松下圭一の日本人論(補論)

 今回は前回の補論も兼ねる形で、松下の「日本人論」を考察してしたい(※1)。思えば、松下の「社会教育の終焉」のレビューにおいて、「日本的」であることの文脈の捉え方に違和感を覚えたことが、その後の私の日本人論の検討にも大きな影響を与えたように思う。実際、松下の市民論と「日本人論」は切っても切れない関係である。松下が「既存の理論」について全否定する態度に富んでいたことはすでに指摘したが、これは「日本人論」に対して「権威性」を見出すことで同じような議論を繰り返しているのである。

 もちろん、あらかじめ断っておくが、松下の日本人論批判についても、その妥当性が十分に検討されているかは言い難い。合わせて、松下の日本人論もかなり歪んだ議論を展開している。

 

 松下の日本人論は、「国際化」の議論を踏まえた「改善要求」の文脈の議論をすでに1977年の時点で展開している。そして、この視点は地方自治体における「分権化」と共に何故か出現した「国際化」の必要性として議論されることとなる。

 

「そのうえ、経済の国際化とともに、日本の文化構造の総体が、エコノミック・アニマル、セックス・アニマルというかたちで、国際試練をうけはじめた。国際社会での個人の行動様式は、彼が育った国の文化構造を延長したものである。まず日本における開かれた市民文化の成熟がないかぎり、批判をうけつづけざるをえない。今日の日本の文化構造と、奈良、平安や江戸の文化遺産とは、別の次元の問題である。」

(「新政治考」1977:p55)

 

「ようやく、この分権化・国際化・文化化には、市民活動を背景に、自治体レベルで先駆自治体がふみだしたにすぎない。政党相乗りで沈静しているようにみえるとしても、先駆自治体が日本の国レベルの政治に対する、実効ある「野党」となっているのである。」(「政策型思考と政治」1991:P74)

 

 

 当然、その批判は「日本的なるもの」に向かう。まず、ある所では「風土的」なものを指摘する。 

「日本の工業化にともなう都市人口の拡大は、こうした風土的背景のもとに進行する。ここでは都市的生活様式の未確立、別の言葉でいえばシビル・ミニマムの欠如となり、農業社会的生活感覚が滞留することになったのである。生産力世界第三位をほこる今日の日本の都市的生活水準の低劣性はたんにアジア的貧困の継続とみなすことはできない。むしろ風土的条件からきた国民自身の生活欲求水準の低さ、すなわち都市的生活様式の未成熟からきているといわなければならない。これを前提としてはじめて、明治以来、中央政府の生産資本優位、社会資本無視の経済成長政策が可能になったのである。政府を批判することはやさしい。しかし国民自身ないし都市人口自体がいまだ農村的生活感覚から脱却しえていないことをより強く問題としなければならないだろう。」(「シビル・ミニマムの思想」1971:p190)

 

「だが日本では都市と農村が連続し、農村からの都市の自立、したがって都市的な生活様式の自立がみられなかったといってよい。日本でも今日、工業の産物としての鉄とセメントによるコンクリート建築が登場しはじめ、ヨーロッパと材質的には異ならないようになってきたが、いまだこの都市の自立性したがって都市的生活様式の自立性という理念は未熟なのである。こうして日本では交通機関ぞいの無限の都市スプロールとなり、逆に農村的生活様式が都市に浸透する。」(「シビル・ミニマムの思想」1971:p189)

 

 ここで指摘されているものの意味は少し解釈が難しいが、どうやら都市と農村の生活様式があまり変わらないことを問題視しているようである。もっとも、ここでの「都市的生活者=市民」は自律したものであるという「規範概念」を持っている松下にとっては、都市として自立した、個性あるものとして存在すべきものであるとされているが、その前提が明確にあるからこそ、このような主張が成立するものと考えられる。

 同じような説明がレジャーの話でも語られる。

「また地域にはいまだ集会施設、スポーツ施設、それに公園、散歩道が公共的に整備されていない。つまり、シビル・ミニマムの未整備である。この結果、レジャー産業への指向が異常拡大するのである。とすれば、レジャー問題は時間の余裕の問題だけでなく、空間の構成の問題と見なすべきである。この意味で、日本におけるレジャー産業の異常肥大は、公共空間構成の貧困にもとづく大衆収奪のチャンスの拡大となっている。しかもそれは同時にGNPを空虚に拡大しているのである。」(「都市型社会の自治」1987:p145,論文は1972年のもの)

 

 「GNPの空虚な拡大」を問題視しているのは、要するに公共性のあるもの=シビル・ミニマムに対する無計画性について指摘しているということであり、この点からも自律的な都市の発想が欠落しているものと認識しているといってよい。

 このことについては、<私文化>の問題としても語られる。

 

「日本では、〈私〉は、共和への連帯をつくりえなかった。どこまでも〈私〉どまりであった。〈公〉はオカミとして〈私〉に対立しただけである。……

 これでは、〈公〉のストックとしての都市づくりができず、そのための思考訓練もつみあげられるはずはない。〈私〉文化構造は、東洋専制における農村型社会でうまれたものであるが、都市型社会の成熟とともに破綻する。これが日本において、かつて福祉・都市・環境問題が激化した理由であり、今日の都市のみずぼらしさの背景である。」(「市民文化は可能か」1985:p204)

 

 また、次のように歴史的な「城下町的都市構造」なるものに触れ、それが中央主権的な日本の構造を生んだという指摘もある。

 

「このように日本の都市はヨーロッパと異なった性格をもっている。したがって日本の都市の主流をなす城下町的都市構造が、中央集権的明治国家へとつらなり、これが東京を中心とする都市の階層制をつくりあげていった。」(「都市政策を考える」1971:p13)

 

「古代以来、日本の都市は、自治武装共同体ないし都市共和制の伝統をきずきえなかった。古代国家の崩壊したのち中世にいって共同体的な惣村、惣町が叢生し、とくに界や平野、博多などでは商業的富の蓄積によって都市共和制の萌芽がみられたにもかかわらず、都市は封建領主によって弾圧ないし再編されて城下町となり、幕藩体制へとつながっていく。明治以降の日本の都市の主流はこの城下町である。それは自治の塁ではなく権力の塁であった。

 ヨーロッパにおいては、都市国家という古典古代の地中海文化の都市イメージが継承され、広場、公会堂、城壁にみられるように都市共和制による自治が開花していった。」(「都市政策を考える」1971:p12-13)

 

 これについてもいまいち違いが説明できていないものの、「自治の塁」か「権力の塁」かでその違いが説明できるらしい。いずれにせよ、海外との比較を行っているにせよ、松下の日本人論は「日本は伝統的に権威的である」ことを主張することに終始しているといってよいだろう。 

「日本の国家観念は、官治・集権的統治による近代化=工業化・民主化をめざし、官僚むけには『帝国憲法』、庶民むけには『教育勅語』を規範に、つくりあげられた人工観念である。……その結果、内面の自由=寛容、ついで言論の自由=討論という市民文化の未熟となる。〈東洋専制〉の基層文化を結集し、軍隊内務班から家元制度、また「会社」主義を典型にもつ、「日本文化」の構造がこれである。そのとき、政治は、国家ないしオカミからに現世利益の配分・受益をめぐる利権競争に堕してしまう。これが、市民自治の対極にある国家統治の現実なのである。」(「政策型思考と政治」1991:p76)

 

「古くから、支配ないし搾取・侵略が聖宇宙の秩序とみなされ、戦争は神の名において、奪権は人民の名において美化されてきた。政治は聖宇宙のなかのドラマだったから、シナリオはかくされたままだったのである。政治の脱魔術化がすすむ今日でも、〈詐術〉としての、この二重思考があらためて進行する。これが、ジョージ・オーエルによる、ヒトラースターリンをふまえての問題提起であった。

この詐術は「全体政治」でなくても、政治ではたえずおきる。この詐術がまかりとおる理由は、目的・手段関係の逆転という文脈である。

  1. 手段の肥大 日本的発想のおける、教師暴力としての「愛の鞭」がこの詐術の典型であるが、ひろく政策目的の空洞化による手段の独走がおこる。
  2. 目的の肥大 日本的発想における、「社会教育」がこの詐術の典型であるが、政策手段によっては不可能なことが、目的の美化によって誇示される。

この詐術は、閉鎖状況でおきるため、これを切開するには、第一に、情報の公開、言論の自由、複数政党による相互批判の多元化、第二に、自治体、国、国際機構における相互抑制の重層化、という、《分節政治》が要請される。政策の発生源・批判策の多元化・重層化である。」(「政策型思考と政治」1991:p168-169)

 

 松下の日本人論は、典型的な「近代化論」に支えられた日本人論であり、その目指すものは単一的なものに置かれており、その進歩の発想も直線的である。丁度杉本・マオアでレビューした際の時代区分でいくと、第5期の言説そのものであるといえる。

このような見方においては、日本は後進的な位置に置かれ、将来的にはそれが解消されるという方向性を持つことになる。松下の「段階論」的言説にも親和的である。

 

「欧米対日本という対比での日本的特性とは、工業化・民主化=近代化がうみだす、都市型社会の「熟度」という時間のズレからくるにすぎない。事実、日本人も、先発国の人々と同じく、近代化ないし都市型社会の成立について、生活様式はもちろん、体型から心性まで、変ってきた。」(「政策型思考と政治」1991:p343)

 

「第二に、日本における今日の文化状況の閉塞は、日本におけるマスコミ論調の画一化ともいうべき、同調性とむすびついていることに注目したい。日本の政治ないし文化には、いまだ国家・官僚崇拝がつづき、政権交替のない「中進国状況」が基本にある。政治・行政の中進国型官治・集権性という問題次元は、個別の先端工業製品や伝統工芸作品における日本のすぐれた水準とは別である。そこでは、情報の多元化・重層化ないし分権化・国際化が、IT技術とあいまって進行するにもかかわらず、政治・文化状況は一国閉鎖型となる。」(「転換期日本の政治と文化」2005:p210-211)

 

 ここまでは通常の近代化論的日本人論にもよくある議論である。しかし、松下はここでは留まらない。やはり議論が歪む。それはすでに論じた通り既存の理論の批判と合わせて出てくるものである。松下は「日本文化」論者に対して批判するのに際し、次のような主張を行っている。

 

「文化についても、評論家たちは合言葉のように「日本文化」、「日本らしさ」、最近の憲法論議では旧「国体」にかわって「国柄」と言ってますが、「日本文化とはなにか」と問われたら誰も答えられません。都市型社会の今日、実質は図1-3のように、日本文化をふくめて国民文化は世界共通文化と地域個性文化に分化しつつあるからです。事実、皆さん方でふんどしをしている男性の方は一人もいない。女性の方で丸まげをしていらっしゃる方もいない。

 

 しかも、今日、日本の文化状況の閉鎖型同調性こそを、あらためて問題とすべきでしょう。」(「自治体再構築」2005:p49-50)

 

「ここから、従来の「日本文化論」の幻想性ないし虚偽性を批判するとともに、私が一九八五年の拙著『市民文化は可能か』以来強調してきたのですが、地域景観というカタチをつくる、市民ついで政治・行政、経済・企業また思想・理論の文化熟度を問題としていく必要があると考えます。」(「自治体再構築」2005:p58)

 

「国民文化は、近代国家ないしその建国に参加した政治家、官僚など、あるいは知識人が意図して「人工」によってつくりだし、やがて順次「国民」をくみこんでいった共同幻想です。明治以降の「和」や「禅」の神秘化などがこれです。共同幻想であるがゆえに、今日、「日本人」あるいは「日本文化」とは何かと問われたとき、まとまった共通理解というかたちでは、誰も答えられないではありませんか。この点は、ひろく各国でもみられます。」(「自治体再構築」2005:p63)

 

「とくに、敗戦後、いわゆる「戦後民主主義」の啓蒙期では、欧米デハ、ソ中デハ、つまりいわゆる「出羽神」の発想がみられた。この問題設定がいかに悲惨だったかを考えてみるべきだろう。日本の理論家たちが戦後、米欧に「近代」、ソ中に「未来」をみていたとき、米欧自体はすでに「現代」にはいり、ソ中は「後進国」だったのである。」(「現代政治」2006:p195)

 

 

 松下の議論の面白い所は最初の引用のような主張を平気でする点である。実際の所、松下が語る日本人論は当時存在していた日本人論を丁寧になぞっており、ある意味で一般に流布しえた日本人論と変わりがないといえるが、それを批判する際に、自分が語ることのできていた日本人論を「語ることができない」と言いだすのである。ここでは、「日本文化」を極度に具体化し、具体化された「日本文化」は現実に存在しないことを根拠に幻想性を強調する。しかし、例えば、松下は日本人の「権威性」や「集団性」について十分語っているのであり、やはり「日本文化」は明確に存在していることを自ら証明しているはずなのである。

この「文化」についての捻れた松下の理解は極めて重要な論点となる。松下の当為論は常に「精神論」であり、実態化する「モノ」としては語られることがない。これこそ立派な「共同幻想」である。これを「語ることができない」ものとして捉える発想自体が、松下の自己批判そのものであるといえるのである。このレベルの議論を始めてしまうと、実証性なき「規範概念」を語る松下の議論は全否定せざるをえなくなる。にも関わらず松下は他の理論家を批判する時は、平気でそのような批判を行ってしまっているのである。「日本人論」に着目すると、その論点が露骨に浮かび上がってくるのである。

 

 しかし議論を続けるべきは、3つ目の引用でも松下が明言するように「共同幻想」はどの国にでも存在することについても松下は自認している点を確認できることである。これは更に話をややこしくする。これは松下が語っていたつもりの「他国の文化」も同時に語ることができないことを意味し、それこそ何故「他国は自律した地方自治を行っている」ことを松下が明言しているのかがわからなくなってくるからである。

 

 「日本人論」の観点で松下の議論から学ぶべき点は、まず松下の用いる「日本」という言葉が「改善要求」と同義で執拗に語られている点であり、それが「海外」との対比を語っているようでいて、多分に理念に基づいた「自己言及的」なものにすぎないことが明確であり、その自己言及性にこだわる態度をとっていることで自己矛盾に陥る、という点である。少なくとも、松下が語る「日本人論」の一切は、松下自身の手によって否定されているのである(※2)。

 

※1 以下、「日本人論」として松下の言説を考察するが、松下の場合はむしろ「日本」について対象にし  ている傾向が強い。ただ本旨はこれまでレビューしてきた日本人論の系譜においても何ら問題はないため、本稿では統一して「日本人論」として考察する。

 

※2 最後に一つだけ補足をするならば、日本人論に限らず自己矛盾を抱えた「ネタばらし」の言説は00年代以降の松下の言説に集中している点も注目しておくべきだろう。これは松下の議論が捻くれているのは晩年だけである、という主張を行いうるということにもなる。しかし、私はやはり90年代までの松下の言説が負っていた「負債=自己矛盾のリスク」に松下自身が耐えられなくなり、それを自ら語るようになったに過ぎないと考える。それこそ松下的な発想での「地方自治」論の一つの限界が00年代の言説を支えていたのではないかと思うのである。

松下圭一の市民論再考(2/2)

○松下にとっての「教育」とは何だったのか?

 

 さて、2つ目の問いである。この「市民」に対する意味合いについても過去の言説から分析してみたい。ただ、これに答えるためにはまず、松下における「教育する主体」についての議論をしなければならないだろう。

 すでに「社会教育の終焉」のレビューで松下が大人への教育について批判していたのをみてきたが、まず押さえなければならないのは、「社会教育の終焉」以降はこのような形での「教育」という言葉は全く語られていないものの、80年前後までの松下の言説には「教育」という言葉が成人に向けられたものとして語られていた点である。引用しよう。

 

「都市改造には、現代都市問題への社会科学理論的展望をもった土木・建築家の育成ないし社会科学者との協業が必要とされる。しかし従来の大学工学部教育においては、これまで都市計画についての理論蓄積も少ない。……さしあたっては既成の土木・建築家の再教育が大学ないし関係職員団体によって行われなければならない。

いうまでもなく都市改革の前提は新しい都市ビジョンの構成である。新しい都市ビジョン構成にあたっては専門家もまず市民として発想し、都市改革の主体たる広範な市民とそれを共有しなければならない。そこではまず第一に市民参加の新しい組織論が構想されなければならない。ついで第二にそれにともなう都市改革を課題とした政策科学としての都市科学の形成、したがってその政策技術の展開とその専門家の養成が必要である。第三には都市専門家の自主管理の倫理と機構が提起されなければならない。」(1971a:p211)

 

したがってまたシビル・ミニマムの提起の市民教育的効果をも考えてよいであろう。それは地域における公害規制の基準、市民施設の基準などをめぐっての討論の問題提起であり、また汲取清掃車の増加か下水道の建設かの選択をせまることになる。日本では、シビル・ミニマムの提起がはじめて都市生活基準をめぐる意識の開発となるという意味で、それは市民教育的啓蒙性をもちうるのである。

これまでの日本の社会科学はこの問題領域に充分とりくんでいなかったように思われる。政治の科学化のためには、またこの意味で、社会科学自体も体質転換しなければならない。」(1971a:p294)

 

「この市民的自発性の大量成熟には、まず〈工業〉の拡大が重要である。それは生活の飢餓水準からの脱却、ついで生活様式からの意識形態の変化ことに教養と余暇の増大をもたらす。これは私生活埋没への条件でもあるが、同時に市民的自発性を育てていく条件でもある。民主主義は貧困と無知の上には永続しない。この条件は、日本でようやく形成されはじめてきた。

この市民的自発性成熟条件としては、ついで〈民主主義〉の制度自体がある。それは制度の教育効果として、国民の政治参加・訓練の機会を増大していく。自治体から国にいたるまでのあらゆる政治決定への参加の制度的保障、それにともなう市民内部における統治経験の蓄積がまた、結果として市民的自発性を培養し、したがって政治的成熟をうながしていく。」(1971b:p66-67)

 

ゴミの処理システムなどへの市民参加は、市民教育そのものである。それは、行政としての社会教育講座よりも教育的である。東京の官庁や企業本社が排出するゴミの分別を幹部たちの市民教育として、率先しておこなわせる時点にきているのではないか。」(1980b:p170)

 

 この4つの引用で語られる「教育」の意味合いについて確認しておこう。

 まず、最初の引用では既存の専門家の能力が不足していることから、大学での再教育が必要であると述べられる。この専門家は市民としては限定的な存在であり、他の3つと比べると、特殊な市民についての議論であるといえる。また、教育のイメージも通常の大学での教育と同じ知識等を身に着ける教育であるといえる。

 

 2つ目以降の引用は多少通常の「教育」とは異なる用法であるといえる。それは一つには、2つ目の引用に見られるような「啓蒙性」ありきで議論しているということである。「問題提起」を生みだすものに対して教育という用法を用いているといえる。

 また、この啓蒙性とも関連して、「市民参加による経験の蓄積」についても教育という言葉を用いている。特に最後の引用は社会教育との対比をしている点で注目すべき点である。「社会教育よりも教育的である」というのは、「ためになる」程度の意味で当時用いていたのかもしれない。しかし、このような態度の取り方は80年代中頃には変化が出てくることになる。

 

 さて、この2つ目以降の引用における「教育」というのは、その後も「教育」という言葉が用いられないまま、松下の言説で繰り返し用いられていることをまず指摘せねばならない。

 

「市民参加・職員参加の手続にもとづく、シビル・ミニマム設定ついで自治体計画策定をめざした政策情報の整理・公開こそが、市民、職員、首長、議員が政策立案能力をもつ「市民」へと成熟していく基本条件になる。そこで、はじめて、自治体改革、つまり行政スタイルの転換が可能になる。」(1994:P223-224)

 

「以上の結果、政策・制度づくりは、政治家・官僚の身分特権ではなくなる。今後、情報公開・市民参加の手続開発がさらにすすめば、政策・制度の立案・決定・執行への市民参加は加速され、市民の政治成熟をうながす。そのうえ、政治家・官僚も、文化水準・政治習熟の変化した市民のなかから、特定の選出・任命の手続をへて、「職業」として選択されるにすぎない。」(1991:p93)

 

「さらには、職員がカリキュラムをつくって公民館で市民を教育するという「社会教育」行政もとっくに終焉しているとみるべきでしょう。「生涯学習課」と名を変えていてもおなじです。社会教育は自治体職員がエライという前提をもつ後進国行政です。このため、市民みずからの自治訓練・自治学習の機会の拡大という、市民活動ないし市民参加方式からの出発が、今後の自治体のあり方の基本となります。」 (2010:p155)

 

 これらの引用はかつての松下の言説でいう「教育」の用法と同一ないし酷似した部分であるといえるだろう。ここでは「成熟」「訓練」「学習」といった言葉が「教育」の言い換えとして述べられているといえる。

 もっとも、85年頃から松下が『教育』批判で用いていた『教育』の用法は、80年前後まで松下用いていた「教育」の用法(特に、先ほどの四つの引用のうち、二つ目以降のものの用法)と関係なく、「教育」という言葉を用いていたのも用法的に誤りであったため、以後「教育」という言葉は用いなくなった、という開き直りのされ方はありえるだろう。これを検証するためには、松下自身が『教育』批判をする際に、どのような『教育』の用法を用いているのか論じなければならない。

 

○松下の定義する『教育』と「文化」とは何か?

 

 松下が用いている『教育』について検討するための前提として、松下は義務教育段階での教育については容認していることを踏まえると、基本的には「子どもが受ける教育とは何か?」をまず検討する必要がある。「社会教育の終焉」において、松下は教育とは「文化の同化」であると明言する。

 

「教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育を意味するとみなければならない。今日の日本ではこれは高等学校水準であろう。」(1986:p3)

「たしかに、成人も、学校型のチャンスで学ぶこともありうる。それにこの学校型受講を愛好する層もある。だが、これは、未成年の教育ないし学校の意義とは質的に異っている。それらは、社会の文化水準への同化という義務教育を終えたのちの、成人市民の自由な選択たる文化活動だからである。基礎教育ことに義務教育には、学校という制度強制がつきまとうのは、この社会の文化水準への同化という課題があるからにほかならない。これを終えれば、成人は自由な市民ではないか。」(1986:p85-86)

「教育すべき「真理」があると考えうるのは、先進国状況をモデルとした後進国状況の思考形態である。先進国状況にはいればモデルを喪失してオサキマックラとなる。このような先進国状況では、文化同化という未成年への基礎教育はありえても、オサキマックラというモデル喪失がすすむため、成人にたいする教育はありえない。教育とは、既成の文化構造ないし期待されるべき文化構造という規範モデルを教育規範とした文化同化である。先進国状況になればなるほど、成人市民にたいする教育は不可能となる。」(1986:p89)

 

 ここで、特に注目すべきは「教育とは、既成の文化構造ないし期待されるべき文化構造という規範モデルを教育規範とした文化同化である」と述べている点である。この中の「既成の文化構造」についてはわかりやすい。例えば、「ここで、教養とは、義務教育の普及による「読み書きソロバン」を下限とする」(1985:p76)といった言い方における文化構造は間違いなくこれにあたる。しかし、「期待されるべき文化構造」とは何なのか?これを検討するには、今度は松下の「文化」の定義も含め捉えなければならない。

 例えば、「文化」とは何かについて、松下は次のように述べている。

 

「文化は、文学・美術だけではない。地域環境そのものがまた文化でなければならない。歴史景観をふくめた地域のあり方、さらにはこの地域づくりの運動こそが市民文化そのものといってよい。日本での文化イメージは地域とむすびつかなかったがゆえに、明治以降、市民文化がなりたちにくかったのではないか。」(1980b:P192)

 

ここでいう「文化」というのは何か具体的なものについて指しているのではなく、文化を作ろうとする「運動」に対してそう呼んでいるといえるだろう。

 このような文化観は「文化行政」や「行政の文化化」という言葉を語るときに顕著となる。

 

「この文化行政の提起の今日的意義は、行政の文化化つまり行政とくに職員の文化水準の向上という、自治体レベルでの行政の意識革命をめざす独自運動という点にもとめられる。」(1980b:P217)

 

「文化行政とは何か、と問われるならば、それは、市民の文化活動、それにともなって市民文化が成熟するための条件整備をめざす、自治体行政内部からの新しい行政課題の設定ということになろう。あるいは、市民が、自由に、地域特性をいかし、自治手続をきづきながら、市民文化をうみだしていく地域づくりに対応できるような、自治体行政の自己革新の追求といってよいであろう。

 とすれば、文化行政とは、行政そのものを明治一〇〇年におよび国家中心の官治・集権型から、市民を土台とし地域特性を伸ばす自治・分権型への体質転換をよびおこす自治体行政内部からの新しい課題設定といわなければならない。」(1981: PⅠ)

 

「もちろん「行政の文化化」という語法については好悪がある。しかし、問題は、この語法で何がそこで意図されているかである。今後、適当な用語があれば、それに変っていくであろう。ここで意図されているのは、行政の体質革新としての行政水準の上昇という、文化行政そのものの課題である。

 このようにみれば、文化行政は、市民文化の成熟、さらには行政の文化水準の上昇に応じて不要になっていくことも理解されよう。市民文化の成熟は、自治体レベルから行政自体の文化水準をあげ、官治・集権型から自治・分権型へと行政体質を転換させていく。文化行政は、いわば過渡期の産物なのである。この過渡性のゆえに、現在、文化行政は自治体の戦略的急務となっている。」(1981:p11)

 

 私の言い方であれば、ここでいう「文化」とは既存の体質(文化)に対する「改善要求」に応えるものとして語られているのである。いわば「意識の問題」として「文化」が語られ、「意識の向上」に対して「文化化」という言葉を用いているのである。

 このように「文化」を捉えた場合、義務教育で教えられる「文化の同化」というのはどのように捉えればよいのか?本来であれば、具体的な「期待されるべき文化構造」に対してそれを身につけることを指すともいえるだろうが、松下はその具体性については全く述べていないし(述べる気がそもそもないとも言える)、むしろこれについては「行政の文化化」と同じような意味合いで「文化水準の向上」のための「意識の向上」のための手法を身につけることを指していると解釈する方が自然であるように思えるのである。これは学校教育の議論で揶揄されていたような「化石化した知識」を教えることではなく、「学習姿勢」を身につけることが重要である、という言い方と同じものを想定しているのではないか、ということである。次のような指摘からも、重要な点は「変容」にあり、「新しい文化」そのものではないように見えてしまう。

 

「くりかえすが、市民文化という文化自体は存在しえない。今日の日本において存在するのは、たえず変りつつある現代日本文化があるだけである。この現代日本文化の担い手である個々の人々の政治イメージのあり方として市民文化が問われ、さらに市民型への日本文化の変容がめざされているのである。」(1985:p31)

 

 もしこの仮説が正しいのであれば、70年代に松下が議論していたシビル・ミニマムの概念の普及や市民参加の与えていた「教育」の言葉の意味も、85年頃からの『教育』批判の議論から飛躍している訳ではなく、基本的には同じ意味合いで用いているということになるだろう。

 そうであるならば、前述した開き直りの態度は誤りであると言うべきである。結局松下は80年代以降の議論において「教育」という言葉を使っていないだけで、大人に対しても「教育」をする態度で臨んでいたことになる。つまり、市民は「教育される主体」であり続けているということである。

 

地方自治における「決定」は市民によりなされると松下は考えていたのか?

 しかし、もう一つ注目しなければならないのは、松下の言説における「市民」の対象の変化である。特に90年代に入ってから松下はいわゆる一般的な市民を対象にした議論ではなく、行政職員を「市民」として捉え、「文化の行政化」をはじめとした議論をもって「意識の向上=教育」を図ろうとしてきたのである。

 これは、松下自身も「教育」という言葉を使わないだけでなく、結果として「放任」する形にしなければ、「市民」を教育する立場になってしまうことを自覚していたからであると思われる。また、松下の理論としては「市民」はすでに成熟しているため、「教育」される必要がないから、議論をしないという「理論の力」も借りながら、このような転換を図ったといえる(※2)。

 もちろん、これも矛盾を抱える。「市民」は成熟しているのに、「市民」として扱うべき「行政職員」の方は何故か未成熟であり、教育の対象とされるのである。

 

「そのうえ、各政策課題はひろく量充足から質整備に移り、そこに政策水準の上昇という行政の文化化がめざされます。このため、職員のいわゆる研修も問いなおされてきます。」(1996:p212)

 

「この(2)について(※行政機構の政策水準の向上)は、職員の採用・研修・昇任制度との関連で、長の人事についての見識のほか、行政職員の二つの可能性を注目しておく必要がある。

1.プランナー型 行政職員自体が「政策知識人」となるために、プロジェクト・チームの編成などによって、書記型から「企画型」へと変る。

2.プロデューサー型 行政職員が外部の「政策知識人」を結集して、市民委員会ないし審議委員会・行政委員会をプロデュースする「演出型」へと変る。」(1991:p192)

 

自治体の政策・計画は、たとえ水準が低くてもその自治体で市民参加・職員参加でつくっていくかぎり、漸次、策定の経験・手法がその自治体内に蓄積されて、水準もたかくなっていきます。独自に自立して策定するといっても、もちろん、専門家の意見あるいは幅広い情報の集約は必要でしょう。しかし、これらの意見・情報は、その自治体にとっては参考にすぎないわけです。」(1996:p88)

 

 また、このことに合わせて改めて問わねばならないのは、「地方自治」における決定者は誰か、という問いである。松下の場合、これは言うまでもなく、「市民」によりなされるべきものであったはずである。

 

「したがって、民主的住民組織の形成ないし既成住民組織の民主化をとおした都民の民主的エネルギーの結集が考えられねばならない。このヨコのひろがりの民主的地域組織の形成・結集は、また既存のタテ割りすなわち企業別労働組合にのみ依存しては不可能なのであって、新しい運動形態が必要なことをここで指摘しておく必要があろう。この地域における直接民主主義こそが、なによりも都政改革、そして日本の民主主義の原型である。

 しかも、この地域の直接民主主義は、主体的参加をふまえた管理能力をも蓄積しなければならない。水飢饉の場合も、金持ちは井戸を掘って個人的に解決する、貧乏人は雨が降らないかと天をあおいでいる、といった状況のもとでは、公共的解決すなわち民主的参加による解決は不可能なのである。地域民主主義にもとづくこのような公共的解決能力そして公共的統治能力の訓練、すなわち市民的訓練こそが、今日、工業社会における市民にとって、従来の農業社会以上に必要とされている。」(1965:p152)

 

「このような激動の都市革命、ことに現代都市問題の激発の過程において、都市政策を構想し実現していく主体的可能性はどこにあるのだろうか。

 その可能性は私たち自らが追求しなければならない課題である。しかもその可能性は私たち内部にひそんでいる。それは、私たち自身が、政治的自発性ある自由な<市民>となることによってである。」(1971b:p56)

 

「(b)政治機能の拡大の結果、国・自治体レベルでの政策決定は、市民生活に広汎な影響をもつとともに、そのためかえって政策決定への参加をめぐって市民運動が噴出しはじめ、自治体・国レベルの多元的重層的な政策主体間の調整が要請されるにいたった。

 歴史的にみて、政策形成ないしそれにともなう政策選択は、かつては帝王の秘術であり、大衆民主主義が成熟しないかぎり、一九世紀ヨーロッパ、戦前の日本にみられるように議員・官僚の身分的特権性をともなった統治技術にとどまっていた。しかし今日では、政策主体は、市民レベルから、大衆団体、企業、支配層組織、ついで政党あるいは自治体、議会・政府さらに国際機構をふくめて多元的重層的に拡散してきた。もちろん、国民経済を基盤とする国民国家の地域的統一性・権力的独占性を前提として国レベルの中央政府が最強の政策主体としてあらわれる。だがこのことは中央政府の政策が焦点となっていることを意味するにとどまり、政策形成の主体が多様に拡散していることこそ注目すべきである。したがって市民による政策形成・選択のチャンスが拡大してきたのである。」(1971b:p77)

 

 しかし、91年の著書では、このような市民による自治観について明確に疑義がでるような主張をいくつか行っている。特に「決定主体」についての次の主張が松下の議論全体に与える意味合いはあまりにも大きい。

 

「決定主体はかならず個人である。政治には〈公共責任〉をともなうが、そこでの決断は、組織・政府の内外を問わず、つねに個人による決断である。長ともなれば、ひろく市民、さらに組織・政府にたいする〈個人責任〉をともなうため、辞任・交替も問われる。」(1991:p162)

 

 ここで問い直す必要があるのは、「市民」はここでいう地方自治に関する決定主体たりうるか、という点である。まず、この主張には合議体的なものに対する決定主体についての議論が欠落している。それよりも「市長」や「行政職員(の代表)」がこの決定主体であり、「市民」というのは、その決定者の周囲にいる「周辺者」以外の何者でもないのではないか、と思えてしまう。このような考え方はそのままこの91年の著書で提起される「プロデューサー型」の行政職員像にもあてはまる(1991:p192、前掲引用)。結局、ここでの決定主体はプロデュースされる「政策知識人(専門的知識を持った市民)」ではなく、プロデュースする側である行政職員である。これは松下も「政策知識人は、決断の責任を直接もたない。いわば、「浮動」する位置にある」(1991:p190)とみなしていることから松下の議論として正しい認識だろう。

 つまり、政策主体とされてきた「市民」というのは「決定主体」ではなく、せいぜい行政等から出された提案に対する批判者としてふるまうか、アイデアを出したにせよ、「決定主体」として振舞うことは決してできない存在でしかない、ということである。

 確かに松下にとって市民とは常にエゴイズムの権化であり、利害関係については自らでは判断できる主体として設定されていない。

 

「それゆえ市民運動は、伝統規制によるムラ状況が崩壊して、市民内部に多様な階層、職業、価値の分化が政策対立へと進行するマス状況から出発する。したがってまず、市民内部における地域対立、党派対立の確認が必要である。その政治参加もマス状況も反映して浮動的構造をもっている。こうして市民運動は、さしあたり、エゴイズムの氾濫という批判をうける性格をその特質としてもっているとみてよい。(1971b:p175)

 

 このような状況において、何をもってエゴイズムに留まらない公共的決定がなされうるのか。松下は確かに「シビル・ミニマム」という水準設定の作業がその担い手になりうることについて述べている。

 

「それゆえ市民運動は、シビル・ミニマムをめぐる討論をつねに組織することによって、エゴイズムのぶつかりあいを自治体による都市政策の策定・選択にまでたかめ、市民の政策構想をゆたかにしていかなければならないだろう。そこから市民、自治体さらに国というタテの循環構造を知的に誘導しうる条件を市民みずからがつくりあげることができる。これが市民自治なのである。」(1971b:p147-148)

 

「シビル・ミニマム手法の導入。……これがなければ、市民のいわゆるエゴイズム、職員の部課割拠主義、首長・議会の集票活動の力関係によって施策がきまり、施策の計画性を保障できなくなる。とくに他の自治体との比較、国のナショナル・ミニマムとの対置によって、各自治体はその施策の位相を客観化できる。」(1987:p215)

 

 しかし、一見客観的な指標にみえるシビル・ミニマムについても、政治的判断の産物であると松下は述べている。

 

「ただ、私は、シビル・ミニマムつまり個々の施策基準設定は、科学的決定ではなく、政治的決定だということをくりかえしのべています。老齢年金は円表示、建築の高度規則はm表示、特定物質の環境基準はppm表示などというかたちで、どうしても指数表示は必要となります。そのとき、科学は検証可能な実証研究によって、xからyの間がその時代の科学水準からみて「許容量」という《情報公開》はできます。けれども、ミニマムの最低基準をきびしくするか、甘くするかは、市民参加手続による合意をふまえた《政治決断》によると、たえずのべてきました。いわゆるテクノクラットないし官僚の無謬神話にかたむきがちの科学決定主義には、私は反対でした。」(2005b:p122)

 

 ここで、「シビル・ミニマム」が他の松下が設定する規範概念と同様、循環論法に陥っていることがわかる。闘争を解決する手段が闘争を生んでいるのである。とすると、やはり、この解決は「シビル・ミニマム」によっては解決しない。ではどう調停されるのか。それこそ、「決定主体」である「行政職員」による「調整」にかかっているのである。そして、松下はそれを実現する能力を行政職員に要求するのである。

 

自治体における従来の専務作業はコンピュータに入り、技術作業は外部化していくため、職員の課題は分権段階の今日ではプランナー型ないしプロデューサー型に変わります。ここから、職員には政策・制度の開発・実現能力が不可欠として問われていきますから、職員すべてに指数の作成・読解が要請されます。従来の自治体統計課は国のいわゆる官庁統計の消化であるため、この自治体の政策数務とは異次元と位置づけ、今後双方をどのように関連づけていくかを各自治体それぞれに工夫するとともに、この自治体政務をふまえて国の官庁統計の再編をきびしく考えていきたいと思います。」(2003:p14)

 

○「市民行政」という言説の欺瞞について

 

 もっとも、これにも別の側面からの批判が考えられる。「市民行政」という考え方がそれである。先述のボランティアの議論でも少し触れられているが、既存の行政職員が行っていることを市民に委譲し、「大きな政府」を「小さな政府」にしていく必要性について松下は強く主張している。

 

「市民のボランティア活動ないしコミュニティ活動という「市民行政」が「市民立案」とともに《市民自治》の出発点であり、この市民活動としての「市民行政」が日常直接に狙いにくい行政領域を基礎自治体広域自治体、国の職員行政へと順次「代行」させていくという発想が基本となる。市民行政こそがまた職員行政の「土台」とみなされなければならない。

 それゆえ、市民活動が活発になればなるほど、「市民立案」による職員への批判もきびしくなるだけでなく、「市民行政」による職員行政の減少という事態もでてくるのである。職員行政ないし自治体、国の政府こそが、原基形態としての市民活動の「補助」「下請」――派生形態にすぎない。」(1987:P175-176)

 

「市民活動が活発となり、団体・企業ともに市民自らが公共政策の立案・実現、つまり「市民行政」にとりくむならば、従来型の行政の減量ないし職員の削減もできることになります。逆に市民がナマケモノならば、人件費をふくめて行政費が拡大します。

 市民がゴミポストにゴミを運ばず、各家の前やアパート、マンションの各階・各室前までゴミを集めにいけば、清掃行政担当者は今の数倍になるでしょう。公民館は職員をおかず市民管理・市民運営であれば、市民文化活動のセンターとしてかえって活力をもつではありませんか。」(1999:p42-43)

 

自治体によるシビル・ミニマムの公共整備の政策イニシアティヴも、市民、ついで団体・企業の文化水準、政策水準がたかくなり、行政の劣化が露呈した一九九〇年代以降は、漸次、市民あるいは団体・企業にうつり、図3-4にみたように、市民、団体・企業との政策ネットワークの形成が不可欠です。この市民、団体・企業を主体とするネット・ワークをふまえて、自治体、国をとわず職員機構の縮少もはじまります。」(2005:p233)

 

 このようなトレード・オフの関係性を松下は強調しており、ここに一見「決定主体」として行政が行っていたものも、分野によっては「市民」の手に移ってきている、というような見方ができそうであるように思える。しかし、この「市民行政」という言葉も残念なことに規範概念として松下は語っている。実際に具体的な議論としてこの「市民行政」の内容に言及している例をみると、「コミュニティセンターの運営」「老人介護」の話程度にしか展開されていない。「ゴミ収集」の話なども言及はあるがいかにも無理やりな感がある。これらは本当に「行政への関与」と呼べるような分野といえるのであろうか?少なく見積もっても、この「市民行政」の分野においては、何らかの行政的な「決定」に市民が関与するような場所はどこにもないだろう。何故なら、市民行政の分野が、松下の言う「自由の王国」にしか存在できず、そのために「エゴイズム」とも無縁の世界であるはずだからである。言い換えれば、「エゴイズム」が存在しないのは、そこに何らかの公共的な「決定」を伴う事項が含まれていない、ということである。そのような「決定」はあくまで自治体の領分として残り続けるのである。

 

○職員による「調整」は統治論ではないのか?――ネオリベラリズムと松下の関連性について

 

 そしてこのような解釈をした場合に直ちに出てくるのは、このような「行政職員」と「市民」の関係は、松下がコテンパンに批判していた傲慢な行政職員そのものとならないのか?という点である。

 

自治体職員は、国の職員とおなじ今日も身分としての「役人」意識どまりになり、市民とヨコに共感する市民意識を自立させていない。国だけでなく自治体の職員も、現在なお市民を「育成・指導」するという官治型の考えにとらわれている。」(1987:p171)

 

「市民活動も、今日では、シビル・ミニマムの「量充足」から「質整備」の段階へのあらたな飛躍をめざして、ナイナイづくしのときには不可避だったモノトリ型を終え、環境の質を問うとともに、地球規模のひろがりをもって、たえず動いています。

 自治体職員のなかには、市民参加をスローガンとしてうたいながら、最近では「支援」という名でいわゆるNPOをふくめて市民活動を行政にいかに取りこむかという考え方をとっている方もおります。これは不可能なことをお考えになっているといえます。市民活動では、市民の文化水準がたかまり、余暇と情報がふえた今日、誰もが、いつでも、どこでも、動いていきます。そこでは、行政職員が予測しない、かつ行政職員の既成水準をこえた問題提起がつねにおこなわれてきます。」(1999:p47)

 

 この議論はかつて松下自身が「教育」という言葉を用いており、ここでいう「行政職員」と同じことをしていたと考えると自己批判をしているようにも見えてしまうが、それは置いておくとしても、「決定主体」であることについてはどうあがいても行政職員と市民は「非対称」であり続けてしまうのである。

 だからこそ、行政職員に対する「市民理解」について徹底させ、「対称化」することが図られるのである。しかし、松下が「対称性」をタテマエとした上でホンネでは「非対称」であると認めているとしても、その「非対称性」について明確に位置づけていないことについてはやはり問題ではないのかと思うのである。次のような主張においてそれは顕著に現われる。

 

「個々の行政職員と個々の市民の関係は、すでにオカミ対庶民という身分上下ではありえない。相互に「市民」ついで「勤労者」として、まず、平等である。それに、「職務」についても、市民、行政職員それぞれに職務の専門家だから、ここでは対等である。

 ただ、行政職員においては、その職務が「公務」であるかぎり、くりかえすが、つぎの論点をもつ。

1.行政機構は、市民の代行機構であり、職員の給与・職務は市民の税金でまかなわれる。

2.行政職員の制度的雇用権者は長だが、政治的雇用権者は市民である。3.行政職員も、行政機構をはなれれば、本来的に市民である。

 以上の三点から、オカミ、エリートあるいは専門家という、行政職員の特権性はうしなわれてしまう。むしろ、市民にたいする職務の責任が加重されているといってよい。それゆえ、まず、市民と行政職員との、「市民」としての同質性、いわゆる市民連帯から出発したい。そのときはじめて、行政機構の対市民規律が、出発点をもちうることになる。」(1991:p265)

 

 ここで致命的に重要な「決定主体」の違いに言及しないで、「非対称性」について無自覚にさせようとすることは、「決定主体」について「市民」側に移行することこそ「対称性」に寄与しうるという可能性の検討を放棄することに繋がっているのであり、言い換えれば市民側の十分なエンパワメントについても否定してしまわないか、と考えてしまいたくなる。

 ここまできて過去のレビューでも見てきた松下の議論と「新自由主義ネオリベラリズム」の思想との類似性を改めて議論せねばならないだろう。結局このような考察により、ほとんど松下は「ネオリベラリズム」の議論との差異について語ることが実質的にできていないことが明確になってくるのである。

 確かに先行研究においても、松下の議論とネオリベとの関連性については複数指摘されてきた点であった。例えば、諸橋卓は次のように指摘する。

 

「こうした論理を反映して、松下は、1970年代後半の経済低成長の原因について、大企業中心の経済成長に「革新自治体なり市民運動がブレーキをきかせたからこそ低成長になった」とさえ述べている。また、中央政府の政治権力のイメージを極小化し、たとえば行政による社会教育を批判したことなどは、むしろ1980年代以降の「小さな政府」・新自由主義路線と親和的に見える。最近でも松下は、財政再建に消極的な自治体が財政再建団体に転落した場合は自治体の責任だけでなく市民 の責任でもあるとさえ述べており、国家権力の責任という観点を捨象してしまっている。この点も近年しばしば「地方切り捨て」と批判される新自由主義路線と類似している。このように、松下の「分節」レベルにおける「自治」(=自己権力=自己責任)イメージは、同家権力をもってなされた現実政治の展開、とくに現在まで続く新自由主義路線に対する批判を鈍らせたと言えるだろう。(諸橋卓「60年安保以後における「戦後民主主義」思想の展開」2009, 「北大法政ジャーナル」16号、p103  URL: https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/42581

 

 また、趙星銀は、藤田省三と比較しながら、松下の市民運動論に対して、「NPOを中心とする「市民社会」が、政府の補完機構、とりわけ新自由主義的な路線に立脚した小さな政府の補完機構として機能する側面を露呈したのである」と評しており(趙「「大衆」と「市民」の戦後思想」2017,p329)松下的な市民運動論の理解が新自由主義的な勢力に抗する力がないのではないのかと示唆している。

 

 更に功刀俊洋が他の論者に対して評したこのような議論もそのまま90年代以降の松下の「革新自治体」に対する解釈にあてはまることがわかる。

 

「本論の目的からはずれるが、土山(※希美枝,2007)の革新自治体理解は狭すぎるように思う。土山は、戦後期の革新自治体の最大目標が地方自治自治体改革にあったというが、それに限定し過ぎて9条平和、社会福祉、さらには革新政権の実現という目標(期待)があったことを軽視してはいないか。その限定の結果、「革新」という学術用語が戦後史の時空から超越して、つまり歴史的内容を喪失して、「開拓」「改革」「先駆」と同義になっている。それでは、住民の社会権的人権より自治体経営の効率を優先しがちな新保守・新自由主義の「改革」と1960~70年代の革新自治体とを区別できなくなってしまう。地方自治体が都市政策の主体へと自立していくうえで、革新自治体が大きな役割を果たしたのは土山の主張のとおりだが、その役割は「保守・革新の対立とかかわりない自治体改革」だったのか。革新自治体が戦後革新の理念から自立・超越したから革新らしい都市政策が展開できたのか。そうではなく、革新首長は「反自民」「反独占」「反安保」という戦後革新の立場に同調したから、保守中央政府が大企業本位の経済成長政治に固執していたことに対抗して、それでは解決困難な公害・福祉政策に着手できたのではないか。また、革新市長が地域開発に民間開発企業の協力を求め得たのは、「企業に従属しない=住民本位」の立場で、民間企業の活動を規制できる「革新自治体の時代」を国民の世論と運動がもたらしたからだろう。」(功刀「革新市政発展前史 : 1950~60年代の社会党市長(1)」2008,p131-132,『行政社会論集』第20巻第2号)

 

 松下の議論においては確かに「オカミ批判」という形で常にネオリベ的態度に対する批判的態度が存在するはずであった。しかし、松下の『教育』に与えた批判が歪んでいるがゆえ、松下自身がやはり「教育」に加担し続ける立場であることに無自覚であり続けたことで、ネオリベ的勢力と「共犯関係」にあることを否定することは不可能であったといってよいように思う。

 実際、諸橋卓の論文は松下圭一から直接資料提供を受けていたらしく、松下自身も「新自由主義との親和性がある」という批判の存在について認識していたはずである。にも関わらず、最晩年の2012年の著書においても、このことに対する応答は存在しなかった。このような疑義が与えられてしまうことは、松下の理論を根底から覆しかねないにも関わらず、何故松下はこのことについて弁解することがなかったのだろうか??

 

 ここからは多分に推論であるが、この理由についてヒントになりうるのはその2012年の著書で語られている松下の「ポスト・モダニスト」に対する理解であるように思える。

 

「ところで、イズム関連でワカラナイのは、思想・理論をめぐるポスト・モダニズムという言葉である。一時、流行したのだが、私にはわからなかった。ヨーロッパ系言語では「モダン」は一語しかないが、日本では「近世」「近代」「現代」という、よくできた三語である。そのとき、「モダン」の元祖とみなされていたデカルトは、私からいえば、「近代」以前の「近世」バロック段階である。ヨーロッパの「近代」思想・理論はロックにはじまる<啓蒙哲学>からである。ルソーやカントなどはその系譜にあたる。《現代》の思想・理論は二〇世紀以降、近代の「主観・客観」の認識二元論の崩壊にともなう相対・機能理論、ついで近代の「国家対個人」という社会二元論の崩壊にともなう多元・重層理論の登場にあると、私は位置づけている。

 とすれば、ポスト・モダニズムという考え方が自壊するのは当然であった。いわゆる<近代>の位置づけについての再検討が、日本の理論家たちでいまだまとまっていないのである。」(2012:p19-20)

 

 ここで松下がはっきり宣言しているのは、ポスト・モダニズムが二項図式に執着する勢力であるが、むしろ時代はその二項図式から離れていっているのであって、そのような思想に対してほとんど無意味である、という見解である。

 このようなポスト・モダニズムの見方自体は竹田青嗣のレビューでもみたように、あながち間違いともいえない。しかし、このようにポスト・モダニスムを安易に一蹴してしまうのはポスト・モダニズムに対する無理解から来る見解ではないのかと思う。フーコーなどを読んでいてもそう思うが、ポスト・モダニズムの勢力もまた二項図式とは違った志向を目指していたとも言えるのでないのかと思う。しかし、その努力にも関わらず、得てして二項図式の構図にすべり落ちてしまうように見えているからこそ、このようなポスト・モダニズムの総括がなされてしまうのではなかろうか(少なくとも竹田の総括の仕方はそう感じた)。さて、松下はここで自分は二項図式から外れた思考ができるものと確信している節があるが(※3)、本当にそう言えるのだろうか?

 実際の所、「多元・重層」的であることを志向するだけでは二項図式から外れたことにならない。まずもって、「イズム」との関連でいえば、これは「プルーラリズム多元主義)」との違いを説明しなければならない所だろう。

 

 また、私が見る限り、松下はかなり重度のポスト・モダニスト的観点を持っているように思えるのである。これは、「規範概念」なる、存在不可能なものと定義したものを繰り返し用いている点において、相対主義の極に存在すると言ってよいからである。更に言えば、通常のポスト・モダニストと比べた場合(私はデリダとの対比を想定しているが)、松下はその「規範概念」を実態と混同し「段階論」として形づくっているという意味で、虚構をそこに上乗せしている分「悪意」があるものとみなすことができるだろう。

 このようなポスト・モダニズムに対する無理解的態度がそのまま「ネオリベラリズム」という言葉の理解にもあったのではないのか、というのが、松下がネオリベ加担であるという指摘に応答できなかった最大の理由なのではないのかと思うのである。自分自身がそのような立場に加担するような前提に立っていないことを確信していた、ということである。何故なら、松下の主張の根底では、ネオリベ言説と逆のことを言っているからである。しかし、松下の議論はポスト・モダニズムの議論と同様に「すべり落ちる」形でネオリベ言説と合流してしまっているのである。

 

○何故松下は存在しない「市民」に囚われたのか?

 

 この3つ目の問いについては、松下自身の信念として、次のような主張をしていることが重要になってくるだろう。「規範概念」に対する考え方として、松下は次のように述べている。

 

「だが、この「市民」は永遠に現実とならないため、つねに未完にとどまる規範概念です。都市型社会における「市民」の位置づけがここで私なりの決着をみました。つまり、かつての「財産と教養」をもつ名望家ないしブルジョアという歴史階層としての市民とは区別して、マス・デモクラシーの論理をふまえた「普遍市民政治原理」をたえず想起しうる現代市民を設定したのです。

 この「市民」という規範人間型を前提としないかぎり、「愚民」が前提では民主政治という考え方自体がなりたたないではありませんか。だが、市民は、夢のような「理想概念」ではなく、考え方の枠組としての「規範概念」です。しかも、政治のマス化つまり大衆政治がはじめて、この現代型の市民をうみだします。」(2006:p54)

 

「私があたらしく定式化する「都市型社会」、あるいは「市民」「自治体」という言葉も、当時はいまだ未開拓の理論フロンティアというべき実状でした。政治についても、今日もつづくのですが、憲法学のように戦前型の「国家統治」とみなし、その対極である「市民自治」からの出発はいまだ考えられてもいなかったのです。 

  このため、当時、私は新しい思考範疇として、一九六〇年前後から「地域民主主義」「自治体改革」、一九七〇年代には「都市型社会」「市民自治」「シビル・ミニマム」などといった言葉を造語していくとともに、市民、市民活動、市民参加、市民文化、ついで自治体といった言葉についても、都市型社会という新文脈で理論化していくことになります。新しい文化には新しい言葉が必要となるからです。日本にとって、「市民」という問題設定がいかに画期性をもったかが、御理解いただけるでしょう。」 (2010:p212) 

 

 このような言明を見る限り、松下にとって「新しい考えは新しい言葉」に生まれ、その言葉をもとにそれが波及していくことこそが文化を作っているものだと本気で考えていたのだといえるだろう。いくらそれが虚偽になる可能性が孕んでいても、それを語り続けなければ現実にならない、だからそれをそのまま語り続けることこそが正しいことだと考えていたし、逆も真で、そうでなければ、その新しい文化の成立はありえないとさえ考えていたのである。松下が奇妙な言説を繰り返した理由はこれで十分説明がつくだろう。

 しかし、このようなことが本当に真であるのか、ということは議論されるべきである。松下はこの議論を正当化するために、あらゆる「理論」を否定してきた。むしろそれは「すべての理論」に対してとさえいえる。これは「学者」の批判に典型的であったし(※5)、それが転じて「官僚・行政職員」といった「オカミ」批判、さらには「教育」に対しても批判的な態度をとる原因となった。それは、理論というのが常に「硬直化」しうるものとみなされていたからである。

 

「この意味で、代替理論・政策・要因ついで政府をたえず用意するのが、歴史に学ぶ市民の政治智慧である。のみならず、政策が構造改革・計画というかたちで「予測と調整」となるかぎり、未来を複数化して、長期の展望をゆたかにするためにも、社会科学ないし政治構想の複数性は不可欠である。とくに御用理論・流行理論はたえず画一化するので、一時の画一をこえ、長期の批判にたえうる代替理論が、複数で準備されることが必要である。」(1991:p279-280)

 

 そして、松下が理想とする「市民文化」なるものはもはや理論化が不可能なものとして位置づけられていた。この議論は初期には「子ども論」とも関連させつつその自由さが議論されていたことにも注目すべきだろう。

 

「都市・農村をとわず、市民活動は無限の可能性さらに想像をこえる多様性をもつため、単純に、あるいはキメツケで、行政が理論化、法制化を考えることはできません。《市民活動》はたえず創造性がわきでる、しかも地域個性をいかしながら、市民相互の自由な自治ネットワークを、多元・重層型にかたちづくります。 

  この市民活動ないしミニ自治の領域は、法律はもちろん条例をふくめて「法制化」になじまない、それぞれ地域個性をもつ市民の自由な〈自治空間〉です。官僚や学者が一義的に、中世モデルのコミュニティ、あるいは近代モデルのアソシエイションといったかたちで、それもカタカナで概念化することに私は反対です。」 (2010:p12) 

 

「テレビだけでなく、学校でのツメコミ教育をふくめて情報過多だが、体験の宝庫である地域社会は崩壊しつつある。そのため、知力と体験との分離がすすむ。この点、大村虔一「都市と遊び場」の発言が示唆的である。都市の子供は遊ぶところもなくテレビにかじりつくが、ある先生の話では農村の子供も遊ばない。子どもが裏山などで遊ばないのは、昔のようにたき木をつくる必要がないため大人もはいらず、山はたんなる景観になってしまったからであろう。「大人や遊び仲間の行動を見ながら〔子供は〕その感覚をみがいていくものらしい。子ども社会を形成していた遊び仲間がなくなり、そんな場で身近な仕事をする姿を見なくなって、子どもは草花や虫や魚が自分とどんなかかわりを持ってるのかがわからなくなってしまっているのだろうか」。大村自身も、七五年以来世田谷区での冒険遊び場づくりを試行する。

 私たちはここで新しい文化の形成の原点をみつけることができる。つまり各世代間の個人としての自由な交流による、まず地域での市民文化の形成という視点である。それは、当然、行政依存ではなく、市民自治を土台とする自治体レベルからの政治の再編につながる。

 夏には、観光地に若ものたち、それに子ども、大人もあふれる。だが目にケバケバしい、耳にガンガンなる観光地のあり方が、市民文化を形成しえない日本の文化荒廃そのものの象徴であることを、私たちは認識したい。」(1980b:p206-207)

 

 このような観点から言っても、市民をめぐる議論というのは、松下にとって理論化できないという意味で「回避されるべきもの」として位置付いていたにちがいない。80年代以降の松下の市民自治の議論というのは、段階論的な「自由の王国」の獲得と共に、その具体的議論を行うことが、あらかじめ否定されることとなったのである。70年代に「シビル・ミニマムの量充足」の議論で失敗したことと同じように、80年代以降「住民自治」の議論に対して更に不可解なものとしてしまった、と言ってしまってもよいかもしれない。

 

 以上の松下の問題点を簡潔にまとめるならば、結局ヴェーバーが「理念型」を用いるように、理想概念を議論することは問題ないし、それを否定する必要はない。しかし、この「理念型」を盾にして既存の議論の否定を始めてしまった時にそれが矛盾した態度として現れてしまうのである。「新しい概念は既存の概念に取って変わるべきである」と考えるとき、松下は既存の概念をほとんど無根拠に批判することによってしかそれを行うことができなかったのである。そこが松下の最大の問題であったといえる。

 

 

 

※2 しかし、このような態度を取り続けることについて、特に00年代に入ると松下自身が耐えられなかったらしく、結局「市民」自体がナマケモノであることについて明言するようになっている。

 

「そのうえ、ナマケモノの市民が多いところでは、(1)と(3)の意義が忘れられ、(2)のシビル・ミニマムの量肥大となり、そのコストについての市民負担も加重することになります。市民参加と行政肥大とは反比例の関係です。「市民行政」の強化こそが「職員行政」の縮小となります。」(2005b:136)

 

「市民はその〈必要〉によって政府を「組織」し、この政府はまた市民によってたえず「制御」されます。そのうえ、市民活動が活性化すればするほど行政は縮小するというかたちで、市民と行政の関係は〈協働〉どころか、〈対立〉の緊張にあります。市民がナマケモノなら職員は増え、逆に、市民行政の独自展開は職員行政を縮小させます。」(2006:p166)

 

 このような後進的な自治体の責任論というのは、90年代までは、「居眠り自治体」と「先駆自治体」の対比から議論されていたのである。ここでいう「居眠り自治体」を問題とする訳だが、その問題の責任主体については明確に「市民」にとは語っておらず、むしろ「市民ではないもの」として語られていたのである。

 

「私は、この自治体間の〈不均等発展〉をむしろ拡大すべきだと考えている。この不均等発展が拡大し、「自治体間比較指標」の作製によってこの格差が指数としてもはっきりすれば、そのとき居眠り自治体は市民から批判を受けるからである。

 この不均等発展が広がれば、居眠り自治体も先駆自治体とおなじく、国の省庁ないし国会議員への依存体質から脱却せざるをえなくなる。国の省庁ないし国会議員からの特別支援はいわゆる政治腐敗につながり、その自治体の政策水準をますます低下させるという実態がはっきりしているからである。」(1994:p424)

 

「この意味で、自治体計画をつみあげ、職員による政策・制度の開発に習熟して、行政水準のたかくなったパイオニア型の自治体を「先駆自治体」と位置づけ、在来型の「居眠り自治体」と対比する段階となっているのではないでしょうか。いわば、この先駆自治体は市民参加・職員参加による自治体計画を基本に自治・分権政治をきりひらいていく自治体です。居眠り自治体は明治以来の官治・集権政治にみずからをとじこめて国の施策基準どおりにおこない、市民にたいする責任をとらない自治体を意味します。」(1996:p82)

 

※3 次のような主張をしていることから、彼自身は「イズム」の思想から無縁であることが可能だと考えていたとみてとれるだろう。

「二〇〇〇年代、自由・平等、自治・共和という、《世界共通文化》としての普遍市民価値原理が地球規模でひろく定着する今日、かつてはイズムにたてこもって相互に対立してきた党派主張をたえず相対化して、「共通用語」による普遍市民価値原理ないし普遍規範性を共通理解におき、主義、主義というこれまでの時代を終えさせていきたいと、私は考えている。」(2012:p18-19)

 

(2019年2月9日追記)

※5 松下の学者批判は文字通り「全方位的」である。そしてその批判の妥当性については、「社会教育の終焉」のレビューの際に、『教育』について曲解していたのに象徴されるように、妥当性のある批判を行っているという保障は全くない。悪く言えば、その学者の「理論」について、「権威的」であるという点だけを強調し、生産的な議論を行おうという勢力の主張については、「言葉遊びに過ぎず、その権威性を押しつけるための言い訳」であると一蹴するような態度を取り続けている、と言えるかもしれない。

 

「現行制度は、その理論化としての既成憲法学・行政法学とともに、本来的にまだ明治憲法型のままにある。この明治憲法型の制度運用それに職員意識が今日も根づよくのこり、戦後の保守・革新もこの考え方にもとづいてきたのである。保守・革新を問わず、既成憲法学・行政法学は、《国家統治》を中核として構成され、国家主権観念に閉じこめられていたのである。」(1987:p171) 

 

「二〇〇〇年分権改革の今日でも、政治学者、行政学者、あるいは憲法学者行政学者も自治体が独自の法務政策をもつとは想定していないと行ってよいでしょう。とりわけ、官僚法学ないし演壇法学の発想もつよい法学者は、自治体の職員のなかに法務要員が輩出するとは考えず、「わからなかったら聞きにこい、教えてやる」とおう態度を、つい最近までとりつづけていたといっても過言ではありません。それどころか、日本の法学者は、政治学者も同じでしたが、自治体レベルの政治・行政の現場経験もほぼ皆無でした。」(2005b:p217) 

 

「さらに、政治評論家、ジャーナリスト、あるいは政治学者、行政学者、また憲法学者行政法学者、ついで財政学者、会計学者も、この日本の崩壊状況への理論対決がいまだにできない。今日あるように明日もあると考えているのだろう。これを《市民》としての怠惰、ついで無責任という。」(2012:p235) 

 

「このような問題状況にもかかわらず、二〇〇〇年代の今日、日本の理論家とくに政治学者がこの構造変動ないし日本再構築をめざした政策・制度改革の的確な構想を提起できなくなっています。いわば、日本の理論家ないし政治学者は政策・制度型思考に今日も習熟しえないという欠陥をさらしているというべきです。」(2006:p90) 

 

 

 

 

 

松下圭一の市民論再考(1/2)

 今回、改めて松下圭一を読むことにした。

 前回の「シビル・ミニマムの思想」のレビュー時点では松下の精読について興味深いとしたものの、それ程重要性について感じていなかったため、読むのをやめてしまったのであったが、最近90年代の日本人論、つまり日本的性質に対する批判と改善要求を行う言説を読んでいく中で、1999年の経済戦略会議答申を読む機会があり、そこで述べられていることがかなり松下の議論とかなり重なるものであると感じ、松下自身の言説も思っていたよりも影響力が強い可能性を考えたため、精読することにした。

 松下の言説と経済戦略会議の議論の類似性として気になったのは3点あった。

 

 

1.シビル・ミニマムの用法

 おそらく、経済戦略会議答申中の「シビル・ミニマム」という言葉は松下から直接影響を受けているものと考えられる。答申中では、シビル・ミニマムについて2箇所で用いられている。

 

「ただし、経済戦略会議は、政府が民間に介入し、全面的に生活を保障する「大きな政府」型のセーフティ・ネットではなく、自己責任を前提にしながらも、支援を必要とするすべての人たちに対して、敗者復活への支援をしながらシビルミニマムを保障する「小さな政府」型のセーフティ・ネットが必要だと考える。」(経済戦略会議「日本経済再生への戦略(答申)1999,p20-21」http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/souron/13.pdf

 

公的年金は、シビル・ミニマムに対応すると考えられる基礎年金部分に限定する。」(同上、p23)

 

 これに対し、松下もしばしば言及するナショナル・ミニマムについても2箇所で言及がされている。

 

「しかし、懸命に努力したけれども不運にも競争に勝ち残れなかった人や事業に失敗した人には、「敗者復活」の道が用意されなければならない。あるいは、ナショナル・ミニマム(健康にして文化的な生活)をすべての人に保障することは、「健全で創造的な競争社会」がうまく機能するための前提条件である。このようなセーフティ・ネットを充実することなくして、競争原理のみを振りかざすことに対しては、決して多くの支持は得られないであろう。」(同上、p14)

 

「少子高齢社会における政府の基本的役割は、全ての国民に対して、健康にして文化的な生活(ナショナル・ミニマム)を必要に応じていつでも保障できるセーフティ・ネットを整備することである。ナショナル・ミニマムの算定は容易ではないが、このレベルを高くしすぎると、モラルハザードが生じるだけでなく、非効率な大きな政府を作り上 げることになる。」(同上、p23)

 

 残念ながら、経済戦略会議の答申においては、「ナショナル・ミニマム」と「シビル・ミニマム」の違いを把握することができない。共に「最低基準」を示している言葉なのだが、それ以上差異化する意味合いが付与されていないのである。通常であれば、両者の違いはその担い手が「国」であるか「自治体」であるかに見出されるべきなのだが、そのように解釈されているとはいえない。言いかえれば本答申を作成した者がシビル・ミニマムという言葉をよく理解せずに用いているともいえるだろう。

 ただ、あえてその違いを述べるとすれば、「ナショナル・ミニマム」は文字通りの「健康にして文化的な生活」を保障するもの国民としての権利としての側面をもつものとして語られ、「シビル・ミニマム」は「セーフティネット」の役割を果たすための「小さな政府(ただしこれも国レベルの議論である)」における最低基準として語られているという解釈はできるだろう。ここには、「シビル・ミニマム」を「大きな政府」との対比とした形での「(ムダのない)最低限の保障」という強調が含まれているということである。

 これは一見松下の用法とはっきり異なるため、松下を参照している訳ではない根拠となるようにも見えるが、後述するように、松下を読み解いたのであれば、むしろこのような解釈は完全な曲解といえない部分があるのである。言いかえれば、このような曲解のされ方は、松下の言説の影響を受けたからこそ出てきたものと解釈する余地があるということである。

 

 

2.公務員の人数に対する考え方

「人口比公務員数などからみて、日本の政府は「小さな政府」に属すると言われてきたが、財政投融資によって支えられてきた特殊法人やその下請け会社、孫会社などの存在を加味すれば、全体としては決して「小さな政府」とは言えない。」(経済戦略会議「日本経済再生への戦略(答申)1999,p17」

 

 この点について松下も00年代に入ってから、外見上の公務員比率については、海外との比較が参考にならないと主張する。

 「しかも、日本の公務員比率は国際比較からみて少ないといわれるが、実質はその倍となる職員が何重にもかさなる特殊法人+子会社などの「行政外郭組織」にかくされて、その職員実情は財務実態とともに政府もつかみきっていないという低劣性、それに無責任が、国、自治体を含めた日本の行政水準である。」(「転換期日本の政治と文化」2005,p151)

 

「また、公務員数の国際比較では少なくみえましたが、国税庁調査によれば、実質は、国、自治体をふくめ、その外郭組織には天下り官僚をはじめとするほぼ同数の職員がおり、国、自治体の権限・財源さらに「財投系資金」に寄生していました。このような事態が、今日では、さらに国家・官僚神話の崩壊を加速しています。」(「現代政治」2006,p87-88)

 

 この言説自体は00年代に入ってから見られるものであるが、これに関連して、松下は次のような自治体に必要な職員数について言及する議論を99年頃からしている。

 

「この政策指数では、公立病院はのぞきますが、職員一人当たり市民は何名かという指数も自治体では問題になってこなかったのです。町村では職員一人当たり市民五〇人前後から一〇〇人以上というひらきがある。私は職員一人当たり市民一〇〇人までもっていかなければ、合併いかんを問わず、いずれの町村も今後は「持続」できないと考えています。市ではあまくみても職員一人当たり一二〇人以上にすべきでしょう。一五〇人以上という市もあるのです。一〇〇人前後の市は、自治体として「持続」不可能となります。」(「自治体再構築」2005,p30)

 

 この必要な職員数に対する検討を行う上で、公務員数の考え方というのも検討していた可能性もあり、90年代末の段階ですでに対外的に「公務員数について海外との比較が参考にならない」ことに言及していた可能性も否定できない。

 

3.自治体会計に対する「公開性」の要求

「公的部門の効率化・スリム化を進めていく上での大前提として、また、政策の事後評価を行う観点から決算はこれまで以上に重視されるべきであり、中央政府特殊法人等を含む)及び地方公共団体(外郭団体を含む)のいずれにおいても以下のような方向を基本に会計制度等の抜本的改革を進め、会計財務情報基盤を整備する必要がある。

○ 国民に対して政府及び地方公共団体の財政・資産状況をわかりやすく開示する観点から、企業会計原則の基本的要素を踏まえつつ財務諸表の導入を行うべきである。

○ 具体的には、複式簿記による貸借対照表を作成し、経常的収支と資本的収支を区分する。

○ 公的部門全体としての財務状況を明らかにするため、一般会計、特別会計特殊法人等を含む外郭団体の会計の連結決算を作成する。」(経済戦略会議1999、p16)

 

 このような議論は当時の地方分権推進の流れを汲み、松下に限らず広く議論されていたかもしれないが、松下自身も同時期には具体的かつ積極的に公会計のあり方について言及している。

 

「そこで、まず提起したいのは、〈時価主義〉による自治体財務型「連結財務諸表」づくりです。「わが」自治体が、外郭組織をふくめ全体として、時価で、どれだけの資産つまり「過去の蓄積」あるいは負債つまり「将来の負担」をもつかを、市民、長・議員、職員の誰にもわかるようなかたちで、財務情報の公開・共有をうながす財務技術ないし会計方式の開発がこれです。」(「自治体は変わるか」1999,p131-132)

 

 これらの例からもわかるように、90年代以降積極的に推進されていったといえる「新自由主義」政策に対し、少なくとも松下は同調していることが確認できるし、また松下自身も新自由主義的な動きに対して影響を与えている可能性も見受けられる。後述するが、正確にいえば松下は、いわゆるネオリベ言説に対して、批判的な態度を取るべき立場にあったはずなのだが、彼の理論からはそれに同調する方法しかとれなかったのではなかろうかと思う。

 

○前回までの結論への反省と今回の問いの設定について

 

 松下の「シビル・ミニマムの思想」におけるレビューで松下の議論に対していくつかの見解を示した訳だが、今回改めて精読した中で1点大きく見方を変えるべきと考えたものがある。

 それは、80年代に入って松下が「シビル・ミニマムの量充足は終わった」という見方をした時に、70年代までの松下のシビル・ミニマム論の自己批判になっているのではないのか、という点、つまり「70年代においてシビル・ミニマムを達成した場合に解決を期待していたものが80年代に入っても何ら解決されたものと取り扱っていない」点について問題視したことである。

 この見方自体はあながち間違えでもないものの、問い返すべきなのは、「そもそも『シビル・ミニマムの量充足』とは何なのか?」という点である。これは一見当たり前の答えがあるようでいて、松下の言説を読み返すと、極めて奇妙な性質を持っていることがわかった。まず最初の問いとして、「松下のいうシビル・ミニマムとは何だったのか?」という問いについて考えたい。

 

 また、同じく前回指摘した70年代には「オカミ意識の改善」に対する「市民」へ期待があったものの、80年代にはそのような期待がなくなり、松下自身がそのような改善を直接主張するようになったと指摘した点についても再検討する。これは同じく指摘していた「市民の成熟性判断」の矛盾ともリンクする。私自身、広田照幸のレビューなどで「教育の担い手」をベースにした議論の必要性を述べたことがあったが、それと同じようにして、「松下は自治体体質の改善の担い手を誰に見出したか」という点を2つ目の問いとして検討したい。また、この問いの中から、松下の「市民概念」が文字通り形骸化していったことも示す。

 

 そして3つ目に、このような形骸化が起こった理由についても検討してみたい。この理由については、いくつか考えられる可能性はあるものの、基本的には松下が提示する理論そのものに起因するものだろうと考える。

 

 以上3つの問いに答えていくことになるが、それに答えるため、松下の議論及び松下について言及した著書・論文にもできる限り触れるようにした(※1)。以前同じような分析を行った遠山啓の際には、まとまった内容を記した単行本がなく、バラバラの論文によって構成された内容に依拠せざるをえなかったが、松下の場合は書き下ろしによる著書に加え、講演記録なども含め文献に富んでおり、より深く分析を行うことが可能になっている。もちろん、参照できていない文献もあるものの、松下の議論にあまりぶれを認めることができないため、松下圭一論として十分な分析となっていると考えている。今回分析対象としたのは60~00年代までの松下の言説であるが、これまでの松下に関連する先行研究をみる限り、50~80年代位までの分析に終始している印象が強く、松下自身の「市民」概念に対する変遷については十分な検討が行われているとは言い難かった。しかし、後期から末期の松下の言説の変遷自体、やはり注目すべき点があるように思える。

 

○松下のいう「シビル・ミニマム」とは何だったのか?――言説の時代変遷からみた特徴

 

 まず、最初の問いであるが、押さえるべきはかの「量から質」への言説の変化である。この変化自体はほとんど1980年を境にしているといってよい。というのも、松下自身が理論ありきの主張を展開することが強く、70年代末にも量的充足を匂わせているものの、はっきりと位置付けを変化させたのは、「80年代」という段階論的な語り方を可能にした1980年を待たねばならなかったからである。

 

 私自身が過去のレビューで松下のいうシビル・ミニマムを捉え損ねていたのは、松下のこの80年代以降の言説に対してそのまま信頼してしまっていた点に原因がある。

 まず、70年代の議論において、シビル・ミニマムはいかに語られていたか。それは一つに「生存権」をベースに量的充足に付随する類の充足を図ることにあった。以前のレビューでも示した都市問題の解決のためにも、その量的充足は必要だったのである。

 しかし、この量的充足の語りにおいて注意すべきは、「ナショナル・ミニマム」との関連性である。松下の70年代の言説において、「シビル・ミニマム」の充足とは「ナショナル・ミニマム」の議論を見かけ上一致する点があった。そのことから、両者を併用して議論する部分が散見される。

 

「たしかにこのシビル・ミニマムの保障は、自治体レベルにせよ、政府レベルにせよ、複雑な行政システムを必要とし、ビッグ・ガバメントを形成する。今日の国家像が行政国家あるいは福祉国家・経済国家といわれるように、作業量を増大させている理由がこれである。しかしこのビッグ・ガバメントないしその巨大な行政システムはあくまでもシビル・ミニマムないしナショナル・ミニマムという「必要の王国」の管理にとどまるべきである。ことに個人の内面性ないし政治活動は「自由の王国」として解放されていなければならないのである。」(1971a:p296-297)

 

市民運動が提起している論点は、たんなる「物取り」あるいは「告発」ではない。それが一見、「物取り」あるいは「告発」にすぎないとみえるとしても、やがてシビル・ミニマムないしナショナル・ミニマムの整備を指向することになろう。」(1987:p137,論考は1972年のもの)

 

「一九八〇年代にはいりますと、シビル・ミニマムないし国基準の量充足が、半永久課題の公害は別として、下水道などをのぞけば、ほぼ終わることになるため、個別施策の量充足をめざした旧来型の自治体計画は目標喪失となります。一九六〇年代以来の量充足型自治体計画の終わりとなったのです。」(1999:p174)

 

 ここでまず押さえておくべきは70年代までの松下の「シビル・ミニマム」言説に含まれていた意味合いである。

  1. ナショナル・ミニマムに働きかけるためのシビル・ミニマム充足
  2. オカミ意識改善のためのシビル・ミニマム充足

 

 これは(1)が80年代以降議論される量充足、(2)が質充足の議論といえるが、70年代においても、シビル・ミニマムは「個性的」であるべきことが主張されていたことに注目したい。当初の論理ではこの個性がナショナル・ミニマムに対する批判的議論を巻き起こし、改善を図るという手法で改善していくものとして位置付けていたのである。

 

「こうして自治体改革による生活条件の自主管理の思想としてシビル・ミニマムの思想を位置づけることができるであろう。シビル・ミニマムの思想は、工業社会の成熟が可能にした個人の市民的自発性の増大と政策科学の必要性の増大とを、自治体レベルで結合し、それを前提とした直接民主主義的自主管理の思想としてまず形成される。しかもこのシビル・ミニマムは、各自治体の個性を反映した独創的性格をもって設定されなければならないのである。」(1971a:p300)

 

 そして80年代に入ると、その量充足は達成されたとされるのである。しかし、よく考えると、何故松下はこの「シビル・ミニマムの量充足」に言及できるのであろうか?シビル・ミニマムとは個性的であることをもともと志向していたのに、何故その「量充足」が松下に判断できるのだろう?

 ここで問われるべきは、「そもそも『シビル・ミニマムの量充足がなされた』という表現は語義矛盾であり、実質的に起こったのは『ナショマル・ミニマムが最低限達成された』ということにすぎないのではないのか?」という問いである。一見、この両者の違いはあまりないように思えて、持っている意味合いは非常に大きく異なる。

 

 まずもって、この「シビル・ミニマムの量充足」というのは、「シビル・ミニマム」という目標に対して、一定程度評価しないと出てこない言葉である。つまり、シビル・ミニマムによって量的目標が達成されたとする根拠が必要なはずである。しかし、これは「理念」と「実態」どちら側から考えても成り立たない。

 

 まず「理念」から指摘すれば、教育業界における「個性」をどう評価するのか、という問いと同じ困難があることがわかる。シビル・ミニマムは各自治体独自の基準設定が予定されているものであるが、これを達成したというためには、それぞれの目標と、その達成に何を見出したのかを検討しないと言えないはずである。当然松下はそんなことはしていない。よって、結果論として「ナショナル・ミニマムが量充足された」という結論からしか「シビル・ミニマムの量充足」が達成されたとはいえない(※4)。しかし、これは本当に「シビル・ミニマムの量充足」がなされたのかを示すものでは決してないのである。

 

 これは、松下の議論の中からも指摘できることである。松下は「シビル・ミニマム」を「社会指標」と比較し、次のように説明している。

 

「この政策基準としてのシビル・ミニマムは規範概念である。実証概念ではない。もちろんシビル・ミニマムは指数化されてはじめて政策基準としての実効性をもつけれども、この指数は実証概念としての「社会指標」とは性格がちがっている。社会指標は、生活なり施策なりの現実の実態を数値によってしめす実証概念である。社会指標は、とくに各国や各自治体の実態比較という分析に有効性をもつとしても、それ自体は政策基準とはなりえない。社会指標は、シビル・ミニマムの策定にあたってはデータという位置をもち、シビル・ミニマムの達成との関係では達成率としてあらわれる。」(1985:p96

 

 松下の議論では「市民」なども「規範概念」とされるが、この規範概念というのは、ある意味で「実在しないもの」のことを指す、文字通りの「理想」として捉えるべきものと位置付けられている(これについては最後の問いの部分で検討する)。確かに「(社会指標は)シビル・ミニマムとの関係では達成率としてあらわれる」ものの、シビル・ミニマムではありえない、とここでは言っている。

 それでは、松下が「シビル・ミニマムの量充足」という場合に、この言葉は何らかの具体的な意味が付与可能なものなのだろうか?私はそれが不可能なものであるとしか言えないと考えるのである。シビル・ミニマムというのは、言葉の定義上、あらかじめ具体化されることを否定しまっているからである。だから、「量充足」などという言葉を使ってみても、何を指すのか定義できないのである。

 

 また、「実態」から捉えても、ひどい結論が出てくる。シビル・ミニマムの実態についての検討は功刀俊洋「革新行政の政策的模索」(2017,URL: http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005094/?lang=0&cate_schema=100&chk_schema=100)がかなり詳しく行っているが、そもそもシビル・ミニマム自体を設定していた自治体がごくごくわずか(せいぜい10程度)にすぎなかったため、これを一般的な自治体を想定した「シビル・ミニマムの量充足」の検証というのがそもそも不可能であったことが言えるだろう。

 

○ボランティアの「無償性」に対する正当性について

 

 もっとも、(シビル・ミニマムとの関連性はよく考えると不明だが)松下が具体例を挙げるような「補助金」に代表されるムダの排除に関する議論は一見わかりやすい指標であるように思える。ムダであるとは、すでに現状で十分であるからこそ必要のないものとされたものであり、松下もこのような議論は繰り返し述べてきた所である。

 松下の考えるシビル・ミニマムの量充足をした「自由の王国」における市民活動というのは、はっきりと「補助金」とは全く縁がないものとして描かれていた。だからこそ、ボランティアについても、当然自由意志に基づきなされるものであって、補助金行政とは何らかかわりがないものとして位置づけ議論していたのである。そして、ここでいうボランティアは、当然タダで行われるものとして語られている。

 

「もし、職員を六人にして一〇館つくったならば、職員六〇人、この管理のため本庁にも一〇名おくためついに七〇人となり、人件費だけで年三億円余となる。一〇年で三〇億円である。市民管理・市民運営方式ならばゼロ円で別の施策が展開できる。」(1985:p272)

 

「施設さえあれば、それも公共施設でなくとも公共「的」施設でもよいのだが、市民文化活動はできる。講座型の学習活動にしても自由に市民たちがサークルをつくって市民相互に講師になるか、自分の好きな講師を無料あるいは費用をだしあって呼んでくればよい。かつての大学の発祥の栄光をもつボロニア大学型の市民大学を考えればよいのである。それどころか、市民誰でもが講師になり会場費・講師料タダしたがって会費タダという三タダ主義の市民大学もできている。この方式で十分ではないか。」(1985:p317-318)

 

 しかし、このような態度の取り方にも「シビル・ミニマムの量充足」という言説の弊害があるように思えてしまう。松下はボランティアのような市民活動は無償でなければその自律性が官から阻害されることになると考えていた。そして、素朴に過去の自治におけるものが無償で行うことができていたものであるはずと考えられたからである。

 

「従来の官治型理論構成では、ボランティア活動は、職員による行政の「補助」とみなされ、コミュニティ活動は「下請」とみなされてきた。事実、これまではボランティア活動はたえず臨時職員から正職員へというかたちで行政のなかにとりくまれて自立できず、コミュニティ活動も育成・指導の対象になり、さらに下請へと変容してしまうのである。」(1980a:p321)

 

「この農村型社会におけるムラ自治の崩壊は、過渡期にはいわゆる国家を中心に行政機構を自立させ、その専門分化を促進したが、都市型社会の成熟につれてコミュニティ・ボランティア活動というかたちで、あらためて、かつてのムラ自治が市民自治として再生しはじめる。……それゆえ、市民は、市民立案だけでなく、みずからも政策実現をめぐって市民行政を直接、市民活動でおこなっているということが確認されるとき、職員機構による行政の独占という行政概念は崩壊する。」(1987:p200)

 

 ここで対比として取り上げたいのは、仁平典宏が「ボランティアの誕生と終焉」(2009)で捉えているボランティア観である。仁平の著書においては自発的行為とされるボランティアの贈与性(見返りを求めない態度)に対して、常に反対贈与としての意味が付与されうる(自発性の疎外としての「ボランティア動員」の議論や、良心で行っているはずのボランティアが自己欺瞞であると揶揄される)という<贈与のパラドックス>の発生に注目した系譜の分析を行っている。

 

「このように、<贈与>とは、外部観察によって、絶えず反対贈与を「発見・暴露」される位置にある。ここで重要なのは、<贈与>は、被贈与者や社会から何かを奪う形(贈与の一撃!)で反対贈与を獲得していると観察されがちなことである。例えば補論二で見るように、近代的な権力は、善意を装い贈与するふりをして、決定的な負債を与えていく存在として概念化されてきた。<贈与>は、贈与どころか、相手や社会にとってマイナスの帰結を生み出す、つまり反贈与的なものになるというわけだ。この意味論的形式を、本書では<贈与のパラドックス>と呼びたい。」(仁平2009,p13)

 

 松下が市民文化活動において重要視するのは間違いなく、この活動が「自由の王国」に属するものであり、他に干渉されることなく自由に活動を行うことができること、その自由な活動の多様性が豊かな市民文化の醸成と市民活動への貢献に繋がるという期待をもつこと、文字通りその活動が「ボランティア」によりなされるものとみている点で、ボランティア論とも軸を一にする。

 

 仁平は著書の結論で、このような態度の取り方について、その有効性を疑問視している。まずもってこのような態度の取り方は一定程度の普遍性をもった形で(「ボランティア動員論」の批判として)ボランティア言説に付与されていたものであったし、「ボランティア論は、自らの活動がどのような政治的帰結と接続しているかを問う基準を忘却し、脱政治的な基準のみで<贈与のパラドックス>を解決しようとしたときに、国家のネオリベラリズム的動員と適合的となった」(仁平2009,p422)という。確かに松下は常にボランティアの動員に対して批判的視座を与えており、仁平の言うようなことに対しては単に「オカミ意識が抜けていない実態についてそう述べているだけ」という形で反論することだろう。

 しかし、松下が実際にこの<贈与のパラドックス>を回避しているかと言えば、とてもそう言えるとは思えない。逆説的ではあるが、松下の言説はそれがあまりに抽象化されているが故に、容易に他の議論に水路付けられてしまうような曖昧さを持っている。「シビル・ミニマム」の概念はまさにその典型である。松下の場合、この「シビル・ミニマム」の用法は実際的な意味においては、せいぜい「ハード面でのまちづくり」のいくつかの例示を超えて語られてはいないにも関わらず、総論としては「あらゆるものを内包した」概念とみなしてしまっている。その「あらゆるもの」のほとんどは松下の中で思考停止した状態で現れたものにすぎず、松下自身が具体的に語ることが不能なものなのである。その「語ることができない」ものの解釈は無条件に読者に委ねられ、独自に解釈され、恣意的な思考を許してしまうのである。その言説はもはや松下の意図するところとなることは全く保障されない。そして私はこのような「恣意的な解釈を黙認」する態度こそが、<贈与のパラドックス>に直結したものであり、松下がこのパラドックスに加担しているものとする根拠とみるものなのである。実際、経済戦略会議において、シビル・ミニマムとナショナル・ミニマムの違いが曖昧なのは、松下の概念説明が極めて曖昧だったからことに起因するように私には思えたし、功刀が指摘した「シビル・ミニマムが未完成・不明確であり、共通理解がなかった」とした点(功刀 前掲論文2017,p47)についても、同じような松下の抽象的言明に責を与えることについて、私は問題がないものなのではないのかと思ってしまうのである。

 

 また、「ボランティアの無償性」の原則に関しても、それは別に自律性と矛盾するものではなく、特に「市民行政」において無償性を強要することはかえってネオリベラリズム的動員にも加担することに繋がる(仁平2009,p426-427)とする点も松下のケースにもあてはまっているように見える。更に仁平は有用な市民活動に対する「正当な対価」のあり方にもふれ、仮にその活動が有効な活動であるのであれば、それなりの対価なしには、その活動そのものの衰退にも繋がりかねないし、それは障害者運動の事例にも見られるものであったという(仁平2009,p428)。

 松下自身は行政自身が「動員」することに対しては批判的であるにも関わらず、この「市民行政」の促進についての主張に関していえば、あたかも「動員論」そのものを述べているように聞こえてしまうのである。「行政の手の届かない所に無償ボランティアを」という側面からもそうであるし、コスト削減という観点からもそうである。

 

「そのうえ、ナマケモノの市民が多いところでは、(1)と(3)の意義が忘れられ、(2)のシビル・ミニマムの量肥大となり、そのコストについての市民負担も加重することになります。市民参加と行政肥大とは反比例の関係です。「市民行政」の強化こそが「職員行政」の縮小となります。」(2005b: p136)

 

「市民活動が活発となり、団体・企業ともに市民自らが公共政策の立案・実現、つまり「市民行政」にとりくむならば、従来型の行政の減量ないし職員の削減もできることになります。逆に市民がナマケモノならば、人件費をふくめて行政費が拡大します。

 市民がゴミポストにゴミを運ばず、各家の前やアパート、マンションの各階・各室前までゴミを集めにいけば、清掃行政担当者は今の数倍になるでしょう。公民館は職員をおかず市民管理・市民運営であれば、市民文化活動のセンターとしてかえって活力をもつではありませんか。」(1999:p42-43)

 

 しかし、松下のいう市民はいかに「生活」するのだろうか。ここでいう「生活」とは、「文化的な生活」云々というよりも「労働し、金銭をかせぎ、生計をたてる」という観点である。実際松下はこの論点についての言及は皆無である。「市民による自治」に関する議論においては、多様な専門家の関与についての必要性を述べているが、「彼らはいかにしてそこに参加をすることが可能となるのか」という点を全く問うことがない。これについては「自治意識が足りない」の一点張りで批判するだけである。松下の議論が「生活」の観点を欠いているため、現実の市民参加の議論自体に制約がかかっているように見えるのである。

 

○松下の「段階論」の使用の問題について

 以上のように、シビル・ミニマムについても、その改善言説で主流といえた補助金をはじめとしたムダの排除への言及についても問題含みであるといえた。これはひとえにシビル・ミニマムが「規範概念」として実態化不可能なものとして捉えていたにも関わらず、「段階論」としてこれを実態化したものとみなす作業を松下が行ってきたためである。

 これは後述する「市民」に関する議論についてもそうであるが、「革新自治体」に対する語りについても同じであるといえる。松下は、「先駆自治体」であることは全面的に「善」であるとみなしているが、「革新自治体」については、両義的態度を取り続けていた。革新自治体は革新勢力と密接に結びついていたが、革新勢力についても問題含みであることを強く認識していたことも大きな原因であるといえる。

 

「事実、一九八〇年代にはいって、文化行政のつみあげとして、日本の都市や農村が美しくなりつつある。これは文化行政、つまり(1)行政の文化化、(2)文化戦略の構成というかたちで、政策水準をたかめてきた先駆自治体の先導性によるものである。一九六〇、七〇年代以降、市民運動の衝撃のもとに、政策開発・行政革新をつみあげてきた先駆自治体の文化行政の成果がそこにある。」(1991:p66-67)

 

「逆にいえば、首長だけが革新系になったとしても、自治体改革にとりくまないかぎり、それは「丹頂鶴自治体」にすぎないという革新自治体の実態があきらかとなったのである。それどころか、革新自治体は、自治体の既成体質をそのままにして、高成長による自然増財源をもとにバラマキ福祉をおこなっただけではないか、という批判もうけるようになっている。」(1985:p118)

 

「それどころか、革新自治体は、自治体の既成体質をそのままにして、高成長による自然増財源をテコにバラマキ福祉をおこなっただけではないか、という批判もうけるようになっている。これでは、後世、六〇、七〇年代とは、保守はバラマキ土木、革新はバラマキ福祉の時代だったという評価を定着させてしまうことになろう。」(1987:p14)

 

 この傾向は80年代までは明確であったものの、1991年に松下も関わった「資料 革新自治体」が出た頃から変化が見られるようになる。それが「革新自治体の段階論的把握」であった。80年代まで先駆自治体と革新自治体というのは、松下の中で別物として捉えられていた傾向が強かったのだが、90年代以降の言説においては、時代の変化とともに「革新自治体から先駆自治体へ」という変化として語られるようになったのである。

 

「一九六〇、七〇年代の日本で、首長が革新系か否かを中心に論じられていた革新自治体は、この「先駆自治体」のさきがけだったのである。」(1991:p60)

「一九六〇年代、七〇年代の革新自治体・保守自治体の対立も、実はこの先駆自治体・居眠り自治体の対立だったのである。」(1991:p287)

 

「さらに、なぜ一九六三年からほぼ一九八〇年まで、「革新自治体」が群生し、一九八〇年代からは保守系も加わる「先駆自治体」に継承されていったかも、ここで説明できることになります。つまり、都市型社会のシビル・ミニマムの公共整備には、①市民活動の起動力、②政策・制度の地域性をいかす自治体の政府としての自立が不可欠だったためです。つまり、明治国家型の官治・集権から市民政治型の自治・分権への、日本の政治・行政、経済・文化の再編がカギとなっていたのです。」 (2010:p209)

 

 90年代以降、「革新自治体」に対する両義的態度というのは完全になくなった訳ではないが、極端に弱くなった。それは「革新自治体」というものが完全に過去のものとなり、そのような両義的態度をとる必要がなくなった(革新自治体に改善を求める必要性がなくなった)ためであり、だからこそ今も存在する先駆自治体との関係を段階論的に捉えることが可能となったのである。

 このような事例からも「シビル・ミニマムの量から質へ」という段階論と同じような、実態の無視が見受けられるのである。松下はこの事実について認識していない訳ではないのだが、それを「理論」として抑え込み、あたかも理論の方が「実態」であるかのように用いるためのレトリックとして段階論的把握というのが選ばれているのである。これは松下の理論構成全般について言えるだろう。

 最初の問いであった「シビル・ミニマムとは何だったのか?」という問いに対しても、このような虚偽を多分に含んだものと答えなければならないだろう。(続く)

  

※1 今回の分析にあたり参照した文献は以下の通りである。以下の引用においては、出版年(とアルファベット)のみで引用先を示すことにする。

松下圭一1965,「戦後民主主義の展望」

松下圭一1971a,「シビル・ミニマムの思想」

松下圭一1971b,「都市政策を考える」

松下圭一1975,「市民自治憲法理論」

松下圭一1977,「新政治考」

松下圭一編1980a,「職員参加」

松下圭一1980b,「市民政治の政策構想」

松下圭一・森啓編1981,「文化行政」

松下圭一1985,「市民文化は可能か」

松下圭一1986,「社会教育の終焉」

松下圭一1987,「都市型社会の自治

松下圭一1991,「政策型思考と政治」

松下圭一1994,「戦後政治の歴史と思想」

松下圭一1996,「日本の自治・分権」

松下圭一1999,「自治体は変わるか」

松下圭一2003,「シビル・ミニマム再考」

松下圭一2005a, 「転換期日本の政治と文化」

松下圭一2005b, 「自治体再構築」

松下圭一2006, 「現代政治」

松下圭一編2010,「自治体改革」

松下圭一2012, 「成熟と洗練」

 

(2019年2月9日追記)

※4 もちろん、松下は「ナショナル・ミニマム」が充足したことについても、それが総括的な意味において実証的に示したことがないといってよい。

 このような充足の是非について判断を行っていないことは、同時に松下の「ムダの排除」をすべきという言い分自体が、その充足要因以外から来ているのではないのか、つまり70年代に発生した財政問題の影響を直接に受け、80年代以降自治体の財政負担の減のためだけにこの主張を行っているのではないのか、という批判も当然成り立つ。そして、この側面のみを捉えて議論することも、ネオリベラリズム的な主張と合流する要因となっている。

 

「野口(※悠紀雄)は、かつて「財政支出は四兆円削減できる」とのべたが、今回、第二予算たる財投に挑戦した。財政危機がたんなる赤字問題ではなく、制度の時代錯誤性からきていることを、財投をモデルに証明してみせたといえる。」(1980b:p229)

 

「ただし、個人が政治未熟、つまりオカミ・国家崇拝のとき、ムシリ・タカリというかたちで公共領域は拡大する。だが、公共課題はミニマム水準でなければ、日本の二〇〇〇年前後からの財政破綻がしめすように、各レベルの政府ないし政策・制度は「持続可能」となりえない。市民の高負担となるシビル・マキシマムはありえないのである。さらに、またミニマム基準の公共政策は、政府だけでなく、基本としては市民ないし市民社会がになうのだから、公共政策と政府政策とは区別しなければならない。」(2005a:p27)

 

 

E.F.ボーゲル「日本の新中間階級」(1963=1968)

 本書は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著書でも知られるエズラ・ヴォーゲルの60年代の著書で、日本のM町におけるフィールドワークをもとにした研究書である。特に日本の新中間階級の家族の状況に密着した研究として、とても貴重であり、特に家族生活における妻(母)の役割に対する分析というのは、とても細かい。P170-171にあるような男女の権力関係の話は、過去の日本の状況について考える上で非常に重要な話であるように思えるし、1960年前後の日本の町(これを都市と呼ぶべきかどうかは判断が難しいが)における家族の状況について、実証的に示している点で注目すべき内容ではあると思う。

 

 

 ただ、本書の大きな問題点として、ここで提示されている内容というのが、現場での観察によるものなのか、インタビューの結果聞き取った内容なのか、文献(ないし新聞等のメディア)に依るものなのか不明瞭であることが挙げられる。文献の引用・参照等は少なく、大部分は現地調査によるところが大きいのだろうと推測できるものの、その情報が正しく実態を反映したものなのか、また客観的な根拠に基づくものなのか、といった確認をとることができない。

 例えば、p48のような試験制度における「裏口入学」の仕組みについても、内容そのものは興味深い指摘であるが、これが正しい根拠のもと記述されているかどうかは、その記述の不統一さから言っても曖昧な部分を残している。そもそもこの裏口入学の話は、「無試験入学」(p47)の話として、いわば「コネ」の存在、ないし贈与慣行を介した入学許可の仕組みとして語られていたにも関わらず、途中から試験の点数の話を持ち出しており(p48)、具体的に何を指した話なのかがつかめないのである。

 また、p44のような学業に対する母親の関わりについても、私自身戦後の新聞記事で少し調べたことがあり言説としても見かけたことはあるものの、p218-219のような母親の主体的な関わりが語られるのを見たことがない。これも新聞記事で語られていることと、(ヴォーゲルが観察したような)実態が異なるから、と言ってしまえばそれまでであるが、本当に一般性が認められるのかどうかは疑問がある。

 

 この論点については、ヴォーゲル自身もp248で「解釈に飛躍が必要である場合があった」とし、そのような拡大解釈を行った場面があったことを認めている。しかし、それがどこの部分に該当するかはわからないし、p248で取り上げている「帰省時における田舎の親族からの頼みこみ」についても、一事例から一般則として拡大解釈している嫌いがある。私自身これは明らかに事実の捻じ曲げを生みかねないアプローチであると思うし、どこまで正しいことを言っているのかは、別途精査しなければならないだろうと感じた。

 

○「日本人論」に対するヴォーゲルの立ち位置

 上記の飛躍とも関連して私が気になったのは、p122にあるように、M町の人々の話を聞いた時に「一般人」と「私」の態度の違いであった。

 ヴォーゲルが本書で行う重要な指摘の一つに、「日本において体系だった規範がないにもかかわらず、それでも一般的に望ましいことの高度の合意があること」(cf.p122)が挙げられる。これは「日本人には個人主義のような明確な価値観がない」という日本人論的な意見への一種の批判となっている。しかし、その一方で「私」はその価値観に適合しているかと問われると「日本人の実際の見方とはかけ離れた言い方をする」のであるという(p122)。この態度(正確には「語り」方)の意味するところをヴォーゲルがどう解していたのかは明確にははっきりしない。ただ、考えられる見方は2つあるといえるだろう。

 

(1)この「日本人の価値観」はあくまでカッコ付きのものであるにすぎず、実際の個人を制約するようなものではない、という見方。

 これは私が今まで議論してきた「社会問題」のフレームで言えば、「社会問題の議論においては、社会問題に付随し問題とされる個々人の態度は一般論として各個人が持ち合わせているものだというものだとして語られる性質があったが、それが一般論とされるには実態を伴っていない」という見方とマッチするものである。新聞等のメディアを介して流布される人間像はゴシップ以上のものではなく、私の行動原理とは関連性をもたないという、M町の人々の発言を文字通り解釈した場合の見方である。

 

(2)発言としては「別物」という見方をしていても、それはタテマエに過ぎず、実際はその「価値観」に縛られているという見方。

 これは、M町の人々の発言と実態は異なるものだ、という結論となるものの、ヴォーゲルの議論をトータルで捉えれば、むしろこちらこそヴォーゲルの立場ではないか、と言うこともできるだろう。P123のような指摘の仕方はどのように語ろうとも、やはり日本人の価値観に制約を受けていることを前提にしないとできない。

 確かにヴォーゲル自身この「日本人の価値観」を日本の新中間階級が捉える際に、それがそのまま反映されている訳ではないことも強調している。P205にあるように日本の集団主義を規定する母子の依存性の議論について、これが絶対的なものではなく、むしろ変化しつつある、と言及する際には、明らかに一般的とされる価値観と、「私」は別物であることが実態として別のものであると認められている。これはむしろ(1)の考え方も存在していると言ってよいのではないだろうか。しかし、総じていえば、結論部にあたるp230-231にあるように「集団主義」という軸を捨てることは全くしておらず、日本人の価値観も一元的なものとして描かれている傾向が強いのである。読者の判断による部分もあるかもしれないが、私自身はこの一般化はむしろ新中間階級としての価値観を排除しているように感じた。

 

 しかしながら、このような態度が部分的なものであっても存在することで、既存の日本人論にはなかったような議論の厚みを与えていることも確かである。本書の中で興味深いと感じたのも、このような点にあった。

 

 

<読書ノート>

P3「〝サラリーマン″の発端は、古くさかのぼれば徳川時代にまで及ぶ。というのは一六〇〇年に日本が国内の統一をなし遂げて以来、武士の軍事的機能は消滅し、多くの武士は、事実上、政府のために働く行政官となった。明治初期に武士階級の特権を廃止するとともに、武士であった者の多くは政府官庁や政府の助成した産業界で、ホワイトカラー勤務者となった。行政官たる武士と、サラリーマンとが類似しているので、日本人はサラリーマンを現代のサムライといっている。……しかしサラリーマンは、武士とは違った社会的情況の産物である。武士という観念には戦う者という意味合いが含まれている。そして武士たる者の理想は、大胆で、勇気をもち、独立の行動ができるということである。しかしながら、サラリーマンは大官僚的組織の一員であるため、武士以上に複雑な経営的・技術的問題に関心をもち、独立した動きをする余地が少なく、より慎重で影響を受けやすい傾向にある。」

P14「町の人たちは、もし同じ資格をもった二人の青年が就職を希望しており、一人は父親があり、他の一人に父親がなかった場合、父親のある青年に仕事が与えられるであろうといっている。この差別的選抜のしかたは、入社試験をして社員を採用する大会社においてさえ、今日もなお行われている。何はともあれ、父親のない少年はちゃんとした規律や道徳的なしつけをうけてこなかったものと考えられるのである。何はともあれ、父親のない少年はちゃんとした規律や道徳的なしつけをうけてこなかったものと考えられるのである。たとえ、そうした訓練をうけていたとしても、会社は彼を父親のある子供よりも不正直になりがちだと考えるのである。」

※実証性がないが…

 

P19「事業家の妻はしばしば孤独を感じ、夫があまり家にいてくれないと不平をもらしている。……あきらかにそうだとは言わないが、妻はこれらのバーの特定の女性に夫が愛情をよせていることをねたむこともある。ふだん、妻は夫の余暇時間内の行動について詳しいことは少しも知らない。またそれを知ろうとつとめ、夫の女性を知る場合もあるが、夫が家庭のために必要な金や装備を与えてくれるのにことかかないかぎりそれを妨げようとしない。一般に、妻は満足しているのである。というのは、夫が自分や子供に安楽な生活を与えてくれているし、また、自分は地域では名誉と敬意ある扱い方をうけていると感じている。」

P27-28「このような恩恵はいつも普通のサラリーマンに与えられているわけではないが、一流会社は中小企業に比べてより多くの恩典を与えるという事実からも、サラリーマンが自分の会社に対していだく愛着を理解できよう。」

※そもそも本書におけるサラリーマンとは、「サラリーを受け取るすべての者をさすのではなく、企業や官庁の大官僚組織に働く月給とりだけを意味する」とし(p3)、「小企業の従業員」や中小事業主や地主といった「旧中間階級」も含まない(cf.p2-3)。

P33-34「大学の相互の地位だけでなく、その生活様式さえも、長年にわたって安定している。それは同種繁殖という慣行のためである。……会社は大学の名声を基礎に応募者を選ぶことによって、この安定を高める。」

 

P42「少なくとも、別の二つの社会組織、すなわち家族と学校は、この(※試験の)圧力のすべての力を理解するのに重要である。これら二つの組織の重要性は、人生を会社に託すことと同じく、日本の社会構造に浸透している顕著な特性の表現であろう。すなわちそれは与えられた集団内には高度の統合と連帯性があるということである。」

P44「母親と子供とは全く一体感をもっているので、子供の好成績と母親の好成績、さらには子供の勉強と母親の勉強を区別するのが時としてむずかしい場合がある。……先生にほめられるよいプロジェクトは、一部分、または完全に母親がやったものだというのは常識である。」

 

P47「もう一つの道は家族がその学業成績に関係なく、大組織体に直接息子を入れることである。たいていの学校には無試験入学制度が開かれている。そしてこれらの学生の選抜は、一般に学校の有力な地位にある人々からなる委員会でなされる。この委員会は両親が同窓生であるとか、学校に財政的に貢献したとか、学校の事情について有力な人を友人としてもっているとかいう、学校に対する特殊な縁故的つながりのある要求に基づいて少数の学生に入学を許可する。しかし、これらの門戸にもかなりの競争がある。……このようなコネを作る普通の方法は、このような有力者を知っている友人を得て、その人に助けてくれるようにたのみこむことである。ある中学校や高等学校の校長は、入学のあき定員一つに対して二、三回贈り物をもらう。」

※「試験の代わりになる真の道は非常に少ない」と断った上での発言。裏口入学的なものだろうか??

P48「非常に強力に力を発揮する有力な知人をもっている場合でも、試験の重要さから完全にのがれるわけにはゆかない。試験の点数が低ければ低いほど、有力者が自分の推薦する志望者を委員会の自分以外の人々に認めてもらうことは困難となる。また試験の点数ががあまりにも低いと紹介は役に立たない。」

※発言が曖昧である。無試験の話をしていたのではないのか??この事実はゴシップ以上のものから得たものなのか??

 

P51-52「しかし、開放的な競争の危険の一つは、お互いにはりあうことが集団をこわす危険をもつということである。

しかしながら、集団内では競争は注意深く抑制されるので、町の住民が属する集団内ではこの破壊作用は非常に限られている。子供がいったん学校に入学すると、学業成績はあまり重要でなくなる。生徒間の競争を抑止する働きをもつ集団の強い連帯感があるからである。一度会社に入ると、その人の成功は保証される。そして競争的ではない年功序列の優先と会社の成功に共通の関心をもつことによって、対立的競争は一定の限度に抑えられる。学校も会社も成績の低いものでも投げ出さないから、集団に生き残ることができるのは、誰かが集団から抜けてゆくことに基づくといった感じはもっていない。

入試をうける場合でも、彼は友人と競争するのではない。普通、彼は自分の集団の友達が全部合格者のなかにいてほしいと思う。」

P52「こうして、入試制度は友達と他人との区別をする働きをする。……一度入ると、競争は集団のなかでの忠誠と友好の下に統制される。このように入試という現象は、集団の結合をあまり脅かされないようにしながら、公平な普遍的基準を維持する働きをするのである。」

 

P72「多くの人々は、国内の経済的、あるいは政治的危機に面したとき、私利を考えない全国的指導者がより利己的な政治家たちの追従を得ようとして没我的愛国者としての非常な魅力をもって現われ、国を全体主義へ逆行させるのではないかということを、しかも、人々はそうした趨勢に対して無力であることをほんとうに恐れているのである。全体主義制度への逆行や下地を準備するような警察力の補強やその他の手段に対して、彼らをあのように強く反対させる理由のひとつは、この恐怖心なのである。M町に住んでいる一般の人々は、戦争を始めたことに対する共同責任に関して、多くのアメリカ人が原子爆弾を落としたことに対して感じている罪悪感と同じような罪意識はない。

M町の人々は、一方においては日本が戦争への道を強いられたと思いながら、他方においてそのような歩み方を決定したのは軍国主義者であって、彼ら自身が決めたのではないと思っているのである。しかしながら、人々は、日本が到底勝つ見込みのない戦争へ乗り出していったことは無法な誤ちであったち痛切に感じている。そして彼らは広島に対する感情は、アメリカが原子爆弾を使用したことに対して向けられている道徳的批難というより、惨害をこうむったことに対する憤りなのである。」

P74「M町に住む多くの人々は、日本にとって形式は様々なあれ、安全保障条約を受諾することは必要であり、また賢明であるとさえ思っていたのである。……しかし、日本が今なお従属的な役割を果たさなければならないことに対して憤慨するのである。これはアメリカの政策に対する批判といったものではなく、国の誇りが傷つけられたことになるのである。」

 

P80「多くのサラリーマンは若いころはかなり左翼的であったことを認めている。穏健な態度をもつようになったのは、むしろ次のような結果であると思われる。つまりサラリーマンは現在の立場に十分満足しており、これ以上、積極的に政治へ参加することによって得られるであろうことに関しては、全く悲観的であるように思われる。このようにしてサラリーマンは、それぞれ自分の地位を危険にさらすことをきらうのである。」

P88「しかし、妻と夫が一緒に外出するのを好まないのは経済的に云々とか、あるいは単なる慣習とかいうこと以上の強さをもっている。夫は同僚仲間の結束にはいかなる干渉をも許すことをきらい、妻に自分の同僚仲間にあまり接近されることもきらうのである。というのは、もしそうなれば妻は夫の職業上の役割について自由に評価することができるかもしれないし、それによって職場での夫の地位について今までもっていた印象を変えてしまうかもしれないからである。妻は妻でまた、自分の隣近所の仲間のなかで侵入してくるものは、いかなるものでもさけたいと願っている。」

※脚注でドーアの話を挙げている。

 

P105「女中と一家の主婦の関係は、サラリーマンとその上司との関係よりはるかに包括的なものである。けれども漸次労働力の供給が不足し賃金が値上るにつれて、女中の数は非常に少なくなった。そして成功して独立している専門従事者とか実業家と並んで、最も豊かなサラリーマンだけが今なおお手伝いを雇う余裕がある。それにもかかわらずM町では、たいていの家が最近までそのような女中を雇っていたし今なお若干の家では雇っている。最も一般的な女中の出所といえば田舎の女性であって、一六歳頃やってきて、上流家庭で働くことは今でも結婚準備のためによい訓練になると考えられている。」

P111「サラリーマンは、就職のことで頻繁に頼まれる実業家ほどには農村からの頼みごとで悩まされてはいない。それでもなおそれと同じような依頼をうけるサラリーマンもいる。特に、技術的な熟練を必要としない人たちに門戸を開いている会社などに勤めているサラリーマンの場合はそうである。M町の多くの家庭にとって、農村の親戚のものに就職口をみつけることは重大な問題を提出する。……

M町の人々のほとんどが、当然帰らなければならないはずの回数ほど農村に帰っていないといっていた。彼らは少なくとも一年に一度は、亡くなった家族をまつる昔からのお祭に帰らなければならないと思っていても、ほとんどのものが、ここ数年間というもの郷里の家へ帰ったことがないのである。彼らは帰郷しないことによって、親戚のものたちが子供を東京に就職させる時に助力してもらおうと、差し出す贈り物や好意を避けることができるのである。」

 

P121「共産主義諸国の国民は、そのすべての面を熱烈に受け入れるということはないにしても、マルキシズムはその国民の基本的目的観を表現し、その生活に意義を与えるような総合的体系を提供するものである。同じように西欧諸国の国民は、民主主義と個人主義をその生活様式を具現化する原理として示すことができる。M町の住民はその基礎的な信念を具現するような明晰な思想体系をもたない。……多くの日本の学者が気付いているように、ドイツ人は敗戦に際して、真面目に再検討することなく、戦前の価値観を再び主張したが、たいていの日本人の場合、敗戦に際して自分自身の生活観を疑い、苦痛のなかから再評価したが、いまだその苦しみから脱していない。」

P121「明確に体系づけられ、広く一般に受け入れられている価値体系がないので、伝統的な信念のうち最も基本となりうる面を疑ってみたり、疑うことに熱心になったり、また西欧の価値体系のうちのどの要素が採用に価するかを考えるような態度が生まれてきた。以前には疑問の余地なく受け入れていた権威をもっている人々の見解も疑問視されるようになっている。」

 

☆P122「人々は、伝統的価値と地位の関係を象徴するような儀礼とか、形式を重んずることの必要性を疑っているのである。……

これらの問題は、今でも論の的となっているが、戦争直後に比べてみると議論の場が限られてきている。そのおもな理由は、明確に公式化された価値を述べることはないけれども、町の住民の間には何が望ましいかについて高度の合意がある。価値の真髄を求めようという議論の大部分も、何が望ましいかについて共通の前提に立っている。そして価値の真髄を求めようとする努力というのも、これら広く是認されている前提を一層明確にし合理化するような価値体系を見出そうとする努力にすぎないことが多い。このように何が望ましいかについて、現に意見の一致があるために、明確に公式化された価値体系を欠いていることもそう重大な問題とはなっていない。」

P122「たいていの人は自分たちは特定の価値観をもたないし、自分の行動を律するものは確信とか価値ではなく、その場の情況とか慣習であると考える方を好む。慣習がパーソナリティのなかに内面化することがないようなつもりでいるのである。人生観というものは自分の確信とは何の関係ももたないかのように、人々は種々の人生観について議論するのが好きなのである。たとえば、古い日本では信念はこれこれであった、しかし新しい日本では違う――というのをよく耳にするし、アメリカの民主主義をヨーロッパの実存主義とか日本の伝統と比較する。しかし彼らが論ずる場合、それらは日本人の実際の見方とはかけ離れたような言い方をするのである。「日本人の考え方は……」「日本人は、伝統的にこう考えている……」または「新しい日本人はこう考える……」とは言うが「私たち(または私)はこう考えています……」とか、「私たちはこう信じています……」という言いまわしはほとんど聞くことがない。」

※R.P.ドーアが宗教について聞いた時も同じ状況だったという(p136)。

 

P123「親たちの多くは子供たちが道徳原理を教えられていないことを問題にしており、学校で伝統的な道徳教育を再開する運動を公然と支持している人々もいる。保守的でない親たちでさえ、今日の子供たちは自分たちが受けてきたような道徳指導、訓練やしつけを受けないので、子供たちがこれから先の困難に打ち克つことができないのではないかと心配している。多くの親たちは自分たちがこれまで自由を拘束されていながらも自己を維持できたのは厳格な道徳訓練のためであり、苦労をしたという経験は強い道徳的気骨を与えてくれたのだと考えている。しかし子供たちは道徳的基礎がないので、流行や虚構の風に流されてしまうのではないかと懸念しているのである。このような親の考え方のなかに、自分たちが苦しめられたきびしい訓練を合理化する気持が働いているとみる者もあるが、青少年は包括的に信念の体系がないため、その場その場の流行を受け入れやすいという論には多くの根拠があるようである。」

P131「成績はそれ自体として価値あるものとは考えられない。それは、集団のために高く評価される。というのは、個人の成績は当人ばかりではなく、職場の同輩にも影響を与えるからである。グループは緊密に結びついているので、一人のメンバーの成功や満足は、全グループの成功に依存するし、一人のなまけ者がいると、それが全成員の地位をそこなうこともある。仕事を遂行する場合、自分の最善の努力を尽くしただけではほめられない。集団のために、何か成果をあげなければならない。そうでない場合は、結果の責任は自分で負わなければならない。もし在学中の子供があやまちを犯したり法律にふれてつかまったりすると、その非行の子供を正しい方向に導くためにいかに努力したとしても、その担当教師に責任の一端があると考えられる。また修学旅行で子供がけがをすると、その事故の起こった情況が現実にはどうであっても、そのクラスにつきそった母親に責任の一部があると考えられる。個人の責任は、このように包括的であるので、たいていの活動はひとりの個人によってではなく、グループによって決定され遂行される。」

※このことについては「西欧の観察者を驚かす二つの一般的特色」の一つとして挙げられている(p124)。

 

P144「M町の多くの人たちは家に対して積極的な価値をおいていない。しかし先祖や家計に関心をもつことは拒否していない。人々は、家族制度、特に家長による気ままな支配や本家による分家の支配とか、家の伝統の強調を、封建的過去からの遺物であるからできるだけ早く捨て去るべきものと考えている。しかし因襲を忘れたいと望む声は、特に低い身分の出身で、現在では高い地位に立っている家からも出ている。長い歴史をもつ裕福な家は今でも尊敬されているが、親の代あたりから中流階級に入った家では、その卑しい出身を忘れたいと考えるのが普通である。そして尊敬の基礎には家計が重要な位置を占めていることを認めているようで、都市へ来住して経過した期間とか先祖の地位を誇りにすることが珍しくなく、また自分に親類にはこういった金持とか有名人が居るのだということを、他人に話したがっている。低い地位の家では、家系も短く、護持すべき家宝も少ないばかりではなく、誇りをもって示すべき家系などもない。そこでその多くが、先祖に対しては、ほとんど関心を払わないのも当然であろう。」

P144「本家の家長の責任の一つに、その家の構成員全部の福祉をはかるということがある。……

しかし家の力が弱まるにつれて、本家の家長が困っている構成員の資金の割り当てを統制することがむずかしくなってきた。都市へ移った分家が本家より豊かになるということで、特に本家の力が弱まった。田舎にある本家の家長が都会の裕福な分家から助けを求めることはむずかしくなる。と同時に、分家の方でも、困ったときに本家に援助をあおぐことも困難となってきた。」

 

P154「日本の漁村では、乗組員が男性に限られ女性が舟に乗るということは、考えるだけで嫌忌されるべきものとみなされ、この掟を破って罰せられたという話が、多くの神話や迷信に劇的に織り込まれている。多くの伝統的な日本人にとって、男性が家庭の仕事をすることは、考えるだけでも漁船に女性が乗組むのと同じように忌むべきことである。私自身、台所に立入った男性には恐ろしいものが待ちうけているという伝説があることは知らないが、そう年をとっていない人でもその父親が台所に居るのをみた記憶をもっているものは少ない。」

P155「妻が留守のとき、自分の食事の準備もできない夫はまだ多く、妻が出掛けているときに、お茶も飲まないでいるという夫もまだいる。妻は家の修繕さえ行なう。必要なときには石炭や木炭を処理したり庭仕事をやったりする。

たいていの夫婦は両性の平等を強く信じ、若い夫のなかには、結婚のときには妻を手助けしようと決心するものも多いし、また皇太子さえも食器洗いを手伝って範例を示している。また夫はたいてい夕方には家に居ることなどを考えてみると、分業が今でもこのように強く維持されているばかりではなく、主婦の側でも夫が家の中で手助けをすることを望んでいないということは驚くべきことである。」

P160「アメリカ人が、日本婦人の日常生活について、その生活が完全に家庭中 あることを聞き(※ママ)、日本の主婦は、その拘束されている生活に不満をもっていると思いがちである。これは、家庭に閉じこめられているアメリカの中流階級の女性の態度を正しく反映するものであろうが、M町の婦人の気持を反映するものではない。家庭と仕事、または家庭と個人的享楽との間に矛盾を感じている個人は、ほとんどいない。」

 

P160-161「若い男性もその両親も、まさにこの理由で、あまり広い経験をもたない娘を望むのである。共学で最もよい大学に通った、教育程度の高い男性でさえ、同じ大学に通ったり、または外国へ留学したことのある女性とは結婚したくないということが多い。それは、これらの女性は、母や主婦としての生活に不満を感ずるであろうからである。」

P161-162「しかし一般的な質問、たとえば、一世代または二世代前の若い妻の生活について尋ねると、例外なく、〝苦難に満ちた″というような紋切り型の話をしてくれる。たとえば、一家の者がいろりばたに坐わって食事をするときに、若い嫁は、煙の来る方向に座を占めるが、家族の者に給仕をしなければならないので、坐わるいとまさえなかった。若い嫁はひまを見つけて、急いでごはんを食べるとか、他の人たちが終わったあとで食事する。しかも、食事を終えるや否や、また仕事にとりかかる。後片づけをして、次の食事の準備をする。嫁は一番早く起き、寝るのは一番後であり常に家族のための仕事をしていた。嫁は男たちばかりではなく、姑や小姑にも仕えるであった。これをうまくできないことがわかったり、失敗したりした場合にいじめられた若い嫁の話には悲哀がこもっている。他人の家にいる新婚の妻で、長時間の労働に疲れはて、朝早くの朝食を準備する時間になったら起きなければならないと、床の中に横たわっていながらも眠りこまないように努力している姿というものは、今でも町の住人の心情をかき乱すものである。

現在話されている物語をそのまま基礎にして、昔はどれだけひどい状態にあったかを押しはかることはむずかしい、ただ、現に起こったことと、一般にロマンティックにされた紋切り型との間に食い違いがあるということ、少なくとも、紋切型は誇張されているということはいえよう。しかし、その話がほんとうかどうかは別として、町の主婦たちは過ぎし時代の恐怖の姿を、自分たちは幸福であると考える際に、現在の境遇と比較する基礎として思い出しているのである。」

 

P165「理論上も実際上でも、女性は他人の前では、自分の夫に絶対の尊敬をしめしはするが、家のなかでは、必ずしもそうではなかったのである。伝統的な日本の場合でさえも、夫というものは、家事の指図などはまったにしたことはなかったのである。もし妻が、だれかに指図されているとするならば、それは夫よりもむしろ姑によってであった。一世代前でさえ、絶対的な服従の美徳と、実際の行動との間には、相当に大きなひらきがあったわけである。」

P166「農民や小売店主や、あるいは独立した専門職従事者たちの生活のうえでは、家庭のことと仕事のこととは、はっきりと区別されていない。父親は家で商売をする。そして妻はその仕事の手伝いをするということから、妻はたえず夫の権力が集中されていくことに対して、不満が増大しつつある。

しかし、町のサラリーマンの家庭では、家のなかの権限は分割されている。つまり、妻は家庭の内部を受けもち、夫は自分の仕事と家庭のレクリエーションの場面を受けもっている。そして一般的にみて、このように権限を双方に分割するという原則は、夫婦の調和を維持し、両者の欲望をお互いに満足させるということにおおいに役立っている。」

P170「ふつう一般の夫たちは、こと自分の楽しみごととか、子供たちに対する妻の扱い方についてのこととなると、往々自分勝手な権利をふりまわすらしい。……また父親たちは、よく子供たちの躾だとか、友だちづきあいだとか、社会的な役目について、規則をつくる。すると母親は、子供にそれをやらさせなければならない。つまり、こうした問題だとか、またときには、関与しなくてもすむようなこまかい事柄にさえも、夫は、たとえ家の者たちからこぞって横暴だと批難されようとも、そんなことにはおかまいなく、父親としての権利を行使するのである。」

P170「夫の優越した権威というものは、いまや夫自身もそして多くの者たちも、ひとしく支持している民主主義の考え方のなかでは、成り立ちえないものとなっている。しかしそれにもかかわらず、妻たちが自分の夫に、あまりにも多くの威信と特権を与えているということは驚くべきことである。」

 

☆p170-171「だが夫の側に優勢な権利を与えるものは、マルクスエンゲルスによって力説されたように、女性が夫に経済的に依存するということのためだけではない。男性を女性に依存させるよりも、逆に女性を男性に依存させた原因は、女にとっては妻となる以外には社会的に是認されるような選択の道がなかったからなのである。だから、たとえ妻が、虐待とか離婚といった究極的な制裁の可能性を意識的に知らなかったにしても、この制裁は、夫に優越した権威を与えているという慣習を持続させていたのである。」

P172「しかし、M町の妻たちが、夫を喜ばせようとして働くしの働きぶりは、アメリカの秘書たちがそのボスに尽くすものの比ではない。妻たちは、自分の夫を、まるで長男のように扱っている。自分の子供を扱うときと同じように、夫たちもいつも幸福で満足な状態にしておこうと一生懸命につとめるのである。そうすれば、夫は自動的に妻の要望を叶えてくれるようになるのである。」

P175「M町には、姑と嫁とが一緒に住んでいる家はもうほとんどない。しかし、いま一緒に住んでいると仮定してみるなら、その二人の間には、必ずやむずかしい問題がもちあがり、そして家庭の事情がそれによって大きく左右されるようになるということが、明らかである。個人的な会話のなかや新聞のかこみ欄には、この姑と嫁の関係が、現代日本の家族が直面している最も重要な問題であるとして、いつも繰り返し取り上げられている。」

P177「「もし妻と母とが水に溺れているのを発見したら、夫はどちらをまず助けるべきでしょうか?」という、昔ながらの質問を夫になげかけるなら、昔ならたしかにその答えは、「それは母親です」ということであった。というのは、母親は夫にとってはかけがえのない人であるのに対して、妻は新たにもらい直すことができるという理由からであった。しかし、もはや今日では、夫は、妻か母か、どちらかをとってどちらかを捨てるということではなく、両者を同等の立場においているのである。つまり、そこに明瞭な解決がないまま、それで両者の張り合いがいつまでも続いているというのが現状なのである。」

※このような議論にも出典はない。

 

P195「夫たちが自分の勤めている会社へ尽くす忠誠は、自分の家庭へ尽くす忠誠と同程度に重要であると説くことも可能であろう。しかし、一般には、この二つの忠誠が矛盾するということはない。そして、たしかに、家の考に優先して君主の忠をおいた武士道に比べられるような、明確に至高の位置に立つ忠誠の対象が外部にはない。」

※「両親や子供のために犠牲になるということは、相変わらず最上の美徳とされている。」(p180)の脚注。

P186「夫が(※仕事の都合で長期間)家庭にいないということは、まれに家族に不適応の問題をひき起こしはするが、夫に対する情緒的な依存度は、アメリカの家庭の場合ほど強くはないために、そうした別居を可能にし、容易にそのような事態に耐えさせてもいるのである。だから、母と子は家に残り、父親は仕事仲間にすっかり依存したり、紅燈の巷へも出かけていけるのである。」

P187「母と子が結合することのもう一つの結果は、世代間のずれなり違いを、最小限度にくいとめる役割を果たしているという点にある。急激な社会変化を経験している多くの社会では、この世代間の違いなりずれは、とりわけ激しく、親と子の間に鋭い分裂を引き起こす。ちころが、家族の者たちと父親との間の分裂は、たいていの場合、逆に世代間の差をちぢめてゆくように作用するものである。というのは、そのために、子供と古い世代層に属している母親とが親密になり、子供たちは母親の忠告に耳をかたむけるようになるからである。M町の若者たちは、古い世代に不平をもらすようなことはあっても、母親に対してだけは、ほとんどが同情的である。たとえば、アメリカの都市の多くの移民の親子の間にも分裂があり、そこでは、世代間の離反という重大な問題となっているが、日本では、子供が母親と緊密に結びついていることから、このような離反に対して、それは、きわめて効果的な障壁となっている。」

※大学闘争などにも影響していると読める。

 

P190「M町の人たちの結婚生活において、性生活の果たす役割はきわめて小さく、そしてたいていの夫婦は、いったん少し眠ってから、ほんのちょっとの時間で性交渉をすませてしまうという事実は、夫婦間におけるプライバシーや、親密度に欠けるということと明らかに相関している。

おおかたの若い妻たちにとっては、結婚するまで、性的欲望は強く抑えつけられていたため、結婚してもすぐに性行為に満足感を味わうということは、むずかしい。現在の中年婦人の多くは、性については、結婚の当日に母親かあるいは、仲人から簡単に説明され、そしてその際、性行為を描いた二、三枚の絵をみせてくれるまでは、このことについてはなんにも知らなかったと語っている。」

※初潮・月経についてはどう説明していたのか…?性生活については、篠崎信夫「日本人の性生活についての報告」(1957)を参照している。しかし、性交の回数が極端に少ないともいえず、例えば20代前半ならアメリカは週2.5回、日本は2.2回とされる(p196)。また、前戯をアメリカ人の事例では全てが行なっているとするが、日本人は39.9%が行わないとしている(p197)。

P198「第二次世界大戦終結するまで、日本には貝原益軒の古典にみられるように、女性のとるべき正しい振舞についての基準となる手引があって、妻が夫に対して、また子供が両親に対して、守るべき道徳的本分がこと細かに明白に書かれてあった。しかし、その手本の作成を援助した政府の指導者たちや儒学者たちは、親の子供に対する取り扱い方については、何の助言もしていなかった。そのため、孝行についてのきびしい型があるのに対して、理想的な親としての行動を述べる正式の伝統というものはなかったのである。育児に関する教えは、年上の経験を積んだ婦人に委ねられ、それが若い婦人へ口伝えで教えられるものであった。そして、多くの地域社会に共通した育児法があったにもかかわらず、それは、標準化され得なかったし、合理化されるようなこともなかった。」

P200「サラリーマンの家庭は、多くの点で最も伝統からの離脱を示しているにもかかわらず、サラリーマンの妻は、家にいる時間も長く、かつ子供にかかりきりになっているために、他の職業の家庭の場合よりも、母と子の依存性が強くさえあるということが逆説的にいえる。M町のサラリーマンの家庭では、母も子も、母方の親類たちと離れているため、母親たちと子供との関係は、伝統的な農村の家庭の場合よりもきわめて強く、そして、外部から干渉を受けることも非常に少ない。」

※これはあくまで直接的には制度的な話だが、実質的には家父長的な議論に付随する結論となる。

 

P204「アメリカでは、母親が子供の後を追いかけて街を走る情景をよくみかけるのであるが、M町では反対に、子供が母親の後を追いかけてゆくのをよく見かける。母親が子供の少し前を走って、子供が急ぐように元気づけているのである。また、ここでは、子供を罰するために、外出を禁ずるという話は聞いたことがない。ここでよく見かけるのは、反対に、子供が家の外に出されて、自分のやった悪いことに対してあやまるまでは内に入ることが許されず、大声で泣きながら母親をよんでいると、いった情景である。」

P204-205「ほかの地域社会と同じように、M町でも、子供たちはどんどん独立的になってきてはいる。しかし、向上心は、アメリカでは子供自身のなかから生まれてくるのに対して、ここでは、母親から与えられている。M町の母親たちは、一方では、子供は依頼心ばかりで強くていけないといったような不安をもらし、ときにはひとりでやってゆけるようにつき放してやることもぜひ必要なのではないかと思っている。しかし、アメリカではこれとは全く反対で、母親たちは子供があまりに独立的であることに不満を感じながらも、独立をすばらしいことだとたとえ、独立を自然のことと承認しているので、子供は親に反抗し、早く独立しようと思っている。このようにして、無意識的に独立を助長しているのである。」

P205「しかしはっきりとはいえないが、一般的趨勢としては、依存性を少なくしようという新しい動きが芽ばえだしていることも事実である。アメリカの育児法の実際について、他人の話を聞く機会をたくさんもったり、私たちが調査している間に、アメリカの子供たちを観察する機会をなん回かもっている母親たちは、自分の子供たちはたしかに依存的であると感じとってもいた。しかし、私たちが、みんなの前でアメリカの子供の独立心はさらに強いという話を初めてしたときには、少なからず不興をかった。母親たちがそこに不愉快さを感じたということは、母親にとっては喜びであるが、子供にとっては独立を認めてやったほうがいいと心のなかで思っている証拠のようにうけとれた。近頃のマスコミにみられる多くの育児欄も、母親たちの自分本位の考え方から子供をいつまでも依存させておいてはいけないと励ましている。」

 

P218-219「母親たちは、入学試験の準備のために、まさに膨大な勉強を子供たちにさせなければならない。そこで、母親は、子供が小学校の頃は、いろいろと子供の補助教師の役目をしなければならず、夏休みにでもなれば、正規の先生そのものにもなりかわってしまうのである。子供が高校に入って学習内容が高度になると、母親が直接みてやれなくなってしまう。それでも、母親は子供に相当に長い時間、勉強をさせる責任をもちつづけなければならない。たとえ内容はわからなくても、母親は解答集を用意し、子供の勉強について質問したり、練習をさせたりするのである。」

※教育ママ言説においてもこのような語り口はほとんどないように思える。教育ママ言説においては、母親はここまで寄り添う形では熱心に関わらない。

P224「こうしたこれらのすべての変化があったにもかかわらず、M町のこの調査から得られたものは、日本の社会について他の研究から得られるものと同じように、割合に秩序正しく制御された生活の姿であった。……

……たしかにこうした急激な変化は、日本の個々人や各種団体に、かなりの緊張をもたらしたが、社会の分裂には一定の限度があり、近代社会への転換期を通じて、社会秩序が高度に維持されながら現在に至っている。都市的な産業社会へ移ろうとした時期においても、また高度な近代化をすでになし遂げた現在においても、その秩序を維持するに役立った日本の社会構造の特色について考察することは、極めて重要なことである。」

 

P230-231「育児とか人格構造にみられる特色というものに眼を向ければ、こうしたものも、たしかに整然と秩序を保ちながら変化をすすめたということにおおいに役立っている。すなわち、子供のしつけ方は、集団に依存させてゆくというものであった。そして、現代の都市社会においてさえ、家族からその成員を追放する勘当とか、あるいは村からその成員を追い出してしまう村八分という考え方は、なお強く人々の心のなかに残っており、そうしたところから、人々は自分の所属する集団のなかでは、後指をさされないような立場を保とうといつみ考えていたのである。個人はすべて集団依存的であり、集団の要求から離れまいとたえず気をつかっている。だから人々は、新しいほかの集団へ移ってゆくときでさえ、準備がすべて整えられ、そこに招かれて移ってゆくという「御膳立て」のほうを可としたのである。個人の集団への忠誠心を強調するという価値体系は、人々が集団へ基本的に忠誠を尽くすことを全面的に維持し、またそれが変化の過程を統制することについての集団の力を擁護する傾向をもったのである。」

 

P248「若干の問題については、解釈には飛躍が必要である場合があった。たとえば、町の人たちが自分たちの田舎へあまり帰ろうとしないことの最大の理由について、私は、彼らが帰郷したときに起こるもろもろの事柄や、そのときにうける面倒な依頼をどう処理してよいのか戸惑い、かつそのことを恐れたからであると判断した。しかし、M町には、このことをそれの理由としてあげる人は一人もいなかった。みんなは、もっとたびたび帰省すべきなもだがと言っていた。しかし、帰省しないという事実について理由は、別に述べもしなかったし、たとえ言ったにしても、それは仕事の休暇が短いとか、休暇をとれるような休日のときにはたいへんに交通が混雑するからであると説明するだけであった。このようなことはまさしく重要な理由である。しかし、私たちがM町の人たちと一緒に、二度にわたって、その人の田舎の親類のところへ行った体験からすれば、その二度ともたくさんの村びとたちが、上京したいのだがそのときには自分たちの住む家を見つけてくれとか、いろいろ手を貸してくれとかいって、贈り物をもって集まってきたのである。こういった観察によってM町の人たちが田舎の友人や親類筋の者たちから、いろいろと面倒な依頼をうけていることを私たちは初めて知ったのである。多くの人たちは、田舎へ帰らないことを申しわけないと思っておりながら、また同時に、田舎の知人からいろいろと依頼されることを懸念しているので、私たちは、たとえ実際はそうでないのかもしれないが、この私たちの観察した二つの事実を関係づけて理解することは、まちがいではないと考えたのである。」

※しかし、本書ではその飛躍をあえて行うというスタンスをとっている。そして当事者からの発言は結果として無視されている。確かに間違いではないかもしれないが、本書の語りは、やはり普遍化しているようにしか読めないし、それは当然間違いに転じる。

 

 

 

妻鹿淳子「犯科帳のなかの女たち」(1995)

 本書は江戸時代の岡山藩における「犯科帳」を史料にしながら、当時の社会(共同体)がどのようにあったかについて分析を行っているものである。

 特にポイントとなるのは、p72-73にあるような記述である。ここでは過去の議論において江戸時代における農村部の婚姻がもっぱら村内婚であったとされている点に対する批判として、広く村外婚が行われていることが指摘されているが、江戸時代において奉公人として村外に出ることが活発となったことも一因となり、共同体自体が村内に限らず展開されていたことを実証するものである。

 また、合わせて、近世(江戸時代)中期から後期にかけて、共同体の頽廃とセットとなる形で、共同体志向もまた強化され、「村の娘は若者共のもの」という規範があたりまえのものとみなされるようになったことも指摘されている。

 武家と農民層との違いや、江戸時代を通じての共同体意識や儒教意識についての波及の程度についての議論を通して、江戸時代における共同体意識が一枚岩ではなかったということを実証的に示している。

 

 

○「若者組」を介した「共同体崩壊」の議論について

 これまでレビューで取り上げた共同体論の議論についても、「若者組」についての言及がされていたが、それらも含めて、「若者組」が取り上げられる場合に、「共同体の崩壊」がテーマにされていることが多かった。しかし、その議論において、想定されている時代というのは、かなり異なっていることにまず注目したい。

 

1.戦後において共同体が崩壊したことを例示するもの(高橋・下山田編1995)

 高橋・下山田編における若者組の位置付けは(かなり具体的であるという意味で)多少特殊であるように思えるが、1950年代においてまだ若者組が残存していたことについて取り上げ、これを充実した地域組織の存在の例として挙げていることは明らかであった。

 

2.明治以降の国家主義的政策に伴い共同体が崩壊したことの中で例示するもの

 佐藤守「近代日本青年集団史研究」(1970)では、若者組は明治以降組織的に形成された「青年団」との対比から描かれ、若者組が地域秩序の形成の一組織としての位置付けを明確にしている。

 

「若者組の原型として求められた若者連中においては、敬神崇祖、隣保精神がムラの氏神である大物忌祭典組織において強化され、それが地主的ムラ支配のイデオロギーとなるのであった。すなわち、地主—小作関係の階級支配はムラの壮年組(氏子組織)—若者組の身分階層制によって隠蔽補強される。この場合、若者連中は壮年組の下部機構として実業団的性格をもち、主として祭典行事の下請仕事に従事したのであった。このことが、若者連中の内部構造を年功序列として支配、従属関係に固定したと考えられよう。」(佐藤1970,p45)

「少なくとも明治中期までにおける若者組は村落自治の下請け機構として位置づけられ、警察、消防、各種の生産労働をはじめ、氏神祭典、盆踊りなどの娯楽的行事に主導的役割を演じ、村落における実集団としての性格をになうものであった。そして、その諸活動は、原則として村落内で完結するものであり、それ故にそれは、閉鎖的性格を帯びざるを得なかった。」(同上,p4)

 

 恐らく本書における批判の対象となるのは、このような議論の派生ではなかろうかと思う。もともと佐藤の議論の主旨は若者組とその後に現れた「青年団」の性質の違いにあった訳だが、ここで素朴に想定された若者組の議論をそのまま使った場合に、「若者組は秩序の担い手として安定した組織であった」ことや「江戸時代においては安定した共同体社会だった」という結論が出てくるといえる。

 

3.そもそも時代設定が曖昧になっているケース

例えば、次のような形で若者組が語られる場合である。

 

「ところで、共同体社会では、若者、娘に対しては、親は〈しつけ〉をするものとしての役割を退いていた。親が〈しつけ〉の任にあたるのは、子どもが成年式を迎えるまでの時期に限定されており、成年式を終えて若者入りをした者たちの生活に親が口をさしはさむことは控えるべきこととされていたのである。若者や娘の訓育と形成にあたったのは、若者組や娘組と呼ばれていた自治的集団そのものであった。近代社会は、この自治集団の消失によって、未経験の仕事を親たちが引き受けざるをえなくなった社会でもある。」(田嶋一「〈少年〉と〈青年〉の近代日本」2016,p124)

 

 「近代化論」自体の具体的射程が「明治以降」の議論とイコールなのかという疑問を残しながら、語られているようなケースである。このような議論も大いにありえるのではないかと思うが、基本的には、2.のケースと同様、江戸時代頃において機能していた若者組を想定しつつ、明治以降近代化したことでそれが消失したものとして、そして暗に若者組を「機能した組織」として位置付けている議論である。その意味では、レビューした岩本由輝(1978)の議論もこれに位置付くものだろう。

 

4.江戸時代の経済発展の中に衰退を見出す議論

 本書もそうだが、この立場で議論する場合の若者組の位置付けは複雑である。まずもって若者組について「機能していた地域組織」という位置付けを明確にとらず、むしろ衰退のプロセスの中で規律的な若者組が組織されていったという立場をとる。

 

「この若者仲間が、経済社会の発達の影響を受け、活動に多くの金を遣い、自己表現を行いはじめると、幕藩支配体制と衝突する。すでに、打ち毀しで若者仲間の戦士団体性に危険を感じていた支配側は、寛政期以降、西欧帝国主義の脅威に対処するために、より強力な中央集権国家をめざし、民衆管理を強化しはじめる。その過程で若者仲間の禁止令が文政十一年に登場し、以後、明治新政府も民衆管理をはかるために、この政策を継承した。」(多仁照廣「若者仲間の歴史」1984,p258)

 

 また、本書からそこまで言わないものの、転じて若者組自体が近代化の産物であるという位置付けを行い、そもそも江戸前期などには実態があったのかどうか疑問視するような議論もある。

 

「従来とかく、若者組・若者仲間といえば、前・中期以降一貫して近世の村共同体内に存在したものと漠然と理解されてきた向きはなかったであろうか。事実はそうではなくて、若者組はまさしく近世後期の所産であったのである。如上の史料をふりかえってみると、安永三年(一七七四)の岩村田藩申渡が、「近年若もの銘々組を立テ」としているのが、若者組の形成を告げる信州の初見であるとみられる。安永期より多少さかのぼる事例もありうるだろうが、ほぼこのころ、若者組がかたちづくられはじめたとみることができよう。しかし、記述のとおり、若者組にたいする制禁令がしきりとあらわれるのはほぼ寛政年間(一七八九〜一八〇一)以降のことで、なかんずく化政・天保期以降のことであった。安政三年(一八五六)にくだる上田藩触書ですら、「近来村々に於て若者与号し」と指摘しているところなどをみると、幕末期に近づくにつれていっそう各地各村に広範に若者組が形成され、かつその活動が昴進したさまが想定できるように思われる。」(古川貞雄「村の遊び日」1986,p252)

 

○何故江戸後期の若者組は暴挙に出たのか?

 

 本書における「若者連中」は古川(1986)の指摘する若者組と同じく、「好き勝手なことをする集団」という位置付けがされている。古川は次のように指摘する。

 

 

「文政改革で組合村を結成させて村落治安の強化に乗りだしたときに、その主要な取り締まり対策として、無宿・悪党、博奕、風俗・冠婚葬祭等の奢侈、強訴・徒党、農間商人増加と並んで、若者ないし若者組があげられており、それも若者仲間の結盟の禁止をふくむ力を入れた取り締まりのまとのひとつであったという点は、従来必ずしも正当に評価されてこなかったのではないか。村共同体秩序を揺り動かし、不穏騒然の世情を現出し、領主支配の基盤を掘りくずす動因の主要なひとつとして若者組の存在があることを、幕藩領主は認識していた。このことはもっと重要視されてよい。」(古川1986,p244)

 

 本書でも若者連中の影響力を避けるため、「家」の機能が強化され、結婚年齢の引き下げにつながったとみているが(p90)、これも若者連中が手に負えない存在であり、別の規範を設けることになったという見方をしている点で古川の立場と一致していると言ってよいだろう。

 しかし、疑問に思うのは、何故「若者組」が暴挙にでる組織になったのかという点である。本書の立場は、p91にあるように、まさに近代化に伴う自由の拡大が不安定化を招いたという点にある。これは古川の立場とは多少異なると言えるだろう。古川においては、「若者組の組織化」と「不安定化」がまさにセットになっているために、若者組がそもそも明確に存在していない組織だったという立場であるといえる(もっとも、古川が依拠している文献がどこまで正確かは明確ではない)。対して妻鹿の立場というのはこの「若者組」が存在していたか、より踏み込めば江戸前期において「機能していた地域組織」が存在していたという問いについては留保した態度をとっているといえるだろう。

 

<読書ノート>

P41「奉公人という地位自体が、村から一時的に奉公に出かけた者にすぎず、人別改めは毎年村で済ませ、いつかは村へ帰る。奉公は仮のなりわいという認識のもとで出奉公している。そのうえ夫婦ともに、奉公先が不安定でしばしば変わること、別居生活であることなど、その共同生活の基盤は弱く、夫婦の結び付きが脆いことによると思われる。……

このような夫婦の結び付きの脆さは、互いの奉公先の変更により、また、夫の勤務地の変更により、たとえば、奉公先の主人の供として江戸、大阪、京都などの他国へ奉公に出かけ何年も帰国できない場合もあり、やむなく夫婦生活は中断せざるを得ない背景がその主な原因と考えられる。こうした状況に対応するため、奉公中は法令通りの手続きを踏まなかったのである。つまり、正式な手続きをし人別帳に記載されると、離婚・再婚の都度、名主や奉行に願書提出などの必要が生じ、状況変化に対応しきれず不都合が生じると推定される。」

※明文化された議論ではなさそうであるが…

 

P70-71「判頭は枝村や小字単位の実質的日常的な村落共同体のまとめ役を担っている者である。その判頭と若者連中のこのような関係から、若者連中が実質的な村落共同体の支配の末端に位置していることがわかる。このことは、若者たちの女性への支配を村社会全体が公認し、若者たちの行為を暗に黙認していることを示している。村社会は、若者たちを近い将来、村の正式構成員となって村の運営を担う者として、家長に次ぐ準構成員として位置づけ、女性への支配管理は当然とする構造を持っている。

ここに記録となって残った事件は、村の女性に対してなされた性犯罪と関連して、殺人、自殺、傷害、その他の事件が重なり合って表沙汰になったもののみであって、村の女性たちへの強姦、輪姦などの性犯罪だけの場合は、多くは村内でもみ消され表出することはなかった。ほとんどの場合、娘たちは泣き寝入りの状況に置かれていたと考えられる。」

P72「婚前交渉と婚姻とは別のものであるという見解もあるが、民俗学では婚前交渉と婚姻を結び付けた事例報告が圧倒的に多く、ほとんどの村は村内婚であったとされ、村の若い男女が互いに相手を熟知し婚姻へと結び付ける道程として同慣習を見なしている。」

※江守五夫、瀬川清子といった論者を参照している。

 

P72-73「はたしてそのようなものであったのだろうか。岡山藩領域において史料で見る限り、若者連中がこの慣習を名目として事件を起こしているのは、一七七一年と一七八七年の二件以外は、すべて文化文政期以降のものである。少なくとも近世前半期には見あたらない。

また、岡山地方の農村部では、村外婚が広範囲に展開していたことを示すことができる。

たとえば、一六七二年の備前国津高郡尾上村の宗門人別改帳によると、村人口六二五人、夫婦もの一二一組のうち村内婚六八組、村外婚五三組となっており、一七世紀後半においてすでに四四%が村外婚であった。また、安兼学氏によると、備前国磐梨郡石蓮寺村では、一七三九年から一七七三年の間の八年分の「諸御用留帳」から三〇例の婚姻が確認されるが、そのうち、二例のみが村内婚で、隣国美作国との縁組一件、あとの二七例は周辺の村との村外婚であったという。……村の規模や農民層分解などさまざまな条件により、実情は一律ではないだろうが、遅くとも一八世紀後半には、村外婚の方が多いという傾向は一般的であったと思われる。

このような村外婚が一般的であるのに、「敷村の娘は若者共のもの」という慣習が、なぜこの時期に若者連中によって主張されているのであろうか。そのことこそが、文化文政期以降の村の変化を物語っているのである。」

 

P89「近世中期から後期にかけて「家」を基準とした結婚観が村の上層農民からしだいに一般農民に浸透していき、「家」の独立性が増し、「家」の拘束力が娘を家の内に抱え込もうとする傾向が強まったことが指摘されている。儒教道徳を基本とする女子教訓書である「女大学宝箱」が、「一七一六年の版行をはじめに、幕末の一八六三年までの間に、実に一二版を数えている」普及ぶりであったことは、武家の家父長的家制度の思想的支柱である儒教道徳が、農民層まで浸透し、「家」の存続を中心とした考え方が成立していたことを裏づける。」

P90「さらに、女たちの「家」への囲い込みは、近世後期より一般的に上層農民の結婚年齢が低下すると言われていることと関連する。つまり、早期に他家に縁付かせることによって、「家」と「家」の婚姻の形を完成させ、娘に対する村の若者連中の影響力を排除しようとしたと考えられないだろうか。家の内に娘が囲い込まれるようになった結果、従来認められていた村の娘と若者共の婚前交渉や、若者連中による男女関係の仲裁や権限が狭められ、村の若者連中と娘との間に拮抗が生まれた。」

P91「つぎに、若者連中の支配下にあった村の娘が、村社会や家のなかで没個性的な生き方に甘んじなくなった点も、若者連中との間に対立が起こる要因になったと考えられる。……彼女たちの出現は、近世後期の農民層分解の急激な進行にともない、奉公人として村を離れる娘たちが増加することと符合する。従来の若者連中の慣習に反逆するこうした娘たちの行動は、若者連中の村の女性に対する支配を脅かすものとして、彼らの目には映ったことであろう。こうしたことが若者連中を暴力的な行動に走らせたとも考えられる。」

 

P165「以上の事例より、不義の確証を得ることと、妻と密夫の両者を殺害するという二条件がかなえば、庶民においても、夫の私的刑罰権の行使が認められている。

庶民の妻敵討ちは、近世前期から後期にわたる全期間を通じて平均して単発的に起こっており、近世前半には少なく近世後半に圧倒的に多い武士身分のような変化は見られない。しかも、不義密通事件のなかに占める妻敵討ちの割合が、武士では五九%、庶民では一〇%と、武士にくらべ庶民の方が圧倒的に少ない。これは家禄を持たない庶民にとって、「家門の維持」のための「妻敵討ち」が意味を持たないためであると考えられる。」

P180-181「それに対し、岡山藩では、タテマエの公的処刑においても「御定書百箇条」制定期を境に、明らかに緩刑主義へ移行している。

厳しく儒教倫理を強制される武士と、かなり緩やかな対応をみせる庶民のこの処罰の差は、何がその要因になっているのであろうか。主君に仕え家禄・家門の維持のみに依ってしか存在することができない武士身分と、そうではない庶民とでは、家秩序に対する支配者の認識の違いがあると思われる。不義密通は家秩序の乱れであり、家父長的家制度を崩壊させる要因である。このような封建的身分制度の根幹を揺るがしかねないものに対し、封建体制の中核的な存在である武士身分にとくに厳しさが求められたのは当然であった。……そこに家存続のために主君の意向にそって「妻敵討ち」をせざるを得ない状況が生まれたと考えられるのである。

対照的に、庶民においては、それぞれに階層や地域共同体での婚姻の慣習や男女のあり方や性関係などが、武家社会とはまったく異なっており、儒教倫理で一概に支配統制できなかったものと思われる。

岡山藩は、近世前期においては、庶民の婚姻についても郡会所や代官にまで婚姻願いを提出させており、庶民の家の内部に及ぶ細かな領民把握の方針を採っていた。そのため近世前期には厳しい処置がなされたと考えられる。ところが、近世中期になると、大庄屋が一年単位に婚姻で生じる移動を村ごとの出入り人数だけ郡奉行に報告することで済ませており、農民を個別に把握する方針を改め、庶民においては、地方(在地)のことは地方に任せる方針に変更しているのである。近世後半における不義密通に対する岡山藩の庶民への対応の変化は、このような岡山藩独自の政策と関連するとも考えられる。」

 

P235「以上の子殺し・捨子事例から、我が子を殺害または子捨てせざるを得なかった女性たちに共通していえることは、身を寄せる実家や親戚などなく、再婚相手も事例に示されているように決して自分を養ってくれる男たちではなく、生きていくすべは身一つで奉公へ出る以外に方法はなかったことである。しかも、後述するように当時村落共同体や藩の公権力による扶助機能もなきに等しい状況下では、子どもがいては奉公にも出られず母子とも餓死するしかない。」

P242-243引き取り先のない捨子は非人身分に預け渡された

P253「多くの孤児や貧困家族の幼児は、ほとんどが親戚に預けられることとなるが、それも困難な場合は、村方が養育することになり、孤児は「村方打廻り一日充口凌キ居申候」とか「村方一日替りニ養育致し遣、迷惑仕居申候」と、村人の家に一日おきにまわされ厄介者扱いにされている。村の公的機関で養育するとか、村の誰かが里親となって面倒をみるとかではない。……村落共同体としては、建前の上では相互扶助がとなえられているが、農民層分解が浸透している近世後半には、極貧層の増加により村落共同体自体の相互扶助機能はきわめて低下していたと考えられる。

このように、社会的弱者救済の機能は藩においても地域共同体においてもほとんどない状態で、家も崩壊し頼る親戚もない、賃労働によってしかその日の糧を得ることができない者にとって、足手まといとなる子どもの存在は死活の問題であった。こうしたところに子殺しや捨子が発生するのである。」

 

P258「しかし、家存続を第一とする「家」意識が、近世前期からすべての階層に完璧に浸透し、家父長が絶対的な権威で家族を支配していたかというと、必ずしもそうとはいえない。武家社会にあっても、不義密通事件を通じて見たように、近世前期においては儒教倫理に背き家断絶をきたしても親子の情を優先する家臣がなお存在し、公権力は儒教倫理の徹底化と「家」意識の浸透をはかる手立てを取らなければならなかった。家の存続=家禄の保証なしには生活の手段を持たない家臣にとって、家の存続は死活の問題であったため、藩の政策は効を奏し、近世中期以降、儒教倫理に基づく「家」意識が、家臣団に徹底された。その結果、武家女性は封建的家制度のもとに完全に絡め取られ、まったく身動きの取れない状況に置かれることとなった。」

※対して庶民は、近世後期になると家意識が形成されてきたという(p259)。

 

P261-262「近世後期には農民層分解によって貧農層が輩出され、そのため村落共同体の相互扶助機能はいちじるしく低下した。しかも、村落共同体の相互扶助機能は、お互いに労力を提供できうるもの同士のものと考えられており、元来、社会的弱者への援助は無きに等しいものであった。寄るべのない貧しい後家や未婚の母となった独身女性に、子殺しや捨子などの悲惨な犯罪を起こさせる要因はそこにあったと思われる。家を中心とした社会において、独り身のしかも子どもを抱えた女性が生きて行くこと自体、非常に困難で苦渋に満ちたものであったことは容易に推察できる。こうした女性たちの多くは、親類や村に従属した生き方を強いられたと考えられる。当時の女性なら誰でもがこうした状況に転落する危険性をはらんでいた。」

 

杉本良夫/ロス・マオア「日本人は「日本的」か」(1982)

  今回はすでに予告していた杉本・マオアのレビューである。
 本書は「日本人論」の批判の著書である。本書の大きな主張点の一つは、『日本人論は単一な国民性論とみられており、その複数性を考えようとしない』という点である(p69)。ベネディクトの「菊と刀」からすでにそうであると述べられ(p35)、むしろこれはアメリカの論者における議論の方が強いとみているようである(p79-80,p177)。
 これは、前回の土居のレビューでも「甘え」の普遍化を介して単一性を説明していた点に対する批判と言ってよいだろう。土居の場合、「学生運動の担い手」や「病理者」と安易な同一視をされた「日本人(?)」が作り出されてしまうが、それには果たして一般性が認められるのか、他の集団の議論にまであてはまるのか、という視点がないということである。

 もう一つ本書で重要なのは、『日本の日本人論においては方法論が欠落している』と指摘する点である(p155-156)。何をどのような方法で分析した結果見いだされた傾向が日本人論なのか、という見方が足りないというのである。これは大学の教育においてみられるとされ(p121-122)、その背景として日本独特のジャーナリスティック・アカデミズムの存在を示唆する(p120-121)。このような傾向が日本独自なのかは置いておくにせよ、この「方法論の欠落」という観点は極めて重要な指摘である。特に考慮なく対象が無際限に広がってしまうこと、また因果関係についての検討(因果関係を説明する際に他の可能性についても検討すること)も欠如している理由はまさに方法論の欠落だろう。本書がその意味でまず方法論を確立した上で日本人論を議論すべきというスタンスに立っているという点は(あたりまえのはずだが)押さえておかねばならない点である。


○「日本人論」は特殊なのか?
 本書ではp13にあるように国民性をめぐる議論が流行しているには日本独特のものである、という指摘をしている。「自らを絶えずユニークだと主張している」ということをこの特殊性の一端とみているようである。
 しかし、この主張は二重の意味で批判的検討が必要だろう。まず、「日本の国民性論は他国と比べて盛んである」という主張である。これは「日本人論」と「アメリカ人論」や「イギリス人論」を比較した場合には妥当するかもしれない。「日本人は」という主語をもって議論している点においては、まだ妥当性があるようにも思える(根拠はないが)。
 但し、このような「○○人」という枠組みとは異なる形で「自らの国家に属する人間を定義付けるという発想が欧米よりも日本の方が強い」という主張に読み替えた場合、正しいかどうか怪しいのではないかと私は思う。
 
 まずもってそのような比較の枠組みで物事を捉えるという見方はかなり古くからあるのではないかと思われる。かのヘーゲルも「歴史哲学講義」において次のような指摘をしているという。

 
「第一の時代は、……幼児の精神に比すべきものである。そこでは、いわば精神と自然との統一が支配している。私たちはこの統一を東洋的世界に見いだす。……この家父長制的な世界においては、精神的なものはひとつの実体的なものである。個人は単なる偶有的属性として、この実体的なものに附加されるにすぎない。……精神の第二の関係は、分裂の関係である。……この関係はさらに二つの関係に結びついている。第一は精神の青年時代であって、……これはギリシア的世界である。他の関係は精神の成年時代の関係であって、そこでは個人が自己の目的を対自的にもっているけれども、その目的は一つの普遍的なもの、国家のための奉仕においてのみ達成される。これがローマ的世界である。……第四に現われるものはゲルマン的時代、キリスト教的世界である。……キリスト教時代には、神的な精神が世界の中にあらわれて、個人の中に席をしめているので、個人は今や完全に自由で、自己の内部に実体的な自由をもっている。」(上山春平「歴史と価値」(1972)P101-102からの引用、訳者は上山)


 ここで「ヘーゲルは、アジアを世界史の始点、ヨーロッパをその終点とみて、世界史は太陽のように東から西へ進む、などと言っている」(上山同書、p102) と述べているからも、西洋中心的な見方から歴史解釈しているのではないか、という疑念が晴れない。
 また、アメリカにおける対抗文化論の文脈でも、特に「東洋」との比較というのはよく出てくる印象がある。


アメリカの多くの地方に、新しい「自発的原始主義」、つまり原始民族と同じ質素な暮らしをしようとする雄々しい努力が現われたのである。
アメリカのラディカルな若者たちの間では、質素、優しさ、貧乏、共同生活、移動の自由、新鮮な空気、清浄食品、自然との睦み合い、を特色とする新しい精神がますます強調されるようになった。この新しい事態の進展でとくに目につくのは、禅と道教の影響である。アメリカ・インディアンの文化の影響も同様に顕著である。」(シオドア・ローザック「対抗文化の思想」1969=1972、pxvi-xvii)

 仮に「アメリカ人論やイギリス人論は、日本人論よりはるかに少ない」ということが真であるにせよ、ここでむしろ問われねばならないのは、『なぜ欧米には「○○人論」という論法がないのか』という点ではなかろうか。そして仮説として提起する際のヒントがこれらの議論にあるように思う。この手の議論では常に東洋が比較対象とされ(正確には現時点から遠方に置かれ)、そこに何らかの意味が与えられる。基準点はあくまで欧米側にあり、参照点として東洋が定義される。まさにオリエンタリズムの着想であるのだが、「日本人論」というジャンルもまたその「参照点」として日本が提示されているだけなのではなかろうか?日本からの目線と欧米からの目線というのは、結局対称的ではないのである。だからこそ、「○○人論」というのも欧米ではあまり妥当しないのではないだろうか?本書ではこの点についてまともな実証的比較を行っていないことからも(※1)、問われてしかるべき論点だと思う。少なくとも、日本人論の一翼は欧米人によって描かれたものであることは明確であり(※2)、日本人論について日本人自身がアイデンティティ獲得のために議論されているという言い分は全く通らないだろう。


○日本のジャーナリズムは特殊なのか??
 また、上記のような議論が盛んに行なわれる背景に日本の独特なジャーナル界の影響を挙げている点も、本書の注目すべき点だろう。
 確かにこの影響は検討に値する。新聞に限れば日本人は国際的にも購読者数が多いのは事実である。しかし本書で特に重要であるだろう雑誌の購読者、更に言えば知識人が関わるような雑誌について、それが厚い層をなすような購読者がいることが日本独自であるというのは実証的な議論があるようにも思えず、かなり早計な判断であるように思う。比較をしたことになっていないが、少なくともネットで調べた範囲内では、明確に日本のジャーナルの特殊性を認めるほど層の厚さがあるようには読めない。

 というのも、そもそも比較できる資料が新聞に比べ極端に少ないのではないかと思われるのである。国際比較の観点から言えばわずかに海外のwikipediaにまとめたデータが拾えたくらいであった。

“List of magazines by circulation”
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_magazines_by_circulation

少々ややこしいのは、ここで述べられている各国の発行部数の定義も異なっている可能性がある点である(日本では1号あたりの数字を集計するのが標準的らしいが、アメリカにおける数字は半年間の合計部数である可能性がある。
参考:「アメリカの雑誌 発行部数ランキング(2012年)【ABC(部数公査機構)】」http://10rank.blog.fc2.com/blog-entry-51.html)。


 また、こちらではアメリカの雑誌の総発行部数ベースでの数字の経年比較がされている。これもまた発行部数の定義がわからない。

「米雑誌業界の動向をグラフ化してみる(紙媒体編)(SNM2013版)」
http://www.garbagenews.net/archives/2046169.html

 また、上記サイトからわかる傾向として、アメリカのベストセラー雑誌は発行前に購入が約束された定期購読者の方が圧倒的に多く、店舗販売に重きを置いていると思われる日本とは異なる発行形態といえる。このため発行部数と実売部数の差がアメリカの方が有意に少ないことが想定される点も、実態把握を困難にしているように思える。
 いずれにせよ、このような実証的側面からの議論というのは、新聞の議論に留まっている印象が強く、ジャーナルそのものの議論まで至っているとは少し考えづらい。日本においてジャーナル知識人のような層が存在することは確かに事実のように思えるが、だからといってそれが欧米にない考え方だ、というのはかなり早計であるように思える。むしろ、敢えて上記の傾向のみから判断してしまえば、安定した購読者が見込める仕組みはむしろアメリカの方が確立されており、固定したジャーナル言説も形成されやすいのはアメリカの方ではないのか、とさえ思える。実際、国会図書館のデータベースを少し調べた限りでも、このような観点からのジャーナルの研究は確認できず、この点は「未確認」の領域なのではなかろうかと思う。


○「日本人論」における議論の範囲について
 この論点は、「本書で位置付けられている日本人論というのが、誰によって、誰を対象にして議論されているものを指すのか」という問いを立てることで更に説得力を増す。一般的に日本人が受容する日本人論というのは、素朴に考えれば「日本で語られる日本人論」であるように思えるのだが、本書で扱う日本人論は明らかにそれが妥当せず、強いていえば「世界で語られる日本人論」という目線で取り扱われているのである。
 実際、どこの基準での日本人論なのか、本書から読み取りづらい。P19-20の議論はどこでの言説なのかが読み取れない。p31-32を読めばアメリカ基準とも思われるが、p40やp44-45から読むと、おそらく「英語圏」における議論というのを念頭に入れていると思われる。共著者のロス・マオアが何人かにもよるだろう。
 海外で語られる日本人論と日本で語られる日本人論、相互に影響を受けているのは間違いないものの、語られる内容はやはり異なる。「ライジング・サン」で語られた日本人論も若干の違和感を感じたが、やはり何らかの「偏見」がそこに含まれているし、日本における日本人論もまた「社会問題」といった問題意識に支えられてその部分から海外との比較を欠くといった自体を生むことも多い。その意味では日本で語られる日本人論と、海外で語られる日本人論は一定の異なる性質を持ち合わせているようにも思える。これまでの考察の中では、日本で語られる日本人論はその時々の社会問題の影響も受けながら議論されることも多いように思えるが、欧米からはそのような関心(少なくとも日本の「社会問題」)から議論されることはほとんどないようにも思える。
 その意味で本書では二通りの態度がありえることを考慮しているとは言い難いが、両者の違いとして「同質同調論と分散対立論」の論じられ方の違いについて言及されている(p79-80)。つまり、欧米の論理では圧倒的に同質同調論(「すべての日本人は〜である」という論調)がなされているのに対し、日本の日本人論は相対的に言えばその傾向が弱いということである。しかし、本書の態度が日本と欧米を区別せずに議論している節もあるため、この指摘の意味するところはよくわからない。
 

 以上のように、本書の日本人論は確かに「複数性を無視しているこれまでの日本人論の批判」としては妥当するだろうが、本書自体がとる日本人論の立場もかなりあいまいであり、なおかつおかしな論点、従来の日本人論に対する誤解も多分に含んでいるという点でそのまま支持し難い面があるといってよいだろう。本書に限らず日本人論批判の著書においては、これまで私が読んだものについて限れば同じような誤解、もしくは想定する日本人論が著者の狭い目線の中でしか捉えられていない日本人論であるために、総論としての日本人論を捉える場合にこれが誤りであるという点が散見されるのである。
これは、これまでのレビューで取り上げた「日本人論は具体的な海外という『他者』を想定している」という誤解にも現われているといえる。これについては理論的には確かに正しい面もあるが、実際の日本人論として議論されている著書をしっかり読めば、ズレも認められるのであり、そのズレによって見落とされる論点も多分に出てくることになるのである。


○「日本人論」の時代区分について―日本人論の「特殊性」と「普遍性」について

 最後に日本人論における時代区分への言及(p59,p66)について触れておきたい。日本人論の時代区分については、他書では例えば青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などでも議論される(※3)。ただ、青木の論も基本的にほとんど杉本・マオアと同じ見方をしている。
 この時代区分に関して言えば、日本人自身の自己肯定観の有無と、海外から見た日本人の目線(と日本人が認識しているもの)の影響が大きく左右されていると見るべきだろう。P59のような見方はまさにそうで、基本的に日本人の自己肯定観と日本人論を特殊なものとしてみようとする観点は関連すると見ている。
 また、ここで押さえておくべきは、日本人論における「近代化」という見方である。これは土居の議論においても見受けられた「普遍化」の試みとも同じであるが、日本の発展について見ていった時にその原因が日本独自のものではなく、近代国家の段階を基本的にはなぞっているとみなすとき(日本はあくまで従来の先進国から遅れて近代化し、先進国と同じ道を進んで追いかけていく立場にあるとみるとき)、「近代化」という表現されるようである。本書でも1955-1970年の時期を近代化理論による説明がなされていた時期と捉えているが、これは例えばロナルド・ドーアの「後発効果」のようなものを想定したものと言ってよいだろう。青木保の著書では次のような説明もなされる。


公文俊平が指摘するように、七〇年代の日本研究は、それ以前の研究にみられた「西欧近代社会」を準拠点にすることを超えて、「近代化=西欧化」という視点を離れたところに、新たな領域の開拓を試みるようになった。「高度成長」による、経済大国としての世界における地位の向上とともに、繁栄の時代を迎えたこの時期の日本では、一層強く「日本人とは何なのか、その可能性は」という「アイデンティティー」を問う試みがなされるようになる。」(青木1990,p108-109)


 青木の認識もそれまでの近代化路線から日本独自の視点を加えるように研究が進んだのが70年代の傾向であったと言ってよいと思う。ある意味で土居の議論は基本的に「近代化論」の立場をとっていると言えたが、日本の独自性も強調しようとしていた点で、この70年代の議論のはしりと言うこともできるだろう。ただ、私自身はこの70年代の具体的言説について把握できている訳ではない。

 本書と青木(1990)の2冊の著書と私の見解を合わせて、この「普遍化―近代化/特殊化―日本化」という軸と、その時期の日本の状態に対する「肯定―否定」という軸で見た場合に、概ね次のような時代区分が可能になるだろう。


1.1930−1945年(特殊―肯定)
  戦時体制を背景にした徹底的な日本文化の肯定と欧米の否定
2.1945−1955年(特殊―否定)
  戦時体制の反動としての否定的言説
3.1955−1970年(普遍―中立)
  日本の高度成長体制に付随する言説
4.1970−1985年(特殊―肯定)
  世界的に評価された日本の特殊要因を探る言説
5.1985年―(普遍―否定)
  日本バッシングを端に発した批判と日本の体質改善の要求言説


 今後特に問題にしていきたいのはやはり5期である。そもそも5期の言説自体が日本人論的でないように見えるのは、すでにレビューで述べてきたが、「反省要因」としては確実に「日本人論」の語りが継続されており、その要素の改善を要求する言説になっているということなのだろうと思う。
 また、ここに6期目が存在するのかというのこと、又は日本人論という枠組み自体がすでに滅んでいるのではないのか、という見方も検討すべき課題だろう。このような動向についても今後追ってみたいと思う。



※1 本書において注目すべき実証内容として、ヴォーゲルライシャワー、中根、土居の四人の日本人論者の著書の、日本人としての性質の立証方法に注目した比較があるが(p161-163)、これについても、具体的にどのような基準で分析したのか見えづらい所がある。例えば、「自分の権威に依存した主張」とした内容について、中根のケースについてはわかるものの、土居のケースについては、どのような文章がこのような主張とみなされているのか、土居の著書を読んでもよくわからなかった。本書においてもその説明が全くなされていない。このような点からも、かなり中途半端な分析になってしまっているのが惜しい。

※2 筑紫哲也編「世界の日本人観」のように外国人による日本人論の著書のレビューだけで一冊の本になること、またレビューした中ではD.W.プラース「日本人の生き方」などもアメリカ人に対する内省を促す側面の強い著書であったなどからも、このことが言えるだろう。

※3 青木は戦後の日本論の区分として「否定的特殊性の認識」(1945-1954)、「歴史的相対性の認識」(1955-1963)、「肯定的特殊性の認識」(1964-1983、前期後期の区分あり)、「特殊性から普遍性へ」(1984-)という4つの区分を行っている(青木1990,p28)。



(読書ノート)
p12「力点の置き方に違いはあっても、これらの日本人論はいくつかの点で根本的には同じ内容の主張を繰り返してきた。
第一に、個人心理のレベルでは、日本人は自我の形成が弱い。独立した〝個″が確立していない。
第二に、人間関係のレベルでは、日本人は集団志向的である。自らの属する集団に自発的に献身する「グルーピズム」が、日本人同士のつながり方を特徴づける。
第三に、社会全体のレベルでは、コンセンサス・調和・統合といった原理が貫通している。だから社会内の安定度・団結度はきわめて高い。」
※後述する中根ら四人の日本人論を例示する。
P13「こうした日本人論が、姿を変え、形を変えて、日本の言論市場で花ざかりだ、ということ自体注目に値する。自分たちの国民性の特殊さを強調する書籍が、何百冊も出版され、何冊ものベストセラーが登場するという社会は、日本を除いて、おそらく世界に類がない。日本社会そのものがそれほど独特であるかどうかは別として、自らを絶えずユニークだと主張しているという意味でこそ、日本は文字どおり特異な社会ではあるまいか。」
※これも実証してほしいものだが。「オリエンタリズム」という言葉があるように、西洋と東洋を比較して論じた書籍こそ、枚挙にいとまがないようにも思うが…アメリカの抵抗文化の書籍にもそのような記述は山のようにある。

P19-20「年を追うごとに、日本の経済支配に伴う不平等や不公平が問題になりはじめている。一九五〇年代に「醜いアメリカ人」が軽蔑され、六〇年代には「醜いソ連人」が非難を浴びたように、七〇年代には「醜い日本人」が爼上にのぼった。「エコノミック・アニマル」の日本人は、尊大・傲慢・無遠慮で、金もうけの亡者として、全世界を闊歩している、というイメージが、次第に世界の言論の中に定着してきた。」
※これらはどこで、いかに語られたのか。
P25「しかも、大切なことは、日本から海外向けに紹介されている芸術は、ほとんどの日本人の日常生活から切り離された位置にあるということだ。にもかかわらず、特殊な一部の日本人によってたしなまれている古典芸術だけが外国用に輸出されるために、海外ではこうした芸術が、日本の大衆芸術だと誤解されている節がある。ところが、日本に輸入される芸術品目の圧倒的多数は、アメリカ製の流行歌、フォークソング、メロドラマのような大衆文化が中心だ。」

P36「このような文脈に中で、日本人は特殊独特な国民だと主張するいわゆる日本人論も、国際的に見た日本人の文化的幽閉状態に大きな役割を果たしている。このくびきから自由になるためには、日本の歌舞伎やオーストラリアのメルボルン・シンフォニーといったエリート文化の枠を越えて、民衆文化の出会いのチャンスを増やしていく道を採ることだ、と私たちは考える。そのためには、それぞれの社会の中であまり高級だとは思われていないが、生活者のホンネを代弁している面の強い大衆芸術の相互交換が、ひとつの道を開くのではないだろうか。」
※アクセスの可能性という意味で、ネット社会は確実にこれに寄与している。
P31-32「海外における日本のイメージは、戦後ほとんどアメリカから輩出した。アーサー・ウェイリージョージ・サンソム、ロナルド・ドーアなどの例外もあるが、ヨーロッパの日本研究が前面に登場して来たのは、おおむね一九七〇年代にはいってからのことである。七〇年前後までは、文献量から見ただけでも、アメリカがヨーロッパを圧倒していたし、アメリカ製の日本像が、今日でも、最も影響力を持っていることは、間違いない。」
※とはいうが、客観的な証拠は何も示されない。
P32-33「戦前のアメリカ人類学には二つの傾向が強かった。ひとつは、全体社会のレベルで「文化の型」を抽出することである。……もうひとつは、人間の可能性を発見するという関心が強かったことである。その結果、「西洋」が産業化の過程で失ったとされる過去の美しい伝統が、未開社会の中にいまも生きている、というロマンチックな憧れが研究の中に持ちこまれた。そのため、研究対象の社会の理想像と現実像が混乱するという事態が発生する。これらの傾向は、戦後のアメリカの日本研究を考える背景として重要である。
この伝統の中で、九州の農村について分析したジョン・エンブリーの『須恵村』が、一里塚を打ち立てた。しかし、海外での戦後の日本研究に、最も大きな影響をおよぼした本を一冊あげるとすれば、それは、何といっても、終戦直前に出たルース・ベネディクトの『菊と刀』である。」

P35「一方において、日本人は、優雅で丁寧で平和的な、菊をめでる国民である。しかし、他方では、残忍で乱暴で好戦的な、刀を振りまわす国民でもある。この一見矛盾する反対の傾向が、一国民の中にどのようにして同居しているのか、という問題をベネディクトは解こうとした。
日本人にとってはお互いに矛盾しないように見える二つの概念が、何故アメリカ人には対極的に矛盾して見えるのか、という問題は、それ自体おもしろい研究課題をふくんでいる。しかし、より重要な問題は、「菊文化」を持っている日本人と「刀文化」を持っている日本人とは、二組の別々のグループである可能性が、全く考えられていない点にある。……ここに「ひとまとめ主義」のひとつの行きづまりがある。」
※社会問題を捉える際にも、この見方は重要。
P37「もうひとつの流れは、原始的な郷悠という感情を根底に置いて日本を見直す、という立場である。すでに述べたように、このような見方は人類学一般の特徴とも関係があり、この潮流にある人たちは、欧米産業国が近代文明の発達の中で過去の牧歌的・田園的・自然的な何かを失った、と考える。こうした前近代へのノスタルジアを胸に日本を見つめるとき、そこには西洋が失った古い伝統が波打っているように思われるふしがある。」
※もうひとつの「西洋の日本観察者の」流れは、近代化論として、西洋優位を語るものだという(p36、ダグラス・ラミスやロジャー・パルヴァースの指摘として)。

P40「こういった長期展望に立つ解析を集大成しようとする試みが『日本の近代化についての研究シリーズ』全六巻に結晶した。このシリーズは、一九六〇年から七〇年にわたって、英語圏の屈指の日本研究者を動員してまとめられた。しかも、英語出版界では最も権威のあるとされるプリンストン大学出版会から出版されたせいもあって、このプリンストン・シリーズは今日の日本研究にもなお影響力を持っている。」
P42-43ウィリアム・モーレイの引用…「マルクス主義史観は『人間抜きの歴史』として非難をあびてきた。このような史観は日本人には受け入れにくい。日本にはあれこれと過ちもあった。しかし、日本にはあれこれと過ちもあった。しかし、日本は集団の責任・献身の美徳・因縁の意識が人びとの感受性を織りなす国である。そこでは、戦勝国マルクス・レーニン主義者態度よりも、もっと人道的な態度が深く要求されてきた。過去の間違った道程を否定するものではないが、敗戦の大きな溝に橋をかける人道的な歴史が望まれているのだ。このような人道性を発揮すれば、生き残った日本人は共に暮らしていくことが出来、未来の世代は祖先に愛と誇りと、少なくとも理解をもってふりかえることが出来る」
※これは「近代化論にとって、マルクス主義者の強調する日本社会の中の緊張・対立の実態とその意味するものを考えることが、日本研究の中心課題であることを指摘する。」ことに付け加えた議論で、何故か対立関係の分析を無視したコンセンサスを述べたものとしてその「大前提に対しては、ほとんど疑問をはさむことはなかった」と指摘する。

P44-45「この波に乗って、一連の日本のベスト・セラーが、一九六〇年代の後半から七〇年代の前半にかけて、続々と英語に翻訳される。……
この中で一番よく知られているのは、中根千枝の『タテ社会の人間関係』の英語版『ジャパニーズ・ソサエティ』、土居健郎の『「甘え」の構造』、石田雄の『ジャパニーズ・ソサエティ』、イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』などである。」
p45「このような日本人の日本人論が英訳ブームを迎えているのと時期を相前後して、ハーマン・カーンの「日本株式会社」説が登場する。この説によると、日本社会全体が大きな株式会社のようなもので、政府と大企業が重役会を取り仕切り、体臭は忠実にこの会社の従業員として働いている、というのである。カーンは二一世紀は日本の世紀であると予見し、日本独特の社会的な団結性・労使関係の安定・高度の貯蓄志向といった価値観が、日本の経済活動を世界一にする、と主張した。この分析は極めて静態的なものであり、日本人の価値観は過去・現在・未来を通じて全く変化しないものとして考えられている。」
p46「こうした考え方をさらに一歩進めて、それならば、欧米先進国も日本から何かの秘訣を学べるのではないか、という着想が、一九七〇年代にはいって発生した。
この視点を理論的に最も洗練された形で示したのは、ドーアの「逆収斂論」であった。この考え方の最大のポイントは、いままで考えられていたように、世界の国々が工業化と共に欧米社会に近づいていくのではなく、日本社会の型に発展していく可能性を示してみせたことである。」
※「英国の工業—日本の工場」(1973)ではイギリスが日本の方向に向かうのが望ましいとしている、という。

P46-47「同じ年(※1976年)に、ウィリアム・クリフォードは『日本における犯罪防止』を出版、経済の急成長にもかかわらず、日本社会は犯罪率を低く押さえることに成功したと強調した。警察・裁判所・監獄などが一般市民の協力をうまく獲ち得ていること、その成功の原因は日本特有のコンセンサス志向にあることなどを指摘して、日本が犯罪防止における最先進国であることを示唆した。これも、逆収斂説の一種である。」
※原題はCrime control in japan。
P49-50「そのすべてを分析することは時間が許さないが、日本人論が描く日本の自画像は、劣等感に影響されている時代と優越感に影響されている時代とがあり、この二つの間を時計のフリコのように揺れ動きてきたとはいえるだろう。このフリコの位置は、日本が国際情勢の中で占めてきた位置と関係している。」
P52「柳田は西洋の観念や法則を日本社会の分析に持ちこまず、常民の経験を資料とした叙述主義に徹した。そのことによって、彼の研究は今なお日本産の概念や理論を構築するための素材として生き生きした内容を持ちつづけているという面がある。しかし、その意識的な非論理性のゆえに、当時の皇国史観の中に、彼の実証研究が吸い上げられていく、という面も否定することはできない。」
※具体的にどうだったのかは見えてこない。

P55-56「このような潮流の中で、もう少しジャーナリスティックな次元では、「日本人野蛮人論」ともいうべき論説が力を得てくる。連合国占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーの「日本の精神年齢は一二歳の子供なみ」という実現は、この種の流れを象徴する警句であった。今日でもこの底流は生きている。経済や科学技術はとにかく、文化・意識・生活様式などの点で、欧米先進国より遅れている、という主張である。女性の地位が低い。学閥がある。総会屋が暗躍する。逮捕・起訴された元首相が選挙で当選し実力を手放さない。公私混同の社用族がいる。家元制度がある。記者クラブのメンバーには、特定の新聞社の記者しかなれない。これらはすべて、日本の半封建的・非民主的現実の実現である、ということになる。
このような論説の根底には、近代の西欧・北米社会で理想とされた個人主義・民主主義などを制定基準として、日本の現実を裁く、という方法が潜んでいる。このような見解は、いわゆる知米派とか国際通とか呼ばれる人たちによって展開され、日本の伝統の中で望ましくないと考えられる要素を批判する力となった。しかし同時に、このような人びとによって考えられる〝理想″の西洋には、〝現実″の西洋とは必ずしも合致しない面が多い。この二つの間の開きが大きくなると、彼らの日本分析の中に曇りが発生する。私たちはよく「アメリカではこうだのに、日本ではまだまだだ」というような言論が聞かされるが、アメリカで本当にそうなっているのかどうかについて、十分な根拠を持っていない場合が多い。」
※また、「日本人はすべて同一の傾向を持っているという前提」と「欧米社会をひとかたまりとして理念化する方式」は戦前のアプローチと似ているという(p56)。

P59「高度成長・所得倍増・海外進出といった日本経済の発展によって、一九六〇年代後半から、七〇年代にかけて、日本のエリートは自信と楽観を取りもどした。戦後長い間、「封建的日本」対「民主的西洋」という対比図に悩まされた論者にとっても、この時期の日本経済の発展状況は、目を見張るような新事実であった。したがって、その理論的な説明が急務となる。同時に、日本の「海外侵略」に対する批判も強まる。こうした非難をかわすための対応も必要となる。
 このような前後関係の中で、日本人論は一九三〇年代を思わせる日本特殊国民論に先祖返りする。日本教・新風土論・国民性の研究といった見出しであらわれてきた一連の出版物は、日本はユニークな社会だから、その研究には日本にだけあてはまる特殊概念を使う必要がある、という主張を前面に押し出してきた。この立場は、民主化論や近代化論が、「市民意識」とか「産業化」とか、どの社会の分析にも使えるはずの普通概念を中心にして展開されたのとは対照的である。」
p61「新国民性論の最大の理論的貢献は、一時代前の近代化輪に対して有効な反撃を加えた点にある。このことを過小評価しない方がいい。すでに述べたように、近代化論を定式化した試みとして、最も影響力のあったものに社会学者のタルコット・パーソンズのパターン変数がある。この枠組みによると、人びとの行動基準は〝前近代″から〝近代″にむかって移行し、個別主義から普遍主義へ、属人主義から実力主義へ、集団主義から個人主義へと変わっていく、という。
 新国民性論によると、日本社会はこの種のモデルにあてはまらない。パーソンズの図式とは逆に、日本は高度産業社会になっても、個別主義・属人主義・集団主義が根強く残っており、まだまだ普遍主義的・実力主義的・個人主義的な社会にはなりそうにない、というわけである。
 より広く、近代化論が前近代社会と近代社会の集団の特徴と考えている項目を対照表としてまとめたのが、表4・1である。近代化論によると、産業化の進行と共に、集団の傾向はこの表の左側から右側へ移行する。ところが、日本では、その移行が起こらなかった、だから近代化論そのものの中に間違いがあるのではないか、というわけである。」

p66日本社会独特説の時代ごとの価値観的底流のまとめ
※先進国として高い評価をした「国体文化理論」(1930-1945)、後進国として低い評価をした「民主化理論」(1935-1955)、後進国的側面を批判すると共に、先進国的側面を評価した「近代化理論」(1955-1970)、先進国として評価した「新国民性論」(1965-)の4区分。国体文化理論と新国民性論が特殊性を強調し、それ以外が普遍性を強調するという。

P69「戦後四〇年近くにわたる日本人論を鳥瞰してみると、海外でも国内でも共通して二つの傾向がきわだっている。
ひとつは、日本人のどの個人、どの集団、どの関係を取り出しても、全体に共通なパターンが普遍的に存在している、という考え方である。「日本人は一般に〇〇である」とか、「日本社会ではすべて××というふうになっている」とかいう叙述の根底には、日本社会が他の社会と比べて整合された単一体であり、その全体を貫く特性がある、という見方が前提となっている。」
※それこそ一般的には単一を明言しているかもしれないが、例外もあるのでは。理念型の議論を含めると少々乱暴な感がある。また、「日本だけ単一体」で語っている訳ではないのはすでに述べているが。
P70-71日本人の同質同調論の特徴
※基本的に集団主義の話になっている。「従来の日本人論の主流的考え方」とする。
P79-80「同質同調論と分散対立論の分布は、図5・1に示すように、非常に偏った形をしている。同質同調論は、西洋とくにアメリカの学界・ジャーナリズムをほとんど独占しており、日本でも支配的な流派である。これに対して、分散対立論は、海外では非常に少なく、日本では研究の数は多いが、日本人論の中で登場することはまれである。」
※これは立証が必要な案件である。

P95-96「ひとつは、個人のレベルで日本人が集団に献身的だという仮説をおし進めていくと、いわゆる「役割衝突」の問題にぶつかる。二つ以上の異なる役割の要求に応えるために、板ばさみになって進退きわまる状況がそれである。同調論によると、日本人一人ひとりは、まるでたったひとつの集団に属しているかのような図式が考えられているが、現実には、家族、会社、政党、趣味の会、社会運動集団、労働組合などいくつものグループにも所属している方が普通であろう。しかも、これらの異なる集団が同じ方向の要求をメンバーに課してくるとは限らない。」
P100-101「日本人は自分も属する企業、欧米人は自分の属する職業を基準として、自分や他人を分類する傾向が強い」ことの反論として行った高校生調査で「知人、故郷、親友といった情緒的なつながりについて、日本の高校生がアメリカの高校生よりもずっと低い評価を下している」ことがわかった。
※少しずれた論点もある。日本人論的には大学と同じように「一流企業」の名称によって区切るという論点と、職場の中での団結心が強いから会社別意識が強いという議論をここでは混同してしまっている。前者についてはそもそも高校生に聞いているため意味をなしていない。
P103「この表(※イロハかるたをもとにした格言の価値観のタイプ分類)を観察してみると、この民衆の格言集の中に最も強くあらわれている価値観は、経済合理性、反権力志向、忍耐にもとづき努力、自己技能の開発といった要素であり、権力への服従、自我の未発達、集団への情緒的没入といった日本人についてのステレオタイプからはほど遠い。」

P120-121「日本人論がなぜ日本で流行するのかを考えるさいに、日本には、アカデミズムとジャーナリズムの接点に、ジャーナリスティック・アカデミズムとでもいうべき領域が非常に広い幅で存在しているという状況をも無視することはできない。大学の教職にある人たちが、大衆消費用の原稿をマス・メディアに発表したり、テレビ番組に一種のタレントとして登場することが盛んだ。書店主や通訳、官僚や医者といったさまざまな背景の人たちが、いったんマスコミ用の執筆者となると、評論家という肩書きで、学問的な装いをもった論陣を張る、という風習もある。総合雑誌という半アカデミックな雑誌が何種類もあり、しかも相当の固定読者層を持っていることは、日本の読書界のひとつの特徴だといえる。
こうした構造があるために、いったんこのジャンルにいる人たちが、ひとつの説を吹聴すると、それは単に純学問上の論点としてとどまらない。すぐに何万、何十万、何百万という読者や聴視者の中へ飛びこんでいき、増幅増振されて、社会通念を形成する。日本人論の通説の根強さは、このような学界と媒体との相互依存の関係と無縁ではない。」
※これもあたかも日本独特の話と言いたげに見えるが、著者はそう思っていない可能性がある。結局、その文化の特徴の指標(ここでは分野の幅)が何を参照しているのかわからないからである。それは単なる主観かもしれないし、やはり外国の比較なのかもしれない。

P121-122「日本人論のほとんどが思いつきの連続で、確固とした学問的蓄積の上に組み立てられたものでないという実情の背景には、いろいろな要素がからまっている。日本の大学では、社会科学の方法論・方法・論理といった分野での訓練がほとんどなされない。外国の日本研究の学生たちの多くは、地域研究プログラムの中で勉強するため、日本語の勉強と日本についてのバラバラな事実を詰めこむだけに終わっている。このため、日本でも外国でも、ある権威者が日本についての一般抽象命題を提出すると、その命題を科学的な方法によってテストしてみようとするよりは、すぐに信用してしまうという傾向があらわれる。思いつきの上に思いつきを重ねて展開される日本人論をチェックする学問的勢力が、日本国内にも海外にも十分に育っていないのである。
一方、比較の対象となっている海外の社会については、大学よりも企業や政府の研究機関が詳細で最新のデータを握っているという事情がある。こうした団体の研究はどうしても政策立案第一主義になりがちだ。国策や企業の営利という点を中心にして構築される外国像がどのようなゆがみを持つかは、あらためて繰り返すまでもない。」
※実際のところ、メディアの受け手の態度については何も立証材料を提示していない。また、バラバラな事実しか拾えていないという見方も、方法論の欠陥と、その対処能力の欠如とみなせないのか??

P134「例えば、「日本的」という概念の中身は何だろう。あえて日本的という以上、他のどの社会にもない属性か、せめて日本において最も著しい傾向でなければ、その資格はない。ところが、目下流行の日本人論は、日本については詳しいのだが、比較の対象になっている外国社会については、情報も認識も薄っぺらだ、というのが実状である。」
※一見、この主張はもっともだが、実際はそうならない。「少なくとも日本にはこのような問題がある」という意味で用いることには問題があると言い難い。これはむしろルール要請として用いていくほかないだろう。しかも、本書自体にもその傾向がある。
P135「例えば、日本人は「親方日の丸」で権威に弱いとよくいわれるかと思うと、「半官びいき」で弱い、という説もある。このどちらが正しいのかは検証を要する。」

P149-150「もう少しこみいったやり方としては、語源法というべき方法が使われる。例えば、英語の文献でよく出て来るのは、「すみません」という表現である。この言い方はもとを正せば「あなたに対して無限の精神的な借りがあるのだが、これをいくら努力して返そうとしても、それでもう済んだということはない」という意味合いから出て来ているのだ、という。この表現を根拠にして、日本人は対人コンプレックスを持っており、この「すまない」という心に押されて、仕事にはげんだり、勉強に精出したりするのだ、といった種類の言説が登場する。「おかげさまで」という表現は、「あなたの保護・慈愛に感謝する」という意味で、この一言を見ても、いかに日本人が対人依存的かよくわかる……などという議論も、同じ傾向に属する。
しかし、言葉の語源がどの程度現代の使い手によって意識されているかそれ自体大問題であり、一足跳びに国民性の定義にまで発展させられる性質のものではない。だれでも知っている「グッドバイ」という英語は、語源をたどれば「神があなたと共にありますように」という意味である。だから、英語国民はすべて宗教的である、という議論は、いささか滑稽ではないだろうか。」
p152-153「第四に、とくに日本人の日本人論者に多い排他的実感主義が問題である。こういう人たちの間には、日本のことは日本人にしか解らない、という迷信を信じている人が多い。こうした解り方の根拠となるのは、彼ら自身の体験の量なのである。……
しかし、おもしろいことに、今日隆盛を極めている日本人論の筆者である日本人学者・ジャーナリストは「日本人のことは日本人にしかわからない」という前提に立つ一方、比較の対象となっている海外社会については「われわれは外国人ではないが外国のことはよくわかっている」という、明らかに矛盾するもうひとつの前提にも立っている。……
ある国家・社会・文化の正確な把握のためには、そこに生まれ育った人の直感だけがただひとつの頼りだ、という考え方は社会科学の基礎となる比較研究そのものを否定する独善主義の危険があるのではないだろうか。」
※以外とこの論点は俎上に乗る。以心伝心論をこじらせるとこうなるようである。その意味ではこの批判は論点がずれている。

☆P155-156「評論家やジャーナリストが、自らの印象を述べることは自由である。社会科学者も同じことをやればよい。ただし、社会科学者が社会科学者として発言するときには、その発言が、社会研究という自らの日々の営みの中に基礎を持っている必要がある。何となく、これこれこういう感じがするというだけでは十分ではない。その感じをきちんとした方法で調べてみるか、あるいはどうしたら調べられるかをはっきりさせておかなくてはならないだろう。……
パーパーバック用に書かれた日本人論は、大衆消費用のものだから、それを社会科学の方法論だの、実証の手続きだのといって批判するのはおかしいのではないか、という考え方もある。それぞれの学者の学術研究の方法論的基礎は、その学術出版を検討してみるべきだ、という説には一理ある。ところが、実際にそれぞれの筆者の学術書を調べてみると、そのほとんどは日本人論そのものとは無関係か、関係があっても方法論は明示されていないことが多い。
むしろ、日本人論者の中には、一種の相互引用の癖がある。論者Aの本を読んでいると、読者Bがこういっているから、というような論証が出て来る。そこで論者Bの本を見てみると、論者Aの言い分が好意的に紹介されているだけだ、というような循環構造があちこちにある。
物理学者がノーベル賞をもらったとたんに、日本人論の重要発言者になったり、数学の専門家が権威ある賞を受けただけで日本社会研究の専門家のような顔をして論陣を張るという場合もある。……日本社会についての素人談義が大研究の成果のように飾りたてられてまかり通ることができるのは、日本人論があまりにもその方法論的な裏づけについて無頓着であったことと無関係ではないだろう。」
※まさに学術的に重要な論点はこれに尽きる。結局「学者」という役割で生きる人間にはこの程度の要請はあってよいはずである。だが、実証的な指摘とは言い難いものも。

P161-163「この三つの表を詳しく観察してみると、少なくとも、つぎの点がはっきりする。
第一に、四著に提示された命題の大部分は、証拠やデータによって裏づけられることなく書き並べられている。このことは、因果関係や相関関係を示す理論的命題に関して、とくに顕著である。
第二に、証拠が提示されている場合でも、中根、土居が根拠として使っているのは、はっきりした基準にもとづくことなく、勝手気ままに選ばれた実例の類が圧倒的に多い。第九章に述べたように、逸話やエピソードに依存するエピソード主義、特殊な語句に依存するコトバ主義は、同質同調論の常套句な方法論と考えられるが、この傾向は日本人の筆者の場合、とくにきわだっている。一方、ヴォーゲルライシャワーの手法には、こうした傾向とは対照的に統計的データの駆使が目立つ。ただ、表の中にはハッキリとあらわれていないが、ヴォーゲルライシャワーは、いろいろなケース・スタディを引用して議論を進めることが多い。逸話にせよ、ケース・スタディにせよ、これらの情報が「日本社会全体」をどの程度代表しているか、という問題が残る。
第三に、比較の対象となる社会が明示されないまま命題が提出されがちである。四著共、単に何となく日本について書いているのか、それとも他の社会と比較して観察される日本の特徴を議論しているのか、はっきりしない場合が多い。」
※ところで、p162では証拠の累計分布なるもので各著者が根拠を示した場合に何をもって日本人論を展開するかの表がある。中根と土居においてはヴォーゲルライシャワーと異なり、「自分の権威に依存した主張」とカテゴライズされるものがある。杉本・マオアはこの点について特段説明していないが、実際に読んでみれば中根の場合、「筆者の考察によれば」(中根1967:p27-28)「筆者の立場からすれば」(同p32)「筆者の観点からすれば」(同p45)といった記述がされており、これのことを指しているのかと思われる。

☆P165-166「一般に、ある概念を定義するにあたって、その語がふくまない領域をはっきりさせることは、概念提出者の義務である。土居説の場合、「甘え」でない状態とは何なのかが、全く明確でない。「個人の自由」とか「個の独立した価値」とか「集団を超越した何ものかに対する所属感」とかいう語句が、「甘え」の反対の状態を示すらしく、具体的にはキリスト教的道徳に依拠した思考や行動を「甘え」の反対例として使っているところが多いのだが、そうかと思うと、ピューリタニズムも甘えたいのに甘えられない心理体制に根ざしているらしいという記述もある(『「甘え」の構造』一三三頁)。
問題は、「甘え」の意味する範囲が限定されないまま、はっきりした基準なしにあらゆる方向に拡大され、どんな状態でも「甘え」の発現形態である、とこじつけることが可能な議論構造になっているところにある。この意味で、「甘え」は無原則的全包括概念に他ならない。八掛を見る占い師がよく「あなたはかなり心配性である」とか「あなたは心の底では親切心の強い人だ」とかの性格占いをやることがある。こういう描写は、各語の定義があまりにも漠然としているので、その意味をどうにでも受けとることができ、占われる人がその気になれば、必ず的中する。」
※これは本書も似た傾向を示すことがある。そして、土居のケースはむしろ程度問題でしか議論できないものに極概念を付与している、という言い方がより適切な問題だろう。このような論法の問題は、結局何を改善すればよいのかという議論の際にも基準がないため、結果「何をやってもダメ」という結論になりかねない。

P169「中根の立論についていうと、ある所ではこういったかと思うと、別の所ではああいうというふうに、前後対立するのではないかと思われる命題が、あちこちに出てくる。
例えば、経営・管理職レベルほど企業間のヨコの移動がむずかしいという観察が展開される一方、大企業への経営陣への〝天下り″現象が取り上げられ、この二つの命題の関係がどうなっているのかは、あまり説明されていない。内部対立や反権力抗争についての長い議論があるかと思うと、日本人はそもそも服従心が強いという主張がくりひろげられ、この二つの矛盾するように見える傾向の間に、どういう関係があるのかは述べられていない。」
※同じような説明はこのあとも1ページ以上続いている。出典は中根「ジャパニーズ・ソサエティ」。原著において天下りの議論はどこにあるのかわからなかった…
p170-171「日本人の集団倫理はメンバー間の「和」を尊重することにあるという主張がなされる半面(※ママ)、集団の中で地位の低い人が、集団の外部で実力を認められ、評判が高くなると、集団の中にこの人に対するねたみや敵意が高まるという。だとすれば「和」はグループの全員に対して、常時公平に作動している一般的な倫理規範とはいえず、ある条件の下では「和」の尊重度はきわめて低くなる、とも考えられる。」

p173「つまり、土居に代表されるコトバ主義的日本人論の根底には、ある言語表象の存在・不存在が、それに符合する心理的属性の存在・不存在と相関するという前提が内蔵されているわけである。
この前提をうけいれるとすれば、まず「甘え」よりももっと頻繁に使用される語彙を考慮すべきではないか、という点が問題となる。土居は「甘え」という言葉が日本社会できわめて使用度の高い語であるといいながら、その根拠となるデータを一度も示していない。そもそも、「甘」という漢字そのものが教育漢字の中にはふくまれていない。さらに、日本の新聞にもっともよく出て来る漢熟語を調べた菊岡正著『日本の新聞熟語——頻度順最重要一千語——』にも「甘」という字は一度も出て来ない。」
p177「表10・5は、ヴォーゲルライシャワーの叙述・因果命題の基礎になっているサンプルのタイプを調べたものである。この表を見ると、両者とも「日本人すべて」とか「日本全体」について述べていることが多く、この点でも同質論的な傾向がはっきりしている。この傾向は、ライシャワーの方に特に著しい。」
※表は日本・日本人の他に、企業組織、大企業の社員といった表現で分類される。ここでの表現はあくまで「日本人は」という表現に留まるのではないか。必ずしも「全ての日本人は」とか「ほとんどの日本人は」という言い方であるとは考えづらい。

P177-178「一方、日本内部の部分的な観察対象ということになると、ヴォーゲルの論述は、政府機関や企業、特に大企業についての観察が中心である。つまり日本のエリート層の観察から日本全体の特徴づけが行なわれているのである。女性、ブルーカラー、逸脱者、少数民族など、日本の中の〝ナンバー・ツー″またはそれ以下の集団は、ほとんど視野にはいっていない。」
P184「私たちの主張は、同質同調論の理論的内容がすべてまちがっている、という点にあるのではない。私たちのいいたいことは、同質同調論がキチンとした方法論をもとに展開されていないために、その理論的内容が妥当性をもっているかどうかは未決の問題だということである。」

P211「しかしこういうことも考えられるのではあるまいか。日本人は非常に個人主義的で、自己利益が何であり、それを実現するのにどういう方法が有効か計算をしている。また、日本人の人間関係は、形式や書式の整備を根幹としていて、契約主義的である。さらに、日本の社会組織の成り立ちは、管理系統の明確なコントロール主義の傾向が強い。こういう現実があるからこそ、それを中和し隠蔽する機能を果す非現実的虚構が必要となる。その虚構は現実とは逆の特色、つまり集団主義、腹芸主義、コンセンサス主義などを唱和することによって、人びとを暗示にかける機能を負わされる。この種のフィクションの一葉式として、同質同調論的な日本人論があらわれた。」
※社会問題の議論をする場合、このさじ加減が崩壊していることが多い。
P251「学生運動の活動家も、ランダムに発生するのではない。一九六〇年代の大学闘争のころ書かれた鶴見和子の報告によると、いわゆる活動家や学生運動に関心のある学生は、親の仕送りの他に何らかのアルバイトをしている場合が半数近いのだが、無関心層の八割以上は親の仕送りだけを頼りに暮している。経済的な資源の背景が、政治的行動の確率を決める例である。」
※これも因果はどう読むべきか難しいが…

土居健郎「「甘え」の構造」第三版(1971=1991)

 今回、当初予定していなかった土居のレビューを行うことにした。杉本・マオア(1982)のレビューがなかなかまとまらないのもそうだが、日本人論の代表書の一冊と言われる本書を読んでみて、そもそも本書を日本人論の著書と位置付けるのが適切なのかどうかという疑問や、本書もまた社会問題に焦点をあてており、その捉え方も考察の必要性があるのではないか、と感じたため、それを整理してみることにした。

○「日本人論」とは何なのか?
 以前「『親方日の丸』の研究」の記事で、杉本・マオアの著書が「日本人論は欧米という『他者』を想定している」という前提を持っている点(※1)に疑問を付し、他者を想定せずとも自己言及的な議論が展開される可能性について指摘した。「親方日の丸」言説は民間という『他者』を想定しているようでいたが、それが批判ありきになり、その体制を改善することを前提にするため、自己言及的な言説も実際に散見されたのであった。 

 結論から言えば、杉本・マオアのような態度の取り方は理論的には正しいように思う。ただ、少し表現が正しくない。一つ例を挙げてみる。「日本人はこれまで欧米に追随的であり、個性を育てることを怠ってきた。グローバルな競争に打ち勝つには、今後はそのような個性を育てなければならない」というここ2、30年来あたりまえのように見かけるこの言説は、日本人論と位置付けられるものなのか?

 私個人の主観もあるように思うが、私はこれを「日本人論的」と思わなかった。少なくとも永らくそういう風に受容せずにこの言説を受け取ってきたと思う。確かにこの言説は日本人論で語られる「欧米との比較」を想定しながら、日本人の性質を語っている。しかし、他方で違和感を感じるのは、これを日本人論と呼ぶには、合わせてしばしば日本人論として語られる「性質の変わらなさ」、つまり文化的な影響などによってその日本人の性質は簡単に変えられないという特徴と噛み合わないのである。ここでは、「簡単に性質が変わるようなものというのは、日本人論として語る意義がない」という前提の上に感じる違和感を見出せるのである。要約すれば、「日本の特徴を見出すことより、その改善のための要求ありきの議論をしているような議論というのは、日本人論的と呼ぶのはふさわしくない」ということになる。
 そして、このような「改善要求を行う日本人論」というのは、突き詰めて考えると具体的な「他者」がいなくても議論可能なのである。問題の焦点は対外的な比較云々というよりも、現在の日本の性質のどこかが悪いということにあるのである。だからこそ、具体的な欧米という他者がなくても、理想像を提示し、それに近づけるようにしなければならない、という自己言及的な改善要求を行うことは問題がない(※2)。河合隼雄の議論などは、欧米の議論との対比を一見行っているようでいて、実際には実態が伴っておらず、実際はこの自己言及的な改善要求と行っていることが同じになっているといえる。
 
 つまり、理論的な意味で自己言及的な(「他者」を想定しない)議論に終始するような言説はそれ自体「改善要求」を基本的に含んでおり、欧米(他者)との比較を試みることを主眼においた日本人論と位置付けることには違和感がある。しかし、実態としての日本人論の展開においては、実質的に自己言及的な改善要求と同じことを行っているために、他者との比較という観点は疑似的なものにしかなっていないというのも事実ではなかろうかと思う。
 
 まとめると、日本人論として位置付けられる特徴として挙げられるものは、次のようなものであるといえるだろう。
1.日本(日本人)の特徴を捉え、その要因について検討すること(その特徴は簡単に変化しないことを前提にする)
2.他国(外国人)の特徴、その要因を捉えることで、日本人との違いについて指摘すること
3.改善要求を行っているもの(1の特徴と対峙することがある)


○「「甘え」の構造」は日本人論なのか?―土居の個人主義批判について
 以上を踏まえた上で、日本人論として「「甘え」の構造」を読んでみようとすると、極めて曖昧な議論を行っているという印象を受ける。要点だけ先に述べれば、

1.日本人論と呼ぶには海外の状況も同一視してしまっており、相対的な説明があるにせよ実質的には日本人の特徴を明確にするものとは言えないこと
2.改善要求を行っているものの、具体的に何を改善すればよいのか明言することなく、土居自身が改善を行うのか、行わないのかでダブル・バインドに陥っていること


 まず、1についてである。本書は確かに日本人の「甘え」の議論を、特に言語学的アプローチから性質を押さえたものであるとまず言うことができる。しかし、欧米についてどう考えているのか、という問いを立てた場合に、土居は「甘え」がないという言い方は全くしない。まずもって「西洋人の感謝の表現は一般にさっぱりしていて、後腐れがない。彼らは「サンキュー」といえばそれで「済む」ので、日本人のようにいつまでも「済まない」感情が残るわけではないからである。」と述べる(p101)。ここでは「恐縮」する態度があまりないという意味で述べられている。そして「恐縮」するというのは、「西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受身的愛を感じないように永年努めてきたのではなかろうか。」(p96)という形で「恥」と結びついているものであり(当然ベネディクトを連想している)、「相手にすまないと感じる場合は相手に対する甘えが温存されている」(p130)という形で「甘え」とも結びつける。これだけ読めば日本と西洋の違いははっきりしているように思う。

 しかし、よく読めば西洋が「甘え」に依存しない態度たらしめている「特別の精神的遺産」(p101)と土居が述べる「キリスト教」の精神について、自ら「場違い」(p101)だとか「専門外のことに言及して少し恐縮」(p106)するにもかかわらず、その精神を全否定してみせようとする態度を無視することはできないだろう。一言で述べれば、土居はこのキリスト教個人主義というのは、マルクスニーチェフロイトの主張によりすでに西洋で否定された思想である、と主張しているのである。 
 つまり、「個人の自由独立と見えるものは幻想に他ならない」(p103)のであり、「資本主義社会機構が必然的に人間を疎外することを説いたマルクスの鋭い分析も、キリスト教が奴隷道徳であると宣言したニーチェも、また無意識による精神生活の支配を説いたフロイドの精神分析も、すべてこの点(※自由が空虚なスローガンに過ぎなかったのではないかという反省)について西洋人の眼を覚まさせるものであった」と断じているのである(p107)。そして甘えとの関連で言えば、「近代の西洋人が甘えを否定しあるいは迂回してみたところで、それだけで甘えが乗り越えられるものではなく、ましていわんや死の誘惑が克服されたわけでもなかった」のであり(p108)、「彼ら(※西洋人)もまた甘えによって侵されていた証拠」であると述べ(p108)、しまいには「西洋人の自由(※本書では基本的にキリスト教個人主義と同義で述べている)についての観念も究極のところ日本人のそれとあまり変わらないものとなる」と日本との同一視を試みるのである(p107)。専門外であるというリスクを負ってまでわざわざこのような言及を行うのは、私には土居が「甘え」の普遍性を指摘したがっているようにしか見えず、それを日本の特徴と位置付ける見方が適切とは思えないのである。

 しかしながら、当然門外漢である土居の言い分が妥当なのかは議論せねばならない所だろう。その上で2.の論点もポイントになってくる。土居のこれらの主張においては、『西洋的な個人主義の思想をもってしても「甘え」を克服できなかった』という大きな主張が含まれている。まず確認しなければならないのは、「われわれはむしろこれから甘えを超克することにこそその目標をおかねばならぬのではなかろうか」(p93)というように甘えを克服せねばならない、という態度を土居ははっきりと述べている点である。いわば改善要求である。そして日本には「甘え」が実態として残存しているという主張を、土居自身の経験や精神分析周辺の見解、言語学的な「事実」や過去の日本人論の中から何重にも主張している所である。そして極めて厄介と感じるのは、この「甘え」の議論を戦争と結びつけている点である。これは結局日本の戦争放棄(「イデオロギーとしての天皇制の崩壊」)と同じように、実態としての「甘え」も克服しなければならない、という主張の強力な支えとなっている。


「これは要するに、日本人は甘えを理想化し、甘えの支配する世界を以て真に人間的な世界と考えたのであり、それを制度化したものこそ天皇制であったということができる。したがってまた明治以降やかましくなった国体護持の論議は、単に支配階級の政治的便宜のためにだけ発明されたものではなく、以上のべたごとき日本人の世界観を、外からの圧力に抗して保全したいという意図によっても裏打ちされていたと見なければなるまい。」(p64)
「現代はイデオロギーとしての天皇制が崩壊した時代である。そこでいわば無統制の甘えが世間に氾濫し、至るところに小天皇が発生している。しかし制度的なものが全く消失したわけではなく、また昨今は日本が経済大国として復興して来たためもあって、復古調が云々されているようでもある。」(p65)


 そもそも土居の関心が改善要求を行うために日本人論を展開していたものなのか、と問うた場合、本書を読むだけでは全く見えてこない。第一章の「「甘え」の着想」(p1-22)は、土居自身の「甘え」論に対する関心の推移を比較的丁寧に説明しているのであるが、これを読んでもやはりよくわからないのである。第一章を読む限り、一番最初の動機はむしろ素朴な土居の渡米時の「文化的な衝撃」(p1)を端に発し、西洋人との違いを見出すために「日本人論」を検討するために「甘え」が検討されるようになったのは明確であった。それはあくまで西洋人の態度の違いについて考察するためのもの以上のものではなかった。しかし、その関心が精神分析の業界に留まらず、大学闘争を主題に「現代の社会的問題をも同じ眼で見るようになってきた」(p19)段階ではすでに状況が変わり、この若者の問題の中に潜む「甘え」の問題を解決すべき問題として位置付けているのである。

 また合わせて、何をもってこの「甘え」の問題が解決されるのか、という改善要求の「到達点」についてもまるでわからない。これはそのまま土居が「キリスト教個人主義」に対してそれが無意味なものであると否定する態度の中にもはっきり含まれている。先述のように本書を読む限り、土居がキリスト教個人主義を否定する根拠は「個人の自由独立と見えるものは幻想に他ならない」という一文に集約され、そのような思想が「幻想だから」という一点に尽きるのである。しかし、「幻想であるから否定されるべきもの」だと言ってしまってよいものなのだろうか?すでに阿部謹也のレビューにおいてこのキリスト教的な個人主義について説明をした訳だが、その論理を援用すれば、この「幻想性」はあまりにもあたりまえである。何故なら、個人主義自体が「『神』との対峙を行うことによって『世間』から解放される過程」であるからであり、それ自体を(しばしば誤解されるように)完了するものとして捉えること自体が誤りであることもすでに指摘した通りである。神が実在しないのと同じように個人主義は実在しないと表明するのは極めて容易である。

 しかし、本当に個人主義の論点をそこに集約してしまってよいのだろうか?ここには「世間からの解放のプロセス」という側面に対する評価を全く無視しているのである。そして、これに関連して西洋人も「幻想であることを自覚することで個人主義を否定するようになった」旨の解釈を行ってきたと断定するのはあまりにも早計ではなかろうか(その「自覚」に至っているのかどうかもそもそも怪しい)。少なくとも、私自身は土居のこの断定について全くの誤りであると考える。ここに土居の改善要求の到達点に対する不当な思考を見ることができるのではなかろうか、と思うのである。
 つまり、土居が西洋個人主義についてこのように批判するのは、まさしく「甘え」に対する問題意識にとっては、「西洋個人主義以外の解を得なければならない」という主張を前提にせねば成り立たないのではないか、ということである。そして、このような態度自体に「甘え」の問題を超克しなければならないという態度を強く感じるのである。

○「改善要求」を行う日本人論の到達点の曖昧さと「社会問題の普遍化」の関連について
 この改善の到達点の曖昧さというのは、正直な所、土居の論法そのものの問題であると考える。それが、ダブル・バインドの要求なのである。ダブル・バインドとは相矛盾する2つの要求を命令する態度を取ること、より正しくは、受け手側をそのように縛り付けざるを得ない命令を意味する。例えば、本書の最後で述べるこの主張も典型的なダブル・バインドの要求である。


「実際今日のように、大人も子供もなく、男も女もなく、教養があるもないもなく、東洋も西洋もなく、要するにすべての差別が棚上げされて、皆一様に子供のごとく甘えているのは、たしかに人類的な退行現象といわねばならぬが、しかし将来の新しい文化を創造するためには必要なステップであるのかもしれない。個人の場合、創造行為に一種の退行現象が先行するのはよく知られた事実だからである。もっともこれは人類に未来があると前提した上での話である。しかしこの点は本当のところ誰にもわからない。したがってこの人類的退行現象死に至る病か、それとも新たな健康への前奏曲かという点について予言できるものは誰もいないのであろう。そしてこの予言できないということにこそわれわれが今日直面している事態の深刻さがあると考えられるのである。」(p205-206)


 この議論においてはダブル・バインドに典型的な「断言しているのに断言していない(と言い張る)」態度がはっきり出ている(※3)。土居の見解によれば、現代社会は幼児化しているのははっきりしており、これはネガティブな効果のものである。他方で土居の見解によれば、幼児化は新しい文化の創造性を備えたものであることもはっきりしており、これはポジティブな効果のものである。ここでは「相対的にみてどちらが勝っているのか」について問うていると解釈するのは最も妥当だろう。
 しかし、この相対性の問題はすでに土居の中で決着が着いていないと、このような物言いにはならない。というのも、「予言できない」状況について憂いている状況こそ、土居の態度がネガティブな方に偏っていることを明確にしているからである。もし本当にポジティブな効果が勝っている場合はむしろ土居の言う幼児化は喜ぶべき状況であり、問題視する必要性はどこにもなくなるはずである。
 もっともこの2つの要素の優劣の問題というよりも、大きな問題が起きる「可能性」があるからこそ、甘えの問題が深刻であるという解釈を行う余地がある。しかし、本書を全般的に見た場合に、p93で明言もしているように「甘え」を超克すべきであるという態度ははっきりしているし、だからこそ、「価値の重み」で判断し、「可能性」の議論をしている訳ではないという風に読まないと辻褄が合わないようにしか見えない。

 土居のこの論法に加担しているものについて考えた場合、まず想起すべきは、新堀の議論などにも見いだせた「社会問題の普遍化」である。土居のアプローチする精神分析の分野自体がそのような状況に陥る危険性が高いものとして捉えることも可能だろう。第一章で語られた土居が考える関心の推移からも見てとれたように、明らかに病理としての問題を普遍化しようとする意図が明確に見て取れてしまう。


「ところでこのように「気がすまない」という日常語が、いわゆる正常人にも病的な気がすまない強迫神経症に悩む者にも共通して使えるという事実は、日本人に強迫的傾向が偏在的であることを暗示しているのではなかろうか。」(p130-131)
「日本でもくやしさの感情自体は決して快いものではなく、しばしば病的状態に直結することがわかっているが、それにも拘らず、この感情を大事にするのは、結局このもとになる甘えに対して、日本人が肯定的な態度を持しているためであろう。」(p152)


 くやしさの議論については一応相対的なものとして捉えている言明もされる(p149)。ただ、「被害者心理」について言明する際にも、これを「日本人の心理に巣喰っている極めて日常的なものと考えられる」とし(p156)、正常者の被害者意識と「精神医学でいう被害妄想」は区別しつつも(p157)、「根本的には甘えの心理の病的変容として理解することが可能である」とする(p157)。ここで一見差異化しているようであって、すでに「甘え」について改善要求の程度が全く不明になっていること、そして西洋人も同じように甘えの原理を適用してしまっていると指摘したのと同じように、この相対的差異を述べることもあまり意味のないものになってしまっているように思える。異常者と正常者を区別する者が何なのか、土居のいう「甘え」からは何も説明できないのだが、何故か第四章では「「甘え」の病理」としてこのような対比を頻繁に行っているのである。一体何のためなのだろうか?実際にこれらの精神病理と「甘え」に関連性があるというのなら、素朴に「日本人は被害妄想や強迫神経症にかかりやすい」という命題が成り立つように思える。しかし土居はそんなことは全く述べないのである。結局これは西洋にも同じように見られるのであって、だからこそ「甘え」の原理の支配について、西洋人の場合にもあてはめたがっているのではないのか、とさえ思える。やはりこのような無理のある議論の仕方には、「社会問題の普遍化」という意識が強いからこのような議論をするのではないか、と思ってしまうのである。

 このことに対し、土居自身は次のように第四章を総括している。


「この章では精神病理ないし異常心理というコトバで総称される諸現象について、精神病・神経症その他もろもろの専門語を用いずに、平易な日常語によってその特徴を描き出すことが試みられ、そうすることによって、異常心理と日常心理とのつながりが暗示されている。この場合、両者をつなぐものこそ「甘え」概念に他ならないが、ここでいう「甘え」は情緒として体験される「甘え」ではなく、もし事情が許せば、情緒としての「甘え」を結実するであろうごとき無意識の欲求をさしているのである。」(「注釈「甘え」の構造」p123)


 これは、最大限土居の言い分を支持する解釈をとれば、「甘え」の特徴を浮き彫りにするために、このような結びつけを行っていると読む余地がある。つまり、土居は「社会問題の普遍化」を試みたというよりも、「甘えの普遍化」を試みてしまったことによっておかしな前提が出来上がってしまったのでないのかということである。おそらく土居の見方からすればその方が正しいのだろう。「現代社会の諸問題が「甘え」の問題に収斂する」(「注釈「甘え」の構造」(1993)p181)という表現は端的な「甘えの普遍化」の説明といえるだろう。しかし、これはこれまで私が述べてきた「社会問題の普遍化」とやっていることが全く変わらないのである。


○土居のいう「父性」について
 また、土居が甘えの問題解決を試みようとし、解決策らしく述べているようにも見える点として「父性」の要求も挙げられるだろう。土居は「現代社会の特徴は父がいないということであるということができるかもしれない」(p187)という。そしてここで言う「父」とはパーソンズのレビューで考察したような「シンボルとしての父」という意味ではなく、「このことは家庭のレベルでいえば、父親の影が薄いことに、したがってほとんど父親不在といってよい状態が今日ふつうになっている」(p187)というようにはっきりと実際の父親のことを指し議論している。父親の不在の議論のついて土居は「社会的な価値観を通常代表する父親も、家庭の中にあってはあまり対立することがないようである」(p186)、「彼らは両親から保護と愛情は受けていても、大人になることについてはなんら指導を受けていない。」(p177)と述べ、それは「今日の世代間の問題はもともとは古い世代の自信欠乏に発していると考えられる節がある」(p178)と述べる。このあたりはすでに石原慎太郎の「スパルタ教育」と同じような、価値が相対立しぶつかりあうことで初めて新しい価値を高めることができる、という見方と同じである(もっとも石原の場合は、父親自身による暴力行使は社会の普遍的価値観の表出する場合に限り、価値観の対峙の際の暴力行使とは形としては区別していたが)。古い価値観と新しい価値観による止揚を求める態度を土居の場合は明らかにとっている(cf.p186-187)。父性とはそのような「踏み台」として必要なものとして語られているように思える。そして、それが欠落している状態は「甘え」を助長しているものと解釈しているのである。
 しかし、問題なのはその表出すべき「古い価値観」そのものについて土居自身が何も示さないことそのものにあるのではないかとさえ私には思えてしまう。問題が本当に古い価値観の表出をする/しないにあると言うべきなのだろうか?大前提として何故「新しい価値観と対立する古い価値観の表明を大人一般が行わなければならない」のだろうか?その担い手は土居自身では駄目なのだろうか?ここで私が重要だと思うのは、土居自身が表明できない価値表明を他人に行わせることについての正当性である。この点、石原慎太郎の態度は評価に値するはずである。彼は「スパルタ教育」の著書の中で確かに(社会一般の価値観を代弁したつもりでいたのかもしれないが)自身の価値観を明確に示していた。何故土居はこの価値観そのものに問いを立てず、その手前の問題を語るだけで満足してしまっているのだろうか。父性の欠落が問題と言うのであれば、その父性について、当時の日本の状況に合わせて説明すべきなのではないのか。むしろそれが説明できない状況こそが問題なのではないのだろうか?
 これは価値の多様性こそが重要であると考えられている状況においては当たり前のように想定されるだろう。そのような状況において、古い価値観を表明しない大人の方こそむしろ「あたりまえ」であるように思う。それでも何故土居は古い価値観の表明に固執するのか。ここでもまた「社会問題の普遍化」への意識が先行している結果取られている態度にどうしても思えてしまうのである。
 実際、次のような議論を読むと、そのような態度がありえるのではないか、という疑念は当然であるように思える。


「すでにフェダーンも前記の書物において、現代において父と子のモチーフは著しい敗退を余儀なくされているが、しかしこれは人間性に深く根ざしたものであるが故に、全く父なき社会が現出することはあり得ないであろう、とのべているそうである。このことはまた最近の青年の反抗によってもある程度裏書されていると見ることができよう。なぜならそれは、先にのべたごとく、父親が弱いことに対する憤りであり、強い父親を待望する叫びであると解することができるからである。実際、中国の毛沢東が今日全世界の青年に或る種の魅力を保持しているのはこの心理の反映であるのかもしれない。」(p191-192)
「もっとも偉大な父というのは虚像で、中身は誰彼と変わりない弱い人間だと醒めた現代人ならばいうであろう。今日レーニンなり毛沢東なりが不死の存在に奉りあげられているとしても、それが根本において虚像であることに変りはない。この虚像が今日最も熱心に信じられている共産社会においてさえ、いつかはそれが崩れる日が来るにちがいない。しかしなぜ人類はかくも執拗に偉大な父を求めるのであろうか。この点について、フロイドの父親殺害説は非常に暗示的である。なぜならそれは父親を探し求める努力が父親殺害の記憶を払拭しようとする意図に発していることを暗示しているからである。すべての革命はこの人類的な主題の復習であると考えられる。所詮人類はこの主題から逃れることができない。」(p192-193)


 この引用において「青年の反抗」を部分的な青年の反抗と読めば、それほど違和感はないし、実際の学生運動の性質について考えても、そのような解釈の方が妥当ではないかと思う。しかし、土居においては、社会問題が普遍化しているため、矢継ぎ早に父の問題が普遍的な渇望としてあるものとみなされるのである。そして、何故かそれは解決不能な、「逃れることができない」問題に勝手に仕立て上げられているのである。ここでは明確に一般大衆が「父」を求めていないにも関わらず、「父を渇望している」という解釈を、「社会問題の普遍化」によって表現していることがわかる。また、この普遍性の説明を行うことによって、「何故『父性』が必要なのか」という問いを立てることも放棄しているのである。

 ここでも本書の最後の部分と同様、相対的な議論の取扱いを曲解していることが問題となっているといえるだろう。まず大前提として、「父性」の問題は必ず向き合わなければならないものとみなされている。これはジジェクのレビュー(「厄介なる主体」、より詳しい考察は「フロイト全集 第19巻」を参照)などでもみてきた「我々は主体的に動かなければならない」という無条件の要求と同じである。ジジェクの議論を介して私が認めたのは、この無条件要求は政治的主体として、文字通り自らを防衛するために「必要なもの」と見る限りにおいて認められるのであって、普遍的な要求とみなすこと自体は問題があるのではないのか、ということはこれまでも議論してきた点である。少なくとも、ジジェクが部分的にでも説明したように、ここには「何故主体的であり続けなければならないか」という問いへの応答が必要なのである。
 しかし、土居はフロイトの言葉を借りながらこれが必然的なものであるかのように述べているのである。


「たとえばフロイドが神経症の根元をなすと考えたエディプス複合は、見方を変えれば一種の世代間葛藤ということができる。この葛藤が発展的に解消されて、幼児が両親と精神的に同一化できた時は、彼らに正常な大人となる道が開かれたことになるが、これは勿論両親および彼らの代表する社会が健全であると仮定した場合のことである。ところで一見幼児が両親と同一化して正常の大人に成長したと見える場合も、そのかげに幼時の葛藤が生き続けると、それが神経症のもとになるといわれる。」(p175-176)


 この主張において、まず「正常な状態」について存在する状況について定義した上で、それと対比して「神経症」に至る状況について説明を加えている点である。
 そして、学生運動の議論を介して主張される社会問題について、土居はやはりそれが「幼児化」したものとして明確に位置づけている。このような態度はやはり常に「改善」を求める態度であるように思えてしまう。父性を持ち出し、しかも「無理やり」にでも父であることを強要する土居にとって、本来幼児性を持ち続けることは許されないはずだからである。
 
 
 そして、もう一点、土居がこの議論で「社会問題の普遍化」を行ってしまう理由が見受けられる。私の解釈では、価値観が多様であることに自覚的であるからこそ、ここで言う「父性」は行使困難なもの、もしくは不要なものとみなされるものと考えていたが、土居の場合、そのような態度自体が「疎外」されたものであると位置付けているのである。

「父親たちも内心では疎外感に悩み、現代文明の危機を肌で感じている。したがって子供を教育するどころではないのであろうが、しかしその彼らも社会の中ではその属する体制なり組織を防衛する立場におかれている。」(p186)


 私は「父性の欠落」という現象を価値の多様化の議論として、これをポジティブな感情として捉えたが、土居の場合、これがあくまでネガティブなものであり、結局現代文明の脅威への応答としてしか映らないのである。何故なら、現代文明は土居の望む「甘え」の結果獲得すべき「同一化」のプロセスを経ることができない(もしくは、極めて困難)からである。


「すなわち、現代文明の巨大かつ複雑な機構に接した場合、新しい世代は、未開人と同じく、ほとんど畏怖に近い感情を抱くのではなかろうか。殊に文明による環境破壊があらわになった今日ではなおさらのことである。彼らは現代文明を、自らも共有するはずの理性を造り出した産物として、それと同一化することができない。大体、現代文明の担い手たちは、その発達原理である理性の働きを自明のことと考え勝ち(※ママ)であるが、しかし実はそれ自体必ずしも自明のことではなかったのである。」(p183-184)


 このような認識こそ、「社会問題の普遍化」に寄与していると明言できる。このような脅威は「文明」の産物であるがゆえ、全ての者に降りかかる。そして、そのことによって社会問題が発生しているのであるから、それは部分的な人間の問題ではありえないのである。土居はこのような前提を平気で自明のものとしているからこそ、全てを同じように説明してしまうのである。これは日本人と西洋人の同一視にまで飛躍してしまっているのが、本書の特徴ではなかろうか。


○土居の議論におけるダブル・バインド要求について―まとめにかえて
 以上、これまでの議論において、本書にかけられているダブル・バインドについてまとめると、

「甘え」と日本人論との関連で言えば、
A 甘えは普遍的である
B 甘えは日本的である

「甘えの問題」に対する価値観については、
A 甘えは克服されなければならない問題を持つ
B 甘えは創造性の源であるから望ましいものである

「甘えの問題」に解があるかどうかについては、
A 甘えの問題は解決不能である
B 甘えの問題に取り組まなければならない

 といった形で二重に要求を与えていることがわかる。基本的にはAの価値に土居はコミットしているにも関わらず、Bの議論をタテマエとして並列し議論しているものとしてまとめることができるだろう。そして、本書を読む限り、土居自身もAとBではAに価値を与えているにも関わらず、Bが並列しているものとして受け入れている。このために随処で奇妙な主張を行うことになるのである。

 実際土居は、社会問題を捉えた第5章の要約を次のようにまとめている。


「ここでは現代社会の諸問題が「甘え」の問題に収斂することが指摘される。もっとも著者はなんでもかでも「甘え」で説明して得々としているのではない。また単に現代は甘えが充満しているといって嘆いているのでもない。現代はむしろ情緒として「甘え」を体験する機会は少なくなっており、その意味では甘えの欠如を云々することさえ可能かもしれない。しかしこのような事態は、甘えたい人間ばかりがふえて、甘えを受けとめる人間が極度にへってきたことが原因しているのであって、その点に読者の注意を促すことにこそ本章の主張が存したということができる。」(「注釈「甘え」の構造」(1993)p181)

 仮にこのような形で要約を行うことができる読者がいるのであれば、ぜひとも再度最後の2ページを読んでもらいたいものである。まず、「読者の注意を促す」行為があの扇動的なダブル・バインドの要求なのであれば、本書は極めて悪質な論述と言う他ない。しかも、一体何の注意を促しているのかわからないし、土居自身も明らかにわかっていないのであるから、その注意の対象が存在するとは考えづらい。むしろ、その不在が不在であることに無自覚であること、もしく不在であることの意味の検討にどこまでも無頓着であるからこそ、ここまで平気でダブル・バインドを使ってくるのではないのか。
 そして、「甘え」を体験する機会の減少とは一体どこで議論していたのか?土居は逆に世代の違う者同士が「甘え甘やかす関係」(p176)に溢れかえっていると述べていたではないか。これに関連して土居が述べていたのはあくまでも母子関係などに見られるような適切な「一体化」の欠如の議論だろう。それとも、「甘え」は甘えることによって「一体化」を実現し、克服されるものだと土居は本当に考えているのだろうか?この一体化はそのような次元に存在しない文明の問題として、疎外論的に困難なものとなっていることは、土居が述べていた点ではないのか?

 また、もう一点検討しなければならないのは、ここでいう「甘えを受けとめる人間」とは一体何者なのか、という点である。これは、本書でいう「父性」の議論を述べているのだろうか?しかし、父性を示すものとしての「古い世代の価値観の提示」が「甘えを受けとめる」ことと同義なのかはかなり疑問である。
 第五章では問いばかりを立てたまま、その解決策の筋道をほとんど示していないが、確かにこの「甘え」の問題を「父性」の問題として読めば、「世代間の問題はもともとは古い世代の自信欠乏に発している節がある。」とし(p187)、「父不在という精神的状況を超克するためには、父殺害の罪を認めて、それを以て新しい道徳の基礎とする他はないと考えられるのである。」と述べる(p193)ことから、「大人」の態度の問題であるとしているのは確かである。しかし他方で土居は古い世代もまた疎外という形で戸惑っていることを明確に述べている。そんな状況において「父殺害の罪を認め」ることなどできるのだろうか?土居が述べるとことを言いかえれば、古い世代は「父」がどこにいるのかさえよくわかっていないという状況であるし、当然のごとく「殺した」のかさえわからないまま、その価値観を守護する立場にあるものとみなされているのである。そのような状況にある人間に父殺害の罪を認めさせるという言葉自体が無意味である(罪を認める行為そのものが価値を表現していない以上、今までもわかっていない「価値」が突然現れることには決してならない)し、ここで「超克」などという都合のいい言葉を使っている点からも、何か問題を解決しようとする態度とはとても思えない。唯一ありえるのは「無価値であることを認める」ことだろうが、本書の論述から言えば、そのような価値は価値として認めていない以上、そのような解が想定されていると考えることもできない。
 土居はこの無価値から価値への飛躍について自覚することができていない。いや、正しくはある意味で土居自身が「古い価値」とは何かについて言及することができていない時点で、すでに認知はしているのではないかと思うのである。しかし、自らの「論法」そのもののおかしさに気付くことができていないから、このような議論を平気で行うことができるのではないのではないか、と思うのである。


 これは当然土居自身だけの問題ではないように思う。土居自身これまでの日本人論等にどっぷりとつかりつつ、自らの甘え論を展開しているのは明白であり、同じように、社会問題に対する語りも同じように「過去の議論をそのまま」使用しているといってもよいのだろう。日本人論、そして社会問題に対する改善を語るときの論法として、このような具体的な改善を要求しない、その意味で意味のない議論を展開するするようなものが存在しているのでないのか、と思うのである。
 ただ、土居の場合、その論法を集約し、一つの「論法」を典型的なものにまで位置付けたという可能性があるのではないかとも思うのである。これは、少なくとも「父性原理」と「母性原理」を用いて日本人の改善要求を行っているにも関わらず、やはり具体的な議論が不明であった河合隼雄には同じように引き継がれている点であると言ってよい。今後、このような論法の系譜がどのように展開されていったか、といった観点にも目を向けていく必要があるのではないか、と感じた。



※1 「例えば、「日本的」という概念の中身は何だろう。あえて日本的という以上、他のどの社会にもない属性か、せめて日本において最も著しい傾向でなければ、その資格はない。ところが、目下流行の日本人論は、日本については詳しいのだが、比較の対象になっている外国社会については、情報も認識も薄っぺらだ、というのが実状である。」(杉本良夫/ロス・マオア「日本人は「日本的」か」1982,p134)

※2 実際の議論では、すでに欧米等の他者が実証性を欠いた理想像として描かれているため、議論の構造は多くの場合「理想像の議論をしているのだが、具体的な欧米にそれを反映させている」ものとなっているといえるだろう。

※3 更に厄介なのは、この文言の読み方によっては(「この点は本当のところ誰にもわからない」という部分が文字通りの意味であるならば)「問いの解がないにも関わらず、問いに答えろ」というダブル・バインドを課しているとも言えるのである。ここには単純に「何故問いに答えなければならないのか」という問いに答えずに一方的に命令を加える態度が見てとれる。