚を犯しているとここでは述べたいようである。

 このような入学率の認識は確かに当時としては正しいものだったように思える。マーチン・トロウの「エリート型」「マス型」「ユニバーサル型」の大学制度の指摘は、本書よりもあとの時代のものだが、トロウも概してヨーロッパは「エリート型」の極めて限られた層しか大学を利用しておらず、マス型である日本や、ユニバーサル型であるアメリカと比較した場合には、確かに広く門戸が開かれている大学制度であると言うことができる。

 しかし、ここ十年ほどでその認識を改めるべき言説が出てきている。文部科学省などがOECDのデータに依拠しつつ、「日本の大学進学率は国際的に見て低い」という見解を示している点である(参考URL: http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2013/04/17/1333454_11.pdf)。集計方法の違いや高等教育の捉え方、そして入学する年齢層の違いなど各国での違いがあり、別途精査が必要である内容のようにも思えるが、少なくともこれまで自明のこととして捉えられていた入学率の傾向の違いについて現在では日本と西欧ではっきりと示すのが難しくなっているデータであるように思える。

 そしてこの事実自体は西尾の論にとって非常に都合が悪い。西欧の文化には西尾は平等意識が強く反映されないような文化の強さがあることを強調していたのだが、そのような文化がすでに消失してしまったことになってしまうからである(西尾的な言い方をすれば、「近代悪」の影響が決定的に西欧にまで影響を与えるようになった、ともいえるかもしれない)。結果的に西尾が西欧を支持する基盤であった「ぶれない西欧」という前提が崩れているということである。このような点からも西尾的な日本と西欧の違いの主張には、反論されうる要素があるといえるだろう。

 

 

※1 「本来的な用法」という表現が適切かどうかも図りかねるが、少なくともあるべき「止揚」というのは、西尾のいうように「理念」と「実態」とのせめぎあいの中で存在すべきものであるという言い方はほとんど正しい。ただし、この「止揚」自体は決して完遂するものであるという捉え方もされるべきではない。絶対知のようなものは現実には存在しえないものであるからである。そしてこのような存在しえないものであるという点を前提にした場合、西尾が区別したように2つの止揚という用法がいずれも表現として間違いとは言い切れなくなる。ここで一つしか止揚のあり方を認めないのは、絶対知が存在するものと想定しないといけなくなるからである。現実においては、理念を理念として止揚するような議論も適切でありえるのであり、そのことを全面的に否定する態度こそ、非難されるべき前提をもったものと言わなければならない、と私は考える。

 

※2例えば、全共闘白書編集委員会編「全共闘白書」(1994)において、94年に実施した、全共闘世代に対するアンケート調査結果を見る限り、それが過去の回顧という体裁をとっているというバイアスの可能性はありえるとしても、学生運動参加者でさえ革命ないし大きな社会変革がおこると信用していたのはむしろ少数派であった(信じていたは36%、信じていなかったは41%)。このような点から言っても、「理念」に縛られてばかりで、「実態」との整合性について考えようとしないとする西尾の日本人像は曲解であるように読める。

 

 

 

<読書ノート>

P13「私たちは何国人は日本びいきだとか、どこの、誰は人種的偏見がないとか、ほかの外国人の悪口を言うときに、まるでパターンがきまったように、日本という「類」概念で判断を下すことが多かったのである。……つまり、われわれは依然として「個人」としてこの地に来てはいなかったのである。それはまた、追い越すとか、追い越さないとか、そういうことをたえず気にしているわれわれの心理とも不可分なものであろう。」

P18「仮面をかぶったような表情のない日本人と、デモや酒宴に痴れる日本人とは、結局は同じ性格の二面にすぎないのではなかろうか? 小さな集団のなかで陶酔し、仲間うちで情緒的に結ばれているものは、広い世界に出たときには、「個人」として立つことが出来ないからである。」

P19「われわれは「仲間」というものは持っているが、「社会」というものはもっていないのかもしれない。ひとりびとりがある制約のなかで、互いに距離をもって接し、自他のけじめをつけて、それぞれが自分の役割に徹し、他を侵犯しないで生きていけるようなルールや様式のないところでは「個人」の自覚も生れることはないだろう。」

 

P20「そういう非難のもとに、日本人の前近代的性格を批判し、ヨーロッパのうちに近代社会の理想をもとめるというのが、これまでのお定まりの方程式であった。だがわれわれの個性の喪失、社会性の喪失は、ほかでもない、われわれの「西洋化」そのものに原因があるのではないか。より正確に言えば、歴史も伝統もちがうわれわれが西洋化されるはずもないのに、西洋化されたこと、そして結局は、まったく西洋化されなかったこと、それでいてもはや西洋化以前にさかのぼることが出来なくなっている状況にあるのではないか。

じっさい私はペシミストであるほかなかった。そしてそのペシミズムを外国人にいくら説明しても通じないし、また通じさせる必要もない自己反省の問題でしかないという予感があった。」

※「じっさい日本に関する初歩的な誤解がいまだに少なくないヨーロッパでは、日本の西洋化がもたらした自己分裂については、言ってきかせても甲斐ないことだった。」(p20)

P24「後に知ったが、この「危険に対しては自分で責任を負って」は、いたるところに張り出されてある標識上のきまり文句であって、「危険」ということばを用いてはあるが、そのおおよその意味は、「万一」の損害に対しては自分で責任を負うことにして」というほどの意味である。だから、工事現場や、あるいは市当局が損害賠償をもとめられるような可能性のあるところには、この種の標識はたいがい張り出されてあった。だが、私がはじめて目にしたこの標識が子供用の鞦韆(※ブランコ)に張ってあったということが、なんとしても私には異様な印象を与えたのだった。」

※事情は日本も変わらない。しかし、「ドイツ人のあの独特な、我の強さと、この標識のあり方とがどこかで関わり合いをもっていることは確かだろう。」(p24)「とりわけ、公的な義務や責任問題などがからんでくると、ドイツ人は自己を護ろうとして、他を攻撃することに躊躇がなかった。」(p25)

 

P26「だが、内心は反対しながら、表面はにこやかに応対するといった交際術を都会風だとか、大人の付き合い方だとか言いたがる日本人は、じつははじめから言葉や論理にそれほど重きを置いていないというに過ぎない。つまり言葉や論理で自分をどこまでも追い込んで、相手に自分をぶつけて行かない限り、自分が相手から抹殺されてしまうというような不安が日本人の社会にはもともとないのであろう。」

P27「そういうわけだから、私が属していた大学のゼミナールもやはりはげしい議論の応酬になり勝ちだったことが思い出される。……だが、ここでも、冷静に論理がはこんでいるというより、自分の論理をまず打ち出して、それを他人に押しつけていくという衝動の方がつねに優勢であるようにみえた。彼らは討議をするよりも、自分の不安を言葉でうめて、まず自分を救おうとする性急さが先にあるように見えた。」

※「しかし、いずれにしても、ここにみられるのもやはり言葉や論理に対する過剰な信頼である。」(p27)

P27「ここにはなにかルールが、形式かがあるのだろうか?

人間同士はたがいにどうせ理解し合えないものだという冷たい前提を、たがいに理解し合っているともいえるのかもしれない。」

P28「日本では公的な場でだれかを批判すれば、いくら論理が整然としていても、あとあとまでしこりが残る、公的な場では単なるたてまえや、心にもないことばかり話し合う人が多く、実際の決定は、肚の通じ合う少数の代表が、その場の空気を機敏にかんじとりつつ、あとから上手に取りまとめていくという例が日本人社会には多い。」

※ドイツ人の主張が本当に「心にあること」だと何故言えるのか??そう見えるだけでは??自己保身的であることは西尾も認めているではないか。問題はそのような対立構図の中で責任ある結論を出さねばならない時にどう調停されるのかである。

P28「第一に、われわれは、自己主張が弱い。相手の気持を忖度しすぎる。それだけ自我拡張欲に乏しいのである。」

 

P29「われわれが「仲間」というものは持っていても、「社会」というものを持っていないかもしれないと私がさきに述べたのも、自己主張を忌み嫌う日本人社会が人間相互のエゴイズムの是認、徹底した孤独の確認をおこたっているために、自律した個性を喪失していく一方ではないかと思ったからにほかならない。」

※しかし、西尾のいうドイツの実態を見ると、「個人主義=利己主義」も正しいように思える。

P30-31「ヨーロッパで私が出会った数多くの日本人のなかにただひとりも本格的なコスモポリタンと呼べそうな人はいなかった。

日本人は日本の家族と仲間のなかにしっかりと根をはやしていなければ生きていけない唯一の国民かもしれない、と私は思った。それに、私はべつに自分がそうだったから言っているわけではないが、あらゆる民族のなかで日本人の男ほど西洋女との交際に慎重な人種はいないのではないかと思った。」

P32「ほかのアジア人はしきりにドイツ人の部屋を真似していたが、私ばかりではない、どういうわけか日本人の部屋は申し合わせたように乱雑になり勝ちで、それでもわれわれはいっこう困らないといった顔をしていたので、掃除女は、部屋をみれば日本人だとすぐ分ると言ったほどだ。

個人の自己主張がはげしければはげしいほどそれだけ秩序への欲求もはげしくならざるを得ないのかもしれない。手ばなしでいればどこまでも底しれぬ破壊衝動へつっ走っていくのが人間の自我拡張欲というものだ。」

 

P34「(※大学の寮)入寮に際しじっさい合法的な契約書を交わしているのだから、例えば管理権を大学や教団が握っているとしても、彼らが学生である以上それは当然のことであって、寮の管理権にまで立ち入ろうとする日本の学生の考え方などは、いくら説明してもここでは通じるはずはないことであった。……

この問題は、後の章でももう一度ふれるが、いまや世界中のどこの国にも反乱や暴動や不満の爆発はあるにしても、日本の場合には動機にとくにいちじるしく論理性を欠いていること、始めも終りもなく無限にだらしなくつづく社会不安の曖昧な無形式とを特徴としている。なにも学生運動にかぎらない。たいていの社会不安のもとになるこの没論理は、これまで述べてきた日本人の人と人との関わり方の曖昧さにすでにその原因があるのではないだろうか。」

※実によくわからない。どの秩序が承服され、どの秩序に対し反乱していると言うのか。

P35「日本人には積極的な罪悪感がないから、人間同士の和をみだすことが消極的な罪悪となるのかもしれない。ということは、それほど日本人は和をたっとび、調和を愛し、人間相互の理解を素朴に信じたがるお人好しの国民だといいかえてもいいだろう。」

P35「自己主張のつよい西洋人は彼らなりに首尾一貫しているところがみうけられるし、また、和をたっとぶ素朴な日本の民衆もまた彼らなりに一貫した秩序感覚をたもちつづけているといえよう。ただ、「西洋化」された日本人の意識だけが、日本的美点を「封建的」とか「前近代的」とかきめつけて「西洋的」に行動しているつもりで、はなはだしく「日本的」な結果に終るという愚をくりかえしているのである。」

※日本人固有の長所とは何なのか??

 

P42「個人主義自由主義はそのかぎりでは抵抗すべき権威がなければ成り立たぬという自己矛盾をはらんでいるはずなのに、近代日本の浪漫主義は、束縛を破る行為のみを自由であるとし、束縛を超える自由についてはいささかも知らずに来たのだ。権威らしい権威といえばすべて流し去ることにこうして精力を傾けてきた結果、今日では、われわれはなんの拘束もない完全な自由の荒野に抛り出されて、かえって途方に暮れているようにさえみえる。自由だけでは人間は自由になれないからである。」

P42-43「いったい西洋的な個人主義とは何なのだろうか? それはヨーロッパのじっさいの生活風俗の場からきりはなすことができるものだろうか? 個人主義自由主義は、個人を超えたなにものかが厳として生きている場においてのみ成り立つものではないか? もしくは、たとえ昔年の権威を喪ったとはいえ、個人を超えた絶対的なものとのかかわり合いにおいて人間関係を調節してきたヨーロッパでは、今なおわれわれのあずかり知らぬ倫理観がはたらいているのではなかろうか?」

個人主義を生活風俗と離せない、という主張自体がすでに矛盾している。何故なら、個人主義とは、そのような生活風俗を引き離す試みでもあるからである。

 

P46-47「ヨーロッパの個人主義が、人間と自然とはもとより、人間と人間との関係をも、徹底した不連続としてとらえた上で、ばらばらの個体をつなぐ必要から、絶対者という統一原理を設定しているといえるのではないだろうか。ヨーロッパ社会の人間関係がお互いにさっぱりした、割り切った、乾いた関係であることをわれわれは良い意味で個人主義的とよんできたが、それは同時に、相互の人間不信の上に成り立つものであり、その不信感を調停する機能としての統一原理がいまなお目にみえぬ形で作用していることによって、ヨーロッパ社会の人間関係があのさっぱりした、調和のある秩序をもつことができるのではないだろうか。

個人主義とは、近代日本にみられたような達成すべき美しい理想なのではなく、すでに現実なのである。しかも、それはやりきれない現実なのであり、したがって、ヨーロッパの個人主義とは、個人性を滅却し、なにものかに奉仕することによって、はじめて個人性を獲得するというパラドックスをうちにはらんでいるのではないだろうか。

もともと破壊への情熱を秘めているヨーロッパ人にとって、束縛を破壊し、おのれを解放することがただちに自由を意味せず、むしろ高次の束縛をつくり上げて、それを頭上に設定することにより、相互の破壊衝動を、いっきょに、絶対的に、裁くことのできる「自由」を確保しようとしているのではないだろうか。」

※不信感と言えば聞こえは良いが、正しい表現と言えるのか?

 

P58「私の眼にうつったあの生活風俗の多様性は、いわば文化意識の根底をなす多様性につながるものであって、それは多様でありながら、同時に調和した統一性をも志向してきたものなのである。統一性は、画一性ということとは異なる。というより、文化はある統一性をたもっていなければ、ゆたかな多様性を発揮することもできないであろう。これは逆に言っても同じことで、ヨーロッパ文化は多様であることによってはじめて、統一体としての活力をかんたんに死滅させずに自己展開しつづけることができたのだともいえよう。」

P59「「個」に徹することが同時に「全体」に参与することになるというあの逆説的なヨーロッパ文明の抽象精神が、どうして容易にわれわれのものとなり得るだろうか?それはヨーロッパ・キリスト教文明がいく千年にもわたって培ってきたエゴイズムの相互調節と、現実処理の智慧であった。そういう前提を抜きにしておこなわれた日本の「西洋化」が、多様性と多層性を誇るこの文明に対し単一化した反応しかできなかったとしてもむしろ当然であったろう。」

※簡単に伝統的精神を語るべきではない。むしろ制度にも目を向けるべき。

P59「なるほどわれわれは、世界には無数の文明があり、ヨーロッパ文明だけでも相当に複雑多岐であることは誰しも頭では理解している。しかし文明と文明との接触と、その後に起る歴史の展開は、すでに個々の人間の個人的知性を超えた出来事なのである。

問題は、そのことをわれわれがどこまで自覚しているかにかかっていよう。」

※極めて精神的なものとして問題としているのは明らか。

 

P61「今あなたは日本の男は自信がないと言ったけれど、服装ばかりではないでしょう。自分の国から生れたものでない限り自信のもちようがない。規範がないのです。……さっき言った東京の新しさというのは、まさしくこの文化の抽象性にあるので、実体のない新しさです。規範のない新しさです。過去の規範がなければ、どうして新しい姿というものが生れて来ましょう。……空虚主義の新しさですよ。それでいて、日本の各地方都市は、いずれも小型東京であることを競い合っている。恐るべき画一主義です。」

※これは西尾が外国人に対して話した言葉として取り扱われている。「自信」をこのような形で定義するのは筋違いである。「思い込み」の域を出ない。

P80「それでもおそらく廃藩置県までは、鹿児島には鹿児島らしい個性的な建物が、新潟には新潟にふさわしい特色ある建物が、街の様式を決定していたのであろうが、今ではどこへ行っても、活動的な地方都市であればすべて「小型東京」であることを競い合っている。その画一的な性格喪失は真に悲惨といってよい。」

※何を根拠に言っているのか考えた場合、「西欧化」の話と単純にセットになっているとしか思えない。「特色ある建物」とは一体何なのか?何を根拠に「特色ある」といっているのか??

P80「それでももしも日本人が、都市単位の共同体意識にささえられてきた国民なら、今日みられるように、垣根に囲まれた不揃いの民家を雑然とならべたり、高低さまざまの近代ビルをそのなかに乱立させるような不統一を犯すことはなかったろう。」

※京都や札幌、名古屋に喧嘩を売っているのか。

P80「ヨーロッパの都市では街道に面して長く連結した家屋は大抵一階が商店、二階以上は日本で言うアパート生活に類する仕方で多数の家族が住みこみ、また独立した一戸建ての家屋でも数家族共棲するのが常識となっている。」

P81「ヨーロッパの都市の民家は垣根のないのが圧倒的に多いし、教会、市庁舎、ときには大学でさえ塀を設けない。例えばドイツでは古い大学の建物は一般家屋の間に垣根なしで市中あちこちばらばらに立っているから、所謂キャンパスというものを知らないのである。

個人意識の発達したヨーロッパで、日本に比べ「家」への意識が相対的に微弱で、肌暖め合うべたべたした馴れ合いの家族感情を跳び超えて、個人の自我に徹することが、同時に、逆説的に、個人を超えたある抽象体へ、都市へ、国家へ開かれていく乾いた全体意識に発展するのは、こうした一般市民の生活様式と深くかかわりのある問題だろう。」

※この点はアメリカの議論を持ってきて否定できるのでは?

 

☆P94「これ(※日本の模倣的特性)を日本人の長所とみるか短所とみるかで、むろんわれわれの未来への態度は変ってくる。「対決」を欠いたことによって、「近代化」はなるほどスムーズに成功したが、またそのために、成功は「近代化」以上のものに及んでいなかったからである。……かくてそのために、われわれがわれわれ自身の「文化」をもしだいに変質させ、壊滅させていく危険に直面していることも確かであろう。しかし、それでいて、いっこうに動じない日本人の度胸の良さ、逆に言えば、自己偏執のうすいお人好しの無関心こそ、日本人の伝統的な生の形式なのかもしれない。なにも明治の「西洋化」以来のことなのではなく、これが日本人の歴史のパターンなのかもしれない。」

P95「「自然」と「文化」との二元論的な対立を知らないわれわれは、自然と格闘するよりも、自然に敗れればそれに同化し、適合し、むしろそれと親しむことによって自分を自然に近づけ、慣らして行こうとする傾向がつよいのである。それに対しヨーロッパ人は、始めから「自然」に垣根を設けた「文化」の砦の中で自己収斂と自己拡大とを繰り返すことにより、それが彼らのエゴイズムでもあり、弱さでもある事実の方は好都合にも忘れてしまう技術をさえ習得しているかにみえる。」

 

P118「さらにヨーロッパ人の過去の「文化」への執着心にくらべれば、「自然」に開かれたわれわれ日本人の無定形な、開放的な生き方にはある救いがあり、自然に対し自己を閉ざした主我的な西洋風の生き方とは別の可能性にわれわれは恵まれているかもしれないということを、暗示的ではあるが、述べて置いたつもりである。

しかしいま、あらためて問わなければならないことは、日本人に有利なこの種の可能性は、庭園や建築や古美術をたよりに原理的には引き出すことが出来るとしても、じっさいの現代の創造と活動の場では、かかる原理はつねに有効性を発揮するとは限らないのではないかという疑問である。ことにヨーロッパの価値観や美意識の延長線上に成立している日本の近代文化は、自分を測る基準を他文明に求めてしまった以上、自分の過去が自分自身の基準にならないという情けない状況におかれていることは誰にでも見易い事実だろう。

日本人はもともと過去の基準をあくまでまもろうとするかたくなさや粘り強さを持たない国民であろう。すべては自然のままに流されていく日本人の情緒的な生き方が、場合によっては外来文明との闘争を避けて通る有利な条件をも育ててきたのではないか、と私は前にも書いた。しかしまた、その一種の無定形、無原則のだらしなさが、過去を否定し、革新するという近代ヨーロッパの進歩の原理と結合したとき、日本文化の弱点をいっそう拡大するような方向に拍車をかけるのではないかと危惧されるのである。」

※あまり日本の思想に期待しているように思えないが。

☆P118-119「なぜなら、ヨーロッパでは、進歩という近代的な価値は、いつも表面を動かしてはいるが、その底には動かぬ保守性が行きすぎをはばみ、拘束している。そして、文化の創造の瞬間は、保守でも、進歩でもない、その二つの力学を止揚した地点にしか成立しないものなのである。だが、日本の過去が、有効に日本の近代にはたらきかけてくる流動性を失っているわれわれの場合には、日本的な非論理性、けじめのなさ、情緒性がそれに加わって、ややもすると、保守と革新という政治の原理のみが文化の原理をおおいつくしてしまう傾向をそなえているように思えるのである。」

※おなじみの止揚

 

P119-120「西洋化」とはこの場合、いまだ存在しないものへの崇拝の感情に発しているから、あらゆる既成価値に敵意をいだき、生れぬ先の未成価値を先取りして考えるところまではいいが、未来はいつまでたっても未来であるから、結果的にその意識は、自分たちがもっともモダンでいるという自負心に加えて、いっそうモダンであるべく過去を否定する空しい残り火を苛立たしげにかき立てていかなければならなくなるのである。……

いったん保守と革新という対立図式が発生し、その枠形式にとらわれて、保守の側にあらゆる悪の属性を塗りこんでしまえば、文化は解体への道をまっしぐらに進んでいくか、さもなければしまいには政治価値による救済以外には手がなくなってしまうものである。」

松下圭一的な議論の問題の本質を語っているように思うが、二項図式の問題なのかは松下の問いの立て方から見てもわからない。

P121「私は日本が置かれている問題の二重性を指摘したいのである。「西洋化」から起る宿命的な災厄と、西洋近代そのものがすでに孕んでいるニヒリズムと、この二つがたえずわれわれの文化創造の場から生命力を奪うようにはたらきつづけている。」

※後者は日本に限らないと述べる。

 

P123-124「学者として著名な日本の某女史がこんな事を書いていた。日本ではカントやヘーゲルマルクスなどは難しくて大学生でもよく解らない顔をしているが、ヨーロッパでは、若い女性でもまるで普通の本を読むのと同じような気軽さで読んでいる、と。とんでもない大嘘である。一般論としてそんなことは決して言えないし、第一、日本の民衆に無用の劣等感を与えることを以て己れを高しとする知識人のこの種の言動ほど大なる罪悪はないだろう。

私は在独二年間、この問題だけはずいぶん気をつけて観察してきたつもりだが、ドイツの民衆は一般の日本人よりもかなり教育程度が低く、知識欲も乏しいように思えた。……だが、これはなにもドイツにだけ限ったことではないのではないか。北欧の方がもっとひどいという話もきいた。アメリカ人や日本人に比べて、ヨーロッパ人が一般に知的向上心に乏しいという話は屢々耳にしたが、これはたしかに事実であるように思えたのである。」

※水掛け論にしかならないが。

P124「余計な机上の学問より、職業に必要な技術を錬磨し、その道にかけての熟練者となることの方がよほど重要で、価値があるということをドイツの民衆のひとりびとりが知っているのではないか、そうとしか考えられない事例に私はいくたびも出会ったからである。……教養という名のアクセサリーを求める急な日本人とくらべ、無知無学に甘んじながらなお己の職業に誇りを喪わないドイツの民衆の力強さ、素朴さ、着実さを私はむしろ讃嘆の眼をもって眺めたものだった。」

P125-126「すべての人間が高等教育を受ける必要などもともとない筈である。人間にはもって生れた能力の差がある。資質の違いがある。社会にはそれぞれの役割が必要である。もし不平等を前提として認めた安定社会であれば、日本のように平等意識だけが異常に、病的に発達することはないだろう。」

P126-127「ドイツの教育システムがいかに実社会の必要に応じて形成され、現実の条件変化に伴って段階的に訂正を加えられてきたものかが判るし、明治の開国期に、出来合いの方程式を上からかぶせて作り上げた単線型の、縦割り一本形式の教育制度との相違が明らかになろう。」

※この認識は誤り。戦前は明確な複線型であるし、それは実態に見合った形で形成された側面がある。平等意識の議論は、少なくとも戦前・戦後の二段階で考える必要がある。

 

P128「彼女らは余計な教養をつむ必要などなく、組織の歯車に徹すればよいという考え方は非人間的であるかもしれない。ナチズムを醸成した地盤はここにあると非難する人もいるかもしれない。しかし、労働力の不足を少人数でまかなっているドイツ産業の能率の良さもここにあるし、なににもましてその根柢にある考え方、エリートと大衆とを区別する複線型のヨーロッパの教育制度は、国民の最高の頭脳を可能なかぎり高度に成長させ、そこで得られた理論の結晶に大衆が従順に従う以外に、競争に打ち勝つ道はないというヨーロッパの長い歴史が教えた本能に根差すものと見るべきだろう。

明治の初期と戦後に、二度にわたって日本に輸入された教育制度の主なる手本は、大衆にひろく門戸を開く単線型のアメリカの教育制度であった。従って教育の「近代化」とは、つねに全国民に同質教育をひろげていく教育の「平均化」を急速に助長し、戦後の改革は一層それを拡大した感がある。戦前も戦後も、それが日本の富国政策に合致したため根本的に疑う人はいないらしいが、同時にそれが、一国の文化の多様性を磨滅し、文化の画一化・平均化という近代悪にわが国がヨーロッパよりもはるかに深刻に見舞われている要因となっていることからも目をそむけている。」

※上に同じく誤り。明治期の教育制度は初めフランス、次いでプロイセンの潮流にあるものであるという確たる定説がある。

 

P133「文化の多様性の喪失と均一化、自己充足する幸福を失った欲求不満の不合理と爆発、物質的欲望と精神的安定の不調和――そうした近代悪はむしろヨーロッパをも蝕みはじめてはいるが、教育制度ひとつを例にしても容易に過去を改変しない拘束力がその毒を中和し、治癒しているのに反し、日本やアメリカでは、近代の毒は露き出しの膿のように吹き出している。

戦後の日本で大学という名称がふえたと同時に、抑圧されていた大衆の復讐心が名を求めて堰を切ったように溢れ出したのも、「大衆の叛逆」にふさわしい近代悪の一例であろう。」

※ここに「なぜアメリカが比較対象でないのか」の明確な答えがあるし、戦前に対する偏見の理由の一端も見いだせる。ただ、日米を統一した所で、「個人主義」に対する見方が説明できるようにも思えない。

P133-134「日本人にとって「平等」という近代理念は借り物であっただけに、すべて政治的に崇拝され、他方に不平等という現実があるだけに、裏返された権力欲は歪んだ欲情をもって自分より下位のものを見下し、同時に上位のものには不必要に卑屈になり、上位の権威をいっそう病的に高めていく。」

※これは人種差別問題を考えれば欧米も何一つ変わらない。

P134「なるほど科学技術に関してはもうヨーロッパから学ぶことはないかもしれない。しかし、自己をもってしか自己を測らぬというその自己中心的な態度の徹底こそ、われわれが学ばなければならぬヨーロッパの精神の型なのである。」

 

P139「成程、日本もまた、他文明を意識することから出発し、そのとき、自己完結的な調和文化を放棄したのだった。」

P140「ヨーロッパでは、はじめ単なる恐怖感や競争意識から危機が自覚されたのではない。最初は他文明との比較なしに、自己の内部に、鋭敏な知性によって意識化された危機が、時代とともに表面化したに過ぎない。内的な自発性がある以上、ある程度の準備がそのつど危機をやわらげ、急激な自己変革は避けられ、改革の分量も少なくてすむ。生活様式や社会制度にみられるヨーロッパ文化の保守と革新の調和はそうした背景の上に成り立ってきた。」

P142-143「「西洋」はすでにわれわれの内部に存在するから(※ヨーロッパ・コンプレックスからの解放を誇らしげに語る人は誤り)である。「西洋化」はわれわれの精神の深部をすでに侵蝕し、変質させている。日本語が変質している。もはや純粋に日本的なものなどはどこにもないのである。われわれは自己を西洋と同一視することも、日本と同一視することも出来ないような位置にある。時間的にも、空間的にも、日本および日本人が「西洋化」される筈もないのに、それは明らかに進行であり、過程であり、事実である。」

※で、どうするのか?

P143「われわれの「内なる西洋」を、われわれは客観化できず、従って外なる西洋をも、厳密に対象化することは出来ない。言いかえれば、ヨーロッパとの優劣を比較し、どちらが先を歩いているかというような進歩の尺度で西洋と日本をひとしく目の前に並べて判定を下そうという姿勢そのものが、すでに西洋的な認識形式なのであり、われわれが「西洋化」されなければ起り得なかったことなのである。しかもその「西洋化」はなお進行であり、過程であって、完成ではないとすれば、比較そのものがおよそ意味をなさないと言うべきだろう。」

※ここで西尾の語るヨーロッパは蚊帳の外のものとされる。

P143-144「昭和三十八年にライシャワー前駐日アメリカ大使が「西洋化」と「近代化」とは別であるというテーゼを打ち出し、広範囲の波紋をよんだ事件は、この意味で、私には非常に興味深いものがある。

なぜなら高度に「近代化」したアメリカもまた、日本とは違った意味ではあるが、「西洋化」なし得なかった国だからである。あるいは、もはや、「西洋化」は必ずしも必要ではない、という自信が自分の側にあり、その上、すでに「近代化」した日本人を勇気づけ、日本両国の反ヨーロッパ共同作戦の継続をうながしているのかもしれない、と私は読んだからである。」

 

P180「従来、日本人がヨーロッパの一面しか見ていなかったとわたしは言いたいだけではない。長い歴史を背景にもつ西洋の背理世界に目を向けず、「近代」という表裏だけを西洋のすべてだと誤認して、その結果、東京にはネオンの彩光が氾濫し、蝋燭のほの暗さを楽しんでいるのは今ではヨーロッパ人の方であるという妙な具合になってしまったのである。」

P183-184「日本人特有の自然主義的な生き方唯美主義やけがれを嫌う潔癖感は、もともと閉鎖的な、自己完結的な価値観でしかない以上、明治以来怒涛のように流れこんできた異質の文明にふところを開いてからというもの、しだいにそれに押し切られ、片隅に押しやられ、そこに日本人一流の無常観がはたらけば、亡びゆくものを死守しようとする頑なさもなく、われわれは今や近代的なものも日本的なものも入り混ったきわめてだらしない形式の混在に耐えて、生活様式の調和と安定と統一とを奪われたままに、その日その日をやり過ごしているのである。」

P184-185「それというのも、思想は、それを操るものの主観的な欲望を満たすための道具と化し、論争といえば、思想と思想との対立ではなく、思想の化粧をほどこした二つの現実の頑な対立に終るしかなかったからである。こうして現実の困難は、なにひとつ解決されず、客観的正義の名の下に、主観的欲望が主張されるというような酷悪なことが行われ勝ちであった。

思想がかように集団的欲望の道具と化するのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、思想は道具でしかないという自覚が欠けているからではないか。たいがいの論争や批評が思想の名に価しないのは、フィクションとして思想を語ることによってしか、思想は現実を動かし得ないという逆説に突き当っていないからではないか。思想や観念にはもともとなんの実体もないのである。それは現実の前でたえず試され、裏切られ、復讐を受けているなにものかでなければならぬ。

ヨーロッパの思想家はつねに思想と現実とのこの二重性に耐えることを強いられてきたとも言えるだろう。」

※これも一つのエゴイズムなのでは?これはヨーロッパの人びとの態度として西尾が見ていたものとどう違うのか??また、これは「知識人」の比較をしているのか、「一般人」の比較をしているのか?差し当たりここでは限定しているものの、p187で一般化している。

 

P187「自分の頭上に絶対者を据えて、その上で相対世界を実利的に生きるというヨーロッパ人の二元論的生き方は、理想と現実との使い分けを可能にしてきた。キリスト教の神が死んだと言われ、民衆の信仰が稀薄になったとしても、生き方としての西洋人の伝統はそう早急に消え去るものではないだろう。彼らがわれわれ日本人より遥かに実行力に富み、現実主義的で、打算にさとく、国際政治の駆引きなどで実用に耐えぬ空論を嫌う反面、宗教上の観念や政治イデオロギーや民族神話に踊らされて血で血を洗う途方もない妄想にとり憑かれたりするのも、彼らの生き方の内側からみれば首尾一貫しているといえよう。

※このような話は西尾の訪欧エピソードからは語られていないのでは。そしてこの主張は「タテマエとホンネ」に代表する日本人論を明確に否定しているように思える。また、「アイロニカルな没入」に関しても、むしろ欧米人にふさわしいものとなる。

P187「日本人は明日にも利益を生むものにしか金を出さぬというが、それひど実利的であるかと思うと、それほど実利的であるかと思うと、大量の学生大衆に職業訓練もほどこかずに、経済効率の低い教育に平気で耐えている。つまり日本人には桁外れの夢をはらんだ理想もなければ、計算ずくの現実感覚もない。すべてがだらしなく、相対的で、理想と現実との振幅を大きく使い分ける欧米人特有のダイナミズムに欠けているのである。」

※なお、「いっさいの二元論的対立をはらんでいない日本人の思惟形式」と言うように(p188)、この欧米人の見方は二元論的な結果と見ている節がある。

 

P190「考えてみれば、西洋近代はそれ自体が一個の仮説であり、フィクションであったかもしれない。理性への信念、個性の尊重、進歩への信仰、人間にある程度の自由を任せて置けば、世界は自動的に進歩し、発展していくに違いないというあの自然調和への楽天的信仰。だが、そんなものが一体何であったか? それらの確信は一体どこへ行ってしまったのか? 理性の独立を過信することは、むしろ弱さの表明であり、「価値」のすりかえではなかったか?

言うまでもなく、人間は「自己」を超えたなにものかに統制されないかぎり、自らの力だけでは、「自己」をよりよく統制することさえも出来ないからである。」

※「自由主義個人主義も科学もマルキシズムも近代ヒューマニズムも、すべてこの暗黒と恐怖を蔽いつつむ欺瞞のヴェールである。」(p190)

P190「だが、日本が接したヨーロッパ近代は、すでに絶対的な「価値」が崩壊し、相対概念が「価値」にすりかえられている時代ではなかったか。」

※土居の前提に近い。

 

P196「それは端的に、ヨーロッパを克服していない証拠なのである。なぜならヨーロッパ人はなによりもまず自己を以てしか他を測らぬという頑迷な態度において徹底しているからである。われわれは技術文明を輸入したが、ヨーロッパからこうした自己中心的な沈着な精神態度はいささかも輸入していないらしい。」

※これが人種問題由来のものだとすれば、その輸入にも限界があることが明らか。

P196-197「というより、極論すれば、われわれにとっては「西洋」というようなものさえ存在しなかったと言ってもいいのだ。西洋のために西洋を理解するのではなく、ただわれわれのために、われわれの文化のために、西洋を理解しようとする目的意識から解放されたことがあっただろうか?……

ヨーロッパ人にとっては、今も昔も「日本」などはあってもなくても良い存在でしかない以上、両者の関係は徹底した無関係である。この根本の原理にくりかえし立ち帰ることがわれわれの孤独の確認のために必要なのである。

が、それでいて同時に、無関係であるにも拘らず、「西洋」はすでにわれわれの現実を動かし、われわれ日本人の内部に宿っている。自分の内部にあり、自分を変質させてしまったものがどうして単純に無関係であり得よう。

動揺し易い日本人にいま必要なことは救いを拒絶して立ち止ることである。」

※日本である必要はないにせよ、東洋という参照点は西洋にとって求められていたものであり、事情は同じであるがそう解釈していない。

P203「かかる相対的なものをとかく普遍化して考えたがるのはもともと西洋的な認識形式なのである。その普遍化・法制化への意思が近代のテクノロジーの文明を生んだ西洋的合理主義と基盤を一つにしているものであることはとくに強調されねばならない。」

 

☆P208「ヨーロッパの文明論がなぜ翻訳されて、日本人にも読むに耐え得るのか、そこには自己への懐疑、批判、苦悩があるからであり、文明論をかくそもそもの動機が自己讃美のためではなく、困難を克服するために必要に発しているからである。」

※西洋を賛美する態度、だけで理由としては足りるのでは?この説明は無理がある。

P209「ヨーロッパが進歩の理念を信じなくなったのは一九一八年以降である。それ以来ヨーロッパは黙然と孤独に耐えているのだともいえるかもしれない。」

P210「日本人の長所も(※海外滞在により)解ってくる。日本人は気は弱いが、礼儀正しい国民である。思いやりや心づかいは日本人特有の美点をなしている。ただ、その礼儀の在り方が違うだけで、生活上の様式や意識が異なっているために、簡単に「進歩」の基準で比較することなど出来ないものが沢山あることが解ってくる。」

P211「もともと西欧世界に恐怖をかんじて鎖国を解き、国を開いた日本人が、百年やそこいらで自立心をもてないのも当然かもしれない。しかしせめて、少なくとも、そういう自分のこころの動揺だけは自覚していなければなるまい。」

※このことの有無は何をもって判断するのか。この部分周辺では梅棹が参照されているが。

☆P211「「無関係」であることを強調するだけでは、それもまた一種の絶対主義に陥ることになろう。ヨーロッパ的なものを拒絶して、純粋に日本的なものを守ろうとする立場は、やはり一種の抽象論である。……

これもひとつの危険である。なぜなら、日本的なもの、アジア的なものをことさら意識することは、「西洋化」の結果なのであり、したがって事実として存在する「西洋化」を意識的に排除しても排除しきれるものではないし、むしろ西洋は裏口からしのびこんで、復讐を企てるようなことになる。」

※だからこそ西洋は「耐える」態度を取るものとし、それを評価するわけだが…西尾の態度に対する評価の方(西洋人はさておき、西尾自身の日本人論批判も西洋化された結果なのではないのか、という問い)はきわめて曖昧になってくる。

 

P215-216「文化の異質性の強調は必ず文化の等価値の立場を強めることになる。すると、文化に関する価値観がしだいに稀薄になってくる。価値観が相対化されれば、現在の日本文化の現状肯定というところへあと一歩しかない。だから、近頃、文化人類学者が座談会などで、しきりに日本文化を見直す式の発言をしているのが目立つ。……だが、これでは困るのである。われわれは価値観なしで生きることはできない。だが、価値観は現状肯定的なものであってはならないのである。」

※何故困るのか。そして、このような態度をとることこそ、自己否定の論理に直結しかねない。

P218「現在において純粋とは一片のエゴイズムでしかない。善かれ悪しかれ、われわれは自己を制御するなにものかを信じない限り、「自己」そのものを成り立たせることさえも出来ないであろう。われわれは「個人」という概念を過信してはならない。「個人」などというものはなんの力もない。無言のうちに、「個人」の背後から支えているなにものかを信じない限り、われわれは西洋に接しても、西洋を生産的に獲得することは出来ないであろう。」

※これはある意味で正しい。

P218-219「私は本書を通じ、なにひとつ解答を与えることは出来なかった。ただ問題の所在がどこにあり、われわれがそれにどう対すべきかという姿勢を意識してきたにすぎない。」

※これ以上議論を進めようがあるのかどうか?以上、「ヨーロッパ像の転換」1969年から。

 

P236「だが、いまの日本では、不自由と不平等が人間を抑圧しているという事実よりも、そう思いこんでいる心理から起こる障害のほうがはるかに大きいのである。

地球上のどこを捜しても、いまの日本人ほど個人の権利のみが多く主張され、義務や責任が要求されることの少ない国民はそうあるものではない。この解放状態は空前のものである。……相対的な「善」に満足することができず、つねに絶対的な「善」を求める。そういう心理的傾向がしだいに激しさの度を加えているように思える。」

※これは前著によってはほとんど立証された議論ではないし、アメリカと比べてもそうであるとはとても思えない。また、ここでいう「相対的な善」とは誰にとっての議論かを問うた場合、「(社会の)一般人」という漠然とした前提であることも問題。

P240「だが、じっさいの子供の世界は、現実世界の縮図である。スポーツやけんかの能力が子供の世界に序列をつけている掟である。これはいまも昔も変わらない。大人の世界よりもっと原始的な弱肉強食の法則が支配している。こういう子供の世界に対して、生まれつきの頭脳の差、体力の差、才能の差をことごこく抹殺したきれいごとじょことばを並べたところで何の意味があるのだろう。賢い子供ならそういう大人の甘やかしに虚偽を感じるだろう。だが、それほど賢くない子供は、学校社会という温室がそのまま現実の社会だと思いこんで、いかなる保護の手も差しのべられない現実社会に出たとき、困難を独りで切り抜けていく忍耐力をもうもってはいないのである。そういう教育は洋裁店をやめてくにへ帰ってしまうような子供をふやすだけである。

運動会に商品を出さないとか、優等制度をやめるとか、先生と生徒とは人格的に対等であるから友達のように接するべきだとか、受験競争は子供の精神を歪める社会悪であるとか、こうした一連の戦後教育家の、子供に被害妄想を与えまいと、まるではれものにさわるような気の遣い方は、それ自体、教師の被害妄想のあらわれでしかない。その結果、先生は自信を失い、子供は気力を失う。なんの得るところもない。」

※学校で「上から与えられた抽象的な徳目」(p240)の弊害とみている。

 

P242「多数の日本人の頭脳に宿っているような抽象民主主義などは世界中のどこにもないのである。日本人は自分の生活様式に合わせて、民主主義らしきものを創っていけばそれでよいのであって、海のかなたに「完成品」を求めて、徒らに日本社会の封建制、前近代性を非難しつづけてきた結果、いま気がついてみると、われわれは途方もない抽象文化のただなかに置かれているように思える。」

※とても多数の日本人に妥当する議論とは思えない。

P244「だが、なぜ人々が、空想的なユートピア思想に魅了されるのか、これは世界的現象ではあるが、むろんヨーロッパより日本のほうがそのていどはひどい。いうまでもなく、ヨーロッパでは歴史の拘束力がまだ生きていて、実体のない、空想的な「善」を求める進歩への信仰を受けつげないなにものかが市民生活のなにかにまだ残っているからである。」

※この残存について、どう考えればよいのかこそ、最大の問題である。これはいかに対処すべき問題なのか?そして、ここで西尾は明らかにこれを制度の問題ではなく、観念の問題と断じているが、本当に正しいと言えるのか?国民性の議論を相対的な議論として語るのはここが初。

P244「戦前までは日本でも職人気質というものが尊重されてきた。しかし戦後、畳屋や植木屋になればサラリーマンより一歩下がったというような被害者じみた暗さが発生し、しだいに職人のなり手が少なくなってきているといわれる。そういう傾向が戦後いっそう助長されたのは、民主主義観念の普及のせいだということに案外人々は気がついていない。

おそらく最大の原因は、「平等」という思想が西洋からの借り物であるだけに、背景の実社会と釣り合いがとれず、国民の頭脳のなかでまるで信仰のように絶対化し、純粋培養されているせいだろう。人間はけっして平等になれない存在なのである。西洋ではそれは常識である。」

※前著ではなかった戦前・戦後の区分。

 

P245「教官と学生という職能上の区別さえ意識されなくなる日本のこの粗暴事には、じつにさまざまな原因が考えられるだろうが、いわゆる民主主義という名のもとに、先生と生徒との対等ということばかりが強調され、すでに小学校のとき以来、先生が権威を失い、生徒に「教える」のではなく、生徒と「共に学ぶ」のが正しい教育方針だと考えるような、生徒を甘やかす一方の誤った平等教育の行なわれてきた一つの結果であるといえるかもしれない。

少なくとも、年長者に対することばづかいの混乱は近頃の特徴であり、それは社会の秩序のある崩壊を予感させるものがある。」

学生運動に対するこのような見方は西尾の価値判断にも影響があると思える。むしろ西尾が批判する理念だけの議論での批判が学生運動にあったとみられているはずだが。また、教育のあり方についても、遠山についていえば、「共に学ぶ」思想は学生運動以後の主流議論である。全生研についても同じ。

 

P249「「平等」の観念や「民主主義」が空想のなかで神格化される傾向なども、日本ほどひどくはないが、ドイツの知識階級のなかにもたしかに認められる。つまり、日本やドイツでは、革新や改良が安易に正義になりやすい心理的地盤をそなえているといえるかもしれない。……

ただ、ドイツでは日本と違って、民衆の「知識人化」という現象はまだ起こっていない。日本において、いちばん奇怪で深刻なのは、こういう現象が津々浦々にひろがりはじめていることである。洋裁店の縫い子見習いがたった一人でストライキを起こすというようなこと、あるいはごく普通の職業人や主婦が「平和」とか「ピューリタリズム」ということばを聞くや、あるパターンの決まった反応を示し、目を据えて熱っぽく既成語をしゃべりはじめるというような例は、いずれはヨーロッパにも起こるかもしれないが、私の滞独中に、まだ、そういう心理状態を目にし、耳にしたことはないのである。」

※このドイツの傾向は「ほかの欧米諸国に比べ、いちじるしく機能主義、便利主義が進んでいる」と示される。後半の話は私も日本で出くわしたことがないが…

 

P256「が、ヨーロッパで暮らしていてはっきりわかることは、ヨーロッパ人はただの一度も日本に対する恐怖や競争意識にさし迫られたことはないのであって、日本の「西洋化」という歴然たる事実はあっても、西洋の「日本化」という事態はいっこうに起こらない以上、日本人が劣等感を感じようが、優越感を感じようが、それはすべて日本人の独り相撲でしかないことである。」

※劣等であるとみなしているものに影響を受ける発想が基本的にない、と言っているのと同じ。問題は、これを日本自らの影響のみの結果とみるかどうかである。「だが、しきりに自分で自分をほめたくて、日本人みずから日本の文明をたえずどこかと比較して、どこを追い抜き、いまはどの辺にあり、したがってどこと対等になったとかならぬとか、そういうことをくりかえすこと自体がつまらぬ劣等感情の表現でしかないことに気がつかないことのほうがよほどどうかしている。」(p256)そして、「ヨーロッパ人は、なによりもまず自分の価値観をもってしてほかを測らぬという自信に満ちた態度において徹底しているから」とする(p257)

P257「外国との比較をもってしか自国を測れないのは、ある意味では、近代日本の歴史の宿命ではあるが、だからといってそれがいいということではけっしてない。むしろそれはやむをえぬ必要悪であることをいつもはっきり自覚していなくてはならないのである。」

※「基準が必要なら自分自身の過去と比べる以外にない」ともいう(p257)。この態度は西尾の態度の取り方からすれば、観測不可能なものなのでは?

 

P277「二年間の私の滞欧経験だけでは、どうもはっきりしたことはわからないが、以上の例からもわかるとおり、ヨーロッパ人の生活は「社会」というものを前提において、家族生活も外向きに仕組まれているように私には思われるのである。「社会」というものが人間の生き方につねにある様式を強いているのである。したがって、誰しもその様式に則って生きる必要から、「個人」の自覚も芽生えてくるのであろう。家族という保護組織はそれだけ相対的に微弱なのである。

日本では内密な、私的な、微温的な家族関係がもっとも実質のあるものとされ、むしろその湿った、ある意味では動物的な人間感情が臆面もなく社会生活に拡大されるところに、近代的な生活様式の上で混乱が発生することは確かである。こういうことは多くの識者に、これまでもくりかえし指摘されてきたことだが、どうしてもわれわれがその混乱から脱却できないのは、家族同士のように、いつも人間関係が暖かく包まれていたいと欲するのが、日本人本来の「長所」でもあるからに違いない。」

※「親が必要以上に神経を使いすぎ、また子供はそれに慣れて、すっかり甘えているという状況からくる、あの一種独特な、日本的家族にのみ特有の、互いに寄り添った、悪く言えば、やりきれない雰囲気が感じられたのである。」(p275-276)といった発言に関連していると思われる。

 

P280「なるほど、対人関係において、こころの深いところで、相手が自分に背くかもしれぬという観念を深めていない日本の社会では、およそ人間関係を「契約」としてとらえるという思想もけっして徹底しない。相手が自分に背くという可能性への警戒は、自分がまた相手に背くかもしれぬという自分の悪の自覚を前提とする。だからヨーロッパでは、人間は「神」とさえ契約を結ぶのである。そういう意識の訓練のないところでは、「西洋化」は必ずしも合理的には作用しない。

しかし、それにもかかわらず、こんにちの複雑な機構を調節するためには、西洋から輸入した社会調節のためのさまざまな方程式をいきなりかなぐり捨ててしまうことはいまさらできないのである。われわれが途方もない混乱のなかに立たされていることは、だから明瞭である。」

アノミー論的理解もある。

P285-286「ヨーロッパでは、十年前の書物はたいていいまでも版元に在庫しているのに、日本では、一昨年出版された本が今年はすでに絶版であったり、ある人が一年前にした政治発言がたちまち現実性を失っても誰もその論理的矛盾を難じたり、責任を問うたりせずに、その同じ人が、しゃあしゃあと新しい現実に合わせた新しい別の発言をしている。ことごとく、話題が本質に先行する。情緒が論理に先行する。つまり変化の激しさそのものが日本的条件を暴露しているのである。」

※何一つ基準がない。これではミイラ取りがミイラになるのも不可避。

 

P288「われわれはだから、最大限の想像力を発揮して、あるときは日本人以外のものの目で日本を見、また別のときに純粋に日本人として日本を見ることが必要となろう。そしてそういうくりかえしの操作自体がきわめて観念的だということを、いつも、はっきり自覚していることがもっと必要なことだろう。」

※このような主張をするのは一向にかまわないが、批判自体に根拠がない以上、この主張が「どうすれば実現するのか」についても明言不可能となり、主張そのものが意味を持っていないことになる。何故なら、その基準が「主観」の域を出ることが全くできていないからである。なにもかも主観の恣意的判断で、事実を悉く捻じ曲げることも可能であり、「そうでない」というための根拠に欠けるのである。

P294「いったい人間と人間との関わり方が、ここでは本質的に、ある冷たい相互不信を前提として成り立っているのではないだろうか? だからまた一方では、エゴイズムを相互に調節するために、一定の様式や秩序感覚が、日本などよりはるかに厳しく要請されているともいえるだろう。そういう関係はべつに意識的なものなのではなく、長い歴史が培った一種の慣習と化し、個々人の行動を規制するあるパターンをなしているのではないだろうか?」

 

P301「紛争がどのような種類のものであれ、日本におけるさまざまな社会事件がきまってこのようなだらしないパターンをくりかえす例は十数年間見つづけている。私はなにも最近の大学紛争のことだけを念頭に置いていっているのではない。大学紛争の場合には、学生・教官いずれも問わず、当事者が大学の外にある一般社会に対して想像力や責任感をまったく欠いていると同様に、日本の国論を二分するような外交上の論争から発した国内暴動の場合には、当事者である日本国民全部が国際社会に対する影響への見通しや日本の将来への想像力を完全に見失ってしまうのである。」

※何故か明言しないが、安保闘争の話も指しているのだろう。他に例として小さな紛争の際にはその味方に立つが、それが暴動の色彩を帯びると慌てて紛争を鎮めようとする新聞ジャーナリズムを挙げる(p300)。少なくとも西尾は日本的節操のなさを、この議論にはっきり結び付けている。

P301「彼ら(※欧米人)の場合には破壊にもルールがあり、計算があり、戦争をさえ一種の取引の材料に使う実利的感覚を身につけている。欧米人は革命の理論をあみ出した人種である。それを実行し、弾圧され、ふたたび反乱を企て、等々、そういうことをくりかえしたきた人種である。彼らの秩序感覚は、したがって彼らなりの論理で首尾一貫しているものがあるといえよう。

日本人はこれに反し、秩序を守ることにも不熱心で、曖昧な民族だとすれば、秩序を破ることにも甘い、不徹底な性格をそなえているといえるだろう。」

※石原的な見方。

 

P302「前にも述べたとおり、ヨーロッパの家庭では、子供はつねに外の社会へひらかれた教育をしつけられているのは、社会の秩序がそれを要求しているからであるともいえよう。つまり外側からの強圧的な要求がないということが、日本人にこの一種のだらしなさと、主情的仲間意識ですべてを片づける悪循環を生んだのかもしれない。」

P303読売新聞、手塚富雄のコラムからの引用…「何か建設的なことが議題にのぼっている集団的討論の場で、少数の者が意欲的に反対を連呼すると、たいがいはそれがリードしてくる。建設的なことが成立しないのである。もっともこれは実質的な討論が可能であるような少人数の話し合いの場合はダメで、理性的な立場が出ても、それがみなの耳にはいらないように、会場をガヤガヤとさせてしまうことができるほどの集合の形をとっていることが必要なのである。つまり多数という民主的名目をもつ場が、もっとも少数の意欲者にとって都合のいい土俵なのである。大学生が声高に団交を要求するときこのねらいをもつ者がかならずまじっている。学者たちのある非公開の討論の場所でも、これに似た例のあることはわたしは知っている。」

※68年8月7日のもの。ただ、これは前述の合理的感覚にあたるのではという疑問もある。

 

P304「保守党の代議士にも、左翼の学生運動家にも、そしてまた学術会議会員にも、およそ共通点がないように見えるこうした三つのグループに、しかも日本人全体のなかでもっとも「近代的」と自他ともに任じているはずのこれら指導階級に、まるで近代的な訓練ができていないという指摘は鋭く、的確に矛盾を突いた現代日本の頽廃に縮図である。」

P304「だが、わずかでも妥協することは、たとえば政府に、もしくは権力側に利用されるという宣伝がたちまちのうちにひろがるや、先の先まで邪推し、恐怖して、結果的には、殻に閉じこもって一歩の進歩もありえない守旧的態度に終始するというのが、いつも変わらぬ日本的進歩の奇怪な姿である。」

※ここでは妥協しない日本を問題とするが、これも先述の新聞ジャーナリズムとはずれた見方である。「一口でいえば、それぞれのグループが社会内存在であるという自覚をまったく欠いていることに問題があるのである。」(p304)

P304「そして、こういう場合に、必ず見られる現象は、グループが自分の自主性を貫くためにはどうすれば効果的であるかという計算ではなく、周囲の別のグループと比較してみて、自分たちのグループだけが、いかに外見上、自主的に振舞っているように見えるかという見栄なのである。」

※見栄の問題も海外比較せねばならないのでは。

 

P305「日本人を支えているのは、和辻哲郎氏が述べたようないわゆる「間柄の倫理」である。人と人との情的な関係によって成立する道徳観は、見栄や、照れや、恥じらいというエモーショナルな消極的倫理をしか育てえなかった。」

P307「日本に「市民意識」が育たないのは、日本人にはそういう外枠への想像力や構想力が弱く、ために、自分が属している小集団の価値観を絶対化し、それを外の世界へ主観的に押しひろげていこうとするわがままや無理強いが幅をきかすことになるためだろう。」

P314「ヨーロッパにおいては、世俗道徳はつねに絶対化を免れている。ヨーロッパ人の日常生活に健全な「社会性」があるのは、なにもキリスト教の信仰そのものによるのではない。キリスト教教会と、一般の世俗社会との間の、この並行的な力関係に負っているところが大きいのである。だから信仰が稀薄になっても、世俗道徳はおとろえない。いたるところ相対的な近代理念がはびこっても、それが単純に絶対化されたりはしない。世俗社会の一元化は免れる。単なる仲間意識が道徳になることもない。」

P318「ヨーロッパにおいて、「解放」という概念は、一つの共同体から解放され、他の共同体のなかへ拘束されていくという以上の意味をもってはいなかった。ヘーゲルが法の哲学において、「家族」という共同体は「市民社会」において、さらに「市民社会」において、それぞれ弁証法的に止揚されると述べたとおり、ヨーロッパ人の共同体意識は個人、家族、都市、国家、そして現代では西ヨーロッパ共同体へと次々と段階をふんで開放的に拡大してきたのに反し、日本人の場合は、よくよく「家」単位、「会社」単位、「仲間」単位の目にみえる小範囲の人間関係にしか他者への意識は及ばないのではないかというのが、私が前の章までに述べてきた疑問なのである。それだからまた、単なる個人的なエゴイズムが、中間のいっさいの枠をとびこえて、世界国家とか人類福祉とかいう、自己とは真剣に関わりようのない抽象的題目と容易に結びついて、恥じることがないのである。」

止揚の思想を都合よく解釈しすぎでは。それとも、止揚の考え方が日本と欧米で本当に違うものと解釈されていると言えるのか?

 

P320「共同体意識は共同体への愛ではない。むしろ危機感に発する個人の自己保存本能である。国家意識は国家愛である必要はない。世界が国家単位で運営されている事実への個人の合理的な適応能力である。」

☆P320-321「ヨーロッパ共同体は、必ずしも、近代国家の概念の止揚でも、廃止でもない。必要やむをえぬ協力体制でしかない。それどころか、ヨーロッパがある強力な統一体として均質化し、画一化しないことがむしろヨーロッパ文化の多様性をささえる刺激剤をなし、対立抗争は場合によっては健全の証しであるとさえいえるかもしれない。

以上述べているようなことは平明な常識にすぎない。国際政治学上の理屈など知らない私はただ常識で考えるが、日本では、こんな当たり前のことがどうしても通じないのである。」

※これをどこまで常識と呼ぶのが真理なのかに、ほとんど西尾の評価が集中される。

P321-322「そしてそれこそ目を外へひらいて、国家的エゴイズムが現にせめぎあう世界の修羅場を正視することが必要だろう。

じつはそうすることによってしか、「国家」という偏狭な枠を超えて、広い世界の場へ出て、国際的な思考に耐えることも可能にはならないにである。できるかぎり国家間の憎悪をとりのぞき、緊張をやわらげ、国際社会の協力体制へ開かれた役割を演ずるというわれわれの目的は、現にみられる国家同士の休みない打算と悪意の正確な認識を前提とする。

だが、そういうあり方を、理想を失った現実主義としてさげすむ勢力が日本になお根づよいのは、いまだに日本の知識人の意識が前近代的で、西洋的な意味での個人主義が身についていない証拠である。」

前近代的という意味がわからないが。単に近代を身につけていない途上にあるだけでは?

 

P323「だから個人であることは、いかなる全体への顧慮ももたずにすむ状態だと、われわれは信じがちである。一方、全体であることは、個人が完全に全体に吸収されてしまうことだと、われわれは考えがちである。一方、全体であることは、個人が完全に全体に吸収されてしまうことだと、われわれは考えがちである。そのどちらかにしか意識が働かないのである。

ヨーロッパにみられる個人と全体との契約的な関係が成立するためには、国内に多民族が混在し、絶えず内側からゆさぶりをかけているとともに、国外にも異集団が境を接していて、やはり外側から安全をおびやしてくるという条件が必要なのであるかもしれない。ヨーロッパ全土が容易に単一化せず、いくつもの契約国家を必要とした。「個人」という意識がおのずと発生する所以である。」

※この環境要因は日本に無理に求められるものなのか?

P327「そして、この場合、ヨーロッパ人が理念として求めるこの国家概念の止揚は、けっして単純に未来主義的なものではないことが、特に強調されなければならない。」

P335「個人の行動様式がつねに「社会」という場に開かれているヨーロッパ人の生き方については、すでに前の章でも詳説したが、都市の作り方一つを例にみるだけでもそれは明瞭にわかるのである。」

※これは社会構造の話であり、個人の心性を説明するものではない。

 

P340-341「そう考えると、日本の孤独はほとんど確定的である。

われわれは何百年にもわたる外国との交渉や闘争のプロセスのなかで、ナショナルな感情を育ててきたわけではない。ナショナリズムなど日本にありえようはずもない。だからまた、合理的なインターナショナリズムへの参加にもたえず抵抗が起こり、不合理な反発がみられ、外界への適応不全がいちじるしい障害をなしているのである。

われわれはほんとうに連帯してよい外国などはもっていないからである。日本はさまざまな外国から影響を受け、どの外国にも影響を与えたことはない。日本人ほど、世界中のあらゆることがらをよく理解しながら、世界から理解されていない国民も珍しいのである。ということは、われわれの理解は、われわれの主観的解釈にすぎず、ほんとうの外国は、みえていないということになるのかもしれない。」

※人種差別の産物なだけでは。そして最後の一文は西尾には適応外なのかどうか。

P343「第一に、都市の没個性である。近代化以来、地方文化は急速に衰退し、どの町も個性を失っていく一方である。多少とも活動的な地方都市であれば、街並みはたいてい東京の小型模型である。日本風の家屋のあいだに、不揃いな小型ビルを林立させる不統一は、都市単位の社会性を発揮したことのない日本人の共同体意識のあり方に関わりがあろう。」

P348「日本において、論争や批評が、多くの場合において思想になりえないのは、思想を操る主体の側に、馴れ合い、妥協、自己回避、あるいは仲間うちへのウインク、ことば以前の集団思考スクラムを組んだ論理以前の態度がみられるからである。だから、論争といえば、思想と思想との対立ではなく、思想の衣裳を纏った二つの現実の頑なな対立に終わるしかなかった。

日本の近代思想には、ことばの真の意味での論争性に欠けているからである。ために一つの思想の正しさが他の思想の過ちをただちに証明するような単一性をその性格にひそめている。」

※これは日本でいう止揚が真の意味で止揚ではない、という発想。ただ、ここでいう「現実」をどう解するかは難しい。以上、「ヨーロッパの個人主義」1969年。

 

P353「私はヨーロッパの「個人」というもののバックグラウンドを描くことでヨーロッパを相対化したつもりでいたが、いま読みかえしてみると、それでは不十分であった。日本には日本特有の「個人」のあり方があるはずで、それを追求し提示しなくては、ヨーロッパと日本の両方を公平に並列して位置づけたことにはならないであろう。」

※正しい。

P361「じっさいの生活では、日本人はバラバラの個のなかで、微妙な個人主義のもとに生きている。それだけに義理や人情といった一見群れたがるような集団主義的なことが、文化現象として強調される。」

P363「外国人が感じるこのような日本のよさは、もちろん技術力の高さも関係してくるだろうが、同時に日本人の審美感が強く影響しているのではないか。日本人の道徳は美意識である。いわゆる精神的道徳にはとどまらない。逆に、教訓や精神や原理からくる戒律が強い文明というのは、それだけ乱れている証拠なのである。」

P364「美徳ということばがあるが、やはり日本人にとって美意識がすなわち道徳なのではないだろうか。それが日本人の強さでもあるが、美政治的な批判力にはなりにくい。美を基本とする道徳は、どうしても戒律や原理を基本とする道徳よりは弱いのである。」

P366「理を尽くして説かないことに特徴があるこの国の美徳は、必然的にある種の弱さをもっているので、どうしても外に向かって自分を主張しなければならない。主張するべきではないことを主張するということは矛盾だが、それこそが宣長が模範を示したところのものである。」

※このような見方はそれだけで精神論的な改善要求を正当化する。以上、「個人主義とは何か」2007年。

 

P418-419「親が子供を教育するときに日本人との違いは歴然と現れている。日本人のように親は子供をそもそも大事にしない。親の子供に対する躾け方は厳しいし、子供の生き甲斐にして生きるというような教育ママ的母親は存在しない。いや大事にしないというのではなく、扱い方が違うと言った方がいい。つまり親は子供をある意味で冷淡に一個の社会人として突き放して育てていくので、やがて子が自分から離れていくことは当然の前提と考えられているのである。」

※1972-74頃の文章。

P566「そういえば日本の産業力の増大と貿易の勢いを恐れた八〇年代のアメリカが「日本封じ込め論」を展開したときに、集団主義的経営をアンフェアと非難したことはたしかに忘れもしない事実だった。だがあのときはドイツでも、というよりヨーロッパ全体で、日本は個人主義を欠いた異質な文化風土のゆえに不公正な競争をし、ひとり勝ちしていると非難されたものだった。アメリカもヨーロッパも対日批判では一致していた。」

※2010年の文章。

P588-589「それで西洋には宗教があるとかないとかよくいうけれども、日本は『菊と刀』にあるようなみえだとかそういうことで、日本人の精神は成り立っているんだといいますが、しかし私は西洋人でりっぱな人に会ったこともありますけれども、普通の平均の西洋人で日本人以上にみえを気にしない人を見たことがない。

西洋人のほうがある意味では虚栄心がもっと強い。日本人が特に『菊と刀』に書いてあるようなものじゃ決してないと思いますがね。」

竹山道雄の発言。1970年の対談から。

E.H.キンモンス、広田照幸ら訳「立身出世の社会史」(1981=1995)

 今回も「日本人論」として「社会問題」を扱った著書のレビューを行いたい。

 

 本書は、明治から昭和初期にかけてのエリート層の青年(高等学校進学者)向けの雑誌の言説分析を中心にして、「立身出世」の意味合いの変化について捉える中で、現在の「日本人論」に対する批判を行っている。

 その中で中心的なテーマの一つといえるのが「個人主義」的な思想の受容と形成である。その足掛かりとしてまずスマイルズやマーデンのような「国や集団の利益のため」といった動機付けではなく、個人の「立身出世」を説いた本が広く読まれていた事実に着目する(p12)。ただ、キンモンスはこの段階においては個人主義的なものを認めている訳ではない。明治初期のエリートにとっては一旦試験制度を乗り越えてしまえば若くしてリーダーになることを自動的に約束されていたため、個人主義的発想というのは意識化する必要のないものであった。

 

 しかし、主に2つの事情が明治後期になって日本的な個人主義的な思想を生みだす要因であったとキンモンスはみている。一つは「国や天皇への献身」の思想である。このことは明治初期にはほとんど議論の遡上に挙がらなかったが(p74)、それが強化されるのと並行しそれらが「古い社会とのつながりを断つことを正当化する」ものとなった(p298)。

 もう一つの理由として、明治後期に入り、そのエリートとされる者の対象が拡大したことを挙げている。この段階に入ると、より上の学校、そしてエリートとしての就職先で受け入れられるパイの数とのミスマッチが生じてくることになり、脱落者が可視化されてくる。このことへの重圧(実際に脱落することと、脱落するかもしれないという可能性の両方を意味していると思われるが)というものにぶつかった煩悶青年に、キンモンスは「個人主義」を見出している(p302)。これは、これまでのレビューで扱ってきた「個人主義=『世間』からの解放過程」という見方とマッチしたものでもある。

 

 だが、このような個人主義の思想は、日本には浸透しなかった。その原因としてキンモンスは早熟な日本の官僚制的資本主義を挙げる(p304)。ある意味でエリートが自由にその「立身出世」を行うことができていた時期は日本の場合、かなり限られた時期にしかなく、早い段階で「敷かれたレール」に沿った「立身」がなされるようになったことで、個人主義的な傾向の強かったスマイルズ風の品行主義が、他人のご機嫌をとる作法を身につけるのに専心する人柄主義にとって代わったのであった(p25,p294-295)。

 

 

○キンモンスの「日本人論批判」の評価について

 

 これまでのレビューとの関連で言えば、江藤淳も指摘していたような、日本でもありえた個人主義の系譜を捉えようとした所は本書の大きな価値であるといえる。また、丸山真男の日本のエリート層の戦争受容の指摘についても、実際はかなり功利的な受容をしており「受動的な抵抗」があったとは言い難いことや(p4,p310)、江戸時代からの封建主義が明治以降のエリート層に与えた直接的影響の否定(p294-295)といった日本人論批判は、ダニエル・フットが述べていたような文化的影響だけに着目した日本人論への批判とも関連しているといえる。

 

 ただ、他方で、本書が批判する日本人論はかなり部分的であり、ほとんど「日本人論」そのものを否定しているとは言い難い。一見、「近代化」論的に議論するキンモンスだが、それはあくまで伝統的な日本文化との関連性からしか結びついておらず、通常の近代化論者が否定するような「特殊日本的な事情」と呼べるレベルの日本人論はあまり否定できていない(cf.p304)。

 また、これに関連して「参照点」として、本書で見た官僚制的資本主義の議論を変える余地のあるものとしてとらえている節もあるが(p305)、これはある意味で不平等の強要でしかなく、民族性等における問題を相対的に抱えてはいなかったと思われる日本社会において、「エリート対象者の拡大」という現象を政策的な意味で防止できたものであったものとみなすことにはかなり疑問もある(少なくとも、別の検討が必要な問題である)。

 更に、これまでのレビューとの関係でいえば、本書における「社会問題」の把握の仕方にも注目しなければならないだろう。言説分析固有の問題とも言えるだろうが、「対象としたものに言説が存在しない=実態が存在しない」ことを真とみることには注意を払うべきである。本書では試験への重圧の議論(p131,p197-198)で、少々過大評価をしているような印象を受けてしまう。また、藤村操の自殺について(p190)は極めて社会問題的な観点をもっており、合わせて新聞をはじめとしたジャーナルの分野の発展といった観点も含めながらその位置づけを行っていく必要があるだろう。

 

 本書については「日本人論」の話もそうだが、因果関係についての捉え方が複雑となっており、一貫した内容の説明にあたり矛盾しているように見える部分もある。特にナショナリズムに対する物事の捉え方がすっきりしているとはいえず、それは「家族主義」を「共同体意識」とは別物として捉えること(p74,p75)や、タテマエ的に「国家主義」が語られること(p74,p128)は、本書で強調されるように明確なものなのか疑問に思われる所であった。70年代の「穎才雑誌」の分析結果はp79に示されており、量的傾向もここから確認されるが、「家に対する暗黙の関心があった」ことはとても読み取れないし、逆に単純に多数の者が「国家との利益」について関連づけて語っていないことが直ちに国家主義との関連の否定になるのかも読み取れないのである。本書は確かにかなり細かな実証研究として位置づけることができるだろうが、それでもなお「解釈」に依拠している部分がある印象も見受けられるのである。

 

 

<読書ノート>

 

P4「日本の中国侵略によってもたらされた好景気に対する学生たちの反応を伝える史料は、エリート知識人層は軍国主義ファシズムに「受動的に抵抗」した、と主張する丸山真男たちの見方とは異なる実相を示している。当時の就職に関するさまざまな記録を通覧していくとわかるのは、侵略に関与したり、侵略から利益を享受していた組織や企業への就職を、大学卒業生がいやがったという証拠がどこにもないということである。むしろ全く逆である。日本のアジア侵略に深く関与していた満鉄や、さまざまなシンクタンクは、当時のエリート学生にとって最も人気の高い就職先であった。

さらにもっと驚くべきことは、日本の軍国主義ファシズムの社会的基盤であると一般にいわれてきた旧中産階級が、概して日本の侵略行動から利益を得ていなかったということである。「満州国」における受益者は、もっぱら日産のような高度な技術水準をもった企業体に限られていた。」

P4-5「それゆえ、軍国主義が生み出したのは、小ブルジョアの歓迎する状況ではなく、大学教育を受けたテクノクラートに権力を与える状況であった。一般にこの時代を語る時には、「八紘一宇」や類似のスローガンが持ち出されやすいけれども、実際には、「統制」や「計画」といった語のほうが、キー・ワードとして、もっと流布していた。

さらにいえるのは、この時代の政策や制度は、ある意味では社会主義的な色彩のものであったということである。日本の研究者は往々にして、日本の軍事体制のこの社会主義的性格を無視してきた。私の研究から言えることは、社会主義ファシズムとを対置させる分類法は、特に日本の場合、あまり有効な枠組みではないということである。もっと有効な枠組みは、テクノクラートが権力を握って、国家目標のために規則や命令を出して市場経済を否定する体制と、資産家が主導して、自分も利益に向けて市場原則を利用しようとする体制との区分である。」

※これをどう見るか。

 

P6「もし日本の軍国主義ファシズムの興隆を「封建遺制」が日本よりももっと根強く残った英国社会が、なぜ軍国主義ファシズム国家にならなかったのかという問題に突き当たることになる。おそらくこの答えは、二〇世紀の日本には重大な意味を持つ「封建遺制」は存在しておらず、そうしたものは軍国主義ファシズムとは関係が無かったというのが正しいように私には思われる。

日本の「封建遺制」を他国と比較するという試みがうまくいかないのは、日本の学問が持つ欠陥に由来している。それは、イデオロギー的関心から構築した一面的な「日本」像を、理想化・偶像化した「欧米」像と対置するというやりかたで、日本の歴史や社会を批判するという方法がもつ欠陥である。」

※少なくとも、日本だけの責任とは言えない。

P12「問題があると思えたのは、たとえば、明治期の企業家は、個人の利益よりも集団にとっての利益よりも集団にとっての利益の方に動機づけられていた、という説明である。それは、次のような、ステレオタイプ化した考えと密接に関わっている。西洋では、あるいは少なくとも英米では、個々人の競争を中心とし、自分の利益の最大化だけに関心を払った出世や業績、という考えや著作の伝統があり、対照的に、日本では、調和や集団的努力や、集団に利益が強調される伝統があった、と。

しかしながら、もし、スマイルズの『セルフ・ヘルプ』や、マーデンの『プッシング・トゥー・ザ・フロント』のような、立身出世を論じた英米の古典的著作が、どちらも近代日本で大人気を得たことを考えるならば、英米と日本の相違点は、少なくとも強調されすぎてきたことがわかる。もし言われるとおりの相違があったならば、これらの本は当時の日本人に理解されなかったか、あるいは非常な怒りを呼び起こしたはずだからである。」

 

P69「スマイルズは、ワット、ニュートン、スティーヴンソン等を忍耐の例として用いたことは確かであるが、彼は、単にこつこつと勉強することの利点を強調するのではなく、技術上の発見や革新には時間がかかるというこちを言いたかったのである。

ところが、明治の青年にとって、少なくとも『穎才新誌』に作文を投稿する者にとって、重要なことは発見でも科学的方法でもなかった。そうではなく、ゆきつくところは、富貴、賢人と愚者といった決まり文句であった。」

P70「こうしてみると「勉強」という語の普及の原因は、おそらく『西国立志編』にあるのだろう。なぜなら、その語は、明治初期もしくは江戸時代の書物のどれよりも多く、『西国立志編』に登場するからである。とはいうものの、学生の作文における「勉強」の解釈は、『西国立志編』に登場するからである。」

P74「明治初期には、「まず個人が立身出世をとげ、つぎに家族の地位を高め、ひいては国家の向上に及ぼしていくべきである」と「よくいわれていた」と考えられているけれども、『穎才新誌』の作文に登場する一九七〇年代の青年の大多数は、実際にはそのような議論はしていなかった。なぜなら、彼らは国家利益を論じることはなく、また、「共同体志向」もなかった。とくに、青年たちは、地域社会に役立つことには、全く関心がなかった。」

※ここで穎才新誌の読者層の半数が士族層だったとされることも合わせて注目すべき点(p64)。だが、「個人の行為を国家利益に結びつけようとする作文は、二〇%にすぎない。」としており(p74)、これをもって「国家利益を論じることはない」といえるかは疑問である。

P74-75「『穎才新誌』の作文のうち、個人が成功したことの恩恵をうけたものとして家に言及しているものは、一〇%程度に過ぎなかったけれども、日本において家の果たした役割について考えれば、他の多くのテーマも、暗黙のうちに家に関連していたとみるのが合理的である。立身し、家を興すことで「先祖になる」という観念のために、青年は大いに自身の出世を追求しようとした。青年の作文には、学問をしない者は富貴を得られないばかりか、家に恥をぬり厄介をかけることになるという警告が頻繁に出てくるが、その背後に、家に対する暗黙の関心があったことがわかる。」

※これは共同体志向と異なるのか??

 

P113「合衆国においては、青少年たちを都市生活や近代社会の要求にこたえるべく社会化するため、小説が重要な役割を果たした。例えばホレイショー・アルジャーの一連の作品は、その筋書きの魅力を別にしても、有用な情報が満載された都市生活ガイドであったといえる。これに対して日本では、東京においていかにして成功するかという問題を扱った教訓書・指南書には、小説の形式をとったものはほとんどない。このような両国の差異の理由は、日本の有識層に根強く存在した小説に対する偏見に求めることができる。アルジャーはハーバード大学神学部学士であり、逍遥は、帝国大学学士であった。両者ともに、小説の執筆に手をそめた。このことにより、逍遥は、学士の堕落として、多くの同時代の非難を浴びた。しかし、アルジャーの仕事は、そのような批判は受けていないのである。」

P127「学生の作文においても、国家間の競争よりもむしろ個人間の競争を説明するために用いられており、学生の作文でもそれが踏襲されていた。そして、いかにして立身出世するかというポジティブな主題よりも、いかにして失敗を回避するかというネガティブな問題に対して、より多くの関心が払われていた。」

※「これは、一八七〇年代の『穎才新誌』に見出された、富貴のための忍耐という主題の変形であるといえる。」(p128)

 

P128「また、学生たちの最終目標が富貴である、という点は前の時期とは変わらなかったものの、それが「国家のため」なのだ、という考え方が以前より強調されるようになった。しかしながらこの変化を、国家に対する学生たちの関心の増大の結果であるとみなすことはできないだろう。なぜなら、「国家のため」という観念は、多くの場合作文の序文部分に短く述べられているだけであり、作文の全体的な内容は一八七〇年とはあまり変化していないからである。日本を一等国に、という彼らの願いはむしろ、自らの名望への野心と深く結び付いていたように見える。」

※1890年頃の話。

P131「さらに、試験制度が若者の精神を破壊するものであったとしても、当事者たちのほとんどはそういうふうに感じてはいなかった二葉亭の見解も時を経た後の回想を記したものなのである。多くの人間は時代の変化を歓迎し、試験制度に完全に満足していた。明治の一八八〇年代末から九〇年代初頭にかけての安定した社会秩序の時代においては、野心的な若者は皆単調で退屈な努力に耐えなければならなかった。しかし次の作文に見るように、立身出世を熱望する若者自身にとってはこの努力は決して無味乾燥なものではなかった。」

※社会問題への認知問題もあるため、なんともいえない。キンモンスも「苦学」をテーマにしたものがなかったわけではないが、主流ではなかったという解釈で語っている(p338)。同じく、「苦学という考え方が一九〇一―〇二年頃になって広まったのは、家庭が豊かでもなく、コネや旧藩からの援助も得られない層にまで、立身の夢が広まっていったからであった。」と述べている(p166)。

 

P182「すでにみたように、初期の『成功』におけるスマイルズ主義者の視野には、もともと国家主義的側面と社会改良的側面の両方が入っていた。しかしながら、日露戦争を転機としてそれ以後は、社会改良と独立国家建設に果たす自助の役割については触れなくなっていった。代わって、同じ自助という美徳が日本の拡大にいかに重要かが強調されるようになっていった。……

だが、日露戦争をめぐる見解の違いで重要なのは、自助精神を社会改良にどう適用するかをめぐっての相違だった。社会・労働運動家たちはもともと自助精神には価値を置いていたのだが、明治後期になると彼らの考え方はより精緻になり、単に道徳性の問題よりむしろ社会構造の観点から社会批判をするようになった。この批判は自助精神にたいする嫌悪につながっていった。たとえば、堺利彦は最初は青年に対して百万長者になることを志せと呼びかけていたが、後には成功ものを風刺批判するようになった。」

※『成功』は熱烈な戦争支持をしていた雑誌だった(p182)。

P183「『成功』がここで突然、人間は物質的報酬のみを動機にもつ存在だと主張したことは、読者の目には奇異に映ったに違いない。常連読者は富についての記事をいやというほど読まされてきたが、たとえそれが実業家を扱ったものでも、金儲けの動機をもった人物として描かれることはまずなかった。当然のことだが、社会主義からの批判を浴びるまでは、成功した人間の利益追求志向が取りだたされることはなかった。社会主義者との対立が鮮明になった時、『成功』は、金儲けの動機がないと社会が動かないと言うようになったのである。実は、サミュエル・スマイルズが描いた理想も利益追求以外の動機に動かされる人間だったが、彼は社会主義者に攻撃された時はじめて、利益による動機づけの価値を発見した。スマイルズ自身も、社会主義者にとっての嘲笑と皮肉の対象になっていたのである。」

 

P183-184「スマイルズ主義者が、社会改良に乗り出し、社会主義への対応を始めたのに対して、『成功』はもっと保守的な態度をとっていたといえるだろう。労働者や職人たちに対して自助精神をもって自らを向上させよと説くスマイルズの思想が説得力を持ったのは、個人の出世可能性と個人を抑圧する社会構造との関係が比較的希薄だったからである。一方、中等・高等教育を志望する青年に対して『成功』のような雑誌が説得力を持ったのは、逆に個人と社会構造との関連が明瞭だったからである。」

※ただ、ここでの意味合いは「人はその生まれに応じた地位で満足すべきであるという、スマイルズの時代に根強く存在した思想が、もし日本でも強かったとしたら、「苦学によって貧乏から金持ちに」というテーマは、進歩的な役割を担う主張になっていたであろう。だが、そうした強固な属性主義的思想は日本には存在しなかった。」としており(p184)、必ずしも「個人主義的思想」そのものの構造に帰する、という説明もあまり説得力がないように思える。

P190「普段なら、名も知れぬ青年の自殺などは近親と親友の悲しみを誘うだけで、おそらく新聞のいわゆる三面記事に小見出しで載るくらいのものだろう。しかし、藤村の場合はそうではなかった。彼の死は新聞の一面を飾り、当時のある識者によれば、それは満洲におけるロシアの動静に次ぐ扱いであった。まもなく、この事件は、詩歌、小説の題材として扱われるようになる。」

※煩悶青年という言葉が流行するきっかけとなった1903年の藤村操の自殺についての内容。

 

P193「煩悶青年の出現のついて、踏み込んだ説明を試みている歴史研究者は、家族の伝統的道徳観の崩壊、日露戦争以後の目標喪失状態、そして近代化の代償としての必然的な反動といった要因を挙げている。しかし、これらの仮説は原因と結果としての現象を混同している。煩悶青年の出現の原因はむしろ、高学歴青年の就職市場の変化によって説明されるだろう。この変化が立身出世をロマンチックな自己実現追求へと変えていったのである。」

P197-198「二〇世紀に入る頃になると、試験の重圧は二つの領域に限られていた。すなわち、旧制中学の定期試験と旧制高校への入学試験であった。しかしながら、ここでもまた問題が姉崎が指摘したよりはるかに複雑であった。どちらの試験も今に始まったものではなく、機械的な記憶を試すものでもなかった。……むしろ、どちらかといえば日清戦争以前のほうが、その直後に比べると受験戦争は激しかったのである。にもかかわらず、日清戦争以前には後のような青年の煩悶はみられなかったのである。問題は試験そのものや不合格率ではなく、試験そのものがどのような意味をもつようになったのかという点である。明治後期になると、将来の地位についての可能性が試験によって左右される傾向が、以前に比べてはるかに強くなってきたのである。かつての試験は、高等教育を受ける能力をもった、極めて限られた志願者から選抜していた。したがって、たとえ合格できなかったとしても、彼らはちょっとしたエリートの一員になれたのである。

二〇世紀はいると、高等学校志願者が急増したにもかかわらず高等教育の収容力が機械的に制限されていたことから、入学試験ではあふれた志願者を切り捨てるため、三日間にわたる選抜が行われるようになった。……いってみれば、試験そのものが苛酷だったのではなく、失敗とその結果押される二流の学歴という烙印、そして立身の可能性が少なくなることが重圧となっていたのだ。」

※煩悶がなかったは言い過ぎな気がするが。あくまでの「社会問題としての」煩悶である。何より過去の青年が「ちょっとしたエリートになれた」ことを示すエビデンスが示されていない。

 

P198「これらの試験に失敗した者にはいくつかの選択が残されていたが、それらはどれも心理的に重圧を伴うものだった。単純に立身をあきらめ故郷に帰ることもできたが、もし彼が地方の小さな村の出身だったとすると、それはかなり辛いことであったろう。彼らのような青年は村では少数であり、鳴物入りで故郷を出てきたから、村中に知れ渡っていたものである。……

もう一つの道は、面目無く故郷に帰るのではなく、富貴のための学問を捨て実業界に入っていくことであった。」

※この事情こそ、明治初期でも変わらなかったはずである。とすると、やはりキンモンスは「脱落した青年はいなかった」という見解を示していることになる。

P214「樗牛は社会や社会の諸慣習を拒否するまで極端に個人の欲望を肯定した。したがって、個人は自らの社会的地位を変えることができるという意味でのみセルフ・メイド・マンになるだけでなく、社会との関係を自分で定めるまでになった。彼が明治青年に示した徹底的な個人主義は、快楽主義や奇行までも含んでいた。樗牛が定義する個人主義は、かつて徳富蘇峰や明治初期の作家たちが考えていた、国家や社会の目的に奉仕するだけの個人とは違っていた。彼は明らかに違う世代の人間だった。……

ところが、樗牛は、立身の追求に重きをおく当時の社会的価値をきっぱりと拒否していたにもかかわらず、やはり彼自身は明治後期の社会が生んだ人間だった。つまり、彼の思想は自分自身の立身に対する欲求不満によって形成されたものであった。それが当時のインテリ青年たちの立身に対する不平にある解答を与えてくれたので、一般に広まっていったのだった。」

 

P228-229「出世に関する教訓が最も露骨に操作された事例は、豊臣秀吉に関する記述に見られる。第一期(※1904年)の修身教科書では秀吉は「立身」の手本として扱われ、「身を立てよ」の教訓を示すものだった。そこで彼は、有名になり何事かを成し遂げようとする願望を幼い時から抱く貧しい少年として描かれ、その目標を実現するために絶え間なく活動した人物として描かれていた。けれども、第二期(※1907年)の教科書で秀吉が言及されたのは、「志を立てよ」という教訓にかかわってであり、そこでは地位や名声ではなく、皇室の繁栄に貢献したという――いささか疑わしい――側面が強調されていたのである。このように第一期版では、彼の出世は能動的な活動を伴ったものであり、彼は「立身して」、「身を立つる」者であった。しかし第二期版では、彼の出世を表現する言葉は受動的なものとなり、彼は「引立てられ」ることになる。こうして、秀吉は、封建的権力と地位の頂点を戦い取った者でなく、あたかも忠誠の代償としてついに副支配人となる勤勉な商店員のような人物として描かれた。彼は、太閤秀吉ではなく、むしろ草履取の藤吉郎だったのである。……しかし、そこで指摘されていたのは、勤勉さ以上に、上役に媚びることが出世の手段だということだったのである。」

二宮金次郎も例に出される(もっとも、第1期と第2期の違いはないが)。

P230「日露戦争後の『成功』も、「出世」なしの「立身」という考え方を取り入れ、地方生活の喜びを賛える多くの記事を掲載している。当時のその典型的な論者は、安田財閥の創設者で、倹約家で知られる安田善次郎である。……けれどもこうした主張が、かつて海外への膨張主義喝采を浴びた時のような熱狂を引き起こすことはなく、読者からの投書の圧倒的多数は、非エリート的な中・高等教育を受け、ささやかな都市的「立身」を手に入れることを依然として望んだのだった。こうしたなかで『成功』の編集者は、「立身出世」のうちの「出世」を否定することが、この雑誌の主要な売り物――すなわち地方の青年に都会での成功の情報を与えることーーを否定することであると、はっきりと気づくことになる。したがって、一九一―年以降、この雑誌は地方での「立身」にはほとんど関心を示さなくなっていくのである。」

 

P251「このような他人志向的な道徳観のうちの一部は、おそらく日本固有の伝統に由来するものであったのだろう。しかし、こうした出版物の出現の原因を、日本的伝統のせいにし過ぎることに反論する二つの事実がある。そのひとつは、実業之日本社の出版物のいくつかがアメリカ人の著作の翻訳であったことである。アメリカでそうした出版物が生み出されていた背景には、官僚制的資本主義の勃興があった。けれども、それら日米の著作の相違点として指摘しておくべきことは、アメリカの場合に比べて、日本のものが他人志向的で人柄重視的な道徳観への移行をより早い時期におこなっていたことであった。上述の芦川が著書の前書きのなかで述べていたように、当時の多くのアメリカ人が人柄の重要性を指摘していたけれども、この問題について独立した著書をもつ者はいまだ現れていなかったのであり、芦川はこの問題に関する著作を、翻訳ではなく執筆しなければならなかった。事実、アメリカでこの方面の古典となる、デール・カーネギーも『実業における話術と影響力』が出版されるのは一九二六年である。すなわち芦川は、後にアメリカの出版物の主要テーマとなる「相手に自分を気に入らせる術」の問題をすでに一五年前に先取りしていたのである。日本の伝統に「堅固な個人主義」が欠けていたということはしばしば指摘されるが、そのことは雇用市場で人柄主義が求められるようになった際に、従来の品行主義に執着する者がアメリカほど多くなかったということを、せいぜい意味しただけなのかもしれない。」

P262「文部省の『年報』によれば、一九二二―二六年に、就職していない東京帝大卒業者の割合は四〇%に達し、法学部のみでは、その割合は八四%、特に一九二六年には一〇〇%になった。」

 

P267-268「そうした全体的な傾向の背後に、高等教育機関ごとのあるいは専門分野ごとの多様性が存在したことはいうまでもない。最も就職率が低かったのは、文学部であり、また当時「腰弁学問」と呼ばれた法律、経済学の領域であった。それらの分野の卒業生の就職率は、一九二三年の七二%から、二九年の三八%まで低下していた。他方で理工科系の卒業生は、同じ時期に就職率が八八%から七六%に低下したが、彼らは恐慌期においてさえも、文化系の就職率の最良の時期よりも恵まれた立場にあったのである。……

問題は、第一次世界大戦後の学生の大部分が、自らの選択の結果であれ、ないしは施設の不足の結果であれ、いずれにせよ就職の見通しの悪い領域に通学していたことである。」

P268-269「したがって、高学歴青年たちの状況を描写した当時の流行語、すなわち「大学は出たけれど」という言い方には、修正と限定が必要である。恐慌が最も深刻であったときでさえも、大学卒業者の全員が困難に直面していたわけではなかった。経済的な生産性の高かった専門分野の者は、恐慌の影響をほとんど受けなかった。この言い方が当てはまったのは、雇用市場の変化と産業化する経済にもかかわらず、あいもかわらず官僚機構での栄達を求めて、文科系の領域に進んだ者だったのである。さらには大学の学生だけをみたときに感じるほど、当時の高学歴青年たちが全体として危機的な状態にあったわけでもない。確かに恐慌の影響があったにせよ、中等教育ないしは中等後教育レベルの教育しか受けず、したがって、せいぜい下級または中級の管理職、ないしは狭い範囲の技術職としてに地位しか望めない人々は、エリート候補者に比べて、比較的に恐慌の影響を受けることが少なかった。」

高等遊民の正しい理解かどうかは計りかねる。

 

P294-295「しかしながら、立身出世を目指す武士とサラリーマンとの倫理上の類似性にもかかわらず、前者と後者の直接のつながりはない。ごくまれな例外――最も有名なのは福沢諭吉の著作だがーーを除けば、明治維新から日露戦争頃までの時期には、人柄や人間関係を立身出世の手段とみなすような文献はほとんど存在しない。二〇世紀初頃でも、人柄主義は何か疑わしいもので、それが持ち出された時には弁解が必要なほどだった。

このことは次のように説明されるかもしれない。かつての教育ある青年は、最初から人柄や礼儀についてのエートスをすでに教え込まれたような、狭い社会層からリクルートされていたため、それの重要性が強調される必要がなかった。それに対し、後の時期の高学歴青年は出自も広い層になったため、そういう教訓を必要とするようになった、と。確かにこの種の要因は、態度の変化に何らかの役割を果たしただろう。しかし次に述べる別の要因の方が、もっと重要だったように思われる。

国というものがそれを構成する個々人の反映であると一般に信じられていた間は、人柄主義を高唱することは知性的ではなかったし、ほとんど反逆的ですらあった。知識人やジャーナリストは、実業家よりも強くスマイルズの枠組み――品行主義――を固守した。」

※いかにもありそうな説明に対する批判。ここで品行主義とは「異形や立身出世は、何よりも個々人の品行にかかわる美質――努力、勤勉、節倹、忍耐、注意深さ、……――の産物であるとされ」、「品行主義は個人の外になにものもあてにしなかった」「品行主義は対人関係を無視する」ものであった。(以上p25)。

P295「そうはいっても、知識人でかつてはスマイルズ風の品行主義を称揚した人物たちも、人柄主義を唱えるようになったのを見ると、単に書かれたものの上で変化にとどまらない、大きな変化があって、それが価値や倫理の変化を起こしたのだということがわかる。

すなわち、業績から人柄への変化の最も重要な要因は、教育を受けた青年の就職市場の変化であった。明治の初めの青年は若いうちにリーダーになることが期待でき、彼ら向けの読み物はそれを反映していた。ところが明治末の青年になると、リーダーの地位に就くためには、雇われた先の要求に合わせていって何年間もうまくやっていくことが必要になっていた。」

 

P298「明治維新以前には、自我を否定する儒学の傾向に異を唱える余地はほとんどなかった。日本はルネサンス宗教改革も経験していなかった。変化しつつある当時の社会的慣習に合理的根拠を与えるような、唯一神と一人の人間とが固有の関係を取り結ぶという考え方は、存在していなかった。ところが、国や天皇への貢献が、古い社会とのつながりを断つことの正当化する、という考えが発展してくると、それは個人主義のある要素が強調され、受容される土壌となっていった。

P299-300「蘇峰によれば、明治後期の青年がそれ以前と異なるのはこの覚醒の点である。明治維新を担った人たちは自分を、独立した個人だとではなく国家の財産だと考えていた。利己的に行動した者もいたが、その場合でも、国家の利益には注意が払われていた。自由民権運動に身を投じた人たちも同様だった。個人は強調されたがそれは国のためであった。それは尊王攘夷運動の延長でしかなかった。対照的に、明治末の青年は自分のことのみ、自分の私的利益のみを考えるようになった。

立身出世についての読み物は、明治期の青年をこのように分割する線を支持している。とはいえ、何人かの日本人の学者がしてきたように、それには限定をつけておくことが必要である。富への関心という点では明治初期の青年も明治末の青年も違いはなかった。日清戦争以前の生徒の作文で最も頻繁に登場してきた要素は、富であった。その場合、富は、いつももいうわけではないが通常は名誉と関連づけられていた。しかし、ともかくも成功に関する読み物が現れるずっと前から、青年たちは富に憧れ続けていたのである。国家に関心を向けないというのみ実は新しいことではなかった。……

だからといって、個人の野心と国家利益を関連づけることに失敗したのではなかったようである。むしろ、この関連は繰り返しが不要なほどに自明のことだったのである。」

 

P302「とはいえ、明治末に見られる個人主義は単なる目の錯覚ではない。煩悶青年は本当の意味の個人主義を発見した。彼らは個人主義的な行動を提唱したし、ある程度は実践もした。はっきりと個人や自己決定、自己実現の至上性を表明した。……煩悶青年を苦しめた「存在の意味」といったものは、幕末や明治初期の人々には意識の片隅にもおよばなかった。彼らは自分の基本的な信条を疑いもしなかったから、それは当然であった。

しかしながら、煩悶青年たちの個人主義は、あまりにエリート主義的であったため、社会全体には広がってはいなかった。そればかりか、そのエリート主義的性質のゆえに、転向するものも多かった。エリートを自認しながら華厳の滝阿蘇山に身を投じなかった者は、次第に体制に飲み込まれていった。普通の煩悶青年は、大正・昭和期には官界や学界、実業界の組織の一員になっていってしまったのである。」

P302-303「実際のところ、明治末の個人主義は十分議論されなかったし、まともに弁護もされなかった。ニーチェの思想に依拠した高山樗牛の主張以外には、それを支持する議論は存在しなかった。個人主義を社会的効用と結びつけようとする主張はなかったし、そもそも出てくるはずがなかった。というのも、すでに伝統的な立身の議論の中でそういう論理は一般的になっていたので、あらためて問題を提起する余地はなかったからである。日本の宗教的伝統では個人主義をうまく正当化できなかったし、キリスト教では外来のものでありすぎた。

日本における個人主義の最大の限界は、資本主義とそれとの関係であった。日本の資本主義は、個人主義を実業活動と適合的なものとみなさず、渋沢栄一のような実業界の人物は個人主義を否定していた。大規模な官僚組織が発展してきた、まさにちょうどそういう時期に自我が発見されたのが、大きな不幸であった。……官僚制資本主義は、個人主義の論理では正当化されえないし、おそらく個人主義的な被雇用者も必要としていないのである。」

 

P304「明治国家が保守的でエリート主義的だったからではなく、むしろ、より進歩的で平等な改革を行ったがゆえに、日本では集団への同調圧力が他の近代諸国よりも大きくなった、と。たしかに、日本の伝統は個人主義に対して寛容ではなかった。しかし青年たちが直面したのは、何よりも、官僚制的な状況や労働市場の状況に関連した圧力であった。日本が後進国だったので、企業家資本主義よりも官僚制的資本主義の方が比重が大きくなった。そのため当時の先進国よりも同調への圧力が強くなったのである。」

※これについても、「伝統的に」「もともと同質的だったがゆえにこのような政策が選択された」ものと解釈すれば、伝統に還元可能といえるが、その可能性については本書から特に反論が出せないだろう。結局このような日本人論は近代化論的一元論として扱えるため、その一元性そのものを実証せねばならない(そのためには、日本以外の後進国との比較が必要である)。実際、「日本社会では、英米社会ほど志願者の配分に属性的な基準を用いられなかったために、一層多くの人々が機会を求めて殺到した。」(p304)というのは、極めて「日本的」な事情の産物であるように思える。

P307「リーダーの地位に到達するまでに、彼らは競争で生き残ること、自分のポストを守り、他の競争相手を追い払うことに、何よりも心を砕くようになった。ダイナミックなリーダーシップのとり方や、大義を貫くためには自分の経歴を賭すことを学ぶ機会はなかった。もし彼らがーー丸山が呼んだようにーー矮小であるとすると、それは、エリートをめざす競争を抑止するもののない社会での、生き残りの圧力によって生じたものであった。日本社会の最も魅力的な側面である、属性的要因による差別がないことや、普遍近代的とか合理的といわれるたぐいのエリート選抜のシステムが、皮肉なことに、矮小なエリートを生み出したのである。日本人の使う用語でいえば、戦時期のリーダーシップの矮小性は、日本社会の封建的側面に由来するのではなく、近代的側面から生じたのである。」

 

P308「真に民主的な革命の代わりに、エリートの地位への志願者の出身基盤がもっとずっと狭い仕組みがもし作られていたならば、皮肉なことに、日本の近代はもっとよいものになっていただろう。その場合、エリートは必ずしも常にもっとよい決定を下したとは限らない。しかし、個人の責任や意思決定や、たぶん反対表明にさえも、もっと大きな意味が与えられて、重要な決定の際に責任ある議論が多少とも多くなされることになったのではないだろうか。」

※このことが参考になるのかがわからない。多分に「ないものねだり」であるようにも思える。これについては「封建的」であった方が改善の余地があるように思える。

P310「両国の文化や道徳の微妙な点の差よりも、むしろこの損得の収支の差こそが、なぜ米国のインテリ層が戦争に反対し、日本ではそうでなかったのかを基本的に説明するのではないだろうか。反対者を処遇する法的規定や、警察による弾圧の差は、説明要因になりうるかもしれない。しかし、日本での反対者を弾圧する法の制定やその法に基づく逮捕が行われた時期を調べてみると、大部分はもっぱら具体化していない反対を警告的に扱ったものにすぎなかった。さらには、もしかりに日本では抑圧が苛酷であったことを認めたとしても、消極的な抵抗さえもみられなかったことが説明されずに残っている。……しかし、そうした若者がある程度まとまって存在していたならば、どこかで記述が残っているはずなのに、それが見当たらないことを考えると、一九三〇年代の高学歴青年は、戦争から生じた利得を何も拒絶していなかったように思われる。」

※この主張は少しこじれた論点を含む。日本の方が無責任という「事実」をキンモンスは認めているが、本当にそうだといえるのだろうか?

 

P311「もし学歴が、エリートやサブエリートを目指す志願者を振り分けるために使われるならば、学校制度を拡大する要求は絶えず続き、内容面でも資格面でもインフレ現象が生じてくる。すると結局、学歴資格以外の方法で志願者を振り分けねばならなくなる。もし、そういう中で試験を選抜手段としたならば、それは単なる生き残り競争になってしまい、将来就くであろう役割に応じた、実質をもったテストではなくなってしまうだろう。」

※この議論は、人柄主義の流行とも親和性があると言えるか。

 

ジョン・W・ダワー「人種偏見」(1986=1987)

 本書は第二次大戦前後の「日本人論」を分析したものである。

 杉本・マオアのレビューの際にも「日本人論」には「日本人から見たもの」と「欧米人から見たもの」の2つがありえることを指摘したが、本書はその両方の議論について当時の言説からその異同について、極めて実証的に語っている。その物量も多く、また当時の雑誌の挿絵等の掲載もしており、非常に当時の状況がわかりやすく描かれているといえるだろう。残念ながら、邦訳にあたり、参考文献のリストについてはカットされてしまったようだが、メインである部分については、それでもなお充分な実証性をもって説明しているといえる内容となっている。

 

○日本人の「ユニークさ」について

 

 特に細かく議論されていた点として日本人の「ユニークさ」が挙げられる。杉本・マオアのレビューではこの「ユニークさ」というのは「日本人側から求められたもの」と明言していたが、本書により日本だけでなく欧米人側からもそのユニークさは必要とされていたことがわかる(p38-39)。まずその奇怪さについては、過去において他の「非白人」言説にも同じように語られていたことを述べる(p12)。死に対する価値観についても連合国側の比較をした場合それが特異かどうかに疑問符をつけている(p15)。

 また、日本が「ユニークさ」を求める理由についても複雑であることがわかる。大枠としては「白人至上主義」のアンチテーゼの強調のために用いていることが、本書を読めば痛い程わかってくる。日本が第二次大戦を「聖戦」とするためのレトリックとして、現在支配的である欧米を批判する必要があり、その結果として非白人的価値観が強調されることになる。これはそれまで西洋化の影響を受けていた日本にとっては「浄化」の実践として現れていたようである(p268-270)。また、この批判に「個人主義=利己主義」が含まれていたことも無視できない。戦後も日本人論の中でこのような価値観の違いが存在するという認識はある意味で素朴に、時には強く内省を求める形で再生産されていった訳だが、そのルーツを遡れば、戦時中においては日本人論をそのように定義すべきものとして、「戦争」を通じて強く政治化した言説として流通していたこと、その影響を現在でも受けうる形で日本人論が語られていることについては強く内省すべき部分であろう。実証性なき日本人論を何となく語ることの問題というのは、本書を読むとよくわかってくることである。

 

○「他者」認識の影響をどう考えるか?

 

 本書において示唆されているのは、偏見等に基づき形成された「日本人論」が当時の戦争での判断に影響を与えていたという点である。これは真珠湾攻撃までの日本の軽視(p137)や、原爆投下の判断(p184-185)といった形でその影響の可能性について言及される。

 また、日本人の他者イメージとしての「猿・ゴリラ」と、欧米人の他者イメージである「鬼」がそれぞれ形成されていたと指摘する一方で、特に「鬼」のイメージの方はその意味が両義的でありえたという指摘も注目に値する(p302)。鬼のイメージに限らず、ダワーは日本の中心イメージのいくつかが多義的でありえた(曖昧であった)と指摘しており(p296-297)、杉本・マオアが指摘していた「欧米人の日本人論が二項図式的であり、日本人の日本人論がその図式が緩和されていた」という見方にもマッチする。この議論の意味についてはより深い検討が必要になってくるだろう。というのも見かけ上確かにこのような違いがありえたかもしれないが、それでもなお日本人・欧米人の「敵視」観というのはその違い程変わらないようにも思えるからである。戦後においてはどちらにおいてもその「敵視」についてのイメージは簡単に抹消されたし、ダワーが言うような「日本人は『鬼』のイメージをアメリカ人に与えなくなった一方、アメリカ人は相変わらず「猿」のイメージのままだった」という議論に対して、「日本人が良心的だった」というような意味を与えることができるのかは微妙であるからである(ダワーがそう指摘している訳ではないが)。

 そもそも、概念の曖昧さというのもまた、それ自体日本人論的には日本の特徴として挙げられるものだが、その実質的意味(つまり、その言説が行動に与える影響力)というのは必ずしもその二項図式と関連するとも限らないからである。また、日本の「鬼」のイメージをそのまま「非人間」としての鬼と同一視してよいかも微妙である(欧米人の「猿」よりは、日本人の「鬼」のイメージは「鬼」そのものではなく、「人」をそのままイメージする傾向も強いのではないかと私などは思う)。

 もちろん、この「言説」と「行動」との関連性も検討の価値があるが、同時に「言説」と「大衆認識」との関連性についてももう少し細かく考察する余地はあるように思う。ダワーはこの点かなり「大衆性」を意識した形で議論をしており、「エリート」向けのものがそのまま解釈される訳ではないことも把握している(cf.p268-270)。ただし、例えば欧米人の日本に対する「猿」という他者イメージも必ずしも普遍的な見方ではなかったとも言いうる。本書でも取り上げられているフランク・キャプラプロパガンダ映画「Know Your Enemy:Japan」はインターネット上でも観ることができたので観てみたが、本映画における「非人間」の描写というのは日本の地形に似た「龍」と、八紘一宇を連想させる「タコ」だけであり、類人猿としての描写は存在しなかったのである。

 ただ、ダワーが言及するそのイメージの変化というのは考察の余地が大いにあるように思えるし、その考察にも大いに意味があるように思えた。私自身も今後この動きを追ってみたいと思う。

 

 

<読書ノート>

Piv「たとえばアメリカ側についていうと、戦争中に日本人を動物化した表現が、最近また「エコノミック・アニマル」として日本人をステレオタイプ化する中に見出される。非白人をいつも子供とか下等な人間として表現する白人至上主義の伝統はいまなお消えずに残っていて、「ちっぽけな」日本人という品位を傷つけるような表現の中にいま見られるのである。しかしながら同時にまた、日本をスーパーパワーとし、日本人を「スーパーマン」としてみる最近の欧米人の傾向は、第二次世界大戦やそれ以前に流行したステレオタイプを再現したものとしてみることができる。」

Pv「一方日本人の側にも、ほぼ同様の傾向がある。たとえばある日本人の社会の中では、アメリカ人のことを、規律を欠いた「雑種」としてひやかすことが流行している。こういう見方がどのようにして生まれてきたかを知ることは、それほど困難ではない。しかし歴史を学ぶ者は、やがて日本に災害をもたらすことになったあの太平洋戦争勃発のときに、同じようなアメリカ人軽視が人種的な宣伝の中心に横たわっていたことに気がつくであろう。

こういう態度のもう一つの側面は――これこそもっと敏感でもっと有害な側面であるが――中曽根首相や他の政府高官たちが民族と文化について日本人の純粋性と単一性にたびたび言及した例にみるように、日本人の自己賛美の風潮が高まっていることである。この本の中で詳しく論じたが、この「純粋性」こそ、第二次世界大戦後のときに日本人のイデオロギーの中心的な民族観だったのである。それがいま、欧米ばかりではなくてアジアの中でも、日本人ではない世界中の人々に対して、新しいスーパーパワー日本という思い上がりとなって再び現われているのである。ここから、日本人の民族思考の中にひそむその他のおもな観念をたくさん引き出すことがでいる。……日本人はユニークであるとか(それは確かに事実であるが、同時に他の民族や文化にとってもまたそういえるのである)、国家や民族間の関係は、個人の場合と同じように階層的なものであるべきで、それぞれ「適所」を受けもたなければならないとか、日本には独特の大和魂があって、これは外国人にはとてもわからないばかりか、他のどの国民やどの文化の民族精神よりもすぐれたものであるとか、日本人はアジアや世界の「指導民族」となる運命をもっているのであるとか――といったことである。」

※雑種言説の所在は定かではない。

 

P11「アジアにおける戦争に伴う人種的表現やイメージは、しばしばあまりにも生々しく軽蔑的なものが多かった。たとえば連合国側は、日本人の「人間以下」の側面を主張した。そのために普通、猿や害虫のイメージがよく使われた。もう少しましなものでは、日本人は遺伝的に劣等の人種であり、原始性、幼児性、集団的な情緒障害という観点から理解されるべきだという言い方がなされた。漫画家、作曲家、映画製作者、戦争特派員、マスメディアは一般にこうしたイメージでとらえた。戦時中日本人の「国民性」を分析しようとした社会科学者やアジア専門家もまた同様であった。

戦いのごく初期に、劣等であったはずの日本人が旋風のようなアジア植民地を進撃し、数十万に及ぶ連合軍兵士を捕虜にすると、また別のステレオタイプが生まれた。すなわち、異常な規律と戦闘技術をもつ超人のイメージである。人間以下、非人間、劣等人間、超人――これらにはすべて、敵の日本人も自分たちと同じ人間であるという観念が欠落している。」

P12「それらは一般的に不平等な人間関係と結びつく原型的なイメージであり、その起源は両陣営ともに何世紀もさかのぼることができる。連合国側についていえば、黄禍感情にはけ口を与えた日本人に対する深い憎悪は、二十世紀以前には主として中国人に向けられていた。戦時中を通した「黄色」人種に対する憎悪の激しさと広がりは、いまとなって考えれば、猿のイメージの広がりと同じくらい大きなショックではあるが、しかし黄禍感情それ自体は何世紀も前から定着していたものであった。日本人の敵である白人たちが、プロパガンダ用にもっぱら用いた戦争と人種に関する言葉――その中核をなしたのは猿、劣等人、原始人、子供、狂人、そして何か特別な力をもった存在というイメージであった――は、アリストテレスにまでさかのぼることが可能であり、そしてヨーロッパ人が最初にアメリカの黒人や西半球のインディアンに遭遇した際に堅調に見られたような、伝統的西洋思想に根をもつものである。第二次世界大戦のレトリックでは非常に「ユニーク」とされた日本人も、実際は欧米人が何世紀にもわたって非白人に適用してきた人種的ステレオタイプを負わされることとなったのである。」

 

P14「相手に「獣性」を見ることは、欧米人のほうが手の込んだ方法をとったものの、いずれか一方のみの属性というわけではない。」

P15「最も基本的な生と死に対する態度でさえ、これは当時の関係者の多くがこの点にこそ日本人の欧米人の間に根本的な違いがあると主張したところであるが、よく調べてみると、それほど大差あるものではなかったことがわかる。多くの日本の戦士たちは降伏よりは死を選んだ。これは単に軍部内からの圧力ばかりではなく、連合国側に捕虜にするという意思がなかったという事情から、他にほとんど選択の余地がなかったためである。連合国側にとっては屈辱的な敗北、大量降伏の第一波を経験してからは、連合軍兵士もまた進んで降伏することはほとんどなくなった。まさに太平洋戦争はやるかやられるかの戦いであったために、どちらの側の戦闘員にとっても、生きるか死ぬかの個人的決断はほとんど無意味となった。確かに日本側の軍事指導者やイデオローグたちは、死を礼賛することにかけてはかなりの成功を見たといっていい。それは戦場でのバンザイ突撃や、戦争末期の神風に代表される特攻隊の創設によって明らかである。しかし欧米人も最後まで苦しい戦いを闘いぬく者をたたえ、場合によっては、ウィンストン・チャーチルダグラス・マッカーサーのような最高指導者たちが、部下の司令官に決して降参するなと命じたこともある。最後の一兵になっても戦う日本人を鼻で笑い、まるで人間ではないかのごとく扱ったアメリカ人でさえ、アラモとかリトル・ビッグホーンとかの敗北の叙事詩は大事にしていたのである。」

 

P26「次に映画は日本人の心についての解説となり、二つのユニークな要素でできているイデオロギーの檻に閉じ込められていると描写した。二つの要素とは、神道と、聖と俗をともにになう神のような天皇に対する信仰であった。この神道天皇の結合から、日本の人種的な優越の礼賛、神聖な使命という観念、さらに日本の屋根の下に世界の隅々まで入れるという目標が生じたのである。」

※映画はフランク・キャプラの「汝の敵を知れ」。

P27「近代化を進める日本は、軍国主義者、産業資本家、政治的エリートによって支配されていた。個人は完全に国家に従属し、全教育システムは、教えられたことをスポンジのように吸収する従順な臣民の大量生産に適応させられていた。学校の無意味な洗脳に少しでも抵抗した異端者や反体制の人々は、警察、憲兵隊、特高、愛国的な結社の自警団員――さらに神道天皇イデオロギーの無数の「亡霊」――によってうちのめされた。」

☆p38-39「敵のステレオタイプと肯定的なセルフ・ステレオタイプの興味をそそる一致は、アジアでの戦争中、文化価値が正反対のものとして理想化されたという点で注目はされるが、こうした理想化が必ずしも現実を反映していたわけではなかった。これに反して『臣民の道』のような古典的イデオロギー宣伝書は、日本の戦時レトリックの階級的な側面をはっきり露呈しているため、特に興味深い。実際には、日本人が均質的で仲がよく、個性に欠け完全に集団に従属していたのではなく、日本の支配グループが絶えず自国民に対して、そうなるよう熱心に説いていたのである。それどころか政府は、この種の厳粛な正統派的信念を精密に立案し普及させる必要があると考えていた。なぜなら支配階級は、大多数の日本人が天皇のもとでの忠誠と孝行という伝統的な美徳を大切にせず、相変わらず民主的な価値や理念にひきつけられていると確信していたからである。『臣民の道』は、このことを率直に述べていた。換言すれば、欧米人の圧倒的多数が抱いていた日本人像と、日本を支配するエリートたちが望んでいた日本人像とは一致していたのである。

このステレオタイプとセルフ・ステレオタイプの一致の最もよく知られた例は、英米と日本の解説者が一様に日本人の「ユニークさ」を執拗に強調したことである。」

※重要な指摘。

 

P41-42「第一の、暴虐のかぎりをつくしたドイツ人以上に日本人が憎悪の対象となったのはなぜかという問いに対する答えが、人種的要因に負うところが多いのは確かであるが、しかしそれは見た目よりはもっと複雑な背景をもっている。ドイツ人の残虐行為は古くから知られ非難されていたが、そうした中でも、良いドイツ人と悪いドイツ人は明確に区別されており、連合国側は残虐行為を「ナチ」犯罪と称し、ドイツ文化や国民性に根ざす行為とは見なさなかった。それ自体は合理的姿勢であったといえるだろうが、首尾一貫していたわけではなかった。というのは、アジアの戦場における敵の残虐行為は常に、単に「日本人」の行為として伝えられたのである。こうした歪んだ見方がきわめて根強かったために、日本軍の行為がドイツ軍に倣ったものだと報道されてもなおそのまま人々の記憶に残った。」

※ドイツではナチと非ナチで責任の区分けを行なっている。

 

P86「かなりの人数の日本兵が捕虜になった場合もあるにはあったが、たしかにジャングルや太平洋諸島での戦いにおいては、日本兵の大部分は、殺されるまで戦うか、あるいは自ら命を絶った。それには多くの理由があった。その大きなものは、天皇および国のために自らを犠牲にせよという教えと、降伏はするなという上官の命令であった。日本人は、この戦いは鬼のような敵に対する聖戦であると教えられ、そして実際多くの者が崇高な目的のために命を捧げると信じて死んでいった。そうした姿は、敵側から見れば「狂犬」であったが、彼ら自身からすてば神聖なる献身であり、また日本国民の目からすれば英雄であった。集団心理や集団逆上は、たしかにこうした死を煽り、バンザイ突撃に一種の陶酔感さえ与える一因であったが、同様に、使命、栄誉、従順という日本の風土に深く根ざした要素も、その一翼をになった。すなわち、日本兵は、ただ国や支配者がそうしろというから命を捨てたのである。またある者は、自分が降伏すれば家族が村八分になると信じて、最後まで戦った。

しかし見過ごされやすいのは、他の方法がなくて見絶えた日本兵が数えきれないほど多い、という事実である。一九四五年六月付の報告書の中で、戦時情報局は、尋問を受けた日本兵捕虜の八四パーセントが、捕虜になったら殺されるか拷問にかけられると思っていたと述べた、と記録している。情報局の分析家たちはこれを典型的なものと称し、「武士道」よりも降参したあとに起こることへの恐れこそが、戦場で追いつめられた日本兵たちが死を選ぶ大きな動機であるとしている。そしてそれは、他の二つの大きな要因に匹敵するもの、あるいはたぶんそれらを超える要素であろうとしている。その他の二つとは、家名を傷つけることへの恐れと、「国、祖先、神である天皇のために死にたいという積極的な願望」である。一方、たとえ投降の意思があったとしても、それは容易なことではなかった。たとえば、終戦直後に戦時情報局用に作成された概要報告書を見ると、日本人捕虜に関する書類には、降伏を試みて、しかも撃ち殺されないためにはどうしたらいいかに関して、捕虜たちが知恵をしぼった話がたくさん記載されている。すなわち、これは連合軍側が「捕虜をとることに難色を示したために、降伏が実際に難しい状況にあった」ことを示すものである。

アメリカの分析家たち自身認めたように、こうした日本側の恐れは決して不合理なものではなかった。戦場では、連合軍兵士も司令官も多数の捕虜を望まない場合が多かった。これは決して公式の政策ではなく、場所によっては例外もあったが、アジアの戦場においてはほとんど常態であった。」

※なぜこのような捕虜感になったのか。本当にアメリカ人だと違う認識になるのか?

 

P99「敵として一方では「ナチス」、他方では「ジャップス」とすることは、重大な意味をもっていた。というのは、「良きドイツ人」を認識する余地は残されていたが、「良き日本人」の余地はほとんどなかったからである。」

※「たとえば一九四三年はじめ、アメリ海兵隊の月刊誌「レザーネック」は、ガタルカナル島の日本人の死体の写真にGOOD JAPSという大文字の見出しをつけ、「良きジャップスは死んだジャップス」を強調するキャプションをつけた。」(p100)

P107-108「しかし、記者、諷刺漫画家を問わず欧米人によって一番よく描かれた日本人の戯画は、なんといっても猿または類人猿だった。……一九四二年一月なかば、イギリスの名高い諷刺雑誌「パンチ」は、「猿の一族」と題する全ページの戯画にまったく同じ紋切り型のイメージを使い、頭にヘルメット、肩にはライフル銃をかけた猿どもが、ジャングルの木々にぶら下がっているさまを描いた。」

P111「戦時中よく知られたアメリカの戯画の一つは、一九四三年四月、ドゥーリットルの飛行士の何人かが処刑されたというニュースが公表されたあと出版された。それは日本人を「アメリカ人飛行士の殺人者」というラベルをつけて涎を流しているゴリラ――「文明」という巨大なピストルがその頭を狙っている――として描いた。それは、動物イメージが日本人の残虐性と密接に関係していたというアメリカ陸軍の説明を、具体的に図解したものと受け取ることができる。とはいえ、この説明は単純すぎる。日本人の残虐性についての報告は、欧米人が日本人を獣として認識する大きな要因となったことは疑いない。が、猿の擬人化は、こうした連想とは関係なく存在していたのである。これは白人至上主義者が、非白人を卑しめるため伝統的に用いたあらゆる隠喩の中で、最も基本的なものであったかも知れない。それは有色人種というものを、野蛮というよりばかげた存在として描く際、しばしば使われた手法だった。それが欧米人にすっかり取り憑いていた人種主義の原型であったことは、戦争の漫画を見わたせばすぐにわかることである。」

 

P124「一九三〇年代の日本の村落について、古典的な研究論文をものにしたアメリカの人類学者ジョン・エンブリーは、「日本と日本人は他の国々と違っている。というより、日本のナショナリストたちが言うように、『世界の人々や文化の中でもユニーク』である」と述べた。」

※エンブリーの著書は日本人論ぽくなかったが…

P132-133「こうした独善的な過信によって事実をおおい隠したことは、注目すべきである。偏見が事実を装ったのである。しれは無数の取るに足りない、多分経験だけに頼る知識に基づいていた。欧米人は、日本人のことを単に軍事的に無能であるとして、考えもせず片づけてしまったわけではなかった。彼らは日本人が重大な脅威ではないことを「知っていた」のである。なぜなら日本人は、射撃も、操船も、操縦もできないと繰り返し報じられていたからである。日本が一九三七年以降、中国を屈服させることができないとわかると、こうした事実が再確認されたと決め込んだのも無理からぬことだった。中国の広漠たる国土における厖大な兵站業務とか、中国人の思いがけない頑強な抵抗というような現地事情については、詮索するに及ばないのである。」

P134日本軍が無能である理由について…「第一の仮説によれば、日本人はたいてい近眼であるのと同じく人種的に内耳管に欠陥がある。これが彼らにバランス感覚を失わせているが、パイロットにとっては許されない欠陥である。

第二の解釈は、武士道および個人の生命を無価値とする日本人の掟に責めを負わせている。飛行機がきりもみ降下したり他の面倒なことに巻き込まれると、日本人は胸元で腕組みをして大日本帝国の栄光のため嬉々として死んでいく傾向がある。一方、個人の存在について一段と鋭い意識をもつ欧米人は、全力をあげて機体の障害を取り除こうと努めるか、土壇場になってパラシュートで脱出する。」

 

P137「日本が攻撃した当夜、シンガポールの空襲警戒本部に誰一人いなかった一つの理由は、あの運命の日の直前にイギリス空軍の将校が空襲監視員たちに、日本人は暗がりでは飛行できないと告げていたためであった。科学的な説明の中で特に巧妙な試みは、日本人が広範囲に及ぶ内耳の損傷に苦しんでいるというものだった。何が原因か。日本人の母性、というのが西洋のある権威の見解で、先天的に欠陥のある「管状器官」のせいだとするプラットの解釈を退けていたのは明らかだった。赤ん坊を母親の背中にくくりつける慣習は、頭を飛び跳ねさせ、バランス感覚を永久に損なうと説明されたのである。」

P138「彼らの精神は「前ギリシャ的、前合理的、前科学的」と評されたーーこれらのレッテルは女性の劣等性に関する話の中でも、よく使われたものだった。時によっては、この同一性がはっきりと示された。「日本人の精神は、女性の精神がそうであると考えれているように、より初歩的な動き方をするーー分析や論理的演繹に従うというより、本能、直感、懸念、感触、感情、連想によって動くのである」とオットー・トリシャスは書いた。

こうした受けとめ方が肯定的な形を変えたものは確かにあった。それは多くの日本人や他のいっそう神秘的な傾向のあるアジア人によって助長され、東洋人の「直観的」または「精神的」な能力を賛美していた。英米中流階級向け雑誌の読者たちは、禅およびその「常識」への挑戦に漠然とながらなじんでおり、西洋への禅の最も能弁かつ多作な解説者、鈴木大拙の著作は、日本人が概念の操作よりむしろ直観に頼ることについて、いつでも引用するのに役立った。鈴木が信奉した禅の教えは、第二次大戦後、西洋の人々にさかんに取り入られたが、彼の主著の大部分は、一九二〇年代と三〇年代にすでに英訳されていた。」

 

P152「戦争は、超人のイメージをつくりだしはしなかったが、それを表面化させた――日本人に関する過去の印象のプールからではなく、むしろ西洋の他者についての伝統的なイメージの大きな貯水池から呼び起こしたのである。というのは、獣のしるしやヒトより下等な存在に与えられた多数の特徴のように、恐怖や危機の際には「超人的」という特質までもが、たいてい見さげたアウトサイダーに帰せられたからである。」

P153「猿とか他の人より下等な動物は、それ自身が脅かす存在ではない。「劣等人」もそうである。こうした軽蔑的なレッテルを貼られたものが、突如として思いもよらない挑戦の態度をとり、実行できるとは考えられなかった行動をやってのけると、人は特殊な能力を捜しはじめる――そして必ず見つけ出すのである。」

 

P172「一九四四年までには、かなりの数の社会科学者と行動科学者が、このように日本を研究していたが、いずれにせよ日本人の行動を理解するうえで「未熟」という概念が核心であることに大方は同意した。」

P173「ニューヨーク会議の参加者たちは、日本人のきめられた行動様式への順応がたいてい私的または個人的な信念を欠いており、この「信念なき順応」が、ある政治学者の言ったように「青年期の完璧な臨床例」であることで意見が一致した。会議に招かれた数人の精神科医の一人は、日本人の行動が「いくつもの違った態度、異なる感情的な諸反応、幻想の使用、個性の分裂といったものの間での優柔不断」のような青年期の未熟さの「臨床例」に一致することを指摘した。彼は、西洋と日本の育児慣習の違いに注意を促す一方、国民性の構造の差異は人類の発展段階の差異を反映し、「日本人の不良性は、少年期の発育段階に特有なものである」という考えも述べた。」

P177「(※ウェストン・)ラベアは、ゴーラーの草分け的な分析を知らずに論文を書いたが、専門諸分野における例の初期の研究の幅広い影響を受けた驚くべき誤りがあった。ゴーラー同様に彼も、日本人の脅迫的性格を発育の肛門期に関係づけ、「そこで子供は最初の満足感を捨てさせられ、文化的に着色された括約筋の調節を身につけさせられる」と述べたのである。」

 

P184-185「日本人の原始性についてえせ歴史的、えせ人類学的な概念が広まった結果、野蛮な敵という認識は戦場以外にもひろがっていった。つまり、その認識を国民、人種、文化の全体に当てはめ、そうすることにより自らの報復および懲罰という野蛮な行為を、合理化、正当化したのであった。たとえば、開戦後間もない一九四二年一月の覚え書の中でレーヒ提督は、「日本の野蛮人と戦う際は、かつて戦争ルールとして認められていたことを、すべて放棄しなければならない」という巷間伝えられていた信念を引用している。戦争が暴力的な結末に近づいた頃、トルーマン大統領はポツダムにおいて原爆実験の成功を知り、それを日本に対して使用することを直ちに決意した。彼は日記に、このことは遺憾ではあるが必要なことなのだ、なぜなら日本人は「野蛮人であり、無慈悲、残酷、狂信的」だからと記していた。」

P190-191「この文章は、実は十六世紀はじめにスペイン人が、新世界のすべてのインディオに対する蹂躪を正当化するため書いたものである。そして最初の引用のカッコに入れた「英米人」は、原文では「スペイン人」となっている。われわれは、歴史上のもの現代のものを問わず、似たような手品をすることができる――「日本人」を、他の人種や国民とだけではなく、非キリスト教徒、女性、下層階級、犯罪的な分子といったものと差し換えることができるのである。これは単なる手品師のトリックではない。むしろ、何世紀にもわたり、男性優先の西洋のエリート連中がになってきた、他の人々を認識し扱うための基本的なカテゴリーを示している。獣のしるしのように原始人、子供、精神的、情緒的に欠陥のある敵というカテゴリー――第二次世界大戦中は、とりわけ日本人に当てはまると思われ、新しい知的な解明も当然、日本人に特有のものと見なされたが――は、つまり西洋の意識に記号化された基本的には決まりきった概念であり、日本人専用のものでは決してなかったのである。」

 

P206「黄禍は、もともと幻想や安直なスリルを混合させたくだらない考えであり、三文小説、漫画、B級映画、それに煽情的ジャーナリズムに似つかわしい話題だった。しかし幻想と煽情主義は、多くの点で世論を形成し、大方の学問よりはるかに大きな影響を及ぼしたことは疑いなかった。また東洋からの真偽の疑わしい脅威を、強い衝撃を与えるように言いたてる人々がたくさんいた。その中にはハースト系の新聞のように、日本に率いられた「黄禍」を早くも一八九〇年代に警告し、その後の半世紀にわたり揺るぎない反東洋論の編集方針を維持したところもあった。空想的な軍事評論家ホーマー・リーのように、日本が突出する運命にあるという予想をしたため、日本人自身がうぬぼれてすぐさま翻訳にかかったという例もあった。」

P230-231「戦時中アメリカ向けの日本のプロパガンダが、人種差別を強調して、非白人の注意をひこうと試みたのは事実であるが、黒人世論に真の衝撃を与えたのは、秘密活動や敵のラジオ放送ではなかった。それは戦争の本質そのものであった。ドイツ人と日本人に対する戦いは、たいてい支配民族説に対する攻撃を伴っており、したがって白人至上主義やアメリカの差別的な法律と慣行の根元に向かって挑戦していた。……

と同時に、日本人の攻撃も黒人にとってはきわだった象徴的な面をもっていた。日本のプロパガンダが白人の人種主義の実践を繰り返し強調してはいたが、多くの非白人の世界観を本当に変えたのは、日本の言葉ではなくて行動であった。日本人は、支配的な白人体制に毅然と立ち向かった。彼らの緒戦の勝利は、欧米に忘れがたい方法で恥辱と与えた。つまり白人の全能という神話、あるいは白人の実力うという神話さえ永久に打ち壊したのである。日本人の勝利は、非白人が現代世界の進んだテクノロジーを発展させ、使いこなす能力のあることを実証した。黒人指導者ロイ・ウィルキンズが言ったように、真珠湾の大惨事は、少なくとも幾分かは、白人がすべての非白人国家を見下す愚かな習慣のせいであった。」

 

P235-236「人種的な意識が、他者に対する地位や権力の表現――階級意識ナショナリズムや大国意識、それに男女の性差による尊大さなどに比較されるが――としても理解されるとき、はじめて真剣な比較研究の対象となることが明確になる。

こうした研究には、西洋が近代の政治経済学を支配してきたという事実に由来する、先天的なアンバランスがつきものである。工業化した世界は、外部から多くを取り入れることをしなかった。日本のような後発の国は多くを取り入れた。日本は西洋に倣ったため日本人の他者に対する態度は、混じり合ったものになっている。たとえば彼らは、欧米人を見下すことが決してできず、「小さな連中」とも呼べなかった。彼らは欧米人を、猿と本心から呼ぶことはできなかった。なぜなら日本人は、西洋のような大航海やのちの進化論の体験を経ていないためである。欧米人は当初、彼らより強く、多くのことを教えたから、欧米人を子供と特徴づけるのは、意味のないことだったろう。欧米人を嫌悪したり侮辱したりするのを妨げるものが何もなかったものは確かだが、慣用句は、強くて威嚇的で、有用で邪悪で、ピッタリあてはまるものでなければならなかった。それは「鬼」に決まったが、人間の顔を持つ鬼であった。」

P241「第二次世界大戦中の日本人と欧米人との間の民族的、人種主義的な考え方の相違を説明するため、どのような理由を挙げようとも、すべてを包含する一つの一般化は難しいように思われる。つまり西洋における人種主義は他の人々を侮辱することにきわだった特徴があったのに対し、日本人はもっぱら自分自身を高めることに心を奪われていたのである。日本人は、他民族をみくびり、軽蔑的ステレオタイプを押しつけることにかけて下手ではなかったが、「日本人」であるということが真に何を意味するのか、いかに「大和民族」が世界の諸民族と諸文化の中でユニークであるか、このユニークさがなぜ彼らを優秀にしたか、といった問題と取り組むことにより多くの時間を費やした。

この激しい自己への没頭は、結局は手の込んだ神話的な歴史の普及となり、日本の皇統という神授の起源と日本国民の異例な人種的、文化的な均質性を強調することになった。近代日本にとって歴史は、人種的な優越性を断定するための手段として、西洋における科学や社会科学に匹敵するような役割を果たしたのである。そして優越性の本質と言われたのは、要するに道徳主義的なものであった。日本人は、肉体的にも知的にも他の人々よりすぐれていないが、本質的に徳があると言明していた。この道徳上の優越性は、神々しく継承されてきた日本の皇統のもとで、忠孝という最高の美徳を称揚する決まり文句の形で頻繁に言い表わされたが、こうした特質それ自体がより崇高な美徳である「清浄さ」を反映していた。日本人は無敵の方法で自分たちのことを他の人々より「純粋」な存在――古代の宗教的な意味と現代の複雑な効果をあわせもつ概念――であることを示した。」

 

P259「清野(※謙次)もまた西洋人の肌の色についての偏見と、彼らが白にどれだけ近いかを評価の基準として用い、黄色人種は比較的色白だという単純な理由で黒人よりも高く評価されていることを、読者に思い起こさせた。もし西洋的な考え方を論理的に推し進めれば、白兎は黒兎より進化しており、鷺が色だけの理由で鳥よりすぐれていると極論することになろうと、清野は皮肉っぽく述べた。これとは反対に、あらゆる人種が長所と短所をもっていることを認識するのは必要なことだった。互いに補足し合って完全になるよう世界の諸人種を結び合わせることは、壮大な試みというべきだった。

こうした理想主義的な考えから、清野は各人種をその能力に応じて「適所」に置き「適当なる職業」につかせる壮大な事業として、大東亜共栄圏を空想的に描くことにとりかかった。彼は「優良民族」に保護を加え、その人口を増やすよう奨励すべきであると強調した。この点に関して彼は日本政府の公式政策と完全に一致しており、要するに最優良民族とは日本人のことであり、その「適所」とは絶対的な指導者の任務であった。」

P260「こうした理論に接してもなお、中島知久平のような教育程度の高い日本人でさえ、世界の「指導民族」としての運命は、遺伝学的に決まっているばかりでなく、神の力によっても定められていると公言してはばからなかった。この点に関する政府の教条的な教えは、漠然としたあいまいきわまりない言葉で言い表わされることが多く、文化的な諸要素に大きな注意を払ってはいたが、正統的な学説が生来の人種的優越という考え方を奨励していたのは間違いなかった。たとえば、日本人であるということが何を意味するかについて公式の考え方を述べた『国体の本義』は、日本人が「西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる」と明言し、彼らが他のアジア人よりすぐれている理由についても説明していた。日本人を他の人民と峻別するものは「根源」であり、それは神の子孫である日本の天皇に対する崇拝と不可分に結びついた忠孝の精神から成っていた。さらに清浄さという主要な特性に触れることなく、この根源について述べることは事実上できなかった」

 

P264「アメリカ人は自らのぜいたくを保つため戦っているのに対し、日本人は自衛自存、大東亜解放、世界新秩序建設のため戦っていると(※徳富)蘇峰は明言していた。この三大目的は三つの同心円のようだった。つまり日本は、まず自国、次いでアジア、そして究極的には全世界を英米人の抑圧から救わなければならなかった。」

P268-270「知的に難解であるにもかかわらず『国体の本義』とか『偉大な神道の清めの儀式』といった論文や京都学派の著作、討論は、戦時中の日本で多くの読者をもっていた。『国体の本義』は、二百万部以上が出版され、学校では必修読本となった一方、京都学派のおもな公開討論の場の一つは、大きな発行部数をもつ月刊誌「中央公論」であった。しかし当時、平均的な市民が「浄化」とは何かと尋ねられたら、あまり抽象的ではない言葉で答えたであろうことは間違いない。日常レベルにおける浄化は、(1)外国の影響の抹消、(2)質素な生活、(3)天皇のために戦い必要とあらば死ぬことを、を意味するものと理解されていた。

これらの訓令の第一は最も単純で、商品、ジャズ、ハリウッド映画といった大衆文化的な流行から「危険思想」まで及ぶ「西洋の」諸影響の追放カタログまで含んでいた。西洋思想の中で独特の堕落した特徴の最たるものは、自己つまり個人への没頭で、より大きな集団への帰属とは対照的であるとされた。この自己中心主義および個人主義から近代の不幸の大部分が生じたのである。すなわち功利主義、物質主義、資本主義、自由主義社会主義、そして特に共産主義である。こういうすでに見てきた無数の公的、私的な言明は、堕落や腐敗による諸影響を日本から追放する理論的根拠を説いてはいたが、戦時漫画ほど大衆レベルでのキャンペーンを簡潔に表現しているものはない。」

 

P272「一例を挙げれば著名な評論家である長谷川如是閑の一九四三年の論文は、日本人が生まれつきもっている性格の本質として「痩せ我慢」を挙げていた。如是閑は、これが侍気質の核心であると次のように述べた。それは道徳上の理想であるとともに実際的な力でもある。その独特の象徴的な表現は、精神的、肉体的な浄化の達成を表わす神道の「禊」に見出される。「痩せ我慢」は、インド、中国、ギリシャの宗教や哲学に見られる「精神的な忍耐力という消極的な性質」とは反対の積極的な態度である。戦時中の日本の英語プロパガンダで極めて人気があった慣用句で言えば、それは日本の「雄々しい国民性」の真髄であった――時には「民族的活力」という言い方もなされた。如是閑は同じような調子で日本の読者向けにも書き、その雄々しい資質が社会の全階層に行き渡っているという点でも日本はきわだっていると指摘していた。」

 

P292-293「この記事が現われるまでに「鬼畜米英」とか「米鬼」という慣用句が、日常の戦争用語として定着していた。そして純粋かつ神聖な故国が、獣のような悪鬼のようなヨソ者として危殆に瀕していることが、あわせて明瞭に描かれていた。清浄さ、不浄、けがれ、獣性、悪鬼信仰といった語彙は、すっかり社会に溶け込んでいた。教室には「米鬼を殺せ」と生徒に呼びかけるポスターが貼られ、一九四三年には、学童を巻き込んで敵を儀式的に絶滅するというユニークな機会があった。アメリカの慈善団体から親善の意思表示として一九二七年に日本の学校に寄贈された約一万二千の青い眼の人形が、ほぼ全部破壊されたのである。サイパン陥落後のプロパガンダの高揚した狂信主義には、こうした背景があったのである。そして純粋な自己および鬼のような他者というレトリックは、壊滅が避けがたいというビジョンと不可分のものとなった。」

P296-297「連合軍の進撃が日本の上に影を落とし、通俗的なマスコミでさえ彼らの雄々しき兵士が草や土を食べていると率直に報ずるにいたると、より劇的なイメージを見つけ不撓不屈の抵抗を描くことが必要になった。「日の出」は、こうしたイメージを古い観念の中に見出した。すなわち「護国の鬼」である。このため同誌は、「鬼神」とする日本の物語も載せた。ここには悪鬼のような敵との矛盾の感覚はさらさらなく、目的のためには恐ろしい力が必要とされる時代があり、明らかにいまほど危機的な時代はありえなかった。しかし、この自己にあてはめた鬼神イメージは、当時の中心イメージのいくつかが、いかに意味深長でとらえにくく融通性のあるものであったかを明らかにしている。」

 

P302「というのは、桃太郎にせよ鬼のような他者にせよ、確実不変のシンボルとなっていなかったからである。われわれは敵を鬼と呼ぶことが、西洋での狩りとか害虫駆除という隠喩に匹敵する、絶対主義者のレトリックの出現を許したことを見てきた。しかし桃太郎の教科書版のように、その一九四五年の映画は鬼のような敵に慣れるようにするため、あまり血なまぐさくないモデルを示した。実のところ同映画の注目すべき特徴は、桃太郎と敵対者の白人がともに人間の姿で描かれたことである。白人は、卑屈で浅ましく鬼の角をはやしており、征服した地域の地図を英語の鬼を表わす名称でけがしていたが、この映画で彼らが徹頭徹尾、鬼でないことは歴然としていた。この映画で彼らが徹頭徹尾、鬼でないことは歴然としていた。こうして桃太郎と白人たちは、人間の特質はもちろん超自然的な特質をも共有する人物として対峙した。この点に関して彼らは、一見したところより実際に似ていたのである。」

P302-303「このように最初の桃太郎=鬼という対立の構図が象徴的に崩れたことは、たとえ当時は明快にわからなかったにせよ、日本が敗北を認めるや否や、純粋な自己と度しがたく邪悪な相手という正反対のステレオタイプを放棄する下地づくりに役立った。というのは戦闘が、それまでに事実上、人間対人間の戦いに戻っていたからである。この本質的に対等という暗示は、日本との戦闘についての西洋の説明で潜在的にせよ完全といっていいほど欠けていたことであった。」

P303-304「大方の欧米人の見逃したのが、日本の宣伝係や論客が同等かより大きい精力を注いだ、ダイナミックな「新」日本というイメージの喚起であった。変化の意識、つまり新時代に入ったという認識は、一九二〇年代、三〇年代の日本で人を動かさずにはおかない理念の最たるものの一つであったことは確かで、限りないほど多様な道具立ての中で表現された。日本国民は、国内での新政治体制と新経済体制、それにアジアと世界中の新秩序という壮大なビジョンの集中攻撃にあっただけではなかった。ありふれた日常生活の場でも、「新」とか「新興」という接頭辞のついた文化にひたされたのである――たとえば新俳句、新写真術、新財閥、新官僚、さらに新興男子、新興婦人まであった。これらの影響は左翼を含む多方面に生じ、とりわけ文化的な領域で国の正統派と対立することが多かった。新しい出発という総合的な理念は広く行き渡り、こうした背景のもとで桃太郎型の人物像が、アジアでの戦争に突入していく時代に日本と日本人の大衆的なシンボルとして採用されるようになったのは、少しも不自然なことではなかった。」

※他国比較のない、改善要求的な要素であるため欧米人から見えづらかったとはいえる。

 

P361-362「西洋の大方のメディアと同様に海兵隊の「レザーネック」誌も戦時中、これを日本人に対する軽蔑の念を強めるために用いた。しかし「レザーネック」の日本降伏直後の一九四五年九月号の表紙は、微妙で意義深い変化を伝えていた。それは、帝国陸軍のだぶだぶの制服を着た可愛らしいが不機嫌な顔をした猿を肩に乗せ、ほほえんでいる海兵隊員を、オールカラーで描いていた。デービッド・ロウの描いた白人の背中を突き刺そうとする猿とか、共栄圏のココナッツをひったくろうとする猿、「パンチ」誌の木から木へ飛び移る猿の侵略者、「ニューヨーカー」誌の猿の狙撃兵、日本人=超人が流行っていた頃に現われた巨大なキングコング、ドゥーリットル隊の飛行士を処刑したというニュースに対するアメリカ人の反応を象徴化した血まみれのゴリラ、「ニューヨーク・タイムズ」紙の失われた猿のシンボル――これらすべては、「レザーネック」が直ちに感じ取ったように、賢く模倣的で飼い慣らされたペットに突如として変身した。猿のイメージの戦時中の側面は、獣性と弱肉強食ということだった。他の側面――平和になり急速に出現したもの――は、魅力と物真似であった。たとえば「レザーネック」と同時期に刊行された「ニューズウィーク」誌の日本降伏に関する特別記事は、敗北を喫した敵を「好奇心の強い猿」と評した。」

P363「こうした父親的な温情主義が、マッカーサーの日本人――と一般に東洋人――に対する態度の本質であったことは疑いない。……「ドイツ人の問題は日本人の問題とは完全に違う」とマッカーサー上院議員たちに告げた。「ドイツ人は成熟した民俗であった。もしアングロサクソンが、その発達段階つまり科学、芸術、神学、文化において、四十五歳だとすれば、ドイツ人はまったく同じように円熟していた。しかし日本人は古代からの存在であるにもかかわらず、学齢期にあった。現代文明の標準からすると、彼らはわれわれの四十五歳という発達状態に比べれば十二歳の少年のようなものだろう。学齢期の常として彼らは、新しいモデル、新しい考え方に動かされやすかった。そこには基本的な概念を植え付けさせることができる。彼らは新しい概念をしなやかに受け入れる白紙に近い状態であった……」