ダニエル・H・フット「裁判と社会」(2006)

 今回は日本人論の検討の一環で、法社会学的アプローチをとるダニエル・フットの著書のレビューである。
 本書は、日本人論に対して一定の懐疑を持ちつつも、とりわけ『制度』の影響についての検討を、訴訟をめぐる分野から行っている。しかし、特に序盤で語られる日本人論の捉え方の問題指摘については、他の分野においても押さえておかなければならない論点が多く示されている(cf.p6,
ここでもまず議論の遡上に上がるのは川島武宜であり、「日本人の法意識」における議論は詳細に検討される。その際には実証的側面からの考察を第一にし、正しい指摘、誤った指摘の整理を行っている。特に問題なのは、やはり川島が「日米間の訴訟行動の違い」について専ら文化的差異を理由にしている点だろう(p23)。合わせて、アメリカにおいても裁判にまで発展した事件の割合はむしろ少ないという事実誤認(p36-37)も重要な指摘である。

 しかし他方で、フットは文化的影響が「ない」と言っている訳ではない。この態度が出てきた所在についてはいまいちはっきりしないが、肯定的に捉えるのであれば、分野によっては訴訟に発展する事例が日米であまりにも大きく違うような場合もあり、これを全て文化的要因以外の、制度等の要因で説明できると考えるのは現実的ではない、という意味合いからその可能性を認めているという節はある(cf.p86)。


○日本人論における「文化」と「制度」の影響の関係をどう考えるか?
 もっとも、厄介なのは、「文化」と「制度」について考える場合、これらが決して無関係ではないという点である。「文化」が「制度」を生んだのか、はたまた「制度」が「文化」を生んだのか、という議論の仕方がありえるからである。例えば、「終身雇用」の起源についてTaira(1970)は第一次大戦前後の産業の状況の影響を受けたため、「儒教観念」といった文化的影響とは別のルートを持ったものだ述べているそうだが(p110)、これもどれ位意味がある議論なのか、と問う必要があろう。P111でフットが指摘するように、起源論というよりはその定着において文化的影響を見ることも可能である。そして、これは「日本人論」を考える上で厄介な論点の一つである。
 この論点はすでに岩本由輝が「似非共同体論」を批判する際に前提にしていた共同体の捉え方にも現われていた。岩本においてもそれが「根源的」な意味での共同体を取り上げ、「似非共同体」はせいぜい江戸時代から活発に見られるようになった崩壊過程の共同体に過ぎない、と見ていた。ここで問題なのはそれが「根源的」である必要があったかどうかである。岩本はそれを共同体機能から見て、その共同体にいるだけで全てが充足できるという意味で「根源的」である必要があるし、そのような機能を持ったものしか「共同体」を語る資格はない、と見ていたのである。それでなければ、近代批判を行う「似非共同体論者」はその近代批判の意味を失ってしまうと見たのである。
 しかしこれはあくまで似非共同体者が近代批判をする場合にしか妥当にならない。言い直せば、近代批判として語らない共同体論というのは、別に根源的な部分のレベルの議論をする必要はないのではないか、というのが岩本のレビューにおける私の批判の論点であった。そして、これは日本人論についても同じように言えるのである。


 結局、日本人論の議論で素朴に想定しているのは、それが容易に変わらない性質を持つ点にあった。それは場合によっては脳科学の分野からほとんど遺伝子レベルで語られるようなケースもあった訳だが(角田忠信「日本人の脳」1978)、多くの場合は「文化」なり「社会」なりに規定された性質のものであるという点に特徴がある。そして、それが多くの場合、「ライジング・サン」がまさに典型であったように、伝統的なものとして引き継がれたものと考えられる。しかし、この日本人論を語る「目的」とは何か、を問われた場合にこそ、この伝統の意味合いも変わってくるのである。
 特に私が検討したい教育の分野に限れば、例えば河合隼雄の場合は日本の良いところは活かし、国際化の文脈で変えるべき所は変えようという意味で、(議論の正誤は置いておくにせよ)かなり良心的な日本人論となる。そしてこの場合の日本人論が示す伝統というのはほとんど重要な意味を持っていない。具体的にはそれがどの時期に発生したものなのかを問う必要はほとんどなく、あくまで現在の日本人を制約する要素であるという意味においてだけ重要なのである。つまり『その伝統がいつ発生したのか』、という論点はほとんど意味をなさないのである。私が思うに、大部分の日本人論はこのような素朴な伝統観により成り立っているのではないかと思う。だからこそ、Taira(1970)の言うような指摘はそれ自体としてはあまり重要であるとは言えないのである。

 しかし、問題なのは、この「日本人論」が文字通り一枚岩ではないという点である。私としては、これについて、日本人論を語る目的で分類を試みるのが有効ではないかと思うのだが、結局河合のような見方で日本人論を語る人間だけがいる訳ではない、ということである問題点である。日本人論の消費的側面を強調する論者もいるが(cf.ハルミ・ベフ「イデオロギーとしての日本文化論」1987=1997,P190)、そのように語られる日本人論はそれ自体で、つまり差異化の試みそのものを目的に持つ場合さえある。そしてそのような場合には「伝統」という側面が過去と連結される方が都合がよい。私がとりわけ疑念をもつのはこのような連結と、そのことによる日本人論の固定化の作業にある。
 このような状況においては、Tairaの議論なども無視され、容易に『伝統』という言葉だけで解釈されてしまう。そしてそのことは事実の捻じ曲げでしかない。ここで特に重要なのは、日本の状況を改善する、という場合に「伝統(ないし文化)」の改善と「制度」の改善では持っている意味が大きく異なるということである。「制度」は具体的に示された規則であるため、その制度を改めることはその分容易といえる。しかし、これを「伝統(ないし文化)」に還元しようという動きは、そのような改善自体の動きさえ阻害しかねないのである。


 フットが強調するのは、まさにこのような観点からの日本における「制度」の影響なのである。川島のような議論は文化的なものに日本的要素を還元しようとしている訳だが、それを批判し、そこに介在する「制度」の影響をフットは考察しているのである。やはり、そのような意味においても日本人論を語る上では、実証的な検証抜きに議論を行うべきではないということである。
 このような議論からフットの議論を読むのは、ごくごくわずかな見解しか得られないかもしれないが、しかし実証的研究という意味で非常に重要な指摘をいくつか行っていると言えるだろう。特に本書では「日本の裁判所が政策形成にあたり従属的な立場にある」という見方に対していくつか具体的な政策形成の効果(それは特に公法の分野ではなく、私法の分野において役割を果たしていること)を示している。


<読書ノート>
※邦書初出。
☆p6「「日本は」とか「日本人は」といったいわゆる「日本人論」は、「他の国と比べて、日本は特にこうである」という意味で通常使われるものである。もちろん、「他の国同様、日本は」や「他の国の国民同様、日本人は」、といったような議論も可能なのだが、通常の日本人論はそういう主張をめったにしない。日本と他の国との違いがないといった側面は、私にとって興味深くとも、一般読者にとってはちっとも面白くないらしく、ほとんどの場合、日本人論は、日本と他との相違点を強調する。こういった議論では、少なくとも暗黙の次元において、比較対象が当然に必要となる。しかし、その肝心な比較対象との関連で、多くの問題点が存在する。
第一の問題点として、必要であるはずの比較対象がそもそも存在しない場合が少なくない。それは、日本が特殊である、という潜在意識にとらわれて、他の国の現状を調べないで日本人論を唱える場合である。法の分野において、行政指導というテクニックは日本特有のものである、という「常識」はこの類型にあてはまるように思う。」
p12-13「すなわち、日本において、成文法のレベルまでだけを比較対象とすることは、比較研究の妥当な方法として法解釈学においては広く受け入れられているようである。それに対して合衆国の場合は、少なくとも判例のレベルまで調査しないと、比較法の研究として高く評価されないだろう。その違いは、法制度の基本的考え方に関連するようである。つまり、判例法の伝統の強い英米法の制度において、判例を調査するのは当然視されている。そして六〇年代以降、合衆国のロー・スクール教育において、法社会学、法と経済学、法と心理学等のような研究の台頭に代表されるように、法の実際の働きを重視する傾向が強くなったので、研究においてそのレベルまで目を向けるべきだと考えられるようになってきた。それに対して、大陸法の影響の強い日本では、成文法とそれに関する解説を中心とした研究であっても法律学としては十分評価されるのではないだろうか。」

p16「文化論への第三の反論は、制度的構造に焦点をあてる。この立場は、日本人の行動パターンが他国の人と異なる場合に、この差異が文化によるのだという短絡的な結論を導くのは必ずしも妥当ではなく、むしろ、それぞれの社会の制度的枠組みにまずは焦点をあてるべきだと論ずる。行動様式が異なる理由は、文化にではなく、こういった制度的、組織的側面に求められる場合もある。この制度の側からのアプローチの代表格としてしばしば挙げられるのが、日本法専門家でワシントン大学ロー・スクール教授のジョン・ヘイリーである。ヘイリーは、有名な論文「裁判嫌いの神話」の中で、日本の訴訟率の低さは、文化よりも、訴訟を起こすのにかかる費用や、裁判所による救済の貧弱さ、そして何よりも、弁護士や裁判所の数の少なさ、といった制度的要因からくるものだと論じた。これに続く研究は、ヘイリーの挙げた諸要因に加え、多くの法領域に影響を及ぼすさまざまな制度的側面に焦点をあてている。」
※邦訳として、「判例時報」902,907号に掲載されている。1978年。
P23「川島武宜が『日本人の法意識』一九六七年に著した直後から(あるいは、むしろ同様の主題を扱った一九六三年の英語の論文からか)、日本人の紛争行動をめぐっては論争が交わされてきた。日本においては、日本人が訴訟嫌いであり、その訴訟嫌いは他の国と比べても特有のもので、かつその訴訟嫌いが文化に根ざしており、それが和を重んじ対立を避ける日本人の性格の現れである、ということは「常識」とされてきた。しかし、この「常識」に対してはさまざまな反論が加えられ、一九七〇年代以降、大きな論争に発展してきた。」
P24「川島によれば、「わが国では一般に、私人間の紛争を訴訟によって解決することを、ためらい或いはきらうという傾向がある」(川島武宜『日本人の法意識』一二七頁)。川島は、日本人が訴訟を好まない理由として、弁護士費用が高くて、訴訟は時間がかかるということを挙げながら、そうした理由は「原因の一部であろうが、決して重要な決定的な要因(中略)とは考えられない」(同書一三七〜三八頁)とした。なぜなら、他の国でも同様にお金も時間もかかるにもかかわらず訴訟が多く、そして日本において、費用をさほど気にしないはずの大企業や公共団体でも訴訟を回避する傾向が強いからだという。」
※法曹人口の少なさにも川島は言及しているという(p25)

p29-30「しかし、訴訟率という限定された問題についていえば、日本の訴訟率は合衆国または西欧諸国に比べてはるかに低いという川島の結論は、その後の調査で正しいと証明されている。これまででもっとも厳密な訴訟関連統計の比較を行ったドイツの統計学者クリスチャン・ヴェールシュレーガーによれば、一九九〇年の段階で、日本の民事訴訟率は合衆国のアリゾナ州の一〇分の一に過ぎないとされる。興味深いことに、ヴェールシュレーガーは、イスラエル、ドイツ、スウェーデンといった国における訴訟率がさらに高いことを発見した。日本は、その反対の極に位置し、中国などと同じレベルにある。」
p32-33「合衆国の連邦議会は、一九二五年、仲裁法を制定し、仲裁に対する、裁判所による長年の否定的態度を克服しようとしたものの、その後も合衆国の裁判所は、仲裁合意に対する抵抗を続け、さまざまな根拠により仲裁事項の法的効力をしばしば否定した。しかし、一九七〇年代以降、合衆国の連邦最高裁判所は、それまでの仲裁に対する態度を大きく転換し、仲裁合意は、ごく限られた例外を除いて有効だとする立場を採用するようになった。これにともない、少なからぬ企業や組織の間で、契約雛形の中に仲裁事項をおくのが一般化してきた。」

p34「興味深いことに、日本のモデルーー川島が当初紹介したものであるーーは、合衆国のアプローチを転換させるにあたって一定の役割を果たした。一九七〇年代、ADR手続きを法廷するようになった際、日本での事例がかなり頻繁に参照された。日本の事例は、裁判所の負担を軽減し、より友好的に紛争解決を実現するといった、調停その他の非公式的な紛争解決手続きによって得られる効果の理想像として持ち上げられた。」
p36-37「訴訟として提起された事件の五〇%以上が和解で終結すると聞くと、多くの読者はこれを高いと感じることだろう。……しかし、川島が論文を世に問うた一九六〇年代でさえ、日本はこの点でことさらに変わった国だったわけではない。そして一九六〇年代以降の四〇年の間に状況はさらに変化し、今日、日本の和解率は合衆国に比べて高いどころか、むしろかなり低いのである。
……合衆国の連邦地方裁判所に提起された民事事件に関する統計によれば、一九六二年から一九六八年までの期間において、トライアルにまで至った事件はわずか一一〜一二%にとどまり、残りの大部分の事件は裁判所で和解に至るか、トライアル以前に取り下げられていた(日本と同様に、取り下げられた事件の多くは、裁判外で和解されたものと推定される)。さらに、トライアルに至った一一〜一二%のうちでも、かなりの数はトライアルの間に、判決を待たずに和解で終結していた。合衆国では連邦ではなくむしろ州の裁判所が大多数の国民の民事訴訟を扱い、州裁判所に関する包括的な統計は存在しない。州裁判所における和解率は、連邦裁判所におけるほど高くはなかったようだが、一九六〇年代においてさえ、七五%を超えていたと推定できる。」

p37「(※日本の2000年頃の)判決に至った事件の割合は、ちょうど五〇%前後である。これと対照的に、合衆国ではトライアルに至る民事事件の割合があまりに低下したので、ある著名な研究者はこれを「消えゆくトライアル」と呼んだ。二〇〇二年、合衆国の連邦地方裁判所に提起された民事訴訟のうち、トライアルに至ったのは、わずか一・八%に過ぎない。さらに、そのうちの一部は、トライアルの間に和解に至っている。州裁判所の統計は比較の対象としにくいが、トライアル率に関する統計を出している二二の州では、二〇〇二年に終結した民事事件の一五・八%しかトライアルに至っていない。」
p37-38「以上から考えられるひとつの解釈は、合衆国においては訴訟の提起が交渉過程でのひとつの段階に過ぎないのに対し、日本人は依然、人間関係の完全な破綻を意味する最終段階として訴訟を捉えている、ということである。しかし、先に示した和解率の統計は、その理由はともあれ、西洋においては訴訟が「all or nothing」あるいは「白黒をつける」といったイメージだとした川島の叙述と、真っ向から矛盾している。」

p39「一九七一年の統計(※日本文化会議「日本人の法意識」1971)は、やや訴訟を嫌う傾向を示しているが、著しい訴訟嫌いとまではいかない。ところが、一九七六年の統計では、違いはより鮮明になる。一九七六年には、「(※権利侵害のとき裁判所に訴えることを)すぐ考える」と選んだ回答者は一一・一%にとどまり、「たまに考えることもる」を選んだ二三・七%の回答者とあわせても、訴訟を考慮するだろうとした回答者はかろうじて三分の一を超えたに過ぎない。……したがって、一九七六年の調査結果は、日本人が訴訟嫌いだという見方を裏づけたといえる。」
※「これらの調査では、訴訟嫌いの原因が、主にこういった制度的な要因にあるのか、それとも協調を重んじ対立を避けようとする文化的背景によるのかは、明らかにならなかった。そして、これらの調査は日本だけに焦点をあてたため、日本人の訴訟に対する態度が日本独自ないし特有のものかという疑問にも答えは示されなかった。」(p40-41)
p43-45「つまり、これらの調査結果(※加藤雅信の3カ国比較調査)は、日本人は裁判所に訴えずに紛争を解決することを好むけれども、個人的に近しい関係にある人との紛争ではない限り、訴訟を嫌っているわけではないことを示している。このようにみてみると、日本人の「訴訟嫌い」というイメージは、これらの調査結果からは支持できないことになる。」
※これは裁判所に訴えるべきかどうかについて、望ましいと答えたものの方が大きいことを根拠にする(絶対的指標)であり、他国と比較する相対的な議論ではない。「しかしこういった中でひとつ一般化できるとすれば、三つの国いずれにおいても、回答者は全般的に、訴訟よりそれに代わる紛争処理の方が望ましいと答えていたことである。」(p45)

p48「この小説(※ジェーン・ハミルトン「マップ・オブ・ザ・ワールド」)はフィクションに過ぎないけれども、アメリカ人の読者の心に深く響いた。そしてそれは、訴訟は友人同士の争いを解決する手段としては適切ではない、という合衆国における根深い考え方——この考え方は、先に論じた調査結果からもうかがえるーーを的確に捉えている、と私は言いたい。こういった感覚は、住民同士が緊密な関係をもつ合衆国のある地域社会で行われた、有名な実証研究でも示されている。」
※実証研究はRobert C. Ellickson,order without law(1991)などを参照している。
P50「最近まで、合衆国の法制度において謝罪はほとんど肯定的評価を受けてこなかった。それどころか、不法行為および刑事法のいずれの分野でも、謝罪は責任を自ら認めたものとみなされることもあったのである。こういった理由で、弁護士はこれまで依頼人に対し、少なくとも責任問題が決着するまでは謝罪をするな、と助言してきた。そして保険会社も「事故の際には、こちらの落ち度を認めたり謝罪したりしてはならない」という文言の入った書面を配るのが常だった。」
※しかし、近年においては謝罪を含めた「修復的司法プログラム」が「いまだ一般的ではないにしても、合衆国において一定の進展をみせてきた」という(p50-51)。

P51-52「最近は、謝罪のもつ役割について、法律学者の間でも、合衆国のマスメディアでも、しばしば取り上げられるようになった。そういった文献には、日本が折に触れて登場する。これから分かるように、調停や和解と同様、謝罪に関しても、日本が合衆国の基準に近づいているのではなく、合衆国が日本に近づいているのである。」
P53「訴訟率に影響を与える重要な制度的要因として、ヘイリーは、訴訟制度の機能に関して、情報、裁判へのアクセス、救済の三大論点を挙げた上で、訴訟への代替手段の存在にも触れた。」
※出典は「裁判嫌いの神話」

p86「合衆国での事件数の詳細はどうであれ、日本の製造物責任訴訟の数は、比較にならないほど少ない。一九四五年から製造物責任法が施行された一九九五年までに、日本で提起された製造物責任事件は、合計二〇〇件にも過ぎないと伝えられている。同法の施行を受けて、事件数は増加したものの、微増にとどまっている。施行から一〇年の間で、約七〇件の訴訟が提起されている。つまり、一年あたり七件だけである。
日本の訴訟件数がこれほどまでの隔たりがある理由は、制度的要因だけでは説明がつかないかもしれない。しかし日本では数多く制度的要因が訴訟の阻害要因になっているのに対し、合衆国では複数の制度的要因により訴訟が促進されている。」
p87「合衆国での調査によれば、一九七〇年から八〇年代にかけて製造物責任訴訟の件数が急増したことの大きな原因は、一九六〇年代から七〇年代にかけて責任の認定基準が大きく拡張されたことにあるとされている。そこでは、過失原則は無過失原則へと転換され、設計上の欠陥や警告不備に対する賠償責任も認められた。また別の調査によれば、一九八〇年後半以降、製造物責任訴訟の要件がやや厳格に振れたのに伴い、製造物責任訴訟の件数がやや減少したとされる。こういった調査結果は驚くにあたらないだろう。日本では、一九九五年までの不法行為法のもとでは、原告が製造者側の過失を立証しなければならず、それが訴訟への大きな障害となっていた。一九九五年に施行された製造物責任法は、文言上は合衆国と同様に無過失責任を採用するかにみえたが、日本で採用された「無過失責任」は、消費者よりの合衆国と比べて、かなり制限的な基準だった。たとえば、日本の製造物責任法はいわゆる最高の技術水準の抗弁を認め、「製造業者等が引き渡した時における科学又は技術に関する知見によっては、(中略)その欠陥があることを認識することができなかった」場合には、賠償責任を免除している。」

p90「このように、製造物責任の分野では、交通事故や公害の分野とは異なる制度的諸要素が作用しているものの、ここでもやはり、制度的要因が訴訟を阻害しているといえる。ここでもまた、こういった制度的要因が、究極的には日本的文化の反映に過ぎないのではないか、という疑問が生ずる。製造物責任の分野では、答えはかなり明らかなように思われる。法制度が制約的であるもっとも大きな理由は、消費者の利益を促進するような法制度の実現に対する製造業界の抵抗である。製造物責任法が提案されたのはかなり早く、一九七五年のことだったものの(注目すべきことに、法案の段階では広範な証拠収集手続が盛り込まれていた)、自民党が政権を維持している間は、製造業界の反対で法案は通らなかった。製造物責任法が現実のものとなったのは、細川護煕首相のもとで自民党の一党支配が揺らいだ一九九四年のことであった。
しかし産業界による製造物責任法への反対論は、制度と文化の両面からの議論で固められていた。産業界は、制度面の議論において、日本では製造業者への規制がより厳しいため、製造物の欠陥から生ずる危険が合衆国よりも少ない、とする立場をとった。文化面の議論において産業界は、合衆国は「非難の社会」であって、そこでは自分に降りかかった災難をすべて他人に責任転嫁する個人主義がまかり通っており、こういった欠点のために経済の競争力が損なわれていると主張した。」
※製造業界の反対とは、具体的に何なのか?参照文献もなく、根拠に乏しいように思えるが。なお、このような言い分はアメリカにあったといい、これには参照がある。なお、この分野で訴訟が少ない制度的要因として、クラス・アクションの制度と、懲罰的賠償の制度とみる(p94-95)。

P97-98「日本でも、雇用差別や性的嫌がらせに関する保護は拡大されているが、合衆国と比べると、これらの主張に対して認められる権利や救済はまだ限られている。しかし解雇の局面では、対照的に日本の従業員は合衆国と比べてずっと手厚い保護を受けてきた。にもかかわらず、日本における雇用関係の訴訟の数は、雇用差別のみならず解雇の事件でも、合衆国やその他の国と比べてずっと少ない。雇用の分野では、日本の訴訟率の低さは文化とは無関係だと言い切ることは難しいだろう。この分野ではむしろ、文化は訴訟に対する態度について重要な役割を担っている。しかしここでさえも、日本の法制度や雇用のありかたといった制度的要因の重要性を見過ごしてはならない。」
P100-101「このように、日本では合衆国に比べ、雇用差別や性的嫌がらせに対する権利は弱いものの、解雇に対する法的保護は概して手厚い。しかしこれだけ手厚い法的保護が与えられているにもかかわらず、日本の訴訟率は、雇用差別と不当雇用とを問わずかなり低い。事実、日本での雇用関連の訴訟は、合衆国のみならず、ドイツ、イギリス、フランスといった国と比べても低いのである。
読者は、少なくとも雇用の場面に関しては、日本の訴訟率が低いことの理由は文化にあると思うに違いない。なにしろ雇用は、日本人が特に訴訟を嫌がるはずの緊密な人間関係を伴うのだ。私も、雇用に関する紛争解決において、文化が重要な要因だということに異議を唱えるつもりはない。しかし、訴訟率が低いことの原因を文化だけに求めようとすれば、それは誤りだろう。ここでも、日本で訴訟は低い件数にとどまり、他の国で多くの訴訟が起こされている現実には、法制度といった制度的要因が直接的に作用している。さらに特記すべきことには、雇用の基本構造という制度的諸要因も、訴訟における費用対効果分析に大きな影響を与えるとともに、雇用関連の紛争に対する態度といった文化的前提を形成するにあたって、間接的ではあるが重要な役割を果たしている。」

p105-106「二〇〇一年に紛争処理制度が新設されて以来、個別労働紛争に関する問い合わせや、指導や調停の要請の件数は大きく増えたものの、同じ時期に訴訟件数はほとんど増えていない。川島の解釈に従えば、これは、インフォーマルな手続きを好み、訴訟を嫌がるという強い性向を示していることになろう。
近年の司法制度改革審議会と、これを受けた労働検討会では、個別労働関係紛争において訴訟の利用が少ないことに対し、川島とは別の解釈が示された。それは、訴訟の制度的障害である。……改革審は意見書の中で「ヨーロッパ諸国では、(中略)労働関係事件についていわゆる労働参審制を含む特別の紛争解決手続を採用しており、実際に相当の機能を果たしている」として、日本も労働関係紛争の解決にため諸外国の制度モデルを参照すべきことを示唆した。この示唆には、労働者による申立てを促進することも含まれているともいえるかもしれない。」
※制度の検討委員会が制度論的アプローチをとるのはあたりまえだが。
P107司法制度改革推進本部、労働検討会の検討課題…「このように民事紛争システムが、労働紛争処理において限定的役割しか果たしてこなかったのは、大部分の労働関係紛争が長期的雇用システムを基盤とする企業共同体の緊密な人間関係の中で非公式に防止・解決されてきたこと、(中略)労働基準監督署が(中略)行政指導によって事実上の解決を図ってきたこと、他方、裁判所は、弁護士の少なさ、手続きの厳格さ、審理期間の長さなどによって労働者からはアクセスが困難な紛争処理機関であったこと等によると考えられる。」

P110「日本の訴訟率の低さは、少なくともこの文脈(※緊密な人間関係のある職場を訴えること)では、文化的要因によると言いたくなるだろう。なんといっても、日本の長期的雇用制度—これはしばしば終身雇用制と呼ばれるーーは日本文化の産物で、日本の歴史や伝統に深く根ざしている、というのは一般に常識とされている。しかしここでも、文化と制度との関連性は意外と微妙である。長期的雇用制度の起源についての詳細な研究によれば、この制度は第一次世界大戦前後、高い転職率と企業への忠誠心の低さに対処すべく、産業界が意図的かつ戦略的に導入したものである。当時、鉄鋼や造船といった主要産業は、労働者がより多くの収入とよりよい労働条件を求めて転職していくため、毎年五〇%もの熟練労働力を失っていたこういった動きを封ずるため、産業界は、先任順に昇給を認めたり、長期間勤めた従業員に対し手厚い退職金を与えたりするなどのインセンティヴを与えるようになった。その後まもなく、経営者らは、長期の雇用関係を相互義務といった儒教観念と結びつけ、イデオロギー的に正当化するようになった。しかしこの「伝統」の出発点は、転職率の高い熟練職をターゲットにした斬新な戦略であり、雇用者側の経済的合理性に基づいた選択にほかならなかった。」
※「集団主義の産物」という見方ではない。Koji Taira,Economic Development and the Labor Market in Japan(1970)研究を指す。
P111「長期的雇用がすばやく広まり、広く受けいれられたのは、それが歴史的文化的ありようとうまく結び付けられたからかもしれない。そして、バブル経済崩壊以降の何年にもわたる深刻な経済的苦境ににもかかわらず、長期的雇用制度が強く生き残ったのは、この制度が深く日本文化に根ざしているという常識の強さを示す部分もあるかもしれない。実際、長期的雇用制度が文化的産物だとする一般的な見方は今日では実に根強く、労使間の相互義務という観念はもはや「日本文化」の一側面とみなすべきかもしれない。しかし、詳しく調べてみると、この文化の一側面でさえ、産業界のエリートがーーほぼ一世紀前にーー創りあげたものの上に成り立っているのである。起源がいかなるものであれ、長期的雇用制度が日本社会に深く根を下ろした以上、この労働構造は労働事件で訴訟を提起する際には、大きな制度的障害となっている。」
※文化論の根源論的解釈そのものに困難さがある…

p116「多くの人身損害事件において重要な意味合いをもつもうひとつの社会制度は、医療制度である。日本の国民皆保険制度は、ほとんどすべての人に安価な医療を提供することによって、合衆国であれば訴訟に発展するような人身損害事件の多くを、訴訟に至る前に終結させるのに役立っている。というのも、合衆国では、医療保険に加入していない人は人口の一五%を超え、大きな怪我までカバーする保険をかけていない人はさらに多いからである」
※この部分は、本文ではカッコ内表記。
☆P116-117「私は、文化的要素が重要でないと言おうとしているのではない。いうまでもなく、日本と合衆国の間には、大きな文化や伝統の違いがある。そして、こういった違いは法や訴訟に対する態度に影響を与える。ここまでの事例で注目した文化や伝統の違いの中には、たとえば、日本における平等な取り扱いの強調と、雇用の伝統の相違などがある。訴訟率にそれ自体直接関係するわけではないが、憲法訴訟や行政訴訟において大きな意味をもつ文化的差異として、権威に対する信頼度がある。日本では、公務員に比較的大きな信頼が寄せられているのに対し、合衆国には政府の権威に対するかなりの懐疑の精神がある。こういった態度の裏には、いずれの国においても、長い歴史と根強い伝統がある。
しかし、文化や伝統の違いは往々にしてしばしば大げさに喧伝され、とりわけ訴訟や法意識に及ぼす影響は、しばしば誇張されている。しばしば誇張される固定観念として、日本人が和を重視するという美徳、日本人が調停などの対立的でない紛争解決を好むということ、さらに日本文化における謝罪の重み、といったものがある。ここまでの議論から分かるように、こういった態度の違いは、日米において程度の差はあっても、決して日本特有というわけではない。」
※ただし、日本でも時系列でみれば悪化しているという見方もありえるか。

P123「むしろ行動様式の違いは、文化によるものではなく、制度的・構造的要因の影響によるところが大きい。さらに、訴訟の事例でみたように、合衆国でも、より緊密な地域社会の事例では、日本の常識ととてもよく似た側面が明らかになった。」
P124川島(1967)p98-99からの引用…「アメリカ人は法律、規則、約束をよく守り、またよくそれを利用する国民である。(中略)日本人が人の約束する場合には約束そのものよりも、そういう約束をする親切友情がむしろ大切なのであ〔る。〕(中略)彼ら〔アメリカ人〕にとっては、約束と友情とははっきり別のものだ」
P135-136「少なくとも友人間の場合、「契約社会・合衆国」のイメージとは裏腹に、アメリカ人回答者のうちで、借用書を取るほうが望ましいとしたのは、半分を大きく下回り、一五%を超えるアメリカ人——何と日本人の五倍以上——が、絶対に受け取らないと回答している。私自身の経験では、こういった調査結果は、まったく驚くべきことではなく、実際の行動様式と大きく食い違うことはないように思われる。川島は合衆国社会を「約束と友情とははっきり別のものだ」とする社会だと表現したけれども、少なくとも友人関係では、アメリカ人は、借用証などの書面なしに、握手の信頼関係でお金の貸し借りをすることが多い。」
※出典は加藤雅信らの調査。

P167「合衆国の歴代最高裁判官一一〇人の中で、三九人は二〇年以上勤めたし、そのうち一四人は三〇年を超えている。そして一一〇人中、七四人——約七割——が一〇年以上勤めた。」
P168「さらに、連邦最高裁判所は毎年多数の上訴の申立て受けるが、ほぼ完全な裁量によってどの事件を審査するか選ぶことができる上に実際にも審査する事件を厳しく絞り込んでいる。二〇〇〇年から二〇〇四年の期間をとると、最高裁判所は毎年約九〇〇〇件の上訴の申立てを受けたけれども、実際に審査したのは一年あたり八〇から一〇〇件程度にすぎない。……
こういった制度上の特徴により、裁判官は一連の判決の中で判例法を発展させていく機会に恵まれる。」
※裁判官は9名だが大法廷・小法廷のような制度はないようである。」
p171「二〇〇六年現在、ブッシュ大統領はこれまでの五年半の任期の間に、拒否権は一度しか行使していないが、法律の明確な趣旨の一部ないし全部に応じないことを表明したサイニング・ステートメントを七五〇回以上付した、といわれる。もっとも顕著な例のひとつは、連邦政府の官吏が被収監人に対して残虐、非人道的または侮辱的な取扱いを禁じた法律改正に対し、ブッシュ大統領の付したサイニング・ステートメントである(大統領はその中で、軍の最高司令官たる大統領として、テロ攻撃を防止する必要があれば、この要件を放棄する可能性があると述べた)。」

p177-178「日本の裁判所はキャリアシステムをとっているため、裁判官は、司法行政に関する最高裁判所事務総局内のさまざまなポストを含め、幅広い職務を裁判所内で経験する。しかし、法務省などの政府機関に派遣される少数の裁判官を除けば、裁判所の外で幅広い政策形成に触れたり、直接政策形成に関与したりする裁判官は少ない。そして裁判所の外での多彩な経験が、合衆国の裁判所による政策形成を支えている要因のひとつである、という私の仮説が妥当ならば、逆に日本において、そうした経験の少なさが消極的な態度をとる制度的要因のひとつといえるであろう。」
p178-179「最高裁判所の一五人のポストのうち、約三分の一が裁判所から、もう三分の一が弁護士から、そして時期によって検察出身が一〜二人、官僚出身が一〜二人(多くは元外交官か内閣法制局長)、一人が学者、という内訳である。内訳が常に一定であるだけではなく、裁判官出身者が裁判官出身の最高裁判所裁判官を引き継ぎ、同様に弁護士出身者が弁護士出身を、検察が検察を、学者が学者を、というパターンが根付いていった。言葉を換えると、これらのポストは、それぞれの職にとってのいわば既得権とされていった。さらに法曹三者に関しては、名簿に登載される最高裁判所裁判官候補者の決定は、裁判官出身者については最高裁判所、検察出身については検察上層部、弁護士出身については弁護士会の執行部、とほぼ各職業団体に委ねられているようである。最終的な任命権限は、内閣総理大臣の代表する内閣にあるが、内閣総理大臣もたいていこれらの推薦に従っている。内閣が通常は法曹三者の決定を尊重してきたのは、ひとつには法曹三者が内閣にも受け容れられるような候補者を推薦してきたことにあるとはいえるだろう。それでも、アメリカ人の目からすると、驚くべきことは、裁判官選任過程に時折政治が関与することではなく、むしろ逆に、政治のもつ役割が限られていることにある。選任過程における政治的党派性の強い合衆国に比べれば、日本における選任過程は非政治的にみえる。」

p182「こういった知見に基づき、ラムザイヤーとラスムーセンは、精緻な理論枠組みを提示した。彼らの結論は、「日本の司法の独立性は、実質的に制約されている」というものだった。彼らの知見によれば、自民党既得権益に反する判決を下した裁判官は、昇進過程において不利益を受ける。したがって、裁判官が将来の出世を気にかけるならば、自民党の利益に従った判決を下すほうがよいことになる。
こういった動機づけの体制を敷きまた維持してきたのは、最高裁判所事務総局である、とラムザイヤーとラスムーセンは主張している。……しかしラムザイヤーとラスムーセンは、さらに本人—代理人理論に依拠して、この政治的色彩の濃い動機づけ体制を最終的に支配しているのは、さらに高いレベル、すなわち自民党そのものにある、と主張する。」
※「レヴァイヤサン」1998春号にて、邦訳もある。「日本における司法の独立を検証する」。「もっともラムザイヤーらの説明によれば、こういった自民党の支配は目につかない形で行われている。事務総局は、自民党の選好をよく理解するようになり、表立って指示されるまでもなくその利益を守るような行動をとっているのである、と結論づけている。」(p183)しかし、これにはジョン・ヘイリーが「何らかの政治家が直接ないし間接にも介入したという証拠を一切見つけていない」と反論しているという(p183)。
P184「ヘイリーは、下級裁判所の裁判官は、彼らの出した判決如何によっては、後の昇進に関して不利益を受ける場合があるというラムザイヤーらの説明を受け容れている。しかし、この不利益は、最高裁判所事務局の意思によるもので、政治家によるものではない。」

P185「ラムザイヤーらが分析した事件を個別の事例ごとに細かくみていくと、政治的信条により不利益が与えられているとどこまでいえるのか、それ自体に議論の余地がある。私に言わせると、ラムザイヤーらの調査で明確となったが、彼らが重点をおかなかった二つの要因、事件処理の効率性と判断の正確性、には注目する必要がある。」
P187「ラムザイヤーらが事件処理の効率性について得た知見は、効率性が強調されるあまりに、裁判官が事件を早く処理しなければならないという圧力にされされている、という根強い批判とまさに整合する。このような圧力が、裁判官によって画一的に事件を処理しようとする動機につながり、新たな法理論を試したり創造性を発揮したりするのを妨げるのだとされる。このような批判的見方からすると、事件を慎重に扱い、自らも事件や政策的側面を調査し、新たな法解釈を編み出したいと思う裁判官も、事件処理の効率性を求める圧力のために思うようにならないことになる。
法的判断の正確さが重視されることも、裁判所の政策形成への取り組みを阻害しかねない。もちろん、正しい判決を得ることが裁判の基本だということを争う人はいないだろう。しかし上級審で覆されることを恐れるあまり、裁判官がリスクをとるのを避けようとする危険性も伴う。つまり、裁判官が既存の先例に疑義を呈したり、制定法に対して新たな解釈を施そうとしなくなるおそれがある。その結果、服従や統一性を求める不当な圧力がかかる場合がある。」
※この点はアメリカではどうなのか。また、ここではキャリアを積むことの実際上のメリットについてもよく考察する必要があるだろう。ただし、ラムザイヤーらの言説が自己実現的予言となる可能性も当然認める(p188)。
P188「日本の最高裁判所裁判官の任期が短いことは、日本の裁判官にとって、判決の積み重ねを通じて徐々に判例法を形成する機会が、合衆国の最高裁判所ほど恵まれていないことを意味する。」
※これは妥当な主張と言えるか微妙。「日本の裁判官」という表現は極めて不適切。そのような関わりをする裁判官はありえてもわずかしかいない。なお、95-06年までに退職した裁判官26名の平均在任は5.7年(p189-190)。

P190「二〇〇〇年から二〇〇四年の間に、最高裁判所は一年あたり八〇〇〇件から一万件にも上る上告を受け付けた。……合衆国の最高裁判所は、審査する事件数を非常に厳しく制限し、審査しない大多数の事件については申立てに対しなおざりな扱いしかしない。これに対し日本の最高裁判所は、申立てのなされる事件のうちかなり多くのものに対し審査を続けている。このため、裁判官がひとつの事件に割くことのできる時間は、限られてしまう。」
※あまり客観的な根拠の提示はないが…
p205-206「江戸時代までさかのぼっても、日本の裁判機関は、私的秩序の形成について重要な役割を果たしてきた。しかし歴史的にみて、裁判所には支配者に対して判決を下す権限は与えられてこなかった。明治維新の時代にドイツの影響力が強かったことも、裁判所には一般に他の権力機関の判断を覆す権限がないという考え方を強めた。裁判所には違憲立法審査権は与えられず、行政事件も特別の行政裁判所しか扱えないとされた。このため占領当局の戦後の改革も、立法府や行政府の行為を審査する司法府の権限がきわめて限られていた伝統を背景に行われた。さらに、私人間の問題に関してもドイツのモデルは、裁判官は法を創造するのではなく法を適用するのだという哲学を基本としていた。この哲学は、法とは統一的で安定したものであり、裁判所は正しい法を見出して適用するのであって、これを改変するものではない、ましてや政策形成などしない、という考え方を強調するものだった。」
※これに続いて伊藤正己判例法主義を引用するが、判例は法と言い切ってよいものなのか?

P208「判例とは常に進化し変化にさらされるものだという考え方を強めていく合衆国の法学教育に対し、日本の法学教育は、先例とは統一的で安定したものだという考え方を育てている。つい最近まで、日本の法学教育でもっとも重視されていたのは、事件の事実関係よりも、法的ルールや理論だった。」
※法の解釈は結局これにある。
P209「しかし、私の考えるところでは、日本法に関するもっとも重大な誤解のひとつーーそして、私がこの本で扱おうとする最後の「誤った常識」であるがーーは、日本の裁判所が法を創ることはない、という考えである。均質性や安定性が強調され、法学教育では政策問題が回避されるにもかかわらず、日本の裁判所には、少なくとも私人間の秩序の形成に関しては、法理を創造してきた歴史がある。」

P217「(※再審の)第三の障害は、再審を受けるために必要とされる証拠の基準である。この基準を満たすには、二つの困難があった。第一に、実際に要求される証明の水準が高かった。一九五八年の最高裁判所判決は「『明らかな証拠』というのは証拠能力もあり、証明力も高度のものを指称すると解すべき」だとしていたし、そして、高等裁判所も「再審請求人の無罪を推測するに足る高度の蓋然性のあるものでなければならない」と判示していた。後者の文言には、「疑わしきは被告人の利益に」という基準が適用されないという証明水準をめぐる第二の争点が絡んでくる。最初の訴追ではこの基準が適用となり、検察側が合理的疑いを超えた有罪の証明をしなければならないが、再審はこれと異なり、再審請求者が無実を証する責任を負い、有罪であるとの合理的疑いがあるだけでは足りない、というのが裁判所の見解だった。」
P218「一九五九年、日本弁護士連合会は、この状況を緩和すべく立法による改革を求める運動を始めた。一九六一年には、再審を認める画期的判決が下され、しかし一九六二年には再審請求を棄却する判決がいくつか続いたため、この問題に対し世間の注目が集まった。これに応じて一九六二年、国会では衆議院法務委員会に小委員会が設置され、再審制度に対する調査が始まった。最終的には立法運動は失敗に終わったものの、日弁連、学者、再審申立人支援運動家たちは、注目を集めたいくつかの事件の中で改革を求める運動を継続した。そしてこの運動は一九七〇年代中頃にかけて高まりをみせていった。そこに、一九七五年、白鳥事件最高裁判所第一小法廷判決で、画期的な判決が下された。そこで最高裁判所は、再審を認める判断基準を大きく変更したのである。」

P226「冤罪事件は、日本の刑事司法制度のさまざまな側面に関わる議論にも影響を及ぼした。四人の無実の人が死刑になりかけたということで、日本国民の間に懸念が広がり、裁判官・検察・刑事被告人弁護人の間で自省・反省が公になされた。団藤(※重光)が最高裁判所を退官した後に積極的に活動したこともあり、これらの事件は死刑廃止運動を勢いづかせ、その動きは一九九〇年代前半にかけてさらに強まった(しかしこの動きは、地下鉄サリン事件によってしぼんでしまったといえる)。」
P231「一九五〇年代後半から一九六〇年代初頭にかけて、銀行などの企業で働く女性や、彼女たちを支援する弁護団は、雇用条件に関する性差別に対し訴訟活動を開始した。」
※具体的にどのような活動をしていたのかは書かれていない。
P236「合衆国では、一九七〇年代から性的嫌がらせの法理が発展してきたが、日本において性的嫌がらせは、法的現象としては一九八〇年代末までまったく知られていなかった。」
P236-237「しかし中でも、実質的にもっとも大きなインパクトがあったのは、一九八九年に「セクハラ」という新語打ち出したことだったかもしれない。」
※言葉自体はこれより前にあるようだが、運動で用いられるようになった、という意味だろう。

P239「理由がある場合には予告要件が免除されると二〇条に明記されていることに照らすと、雇用主は三〇日分の賃金さえ払えば理由のない場合にも労働者を解雇できる、との解釈は当然のように思われる。これは、当初の法学社の間では、一般的な見解であった。初期の判決例も、この条文を同様に解釈していた。いわゆる「解雇の自由」を支持する判決である。しかし一九五〇年代半ばまでに、下級裁判所においては、解雇の自由を制限する壮大な判例法体系ができあがっていた。」
P240「この引用(※1951年の判決文)からは、解雇に関する初期の議論における四つの主題を読み取ることができる。第一に、戦後の経済的荒廃が強調され、これによって裁判所が雇用の安定を重視する立場が前面に出てくる。第二に、雇用主の交渉力の優位が指摘される。さらに、ここで引用した判決文には、労働基準法二〇条の妥当な解釈に関して裁判官の間で戦わされたふたつのほうり、正当事由と権利濫用の両方が示されている(注目すべきことに、解雇の自由の立場は、考慮される法理ともみなされていない)。」
P242「このような(※東京地裁の一部の者の法理形成の)努力にもかかわらず、この説(※正当事由説)はまもなく廃れてしまった。その後五年間で、正当事由説を採用した判例は全部で五件した下されず、東京地方裁判所からは一件も出されなかった。そして一九五五年以降、この説は判例からはほとんど姿を消した。一九五一年以降、ほとんどすべての事件は権利濫用法理を採用している。」
※これのついては、正当事由説が制定法上の根拠を欠くから、というより、正当事由の法理に柔軟性がなく、事件ごとの調節がききづらかったことを挙げる(p242-243)。当時のレッドパージに対応するための権利濫用法理についての裁判官の発言の引用がある。

P247「一九七〇年代後半から一九八〇年代にかけて経済が右下がりになったころ、解雇に関する事件で下される判決には、伝統的な終身雇用制について、かなり詳細な叙述が表立ってなされるようになってきた。そして解雇に対する制約が厳しいのは、この制度の直接的な帰結であり、その裏返しにほかならない、と論じる学者が多かった。しかし、こういった議論は、解雇権濫用法理が発展する初期の段階で、「伝統的」「終身」雇用制度のもった意義を誇張しているように思われる。」
P248-249「このように、長期的雇用の伝統は、後の時代には解雇を制限する重要な理由となったが、裁判所が労働者への保護を拡充しつつあった当初の一九五〇年代初頭の判決では、労働者の経済的苦境への懸念がもっとも大きな理由であった。判決では、弱者である労働者の保護と、より強い立場の当事者が関係を終了させようとする場面で関係を維持する必要性とが一貫して強調された。こういった理由づけは、翻ってみると、日本の典型的な判決のパターンとぴったり符合する。すなわち、既存の人間関係と既存の秩序を維持することで弱者を保護しようとする判断様式である。」
P257「(※交通事故訴訟において)まず課題となったことのひとつが、事実認定手続きを簡素化することである。……事実認定を効率化するため、小川(※善吉)判事は自ら東京地方検察庁を訪れ、次席検事に対し、すべての交通事故に関して警察の実況見分書を提供する道を開くよう依頼した。検察庁法務省と協議した結果後、この要請を断った。しかし裁判官側はそれでも提供にこだわり、その後裁判所、検察、弁護士会三者会談を経たのち、警察の実況見分書を提供することで合意にこぎつけた。」

P267「日本では、第二七部の改革は裁判所が試みても不自然ではないという考え方が強かったようにみえる。裁判官のとった行動は、法曹専門家から大きな社会問題への待望の効果的対応策として受け入れられ、しばしば賞賛された。これに対して、合衆国で大規模不法行為訴訟の処理を合理化しようとする裁判所の努力は、ずっと冷ややかな受け止め方をされた。訴訟を効率的に処理しようと裁判所が創造性を発揮した事件は、しばしば上訴で覆された。その理由としては、裁判官の権限を逸脱し、立法府のすべき行為とした、あるいは、個々の事件相互の差異を軽視した、というものが挙げられた。」
アメリカの議論は参照あり。「こういった合衆国における批判は、「訴訟における個人主義的志向」に基づくところが大きい。その背景には、裁判所が事件を個別に判断するのではなく、一括して統一的に処理するのがどこまで許されるかについて、根本的な哲学論争がある。」(p268)
P267-268「第三章で論じたように、このように問題を立ててみると、制度の背後にあるさまざまな動機が明らかになってくる。その中には、裁判の効率性など、きわめて便宜主義的な動機もある。他方で、日本文化に深く根ざしたと思われる態度もみられる。その一例として、川島であれば、和解は和を保ち、形式的判決よりも優れたものだという考え方を示すだろう。」
※便宜主義的発想もまた、文化の産物だといえなくもないが…
p269「この(裁判の)個人主義的志向には、さらにさまざまな前提が控えている。ここではその中から三つの前提を指摘するにとどめよう。第一に、すべての事件はそれ自体独特のものであり、またすべての当事者は個別に判断を受ける権利があるという基本理念であるーーある学者は、これを「自然法」に基づく権利とまで言っている。第二は、損害賠償額の標準化が、とりわけ時間の経過とともに、実際上低い額にとどまってしまうのではないかという基本的な懸念である。これは日本でも指摘された点である。第三が、裁判所の複数の事件を一括して処理することによって、「侵されるべからざる(中略)弁護士—依頼人関係」を侵害することになる問題である。この点が、交通事故の分野における日米間の相違点につながる。」
※「単純化してしまうと、合衆国においては、弁護士の数が多いこともあり、人身損害事件の訴訟を少しでも簡素化しようと、多数の弁護士の生計を脅かしかねないものと受け取られる。」(p270)

p271「交通事件解決制度の運用の実態を超えて、その制度がいかに生まれ、また維持されてきたのかを探ると、そこには、ラムザイヤーと中里の言う「合理的選択」だけではなく、典型的日本人が調停を好み統一性を気にするという「文化的」要因とともに、少ない弁護士という「制度的」要因がみえてくる。文化と制度は分かちがたく関係しており、ともに合理的選択がいかに働くかに影響を与えるものである。」
p289-290「おそらく、ラムザイヤーとラムスーセンにおいた仮定のとおり、裁判所は自民党の利害に関わる問題に関与したいとは思わないだろう。しかし、それ以外の分野については、裁判所には政策判断をする用意があるといえよう。しかしここでも、公害や雇用差別、解雇、賃貸借契約といった問題をとると、昔から自民党に多額の政治献金を行ってきた大企業や大地主にとって大きな関心事であり、自民党の利益に関わってくると考えざるを得なくなる。」

小池和男「日本の熟練」(1981)

 今回は、遠藤のレビューで取り上げた小池和男の著書である。小池が何故人事評価の制度をめぐって「誤解」をしたのか、それを日本人論に対する見方から説明することできるのではないのか、という点を課題としていた。今回は本書と「学歴社会の虚像」(1979、渡辺行郎との共著)及び「日本企業の経済学」(1986、青木昌彦中谷巌との共著)の最初の小池執筆部分のみを読んだ上でのレビューとなる。
 結論から言えば、日本人論の影響も強く受けているが、そもそも「日本の熟練」においても、ほとんどの場合で根拠に基づいた議論を行う際に、それがあまり正当性のある根拠でないにも関わらず、自らの仮説が正しいことを確信し、用いているということができる。遠藤は「日本の熟練」においては、まだ仮説的態度を取っており、「日本企業の経済学」では確信的態度を取っていると評したが、この見解は妥当であると言い難いと思う。

 確かに小池自身「常識」的に語られる日本人論が「無根拠」であることについて強く批判をしており、そのような議論が特に教育の分野に見られることを指摘している。これは無視できない前提である。

「あまりにも事を調べずに「常識」が横行している、というおそれがあった。社会問題のどの領域にも、誤解や調べもしない言説は存在する。なにも教育だけの特徴ではない。だが、こと教育に関しては、それがとりわけ多すぎるという印象をぬぐい去ることはできなかった。「学歴社会」は当然の事実として、すべての論議の前提とされ、どの学校をでたかで昇進がきまるかのごとく思いこまれ、学歴による所得差が大きいと信じられる。
とりわけ我慢がならないのは「日本蔑視」の主張であった。「欧米」は学歴社会でないかのごとき言説であった。社会現象はこみ入っているから、ある国の特徴をいうには、どうしても他の国々と比較しなければつかみ難い。……それでも丹念に追い求めれば、せめて一部分は比較できるのだ。たとえば学歴別賃金格差がそうである。それすら行わず、日本を「学歴社会」ときめつけ、欧米を非学歴社会というのは、経験科学のルール違反ではなかろうか。」(小池・渡辺1979, P182)


 ここでのポイントは、「根拠」の提示のされ方だろう。小池が批判をするのは、まさに「無根拠」の日本人論に対する批判であり、そのためにその批判材料を集めるという作業を行っている。しかしながら、

(1) その根拠というのは、あまり精度の高いとは言い難いものによって示されていることも多く、
(2) 「日本の悪い点」を除去することが優先された形での立論を行うが故に「無根拠」が持ち込まれる部分がありうる

と言える部分があるということを指摘しておきたい。


○「曖昧な根拠」をどのように用いればよいか?
(1) については、学術的な議論を行うという意味では、それ自体で決して悪いものと言い難い。特に小池がいうように「実証性」が乏しい状況における議論というのは、それ自体で貴重でさえありうる。そして、小池にもこのような自覚があるようで、本書p23-24のような主張はまさにその現われである。しかし、このことと「仮説を真として断定」することは全く意味が異なるのである。特に本書p11のような「断言」を行う根拠として、p2で語られている順位「のみ」で語ってしまってよいものか?

 P2-3で語られている業績というのは「学歴社会の虚像」が出典で、渡辺が分析したものである。渡辺は昭和10年から12年生まれの「会社職員録」のデータベースから上場企業の課長職の出身大学の人数を分子とし、各大学の『卒業者』を分母にした形で「課長率」なる指標を作成した。そして3年間分の大学別課長率のランキングを作成したのである。
まず、小池は、「銘柄大学」について、何故か東京大学京都大学に限定してしまっているが、これは分析者の渡辺の見解と異なっている。渡辺はこの結果について次のように傾向を指摘している。

「(1)いわゆる銘柄校がほとんど上位にランクされている。やはりこれらへの指向が強くなるはずである。
(2)それにしても東大、ことに京大の値が意外に小さい。実業界に関する限り、これら二校の優位はそれほどでもないのではないか。
(3)南山をはじめとする、戦後派の非特定銘柄校が上位にあるのが見逃せない。本人の実力さえあれば、少なくとも課長クラスまでは学校銘柄による差別が無視できるのではないか。
(4)総数の順位では低い、滋賀、群馬、福島などの地方大学が浮上している。地方大学はもっと見直されるべきでないか。」(小池・渡辺1979,p129)

 渡辺の分析結果では、3年間のランキングで「慶応」「一橋」は安定した上位校であり、南山大や地方大学もランクしている内容となっており、確かに偏差値による序列がされている通りの順位にはなっていない。しかし、銘柄校(一流校)がどの大学なのかは大きく解釈が異なるものであるし、渡辺の作成したランキングをどう読むかというのは、3年間の結果で順位の変動もある程度認められるが故にかなり困難である。さしあたり渡辺は銘柄校はやはり上位に来たとみたにもかかわらず、小池にはそう映らないらしい。これは「銘柄大学」を東大・京大の「二強」と思われる大学としか解釈せず、それらの大学は順位が低いから、「学歴社会」は成立していない、と言っているのである。ここでは、「学歴社会」の意味さえも極めて狭く解釈しなければならないにも関わらず、小池は拡大解釈、あろうことが普遍的解釈を試みている(いや、断言している)のである。

 続いて、小池は各大学の「卒業者数」が渡辺の調査課長率の分母と言い切っているが、これは誤りである。実際は「就職者数はもちろん、卒業者の数も知ることはできない」ため(小池・渡辺1979,p127)、文部省「全国大学一覧」から入学想定年度の各大学の入学定員に若干の補正をかけた上で(※1)、これを疑似的に「卒業者数」として推定したに過ぎない。このあたりの状況についても小池はなんら言及していないため、あたかも「卒業者数」が確定できたかのように語っている。これについては脚注をつけるべき内容だろう(※2)。


○「無根拠」の導入と「二分法的世界観」が関連する可能性について
 更に、小池はこの議論から極めてきびしい「競争社会」が成り立っている、と述べている点も無視できない。ここでの趣旨は『「学歴社会」が成立している状況では、競争原理ではなく「学歴」が評価指標として作用している故に競争が作用しない』という暗黙の前提のもと、『学歴社会でなければ競争社会である』と言っている点である。これらの想定はその前提自体がおかしい。学歴社会が機能する是非と競争社会が機能する是非が関連性をもつことについて何も根拠を示していないのである。小池は学歴社会が成立していない状況においては、競争社会が成り立つことを確信しているようである。それはまさに「学歴」というバイアスがないからであるから、と見ているようだが、消極的な理由提示でしかない。

 このあたりから(2)の議論が関連してくる。まず、この「競争社会」の意味合いについての確認が必要になる。小池は恐らく「企業内において切磋琢磨する気風がある状況」についてそう読んでいる節がある。というのも、この競争社会の状況がそのまま本書の「日本の熟練」につながる部分にもなっているからである。この「熟練」については、日本の雇用期間が長いということが大きな理由であるようにも思われるが、単に雇用期間が長いだけでは、「熟練」しているかはわからないのである。そこで小池が用いているのは「ブルーカラーが多様な職場を経験する」ことや「評価される場面が職場の数だけ多様である」こともそうだが、「競争を阻害する障壁が少ない」ことも要因としている節がある(cf.p27-28)。本書自体がバラバラの論文をまとめたものであるため、関連性を直接言及している部分はないものの、「健全な競争性は豊かな熟練を生む」という前提も小池は持っているように思えるし、「学歴社会批判」もその文脈に含まれていると思われるのである。

 「規制なき所に競争あり」という前提は小池自身が経済学部教授といった世界にいる人間だからこその発想ではないかとも思うが、いずれにせよこれについては(※5)根拠を提示していない。あれほど「無根拠」を批判しているのに、である。小池の批判は自分自身にはあてはまっていないようである。
 そしてこの理由は、「思い込み」と言ってしまえば簡単だが、より正しくは「二分法的世界観」に捕らわれすぎている、というべきではないかと思う。このような世界観においては、

(ア) 概念の整理ができていないままにキーワードを用いてしまうこと(半ば無理やり二分法に還元してしまっていること)
(イ) AとBを完全な対立概念とみなすことで、「非A」を「B」と取り違えること

が大きな問題となる。小池の場合は「競争社会」と「学歴社会」という二分法的理解がそうであるし(※3)、更に言えば、「能力」と「資格」についても同じような解釈故の誤読が多く見受けられる(※4)。そして、(2)の議論というのは、(イ)を前提にすることにより発生してきている問題なのである。

 また、このような論法を導入を可能にしているのが「日本人論」として位置付けることのできる「学歴社会論」なのであった。小池自身は決して日本の絶対優位の説明を行うために「能力ではなく、学歴で人物評価される」という意味での学歴社会論として「否定的な日本人論」を批判している訳ではない。特に「日本企業の経済学」では雇用の議論を逆に読み、「中長期的な生産減少の状況においては、アメリカのような短期雇用者の解雇ではなく、長期雇用者の解雇となるため、その影響が大きくなる」としていたりする(cf.青木・小池・中谷1986,p37)点からも、状況によっては日本の制度も危うい点を持っていることを認めているのである。しかし、当時の日本の企業制度が注目されているとみている点(cf.p27)からも、小池の中には海外と比べ一定の優れた制度であるという確信はあったと解してよいように思う。だからこそ、誤解されうる日本人論は排除しなければならない。そのような態度がありきで議論していることが種々の議論の曲解につながっているという疑念はどうにも晴れない。


 最後に遠藤の小池批判の妥当性についての話をしておきたい。遠藤が用いた本書の引用部(p30-31)は、小池を過大評価したものと思えるが、同じように、1986年の著書の引用についても小池の言い分を字義通りに受け取っていいのかどうか疑問が出てくる。渡辺の議論を曲解したように、聞き取り調査の内容についても何らかの曲解をもって下記の「査定の用紙」「文書はだれも見ない」という言葉が選ばれている可能性があるのではないか。遠藤の主旨はこのような「査定」が客観的になされており、日本のそれとは明らかに異なること、「査定用紙」は査定される本人も確認するような制度があるため「誰も見ない」などということはありえない、ということだったが、小池のこの主張は主張以前の問題を孕んでいたのかもしれない。本書を読む限り、そのような可能性を否定できないのである。

「私がヨーロッパやアメリカで二十社前後の大企業を短時間のききとりで見たかぎりでは、まず内部昇進優先でないところを見たことがない。内部昇進する場合、つまり課長のポストがあいたら次にだれを上げるかというときに、通常はその下の係長になるわけですが、その際も結局、直接上司の「査定」によるという点ではまったく同じです。査定の用紙というのを見せられましたが、これはどの国でも似たようなものであって、だいたい翻訳しあっているのではないかと思いますが、ほとんどそういう表向きの文書はだれも見ない。結局は感じとか、主観でやるよりしようがない。これも共通のように思われます。」(青木・小池・中谷1986,p34)



※1 正確に言えば、「該当年生まれの課長が大学に入学した年度の当該大学の入学定員を母集団にして計算したものである。ただし、医学部、教育学部はすべて除外し、理学部と文学部は卒業数(入学定員)の四〇%を加えている」(竹内洋「競争の社会学」1981,p101)。つまり、上場企業であることを鑑み、企業就職をしない学部の人数は除外し、企業就職を想定しづらい学部については母数を減にしているのである。このウェイト付けについては、何らかの調査で想定数を決めるべきではなかったかとも思うが、それ自体で悪いとも言い難い。これが仮説的議論であるならば、これをもとに議論を深めていけばよいだけであり、それなりに意味のある内容であったように思う(実際に竹内がこれを追試したように)。むしろ問題なのは、小池のようにこのような不確定な内容をもって、あたかも確定した内容であるかのように結果を取り扱う態度の取り方である。

※2 そもそも論をしてしまえば、渡辺行郎のランキング作成自体に欠陥が存在することについては、竹内洋(「競争の社会学」1981)の指摘がある。分母の数字は大学の入学定員によって算出しているが、私立で想定されやすい水増し入学を取り扱っておらず、更に、非上場企業の課長は含まれていないことも影響があるという(cf.竹内「競争の社会学」1981;p100-103)。これらのバイアスをクリアするため、大学別入社人数を把握できる「会社就職案内」の数字を母数にして比較を行ったところ、就職年や事務・技術職の差が多少あるものの、概ね銘柄大学が有意で高い課長率になることを示している(竹内1981;p104⁻114)。なお、竹内のいう銘柄大学の範囲は旧帝大レベルの国立大と早稲田・慶応あたりに設定している。

※3 実際の所、「学歴社会」という言葉を用いるとき、この「中学・高校・大学」という学校種の格差の議論と、学校別の格差の問題というのがあまり区別されずに議論されていることが多く、まさに小池の主張もそのような節があるということだろう。小池の議論において「中・高・大」の格差が欧米よりも日本が小さいのではないか、としている部分はそれなりに他の論者も肯定しているように思う(有名なものとして、石田浩「学歴取得と学歴効用の国際比較」1999『日本労働研究雑誌』第41巻第10号、p46-68 URL: http://db.jil.go.jp/db/ronbun/2001/F2001050123.html)。しかし、学校別の格差はそうとも限らない。このようなズレがあるからこそ、「なんとなく」用いられている言葉でも、分析する側まで「なんとなく」用いるのは問題がある。

※4 確かに小池の言う「能力観」は部分的には説明が行なわれている(p32,37,38)。しかし、「幅広い経験」が何故他企業での転職によって失われるような性質のものなのかについては何一つ説明を行っていない。結局「一企業に一つの熟練」があることを言いながら、その「熟練される能力とは何か」問うことがなければ、無根拠に「年数を重ねれば熟練度は増す」ことも前提にしてしまっているのである。これも「能力」と「資格」を対比し、「資格」を否定すれば「能力」が保障されると考えているからこそなせる業である。

(5月20日追記)
※5 この二項図式についての見方は、小池個人に極めて強いこだわりがあるということが明らかになったので、消去しておく。


(読書ノート)
p2-3「上場会社の全課長の出身校をしらべた貴重な業績がある。その人数を出身大学関係学部の当時の卒業者数でわった。大学別の課長昇進率をくらべたのである。「学歴社会」なら東大や京大が群をぬいて多いはずなのに、結果は大ちがいで、東大は一〇位に近く、京大にいたっては二〇位あたりにある。……
ここから示唆されるのは、わが国の企業が実にきびしい競争社会だ、ということであろう。「学歴社会」という思い込みとのくいちがいがはなはだしい。雇用問題をとりあつかうのに、「学歴社会」にふれたのは、この甚しいくいちがい――わが国産業社会の「文化」への誤解が、雇用問題を一層悪化させていると思われてならないからである。わが国は「敬老の精神」にみち、役職も年功に応じ、中高年は篤く保護されてきた、という理解。だから、その「過保護」を少しくずしてやや競争的にすることは悪いことではあるまい、という考えが根強い。だが、そうしたわが国産業社会の「文化」への理解は、はたして実態に合っているのだろうか。「学歴社会」が思い込みでしかなかったと同じく、中高年への過保護が誤解でしかないとしたら、いや、わが国がむしろ「超先進的」な競争社会だとしたら、中高年に競争を導入させよとの考え方は、中高年を激しすぎる競争の犠牲にしたうえに、若者を極度に尊重することになりかねない。年来わたくしはこの思いを禁じえない。」
※出典は「学歴社会の虚像」(1979)。この事実が直ちに競争主義に結びつくことは断じてない。むしろ学閥の方がもっともらしいのでは。しかも、過去に学歴社会が根強かったということ自体は事実である(官僚の登用と、それに従属した民間の採用は、戦前期について竹内洋が実証済みである)のに、それをなきものにしようとするような言い分はいかがなものか。

P8「図のしめすものは一目瞭然である。わが国の学歴格差はアメリカよりはるかに少ない。総じて、わが国企業社会の、他国に先んじた平等化傾向、したがって競争性が示唆されよう。」
※出典はアメリカは1960年の国勢調査、日本は1971年の「賃金構造基本統計調査」。なぜアメリカの調査は1960年のものなのかが納得できないが…
P11「わが国の企業社会が競争的であるのは、なにも報酬の面だけではない。昇進にも認められる。この文章のはじめに、学校歴と昇進の関係にふれたのは、まさにこの点を強調したかったからだ。常識に反し、銘柄大学をでていれば、昇進にいちじるしく有利だ、という状況は存在しない。仕事をめぐる激しい昇進競争が示唆される。」
※結論を急ぎすぎていないか?

P11-12「まず、定年直前、最も役職につく割合の高い五十代前半をみよう。旧(※制)大卒でなんらかの役職についている人々は八〇%、旧高専卒八五%、他方、旧中卒の六七%が役職についている。たしかに部長につく割合は旧大卒五〇%、旧高専卒三〇%、旧中卒一〇%弱。しかし、一方旧大卒の六分の一ほどが平職員にとどまっているのに対し、旧中卒の三分の二が役職(※係長以上)につき、課長次長クラスが四二%にものぼる。学歴による差はあるが、決定的なものとはいえまい。
※昭和51年賃金構造基本統計調査が出典。これを根拠に「おそらく学歴をこえた昇進競争がくりひろげられているのであろう。」とする(p12)。学歴社会論が決定論的解釈に基づいていると確信しているようだが、その根拠もない。また、ここでの状況は海外比較がない。また、旧制については初等教育卒の割合がなぜかない。

p16「図?-7をみると、まず常識どおり、勤続一年未満の比重がアメリカできわめて高い。わが国の九%に対し、アメリカは二三%と、実に四分の一近くに達する。その大軍がたえず動いているというイメージがえられよう。だが、これをもってアメリカが流動的と即断してはならない。勤続十五年以上層もまたアメリカがわが国を上回る。わが国の一八%弱に対し、アメリカは二三%近くに達する。
要するに、アメリカには極度に流動的な層が大量に存在する一方、わが国以上の長勤続層がある。定年がわが国より遅いから、これをもってすぐさまわが国より定着的とはいえまいが、長勤続層は明らかにわが国より厚い。」
※同じデータはp118に表でもある。
P20「しかしとにかくも法律の規定があり、なにもない場合よりも保護があることになる。それがさきの勤続構成にあらわれている。その勤続構成からみて、わが国長勤続層は最も競争にさらされているとみるほかない。」
※これは欧米では勤続年数が短い層もいる反面、長い層もいることの説明として、法や制度上の保障を得ているから、という説明である。しかし、日本にはそれがあてはまらないため競争社会だといいたいらしい。

P23「結局くらしの必要から、異質の仕事で出なおせば、長い間つちかった熟練は無駄になる。中高年の職業転換は、本人にとってのみならず、国民経済からみても大きな損失になる。他方、若者の職業転換能力はどうみても高く、したがって失業期間は短くてすむ。なによりも無駄にすべき経験ははるかに少ない。
 にもかかわらず、今日の議論は、政労使ほぼ一致して「受け皿論議」に集中する。中高年の排出やむなしとして、その再就職先の開発に注目する。」
p23-24「わが国は「終身雇用」「年功制」で中高年をあまりにも保護してきた。それを少しくずして競争的にするのは悪いことではない、と。だが、その『大義名分』がいかにわが国産業社会の「文化」の誤解にもとづくかを、よみにくいまでに数字をあげてわたくしは説いてきた。わが国企業はむしろ超先進的な競争社会で、すでに中高年を激しい競争にまきこみ、大きな損失を余儀なくされている。わが国の「超先進国」を「おくれ」と誤解する常識のもたらした傷ましい被害のひとつである。」
※役職別の平等観、学歴別の平等観、勤続年数の誤解などを指摘しているものの、それは競争の激しさの程度を何一つ説明していない。競争の激しさは能力指標がまず明らかにされ、それに基づいて能力による差のある評価がされているかどうかで確認することができるが、日本がこれにおいて主観に基づいていることはむしろ小池が気付けなかった部分であり、逆に日本が客観的だと小池自身が結論づけてしまった部分でもある。

P25「わが国の企業社会は、多くの問題をはらみながら、しかし調べれば調べるほど、すぐれた性質や芽ばえが発見できる。……すぐれた芽をたしかめのばすことが、われわれのくらしにとって大切だと考える。」
☆P27-28「このごろの日本の企業社会は大いにもてはやされるようになった。……同時に、その良さが保てるかどうかという心配も広がってきた。この上なく確実に、また世界に比をみない速さで押しよせる高齢化の影響への心配であり、高学歴化への心配もつけ加わる。
 さしあたり、その心配ももっとも至極であって、評価した理由そのものが、高齢化や高学歴化とぶつかってしまう。普通の説明によれば、おそらく賃金や役職への昇進が「年功的」にきまっており、それによってくらしも仕事もほぼ保障される。その保障によって心安んじて働く、というめざましさがあった。ところがまことに簡単な算術によって、高齢化、高学歴化がこの保障をくずしてしまう。心安んじて働くことがかなわず、日本経済の「活力」が失われるのではないか、という心配である。
 だが、わが国企業社会の持ち味ははたしてそのようなものであろうか。右の通念は、衣食足って礼節を知るという古典的アフォリズムに、あまりにも寄りかかりすぎていないか。衣食足ったが故に礼節を欠くようになったのが、先進国一般の通弊とみる議論さえある。さまざまな国で手厚い保護があれば、欠勤者の著増や、いわゆる先進国病の症候が蔓延するかにみえる。なぜわが国はそうでないらしいのか。
 わたくしは、わが国の企業にはめざましい人材育成の方式があったと考える。それ故に日本経済に「活力」があったし、いまもある、と思う。たんに「心安んじる」だけで、どうして人はよく働き、「活力」をきずき上げえようか。それがあまりにも豊かであったために、空気のようにその大切さに気づかず、結果的におそろしく蔑視してきたのではなかろうか。八〇年代の企業社会を考えるとき、このおそろしく蔑視されてきたものを、改めて確かめる必要がある。さもないと、いたずらに杞憂し、真の問題を見のがすおそれがある。」

P30-31「ある評価評価者がある人を低くDと評価したとしよう。つぎの時期の評価者がその人をAやBと高く評価し、さらにその次も高く評価すれば、さきDと評価した人の目が問われる。こうした過程で一種の相場ができやすい。
全くの憶測だが、この点で欧米の企業とちがいはしないか、そこでは直接上司の評価が決定的で、それ故抜擢もできようが、評価に相場性がやや少なくなり、直接上司との結びつきもかえってつよくなるのではなかろうか。」

P32「情報はひとりでに集まるものではなく、組織内の上下左右の人のつながりを通じてよくなされる。すなわち情報収取能力はすぐれて「人柄」の問題でもある。さらにこれらを結びつけ、人をひきつけるプランを考えだす企画力が必要である。そしてなによりも、その企画を実現している力が大切である。いわゆる根回しがこれに相当しよう。……根回しとは上下左右を見、そこを動かしていくことにほかならず、誰にまずあたりをつければよいかなど、すぐれて組織の内実の察知洞察に属する。総じて、めざましい作戦力・戦闘力をいうのであって、いわば全人格を投入した能力の発現とみるべきであろう。これをよくアンケート調査などにみられる「協調性」や「人柄」といったことばの通常のひびきに解消してしまうのでは、重大なことが見のがされてしまう。他面、これほど全人格的な投入であるが故に、「人柄」としか現わせないともいえる。」
※この指摘は別の著書のこの部分と密接に関連する。
「さて、こうした実力について、企業の側はどのように評価しているかを知る手がかりとして、しばしば引用される日本リクルート・センターの調査を、ここでも利用しよう。それは従業員一〇〇〇人〜四九九九人の三三七社の人事部長に対するアンケート調査である。それによれば、専門性、基礎学力という、前記(イ)にもとづく実力というのは、大卒者が十分に備えていると評価する者はきわめて少なく、逆に、不満を示す回答が四割以上に上るという結果がでている。評価する企業の多いのは、社交性、協調性であって、六割弱を数えている。一般常識にいたっては、評価する企業が五%強にすぎない、という惨めさである。
結局、大学での講義などを通じて育成され、またその育成こそが大学の主要な任務のはずの実力に対しては、多くの企業が低い評価しか与えていない。ただし、この社交性については、多少の注釈を必要としよう。それは、ふつう考えるつき合い上手とか、人をそらさないとかいった能力であることはたしかである。けれども、一流企業のホワイトカラーの間では、企業に蓄積され、また生みだされるいろいろな情報に通じつつ、それらをバランスよく消化し、また、情況に適応していくことをも意味するようである。」(小池・渡辺「学歴社会の虚像」1979,p23-25。なお、この部分は渡辺執筆部分。)

p32-33「もし目先の売上げだけに目を奪われた仕事しか評価されないなら、国家百年の計とはいわないまでも、長期の目くばりを誰がするのだろう。たとえ少数でも、企業内で長期のことを考える人材が再生産されているかどうかは、産業社会にしめる大企業の実際の役割が大きいだけに、由々しい大事である。どうやらその点でもわが国大企業の選抜方式は目をくばっているようだ。
要するに、将棋の駒の肩の地点まで多数が一線で昇進していく。これを「年功制」などと称するのは、およそその内実に目をふさいだ言ではなかろうか。」

P37「わが国大企業のブルーカラーが幅広く経験するとは、このキャリアが広いことをいう。ただし、よく誤解されることがある。幅広くと動くといっても、全く無原則にいろいろな仕事につくのでは決してない。あくまで関連の深い仕事群のなかでの移動である。」
P38「第二に、やや間接的な影響だが、広い視野がこの幅広い経験から導きだされる。よくわが国の労働者は自分の会社にとじこもり、社会的視野に欠けている、といわれる。だが、広い社会的視野を充分にもつのはなかなか難しく、ヨーロッパなら自分の職業しかみないということになりかねない。比較してどちらがやや広い視野をもつかが大切であろう。企業内に幅広いキャリアをもてば、関連する部門をよりよく知る。」

p48「しかし、(※日本的労働慣行は)あくまで前提にすぎず、少なくともわたくしの知るかぎり、確かな資料によって裏づけられたことはない。いや、この前提に疑いをもつ人々こそ、丹念に統計資料をさぐりつづけてきた。」
※批判もまた根拠に基づいている、ということはそのまま受け入れることができない。
P66「企業福祉について、ささやかな国際比較を行ないたい。そこには全く相反する二つの思い込みが存在しているからである。そのひとつは、いうまでもなくわが国に長く君臨してきた考えである。かつて(あるいはいまも?)企業福祉は企業家族主義をあらわし、日本特有と思い込まれてきた。企業福祉の存在そのものが。ときには日本の特徴と考えられさえした。のみならず「自由な市民」を創出するために、暮らしへの企業の手厚い配慮、労働者の企業依存を壊さねばならぬ、という主張が強かった。その暗黙の前提は「自由な市民」からなる西欧では、企業福祉などがあるはずがない、という思い込みであったろう。この思い込みから引き出されるのはつぎの予測であった。わが国が企業福祉に手厚いのは、社会保障が未発達だからで、社会保障が深まっていけば、企業福祉はしだいにその座を社会保障に譲っていくだろう。たとえば、老齢年金十分なものになれば、退職金は少なくなっていくだろう、という予測であった。」

P181-182「よく、わが国の労使関係は家父長制的だ、といわれる。ドア(※ロナルド・ドーア)はこの説明を否定する。……(※パターナリズムを示す)第二のモノサシは、仕事以外のことも重視するか、それとも仕事中心かである。わが国は前者で、企業がくらしの面倒をよくみている。だが、この仕事以外をも重視する点は、パターナリズムとはちがう。パターナリズムのもとでは、くらしの面倒は温情である。ところがわが国のは、制度化され、契約化されていて、パターナリズムの温情とはちがう。第三に、企業への献身がみられるが、それは創立者などの個人への献身ではなく、企業という組織への献身である。パターナリズムとはいえない、とみる。そして、これらの特徴は、イギリスの組織の一部にもみられる。軍隊、公務員、警察である。これらをパターナリズムといわないかぎり、日本のしくみもそうよべない、とドアは主張する。」
※なお、第一のモノサシは世襲の有無。この主張がなぜ正しいのかよくわからない。ドーアがそう言ったようだが。ドーアの出典は「イギリスの工場・日本の工場」。
P192「なぜくどくどと日本男子高年労働力率のめざましい高さを説いてきたか。かかって昨今大いに論議されている六〇歳定年制の意味をはっきりさせたいからである。鉄鋼や私鉄の交渉があり、六〇歳定年制は注目を集めている。だが、それは六〇歳まで働くかどうかという問題では全くない。定年が六〇歳に延長されようがされまいが、人々はもっと高年まではたらいてきたし、いまも働いている。先にみた五五〜六四歳層の、高くそして低下しなかった労働力率が、それをありありとしめす。」
国勢調査のデータからは、1955-1975年の3回の調査で、65歳以上の労働力率は5割を超え、60-64歳も概ね8割を超えているとされるのと全く噛み合っていないという議論。そしてこれはヨーロッパ、アメリカの調査よりも大きい(cf.p190-191)。

P194-195「七八年現在、大企業でもざっと四割の企業が六〇歳までの雇用継続をすでに行なっている。「定年」が六〇歳に及ぶのは二割にすぎないが、再雇用や勤務延長で四割になる。とはいえ、六〇歳をこえるものは少なく、まして六五歳までとなるとわずか一%にすぎない。他方、小企業では、ざっと三分の二近くがすでに六〇歳ないしそれをこえる雇用継続を行なっている。しかも六五歳に及ぶのは、「定年なし」を含め三分の一近くに達する。この数値は企業規模三〇人以上のものであり、もっと小さな企業も多く、実際にはさらに高くなるだろう。」
P208「大企業では周知のように、五七歳前後を定年としている。すでにその後も働きつづける以上、定年制とは、労働市場からの引退ではもちろんなく、大企業からの強制離職、中小企業への強制移動にほかならない。なぜわざわざ強制移動を行わねばならないのだろうか。」
P209-210「高年者であれば、おそらく長年つちかった技能があろう、それを無駄にしているなら、国民経済にとっても無駄となる。」
※このことは何一つ立証されていない。

P219「とりわけ、長年の経験が主に企業内でいろいろな仕事をこなすことによって形成されてきた以上、そこになんらかの企業的特性がのこるのは、むしろ当然の結果であろう。それを充分発揮するには、つとめ先を変更してはむずかしい。それ故にこそ、「同一又は類似」の大半がつとめ先をかえずにすんだ人々なのである。われわれが注目すべき六〇代前半層では、それが一二%ていどにすぎないことが、重ねて注目されねばならない。長年つきかわれた技能のほんの一部しか活用されていない。高年者本人にとってのみならず、国民経済的にももったいないといわざるをえない。」
P238-239日本の1970年調査、ECの1973年調査を見る限り、日本の女子労働力率が低いとはいえず、むしろ「最も高い国のひとつといわねばなるまい。」
※これがEC77年調査になると急激に労働力率があがっており、日本が出遅れる(p245)。これはアメリカも同じ傾向(p247)。
P265府県間の賃金格差は64年から78年の間で大きく縮小している
※これをもって小池は「地方」が貧しいという偏見を打開しようとしている嫌いがあるが、割合のみで見ている問題であることや、事実やはり東京、大阪の収入が大きいという事実からも、相対的に貧しいという見方は可能である。これに対しては生活コストの問題を提示するが、主観の域を超えているのは何故か病床数の比較だけである(p266-267)。

渡辺治「「豊かな社会」日本の構造」(1990)

 本書は、日本の「社会民主主義」の分析を介して、その特殊性と、労働運動や政治における一種の脆弱さを指摘する内容である。
 本書を読むきっかけとなったのは、渡辺が別の編書で(渡辺治編「日本の時代史27 高度成長と企業社会」2004)、75年頃からの官公への批判がなされるようになったこと、そしてそれが政府やマスコミによる公務員攻撃の産物であるという指摘を行ったことであった(※1)。実際の所、根拠が明示されていないことも多いが、(私が普段このような政治学の本を読んでいないから、というのもあるかもしれないが)渡辺の分析の切り口自体が斬新であり、たとえ実証性が乏しい指摘であったとしても検討をする価値のあるような議論が多いと感じたからであった。
 
 本書においてもそのようなスタンスは全く変わっていない。そして、特に政治力学をめぐる部分などは非常に細かく、このような政治的議論というのが具合的な政策である教育などの分野にも影響を与えた可能性があるという意味では非常に参考になる一冊である。特に社会党に存在したラディカルな左派、資本主義的政策に対して極めて拒否的な層が存在していたことの影響などについては、考えさせられる部分が多いように思えた(※2)

 簡単にではあるが、気になったことを2点だけ挙げておきたい。
 一つは日本の特殊性を殊更大きく語っているのではないのか、という点である。渡辺は日本が「豊かな社会」を実現できたのは、「パクス・アメリカーナ」の状況下でその恩恵を十分に受けることができたこと(p82-83など)を理由としている。そしてその成長によりほとんど自動的に企業から福利を受けることが可能となり(p92)、企業支配が強化されたとみている。そしてこれを基本的に「日本だけの特殊な状況」として位置付けているかのように思えるのである。
 まず、渡辺は日本の「社会問題」の特殊性について指摘をしている(p38)。そして、このような特殊な問題の原因もまた日本的な特殊要因であるとみなしているということである(特にp95-96のような言い方がそのような想定をしていると言えるだろう)。ここでは例の理念型αとβの問題も抱えた議論が存在している。「事実の正しさ」と「因果関係の正しさ」の2つが問われているということである。
 この検証については今の私では深入りできない。しかし、私の詳しい教育に関することに限れば、指摘している内容が誤りであるような議論がほとんどであるように思える(※3)。企業社会の確立により競争主義の文脈が教育にも流れ込み(因果関係)、そのことで教育病理が発生した(事実)と渡辺はみている。しかし、これらはどちらの観点も疑問府をつけるべきところだろう。結局渡辺はどちらについても「特殊日本的」なものを見ている訳だが、本当にその特殊性があるかという問いを立てれば、事実関係としてはアメリカの「脱学校論」の文脈が反論の根拠たりうるし、因果関係としてはすでに明治時代からある種の問題だった「試験難」「試験地獄」の文脈を無視していることが反論の根拠になる。渡辺自身がどうにも「社会問題」という「事実」のみに目が行き、比較の観点を欠落させていること、またその「事実」が本当に事実なのかという社会問題固有の問題をまともに捉えていないのではないのか、という疑念を強く感じた。
 もっとも、渡辺の本旨は労働分野に関することであるため、上記の批判はあくまでそこから派生した教育の議論のみに過ぎない。しかし、労働分野に関する点についても、渡辺の指摘をそのまま鵜呑みにすることはできないとは言えると思う。

 もう一つは上記に関連して、「日本人論」の文脈から、「競争主義」をどう考えるかという点である。「ライジング・サン」ではこれを伝統的な価値観から(おそらくはサムライ精神から)見出していた訳だが、本書においては明らかにこれが否定され(p188-189)、企業主義の確立にそれを見出しているのであった。私はこのズレというのが意外と深いのかもしれないと感じたのである。日本人論が伝統的価値観にひっぱられやすいことは「ライジング・サン」を読んだ印象としても強く感じたが、それとは別に本書や、私が今まで読んできたような階層論的な理解というのが「競争主義」言説を産出し、それが何かの機会に伝統的価値観へ還元されている、という道筋が存在しうることを本書を読んで感じたのである。日本人論を考える際にこのようなズレの存在を把握することと、その原因について考えることは非常に有益であるように思う。今後もこの点からもレビューを進めていきたいと思う。


※1 具体的には次のような指摘があった。
「スト権ストは、六〇年代から発展してきた官公労の運動の頂点に位置していた。その攻勢的に進んでいた官公労の運動が守勢にたたされる転換点になったのがこのスト権ストだったのである。「親方日の丸」論などの官公労攻撃も始まった。民間大企業の労働者に企業意識が強まり、中小零細企業の労働者は不況にあえいでいた中にあって、その攻撃は国民の一定の支持をうける基盤があった。公務員攻撃はこの七五年前後を起点にして、それ以後ますます強く、そしてすべての官公部門労組へと拡大していったのである。」(渡辺編2004, P150)
「一九七五年ごろから、政府・財界、そしてマスコミなどからの公務員攻撃のキャンペーンがなされたーその攻撃は地方公務員だけでなく、臨調行革、教育臨調、国鉄の分割・民営化へとつづくなかで全官公労働者にひろがっていった。」(同上、P152)

※2 もっとも本書からだけでは、海外との具体的な比較については見えてこない。部分的には参照される文献で言及されているのかもしれないが、それもわからない(これは私が政治学に疎いからである)。

※3 これは渡辺の教育への言及が馬場宏二の影響を受けていることも大きいように思える。馬場の「教育危機の経済学」(1988)は私も読んでいるが、馬場の著書からも具体的な因果関係が示されている訳ではなく、ほとんど結論ありきの議論を行っているように思えるのである。馬場の著書については今後別途レビューを行うかもしれない。


<読書ノート>
p34-35「本来、労働者が過労で倒れるまで働くのをチェックするのは、労働組合の問題である。「過労死」が、日本ではこの労働組合の規制力が無力であるということを如実に示した。そればかりでなく、職場で「過労死」がでてくる多くの協調的労働組合は、それを自分たちの問題としてとり上げなかった。だからこそ、弁護士が登場したのである。弁護士たちによる「過労死一一〇番」の活動は、画期的なものといえよう。」

p52-53「ところで、現代日本社会を強力につかんでいる労働「規律」や「活力」「競争」は、いうまでもなくすぐれて資本主義的な原理である。このような「規律」や「活力」「競争」の発生源こそ馬場(※宏二)のいう「会社主義」なのだが、それについてはまた後に検討するとして現代日本社会の特殊な困難というのはこういう資本主義的原理の過剰貫徹によるといってよかろうと思われるのである。その意味では、ここで掲げたような現象を日本社会の「前近代性」の残存としてあげる見解は、まったく問題の歴史的性格を誤っている、といわざるをえない。」
※「ところが現代日本社会では、かかる反ブルジョア的あるいは非ブルジョア的諸原理という、資本蓄積に対する夾雑物を取り去って、ブルジョア的原理が異常に強力に社会をつかんでいるといえる。」(p53)
p55-56「ここで馬場が、「会社主義」を一種逆説的に「社会主義」と呼ぶ根拠のひとつとして、日本企業にくみ入れられた労働者が「労働力の商品化」規定を超えるような〝主体″性を持っている点に注目している点も興味深いところである。それはともかく、こういう把握であるから、「会社主義」日本の問題は、この「会社主義」に身も心も入れあげている労働者そのものに発生しようがなく、むしろ、その結果として「会社」から疎外された、女性や子どものところに現出するといわれるのである。」
参照元がはっきりしないが、馬場「会社主義の挑戦」や「富裕化の哲学」を周辺で引用する。「社会主義」の方は後者で用いている。

☆P57「ところが、日本は、こうした資本の蓄積制約要因たる〈労働〉の力が格段に低かったために、他の先進資本主義諸国に比べ、「社会主義的原理」の浸透がミニマム化され、そのことが、他に比べて格段の資本の強蓄積を可能とする条件のひとつとなったと思われる。」
※結局この因果関係をどう考えるかである。実際は渡辺の見解と逆で、資本の強蓄積が可能な状況だったから社会主義原理は浸透しなかったのでは?渡辺は「高度経済成長」をどう捉えているのか。やはり、そこには「犠牲にしたものがあった」からこそ実現可能なものだったという見方が強いように見える。

☆P16-17「あらかじめ結論を先取りしていえば、じつは日本の異常ともいえる経済成長は日本企業の異常に強い労働者支配を土台に成りたっており、それは日本型協調的労働組合によっても支えられている。こうした企業社会の構造は、不断の経済成長を実現することにより、自民党一党支配を支え、また日本独特の市民的・政治的自由のありようをつくっているように思われる。日本の長い労働時間とはまさしく、かかる日本企業社会の構造から生みだされているのである。だから、この企業社会の構造をそのままにしておいて、労働時間を先進国並みに短くすることができないのと同様、日本社会の抱える「過労死」とか「単身赴任」とかを切り離して日本の〝すばらしい″経済成長だけを学ぶこともーー東欧はまさしくそれをやろうとしているようだがーーできないのである。」
☆p38「第二に、これらの困難、あるいは困難の形はすこぶる日本独特である。「過労死」や「単身赴任」などは、そもそも他の先進諸国にはあらわれない。他の諸国で深刻化しているのは、むしろいわゆる「先進国病」といわれるような労働倫理・規律の解体であり、日本とはあべこべの問題であるといってよい。
それに対し教育荒廃とか家族の崩壊・離婚などは、他の諸国でも多かれ少なかれ深刻化しているが、これらの問題の場合でもその要因したがって形態という点では、およそ異なっているようにみえる。総じて現代日本社会の困難は、企業社会がもたらす激しい競争に巻きこまれた結果発生しているものが多い。
第三に、これら困難の発生を抑止したり、それを解決するのに、労働組合が機能していないばかりか、しばしば労働組合が企業社会の側にさえ立つことがあるという問題である。労働組合が組合として果たすべき帰省力を持ちえないから資本の野放図な蓄積が可能になると同時に、そのしわ寄せは個々の労働者やその家族に直接かかってしまうのである。」
※これらの状況を踏まえた結果を渡辺が述べているとすると、その指摘の真偽は別にして腑には落ちる。特殊要因(と渡辺が考えていること)を日本の高度成長と結びつけているというシンプルな結論としてp57の主張がされていると読める。しかしこれは因果関係の正当性を検証する作業を通してではなく、断片的に転がっていた特殊要因を拾い上げ無理やり結びつけているのと変わらない。理念型αの検証はしているかもしれないが、理念型βの検証は何一つせぬまま、正当性を述べているのである。

P60「おそらく日本の社会民主主義の不振、伸び悩みの背後には、〈労働〉の勢力が、もっぱら企業別に運動を展開しており、横断的組合運動が未成熟であること、そして、協調組合運動も、大企業の組合を中心とした企業主義的なそれであるという点にかかわっていると思われる。」
※これを検証するには恐らくいかに欧米型の労働組合が横断性をもつにいたったのか、そして日本にそれを関連づけることはいかに可能だったかを検討せねばならないのではないか。
P67「五〇年台後半以降、成長に特別有利な国際的枠組みーーひと言でいえばパクス・アメリカーナのもと、それを自覚的に利用しつつ、二次にわたる高度成長を果たし、さらにオイルショック以降の不況をも他国に先がけて克服し資本主義陣営内での比重を高めた。」

P82-83「(※60年の)安保改訂は、旧安保の帯びていた占領支配的遺産を払拭することにより、日米の従属同盟関係を安定した基盤に置いた。以後、日本は、この安定した枠組みのもとで、国家の総力を経済成長に向けることになる。
日本が安定的関係をもった当のアメリカは、時あたかもその力の絶頂期にあった。パクス・アメリカーナの最盛期である。これは、日本資本主義にとってすこぶる有利な条件をなした。
日本はパクス・アメリカーナの傘の下で、安価な原燃料をえ、金融・技術、市場面でふんだんにその恩恵をこうむったばかりでなく、軍事面でもその負担をアメリカに依存し、その分を社会資本その他の資本蓄積条件にふり向けることができた。」
※うまくアメリカの傘下に入り、その恩恵を受けたことを高度成長の大きな要因とみているといってよいか。
P83-84「教育政策では、五〇年代の勤評は六〇年代の学力テストの強行に続いたが、学テが事実上破産するとともに、こうした政治主義は影をひそめた。代わってカネで教師を分断・管理するという手法が前面にで、また、資本の労働力政策が教育政策のなかに持ちこまれた。こうした資本と教育との体系的結合は前期にはみられなかった特徴であった。
子どもたちは、五〇年代のように、国家の礎として、ひとしなみに教育対象となるのではなく、エリートと労働力予備軍というかたちの差別選別方針持ちこまれた。この画期は六二年経済審議会の人的能力開発答申、六六年中教審後期中等教育の拡充整備に関する答申であった。これらによって、企業社会の競争に教育がドッキングし、競争秩序が形成された。」
※どこまでが対象かわからないが渡辺「現代日本の支配構造分析」(1988)を参照している。
※カネによる管理とは??

P92「第二に、また、その(※労働者党政権が成立しなかったことの)コロラリーであるが、企業主義的労働組合運動は、七〇年代に入るまで、「福祉」政策をうちださなかったことがあげられる。これは、労働者の生活改善をもっぱら企業の業績向上を通じておこなうという志向の必然の産物であった。というのは、そこでは、企業に対する国家財政の関与を求めても、横断的な階級あるいはその予備軍への配慮の要求は強くなかったからである。また、能力主義競争秩序を承認した労働組合が、「平等」を追求する福祉要求に冷淡になるのは当然でもあった。」
※「労働運動に代わって、「福祉」の要求を担ったのは、むしろ自治体へ向けての住民運動であった。……「階級」に代わり「市民」が福祉要求を担ったのである。」(p92)
p92-93「このように〈労働〉の「福祉」要求が微弱であるもとで、自民党も「福祉国家」のイデオロギーを掲げなかった。自民党が掲げたのは、「成長」「繁栄」のイデオロギーであった。
七〇年代に入って、自民党も、革新自治体などにみられる「福祉」要求を無視せざるをえなくなり、周知のように、七三年は「福祉元年」といわれたが、この時代ですら、自民党あるいはその周辺のイデオローグは、「福祉」への違和感を隠さなかった。」
※福祉の排除、という観点は随分と違和感があるように見える。
P95-96「先進国では、一般に教育の問題は深刻化しているが、日本での教育問題の噴出は、始めに述べたごとくマイノリティ、離婚等による家庭の崩壊などが原因というよりは、企業社会の発する強烈な競争秩序に、親がつうじて教育がすっぽり包みこまれリンクされた所産であるという特殊性がある。また、労働倫理の解体でなく、労働規律の過度の強化が、「働きバチ症候群」といわれる神経症の蔓延、ストレスの蓄積・爆発を生んでいるのである。実際、教育、労働、等々、現代日本社会の一連の問題群を検討する場合には、このような特殊な相貌の根拠が解明されなければならないと思われるのである。」
アメリカの脱学校論的言説も、十分競争秩序の悪影響として描かれているが。

P109「しかし、夫だけが家庭を離れて一年も二年も暮らすというのは、特殊な職業を除けば世界の他の国では決してあたりまえのことではない。日本でも、こういう慣行があらわれたのはオイルショック以降のことだし、今日のように普及したのは八〇年代になってからである。他の先進諸国では、企業がいくらそういうことを望んでも労働者のほうがついていかないし、それがわかっているから企業のほうも提起しようとしない。だいたい家族が別れて暮らすというのは、とても不自然で非人間的なことである。ところが、現代日本ではそれがあたりまえであり、サラリーマンやその家庭がそれをむりやり納得させられている。その論理が企業戦士の「戦争」であり、サラリーマンは「戦士」なのだという観念であるように思われる。」
P110「それはともあれ、このように、現代日本の労働者にとって、日々の生活は文字通り「戦争」と観念されている。彼らにとって「戦争」というのは彼らの属する企業同士の戦争であると同時に、同僚を蹴おとしての昇進戦争でもある。その「戦争」こそが自分と自分の家族の生活を維持するための不可欠の手段と観念されている。現代日本社会における「戦争」の氾濫の最大の根拠はこのような企業社会の競争構造にある、と思われる。」

P111「こうした「戦争」単純な延長上に人の殺しあう戦争がくるというつもりはない。そうではなくて、現代の日本人にとっては、生活そのものがまぎれもない「戦争」、すなわち人を蹴おとすことによって生き残る闘いであり、しかも自分の欲求を犠牲にして、ひたすら耐えるものと観念されている闘いという点で、当事者たちに「戦争」と観念されている、そういう闘いを演じているということを強調したいのである。」
P112「〝敗戦後の日本は、安保体制によりアメリカの核の傘に入り、その分、防衛費を節約し、余計に経済に投下することによって高度成長を遂げることができた″——これは六〇年代以降自民党政府がくり返してきた言い分だが、その当否はさておいて、ここで注目されるのは、安保体制の正当性が、経済成長によってなされているという点である。」
宮沢喜一社会党との対話」(1965)p192-からの引用。
P113「「安保繁栄」論が登場する背景には、ひとつには、こうした五〇年代の安全保障論が支持を得ることができず、かえって日本軍国主義の復活を策しているのではないかという国民の危惧を招いたこと、があげられる。「安保繁栄」論が、六〇年安保闘争という大闘争の後に、あらためて安保の存在を説得する論理として登場したのは、こういう背景があったからである。この議論が登場するもうひとつの背景は、五〇年代中葉から、アメリカへの従属・依存のもとで日本の経済成長が始っており、労働者の多くが、この成長体制に巻きこまれていたからである。そこに「安保」を「繁栄」と結びつけて、国民を納得させようという思惑が登場するもうひとつの背景があったからである。」

P114-115「その(※日本の「平和」に深刻な問題であることの)第一は、今の「平和」が日本だけの平和であるということにからんで、必ずしも世界中から戦争をなくすような方向に発展しない「平和」だという点である。日本の「平和」はストレートに世界の「平和」に結びつかない構造を持っている。それはちょうどアメリカや日本、EC諸国のような先進諸国が「豊かな」国になり、飢えではなくて肥満が深刻な問題となっているのに、他方では第三世界の子どもたちが飢えのために死んでいるというまことに対蹠的な現実が併存しているという問題——つまり、先進国の「豊かさ」が第三世界の「豊かさ」に結びつかないという問題とよく似た構造である。」
P117「同じ時期(※オイルショック以後)、日本では「減量経営」という名の首切り合理化が進んでいたわけで、会社は一方で人を減らし、他方で残った労働者を残業させたことがわかる。残業手当のつかないーー統計にあらわれないーー「サービス残業」もこの時期に増えているから、七〇年代後半以降、労働者の労働はいっそうきつくなったわけである。」
※参照なし。
P118「「平和」という理念が価値を持っているのは、人間同士が殺しあいを強いられない、ひと言でいうと人間が人間として尊重されるからである。それは、だから「人権」という理念と必然的に結びつく。それなのに現代日本においては、「平和」が「人権」と結びついていない。」

P119「しかし、(戦前)日本の資本の力は、ほかの先進資本主義国に比べると脆弱であり、低賃金に支えられた繊維など軽工業製品を除くと競争力を持つものは少なかった。だから、日本帝国主義は、そういう資本の脆弱性を軍事力でカヴァーし、その巨大な軍事力で中国をはじめとする市場を暴力的に独占し、他の諸国の資本を排除して、原・燃料と市場を確保したわけである。こうして日本の資本主義は軍隊と侵略=「戦争」とを不可欠の手段として発展した。それゆえ近代日本は、くり返し戦争をし、侵略を拡大しなければ経済が成りたたなかったのである。近代日本も、戦後日本ほどではないが、急速な経済成長によって特徴づけられる。しかし、近代日本においては、「成長」は「平和」ではなく、「戦争」と結びついて存在しえた、といえる。」
宗主国の話はどうした??そこに特殊性はないように思われるが。
P120「ところが、冷戦が激しくなるにつれてアメリカはこうした対日政策を変更する。〝再び日本が侵略大国として復活するのを阻止するための政策″という視点は弱まり、日本を極東における反共の防壁として再建するという方向が重視されるにいたった。それに応じて、日本の「平和」のあり方にも変更が求められることになった。」
※「こうして、五〇年代にはアメリカの望む「平和」と民衆の希求する「平和」が対抗しあい、吉田政府がその間に立って憲法は維持しつつ、また急速なそれに抵抗しつつ、なしくずしに再軍備を進めるという政策が追求されることとなった。」(p121)

p125「青年や子どもたちの間で「平和」とか「民主主義」の理念の影が薄くなり、それに代わって、カネ=貨幣こそが最大の価値となり、社会の多数の価値観に従わないもの、それからはずれたり、反抗したりするものをいじめるという風潮が急速に広がっていったのは、この七〇年代以降のことであった。」
※民主主義の理念の影は確かに薄くなったといえようが、それを貨幣の価値の「強化」とみるべきかどうかは検証すべきでは。
P134「今、私たちに必要なことは、現代日本社会を支配している「戦争」=「競争」の原理を批判し、本当に人間らしい社会改造のための道すじを呈示することではないだろうか。」
※具体性はない。
P137「ところで、こうした「現代国家」化=「福祉国家」化は、独自の政治的担い手を持っていたことが注目される。それが協調的労働組合運動の勢力を背景とした社会民主主義であった。」

☆p144「というのは、もともと日本の社会民主主義はその無力のゆえに、福祉国家的政策を押しつけることができず、それだけ日本の国家は資本蓄積に制約的な政策をとらなかった。それが日本の強蓄積=高成長、異常なばかりの「豊かな社会」化を可能にしたのだが、そのことは、日本の社会民主主義の存在感の稀薄さや、権威低下をもたらしていると思われる。」
※この因果が最も不可解。
P146-147「ところで、こういう日本の社会民主主義の「戦闘性」という時、その内容は何かというと、ひとつは、日本の社会党がなお、マルクス主義を指導原理としている、あるいはその潮流が強いということであった。日本の社会民主主義も、強い反共的性格を持っていたが、にもかかわらず、党内では、マルクス主義さらには、レーニンの理論も強い権威を持っていた。第二に、そのコロラリーであるが、日本の社会党は、改良主義を否定していた。もう少し別の言葉でいうと、「福祉国家」戦略をとらないという点で特徴的であった。つまり、「福祉国家」についてきわめて批判的な立場をとっていた、ということでもあった。〝「福祉国家」は労働者階級を解放する、そういうものではないのだ。むしろ、それは資本主義の危機における体制の延命のためのまやかしの産物だ″という評価が日本の社会党のなかにあり、そういう点からも西欧型社会民主主義とは非常に違うといわれていた。」
※このような福祉国家政策の忌避の議論は貧弱な地盤という問題と少し異なる。

P160「それはともあれ、片山内閣が失敗した最大の原因は、経験の欠如にあった。……ここでいう「経験」とは、社会党が依拠している労働運動と連帯しその力を背景にその要求を政治として実行する経験であった。」
※「こうした相反する期待のなかで、片山内閣は、ほぼ全面的に、支配層の要求と期待に沿う道を選んだのである。主観的に彼らがその道を選んだのではなく、彼らの戦前の経験では、その道しか知らなかったのである。」(p160)合わせて、「社会民主主義者の一部は、敗戦直後、社会民主主義政党の再建、ではなく、自由主義的勢力の再結集というかたちで、政治的復活はかろうとしていた」(p155、参照文献はないが)ことに見られるような脆弱さもあり、「大衆を魅了しひっぱるような、社会民主主義的な、新しい国家構想の欠如」があった(p161)占領勢力も生活保護法制定にみられるような福祉政策への熱心さがあったが、片山内閣は結果的にその流れに乗らなかった(p162)。

P168「平和と民主主義運動の主たる担い手はヨーロッパにおいても、アメリカにおいても明らかに組織された労働者階級ではなかった。……これらの国で平和運動の担い手となったのは、私の言葉でいうと、社会の〈周辺〉勢力である婦人や青年・学生あるいは知識人たちであった。
戦後の平和と民主主義運動の中心的担い手が総評に結集するような労働組合運動であった、という事実は、私たちにとってごく当たり前のことだが、決してそうではなく、これは、きわめて異例のことだということは力説しておいてよいことと思われる。」
p168-169「さらに付け加えておきたいことがある。それは、平和と民主主義運動だけではなく、たとえば、生存権訴訟といわれた「朝日訴訟」が一九五七年に提起されたが、この「朝日訴訟」の中軸的な担い手は明らかに総評だったという点である。その後六〇年代に入って日本の労働組合運動が、福祉というものに非常に冷たくなるだけに、この点は注目される。」
※「朝日訴訟運動史」(1982)が参照されている。

P170「日本社会党の分裂は、決して社会主義の戦略をめぐって生じたわけではなかった、ということがここでのポイントとなる。分裂は、日本の平和と民主主義に関して、生じたのである。具体的な課題でいえば、講和をめぐって、全面講和を支持するか、片面講和を支持するかということが最大のポイントであり、それにからめて、安保条約の評価、さらには、日本の再軍備の評価が問題となった。……これは日本の社会民主主義を考えるうえで非常に重要なことであるように思われる。つまり、戦後日本において社会党の分裂する原因は、いつも、社会主義の戦略をめぐる対立ではなく、平和と民主主義にかかわる争点によってであったということであった。ここには、現代日本においては、「社会党」や「社会主義」への期待のなかで、もっとも大きいのは、平和と民主主義という理念にかかわるものであったということが示されているのである。」

P173「つまり、ここで、片面講話に賛成することは、ある意味では日本の社会民主主義者が、再び、満州事変から太平洋戦争への過程で犯したような誤りをくり返すことになるのではないかという意識が非常に強くあったということである。逆にいうと、この当時の党員下層には、再び日本の軍国主義をもたらしてはならない、その手先に社会党員がなるようなことは絶対に避けなければならない、という意識が非常に強烈にあったと思われる。」
※よりラディカルな方面に偏る層が一定数いたということだが、よく理解できる話である。そして、このような態度の是非自体が戦後をどう考えるかにも重要であるように思える。また、この論点はドイツ社会民主党第一次大戦に向かうような戦争・軍事予算増への賛同も意識されていたという(p173)。
P174「こうした、ドイツ社民党の教訓の強調は、きわめて興味深い。なぜなら、日本の社会民主主義左派が、自己を西欧型社会民主主義と峻別し、自分たちを、社会民主主義と認めなかったのは、こうした、西欧社民党帝国主義戦争支持への態度への批判を核にしていたからである。」
※このような社会党左派を「日本型社会民主主義の原型」と捉える(p175)。

P185「もっとも、この(※55年の左右社会党の)統一には非常に大きな問題が残されていた。つまり、社会主義の戦略とか、政党の性格という綱領上の不一致点は曖昧にされたまま、とにもかくにも合同してしまったからである。
このように、何もかもが曖昧で、なぜ統一が可能であったかというと、平和と民主主義、再軍備反対という点ではおおまかな一致点がみられ、かつ、その一致点で党が統一することが国民の要求であるという確信が両派党員の多数にあったからであった。」
p188-189「しかし、この時代の労使関係が、労働者の強い企業への求心力をつくりだし、高度成長の基礎となったのは、それら(※終身雇用制や年功制)が競争制限的であったから、ではないと思われる。むしろ、逆に、こうした終身雇用制、年功賃金制の枠を維持しつつそのもとに、強烈な競争的制度が導入された点に、企業の強い労働者支配の鍵がひそんでいると思われるのである。なぜなら、じつは、これら慣行は多くの論者自身が認めるごとく何もこの時代につくられたものではない。だからこそこれら「日本的労使関係」の起源として、江戸時代とか、戦前の「経営家族主義」という議論が登場するのである。ところが、今問題となっている、企業の強い労働者支配は、決して、戦前以来のものではなかった。さらに戦後一貫したものでもなかった。こうした支配は、他でもなく、六〇年代に入ってようやく姿形を整え、オイルショック以降に確立をみたものなのである。」

p190「また、企業は、この過程で企業の福利厚生の拡充をはかった。とくに、大企業は、持ち家制度を普及させ、労働者に低利で住宅資金を貸し付け、労働者が持ち家を取得することを促進した。これによって、労働者は、企業に忠誠を尽くし、定年まで昇進をくり返せば、一定の安定した生活を得る見通しを持つことができたが、他方、ローンによっていっそう企業に緊縛されることになったのである。以上が、高度成長期に形成された企業社会の核心である。」
p190「こうした企業社会が形成されるにともない、大企業の労働者は、労働組合運動に拠って労働条件を改善し生活の向上をさせるより、自分の力で昇進昇給により生活を向上させることのほうを、より現実的なものと考えるようになった。こうして、企業社会が形成されるにともない、労働組合への帰属意識は減少していった。これをふまえて、この時代の労働組合運動は大きく変貌していった。」

p198「こういう日本の企業主義的組合の特徴は、組織面でも如実にあらわれている。日本の場合には横断的な組合運動というものを支えるような分厚い中央幹部層や中央集権的な規約というものを持っていない。日本の組合規約はナショナルセンターのレベルあるいは単産レベルからみると、非常に分権的な規約を持っている。」
p202-204社会党福祉国家に冷淡であったのは六〇年代前半までは明らかにマルクス主義社会主義の影響からそれが「譲歩の産物」でしかないためであり、六〇年代後半以後においてはそのような戦闘性を失ったが失業と無縁であったことや、福利政策の充実により労働組合運動が福祉政策を要求しなかったことが挙げられる

p222「というのは、この(※1966年の)一〇・二一反戦ストの主力は、人事院勧告の完全実施を掲げる公務員共闘であり、それに、公労協、民間の私鉄、炭労などが加わるというかたちでおこなわれた。つまりすでに、このストライキでは、五〇年代末葉まで総評を支えた、民間の鉄鋼労連や、合化労連などは脱落し、明らかに公共部門優位の配置を示していたのである。」
p222「このように、その支持基盤の民間労組が変質し、公共部門のみの片肺飛行となりながら、社会党共産党との共闘によって、広範な〈周辺〉層の不満を結集して政治的力に転化することに成功した成果が革新自治体の経験であった。」
p225「以上垣間みてきたように、企業社会の構造の形成にともなって、日本の社会民主主義は停滞を余儀なくされるにいたったが、それでも、七〇年代の中葉にいたるまでは、独自の役割を担ってきた。その背景にあったのが、企業社会にくみこまれていなかった公共部門の労働組合運動と企業社会の被害者たる〈周辺〉の諸階層の力であったことはすでに述べた。この力が、企業社会の成長・企業主義的協調組合運動の台頭にもかかわらず、五〇年代に形成された社会党の戦闘性を存続させ、社会的支配構造と社会民主主義のあり方とのズレを生じさせたのである。」

p230「八〇年代における社会党の転換とは、社会党が、こうした日本社会の二つの柱(※安保体制と企業社会)を承認し、日本社会の構造のなかでオルタナティヴを追求するということを表明するということを意味したのである。……「現実主義」とは、ここではとりわけ、社会党の国際路線の修正を意味したのである。」
※もっとも、「社会党が路線転換に踏み切った直接の要因はいうまでもなく、社会党の停滞・地盤沈下に対する危機感とその打開への試みである」とする(p231)。その第一は企業社会の確立、もうひとつは官公労の力が七〇年代後半に入って大きく後退したことにあるとする(p231)。後者はまず一九七五年のスト権ストの敗北をひとつの事件とみなし、「綱紀粛正」、第二臨調の「行政改革」、国鉄分割民営化を決定的打撃を与えたものとする(p232)。そして、一九八五年の社会党の「新宣言」にて明示されたという(p241)。

P242「このように、「新宣言」は、社会党の転換を決定的にしたが、とはいえ、なお多くの矛盾をはらんだものであった。
ひとつは、「新宣言」の追求すべき、社会像が必ずしも鮮明でない、という点である。」
p244「その(※未解決の)最大の点は、社会党の党是であり、日本型社会民主主義路線を象徴していた、反安保・非武装・中立路線は、「新宣言」では一体どうなるか、という点であった。「新宣言」では、それは、「基本政策目標」のトップにあげられていた。
「平和、協調をもとにした国際体制と非同盟・中立・非武装の実現」と。これは、しかし、「西側の一員」としての日本社会の構造を前提にした改革を志向する、社会党の新しい路線とどうかかわるのか?という疑問が当然生じてくるはずであった。非武装・中立の国際路線を志向することは、日本資本主義の現在の国際的あり方を大きく否定することだからである。」

p258「ヨーロッパで現実に「福祉政策」戦略が実現したとき、その担い手は、必ずしも日本のように、体制批判的な労働者階級である必要はなかったし、現にそうではなかった。むしろ、そういう体制の一角に食い込むような協調的労働組合社会民主主義勢力によって、「福祉国家」政策は担われ、それがゆえに、ある程度の実現をみたわけである。
ところが、日本の場合には、そういう体制的な労働者階級は「福祉国家」政策ではなくて、「成長国家」政策を担う、したがって、福祉切捨てを容認する勢力なのである。
そうすると、日本において、西欧型「福祉国家」戦略をとろうとする場合に、それを支持して、福祉の充実、国家財政における福祉の増大を要求する勢力は誰かというと、西欧とはまったく違って、現存の体制に批判的な、その矛盾を、むしろ自覚的に克服しようとする勢力なのである。」
☆p258-259「日本版「福祉国家」としての革新自治体が、社共連合によって担われたということは、日本のかかる特殊性を象徴していたと思われる。
そうであるかぎり、「福祉国家」的な政策が国家政策のなかでかろうじて、実現できる条件はむしろ、そういう批判的な勢力が批判的な主体としての運動を展開することにより、実現される可能性が強いということになる。」

p280「こういう発想(※公共部門の労働環境が緩いという発想)が官公労の労働問題というかたちで、(※日経連労働問題研究委員会報告の)八〇年版以降にでてきたわけである。
これが、一九八二年版になると、第二章の「行政改革問題」というかたちで、非常にはっきりとうちだされた。
「公共部門は放置すれば常に自動的に肥大化するものであり、公共部門の比率が大きくなればなるほど経済のバイタリティーは失われ、経済成長率は低下する」、つまり、ここでは公共部門というのは悪だという考え方がでてくる。なぜかというと公共部門は、民間企業と違って競争がない、経営に失敗してもト倒産がない、だから必然的に効率などがおろそかにされる、つまり公共部門はそもそも、効率とか競争という原理をシステムのなかに持ちあわせていないダメなシステムだ、という考え方である。」
※これを「先進国病の予防である」を理由としているらしい(p280)。
P282-283「曰く、中小企業労組の賃金要求額は概して大企業のそれより高いが、「その理由は、中小企業にあっては、企業内労働組合が主体性を持ちえず、企業外産業別組合幹部の指導が強いこと、こうした企業外幹部は企業経営の実態を知ることなく、もっぱら大企業との間の賃金格差の撤廃のみに運動論の主眼を置くことになろう」と。」
※出典は83年版報告。同報告では賃金格差だけを縮めるのではなく生産性格差も解消が必要としているという(p281)。これは一方で労働省の賃金格差是正指導への批判であり、欧米的な横断的な組合への批判にもなっているとみている。

P284-285「もう一つ同じ視点から、報告は日本の教育の現場にも注目している。教育問題は、とくに八二年版の第四章結びに、はじめて「教育問題の定義」として登場した。……〝今まで日本の教育は非常にいいものだと思っていたが、こういう産業構造の転換期にあって、教育に要請される日本の労働力の格好も非常に変わってくる。そうすると、日本の今までの画一的教育というのは、それまでの高度成長期にはよかったかも知れないが、これからは逆に産業再編成には不適合になりムダになるのではないか″という視点から教育改革が求められたものである。」
※同じく日経連報告で豊かな社会によりハングリー精神を欠く子が企業の高成長を支える労働力としては非常にふさわしくないとする見解もしめしているという(p285)。また「先進国病」は、「豊かな社会」による労働倫理や労働規律の軟化を指しているとみている(p285)。
P286「つまり、日経連の視点でみると、校内暴力とか非行というのは、教育を受けさせる必要もない子どもにも画一的に教育を押しつけるからでるのであって、画一化は子どもたちにとっても不幸だ、なにも九年間義務教育などという不効率なことはやめたほうがいいというのである。」
※これは八四年報告の「九年間義務教育制を見直す」(報告p34-35)という文言から見出しているようであるが(p306)、このニュアンスが義務教育制撤廃を指していると解釈してよいのかは不明瞭。

P293「つまり、今まで(※88年報告以前)は労働に対して何を要求するかというのが発想で、それが一応労働と手を組んだ。また、官公労と中小に対して何をいうかということだったが、今度はそうではなくて、経営側と労働側が協力をして政府に対して何をいうか、あるいは、社会に対してどういう主張をするかということをやろうとしているのではないか。労使が協力して社会、政府に対して労使共通の、つまり企業の要求をつきつけようというのである。これはもう労働問題でもなんでもない。」
P302「そもそも、資本蓄積にとって阻害要因ある労働をミニマムに抑えこんだ体制というのは、資本の効率性にとっては全面的に賛美すべきものであるかも知れない。けれども、労働というのは本来人間がおこなう行為であるが故に資本の効率にとっては阻害的であるさまざまの要素を抱えこまざるをえないものなのである。そうした労働力という商品のもつ特殊性を皆抑えこんでしまうとき、それがもたらす非人間的な矛盾の蓄積は、きわめて深刻なものとならざるをえないように思われる。それは資本主義システムの持っている害悪をもっとも端的にしたものといえる。」
※このような見方はそのまま抵抗を続けなければならないという安易な結論になりやすい。なお、馬場宏二の参照がある。

P313藤井昭三「(連合)の誕生」1989,p14から引用…「いま、労働組合に世間の目は厳しい。『自分の待遇改善以外に、なにをしているのか』との批判が組織の外からある。いや、それさえも交渉相手に抑え込まれている、との声が高まっている。加えて、『組合費に見あう活動をしているのか』と組織内部からの視線も冷えつつある。こうした逆風に、労組はどう対処しようとしているのであろうか。」
P372「また、企業社会の競争は、教育を、そのできるだけ日本では過剰な競争の所産として独特の教育荒廃が起こっている。「いじめ」「登校拒否」「校内暴力」は、いつまで続くかわからない競争へのやみくもの抵抗の諸形態にすぎない。」
※少なくともここでの競争主義は過去におけるエリートの競争の大衆化という文脈が欠落している。そもそも「競争」という言葉が持つ文脈が大きく違うのである。渡辺の見方は1920年代からすでに存在していた「試験地獄」を説明できない。

岩本由輝「柳田國男の共同体論」(1978)

 今回は共同体論関連のレビューである。本書で批判を行う共同体論というのは、祭事やより素朴な連帯意識による「共同体」が形成されるべきである、という主張を行うものである。今回はこの主張を岩本の価値観に合わせて「似非共同体論」と仮称して議論していく(※1)。本書の議論をまとめると、以下のようにまとめられよう。

1.まずもって岩本はこのような「共同体」がありえないことを指摘する。その根拠として「共同体」というものを「労働組織」としてのつながりをもとにしたものであるから、とする(p248)。
2.このような労働組織が本源的な形態として成り立つのは、「原始社会」においてであり(p154)、明治以降にその残存があったとしても「その消滅は時間の問題であり」、それは共同体とはまったく異なる別個の次元において成立した近代的な機能集団として考察しなければならないとする(p252)。
3.岩本のいう似非共同体論の特徴の一つとして「景観主義」が挙げられる(p11他)。このような見方は歴史的存在として共同体を捉える視点を欠落させることに繋がるし(p96-97)、「超歴史的」(p150,p185)に捉えようとする姿勢は村の実態に迫ることができないし、しばしば誤った捉え方を行うことに繋がる。特に例として挙げられるのは、「自由」の問題である。これは若者組・娘組をめぐる自由の問題を似非共同体論者は捉えられていないとみる点(p185,p126)や、「不正投票」の問題などを似非共同体論者が捉えられていないのではないかとみる点(p75)にはっきり現われている。
4.似非共同体論者の議論というのは、一種の近代批判を内包させているが、「似非共同体」こそが近代の産物にすぎないことを似非共同体論者は自覚していないため、その近代批判が不毛なものとなっているとも指摘する(p275)。
5.このような議論においてしばしば柳田の共同体論が参照されるが、特に「日本の祭」における共同体観のみを参照することによってなされる誤りであるとみている(cf.p91)。しかし、柳田の共同体論はこの点にのみ集約されるのではなく、むしろ労働組織としての共同体ありきで語っていたのであり、労働組織としての性質をあまりにも自明視してしまったがゆえに(p18)、「日本の祭」では特にそれが語られることなく、その観点のみを取り出そうとする似非共同体論者にも批判を加えている。

 確かにこのような似非共同体論が共同体論全般において有力であったという見方は一定程度正しいように思われるし、この「共同体論」の系譜は、恐らく1980年頃から積極的に議論されている本田和子や野本三吉のような「子ども論」にも繋がっていったものではないかとも思う。私自身も、共同体における「生」の問題を表面化させないまま子ども論を行っていることが問題なのではないかと、高橋・下山田編のレビューで述べたが、さらに掘り起こせば、坂本秀夫のレビューで述べた「実態を介さずに理念だけを取り上げた海外賛美」の問題や、ヴェーバーの理念型の運用問題などでも述べてきたような、実態を適切に取り上げないことによる論点の捉え損ねを岩本が言う似非共同体論も行っているということには同意する所である。
 しかし、岩本の議論は全体的にずれている部分があることも事実ではないのではないかと思う。順に論点を取り上げてみよう。


1.岩本のいう「共同体」と「似非共同体」を区別する意義はどこにあるのか?
 結論から言えば、岩本の批判する「似非共同体」と「共同体」の違いを語ること自体にほとんど意味があるとは思えない。まずもって、岩本がどこにこの差異・価値を見出しているのか。一つ考えられるのは、その共同体が「ありえる」のか「ありえない」のかという違いである。少なくとも岩本は「似非共同体」は共同体でありえないことを確信している。しかし、後述するようにそもそも岩本の言う「共同体」もまたありえるものなのかを考えると微妙な点がある。
 もう一つ考えられるのは、共同体の「安定性」の有無だろう。これは共同体が存立していると言っても、過渡的な状態であるに過ぎず、不安定であるから共同体としていつでも崩壊しうる、という性質があるかのように「似非共同体」を岩本が語るとき感じるものである。しかし、これもよく考えてみると、「安定した共同体」を考えることに何の意味があるのかという問題を残すことになるし、そのことについて岩本は何も答えることがないのである。というのも、この「安定した共同体」について岩本は規範性を与える(理想的な集団像とみなす)ことはないし、結局は否定的な議論に終始しているだけなのである。


2.岩本のいう「共同体」とは何なのか?
 そもそも「共同体」の原型が「原始社会」にはあったものとして岩本は議論しているが、実際に本書を読んでいくとこのような想定は極めて曖昧であることが分かる。というのも、「共同体はあくまで近代以前の社会における歴史的存在でなければならない」(p252)という言い方は必ずしも原始社会である必要はないからであり、近世や中世といった時期における性質の議論がはっきりしなくなるのである。結局岩本が共同体を「原始社会」に原型を求める理由は「個人の自立的な生活が不可能なため、集団を作って生産・生活することを余儀なくされたことから個人の存在の前提として」(p154)存在するものこそ共同体であると見ているからであった。このような共同体は生活のために必用な組織を「一個完結的に持っている」ものであり(cf.p278-279)、言ってしまえば「運命共同体」として集団内ですべてのものごとが解決してしまうのが岩本のいう「共同体」なのである。これが一個完結していないような組織はすべて岩本にとっては「共同体ではない組織」ないし「共同体の崩壊過程にある組織」なのである。
 しかし、このような共同体は少なくとも中世や近世には見出すことができない。これは中世史・近世史を研究する論者からもしばしば指摘されるものである。

「こうした山海型の村落は、漁業や塩業および回船といった海に関する生業に高い価値が生ずるため、山村よりも海村としての活動に高い比重がかかる。しかし農業にも軸足が置かれていたことを忘れるべきではない。もともと漁業には、自給自足の原則は通用せず、背後の村々との農産物などの交換を前提として成り立つもので、とくに山海型では、さまざまな生産活動が複合的に行われていたと考えねばならない。」(原田信男「中世の村のかたちと暮らし」2008、p139

「ここにみられた市庭で交易される商品や貨幣、金融や土木建築の資本は、古墳時代はもとより、弥生期からさらに縄文時代に遡って機能していたと考えることができるのであり、実際、近年の発掘によって詳しく明らかにされつつ縄文時代の集落は、すでに自給自足などではなく、交易を前提とした生産を背景とする広域的な流通によって支えられた、安定した定住生活を長期にわたって維持していたとされているのである。とすると、商品・貨幣・資本それ自体は、人類の歴史の特定の段階に出現するのではなく、その始原から現代まで一貫して機能しており、人間の本質と深く関わりのあるものと考えなくてはなるまい。」(網野善彦「日本中世の百姓と職能民」1998=2003、 p405-406)

 結局岩本が述べる「共同体論」は本人が言うようには「実際」の歴史的変遷に根差しているとは言い難い(※2)。私が見る限り、岩本はむしろマルクス主義的な資本主義観に基づいた観念論的視点から(歴史的段階論的視点から)見ているだけでないのか、という疑念の方が強い。これが顕著なのはp280-281に見られる「資本主義社会における共同」と「資本制以前の社会における共同」という二項対立図式による共同観であり、岩本の議論はむしろこのような観点から資本主義社会における「似非共同体論」を捉えている傾向が明らかに見て取れるのである。そして、「共同体論」を語るときの曖昧さの所在も、先述した「組織としての自己完結性」ではなく結局「資本制」なり「資本主義社会」というのをいつから設定するのかによって区別しているようにしか見えないのである。この場合の区別というのは、「江戸時代(近世)」が一つの基準(過渡期的な取り扱いをしていると思われる)であり、近代に入る明治以降は明らかに資本主義の論理が侵食した状態にあるから「共同体」はまずありえない状況である、という前提を持ち出すことになるのである。もちろん、以上の説明のように「資本主義」についても明確な位置付けを行っているわけでもなく、当然「組織としての自己完結性」がある状態についてもはっきりした考察を行おうとしていない中で、岩本は「共同体」と「似非共同体」の区別を行っているのである。


3.共同体論における実証性とは何か?―「景観主義」の取り上げられ方について―
 一見すれば岩本が批判する「似非共同体論」への批判は鋭いようにも見える。結局共同体論において、どのような価値観を基軸にしてその必要性を考えるのかを議論する際、岩本はほぼはっきり「個人の自由」との比較からこれを述べている。そして合わせて岩本にとってはおそらく「共同体」というのはそのものとしては「規範的価値」がないものとみているように思える。しかし、「似非共同体論者」は同じ前提に立っている訳ではない。
 本書で取り上げられている全ての論者がそうであるとは判断しかねるが、恐らく多くの似非共同体論者においては、「近代」原理が共同体を素朴に後進的なものとみなし、近代の発展というのが自ずと共同体を排除していく状況に対して疑義を呈しているか、もしくは「近代」批判の一環の中で、それとは違う可能性を見出す際に、共同体の良い点を拾い上げようとするのである。例えば、後藤総一郎はそのような態度であろうし(p92-93)、芳賀登についても、近代との対決として取り上げる観点はやはり共同体における可能性である(p242)。もちろんこのような議論においては、「共同体」は一種の規範的価値を帯びたものとして取り上げられていると言える。岩本が批判を行っているのは、このような取り上げ方について、

ア.取り上げられている共同体というのは、負の側面も有しているのであり、その点を考慮しないで議論を行っていること。それが得てして「景観主義的」な見方となってしまっているのに起因すること
イ.そもそもそのような議論における「共同体」というのもまた、近代の産物としての「似非共同体」でしかないため、似非共同体論者の主張する近代批判が成立していないこと

 という2点からであると言える。

 まずア.について。岩本の言い分が正しいのは、結局比較的「現在」の村落を分析する時に景観主義に陥らないような実証性を持って村落の分析を行うべきであるということであり、実際岩本の活動する分野もここにあるのだろうと思う。しかし、このことと「過去」の村落形態の分析は全く別物である。岩本がおかしな前提を提出するのはまさにこの「過去」の村落形態に言及する場合である。そして、その過去の村落形態を根拠にして「現在」の村落形態の分析の誤りを指摘する場合である。
 「景観主義」という言葉に含有されている批判的な意味は二つあるのである。「現在」の分析の欠落と「過去」の村落との比較の二つであり、岩本が誤っているのは、これを一緒にして語ってしまっている点である。「分析の欠落」という意味では確かに岩本の言っていることは正しいようにも思える。しかしそれには実証的側面から誤りを指摘しなければならないにも関わらず、岩本は観念論的な「共同体」を持ち出して批判を展開してしまっているのである。実際の所、本書においては実証的観点からの議論というのは皆無に等しいのである。岩本自身もフィールドワーク等で実証的側面からの研究も行っていると思われるのだが、そのような観点からの見解は本書ではほとんど存在しないということである。この点については、岩本「近世漁村共同体の変遷過程」(1970)が関連しうるのだろうが、(似非共同体論者の引用は山ほどなされるにも関わらず)そこからの引用もないのである(※4)。

4.近代批判の無効化問題について
 イ.についてだが、まずもって「似非共同体」というのは、柳田の「日本の祭」で強調されていたような祭事やより素朴な連帯意識によって形成されるものであり、それが近代の論理を克服ないし近代の問題を解消するものとみなしていたと岩本は考えている。しかし、そのような「似非共同体」というのは、すでに共同体として崩壊過程にあるものに過ぎず、そこには「近代」の論理を内包しているがために、似非共同体論者は批判していたはずの近代を否定できていないというのである。
 このような論理は岩本においては、はっきりと「資本主義」の議論と結びついていることがわかるが、果たして「似非共同体」論者も同じであったかはわからない。つまり、一種の近代批判としては恐らく共通項として成立しえたとしても、明確に「近代=資本主義」とみなし、資本主義批判として展開していたかどうかが不明慮であるということである。本書で取り上げられている数多くの論者の議論を逐一拾う作業は私にはできなさそうであるが、岩本は自身の関心である資本主義の問題に似非共同体論者の議論を結び付けすぎているような気がするのである。似非共同体論者の議論のゴールは本当に資本主義体制とは異なる「別のもの」を志向していたと言えるのだろうか?岩本にとってみればこのような態度でなければ問題の本質を欠いた状態であり、何の問題の解決にもならないとみなすのかもしれないのか、それが正しいかどうかを、「相手の議論が誤りである」ことではなく「自分の主張が正しい」という形での立証なしに議論するのは立場の違いを示すことでしかない水掛け論にしかならないだろう。本書では岩本の望む「規範価値」が何ら示されていない以上、「自分の主張が正しい」という形での立証は一貫して行っていないのである。
 結論としては、近代批判の無効化を主張するのは結構だが、その無効化とは異なる価値提示なしには、それこそその無効化を語ることは無意味なのである。この無意味さはある意味でドゥルーズガタリにも繋がるところがあると言えるかもしれない。


 以上を踏まえ、再び1.の論点に立ち返るなら、私が疑問に思うのはまさに4.の論点にかかる部分との関連で、「似非共同体」と「共同体」の区別が無意味ではないのか、ということである。岩本の論旨からは資本主義的共同体論を展開するのは不可能である(それは「似非共同体」でしかないから)。しかしだからといって、それが「問題のあること」なのかは定かではない。これについては私の読書記録で個人の自由を考える際における「二分法的」解釈の問題として取り上げてきた(エリアス・カネッティを中心に、ジル・ドゥルーズ、ポール・ウィリスのレビューなどの際に論じておいた)。「共同体」を擁護する論点がありうる必要条件は確かにここにはあるが、それについて私は重要性を感じないのである。つまり、資本主義を排斥する必要性を与えるような「二分法的」解釈自体に無理があるのである。合わせて、繰り返しになるが、この近代批判をめぐる議論は、岩本の望むものを何も語っていないという点で、やはり肯定的な差異の意義を語ってはいないのである。


5.柳田共同体論の位置付け方について

 最後に本書における柳田の位置付けに述べておきたい。岩本は柳田の「日本の祭」における共同体論について、
ア.基本的に労働組織なくして共同体はありえないという見方を取っていたが、「日本の祭」における議論は「信仰における共同体」に偏ったものであり観念論的な議論に繋がっているという意味で、柳田に落ち度がある
イ.似非共同体論者は柳田の「日本の祭」の議論から共同体論を展開することがあるが、これは労働組織を介した共同体の議論を無視することに繋がる原因となっている

と評価していると言っていいだろう。しかし、この論点は正しい所と正しくない所がある。この点について、「日本の祭」(1942)を引用しながら議論してみたい。

 まず、押さえておきたいのは、柳田が「日本の祭」という講演を行った背景である。昭和16年秋に大学生に対する講演した内容がもとになっている。そして、分量としては「定本 柳田國男集 第十巻」(1969)においては100頁を超える内容で、複数回の講演内容をまとめたものである。
 そもそも柳田が大学生向けに「日本の祭」をテーマにした理由は何なのか。一つは大学生に対してこのテーマがなじみ深いものだからだという。青年期において「郷里」で学ぶ社会律で顕著なものとして「婚姻に関するもの」「共同労働に関するもの」「祭に関するもの」の三つを挙げている(柳田1969,p172-174)。この中で「祭」を取り上げたのは、これが学生にとって最もなじみ深いからだとする。

「私等が大学の繁栄と増加とによつて、或は断絶してしまふかと恐れて居る日本の伝統は実は斯くいふ所に潜んで居るらしいのである。幸ひなことには婚姻や労働とはちがつて、神祭だけには諸君も経験があり、又楽しい記憶と取止めの無い好奇心を抱いて居る人が多いのみか、或は一種の「語りたさ」をさへ持つて居る人があると思ふ。私はそれを一つの足掛りとして、実はこの講義を続けて見たいのである。」(柳田1969,p174-175)

 そして、もう一点重要なのは、この「祭」をテーマにして、「日本の伝統」について学ぶことができるという点である。岩本も指摘しているように、柳田自身は「日本の祭」においても近代主義者的な見方をもって「日本の伝統」の変化を捉えようとしている。

「当人自身の為から見ても、斯んなことで職業を変へてしまふことは、もとは決して安全な判断では無かつたのである。今とても或は一つの冒険と言はれるかも知れぬ。なまじ本式の大学教育を受けたが為に、家の代々の土地とは絶縁してしまひ、どこに落着きを求めるとも無く、浮世の波の底に埋もれてしまふ人が、近世は可なり目に付くやうになつて居るのである。土地に根をさすことを安全と考へた人々に、さういふ未知の世界が危険視せられたのも無理は無い。ところがその冒険を敢てしなければならぬ必要が、段々と増加して来たのである。つまり世の中は変らずにはすまなかったのである。」(柳田1969,p165)

 しかし、柳田自身はこの「変化」について単純に追随することについても疑問を呈している。これは盲目的な追随を行うべきではないという態度に加え、安直なアンチテーゼとして「変化しない」ことを選ぶべきではない、という態度も合わせて持ちあわせていると言うべきだと思う。

「現代の如きは之に反して、すでに異分子とも言へないほど、澤山の新職業者が群をなし又は組織を作つて、先づ都会を無限に厖大にし、次には一つの上層勢力となつて、地方の古くからあつた活き方考へ方の上に、のしかかつて居るのである。此の如き以前とは全く逆な情勢の下に在つて、果して一国古来の伝統なるものが、持続し保存し得られるかどうかといふことは、その伝統保存の是非を討究する前に、是非とも一応は考へて置くべき問題である。何となれば、仮に一国の伝統は守つて失ふべからざるものであるといふ結論が出たとしても、事実保存し得る見込が無いのだとすれば、それが結局むだな国策に帰するからである。今日我々の耳にする多くの伝統論などは、果して何が確かなる伝統であるかといふことも示していないのみか、それが斯くして伝はつたのだといふ筋路などは説かうとしない。嘗ては安全にそれの持続し得る組織が備はつて居たのが、後には少しずつ弛み崩れ心もと無くならうとして居るのではないかどうかといふことも考へて見ない。ただ有りそうなものだ、有つて然るべきだと思つて居るだけである。そんな気休めの原理だけでは、到底我々は活きて行けない。もっと具体的に考へて見る方法があつてよいと思ふ。」(柳田1969,p168-169)

 結局ここで柳田は伝統論を探究するからと言って安易に伝統を守る態度を取ろうとも、時代の流れに無理に逆らうようなことになるような場合は「むだな国策」にしかならないことを認めているのである。柳田自身もこの問いについては明確に答えられないことを明言する。

「固より是(※祭の伝統)がよいとか悪いとかいふことは、容易に言へることでない。世の中が改まれば斯うなつて行くより他は無いのか、但しは又避けられ得る道が有るのに避けなかつたのか。其点は実はまだ私なども決しかねている。しかし少なくともどうでもいい気遣いだけは無い。世人の無関心は言つて見れば無知から来て居る。自ら知るといふ学問が、今日はまた甚だしく不振なのである。」(柳田1969,p314)

 上記引用が「日本の祭」の最後の文であるが、ここに聴衆である学生に対して、このような「学問」の在り方を問うているのではないか、という推測をしたくもなる。つまり、古いものが当然悪であるとは限らない。だからこそ「学問」がこのことに対する検証を行い、より正しい判断に帰するために発展すべきであるし、聴衆である学生にもそれを担ってほしい、という期待を感じるのである。

 さて、ここでア.イ.の論点の検証をしてみたい。まずイ.の論点であるが、これについては岩本の引用・解釈を見る限りは「似非共同体論者」の主張は柳田の議論を拾っているというよりは、都合よく自分の主張を補足するために柳田を引用しているという印象が強くある。というのも柳田自身は近代化批判に対し、中立的な立場をとっているとみることができるが、「似非共同体論者」は明確に近代化批判の手段として柳田を引用しているからである。
 そして問題はア.の論点である。結局岩本は「日本の祭」においては柳田の共同労働=共同体観が損なわれたことを非難しているが、そもそも「日本の祭」が語られた目的からすればずれた批判の仕方であると言えるように思う。まずもって、共同体の機能として共同労働が重要であることは、すでに「日本の祭」の中でも語られているし、それが「祭」と比べて劣った機能であることも述べていないのである。なお、「日本の祭」においては、共同労働について以下のように述べられている。

「其次に来るのは共同労働に関する法則、この共同には色々の形があって、處を異にして生産する者の交易や交換までが、此の中に含まれて居たかと思ふ。意識してさうしたかどうかはまだ問題だらうが、我邦では特に国民の青年期に於て、一つの時制を備へてこの労働の正義を教へて居た。さうして或は十分以上と言つてもよい程の効果があった。今日の所謂青年団とその前身の若者組、是が前に挙げた婚姻道徳と共に、すべての同時労働の場合の道徳を、徹底的に叩き込む機関であつて、昔の若連中などは幾分か頑固な若い者にも似合はぬ舊弊さをさへもつて古い伝統を守り続けて居た。」(柳田1969, p172-173)

 唯一反論の余地があるのが、岩本も引用していた、「神が我々の共同体の、最も貴い構成部分であり、従って個々の地域の支配者と、一体を為して居るといふ考へはよく窺はれる」(p16)という部分だろう。この引用部分は正直な所、解釈が難しい部分であることを指摘せねばならない。周辺部も含め引用するとこうなっている。

「けだし天然又は霊界に対する、信仰といふよりも寧ろ観念と名づくべきものを、我々は持つて居た。それが遠く前代に遡つて行くほどづつ、神と団体との関係は濃くなり、同時に又祈願よりも信頼の方に、力を入れる者が多くなつて居る。神が我々の共同体の、最も貴い構成部分であり、従つて個々の地域の支配者と、一体を為して居るといふ考へはよく窺はれる。神道の教理にも後世の変化が色々あつて、現在は村々の神社は神代巻以来、何かの記録に出て居る神様を祀るといふことになつて居るが、それは恐らくはト部氏の活躍以後の現象で、少なくとも国民個々の家だけは、先祖と神様とを一つに視て居たかと思はれる。神を拝むといふことが我々の生活であり、又我々の政治であるといふ考へ方は、たとへ今日はまだ私たちだけの独断だとしても、必ずしもさう軽々に看過してよい様な説ではない。仮に神職家に持伝へた記録からは立証することが出来なくとも、少なくとも我々が自分自分の持つて居る感覚の中から、行く行くは是を明らかにし得る望みはあるのである。所謂神ながらの道は民俗学の方法によつて、段々と帰納し得る時代が来るかも知れない。」(柳田1969, p174)

 ここだけ読むと正直な所、先ほど指摘した柳田の「日本の祭」の講演の目的が違うのではないかとさえ思えなくもない所が2カ所ある。一つは「神を拝むといふことが我々の生活であり、又我々の政治である」という考え方に対する見方である。先述はこれを中立的にみていると述べたが、ここでの語り口はむしろ「民俗学的」に神への信仰を行うことが全面的に正しいことを立証できるかの如く述べているようにも読めるのである。
 もう一つは岩本も指摘した「神が我々の共同体の、最も貴い構成部分」という部分である。これは結局「日本の祭」が郷里において最も重要な機能(つまり、共同体の維持においては、共同労働よりも祭の方が重要である)とみなしているかのようにも見えるのである。
 これら二つの点は意見が割れる論点であるので私見となるが、前者については正直解釈しかねる部分であると考える。これをもって柳田の本音が出ている部分であるということを否定することが難しいからである。しかし後者については岩本のような解釈は正しくないと考える。ここの論点は「共同体の、最も」という部分に尽きる訳だが、柳田の指摘するのはあくまで「貴い」部分に限って、つまり共同体の聖性を担う部分において最も重要であると言っているにすぎないと読む方がむしろ自然だと思われるからである。これに対し「共同労働」は共同体において最も「貴い」訳ではないが、最も「重要な機能」を持っていることとは矛盾しないのである(※3)。この点においては、岩本の解釈にはミスリードあるのではないかと指摘したいのである。

  
※1 もちろん、これはあくまで岩本が見る視点からは「似非」でしかない、という以上の意味はなく、普遍的な視点からそれが「似非」であるという訳ではない。ここでは岩本の言う「共同体」との概念分類を行うためにこのような用語を用いているに過ぎない。

※2 読書ノートにも記載したが(p278-279)、もっと言ってしまえば、岩本の言う「共同体」というのが原始時代にあったと言う説もはっきり正しいと言い難い部分がある。集団が完全に独立し、自給自足していた状態というのは想像することがかなり難しいように思う。まずもって集団をいかに分けるのかという問題もあるし、少なくとも、岩本の言う「共同体」には「交易」という概念がなく、全て所有物は集団内で共有化されることになる。このような点から、岩本の言う「共同体」というのは極めて理念型的な発想であるにも関わらず、それを実在するものとして捉えている点が問題であると思われるのである。

※3 もっとも、「日本の祭」からは、共同体における「共同労働」の側面が「祭」の側面よりも重要であるという結論を導くことはできない。これらはあくまで並列に重要性を語ることまでしか「日本の祭」ではしていないとみなすべきである。優劣について検討するならば、柳田の別の論考を読むほかあるまい。


(2018年1月6日追記)
※4 岩本由輝「近世漁村共同体の変遷過程」(1970)を読んだが、内容としては江戸時代における共同体とその周辺の諸アクターの力関係の変化の分析を中心に、漁村の事例を通じて行っていた。しかし、「共同体」の捉え方は本書における見方と全く変わっておらず、いわば「程度問題」としての商品流通の変化を通じた共同体の分化・解体過程を捉えているに過ぎない内容であった。「程度問題」であるということはその原型についての妥当性については全く検証されないまま、素朴に理念型として設定したものをあたかも真理であるかのように捉えているにすぎないということである。
 特に本書における似非共同体批判においては、「共同体」という理念型の検証を全く行っていない状況でその批判の正当性を示すことは不可能なのではないかと思われる。実証性をめぐる問題では確かに「似非共同体論」の議論の問題はあるかもしれないが、岩本が言うように「労働組織と結びついていない」ことを根拠に批判を行うことは問題があるだろう。そもそも労働組織と密接に結び付いた「共同体」なるものが確固として存在することを岩本は立証していないのだから。
 なお、岩本1970は民俗学者のようなフィールドワークは行ったものの成果ではなく、文献研究の域に留まるものであった。


<読書ノート>
p5-6「このように、共同体としての〝ムラ″があるのは、「維新以前」のこと、「旧時代の思想」、「従前の慣習」、「古き時代」のこととみていた柳田は、日本の農業を生産の水準から職業あるいは企業へと引きあげ、農民を自立させる基盤として〝ムラ″を再編成することをもくろむのである。そのさい、柳田の考えている〝ムラ″は、共同体としてのそれではなく、明らかに近代的機能集団としてのそれであった。その限りにおいて若き農政学者柳田は、きわめて意図的な近代主義者であった。それは、柳田の産業組合普及のための啓蒙活動を行なう過程での講演や論考において顕著に現われている。」
服従と保護の関係で成り立つ〝イエ″はすでに徳川時代の中頃から弛み、それが〝イエ″は本家分家や地主と百姓の関係の希薄化、対等化によりもたらされ、「小さいがゆえに不時の「災害」に対する抵抗力も弱かったから、その数が増えるという形で封建的な「社会組織が弛緩し」てきた「徳川時代の後半百五十年間に於て飢饉其他凶作の惨毒の著しかったの」は当然であると、柳田は主張する。」(p7、柳田「定本」第一六巻p85-90)

p11「ここで水を契機として成立する共同体、すなわち〝ムラ″のありようが一幅の名画を想起せしめるような美文によって表現されているが、こうしたところに柳田の共同体認識の特色がみられるのである。いずれにせよ、一見、共同体の非常に的確な把握であり、説明であるようにみえながら、要するに景観主義の域を一歩も出ていないのであって、紀行文としては優れていても、〝ムラ″の実態には迫りえないのである。」
※「柳田の描く〝ムラ″は常に美しすぎる。それは柳田の視界には〝ムラ″で現実に生きている人間の生ぐさい動きが入って来ないからである。柳田の共同体論を検討する場合、この点に対する批判的視角を明確にする必要がある。」(p12)
p13「すでにみたごとく、明治末年の柳田は、〝イエ″を観念的なものとしてとらえていた。しかし、農民史研究を始めた柳田は、〝イエ″をより実態的なもの、すなわち共同体の重要な機能の一つである労働組織としてみようとする方向を示すようになる。つまり、柳田は〝イエ″には観念としての側面と実態としての側面があることをはっきりと認識し、観念としての〝イエ″はあくまで実態としての〝イエ″に規定されてのみ存在しうるものであるころに注目するようになったのである。」

p14「そして、前掲『都市と農村』のなかで、柳田は、「今では本物の親よりも却って長男のことをオヤカタと呼ぶ方言が弘く知られて居るのは、つまり総領が事実に於て、夙に労働長の権能を行って居た名残であった」といい、また「今日の親と子の家庭が始まるよりも前から、子等の間には、オヤといふ唯一の中心が有ったので、それが血縁と年順とを以て定まって居た為に、後自然に今日の親子の意味が限られるやうになって来たのである」と説明する。つまり、柳田によれば、オヤコというのは、本来「賃金の要らない労働組織」としての〝イエ″における指揮する者とされる者との関係を示すことばであったのである。
この点について、柳田は、昭和四年六月の『農業経済研究』第五巻第二号所載の「野の言葉」のなかで、さらに検討を加え、コは「労働組織の一単位の名」であり、オヤは「家長となり、又指揮者の地位を占める」ものを意味することを明らかにし、「少なくともオヤと云う語には、生みの父又は母といふ内容は無かった」と結論づけている。」
p15「かくて、柳田の共同体認識は、〝ムラ″を景観的に捉えていた時点から、そうした〝ムラ″における日常的な営みとしての労働組織を取り上げて行ったことで確かに深化しているが、それがなおみずからのフィールド・ワークを踏まえたものではなかっただけに、かえって景観的な〝ムラ″と労働組織としての〝ムラ″とが安直に結びつけられることになり、共同体の実態把握に成功したとはいえなかった。」

p19「しかし、〝ムラ″や〝イエ″が現実に共同体として機能しなくなり、「氏神」の変化が「既に完結した」ところもあるという当時において、柳田が氏神信仰をその本来の姿にさかのぼって再考しようとしたところに、その所論が単なる観念に流れるゆえんがあったのである。共同体のないところに、共同体の神が存在しえないことを柳田は理屈の上では知りながら、心情的になお、そうした神に対する信仰を捨てえなかったのである。」
※このような解釈が妥当か疑問もあるが…「日本の祭」では、「神が我々の共同体の、最も貴い構成部分であり、従って個々の地域の支配者と、一体を為して居るといふ考へはよく窺はれる」(p16)と述べている。これについて岩本は柳田が労働組織としての共同体を「自明」としていたから語ってないとみている(p18)。
P19「そして、このような欠陥(※上部構造の問題である信仰はつねに社会の土台をなすものの上に立っているのに、柳田が捉えていたそれをなおざりにすれば論理的にも精細さを欠くこと)は、要するに柳田の研究そのものが、この問題に限らず、一つの地域にじっくりと腰をおろした綿密なフィード・ワーク(※ママ)に裏付けられたものでないことから生じたものであるということができる。」

P38マルクスは日本社会をアジア的社会としてよりも、ヨーロッパ中世に近いものとみている
資本論、長谷部文雄訳第一部第四分冊のp1098参照。
P62-63「ただ、ここにおいて、神島が「第一のムラ」=「部落」=自然村=「もとは行政村」といういささか短絡的な〝ムラ″のとらえ方をしているのは気がかりである。われわれの近世研究の結果からすれば、「部落」はたしかに近世の行政村ではあっても、それが、すでに、いわゆる自然村的なもの、または少なくとも共同体的なまとまりをもつものではなかったことが明らかである。しかし、神島ならずとも、近世村落について、この種のとらえ方をする論者が多く、そうしたことが結局、彼らをして共同体としての〝ムラ″の景観主義的な把握の域に留まらせる根本的原因となっているといえよう。」

P75「柳田は、そうした「義理の親子制度」を……(※中略)、「土地によりますと是が一つの勢力とも認められて居りまして、常から目をかけ世話をし相談にも乗ってやる代りに、一朝入用があれば其一令の下に、何でもする何でもさせるといふ、暗黙の約諾のあるものも少なからず、其中には始から計画があって、努めて此関係を広く結んで置かうとする者がある」と述べ、それが「選挙」の「地盤」に利用されるとき「不正投票」といった弊害を生み出すことになるといっているのである。要するに、共同体がその本来の姿である労働組織としての実態を失ないながら、なお労働組織であったときに当然のものとしてあった人間関係のみが利用されるときに生ずる問題点を柳田は指摘しているのであるが、今日の共同体の復権論者や再評価論者に果たしてこうしたところまでの目配りがあるのかということになると、はなはだ心もとないといわざるをえない。」
※もっともこれが不正であると言い切れるかは方法面での問題を孕んでいないか。

P83「昭和四〇年代後半になると、いわゆる柳田ブームなる現象が現われるが、そこにおいて花田清輝の前掲「柳田國男について」にみられる柳田に対する積極的評価をさらに推進する役割を果たした者として後藤総一郎と綱沢満昭がいる。」
P85「つまり、後藤にとって共同体は信仰を基盤とするものであり、「イエ」と「ムラ」とは本来、労働組織として構成された共同体であるという認識は表面に出て来ない。もちろん、後藤は共同体が労働組織としての機能を有するものであることは知っているであろうが、むしろそのことは、「自然村としての村落共同体」という表現からうかがえるごとく、ある意味では自明のこととしてあまり意識されずに、信仰をめぐる共同体のあり方を正面に打ち出してくるところに特徴がある。その点で、共同体を本来、労働組織と考え、信仰をめぐる機能はそうした労働組織のなかから派生してきたものとみる私の共同体の認識のしかたとはかなり異なっている。」
※「この場合、〈イエ〉意識とは、民俗学者柳田國男が明らかにした日本における固有信仰である「先祖」信仰とその意識であって、その意識こそが、古代から近代への発展を一貫して押し進めてきたものである。」(後藤「柳田國男論序説」1972、p183)

p87「後藤は信州・伊那谷の南端、遠山の在村少年として、疎開少年と「ひとつの芋を二人で食べた」ということを「共同体体験」とみなし、「いわば同民族体験」を持ったと称しているが、一体こうしたことが「共同体体験」として説明しうるものであろうか。また相手の疎開少年はこのとき後藤と同じ認識を持ちえたであろうか。」
p92後藤「天皇神学の形成と批判」p245からの引用…「こうした歴史におけるわたしたちの「個」とそして「和」は、共同体の価値基軸である氏神を中心に形成され受けつがれてきたのであった。そこにこそ「個」の幸福と、共同体の「平和」が育まれていったのであった。」
※これは柳田の「日本の祭」を参照しながら議論されているという(p91)。このような共同体の原理、実態を「近代的『個』の析出作業」によって「前近代的な『負』の遺産として」退ける近代原理は「共同体のなかで個性的に形成されたものではなく、画一的な教育という制度的な作業を通して、国家と『個』という直接的ルートで形成されていった」もので「近代的『個』と錯覚しているいわゆる地域エゴイズムが形成されたに過ぎない」と述べる(p92-93、後藤1975:p245-246)。

P96-97「また、後藤のいう共同体は、結局、景観主義的な「ムラ」のなかにみられる信仰をめぐるつながりということになるわけであるが、何度もいうように果たしてそういうものを本来の共同体としてとらえていいのであろうが、共同体をあまりにも現代のわれわれのまわりにみられる現象に引きつけて考察しようとしているのではなかろうか。だから、当面本来の労働組織としての共同体をあわせ持っていた機能の一つにすぎなかった信仰をめぐるそれのみに後藤は執着することになるのであろうが、そのことの限界については柳田が第二次世界大戦前後から信仰をめぐる共同体に重心を移してきたことに対する私の先に述べた批判がそのままあてはまろう。とにかく共同体を歴史的存在としてとらえようとしている視角が乏しいことだけはたしかである。」
P108「このような共同体の機能について、これまでいささか共同体の歴史の研究を進めてきた私はよく知っているつもりである。しかし、それは共同体が人間の生産力水準が低く、個人が社会の基礎単位となりえない段階で、人間生存の前提として構成された集団であり、個人の自由意志で作ったり離れたりすることができる性質のものではないときにはじめていえることなのではないであろうか。生産力水準が高まってくれば、そうした共同体は解体の方向に進むのが必然であり、自我の確立の桎梏となるも当然であった。」

P122「このように綱沢(※満昭)は、柳田のいう「自然に出来た村」、すなわち、いわゆる自然村に村落共同体の実体をみたわけであるが、そのことが結局、共同体を景観主義的に理解する欠陥に綱沢を意識しないで落ちこませることになっているのである。このことは、あとで詳しく述べるが、とにかく、いわゆる自然村というのは、本来の共同体の実体である労働組織としての〝ムラ″と〝イエ″からは大きくかけ離れているのである。しかし、自然村を共同体の実体とみなす立場に立つならば、そのなかであらゆる共同体の機能が一個完結的に行なわれていることが実証抜きにして前提になってしまい、現実の共同体における機能の分化と拡散に状況がつかめないことになるのである。共同体が、自然村という概念からではなしに有賀喜左衛門や中村吉治が示したような同族団あるいは家連合の具体的な実証を通してしか把握できない理由はまさにそこにあるのである。」
P126「このように、かつて婚姻が若者組と娘組との交流の場で行なわれていたこと、およびこれらの組に宿親が介在していたことは事実であるが、こうした事実が果たして綱沢のいうような村落共同体における個人の自立の証明となるのであろうか。たとえば、相手の選択に一定の自由があったとしても、それはおたがいに交流することを許されている部落内の若者組と娘組とに属する者たちの間に限られていたし、また、婚姻の成立にあたって生みの親の規制はなくても、それにかわる宿親の規制は現に働いているのである。社会的な規制者としてのオヤは何も生みの親に限らないことは、柳田のすでに明らかにしているところである。」

P142-143「集落を構成するということも共同体のたしかに一つの重要な機能である。そこでは屋根葺きや冠婚葬祭があるいはいわれるような形で一緒に行なわれるかも知れない。しかし、「田植え、稲刈りも同じである」と色川(※大吉)が片付けてしまうのはいかにも安易すぎる。なぜなら各農民の耕作する田畑は、決して集落の屋並みと同じ順序で配列されてはいないのである。……そうなれば結の構成のしかたも小地域としての部落からはみ出してしまう。現象としての共同をいつでも〝ムラ″にみることは可能であるが、それらの共同はいつでも同じメンバーによって構成されているのではないのである。」
P143「共同体においては、本来の機能である生産面に関するものは生産力の発展につれて比較的早く失なわれて行くのであるが、基本的な生産にかかわりのない部分、たとえば冠婚葬祭をめぐる機能は往々にして古い形のままでいつまでも残るものなのである。」

P144-145「「小地域共同体」のなかには、もちろんこうしたタテの関係だけではなく、「結」や「講」や「若者宿」にようなヨコの関係も存在するわけであるが、それらの関係を具体的に検討すれば、それらは「小地域共同体」の成員すべてを網羅するような組織ではなく、また反対に「小地域共同体」と目されるものからのはみ出しもあり、そのようなものが多く存在することは、結局のところ、共同体の完全さ強固さを意味するものではなく、共同体の機能の分化・拡散、すなわち共同体の解体の状況を立証していると考えるべきものなのである。」
P146-147「しかし、色川のいうように、少なくとも大正・昭和期にはそうした共同体の動きはみられなかった。……色川は、それはその時期の共同体が「〝停滞期の村落共同体″」であったからとみる。私にいわせれば、そうしたものは共同体とは似而非なるもの、しいていえば擬似共同体にすぎないのであり、それが共同体の本来の機能を果たしていたと色川の考える「〝躍動期の共同体″」とは連続しないものである。」
※自衛の兵力さえもった自衛の原理に支えられる共同体の話をしている。

P150鶴見和子編「思想の冒険」(1979)p273からの引用…「それでは、おまえは未来永劫にわたって共同体の宿命下に生きるつもりなのか。人間がほんとうにすべての点において他を犯しあわず共同して生活できると信じているのか。そういう不信の声は必ずおこるであろう。……ところが、人間はあまりにも不完全で、……「性悪」なものだとするなら、止むなく、みずからが選んだくびきを甘受するほかはないであろう。しかし、それはきずから選んだ共同体であるという点において、……『ファウスト』の最後の独白の「地上の楽園」に近づくことになるかも知れない。」
※「これはもはや情念の問題であり、信仰である。このような共同体の歴史性を捨象した超歴史的な共同体幻想は、結局、色川らが批判する近代主義者がヨーロッパ近代にバラ色の市民社会を求めたことと同じく科学的ではない。」(p150)
p154「私は、共同体というのは、人間の生産力が低い段階において、個人の自立的生活が不可能なため、集団を作って生産・生活することを余儀なくされたことから個人の存在の前提として自然的に組織されたもので、自由意志でこれを作ったり、これから離れたりできる性格のものではないと考えており、その最も本源的な形態は原始社会におけるそれであるとみる。そして、その結合原理は血縁意識に求められるが、それは決して生物的な血のつながりを意味するものではなく、呪術・信仰によって生じた擬制的な血縁意識であったのである。だから、色川のように、「農民が血縁集団から自立して地縁集団に所属できるほどに、一人一人の経済力が強くなっていなければ」、共同体はできない、とは思わない。むしろ、その逆である。いずれにせよ、血縁から地縁へというシェーマは共同体を説明するのにあまりにも単純すぎるといわざるをえない。」

p183「しかし、それは私が桜井に対する批判のなかでも述べたように、一定の共同体と目される枠のなかで特定の個人が選びあって結びつくというのは、共同体が強固なものでなくなっている過程を示しているのであって、共同体の本来の姿を示していることにはならないのである。つまり、共同と共同体とは別個のものであり、共同体は歴史的にのみとらえて行かなければならないのであり、何らかの共同があれば、それをそのまま共同体とみるのはあまりにも単純すぎる。」
p184「そもそも共同体というのは、人間の低い生産力水準のもとで、個人の生存を前提として存在する組織である。」
p184「共同体社会の婚姻について、それよりも問題なのは、よしんばいわれるような形での「自由意志による選択」が成り立つとしても、その選択の範囲は村内の「若者組と娘組」との関係に限定されるのであり、他村との縁組の場合には、出るにしろ入るにしろ何らかの妨害があえうとすれば、それはとても「自由意志による選択」などと美化してみるわけには行かない。」
※これは鶴見和子(「思想の冒険」)の「若者宿・娘宿の実態は、共同体が個人の自立と自主性を育んだことは例証する」と「個人の選択原理」を強調する論理の批判である。このような昔の自由意志と今の自由意志の問題を安易に比較すべきでないという意味では傾聴すべき点。

P185「そして、また娘宿が一般に若者宿に管理下にあるという実態を、鶴見はどのようにみるのであろうか。そのような状況でもまったく個人の「自由意志による選択」があったとみなすのであろうか。そのような状況でもまったく個人の「自由意志による選択」があったとみなすのであろうか。それは女性の社会的地位に関する問題にもかかわってくることである。
鶴見は、「第三に、共同体内での衣食住の生活スタイルには、個性の滅却よりもむしろ、個人化と個性化の多様化のプロセスがあったことを、柳田は例証した」とみる。しかし、それは共同体が解体にむかう過程を示すもので、共同体そのものが積極的にそのような方向を進めたものではない。ここでの鶴見の理解には、共同体を超歴史的にみることからする救いがたい勘違いがある。「衣食住の生活スタイル」における「個性の滅却」という点からいえば、それは共同体社会よりも現在の商品経済社会の方がはるかに強いのがあたりまえである。」

p219「中村(※吉治)のこのような見解は、岩手県煙山村における実態調査による裏付けを持っているが、私も岩手県津軽石村や、長野県今井村において「村八分」の発生する時期が村方騒動の頻発する幕末・維新期であることを確認している。とにかく「村八分を共同体存続のための不可欠な慣習」とみることができないことだけは事実である。共同体が本来的に機能しているならば、規制は何も「村八分」のような形をとる必要はなかったのであり、またとることもできなかったのである。そして、そこから、われわれは、本来の共同体はまず何よりも労働組織・生産組織として存在したものであることを知ることができる。」
※「基本的には独立してきた農民が、感情や行事や祭の面で村意識をもっているようなときに、祭の仲間から除外するというごとき村八分が可能となる。」(中村「新訂・日本の村落共同体」p203-204)

p236「ただ、このように芳賀(※登)がECのような組織を含めて、それを「地域共同体」と呼ぶとき、それはもはや本来、労働組織・生産組織として自然的に構成された歴史的な共同体とはまったく異質なものになっており、共同生活圏とか共通文化圏とか称すべきものであるが、芳賀はこうした「地域共同体」を基盤としながら、「民衆史」の確立をはかって行くことになるのである。」
p242「芳賀は、柳田のいう「常民」は「今日での民衆」ではないから、「常民すら解体しているときに、柳田の提言にのみよりそっていて、民衆史を構築できるであろうかという疑いも当然生まれるのではなかろうか」としながら、「経世済民の志をもっても結衆する場がなくてはどうしようもない」のであり、「そのためにはどうしても小地域共同体に人々を結衆させることからはじめねばならない」として、……「民衆は祭りをもちたがっている」のであり、「地域社会の結合、いいかえると結衆の場としてこれを求めている」ことを指摘するのである。かくて、「祭りは、目で見、耳で聞き、肌で感じ、体で表現するものだけに強烈な行動文化でさえある」とする芳は、「この種の文化をみとめないものは、民衆史観をもたぬ人々といって断定してようのではなかろうか」と高唱した上で、「結衆原理」として「地域主義」を掲げ、「近代主義との対決」を目指しているのを知るとき、私はいよいよたじろぎを感ぜざるをえない。」
※このような芳賀の共同体観が労働組織ありきの共同体観と大きく異なることの問題。

P243「しかし、それはあくまで意識の上でのことであって、現実の生産点にある人々と知識人との間には厳然としたへだたりは存在するのである。それをこえようとするとき、知識人はみずから生産点に立つ用意がなければならない。その用意とは、単なる覚悟ではなしび、みずから生産の場としての土地なり労働対象なりにかかわりを持つことである。それなしの意識だけでは、主観的には土地なりとにかく、結局のところ意識の上でそのような考えに共感を持つ人々だけのサロン的な集まりでの、民衆に対する同情だけに留まるのである。」
※ある意味この当事者性の必要性を語るのは正しい部分もある。結局責任の問題がつきまとう以上、それを全うできる立場から語られなければ、常に無責任たりうるからである。

☆P248「要するに、共同体の基本は人と人とのつながりにあることを明らかにすることであり、それはすでに何度も述べているように労働組織としての人と人のつながりであって、そのようなつながりのもとで、人々が生産手段とどのようなかかわり合いを持つのかを明らかにするのが共同体研究の本旨である。なぜなら、人々の生産手段とのかかわり合いが所有であり、所有は生産力の発展に応じた人と人とのつながりの変化によって変化して行くからである。」
p250「ほとんどすべてが「思う」で表現されているところからみて、木村自身の共同体観にはなお確定されていない部分があるのかも知れないが、とにかく「村落共同体」は「政治の牙」を持っていなければならないものという思いこみがあるようである。だから村落共同体は中世後期か近世にしか現われないということになる。しかし、そこには、結局、人間の生産力の低い段階において、生産や労働がどのようにして行なわれなければならなかったかということをみる重要な視点が欠落している。」

p251「村落景観と「政治の牙」だけから説かれる共同体からは、共同体が人と人とのつながりによって成立していることなど決してつかむことができず、図式化された公式論に終始することとなるのである。」
p252「共同体はあくまで近代以前の社会における歴史的存在でなければならないから、明治以降の社会においてその残存がみられたとしても、その消滅は時間の問題であり、今日、現象的には共同体に類似した組織があったとしても、それは共同体とはまったく別個の次元において成立した近代的な機能集団として考察を加えなくてはならない。」
p254「人間社会におけるあらゆる共同はすべて共同体とみることはできない。少なくとも近代共同体などというものはありえない。しかし、人間の生産力が低い段階において人間の生存の前提として自然的に構成された労働組織・生産組織・生活組織は間違いなく共同体なのであり、そこにおける作業や生活がどのような人と人とのつながりにおいて行なわれ、そのようなつながりが生産手段とどうかかわっているかを解明することこそが共同体研究の中心となるべきなのである。」

p264「それゆえそこにおける所有は共同体所有のみで、それは非所有をともなわない所有、あるいは非所有と対応しない所有として端初的には現われるのである。そのような所有はまた個人の生産手段への緊縛であり、それゆえにこそ個人は自立できないのである。かかる所有原理を基底として持つ共同体は近代以前のあらゆる社会の発展段階に存在するものであったが、その本源的な形態は原始社会の共同体であり、そこでの基本的な結合原理は生物的な血縁関係とは異なる擬制的な同血縁意識に求められていた。」
※出典なし。

P273「平山(※和彦)が事例としてあげている「辺名部落における親方の寄付」とか「廻部落における区長の宴会」といった類いは、いわれるような共同体の平等性や平準化の状況を示すものではなく、むしろ共同体がその本来の性格を失っていることからくる親方や区長の統治策の一つにすぎず、しかもそうした過程で行なわれる「部落を一本にしぼる」という形での全会一致、反対はあっても反対することができないようにして行くやり方は、明治以降、共同体としての本来の機能を失ったにもかかわらず、個人の自立を妨げる擬似共同体として国家権力から存在を容認されて十二分に利用されたものにすぎないのである。そこには、親方や区長のおごりにたかる物買い根性があるだけで、「平準化」とか「平等性」とは無縁のものであり、そのようにみるのは、ためにする共同体の美化に通ずるのみである。村ぐるみ、部落ぐるみの選挙違反がおきる原因はまさにこうしたところにあるのである。」
p275「現在の危機といわれるものを資本主義体制の生み出した危機としてとらえるならとにかく、共同体社会から資本主義社会へなってしまったことによって生じた危機と考えるなら、それはもはや世界観の相違といわざるをえない。そして、現在の危機を共同体の見直しによって救済できると考えているとするならば、その主観的意図はどうであれ、資本主義体制にとって痛くもかゆくもないのであり、かえって体制を擁護する皮肉な役割を果たすことになる。共同体の解体を要請したのは資本である。しかし、資本はつねに共同体の解体を一挙におしすすめるのではない。資本の必要に応じて解体をすすめるのである。だから、近代社会において共同体的なものが残っているのもまた資本の要請なのである。資本が前近代的なものを残しておくというのも資本の本源的蓄積の重要な一部をなすのである。そうした資本がいまや残しておいた前近代的なものを解体しなければならなくなったことによって直面している危機は明らかに資本主義体制の危機であるという認識を欠いた心情的な議論が近時あまりにも多すぎることが気がかりである。共同体の見直し論者のなかには現代の人類にとっての危機ととらえて、資本主義も社会主義を超えてという方向にむかう議論を見出すことすらあるが、こうした議論は結局、社会主義を「超え」ることはできても決して資本主義を超えることにはならないのである。」
ドゥルーズ/ガタリの解釈と同じ資本主義観!

P278-279「このような議論が行なわれる背景には、近世の〝ムラ″を確固とした村落共同体としてとらえ、明治以降の〝ムラ″にもそうした共同体の性格が根強く残っているとみる考えがあるのである。しかし、近世の村落共同体は、共同体の歴史からいえば最終的な解体過程にある共同体であり、その機能は最初からかなりの程度に分化・拡散していたのである。それだからこそ、近世の村落共同体は、労働組織とか水利組織とか林野利用組織とか、さらには貢租組織とか商品流通組織とかいうように、本来ならば村落共同体が一個完結的に持っているべき諸機能について、それぞれの機能ごとの共同組織のあり方を通じて別個に解明されなければならなかったのである。また、そこにおいて商品流通組織の存在すること自体が純粋に自治的な共同体社会ではなかったことを物語っている。このことは、要するに近世の村落共同体が、解体期封建社会としての幕藩体制に照応した共同体として、すでにその成立期から一個完結的な機能を有するものでなかったことを示しているのである。」
※流通と自給自足の問題を考えてしまうと、どの点が共同体の時代なのかがわからなくなる。少なくとも石器時代あたりにまで遡らなければならないだろうし(すでに交易が存在することが指摘されている)、そのような共同体が「存在しない」ことも証明できてしまうかもしれない。したがって、岩本のいうような形での「不自由論」もまた不毛であるように見える。

P280-281「かくて水田農業の行なわれている日本において、明治以降、現代にいたるまでみられる水や山の共同利用も、共同体の論理からではなしに資本の論理から説明されなければならない。つまり、人間社会には何らかの形での共同はつねに存在するが、その共同がいつでも共同体であるとはいえないのであり、とくに資本主義社会における共同は、資本制以前の社会における共同とは異なって、生産力の発展にもとづき経済の基礎単位として自立しえた個人によって一定の目的合理性を持って構成された機能集団としてとらえなくてはならない。」
※先述の議論と比べれば、明らかな飛躍がある。この論述は、恣意的な形で資本主義の議論に結びつきすぎている。

P304-305「しかし、橘川(※俊忠)は、「そのことは農本主義が単なる復古主義であることを意味するわけではない」とし、「農本主義は、伝統に名を借りた現状批判であり、擬似的にではあれ革新性をすら有している」ゆえに、「工業の飛躍的拡大を特徴とする資本主義の近代が、新しい形の人間的悲惨を作り出さざるをえない以上、工業批判としての農本主義は、人間的立場に立って資本主義を一見否定するかのようにみえる」が、結局のところ「農本主義の伝統志向は、この資本主義批判を未来へ開かれた批判として展開することをさまたげざるをえない」と指摘する。この橘川の農本主義に対するうけとめ方はやはり現在の思想的状況のもとにおいて重要である。」
P315「もし、村落共同体が本来の機能を一個完結的に持っていたとするならば、村八分のような方法をとらずとも、日常の生産をめぐる機能そのものが共同体成員に対する十分な規制となりえたのであり、むしろそうしたものこそが本来の意味での共同体規制であったのである。」

P369岩本の共同体の定義…「共同体とは、人間の生産力水準が低く、個人が社会の基礎単位となりえない段階で、人間生存の前提として構成された集団であって、個人の自由意志で作ったり離れたりすることのできる性質のものではない」
※この規定が素朴であるという論者のいることに反感を覚えているようだが(p370)、ある意味でそのような岩本への批判は正しい。これだけでは具体性が極めて乏しく、実証的作業による提示により「共同体でないもの」との区別をしていかない限り、かなりの解釈の幅を与えているのは明らか。そして本書でもそのような具体的な議論はない。景観主義の批判は具体性の議論には全くならない。
P375-376「私は、労働組織・生産組織としての機能が失われているところに本来の共同体はありえないと考えており、信仰をめぐる共同体というのはそうした本来の共同体の属性としての機能の一部であり、もはやそれのみしか存在しないというのは、本来の共同体が実態を失なって形骸化している状況を示しているのであって、それを軸としての共同体の再興はありえないという立場をとるものである。」
※あるべき共同体の実像が非現実的なものである以上、この「共同体がありえない」という論法自体に問題があることになる。

P384-385「ここで玉城(※哲)のいう「イエ」と「ムラ」が、人間の生産力が低く、個人が経済・社会の基礎単位として自立できない段階において、人間の生存の前提として構成される集団としての共同体なのである。」
P388「共同体に対する実証があまりにも不足しているそのような状況のもとで、共同体の再評価などをいうのは時期尚早である。それゆえ、現時点において共同体を議論しようとする者にとって、まずその歴史的解明を進めることが不可欠の課題であると私には思えるのである。」
※このような状況のもとで、岩本の共同体観が正しいものとして位置付けられる根拠はあるのか?
P389-390「共同体の問題は、一九五〇年前後から、農地改革の評価とからんで、一時たしかに、歴史学・経済史学・農業経済学・社会学法社会学関係の学会などにおいて、流行的に取り上げられたことはあったが、当時の社会科学研究者のかなりの部分が、こうした問題の取り扱いに関して特定政党の政治路線の影響を強く受けていたために、その政党の政治路線が変るとともに、何らの結論も出されないままに、研究そのものが放棄されてしまった。」

P391「それが今日、共同体は(※かつてのように)否定さるべきものではなく、現代の混迷からの脱却のための組織として復権させられようとさえしているのである。つまり、資本主義化あるいが西ヨーロッパ化という形をとった近代化が生み出した諸悪からの解放の拠点として、共同体が位置づけられようとしているのである。しかし、共同体の有していた歴史的意味を知るものにとって、共同体にそうした新しい性格を付与することはできない。にもかかわらず、共同体の再評価といったことが地域主義といういささか正体不明なものと一部重なりあいながら、このところ、日本の見直しといったことが学会や思想界でも活発である。」
P393「しかし、そのようにして成立した漁村の場合、生産手段である漁場は耕地のように生産者に分割されるというわけには行かなかったから、共同体的所有が貫徹されなければならなかった。かくて海産物の商品化と漁場の共同体的所有の貫徹という一見して矛盾した状況が現出されることになったのであり、そこに近世における村落共同体の性格が凝縮されているということができる。」

マイクル・クライトン、酒井昭伸訳「ライジング・サン」(1992=1992)

 今回は今後の伏線の意味も含めつつ、「日本人論」の捉え方の事例として、マイクル・クライトンの小説を取り上げる。
 本書では至るところで「日本人」についての言及があったが、基本的に何らかの因果関係が説明されている部分を全てノートにまとめた上で、どのような形で日本人を説明しているかの分析を行ってみた。


 恐らく、本書で日本人の性質についての核心に触れているのはp372の部分であると言っていいだろう。しかし、ここでの記述は冒頭からすでに矛盾している。「農民」と「サムライ=武士」を同じものとして語っているという点である。しかし、ここでは主にムラ社会的な価値観に基づいて行動しているということは明らかであり、サムライは農民であるかのような捉えられ方をしている、という点をまず押さえておこう。
 そして、このムラ社会的な性質であることを基軸にして、更に3つの性質を大きく本書では捉えている。

1.「日本人は集団主義的である」
 P372でもすでに触れられているが、日本人は人と人の関係性について何よりも重要視しているとされる。これに関連する内容はかなり多い。このことが基本的に「因習でがんじがらめに」なることにつながる(p296)。言葉をあまり使わず、逆に「議論を避けようとする」(p22-23)。周りの空気に合わせなければならないため、「立場に応じて態度を変え」ることになる(p83)。細かなことに気を使うことになり、「慎重にことを進め」(p298)、「用意周到」になる(p104)。「カイゼン」主義(p276-277)も同じ理由といえる。これが「ものごとにしかるべき関心をはらう」ことにも繋がる(p69)。しかし反面「意思決定システムが前例に基づくものであるため、前例のない状況に遭遇すると、どう対処していいのかわからなく」なり、「新しい状況に対しては、日本の組織は迅速な対応ができない」(p84)。
 これは組織論的にも語られる。「ケイレツ」企業への言及(p142-143)や閉鎖的な市場(p304-305)、政府の関わり(p380)などが該当するだろう。


2.「日本人は競争的である」
 1.と同じ位本書で強調されているのは、日本人が競争的であるという点である。これはp144-145に書かれているように、伝統的に「愛と戦争のためにはなにをやってもいい」という価値観があるものとして語られる(※1)。基本的に本書は日米貿易摩擦をメインに扱っており、日米間の経済競争を「戦争」という言葉で何度も表現している(p187-188,p190,p273,p529-530)。アメリカのルールに反したダンピング(p305-306)や特許のシステム(p273)といったものを取り上げている。
 本書において1.と2.のどちらがより影響力があるかはなんともいえない。単純な日本描写の数ならば1.の方が多いかと思うが、日本がアメリカとの経済競争に優位に立ち、本書における事件に大きな影響を与えている政治・警察・メディア等への「圧力」の存在は、組織論的な支えとしての1.よりも2.の論点からの方が説明できるだろう。

 しかし、ここで疑問になるのは、この「競争性」がどうにもムラ的価値観から導きだせるとは考えづらいという点である。閉鎖的なムラは闘争的だったのか。これはこれで議論の余地がある論点である訳だが、ここではムラが闘争的だったというよりかは、前述した「サムライ」のイメージから影響を強く受けていると考えるべきではなかろうかと思う。本書からは直接導き難いが、下記のような議論を踏まえれば、自然に競争性を理解できると思う。

日露戦争前後、それは日本が欧米の友好諸国、イギリスやアメリカその他に最も高い評価を受けていた時期であるが、その頃の日本人のイメージは、サムライであることと、西欧の模倣者であることの二つのあいだで揺れていた。日露戦争に従軍した欧米人記者が書いたその戦争における日本は、やはり、サムライの後身としての日本の姿と、新たに勃興した小さな帝国主義勢力というイメージとの二つがずれて重なっているようである。そして日本の側も、自ずと、日本というものを外に表現するとき、西欧と同じ国家制度と軍事力を持つという「共通性」を強調して振る舞うだけでなく、サムライの伝統を持つものとして、「高貴な野蛮人」という「固有性」を逆利用しているところがあった。」(船曳建夫『「日本人論」再考』2003,p220)

 帝国主義という表現こそ、まさにこの競争性を意味していると言っていいだろう。このような「競争的なサムライ」という発想は、第二次大戦前の話に留まらず、本書の出た90年代においても経済の競争という意味で残り続けたと言うことができそうである。

3.「日本人は差別主義者である」
 日本は無理解による差別があり(p395)、世界一のレイシストであることが強調される(p500)。これは人種差別に限らず、女性差別についても同じように語られているとみてよいだろう。P252ではこれを否定する描写もあるが、日本企業のオフィスの描写では女性の姿はないに等しいとされるように(p323)、その存在を暗示するような場面もある。
 P332では政府高官を引き合いに出しているが、日本政府や議会で発言された内容がアメリカでも報じられ、反日的態度を育てていた可能性は大いにある。この部分は恐らく本書が出た1992年にあった次のような事実に基づいていると思われる。

「一九九二年初め、バイ・アメリカンをスローガンにした、事実上の日本製品ボイコット運動が全米で吹き荒れた。きっかけをつくったのは、同年一月一九日の「アメリカの労働者の質は劣悪で、労働者の三割は文字が読めない」という桜内衆議院議長の発言である。さらに宮沢首相が「額に汗をして働くという倫理観が欠けているのではないかと思ってきた」(同年二月三日)と述べ、アメリカ人の反日感情の炎に油を注いだ。」(石朋次、柏木宏「アメリカのなかの日本企業」1994,p59)

 この差別についてもムラ的発想から直接導き出せるのか多少の疑問もある。確かに「村八分」的な発想から言えば、ウチとヨソを明確に区別し、ヨソ者には冷たくするということは考え方として自然であるようにも思える。しかし、これは明確なものとは言えない。それは結局集団主義における「集団」とは何を指すのか、によりウチとヨソの解釈が変わるということである。本書においてもこれは曖昧なニュアンスとして描いている節がある。スシ職人のヒロシの例(p497)がその典型であるし、「恩義」に関する議論(p45,p165)もまた、必ずしも固定された区分けがなされるとは限らないことを示すものであると思う。よって、1.の論点と並列して語ることは難しいように思える。


 1〜3の論点というのは、全く同じ要素として取り上げることはできないように思えるが、しかし無関係という訳ではなく、それぞれで容易に関係性を結ぶことも可能な要素であるといえる。だからこそ本書でそれをまとまった形で「日本人論」として表現することにあまり違和感がないということだと思う。
 以上のことを踏まえても、p372で議論されているムラ社会の言説というのは、共通項として機能しているかどうか疑問があり、むしろ「伝統的価値観」という議論に引っ張られている傾向が強いのではないかとも思えてくる。本書では語られていないが、これが飛躍し「価値観が古い=野蛮である」という見方もなされうるし、この野蛮さというのは「差別主義」という特徴とも極めて親和的であるといえるのである。

○本書にみる「アメリカ」へのものの見方
 本書で合わせて注目せねばならないのは、しばしば日本と対比的に語られるアメリカへの批判的な見方である。これは、D・W・プラースのレビューの時にも感じたことだが、日本人論を語ることが、アメリカ自身の内省を強く促すためにも用いられているということであり、本書もそれがかなり色濃く現われているといえる。
 いくつか興味深い論点を取り上げると、誰がクビになるか(誰が責任をとるのか)を問題視すること(p109)、個人主義への批判(p292-293)、団結心の欠落(p312)、働く意欲がないことへの批判(p270-271)、基幹産業の軽視(p294)といったものである。これらはほとんど日本がアメリカを対比して自己批判しているのとほとんど変わらないものであるように見える。日本人による日本批判を読解するにあたって、アメリカ人によるアメリカ批判を合わせて読んでみるというのも悪くはないように思う。最も、このレベルに留まるのであれば、水掛け論と変わらないため、何らかの具体的な(実証的な)比較をもって行う必要もあるように思うが。


※1 今回取り上げなかった論点だが、ここでいう「愛」というのは恐らくp166-167の性に対する態度に関連していると思われる。性差別の議論とは関連しそうな気もするが、本書ではこの点について触れられていない。


<読書ノート>
p22-23「「交渉をはじめたら、日本人が交渉をきらうことをわすれるな。彼らにとっては、対決色が強すぎる。向こうの社会は、できるだけ議論を避けようとするんだ」
「了解」
「身ぶりは控えめに。両手は脇にそろえておくこと。日本人はおおぶりな身ぶりに脅威を感じる。それから、ゆっくりとしゃべることだ。声は冷静かつおだやかに」」
p24「「師と弟子の関係、みたいなもんですかね?」
「ちょっとちがうな。日本におけるセンパイ=コウハイ関係は、それとは異なる性質を持つ。センパイというのはむしろ、よく気がつく親のようなものだ。センパイは全面的にコウハイの面倒を見て、そのやりすぎやあやまちを正すことが期待される」」
p28「九十階以上の建物じゃ、ガラス張りのエレベーターは禁止されてる。なのにこいつは九十七階建てーーLA一のノッポ・ビルだ。もっとも、このビル全体が特例のかたまりみたいなもんでな。こいつはたったの半年でおっ建っちまった。どうやったかわかるか? プレハブのユニットをナガサキから持ちこんで、ここで組みたてたんだとよ。アメリカの建設作業員をただのひとりも使わずにだぞ。労組も文句のいえない、特別の許可をとったらしい。その名目がいわゆる技術上の問題ってやつで、日本人作業員にしかできないことだからだそうだ。信じられるか、そんなこと?」
p38「「がっかりしましたよ、刑事さん。あなたがこれほど協力的でないとはね」
「協力的でない?」さすがのこのあたりで、わたしの忍耐も限度に近づいていた。」
p42「「イイカゲンニシロ! ソコヲドケ! 聞イテルノカ!」
すさまじい剣幕に、イシグロは身をすくませ、あとずさった。
コナーは上から押しかぶさるようにしてイシグロに顔を近づけ、怒声を飛ばしつづけた。
「ドケ! ドケ! ワカラナイノカ!」
それから、エレベーターのそばの日本人たちに向きなおり、猛々しく指をつきつけた。コナーの迫力に気圧されて、日本人たちは目をそらし、おどおどと煙草をふかしている。だが、それでも立ちさろうとはしない。」
p42-43「「このごたごたの原因はすべておまえにある。責任上、うちの者たちに手助けがいるときは、おまえに協力してもらうぞ。それから、死体を発見した人間と、最初に通報してきた人間、このふたりと話したい。死体が発見されて以来、このフロアにきた人間全員名前も必要だ。タナカのカメラのフィルムも持ってきてもらおう。オレハ本気ダ。これ以上操作妨害をするなら逮捕するぞ」
「しかし、上司に相談しないとーー」
「ナメルナヨ」コナーはぐっと顔を近づけて、「つべこべぬかすな、イシグロ・サン。さあ、とっとと出ていけ。おれたちに仕事をさせろ」」
p45「「下っぱを前面に立ててボスがうしろに控えているというのは、よく使われる手だ。そうすれば、ボスはなりゆきを自由に観察できる。わたしがきみに対してやっていたようにな、コウハイ」
「すると、イシグロのボスは一部始終を見ていた?」
「そうだ。そしてイシグロは、明らかに捜査をはじめさせるなとの命令を受けていた。こちらとしては捜査をはじめなくてはならないが、そのためにはイシグロが無能だから押しきられたわけではないことをボスに見せてやらなくてはならない。そこで、怒りの手のつけられないガイジンを演じてみせたのさ。これでイシグロにひとつ貸しができた。あとあとのためには、そのほうがいい。いつ彼の力がいるようになるかもしれないからな」」

p64「「そうだ。アメリカ人は国を切り売りすることに熱心だ。日本人のほうも驚いている。われわれが経済的自殺を試みているのではないのかとね。もちろん、それはあたっている」」
p68「「この会社が気にいっているようですね」
「そりゃあね。やっぱり、職が保証されているから。アメリカじゃあ、これはたいしたことですよ。日本人が黒人を見くだしてるのは知ってるけど、いつもちゃんとあつかってくれるし。」
p69「「——なにか問題が出てきたり、うまくいかないことが起きたときは、だれかに報告しさえすりゃあいい。すると、上司がやってくる。ここの上司はシステムのことを知ってるからーー仕組みを理解してるからーーいっしょに問題にとりくんで、解決する。ただちにね。ここでは問題は解決されるんです。そこがちがいなんだ。もういちどいいますよ。日本人はね、ものごとにしかるべき関心をはらうんです」」
p69「「忠誠心はだいじですからね」しきりにうなずきながら、コナー。
「日本人にとってはね」とフィリップスは答えた。「連中は会社のために情熱をかたむけることを期待してます。だから、わたしはいつも十五分から二十分早めに出勤して、十五分から二十分も遅く帰るようにしてるんです。日本人は余分な勤労奉仕を喜ぶからね。」」
p83「きみはイシグロを裏表のあるやつだと考える。だが、向こうはきみのことを単細胞だと考える。なぜなら、日本人にとって、つねに一定したふるまいをすることは不可能だからだ。日本人は相手の格に応じて別人になる。」
p83「「それならきみも、立場に応じて態度を変えていることになる。つまりそれは、だれもがやっていることなんだ。ただ、アメリカ人はどんなときも核となる自分があると信じているのに対して、日本人は立場こそがすべてを決定すると思っている。それだけのことさ」」
p84「「日本の組織というものは、危機にさいしての反応がじつに遅い。意思決定システムが前例に基づくものであるため、前例のない状況に遭遇すると、どう対処していいのかわからなくなってしまうんだ。ファックスの話を覚えてるだろう? あそことナカモトのトウキョウ本社のあいだでは、ひっきりなしにファックスが飛びかっていたにちがいない。たぶんいまも、はっきりした方針は打ちだされていないのではないかと思う。新しい状況に対しては、日本の組織は迅速な対応ができないんだ」」
p86「わたしたちは第二のガラス扉を通りぬけ、絨緞を敷いた廊下を歩いていった。廊下の両端には、小さな漆塗りのテーブルが一脚ずつ置いてある。インテリアは質素ではあるが、驚くほどエレガントだ。
「いかにも日本人らしいことだ」コナーはそういって、にやりと笑った。
エストウッドにある、うらぶれたチューダー様式まがいのアパートが? いかにも日本人らしい? どういうことだ? 左の部屋から、かすかにラップ・ミュージックが聞こえてきた。M・C・ハマーの最新ヒットだ。
「外見からは中身を判断できないという意味でだよ」と、コナーは説明した。」

p102「「かもしれん。しかし、日本人はアメリカの警察がずさんだと思っている。この手落ちは、そんな侮りの現れ表われかもしれない」
アメリカの警察はずさんじゃありませんよ」
コナーはかぶりをふった。
「日本の警察に比べればずさんなんだ。日本では、犯罪者は例外なく捕まる。重大犯罪での検挙率は九十九パーセントだ。だから日本の犯罪者には、その犯罪に手を染めた段階でいずれ捕まることがわかっている。ところがこの国では、検挙率は十七パーセントしかない。五件に一件にも満たないんだ。だから合衆国の犯罪者は、自分がたぶん捕まらないことを知っている。」
p103「「アメリカ人に彼をはっきり理解することはむずかしい」とコナーはいった。「なぜならアメリカでは、一定のミスはあたりまえと考えられるからだ。飛行機が遅れても驚かない。郵便が配達されなくても驚かない。洗濯機が壊れても驚かない。……
ところが、日本ではちがう。日本ではすべてが整然と動いているんだ。トウキョウ駅では、プラットフォームのマークされた場所に立ってさえいればいい。やってきた電車がとまると、目の前でドアが開く。電車は定刻どおりに運行している。カバンが行方不明になることもない。電車が遅れて乗り継ぎに失敗することもない。刻限は守られる。ものごとはすべて予定どおりに進む。日本人は教育程度が高く、用意周到で、志が高い。なんでもきちんとかたづける。時間が浪費されることはない。」
p104「彼らは用意周到だ。あらゆる緊急事態に対する備えをしていたと思っていい。その手配ぶりも手にとるようにわかる。会議テーブルにへばりついて、ありとあらいる可能性をしらみつぶしに検討していくんだ。火事になったらどうする? 地震が起きたらどうする? 爆弾を仕掛けたという脅迫があったら? 停電になったら? そんなふうにして、まず絶対に起こりそうもないことがらまで際限なく検討していく。ほとんど強迫観念のとりこのようだが、当日がきたときには、あらゆる可能性を想定しつくしているから、万全の態勢ができあがっている。準備ができていないというには、彼らにとっては非常にまずいことなんだ。」
p106「ナカモトはタイメンーー企業イメージに対する懸念を表明し、マスコミは報道を自粛した。信用したまえ、コウハイ。ここにはなんらかの圧力がかかっているんだ」
p109「日本人ならああゆうやりかたはしない。日本のことわざにいわく、〝罪を憎んで人を憎まず″。アメリカの組織では、だれの責任か、だれのクビが飛ぶのかが問題になる。日本の組織で問題になるのは、なにが起こったのか、それをどうやって解決するかだ。だれもなじられることはない。彼らのやり方のほうがすぐれている」

p125「日本人のことさ、あんたらになにができるってんだ? 連中、何歩もおれたちの先にいってるんだぜ。しかも大物どもをふところにとりこんじまってる。連中を懲らしめることなんて、もうできっこないんだ。あんたらふたりじゃまずむりだ。やつら、優秀すぎる」
p135「「どうしてこの局にはないんだい?」わたしはたずねた。
「この国では売ってないだけ。日本製の最先端のビデオ装置は、この国では手にはいらないの。はいってくるのは、三年から五年遅れ。まあ、向こうの特権ではあるけどね。連中のテクノロジーなんだから、どうしようとあっちの自由よ。」
p142-143「「この事件の構図全体が、だれかがあの電話から通報したかどうかにかかっていたからさ。これから考えるべきは、日本のどの企業がナカモトと角つきあわせているかだ」
「日本の企業?」
「そうだ。それは異なるケイレツに属する企業にちがいない」
「ケイレツ?」
「日本のビジネス構造は、彼らがケイレツと呼ぶ巨大組織の上に成立している。とくに巨大なのは六つのケイレツだ。たとえばミツビシ・グループは七百ものケイレツ企業を擁していて、これらは仕事上で共同し、財務面、意思決定、その他さまざまな面で、相互に関連を持つ。そんな巨大な構造は、アメリカには存在しえない。独占禁止法に違反するからさ。だが、これは日本ではあたりまえのことだ。われわれは企業が独立して存在するものと考えるが、日本流の考えではちがう。たとえば、IBMシティバンク、フォード、エクソン、こういった企業が提携し、ひそかに意思を疎通しあい、資金や研究成果を共有しあう。つまり、日本企業は独立していないーーつねに何百もの他企業と協力関係にあるということさ。そして競争関係にあるのは、他のケイレツとなんだよ。」
p144「「自分が競合企業に勤めていて、ナカモト内部の事情をさぐりたいとする。とろこが、それはできない。日本企業は重役を終身雇用するからだ。重役は自分がファミリーの一員だと感じる。だから、ファミリーを裏切ることはない。したがってナカモト・コーポレーションの内情は、外からはうかがい知りようがない。」
p144-145「「日本ではよく、ライバル企業の警備員を買収しようとする。日本人は名誉を重んずる民族だが、伝統的にそういう行為は許容されるんだ。つまり、愛と戦争のためにはなにをやってもいい。そして、日本人にとって、ビジネスは戦争にほかならない。可能であれば、買収も一策なのさ」」

p164-165「「わたしのダイロッカンやめろといっている」
このことばは聞いたことがある。直感という意味だ。日本人は直感を重視するという。」
p165「「わたしはエディのおかげで命拾いをしたといってもいい」
わたしたちは階段を降りきった。
「で、さっきそれを持ちだされた?」
「日本人はそんなことは絶対にしない。借りを思いだすのはこちらの役目だ」」
p166-167「「ああ、それはたいしたことじゃない。日本はフロイトキリスト教を全面的には受けいれなかったからな。性についてやましさを持ったり気はずかしさを覚えたりはしないんだよ。ホモも公認。変態セックスも問題なし。向こうではあたりまえのことなんだ。そういうものを好む人間がいる。だからそうする。べつに悪いことじゃないだろう。日本人にはなぜアメリカ人が露骨な性表現に辟易するのかが理解できない。逆に、われわれのセックスに対する考え方がすこし堅苦しすぎると思っている。それは一面の真理でもあるな」」
p167「ところが日本では、真夜中に公園にはいってベンチにすわっても、なにも起こらない。昼でも夜でも、まったく安全なんだ。……自分が安全だということは、社会全体が安全だということでもある。自由そのもの。これはじつにすばらしい気分だよ。しかしここでは、だれもが内に閉じこもる。ドアにロック。車にもロック。鍵だらけの日々を送ることは、監獄にいるのも同然だ。まともじゃない。心だって病んでしまう。だが、そんな状態がずいぶん長くつづくうちに、アメリカ人は安全であるという実感がどんなにすばらしいものであるかをわすれてしまったらしい。」

p187-188「この国は戦争状態にある。それをわかってる連中もいるし、敵に味方する連中もいる。第二次大戦のときとおんなじだ。ドイツに金をもらって、ナチのプロパガンダを吹きまくってたやつらがいただろう。ニューヨークの新聞は、アドルフ・ヒトラーのせりふかと思うような社説を載せた。戦争のときには必ずやそういうやつが出てくる。そしておまえは、まさしく敵の協力者なんだよ」
p188「「グレアムの叔父は、第二次大戦で日本軍の捕虜になったんだ。トウキョウに連れていかれて、それっきり行方不明になった。戦後、グレアムの父親は日本に飛んで、弟の安否をたずね歩いた。なにがあったのかについては、いろいろと不愉快な疑念もあったがね。日本に連行された少数のアメリカ軍人が、むごい医学実験で殺されたことはきみも知っているだろう。その肝臓を面白半分で部下に食わせたというようなうわさは、たくさんあった」
「いや、知りませんでした」」
p189「相手に好意をもってもらうために贈り物をするというのは、日本人にしてみれば本能のようなものだ。そしてそれは、われわれがやっていることと大差ない。アメリカ人だって、ボスを夕食に招いたりするだろう。善意は善意だ。ただし、昇進を控えて上司を招いたりはしない。招くなら、関係ができたばかりの時期、まだなんの利害関係もない時期にそうしておくべきだ。」
p190「まさにそのとおり。われわれは日本と戦争しているのさ。」
p193「日本では、なにかへまをしたときいちばん効果がある方法は、相手のもとへ出向いて、心底からすまないと思っていること、心から悔やんでいること、二度と同じ失敗はしないことを切々と訴えることだ。形式的なものだが、相手はいかに失敗から教訓を学んだかを感じいる。それがスイマセンーー際限ない謝罪だ。法廷の慈悲に身をゆだねることの日本版と思えばいい。それが慈悲を得るうえでの最良の方法と考えられているんだ。」

p210「あれは古典的な日本のやりかただった。何年か前、GEは世界一高性能の医療用スキャナーを開発したんだが、そのさい、日本市場にこの装置を売りこむため、子会社を作った。ヨコカワ・メディカルだ。しかもGEは日本式のビジネス展開を行なった。シェアを確保するため、競合各社よりコストを抑え、きめこまかいサービスとサポートを行ない、顧客の覚えをよくすることに努めたんだ。潜在購買者に航空券やトラベラーズ・チェックを配ったりしてね。われわれにいわせればこれは賄賂だが、日本では標準的な商慣習だ。ヨコカワはトウシバのような日本企業を抑えて、たちまち業界首位に躍り出た。日本企業はそれが気に食わず、アンフェアだと申したてた。そしてある日、当局がヨコカワの事務所を手入れして、賄賂の証拠を発見し、ヨコカワの社員を何人か逮捕した。ヨコカワの名前はスキャンダルにまみれた。それで日本でのGEのセールスがたいして落ちこんだわけじゃない。日本企業が賄賂を送っていることも問題じゃない。なんらかの理由で、やりだまにあがったのは外資系の企業だったーー問題なのはそちらのほうだ」」
p210-211「知ってのとおり、日本はいつも、日本市場は開かれているといっている。だが、そのむかし、日本人がアメリカの車を買うと、政府の調査を受けさせられる時期があった。だから、じきみなだれもアメリカ車を買わなくなった。政府は肩をすくめるだけだ。当局になにができよう。市場は開かれている。客が買わないのだからどうしようもないというわけさ。だが、そこには無数の障壁がある。輸入車は一台一台、ドックで検査されるが、これは排ガス規制基準に適合しているかどうかをチェックするためだ。外国の医薬品を検査するのは、日本の研究所の日本人だけ。かつては外国製のスキーも、日本の雪質はヨーロッパやアメリカより湿っているという理由で排斥されたことがある。それが外国に対する日本人のあつかいなんだ。自分たちがこの国で同じ仕打ちをされることを心配するからといって、驚くにあたらない」

p246「いまでは外国もトウキョウに牛肉を輸出できるようになった。向こうは牛肉がキロあたり二十ドルから二十二ドルもする。なのに日本では、だれもアメリカン・ビーフを買わない。アメリカ人が牛肉を輸出しても、ドックで腐るだけだ。ところが、牧場を日本に売れば、問題なく牛肉を輸出できる。なぜかというと、日本人は日本人の所有する牧場からなら牛肉を買うからだよ。日本人は日本人となら取引をするんだ。じっさい、モンタナ州ワイオミング州の牧場はあらかた身売りしちまった。……アメリカの牧場主だって馬鹿じゃない。状況はよく見えている。競争にならないことは一目瞭然だ。だから、売る」
p246「日本人は牧場経営のしかたを教えてくれる人間をほしがってる。しかも、従業員全員の給料もあがる。日本人はアメリカ人の感情に敏感だ。なにかと神経をつかう連中だからな」
p252「「外国人が日本企業でポストを確保することは可能です。もちろん、トップはむりですし、重役もむずかしいでしょう。しかし、それなりのポストにつくことはできます。日本企業において外国人の確保できるポストは重要なものであり、みなさんは尊敬されますし、立派な仕事をなしとげることもできます。外国人である以上、特殊な障害はいくつか乗り越えねばなりませんが、それは不可能事ではありません。自分の立場を知る。これさえ覚えていれば、みなさんは成功できるのです。」」
p252-253「「管理者たちが何度となくこういうのを、みなさんは耳にしたことがあるでしょう。〝日本の会社にはポストがないから、辞めるしかない″。あるいは、〝日本人はおれのいうことになど耳も貸さないし、おれのアイデアを通すチャンスもない、出世のチャンスもない″。こういう人は、日本人社会における外国人の役割を理解していないのです。それでは会社に融けこめず、出ていくしかない。しかしそれは、その人の考え方の問題です。日本企業はアメリカ人その他の外国人を受けいれるために、万全の用意を整えています。というよりも、むしろ積極的に受けいれたがっている。ですから、みなさんもちゃんと受けいれられることでしょうーー自分の立場をわきまえているかぎり」
ひとりの女性が手をあげた。「日本企業における女性差別はどうなります?」
「女性蔑視などありません」と講師は答えた。
「女は出世できないと聞いていかすが」
「そういう事実はありませんよ」
「それなら、あんなにたくさん訴訟が起きているのはなぜですか? スミトモ・バンクは、大がかりな反差別訴訟で和解したばかりですね。アメリカの日本企業の三分の一はアメリカ人雇用者から訴えられていると読んだことがありますが、その点はどうです?」
「それならちゃんと説明がつきます。外国企業が他国でビジネスをはじめるときには、その国の慣習ややりかたに慣れるまで、なにかとミスを犯しがちなものです。五〇年代から六〇年代にかけて、アメリカ企業がヨーロッパに進出し、多国籍企業になったときには、やはり進出先の各国でさまざまな困難に遭遇し、いろいろと訴訟を起こされました。ですから、アメリカにやってきた日本企業にも、適応するまでの時間が必要でしょう。それは辛抱してやらねばなりません」
ある男が笑った。「日本に対して辛抱しなくていいときなんてあったかね?「腹だたしげというよりは、無念そうな口ぶりだった。」

p265「日本人は新聞に対して強い影響力を持っている。日本企業からの広告収入だけじゃない。ワシントンからやつぎばやにくりだされる広報効果、ロビー活動、政治家や政治組織への献金、その全部の総合効果、プラス・アルファだ。それも、だんだん巧妙になりつつある。たとえば、ある記事を載せるかどうか、編集会議で検討しているとする。ふと気がつくと、だれも日本人を攻撃したがらない。……なにかを恐れているからだ。そのくせ、なにを恐れているかすらよくわかっていない。なんとなく、不安なだけなんだ」
報道の自由もこれまでか」
「おいおい。いまさら書生論をいってなんになる。事情はわかってるだろう。アメリカのマスコミは主要な意見しか報道しない。主要な意見とは勢力の強いグループの意見だ。その強い勢力を、いまは日本人が握っている。マスコミはいつもどおり、権力者の意見を報道するばかりさ。なんの不思議もない。」
p268-269「物理101のような講義には、いまどきのアメリカ人は興味を持たないんだ。もう何年もそんな状態がつづいている。産業界にも人の来てがなくってね。数学や工学の学位をとりに来米して、そのままアメリカ企業に就職するアジア人やインド人がいなかったら、いったいこの国はどうなってしまうことやら」
p269「外国の学生たちがどんどん国に帰りだすと、アメリカの研究施設は充分な学生を確保できなくなる。そうなると、新しいアメリカの技術を創造できない。単純なバランス・シートの問題だよ。技術者が足りないんだ。IBMのような大企業でさえ、研究開発に支障をきたしはじめている。」
p270「アメリカは技術者や科学者は不足しているかもしれないが、弁護士の量産では世界最先端だ。全世界の弁護士の半数はアメリカに集中しているんだからね。その意味を考えてみるといい」
p270「アメリカの人口は世界総人口の四パーセント。経済関係者の割合は十八パーセントだ。なのに、弁護士の数となると五十パーセントにものぼる。しかも毎年三万五千人が、ロー・スクールから続々と世に送りだされているんだよ。法曹関係だけが極端に生産性が高い。アメリカという国の焦点はそこにある。テレビ・ショーの半分は弁護士ものになってしまった。アメリカはいまや、弁護士の国なんだ。だれもかれもが訴訟を起こす。だれもかれも係争中。だれもかれもが法廷で争う。なんといっても、アメリカの七十五万人の弁護士には仕事があるんだからね。そのひとりひとりが、年に最低三十万ドルは稼ぎだそうと躍起になっている。ほかの国から見たら、およそ尋常じゃない」
p270「昨今では最優秀の若者でさえ、貧弱な教育しか受けていない。この国では最優秀の若者たちといえども、学力ランクは世界で十二位。アジアやヨーロッパの工業国の後塵を拝しているありさまだ。トップの学生でさえそうなんだよ。底辺となると、もっと悲惨だ。ハイスクールの卒業生の三分の一はバスの運行表が読めない。そもそも、字が読めないんだからね」
p270-271「しかも、わたしの見るかぎり、いまの若い者は怠惰だ。働こうという意欲がない。わたしは物理を教えている。物理学修士になるには何年もかかる。ところが、若い連中はチャーリー・シーンのような格好をして、二十八になる前に百万ドル貯めることしか考えていない。そんな巨額の金を手にいれる唯一の方法は、弁護士になるのでなければ、株をやることだ。」
p273「日本では、特許の取得は戦争のようなものでね。それこそ血まなこになって特許取得合戦をくりひろげている。しかもそれが、奇妙なシステムなんだ。日本で特許をとるには八年かかるが、申請して十八ヶ月後には出願内容が公開されてしまう。それ以後は、特許権などあってなきがごとしだ。もちろん、日本にはアメリカとの互恵的特許認可協約などない。それもまた、日本の競争力を高める手段のひとつといえる。」
p274「向こうにはわたしのアルゴリズムを使う権利があるわけじゃない。ところが、調べてみると、当のわたしにも自分のアルゴリズムを利用する権利がない。なぜなら、わたしの発明の応用法について、日本企業が特許を押さえてしまっていたからだ」
p276-277「どうして日本人にこんなものができて、アメリカ人にはできないのか知ってるかね? カイゼンしていくからさ。日本人は慎重に、辛抱強く、たえずこまかい改良を重ねていくんだ。年々、製品は少しずつ安くなっていく。アメリカ人はそんなふうには考えない。アメリカ人はいるも大いなる飛躍、大きな前進をさがしもとめる。……日本人は日がな一日、シングルヒットばかりを狙って、決してのんびりしようとはしない。」
☆p281「日本人は我慢してアメリカ人につきあわなければならないと思っている。連中にいわせれば、われわれは不器用でクズで、馬鹿で無能だからな。したがって日本人は、どうしても自己防衛に走りがちだ。だから、このテープが法的な証拠物件となる可能性がすこしでもあるのなら、きみのような野蛮な警察官には絶対にオリジナルをわたさんよ。」

p292-293「「ピーター。日本人を陰謀団のように思いこむのはやめたまえ。きみは日本を占領したいか? 日本を運営したいか? もちろん、ちがうだろう。理性のある国は他国を乗っとりたいなどとは決して思わない。ビジネスならオーケーだ。国交を持つのもいい。しかし、占領となると話はちがう。そんな責任を進んで負う国などはない。わずらわしいだけだ。酒飲みの叔父のたとえと同じでーーなにかをさせたいと思えば、集まって会議を開くしかない。それが最後の手段なんだ」
「日本人はそう見ているということですか?」
「彼らが見ているのは何千億ドルもの投下資金だよ、コウハイ。深刻なトラブルに見舞われている国に投資した資金だ。この国にはおかしな個人主義者がおおぜいいる。のべつまくなしにしゃべってばかりいて、なにかというと衝突し、しじゅう議論してばかりいる人間たち。教育程度も高くなく、世界のことをあまり知らず、情報源はてれびだけ。勤勉に働くわけでもなく、暴力とドラッグを容認し、それを退治しようという意志もない。日本人はそんな特殊な国に巨額の資金を投じた。そして、その投資にふさわしい見返りをもとめている。だから、アメリカ経済が崩壊しつつあるとはいえーーじきに日本とヨーロッパについで世界第三位になってしまうだろうがーーこの国を建てなおすことは重要課題だ。日本人がやろうとしているのは、まさにそれなんだ」」
p294「日本人にいわせれば、アメリカは土台のない国になってしまったからだ。われわれは基幹産業をおろそかにした。この国はもうモノを造っていない。モノを造っていれば、原材料に付加価値を与え、文字どおり富を創りだせる。しかしアメリカはそれをやめてしまった。いまのアメリカ人は金融操作だけで金を産んでいる。日本人から見れば、アメリカに追いつくのは理の当然だ。書類上の富は現実の富を反映してはいないんだから。」
p295「気になるのは、みなが同じ意見だったということだ。三人のビジネスマン全員がだぞ。もちろん日本人は、意見の不一致を外国人に見せようとしない。たとえこんな開発途上の農業国家のゴルフコースでプレイしているときでもだ。しかし、経験からいって、日本人がガイジンの前で意見の一致を見せるときには、裏になにか隠しごとをしている可能性がある」
p296「基本的に、日本人には何世紀にもわたって文化を共有したことに基づく共通理解があり、ことばなどなくても思いを伝えあえるのだという。アメリカでいえば、それは親と子との関係に近い。子供はしばしば、親の視線だけですべてを理解する。だが、日本人とちがって、アメリカ人にはことばなき意思疎通を普遍原則とするような基盤はない。いっぽうで日本人は、ひとりひとりが同じファミリーの一員のようなものであり、ことばなくして意志を伝えあうことができる。日本人にとっては、沈黙にもそれなりの意味があるのだ。
「べつにこれは、神秘的でも脅威でもない」とコナーはいった。「たいていの場合、日本人は規則と因習でかんじがらめになっているから、本音をいえないだけのことなんだ。そのため、相手の状況、立場、微妙なしぐさ、表明されない感情までを読みとることが、礼儀上でも体面を保つうえでも必要となる。おたがい、思うところはいっさい口にできないとおもっているんだから、それも当然だろう。考えを露骨に表わすことは不粋とされる。したがって意思は、ことば以外の形で伝えられなくてはならない」」
p297「彼らはこういった。『わたしたちは恩義をわすれないし、あなたはこれまでにいろいろと力になってくれた。できることならその恩を返したい。しかし、こんどの殺人事件は日本人の問題であり、腹のうちをすっかり明けるわけにはいかない。しかし、わたしたちの沈黙から、事件の水面下にある問題について、有用な結論を引きだせるかもそれない』。要約すれば、こういうことだ」
p297「イシグロがオリジナルをわたすはずがない。日本人は日本人以外を野蛮人だと思っている。文字どおり、そう思っているんだよ。臭くて粗野で馬鹿な野蛮人だ。日本人に生まれなかった不運は外国人のせいではないと思っているから、態度こそ丁重だがね。そう思っていることに変わりはない。」
p298「もうひとつ、コピーだと思った理由はーー日本人は大きな成功をおさめてはいるが、大胆ではないからだ。彼らはコツコツと、慎重にことを進めていく。冒険はいっさい冒したくないから、オリジナルをわたすはずがない。」

p303「アメリカ産業の斜陽ぶりは、議会も苦慮するほどになっていたんだ。この国はあまりにもたくさんの基幹産業を日本に奪われた。六〇年代には鉄鋼と造船、七〇年代にはテレビと半導体、八〇年代には工作機械。これらの産業は国防に欠かせないものばかりだった。そしてある朝目覚めてみると、アメリカは自国の保安に必要不可欠な部品を製造する能力をなくしてしまっていた。これらの補給は、いまやすべて日本に依存している。だからこそ、議会も心配しはじめたんだよ。」
p304-305「第二次大戦後、アメリカはテレビ製造で世界のトップに立った。ゼニス、RCA、GE、エマーソンといった二十七のアメリカ企業が、外国の同業者に対して確固たる技術的優位を確立していたんだ。じっさいアメリカ企業は、世界じゅうで成功を収めていたといえる。ところがここに、日本という例外があった。日本の閉鎖的な市場にはどうしても食いこめなかったんだ。日本政府がいうには、日本でモノを売りたければ、日本企業に技術を供与し、ライセンス生産させろという。やむなくアメリカ企業は、アメリカ政府からの圧力もあり、しぶしぶそれにしたがった。なぜ政府が圧力をかけたかといえば、日本をロシアに対する同盟国としておきたかったからさ。」
p305「「ガンだったのは、このライセンス生産というやつだ。日本がアメリカの技術を自分のものにする反面、こちらは輸出市場としての日本を失ったわけだからな。じきに日本は、安価な白黒テレビを造り、アメリカに輸出するようになる。こちらからは輸出できないのにだぞ。だろう? 一九七二年までには、アメリカ国内の白黒テレビの売上高は、六十パーセントまでが輸入品で占められていた。一九七六年には、これが百パーセントとなる。国内の白黒テレビ市場は、とうとう外国勢に奪われてしまったわけだ。アメリカの労働者は、もう白黒テレビは造っていない。その仕事は、アメリカから消えてしまったのさ。
べつにいいじゃないか、とアメリカ人はいう。アメリカ企業はカラーテレビの製造が主力となっていたからだ。だが、日本政府はカラーテレビ事業の育成に全力をそそいだ。……まったく同じことのくりかえしだ。一九八〇年には、まだカラーテレビを造っているアメリカ企業は三社だけとなっていた。一九八七年には、それがただの一社、ゼニスだけというありさまだ。」
「だけど日本製品は、優秀で安いじゃないか」とわたしはいった。
「たしかに優秀ではあるかもしれない。しかし、なぜ安いかといえば、アメリカの競争相手を駆逐するため、製造コスト以下の価格設定をしているからだよ。いわゆるダンピングというやつだな。これはアメリカの法でも国際法でも違法とされている」」
p305-306「なにしろダンピングは、日本の数多い違法な市場獲得技術のひとつだからな。ほかには価格の闇協定という手がある。十日会というんだったかな。日本の管理者たちは毎月十日にトウキョウのホテルに集まって、アメリカでの販売価格を決めていたそうだ。いくら抗議しても、会議はつづいた。それどころか、日本製品アメリカの流通ルートに乗せるために、なれあいの商慣習まで持ちこんだ。うわさでは、日本企業はシアーズのような流通大手に対して、何百万ドルもリベートを払ったそうだ。そうやって、膨大な数の消費者をペテンにかけていたわけだよ。そんなこんなで、連中は競争力をなくしたアメリカの産業をどんどんつぶしてきた。
もちろん、アメリカ企業も抗議はしたし、救済を訴えたりもしたさ。連邦裁判所で日本企業に対して起こされた訴訟は、ダンピング、詐欺行為、独禁法違反などについて、何十件にもおよぶ。ダンピングの訴訟なら一年以内に結審となるのがふつうだ。ところが、アメリカ政府はいっこうに救いの手をさしのべようとしない。しかも日本人は、相手の足を引っぱるのを得意とする。連中はアメリカのロビイストに何百万ドルも支払って、審理の進展を遅らせるんだ。十二年後、訴訟が法廷に持ちこまれるころには、市場での戦いはすでにおわっている。当然、そのあいだずっと、アメリカ企業は日本市場で応戦することもできない。」
p306「アメリカが手を貸してやらなかったら、むりだっただろうさ。アメリカ政府は日本をあまやかしていた。ちっぽけな新興国と見なしていた。そのいっぽうでアメリカの産業界も、政府の援助などはいらないと思われていた。アメリカにはいつもビジネスを否定するような空気があったからだ。だが、政府はいまだに気づいていないようだが、日本市場とアメリカ市場とは性質がちがう。」
p307「日本市場は閉鎖されているのに対して、アメリカ市場は大きく開かれている。同じ土俵に立っているんじゃない。それどころか、土俵でさえない。一方通行路だ。
その結果、この国のビジネス風土は敗北主義的なものになりはてていた。……アメリカ企業が日本の違法なビジネス慣行と戦うにあたって、合衆国政府は手を貸さない始末だ。……やがてアメリカ企業は、ろくにリサーチをしなくなる。いくら新技術で市場を開拓しようとしても、自国の政府がこんなに敵対的な行動をとるばかりでは、技術開発の意欲も失せようというもんじゃないか」
p308「つまり日本人は、戦略的にものを考えるということさ。連中は長期的な視野に立ってことを運び、いまから五十年後にどうなっているかを念頭にいれて計画を立てる。かたやアメリカの会社は、三カ月ごとに利益をあげてみせなければならない。さもないと、経営責任者やら重役やらは放りだされてしまう。対する日本人は、短期の利益などはあまり気にしない。連中がほしいのはシェアだ。連中にしてみれば、ビジネスは戦争みたいなものなんだよ。地歩を固め、競争相手を一掃し、市場を制覇する。この三十年間、連中がしてきたことは、まさにそれだ。」
p308-309「自由貿易なんていうものは、フェアな貿易なくしてはなんの意味もない。そして日本人には、フェアな貿易をする意志はまったくない。日本人がレーガンを好きなのにちゃんと理由がある。レーガンの在職期間中に、アメリカ市場で大きくシャアが広げられたからだ。自由貿易の名のもとに、レーガンが大股開きをしているあいだにな」
p309-310「……というわけで、アメリカの態度は非常に不合理であると考えられます。そもそも、日本企業はアメリカ人に職を提供しているのに対して、アメリカの企業は海外に生産拠点を移し、それといっしょに雇用機会も持ちさっているわけわけですから。われわれがなにを不満に思っているのか、これでは日本人にわかるわけがありません。」
p310「仕事をするためには日本に出入りしなくてはならないが、批判的な見解を示そうものなら、日本から締めだされてしまう。協力以外の道を封じられているんだ。そして日本人は、アメリカで特定の人間たちに耳うちしてまわる。日本を批判する者たちは信用に値しない、そういう輩のものの見方は〝時代遅れ″だーー。もっと悪質なのはーー批判者を人種差別主義者といいたてることだ。日本を批判する者はだれでもレイシストになってしまう。批判した学者たちには、たちまちのうちに講演依頼もコンサルタントの相談もこなくなる。日本を批判した同業者がそんな目にあったことを、連中は知っているんだ。だから、二度と同じあやまちは犯さない」
p312「ところが、アメリカの業界は団結しようとしない。身内で内紛をくりかえすばかりだ。そのあいだにも、日本は十日に一社の割合でアメリカのハイテク企業を買収しつつある。この六年はそうだった。要するにこの国は、骨ぬきにされつつあるんだ。なのに政府はなんの関心も示さない。」

p323「日本では、これみよがしの装飾はきらわれる。ふまじめだと思われるんだ。」
p323「待っているあいだ、わたしはデスクで働く社員たちのようすを眺めた。……女性の姿はないに等しい。
「日本ではーー」とコナーが説明した。「企業の業績が悪化すると、重役が真っ先に自分たちの給与をカットする。彼らは自分の会社の成功に責任を感じていて、自分の収入の多寡は会社の業績に応じるべきだと思っているんだ。」」
p325「アメリカが日本とちがいますからね。日本ではことのなりゆきの予想がつく。それに対して、この国ではつねに異なる意見を持ち、それを口にする人間がいます。」
p332「「日本人は世界でいちばん、人種差別的だということだ。」
「日本人が?」
「そうだ、事実、日本の政府高官の発言はーー」」
p340「みなさんも近年のわが国の凋落りを憂慮されておられることでしょう。アメリカはいまなお世界最強の軍事力を誇りますが、わが国の安寧は、軍事的のみならず、経済的な自衛能力にもかかっています。しかしながら、その経済力において、アメリカは衰退してしまった。どのくらい後退したのか? 過去二代の大統領の治世のあいだに、アメリカは世界最大の債権国から債務国に転落しました。いまや工業力は、世界の水準以下です。労働者は他国の労働者よりも教育水準が低い。投資家は短期的な利益しか念頭になく、産業界の将来に対する投資を阻害している。その結果、わが国の生活水準は急速に低下しつつあります。子供たちには、厳しい将来が待ち受けているのです」
p340「多くのアメリカ人が危惧している問題が、もうひとつあります。経済力の衰えにともないまったく新しいタイプの侵略に対する抵抗力が弱まってきているということです。この国が日本やヨーロッパの経済的植民地になることを心配するアメリカ人は、いまやかなり多い。とくに問題なのは、日本です。多くのアメリカ人は感じていますーー日本人がわが国の産業界を乗っとり、観光地を、さらには都市までも買い占めてしまうのではないかと」
p343-344「「うちの支持者は各年齢層で落ちこんでるんです。とくに五十五歳から上が顕著だ。いちばん有力な有権者層でですよ。省エネの問題にもろに直面するのは、この層なんです。彼らは生活水準の低下を望んでいません。省エネなんてごめんだ。アメリカの高齢者は、はっきりノーといってるんです」
「しかし、高齢者には子供も孫もいるだろう。その未来が気にならないはずはない」
「高齢者は子供のことなんか考えてやしません。ほら、ここにはっきり書いてある。高齢者は子供が自分たちの面倒をみてくれるとは思ってない。」」
p349「「リメンバー・パールハーバー、というわけですか」
「その問題もある」モートンはかぶりをふり、秘密を耳打ちする少年のように、声をひそめた。「議員のなかには、いまに日本へもう一度核爆弾を落とさずにはすまなくなる、という連中がいる。本気でそう思ってるんだ」」
p357「ローレンの地方検事局の健康保険は、出産が対象外となっていたのだ。それはわたしの保険も同じだった。ふたりとも結婚してから間がなくて、出産費用まで保険対象を広げる手続きが間にあわなかったためである。保険がきかないと、費用は八千ドルもかかる。」
p364「ゆうべのヤマは〝レイシスト″の偏見が生んだもんだときた。要するにおれは、ふたたび醜悪な頭をもたげたレイシズムの権化ってわけさ。まいったぜ。日本人てやつぁ中傷戦術の名手だ。身の毛がよだつほどにな」

p371「日本人は間接的な行動を得意とする。ものごとを進めるやりかたとして、それは彼らの本能ともいえるものだ。日本では、だれかに不満を持ったときも、決してその相手にダイレクトには文句をいわない。その友人、同僚、ボスなどに苦情を持ちこむんだ。そして、間接的に当人に苦情が伝わるようにする。……考えてみれば、これはとんでもなく効率の悪いやりかただ。エネルギーと時間と金をたくさんむだにするわけだからな。しかし、直接的対峙ができない以上——なにしろ日本人にとって、対峙はほぼ死に等しく、冷や汗やパニックをもたらすわけだからーーほかに選択の余地がない。日本人は巧妙に身をかわすことを得意とする。正面切っての対決というやつは、絶対にしない」
p372「「向こうは個人的な考えでそうしてるんじゃない。それが彼らのやりかたなんだ」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。でっちあげを広めて人を破滅させるのがね」
「ある意味では、でっちあげともいえるな」」
☆p372「日本人の行動というやつは、農耕社会のムラ的価値観に基づいている。サムライや封建制度のことはきみもいろいろ耳にしているだろうが、根っこの部分では、日本人は農民なんだ。もしムラに住んでいてほかの村民に不快な思いをさせれば、当人は村にいられなくなる。そうなったら、死刑を宣告されたに等しい。ほかのムラみそんなトラブルメーカーを受けいれてはくれないからだ。つまりーー集団の不興を買えば、もはやその人間は死んだも同然となる。それが日本人のものの見方なんだ。
したがって、日本人は集団に対して極度に神経を使う。集団に融けこみ、うまくやっていくことを、日本人はなににも増して優先する。そのためには、目だってはいけない。冒険をしてもいけない。個人主義的にふるまってもいけない。そしてそれは、必ずしも真実にこだわる必要はないということでもある。日本人は真実になどあまり重きを置かない。真実は冷厳で抽象的に思えるんだ。要するに、犯罪を犯して非難される息子の母親のようなものだよ。彼女は真実になどほとんど目もくれない。むしろ息子のことを第一に気づかう。日本人もその点は変わらない。日本人にとって、だいじなのは人と人との関係だ。それこそはほんとうの真実にほかならない。事実関係は二の次なんだ」
p376「アメリカの大学の構造ーーとくに技術関連の学部に日本が深く食いこんでいることは知っているだろう。どこの大学でもそうだ。日本企業はMITに対して、教授職二十五人ぶんの研究費を寄付している。どの国よりもはるかに多い金額だ。なぜそんなことをするのか。あれこれと試したあげくに、日本人は知ったからだよーー自分たちにはアメリカ人ほどの創造性がないということをね。それでいて、革新的な技術はほしい。となれば、することはひとつだ。買うのさ」
p378「自国の研究開発機関を放棄することは、すべてを放棄するに等しい。そして一般的に、研究機関を意のままにするのは、資金援助をする者だ。日本が金をつぎこむならーーアメリカ政府や企業がそうしないというのならーーいずれアメリカの教育は日本が牛耳ることになる。すでに日本がアメリカの大学を十校も所有していることは知っているだろう。まるごとポンと買いとったんだ。その目的は、日本人の若者を教育すること。若い日本人をアメリカへ送りこむルートを、そうやって確保しているんだ」
p379「しかし日本人は、例によってもっと先を見ている。やがて状況がきびしくなることがわかっているんだ。遅かれ早かれ、揺りもどしがくることはまちがいない。いくら外交的な術策を弄しようともーーいまはちょうど取得期にあって、外交的にさかんに働きかけているわけだがーーいずれ通用しなくなるときがくる。なぜなら、支配されて喜ぶ国はないからだ。どんな国も支配されることをきらうーー経済的にも、軍事的にも。そして日本人は、いつの日かアメリカ人が目覚めると予想している」
p379「日本企業を買収しようとしても、それはできない。当の日本企業の社員たちは、会社を外国人に所有されることを恥と考える。それは不名誉なことなんだ。だから、決してうんとはいわない」
p379「理屈の上では、日本企業を買収することもできる。しかし、現実問題としては不可能だ。ある企業を買収しようと思えば、まずそのメインバンクに話を持っていかなくてはならない。そしてその了承を得る。買収を進めるためには、これは必要な手順だ。しかし銀行は、決して承知しない」
p380「「全体としては、日本に対する外国の投資はこの十年で半減している。日本市場の閉鎖性に耐えかねて、つぎつぎと外国企業が撤退しているんだ。排他性、いざこざ、共謀、市場操作、ダンゴウ。これはつまり、競争相手を閉めだすための秘密協約だな。それから、政府による規制の多さ。その場しのぎのごまかし。こういったものにうんざりして、みんな最後にはあきらめてしまう。文字どおり……あきらめてしまうんだ。アメリカ以外にもげんなりしている国は多い。ドイツ、イタリア、フランス。どの国も日本でビジネスをつづけることに嫌気がさしている。なぜなら、日本がなんといおうと、日本市場は閉鎖されているからだ。」

p395「日本にはね。みんな平等であるはずのあの国には、根拠のない差別がいろいろあるの。無理解がひどい差別を生んでるのよ」
p395-396「アメリカ人には、この国がどれだけすばらしいかわかっていない。自分たちがどれほどの自由を満喫しているかわかっていない。集団から排斥されたとき、日本で生きていくのがどれだけ過酷なことか、あなたたちは知らないでしょう。でも、わたしは身にしみて知ってるの。わたしのいいほうの手がなしとげる仕事で日本人が多少こまったところで、べつになんとも思いはしないわ」
p419「「日本のエイズがらみのジョーク、知ってる?」
「日本の?」
「ええ。ある大物政治家がね、二、三年前、日本に寄港したアメリカ海軍艦艇の水兵について、こんなジョークをいったの。『いまではアメリカは貧乏国だから、海軍の水兵には日本に上陸しても遊べないだろう。物価が高すぎてなにもできない。水兵にできることといえば、艦艇にとどまって、エイズをうつしあうことくらいだな』。これ、日本ではありふれたジョークよ」
「ほんとうにそんなことをいったのか?」
テレサはうなずいた。「わたしがアメリカ人ならね、こんなことをいわれようものなら、さっさと船を出航させて、おまえたちなんかくそくらえだ、自分の国防費は自分で払えといってやるわ。」」
p457「たしかに、アメリカに対する投資額を見るかぎり、イギリスとオランダが日本を上まわっているというのは事実だがね。アメリカが日本からの一方的な輸出攻勢にさらされているという現実は無視できまい。日本は産業界と政府が手を組んで、アメリカ経済の特定部分を計画的に狙い撃ちする。イギリスもオランダも、そんなまねはしない。これらの国々に基幹産業を奪われたことはないだろう。ところが日本には、多くを奪われている。」

p497「「ヒロシもほんとうは閉店したいだろう。たったふたりのガイジン客のために店をあけておいても、儲けにはならないからな。しかしわたしは、ちょくちょくここへくる。ヒロシはその関係を尊重している。儲けや好悪の次元とは関係ないんだ」
わたしたちは車を降りた。
「ここがアメリカ人には理解できないところなんだな」とコナーはつづけた。「なぜなら日本のシステムは、根本的に異質だからだ」
「しかし、みんなも理解しだしているようですよ」
わたしはケン・シュビックの価格操作に関する記事の話をした。
コナーは嘆息した。「日本人が不誠実だという見方は安直にすぎる。彼らは不誠実なんかじゃない。異なったルールにのっとって動いているだけなんだ。アメリカ人には、どうしてもそれがわからない」
「そいつはけっこうですがね。価格操作は違法ですよ」
アメリカではな。しかし日本では、あたりまえの慣行なんだ。覚えておきたまえ、コウハイ。日本人は根本的に異質だ。なれあい的な関係に基づいて、さまざまなことが決定される。それを端的に表わしているのがノムラの株不祥事さ。なれあいというと、アメリカ人はすぐにモラルスティックな反応をしてしまって、それがたんに異なるビジネスのやりかたでしかないということを理解しようとしないがね。結局、それだけのことなんだ」」
p500「日本に住んだ人間は、複雑な思いをいだいて帰ってくることが多い。いろいろな点で、日本人はすばらしい民族だ。勤勉で、知的で、ユーモアがあって。掛け値なしに誠実な人々だよ。ただ、世界一のレイシストでもある。だからこそ、自分たち以外はみなレイシストだといって批判するんだ。そういう偏見はたしかに強い。自分たちがそうだから、外国の人間もみなそうだと思いこんでいる。そんなこんなで、日本に住んでいるうちに……わたしはうんざりしてしまったんだ、いろいろなことのありようにね。夜に道路を歩いていると、向こうからきた女性たちはみな道の反対側へ渡っていく。地下鉄に乗ってすわっていると、最後まで残るのは必ずわたしの両側の席だ。飛行機に乗れば乗ったで、日本語ならわたしにわかるまいと思いこんだスチュワーデスが、ガイジンがとなりにすわってもいいかと日本人乗客にきく。そういう疎外感、ガイジンに対する微妙な優越感、陰でこそこそとささやかれるジョーク……。そんなあつかいをされることに、わたしはほとほと嫌気がさしてしまった。」

p519「あのときイシグロは、大きなプレッシャーのもとにあり、いまにもぷつんと糸が切れそうなほど緊張しきっていた。なんとかして上司の期待に応えなくてはならないと、そればかり考えていた。その重責でいまにもつぶれそうだったからーーふつうの日本人ならああゆう状況下ではとらない行動に走ってしまったんだ。」
p520「イシグロはあまりにも性急にことを運び、失敗した。木曜の夜の行動は独断的にすぎたといえる。会社はそれが気にいらなかった。あのままでも、イシグロはじきに日本に送り返されていただろう。そして残りの一生を、日本でマドギワにすわって過ごす。これは窓ぎわの席ということだ。企業の意思決定体系からはずされて、日がな一日、窓の外を眺めてくらすんだよ。それはある意味で、死刑宣告にも等しい」
p529-530(あとがき部分)「そして日本人は、新しいタイプの貿易方法を確立した。一方的な貿易、戦争のような貿易、競争相手を一掃してしまうことを意図した貿易、これである。アメリカは何十年ものあいだ、それを理解しそこねていた。そして、日本人はアメリカのやりかたをとるべきだといいつづけていた。だが、日本の反応は、しだいにこんな色を濃くしつつある。なぜ日本がやりかたを変えねばならないのか? 日本のやりかたは、アメリカが思っているよりもよいのではないか?事実それは、そのとおりなのだ。
これに対して、アメリカはどう反応するべきなのだろうか。日本が成功しているといって非難したり、もっとのんびりやるべきだと示唆するのはばかげていよう。日本人はこんなアメリカの反応を、だだをこねる子供のようだと考えている。まことにもっともだ。むしろこの場合、合衆国のほうこそが目を覚まし、日本をきちんと見すえ、現実的に対処すべきなのではあるまいか。」

p538(訳者解説部分)「そんな本書に対する米マスコミの評価は、どんなものだったのか。なかにはつねに真摯なメッセージを投げかけてきたクライトンをしてこのような本を書かせるにいたったアメリカの現状を憂う声もあるが、全体としては手厳しい評価が多いようだ。その一部を紹介するとーー
「巧妙に計算されたジャパン・バッシング小説。よきにつき悪しきにつけ、本書は物議をかもしつつ、広く読まれることだろう」(カーカス・レビュー)
「なぜ日本と経済戦争をしなくてはならないのか。それを切々と訴える本としては、本書はあまりにもエンターテイメント色が濃すぎるし、それにしては説教臭が鼻につく」(ニューヨーク・タイムズ)
「このところ、日本を邪悪視する書物が続々と刊行されているが、ここにその最新最悪の一冊が加わった」(ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー)
「またぞろジャパン・バッシングの波が高まっているおりにこんな本を出すとは、なんともタイミングのいいことだ。しかし、バランスのとれた視点ではなく、粗野な反日プロパガンダお手盛りすることで、クライトンはみずからの論点をだいなしにし、読者に偏向を押しつけた」(ニューズウィーク)」

石原慎太郎「スパルタ教育」(1969)

 本書は当時のベストセラー(70万部とも言われる)となった石原慎太郎の著書である。教育書と読むか、育児書と読むかは微妙であるが、教育書であれば、日本で最も売れた教育書の一つ、といっても言いかもしれない。100のテーマをそれぞれ2ページでまとめる内容であり、ハウツーものの雰囲気もあるが、まあ読みやすい。
 現在における本書の評価はすこぶる悪い。当然当時も肯定的に読まれたかどうかはわからないが、このような論述のされ方が当時はありえたこと、そして強い反響があったということはまず押さえておきたい。

○「しつけ」における暴力行使について

 本書の最もショッキングな所は、暴力について肯定し、更に男女差別を肯定するかのような議論を行っている点である。これは本書を読む前から書かれていることを知っていたが、実際に読むと、思っていたイメージとは若干異なることもわかった。
 本書で暴力が肯定的に捉えられるのは、2つの場面においてであると考えられる。一つは「子どもをしつけるための暴力の行使」である。しつけについては「しつけは、学校ではできない」(p188-189)で述べられ、ここでも強く暴力行使、折檻の必要性について強く述べている。しかし、「しつけ」とは具体的に何を指すかまでは述べられてはいない。これは本書の大きな問題点ではあるものの、本書全体で暴力行使の2つの場面に限って認めているという前提を置いてよいのならば、特定が可能である。つまり、石原のいう「しつけ」とは「社会で求められている規範を『体得』すること」と言ってよい。これはp40で述べられていたことと重なる。これは見方を変えれば、社会規範に反するもの以外においては暴力行使されることは肯定されていない、という風にも読める。この観点から言えば、理不尽な暴力までは肯定していないように見えるのである。
 しかし、ノートにも書いているように、この態度は徹底していない。社会の規範とされているものに反しても、未成年の飲酒や物損に対してはむしろ肯定的に捉えている。P40で述べた「人間の規範」だとか「社会規範」が具体的に何を指すかについて、石原は態度を徹底していないのである。

 しかしこれは石原の主張を考えれば当然の帰結である。そもそも石原は「価値の転換」に対して非常に高く評価し、それこそが人間の進歩を支えてきたものであり、だからこそ「個性」を強めよ、というのが本書の最大の主張点だからである。個性=創造性の芽というのは「不良性」にもあり、また「物損」という破壊行動にもあると述べている。「社会規範の徹底」と「個性=創造性の育成」はそもそも対立しうる要素なのである。この境界的ケースの一つがp182のような「きょうだいの序列」に関する部分である。石原が述べる通り、きょうだいの序列にこだわりすぎると、競争性が薄れるからよくないとしているが、結局ここでは「きょうだいの順序をはっきりさせろ」とタイトル付けしてしまっている。このことは厳密に言えば妥当でないにも関わらず。


○人間の進歩に繋がる「価値」の捉え方について
 もう少し話を深めてみよう。もう一つ論点として捉えたいのは、石原の「価値」に対する見方である。
 ここでいう価値とは、本書で語られる「個性」のことと言い換えてもよい。そして重要なのは、石原は価値を対峙させることでより良い価値を算出するものだと考えている点である。典型的なのは、p19に見られる「父をしのぐ」という言説であり、家庭というのは、そのような対峙に持ってこいの場であるとみなされている。だからこそ、「父に対するウラミをもたせろ」(p108)という位の言い方をするのである。
 この考え方は以前レビューした全生研の「集団のちから」の議論にも類似するものがある。『ちから』が産出される状況というのは「価値の対峙」の場においてである、という捉え方が同じなのである。ただし、石原は全生研ほど意図的にこれをやれとまでは述べていない。「父に対するウラミをもたせろ」という言い方はそれっぽい節もあるが、このテーマについての論述においては、具体的にどうウラミを持たせるのかよくわからない。強いていえば、社会人としての父と家庭における父を両方見ることによって、そのズレへ苛立ちを持つ時に「ウラミ」に変わるというような言い方はしているといえるだろうが、これは全生研のような積極的なものとは言えないだろう。
 ただし、その価値の重要性を親自身が強く自覚してそれを実践しているという姿を見せることは非常に重要であると考えているといえる。特にp143の言い方、「親が自分の価値観で、あえて行なうという勇気の誇示」が典型的である。このような態度に子どもは「価値」の重要性を学び、そして自分のとっての価値について考えるきっかけを与えることにもなると考えているようである。

 石原の主張において押さえなければならないのは、このような「価値」そのものを子どもに押しつける必要はないと繰り返し述べている点である。むしろ子どもが形成する「個性」を潰すような押しつけは禁止すべきとさえ考えている。P126のような見方がそれを表しているし、子どもに不良性を与えるべきであると述べているのも(p114-115)、不良性を否定する「既成の道徳」が子どもの個性を潰すことになりかねないからである。
 しかし、そうするとやはり「しつけの対象となる社会規範」と「個性の阻害になる社会規範」の違いがよくわからなくなってくる(※1)。当然だが、「個性の阻害となる社会規範」に対してまで子どもを殴って従わせることは妥当であるとは言い難いだろう。この違いがわからない状態というのは、「他人の子どもでも叱れ」(p44-45)とする際に、恣意的な判断で守るべき規範と変えるべき規範を切り分け、制裁として殴るということを意味する。


○「価値の対峙」における暴力行使の正当性について

 この矛盾を解決する方法が本書から提示されていない訳ではない(※2)。それを考えるために押さえておきたいのが、石原が「暴力行使」を認める2つ目のケース、「けんか」を行う場合である。本書においては、基本的に親が子どもに対して行う暴力は「しつけ」として現れているのに対し、きょうだいが学友との対立を暴力として認めるとき、この「けんか」による暴力性が肯定されている。
 この暴力が肯定されるのは、「価値の対峙」がそこでなされているからであると恐らく石原は考えている。「子どもたちには、親の立ち入ることのできない子どもたちの道理があり」(p228)としているのが理由である。つまり石原にとって「けんか」とは、互いの「価値観」のぶつかりあいそのものであり、「自分が正しい」という主張の権化が暴力なのである。これもまた子ども自らの「個性」を育む格好の機会とみなしているのである。これが極まった主張が「暴力の尊厳を教えよ」(p82)なのである。

 ここで問い返さなければならないのは一点に尽きる。「暴力は石原のいうような『価値』を体現していると言えるのか?」である。石原の言い分が正しければ、すべての暴力的対立はそれ自身に価値観をもち、その価値観はそれぞれ人間の進歩に貢献する、ということになる。しかし問題なのは、暴力それ自体は価値を表現しないという点である。石原が言うように、聖的な暴力(極限状態で行使される暴力)行使の場面においては、道徳も言葉も、精神も理念も、飾りへと成り下がり、全て無意味なものとなる。暴力の勝者のもっていた「価値」こそが正しいものとして証明されるものとなる。しかし、その暴力が行使されている場においては、「価値」は何も示されていないのではないのか?暴力の行使の場は暴力の行使以外の何ものでもないのである。「価値」の付与というのは、勝者がその暴力の後で付与したものでしかない。
 これが真の意味で善の意味を持った「価値」と「価値」のぶつかり合いだというのであれば、石原の主張も反対する要素がないかもしれない。しかし、本当に「善」だけがこの極限状態に発露するものなのかは極めて疑問であるし、そもそも暴力を行使すること自体は、「極限状態」になくとも行使可能であるものであることから、石原の言うような「聖性」などそもそもない可能性だってあるのである。
 このあたりの性善説的、楽観論的な石原の語りというのは本書に一貫して存在しているといってよい。子どもの学習プロセスが良い方向に向かうことを確信していることについても、「しつけの対象となる社会規範」と「個性の阻害になる社会規範」についてもそのような良心的な見方で解決しているとみなせなくもない。
 しかし、私がこれまでレビューし、仮説として提唱してきた70年代以降の「社会問題の形成」はこれとは真逆の動きをとったのである。まさに「教育の失敗」が焦点化されている状況においては、暴力の行使もまた失敗事例として取り扱われ、それが暴力に対する否定につながったのであった。これは70年代以前における学生運動だとか、60年安保体制をめぐる国家の暴力行使の場面などを通しても十分に形成されうる論点であったように思えるし、石原が批判しているのも、このような暴力性を否定した当時の人々に対して、「暴力を否定すること自体誤りである」ということなのではないのかと思えるのである。
 もちろん「社会問題」という枠組みが実態を反映しているのかという問いは残るし、その検証というのは必要性があるだろうが、同時に石原の言うような性善説的な暴力の肯定もどれほど「現実的」なのかについて検証されるべきものであったように思う。少なくとも私は石原の暴力論が正当性のあるものとは思えない。少なくとも本書で述べるように美化されるべきではないだろう。


※1 結局、この違いが曖昧だからこそ、暴力行使は恣意的であってよいことになり、※2のような議論の帰結もありえることになってしまう。しかし、石原はあくまでもこの両者は区別可能なものであると考えている節がある。

※2 このように「価値の対峙」を捉えた場合、最終的に「しつけの対象となる社会規範」と「個性の阻害になる社会規範」を予定調和させるのは「けんか」でしかない、という見方は可能である。つまり親と子のけんかで最終的に解決しようということある。本書はこのような状況をあまり想定していないように思えるが、これを認めてしまうと、そもそも両者を区別する意味はなくなってしまう。
 これが極端なものとなると、「親が正しいと思うものすべてについて子どもに制裁を加える」ことに繋がり、子どもに対しては「反発したければ親とけんかしろ」という見方になる。これは親が正しい判断を行っていない場合、子どもが反発そのものをしようとしない場合両方に問題がある見方であるように思えるが、論理的な整合性を優先してとるならこのような見方もできなくもない。本書の抱える問題の一つともいえるだろう。そのような暴力行使に対してまで本書は容認することになってしまっているということである。


<読書ノート>
※表紙カバーの会田雄次のコメント…「戦後日本の精神的荒廃は、自由と民主を合い言葉にしながら、その基盤となる個人が、一片の独立性も持ちえぬ精神的薄弱児だというところに原因する。……個人の確立が、これまでのような借り物の思想での教育で達成できるはずがない。自らの足で立ちうる両親の実践教育によって、はじめて可能なのだ。」
p3「子どもの教育についてまったく素人であるわたくしが、この本を書こうと思いたった理由は、他でもない。子どもの最大の教育者たるべき世の親たちが、自分の子どもの教育について、まったくその責任を放擲し、自信を失っている事実に、不満と失望を感じたからだ。そうした親たちによって、将来、どんな人間がこの日本の社会に氾濫するかと思うと、ぞっとする。
わたくしは、現代の、子どもの教育に根本的に欠けているのは、科学や医学や、教育的な知識や技術ではなく、子どもに対する世の親たちの毅然たる姿勢、厳格さであると信じている。厳格さこそが教育の本質であり、かつ、真実の愛情の表現であると信じている。」

p18「わが家の個性、性格を決めるものは父親である、おやじである。おやじでなくてはならぬと、わたくしは信ずる。」
p18「家の性格、そこに生まれてくる子孫の性格は父親が与えなくてはならない。その父親は現代の慣習、あるいは法律さえも越えた、自分の個性を十全に表現しきる彼自身の人生の法則を持っていなくてはならぬ。それは、その家の家訓となり、家風となり、家族の心と掟ともなる。」
p19「そして、そのおやじの哲学こそが、みずからがその代に主宰する家と家族を、先祖たちにまして、みずからの手で培い、繁栄させ、自分の先代までの祖先ができなかった大きな人間の仕事を、自分でもなし終え、子どもたちにしとげさせていく(※ママ)よすがになりうるのだ。
平凡が美徳のように錯覚されている、この画一化された男が、どこにでもあるような人生観を持ち、どこにでもあるような家庭をつくったところで、それがなにになろうか。たとえば父親が持つその哲学に、子どもたちが強く反発してもいい。そこには、その反発をスプリングボードにした子どもたちの人間的な飛躍がある。」
p19「父親は、その哲学の実践の成果において祖父をしのがねばならず、そして父親の子どもたちは、同じように、その父をしのがねばならぬ。そこにはじめて家族における人間の進歩があり、その進歩を束ねられて、人間社会の発展があり、進歩がある。
人間の繁栄進歩という巨大なピラミッドをつくる、その拠点である家庭の、さらにその無形の拠点ともなる、生きるということへの哲学を、父親は自分という、たとえ平凡に見えながらも、そのじつはかけがえのない個としての存在への強い自覚のうちに持たなくてはならない。」
※農村対学校の図式に見られたような近代の原理との対立についてはどう考えるのだろう?安易な弁証法の導入は実態を無視する。

P20-21「もともと人間の尊厳は、その人間が他に絶対にない個性を持っているがゆえにあるのであって、同じように家庭もまた、他に絶対にない家庭の個性を持つがゆえに家庭でありうる。
 その家庭の個性がいろんな条件で相殺されている現代では、それに抵抗して、家庭から平凡ならざる非凡な人間を育てていくために、親は努めて平凡ならざる家風というものを心がけてつくる必要がある。」
P21「そうした行事、独特の家風によって、まず現代に失われた人間の強い連帯感が家庭において持たれ、昨今、親であり子でありながら欠落している人間の間の強い連帯感が家庭によみがえってくる。たとえば森鴎外の小説『阿部一族』のように、掲げたひとつの家の心意気のために、一族が討死にするということも、はじめてありえてくる。
いつの時代でも人間の社会を変えていくのは、非凡な人間の個性である。そして、それを育てるものはけっきょく、平凡ならざる非凡なる家庭であるということを、親は忘れてはならない。」

P22-23「もちろんその職業を通じて、われわれはいくばくの報酬を得、生活をささえていくのだが、働くということは、決して食うためのものではなく、まして家族を食わせるためにあるものでは決してない。
だから、もし親があるとき、ある場合、その職業を自分の存在、自分の人生のために否定し、拒否し、それによって家族が飢えようとも、子どもや妻は、その親なり夫をとがめることはできない。ということを、子どもはおやじのために強く認識しなくてはならない。」
※「しかしおまえたちが新聞配達ができ、最低限自分で食べていくだけのものを働いて得ることができるようになった瞬間、パパはいまのパパとまったく違う人間になるかもしれないということを覚悟しておけ、と(※子どもに繰り返し伝えている)。」(p23)という点が重要か。

P35「戦前は、国全体の期待する人間像というものがあった。したがって親たちは、手軽にそれに合った挿話を話すことができた。しかし、そこには、父親自身の生き方に対する共感があったわけではない。今日は、期待される人間像の希薄な時代であるが、こういう時代にこそ、人生の真実を伝え、自分を十全に理解させるためにも、親は子どもに、自分が愛する歴史上の人物についてくり返し伝える努力をすべきではないか。」

P38「たしかに人間対人間として、父親と母親は平等であるが、力ということからすれば、父親は母親よりも強いものでなくてはならず、父権は母権よりも、大きいものでなくてはならぬ。わたくしは父権と母権が均衡した家庭というものを理想とは考えない。いわば命令系統の一本化ともいえるし、父親と母親の子どもに対する愛情の形の違いから、そうすべきであるともいえる。」
※何故この力関係の違いが必要なのかについては明言していない。「母親が子に示す愛情は、動物としての本能的なものであり、父親が子に示す愛情の形は、人間として、社会人としての、いわば理性的なものでなくてはならない」らしい(p38)。
P39「子にとって父親は父親でしかなく、母親を兼ねるわけにはいかず、母親は母親であって、父親を兼ねるわけにはいかない。しかし妙な設定かも知らぬが、母子に万一暴力的な危害が加えられたときに、命を賭してこれを守らなくてはならぬものは、だいいちに父親であるがゆえに、父親は母親よりも、家庭で権力を持たなくてはならない。」
※このような考え方からはシンボルとしての父・母は語られる価値がない。そして、ここで語られるべき論は責任論を語るが、その責任を負わない者も同じように扱うべきなのか?

P40「とくに親は、子どもの過失をたしなめることで、子どもが成長し、一人の社会人として生きていくための、さまざまな人間の規範を徹底して教える義務がある。そのために、それをもっとも効果的に教え込む方法として、体罰を加えることが、好ましい。」
※ここでいう「人間の規範」とは?禁酒(p98)、物損(p126)といった例外が与えられている。それらは創造性を理由に例外として認められている。逆に、「歯を見せて笑う男」(p76)に石原は叱っているらしい。これは人間の規範と言い難い。
P41「わたくしは非常に不本意にその体罰を受けたが、しかし同時に、大きな手がほっぺたに炸裂したときのあの畏怖感のなかに父親の愛情を感じたのを、いまだに覚えている。
子どもは、幼ければ幼いほどなぐらなくてはならぬ。なぐることで親は、はじめて親の意思を直裁に、なんの飾りもなく子どもに伝えることができる。その意思こそが愛情にほかならない。」
※『親の意思(暴力による服従要求)を伝えることができる。』ここのタイトルは「子どもをなぐることを恐れるな」。「少なくとも親から子どもに対するメッセージをもっとも効果的に伝える方法は、肉体対肉体の伝達でしかない。」(p40)

p42「どうも日本の親は、子どもの過失を見つけても、叱るのに場所を選ぶ。欧米の親は、子どもの過失を見つけた瞬間、たとえそれが大統領の宴席であろうと、子どもを叱るだろうし、大統領といえども、子を叱る親を見て、とがめはしない。」
p44「自分の子どもは当然だが、たとえ他人の子どもでも、親がその場所にいなかったり、あるいはたとえ親がい合わせても、その親が子どもの誤りを叱らなかった場合には、子どもを強く叱るべきである。それが子どものためでもある。子どもは見知らぬおとなに叱られることで、世間の広さを知り、世間の厳しさを悟れるはずだ。」

p50「ある心理学者は、日本と西欧の親子の関係をくらべて、日本は減点法であり、西欧は加点法であるといっている。つまり日本の場合には親が子に百パーセントの可能性を信じてかかり、その夢がつぎつぎ破れていくことで、親子関係が百パーセントから減点されていく。これに対し西欧では、西欧の近代主義のつくりあげた、よい意味でのエゴイズムから、また虚飾を捨てた一対一の親子の関係、つまり0点から出発し、ことあるごとにそれにプラスを重ねていく。結果、それが五〇点に満たなくとも、それだけのプラスが親子の関係にあったということになる。結果、それが五〇点に満たなくとも、それだけのプラスが親子の関係にあったということになる。」
※これは基本的に信頼関係に関する議論と同じなのではないのか。信頼関係の築かれ方に差はあるのか。

P56「人間が信仰を持ったほうが、その人生において、あからさまにいって、持たぬよりもはるかに得であるということは、有名なパスカルの信仰を賭けとして説いた言葉や、ジェームスの哲学を引かなくとも、自明なことだとわたしは思うが、現在の日本のように、信仰が非科学の象徴であるごとき、おかしな科学信仰が普遍してしまった社会では、親はよほどの見識がないと、子どもにもわかりやすく、神様や仏様について話すことができない。」
※タイトルは「親は、子どもに神について語れ」。
P57「目に見えぬ大きな力の支配を子どもに教えることで、子どもは、自分の将来に対して、いままで以上のあこがれ、おそれ、慎みを持つことができる。」
P57「またたとえば、科学の粋を結集してなし終えた人間初の月旅行からの帰還者が、あの航空母艦上の隔離室の中で、迎えに出た大統領とともに、母艦の神父の導きで神に祈ったあのシーンの厳粛さを子どもに説きあかすことでも、信仰を持たすことができるはずだ。
目に見えぬ力の支配について、さまざまに子どもへ説くことで、子どもは真の創造力を培われるはずである。」
※これが説得材料になると思っているようである。

P58「もしどこかで不具者を指さし、子どもがそれを侮るなり、笑うなりしたら、わたくしもまた、子どもをなぐることにしている。
それは、人間の肉体というものが、いかにもろいものであるかということを教えることにもなる。肉体的な、つまり可視的なもので人間の価値を測ろうとする態度の抑制でもある。」
※タイトルは「不具者を指さしたら、なぐれ」。
P61「欧米の家庭では、経済的な問題は子どものまえで隠すことなく話され、その結果、貧乏人の子どもが金持ちの子どもに劣等感をもち、あるいはまた金持ちの子どもが貧乏人の子どもを理由もなく見くだすということは日本より少ない。……
日本人の貧富に対するものの考え方は、宿命的なものが多いが、それはまちがいであって、子どものころから家庭の経済について打ち明けられていれば、収入というものがどれだけの努力に見合うものであるかという認識を持てるはずである。そうした認識こそが、子どもが長じて、人生に対する積極的な姿勢となってくるのではないだろうか。」

p78「ヨットレースは、一種の極限状況であるがゆえに、人生の縮図でもあって、船の上のことは、陸の上の社会でも、あてはまる。」
p79「男の言葉というものは、すべてその裏に、その男の能力、責任において行なわれる行為というものを裏打ちされていなくてはならない。自分にかかわりない、あるいは自分の能力をこえたことがらについて万言を費やしても、それは意見にも至らぬ、ただのむなしい言葉でしかない。
人間がその人格、うつわを測られるのは、しょせん、その男が、なにを、どれだけできるかということでしかないということを、徹底して子どもに教えなくてはならない。」
※べき論、あくまでべき論。
P81「それは、その戦争をへてここまで成長してきた社会に住んでいる社会人として、同時に、多くの争いによって成長していく不思議な業をもった人間の一人としての責務でもある。」
※無条件の肯定にしか読めない。

P82「まえの項でも記したが、人間の進歩飛躍は、戦いの中にある。それが単に暴力であるということだけで、否定してしまっては、その戦いの中ではじめてありうる人間性の樹立というものまでが失われてしまう。
たとえた話、当節の話し合いかなにかは知らぬが、いきなり町で通りすがりに顔にツバをかけられ、相手をなぐるかわりに言葉でとがめて、相手のハンカチで顔をぬぐってもらっても気が晴れるわけではない。今日のように、平和だとか、話し合いだとかの虚名に隠れて、人間個人の尊厳が平気で傷つけられる時代には、個人の尊厳や自由は、あくまでも個人の肉体的能力の発露としての暴力をもって守らなくてはならぬことが、往々ある。」
※戦争に対する美談でしかなく、具体的にどんな良い影響を与えたのか考察しようとしないことが何より問題。また、ツバをかける行為は暴行罪にあたるのであり、暴力の行使に代わりに警察を経由して罰を求めるべきでは。タイトルは「暴力の尊厳を教えよ」。
P83「人間にとって、道徳も言葉も、精神も理念も、すべて飾りでしかない。なにかのはずみで、それがすべてはぎ落とされたときに、われわれは、自分を最後に守るものは、肉体でしかなく、みずからの肉体的存在を主張するすべは個人の暴力であり、その暴力には、他の暴力と違った、かけがえのない尊厳があるということを子どもに教えなくてはならぬ。相手になぐられて、なぐり返すことのできるような子どもが、その人生の戦いのなかでできることは知れている。」
※このような限界状態においては、人間の尊厳の欠片も存在していないことを確認せねばならない。自己矛盾である。また、「強靭な肉体に鍛えよ」(p213-、第8章)はこの文脈を含むと読むほかない。

P88「人生はしょせん戦いである。そして、その戦いはどんなに幼くても、子どもの時代から始まっている。ならば、子どもといえども、その戦いに勝たなくてはならぬ。
子どもの世界に、いじめっ子といじめられっ子があるならば、わが子を遠い将来、人生に勝ちをおさめる一人前以上の人間に仕立てるためには、まずいじめっ子になれと教えるべきである。」
※「男は世に出た戦場で、絶対に勝たなくてはならぬ。そのための有形無形の準備を、子どものときから築いていくことが、どうしてまちがいであろうか。」(p89)
P94「こうして与える孤独は、とくに自分一人きりで留守をしようとするときには、さまざまな想像力を育て、留守番の多い子どもほど、本を読む気を起こす。できうれば、テレビのある家庭では、子どもに留守番をさせるときには、アンテナの配線を切っておくことが望ましい。」

P96「西欧の家庭では、日本の家庭のように意味もなく八つになったら月いくら、十になったら月いくら、中学にはいったら月いくら、というような小づかいの与え方はしない。たとえどんなに裕福な家庭でも、とくに学校が休みのときなどは、子どもに、子どもの能力でできる労働を与えて、その報酬として小づかいを与えている。……そうすることで、子どもたちは人生というものが労働なくしては運ばない、いかなる収入も労働の報酬としてのみありうるということを悟り、金というものの意味を、理屈ではなしに、体験的に感知することができる。」
P98「子どもに対して酒を、毒薬のごとく遠ざけるのも愚かな話で、水の悪いフランスでは、水のかわりに薄めたブドウ酒を子どもに飲ませるが、たとえ薄めていても、アルコールはアルコールであって、子どものからだにアルコールが働くことにまちがいない。
酒に酔うことが、表現不可能ななにものかをあたえるということを子どもが知っておくのは、悪いことではない。」
※法に無頓着!であれば、そう法を改めないのは何故か?

P101「長じてからは、短所を短所として厳しく指摘することが、それを補う努力を促すことにもなるが、あまり幼いころには、それが逆に、子どもに劣等感をつくり、それ以上の恐怖を与えたり、ノイローゼの原因になったりしかねない。おとなは、その子どもの欠陥が、不具でさえなければ、強くは指摘しなくても、からかったり、笑ったりすることで子どもを促そうとするが、じつは、それもその子にとっては大きな打撃になることが多々ある。
日本の親が、無神経に、子どもの弱点を指摘してしまうのは、その弱点が、同時に自分の弱点でもある場合が多いからだ。……人生に対する積極的な姿勢は、自分の欠点、弱点への認識からは決して生まれない。他の自分の長所に対する自負から以外にはありえないのだ。」

p103「なにもサッカーだけではなく、できるだけ多くの人間とチームワークを組んで行なう激しい競技に、少なくとも男の子は、その少年期、青年期のある部分を費やすように、親は半ば強制してでもしむける必要がある。
それは他の子どもに先んじてピアノを習わせたり、外国語を習わせたりする以上に、後になって、子どものための人生の贈り物になるに違いない。」
※「一人のクルーが、自分の責任をわずかでも怠ることで、みずからの命だけでなく、船全体、乗組員全体の命すらが失われる。そこにはじめてほんとうの責任があり、その責任の遂行のために、本物の勇気が要求され、その勇気を貫徹した人間への新しい友情と信頼が生まれる。」(p103)と「人間は成長し、学校を出、社会人になればなるほど世才ができてきて、人間の本質的な美点を発揮するいろいろな極限状況を、事前になんとなく中和し、すり変え、ごまかしてしまう。」(p102)の対比から主張されているようである。

p108「父親はなんといっても、家庭の核である。しかし、その立場上、子どもに対して、母親よりは遠い。しかし、望ましい家庭をつくりあげていくためには、子どもは母よりも遠い父と、交流することが絶対に必要である。子どもは、だだをこねれば、あいまいに言い分が通りがちな母親と違って、父親に対しては、自分の感情をはっきりと表現しなければ、自分を理解してもらえないということを知るに違いない。」
※タイトルは「父に対するウラミをもたせろ」。
P109「母は単に母でしかないが、父親はつねに家庭にあっても、家庭の外における公人としての肖像をダブらせ、それが子どもたちとの間に、いろいろなわだかまりをつくりあげたが、そのわだかまりを、みずからこわして越えるべきものは、子どものほうであって、またそれを、決して親は、子どもに封じてはならない。」

P114「子どもの不良性のなかには、親が代表する画一的、世俗的な道徳性、通俗性に対する反逆が織り込まれてい、あるいは、親には見られない強い個性の予見がある。」
※信長と水戸黄門を挙げているが、いわゆるガキ大将言説にも通ずるものがある。
P114-115「子どもの不良性は、単に、それが反道徳ということで終わることもあるが、しかし同時に道徳をこえた既成の秩序、既成の価値への反逆をはぐくみ、従来の文明文化の要素をくつがえして変える大きな仕事を、将来子どもがするための素地にもなる。
人間の文明は、いつの時代にもそうした強い個性によってよみがえらせてきたことを忘れてはならない。」
※失敗についてはあまり考えていないこと、これは大きなポイントである。
P115「子どもの不良性を、親がけしかけて育てる必要はないが、しかし、単にそれを既成の道徳を踏まえて恐れ、根元からその芽をつみ取ることは、子どもだけではなく、人間の社会における大きな可能性を、愚かに殺すことでしかない。」

P126「子どもが新しいオモチャをすぐこわすのは、創造本能の発露でもある。もちろん衝動的な破壊本能は、子どもの特性のひとつではあるが、しかし、その破壊本能のかげに、内側に隠されたものをさぐり、その先になにかを求める創造力が働いていることを忘れてはならない。……
まえにも記したが、人間の文明、歴史というものが、つねによみがえり、進歩していくのは、人間の既成の秩序に対する反逆と破壊本能を踏まえた創造性によるにほかならない。親はしょせん、子どもたち以前の世代の人間であり、既成の秩序のなかに安息を感じる人種でしかない。そして子どもたちはそれをこわし、親をしのぐことで、人間全体を進歩させていく。」
p135「親孝行というのは、だれしもがおとなになってから自然にしたくなる徳であって、それを早いうちから期待することは、かえって子どもの特性をスポイルしてしまう恐れがある。」
p136「つまりどんな絵にかぎらず、どんなけいこごとでも、われわれは子どもに決して、いかなる規範も与えてはならない。写実とかリアリズムにのっかって、あぐらをかいていた近代芸術が、現代に力を失ったことが教えるものは、創造力の刺激を失った規範は、すでに人間の規範たりえないということである。」

p142「たとえば、戦後、悪徳とまで考えられなくとも、ある種の愚挙とさえ考えられがちの忠義とか孝行というものが、人間にとっては、時代をいくらへても変わることのない美徳であることを、だれもが知っていながら、どうしてそれをおもてにあらわれてこないのか。」
※そもそも普遍的な美徳と考えられていないからでは。
P143「確かに、社会的な通念は、時代によって変わってしまう。しかし、通念は変わっても、物事のほんとうの価値は変わりはしないということを、具体的に子どもに教える必要がある。
親は、子どもが将来あさはかな流行に振り回されぬ人間、そしてまた、社会の機構によって自分を変節させざるをえない弱い人間に育てぬために、子どものころ、現代、時代おくれとなり、あるいはこっけいと笑われはしても、過去の時代に、それが明らかに美徳であったひとつの習慣を、子どものまえで、あえて見せる必要があるのではないか。
たとえば祝祭日に一家そろっての国旗の掲揚の儀式でもいい。あるいは、坂道では、子どもたちのおじいちゃん、おばあちゃんを親みずから背中に背負うという習慣でもいい。あるいは食事のまえに、目に見えざるものに、感謝の祈りを捧げる習慣でもいい。
要するに子どもたちの目から見れば、当世あまりカッコのよくない習慣を、親が自分の価値観で、あえて行なうという勇気の誇示がいまほど必要なときはない。」
※タイトルは「時代を越えて変わらぬ価値のあることを教えよ」であるが、実際読むと、価値の強要まで行う論調になっていない。

p145「たとえば、子どもの学校の成績の競争、あるいは体育における競争もまた、小さな子どもにとってみれば、自分とクラスメートとの間のひとつの戦争である。そうした競争心があり、敵意を感じればこそ、子どもはもちろん見栄も伴うが、自分の自尊心を守り抜くために、子どもなりに努力をし、知恵のうえでも、体力のうえでも向上があるのである。……
しかし、第二次大戦の体験で、日本人のなかには、戦争というものならば、どのような戦争でも反対であり、たとえ民族的、国家的な屈辱をあえて受けようと、戦いはごめんだというものの考え方があるが、そうしたものの考え方は、しょせん国家、社会、民族を衰えさせ、同時に人間個人をも萎縮させるものでしかないとわたくしは思う。」

p149「偉人を、自我を貫き通し、たとえ社会から疎外されても、孤高な人生を送り通し、彼にしかできぬ仕事を自分の満足で行なった人間とするならば、成功者は、並み以上の個性がありながら、妥協すべきところは妥協し、自我を祈って社会的な成功をかちえた人間ということになる。
望ましいことは、自分の自我、個性というものを折ることなく、かつ社会的に大きな仕事をすることであって、しかし、そういった至福な偉人と成功者を兼ね合わせた人間は、まれでしかない。けっきょくのところ、われわれは、自分の個性、自我に忠実に生きるか、あるいは妥協すること、体よくいえば、他との協調によって、自分の個性を割愛しながら仕事をなすかの、いずれかを選ばなくてはならない。
アンドレジードの『地の糧』のなかに、人間の情熱について記した文章で、美しい一句がある。「ナタナエルよ、きみに情熱を教えよう。わたくしが死ぬとき、満足しきってか、あるいは絶望しきって死にたいものだ。」と。これは要するに、自分の自我を貫き通すことで、偉人と成功者との合体として一生を送りうるか、あるいはなんらの成功を得ることなく、社会的な人間として絶望して死ぬか、いずれにしても、それこそが人間だということだろう。
昨今の子どもたちは、まだ年端もゆかぬうちに、「将来の希望は。」と聞かれ、「平凡なサラリーマンだ。」ということを平気で答えるが、こうした平凡さを美徳として教える家庭の教育は、人間的に明らかにまちがいである。」
※ここからも失敗に関する議論をほとんどする気がないことがよくわかる。

P154「わたくしは、自分の子どもであろうと、だれであろうと、おとなの会話に子どもがはいってくることが、端的に不愉快だ。それは能力、資格の問題であって、おとなと子どもが本気で野球の試合ができないようなものだ。」
※ここでいう子どもの定義とは??
P155「そうしたなれ合いの会話は、子どもに足場のない背伸びをさせるだけであって、ただ有害でしかない。おとなは子どもが口をはさんだときに、おとなの優越感から、当然子どもをほめざるをえない。それはとくに日本的な習慣だが、そうすることで、子どもを、客といっしょになってスポイルすることになるのだ。」

P160-161「いずれにしても、わたくしは、親子がそろいの服を着ているのをながめると、親が自分の選択で子どもを抑圧しているような感じがして、子どもが、いかにも親のペットという感じを免れない。
つまり、そのかぎりで子どもは親の所有物でしかない。これが子どもにとって不本意であることは明らかで、そうした習慣が続けば続くほど、わたくしは、子どもはむしろ下意識に親に対する反発を胸にかさましていくに違いないと思う。
これがなにか、その家に伝わるいわれのある服装ならば、またべつである。」
※なぜ?結局これは家の価値には従えにならないのか?

P162「最近の没個性、要するに無趣味な若者たちには、とうとうヒッピー、フーテンなどのサルまねを飛び越えて、どこぞの国ともわからぬ制服を束になって着込むことに喜びを感じている手合いもいるようだ。制服の味は、ただ一人、その制服をあてがい、多くの人間に着せしめている人間だけが味わう至福さにある。だから独裁者は制服を好む。
※ここに没個性性見出すなども、一見アメリカの反体制論者と全く同じ議論である。
P163「確かに学校で決められた制服を、集団教育の場である学校で着せることは、それなりの意味があるが、しかし、その制服を家に帰り、学校以外のところへ外出するときにまで着せる親は、いったいどういうつもりなのだろう。
教育には、集団教育と個人教育があるのであって、後者を家庭が受け持つかぎり、家庭の教育は、学校で行なわれる教育以外のすべてを行なわなくてはいけない。そのためには、まず与えられる教育の本質の違いを子どもに自覚させるためにも、学校の制服を学校外で着せないことだ。」
※反体制論者との違いはここ。そしてこれをどう評価するかが非常に重要だろう。ポイントの一つは石原のもつ「価値」と「個人主義」が対立する際の両者の捉え方にあるように思える。

P174「あるとき、わたくしが家へ帰ってくると、週一回子どもの勉強を見てくれている学校の先生が帰られるところだった。」
※補習教育の一環?
P175「恐ろしい話だが、いずれにしても言葉づかいは、まず家庭で親が教え、学校で先生が教えるものではないか。昨今えらそうにとりすましている親が多いが、子どもがどんな言葉づかいを他人にしているかを聞けば、親の程度がすぐに知れる。」
※ここでは教師が教えてはならない、という言説になっていない。それは本書全体に言えると言っても良よい。

P176-177「よく日本の親は、子どものいたずらを必要以上に陳謝することを、人間関係のなかでの美徳な方法と心得ているフシがあるが、おかしな話である。たとえば、遊びのなかで、ちょっとしたケガをさせても、子どもは子どもなりの責任を感じる。子どもが相手の子や、その親にあやまったのに、なお親が出ていき、相手の親に大げさにあやまることほど、こっけいなことはない。子どもにとって、いたずらがすぎたり、なにかのはずみで相手にケガさせることは、おとなが盗みやけんかで人をあやめたりする以上に、大きな心理的な衝撃があるのであって、それを彼なりに耐え、それを越えて、たどたどしくも、自分の言葉であやまり、責任をとるところに、子どもの社会人としての情操、精神の芽ばえがあり、成長がある。
実際のところ、ケガをさせられた相手の親にあやまられたところで、あやまられたほうの親だって、どうするものでもなかろう。それで両家の間が悪くなるとすれば、まことに他愛のない交際としか言いようがなく、そんなにもろい人間関係なら、最初から持たぬに越したことはない。
もちろん、子どもに対する親の責任というものは十分にありうる。しかしそれは、子どもが子どものけんか、いたずらで犯した過失に対してではなく、もっとそれが社会的、人間的に意味があり、親自身の人間の尊厳をそこなうということにおいて、はじめて子と親の責任が一体になるはずである。」
※これも過剰な子どもの美化である可能性はないか?

P178「子ども自身の時間の管理を子どもにまかせることと、子どもが彼以外の他人との交渉でもつ時間を厳守させることは、おのずと区別し、徹底させなくてはならない。他人との時間を守るということは、他人との協調のうえに成り立つ社会生活を円滑にすごしていくための、基本的な条件のひとつである。その条件を心得さすために、他の約束についても、そうした習慣を培っていくことが絶対に必要だ。」
P180「欧米の社会では、子どもが不具でもないかぎり、でんしゃのなかで、子どもがすわり、おとなが立っているなどという光景はほとんどない。日本では逆で、親が争って座席を奪い合い、子どもをすわらせて、自分が立ったりする。ここらにも日本の社会が子どもを不必要に甘やかしていることが、わかる。……
子どものおとなに対する敬意という以前に、社会的な立場の違いというものを、電車の中では子どもは立つものだというような規律を厳格に与えることで、悟らせる必要がある。」

p182「きょうだいというものは、生まれた順序が違うだけで、本質的には対等なものであるが、同時に、やはり順序を追って生まれたということに、否むべからざる意味がある。どんな家庭でも、長男は長男の世間的な性格を負い、次男は次男の世間的な性格を負わざるをえないのであって、きょうだいが本質的に対等であるがゆえに、いっそう年齢の差というものが強い影響を与えることになる。
よく親は、自分の考えを徹底させる場合に、上のきょうだいを立て、あるいは上のきょうだいを戒めることで、ほかのきょうだいたちに、それを徹底さすことが多い。しかし、きょうだいもまた子どもなりの競争心をもっているのであって、あまりそれを徹底しすぎると、子ども心に不公平の処置と映るおそれもある。」
※タイトルは「きょうだいの順序をはっきりさせろ」。本書で一番境界的なケースを扱った内容かもしれない。親への服従は強要していないが、兄弟の順位付け、つまり主従は強要しているからである。

p188「現今、教育ママなるものはそこらじゅうにいるが、実際には、すべて学校まかせで、学校で教える教育の内容は問わず、ただ、自分の子がどれだけの成績をとっているかということだけの関心しかない。……
しつけもまた同じであって、本来は、家庭で行うべきしつけまでも、学校の先生にまかせきりにしてしまっている。学校の先生にしてみれば迷惑な話だ。学校の先生は何十人かの子どもたちを十把ひとからげに預かっているのであって、それなりの配慮はしても、そうそう子どもたちの個性に応じた教育をするわけにはいかない。
人間の個性をそれほど重視しない社会主義社会ならばべつだが、人間が個性、能力に応じて仕事をなしうる自由を認めた自由主義の社会にあっては、子どもが運命的、宿命的に負うた能力を、減らすものばすもえ、しょせん家庭の教育であり、学校の教育は、それを補うものでしかない。」
p189「子どもの教育には、いろいろな方法がある。そして、その方法のなかで、肉親しかできぬ方法とはなにか。それは子どもをなぐることだ。昨今では、学校の先生がどんな理由があろうと、子どもをなぐると必ず物議をかもし、先生の方が萎縮して、あえてそれを行なわない。あるいはまた、子どもを閉じ込めること、あるいは子どもをおどすことも、親でしかできない。
親はそういう意味で、子どものしつけ、教育に関しての決定的な切札を持っているもっとも重要な教師であるのに、その切札を放擲し、いったい、だれになのをまかそうというのか。」

p191「今日の多くの教師は、自分が単なるティーチングマシンでありながら、それを教育などという高尚な作業に携わっていることと錯覚し、うぬぼれている。だからわたくしは、東大の紛争のなかで、学生たちが、つるし上げた教授を「ブタ」と言い、「きさまらブタと、オレたちの違いは、きさまらが役に立たぬ知識をたくさん知っていて、オレたちがそんなものを持たぬだけではないか。」とうそぶいたことに、快哉の拍手を送るものである。
今日の日本の悪しき教育制度に抑圧された少年の自我と魂が、その個性の光彩を放って目覚める、その最初の絶対条件は、子どもたちが、できれば親に教えられずに、自分を教えている教師が、人間としてほんとうに一流か、あるいは二流、三流でしかないか、ということを見きわめてかかることにほかならない。
個人的能力と人格を確かめもしないで、相手が先生であるというだけで、親が、やたらに子どもに、先生を敬わせるのは、まちがいである。」
※そっくりそのまま石原の人間論にも返してやりたい言葉。
☆p192「そのとき親が、子どもが教育の内容について異なった意見を述べ、子どもが板ばさみになり、学校の先生と親の意見と、どちらをとるということで、教育の幅が出、子どもに物事の相対的な見方が教えられ、思考に関しての柔軟性というものが与えられる。」
※と言う割にはタイトルは「先生と親の意見がくいちがったときは、親に従わせよ」である。「そしてそのとき(※教師と親に意見の食い違いがあるとき)に、わたくしは、絶対に親は親の意見を主張し、学校で先生がなんと言おうと、自分の意見に子どもを傾倒させるように努力しなくてはならぬ。」(p193)

p197「よく、休日でも平日のように、子どもを起こすことで、子どもに規律の生活を与えているつもりの親がいるが、時間的秩序を徹底させるためには、むしろ、おとなと同じようにひとつの時間的なショック・アブソーバーとして、週末や休日の就寝時間、起床時間を、子どもの自由に与えることが望ましい。」
※石原の論理なら、ここで親が殴りかかってもよいものだが…「子どもはむしろおとな以上に、本能的に時間にそって自分を調節する能力を持っている。」(p196)と見ているのが焦点か。
P222「その家の伝統として、ひとつのスポーツへの熱中が続いているというのは、じつにうらやましい。いままでそうした伝統がなければ、自分の代からでも、そうした習慣、伝統をつくることは、子どもの人生のために、はなはだ意義があると思う。
 といって、子どもになにも、その家の伝統的なスポーツを押しつけることではない。だいたい日本人のスポーツ観は、偏狭で、バカのひとつ覚えみたいに、ひとつのスポーツに集中することが、美徳のように思われている。これはスポーツ力学からいっても、まちがったことであって、いくるかのスポーツを並行して行なうことのほうが、それぞれのスポーツの向上に役立つ。
 しかし、それでもなお、その家の伝統のスポーツを手がけることで、スポーツで本能的に養われるものの考え方、感じ方、行動の姿勢というものを、家族に伝えることができる。」
P228「子どもたちには、親の立ち入ることのできない子どもたちの道理があり、黙約があるのであって、それを片方が破ることで起こるけんかには、親が立ち入る筋はない。」

小林正「日教組という名の十字架」(2001)

 今回は本書の主題とは少しずれるが、戦後直後の資料に言及している内容に関連して、2点程気になったことについて触れてみる。

1.「太平洋戦争史」や「新教育指針」の当時に影響力について
 恐らくは日本が独立していく50年代には徐々に忘れられていったものかと思われるが、これらの文書が出た当時、国民や教育関係者にどのような影響を与えたのかは非常に気になり、今後機会があれば調べてみたいと思った。特に「新教育指針」における極めて歪んだ日本人論に対する影響力については、どのように引用され、普及していったかが気になった。素朴に考えればそれなりに教師を中心にしてこの日本人論の枠組みは影響を与え、以降の日本人論の骨格形成の一助になったとも言えるかもしれない。
 国の機関といった公の見解が示された場合、その見解は自明のものとして正当化可能になってしまうという可能性については、80年代の「地域の教育力」の衰退という議論にもあるのではないのか、ということを素朴に感じているが、ここでの「日本人論」もまた後継の議論において自明の理としての正当性を与えるのに寄与した可能性があるのではないか、そうならばその正当化の過程を捉えることも重要ではないかと思った。

 また合わせて興味深いのは、ここで示される日本人論と「個人主義」の対比である。ここでの日本人批判は従属的であること、滅私的な主体への批判に加え、利己的な日本人であることも批判している点が注目すべき点である。ここで共通項として取り出せるのが「権威主義」への従属という点であり、まさに河合隼雄の「父性原理・母性原理」論において批判的に日本人を捉えるのに重要視された点であった。この点が海外と比較した場合において疑わしいものであることはすでに議論してきた所であるが、近いうちにまたこの点については整理をしてみたい。


2.日教組の「教師の倫理綱領」の解釈について
 現在でも10項目の綱領は機能しており、何度か見たことはあったが、解説まで含めてしっかり読んだのは初めてであったので新鮮であった。ネットにも1952年当初のものと、その後1961年に更新されたものが全文で掲載されていたので合わせて参照されたい。

1952年版:http://www.7key.jp/data/law/kyoushi_rinrikouryou.html
1961年版:http://www.7key.jp/data/law/kyoushi_rinrikouryou2.html

 52年版の解説文を読むと、明らかに反資本主義・反体制の立場を明確に謳い、初期日教組の性質を考える上でも非常に重要なものといえる。ただ、本綱領は明確な資本主義批判をしていても、直接社会主義共産主義を支持するという言い方をせず、あくまで「団結」の重要性を述べるなどするに留まっている。5項目の解説文において「レッド・パージ」について触れている部分があるが、あくまで政治思想の一つとして「共産主義」を捉えているに過ぎず、思想を排除しようとする体制側の姿勢を批判しているのに留まっている。
 しかし他方で、解説文なき10項目の綱領というのは、極めて漠然としたお題目でしかない印象がある。私自身が気になったのは、日教組の成員間において、この解説文というのがいかに扱われていたのか、という点であった。というのも、各項目だけを読んでも「体制批判」の文脈が読み取れないからである。また、解説文の分量についても両者が顕著な違いがあり、「体制批判」の色合いも52年版の方が明らかに強い印象である。この分量減少は「体制批判をする姿勢そのものの衰退」と見ることもできるかもしれないし、単純に「52年版は61年においてもまだ有効であるから、敢えて多くを語らなかった」とも読むことができる。この両文書の意味合いと、その流通による影響というのを、広い意味で捉えていく方法はないだろうか。これも機会があれば検討してみたい論点である。
 

(読書ノート)
p4「このうち、「教職追放指令」はすべての教職員を対象とする「教職適格審査」という前代未聞の規模で行われた。占領前期、審査総数のほぼ一パーセントにあたる五千二百余名が追放された。なお、この「審査」を前に十一万五千二百余名(審査総数の二〇パーセント)が自ら職を辞している。この問題は戦後教育界に大きな影響を及ぼした。」
p20「本文に立ち入る前に、この「訳者のことば」から、(※GHQ/CIE資料提供の)『太平洋戦争史』がいかなる目的で出版されたかを確かめたい。
一、「太平洋戦争」は日本軍閥が善意ある国民を欺瞞して起こしたものである。
二、「太平洋戦争史」は連合軍総司令部が論述したものである。
三、連合軍総司令部は日本国民と日本軍閥の間に立って、冷静な第三者としてこの問題に明快な解決を与えている。
四、全国民が熟読玩味すべき文献。」
※これに対して、連合国軍は第三者にはなり得ず、「軍閥と国民を対立させ、あたかもこの戦争がその両者によって戦われたかのごときフィクションを持ち込むことによって第三者を装った」「全国民にこの書を読ませることで過去の歴史との断絶をはかった」とみる(p21)。本書は1945-1946年に各新聞に掲載され、1946年に書籍化され、十万部刊行されたという(p18-19)。
P26「しかし、この本では、これが中国側の徹底抗戦のきっかけとなったとしているのは事実に反する。南京陥落以後、日支事変は武漢三鎮の制圧を経て膠着状態となった。戦中、中国側はこれを戦意高揚に取り上げなかったばかりか、国際連盟への提訴も行っていない。「南京大虐殺」は「広島・長崎」を正当化するために突如登場してきた事件である。」

P73文部省編「新教育指針」(1946)前編「新日本建設の根本問題」より…「指導者たちが過ちをおかしたのは、日本の国家の制度や社会の組織にいろいろの欠点があり、さらに日本人の物の考え方そのものに多くの弱点があるからである。国民全体がこの点を深く反省する必要がある。とくに教育者としてはこれをはっきり知っておかなくてはならない。」
P73-74「傍線部分のうち、指導者たちが過ちをおかしたのは、国家の制度、社会組織、日本人のものの考え方に弱点があるからとしている。これでは、ポツダム宣言によって軍国主義者や極端な国家主義者を排除しただけではダメということになり、国家全体が反省しなければならないということになった。まさに「一億総懺悔」である。」

P75指針における「日本人の欠点、弱点」について…「二、日本国民は人間性・人格・個性を十分に尊重しない
「これまでの日本国民には、このような人間性・人格・個性を尊重することが欠けていた。例えば封建時代において、将軍とそれに治められている藩主、藩主とそれに仕える家来としての武士、武士とその下にいる百姓町人、というように、上から下への関係が厳しく守られていた。……このような封建的な関係は近代の社会にも残っている。例えば役人と民衆、地主と小作人、資本家と労働者との関係が主人と召使のように考えられ、大多数の国民は召使と同様に人間性を抑え、歪められ、人格を軽んじられ、個性を無視されることが多いのである。」」
p76「三、日本国民は、批判的精神に乏しく権威に盲従しやすい
「上の者が権威をもって服従を強制し、下の者が批判の力を欠いて訳も分からずに従うならば、それは封建的悪徳となる。事実上、日本国民は長い間の封建制度に災いせられて、『長いものには巻かれろ』という屈従的態度に慣らされてきた。いわゆる『官尊民卑』の風がゆきわたり、役人は偉いもの、民衆は愚かなものと考えられるようになった……しかもそれは自由な意思による、心からの服従ではないので、裏面では政府を非難し、自分ひとりの利益を追い求める者が多い。このような態度があったればこと(※ママ)、無意味な戦争の起こることを防ぐことができず、また戦争が起こっても政府と国民との真の協力並びに国民全体の団結ができなかったのである。」」

p77「四、日本国民は合理的精神に乏しく科学的水準が低い
「批判的精神に欠け、権威に盲従しやすい国民にあっては、物事を道理に合わせて考える力、すなわち合理的精神に乏しく、神が国土や山川草木を生んだとか、大蛇の尾から剣が出たとか、神風が吹いて敵軍を滅ぼしたとかの神話や伝説があたかも歴史的事実であるかのように記されていたのに、生徒はそれを疑うことなく、その真相やその意味を究めようともしなかった。このようびして教育せられた国民は、竹槍をもって近代兵器に立ち向かおうとしたり、門の柱に爆弾よけの守り札を貼ったり、神風による最後の勝利を信じたりしたのである。また社会生活を合理化する力が乏しいために伝統的な、かつ根のない信仰に支えられた制度や慣習が残っている。いろいろな尺度が混用されたり、難しい漢字が使われたりするのも、同じ原因に基づく。」」
☆p79-80「五、日本国民はひとりよがりで、おおらかな態度が少ない
「封建的な心持ちを捨てきれぬ人は、自分より上の人に対しては、無批判的に盲従しながら、下の者に対しては、独りよがりの、威張った態度で臨むのが常である。そして独りよがりの人は自分と違った意見や信仰を受け入れるところの、おおらかな態度をもたない。……神道を信ずる人々の中にはキリスト教を国家に害のある宗教であるかのように非難する者もあった。
こうした独りよがりの態度は、やがて日本国民全体としての不当な優越感ともなった。天皇を現人神として他の国々の元首よりも優れたものと信じ、日本民族は神の生んだ特別な民族と考え、日本の国土は神の生んだものであるから、決して滅びないと誇ったのがこの国民の優越感である。そしてついには『八紘一宇』という美しい言葉のことに、日本の支配を他の諸国民の上にも及ぼそうとしたのである。」」
※この指摘は貴重。

P92「改正憲法と一体をなすものとして制定された教育基本法は、前文と各条項にわたって多くの問題点が指摘されている。
第一は、前掲の『太平洋戦争史』で強調された、旧体制の国家が善意の国民を欺瞞して戦争に導いたとする立場から、国家と国民という関係が前文及び各条項から完全に削除され、個人が全面に出ていることである。
第二は、日本の過去の歴史を否定し、伝統・文化についても意図的に削除されたことである。教育基本法最終草案の段階で「伝統を尊重し」が削られた経緯は語りぐさとなっている。伝統文化の継承なくして、その発展のみを期すなどあり得ないことは言うまでもない。
第三に、国家と民族を排除した教育基本法では、「よりよき日本人」の育成というわが国の教育理念としては成り立たない。……さらに、国家・民族とともに社会の構成単位としてに家族についての記述がない。「新教育指針」において封建的遺制としての家族関係の記述が否定的に述べられており、家族より個人重視の立場から排除されたと見なければならない。」
p97森戸文相1947年6月の日教組への反応…「新しい文化、新しい国民精神の建設をめざすルネッサンスを実現することこそ、教育者諸君のもっとも光輝ある任務である。私は日教組結成への喜びを贈り、健全な発展を祈っている。日教組が破壊的闘争という小児病的傾向を克服し、わが国の教育者と教育界のために真実な革新的進路を示すものと確信する。」

p104-105「戦後日本教育資料集成」から「教師の倫理綱領」に関する資料…「このため、宮原誠一東大助教授、勝田守一学習院大教授、柳田謙十郎元京大教授、周郷博お茶の水大教授の四氏を招き『教師の倫理』についての意見の交換を行った。その際つぎの要旨の意見が出された。
【宮原】労働と科学と平和ということを中心にして、人が人を搾取しない民主的な労働者の共同社会を建設しなければならない。そのためには科学的な手段がとられなければならないぢ、平和な社会が必要である。労働者のための共同社会の建設という本来の使命をはっきりさせなければいけない。
【勝田】教師は労働者であり、社会の最大多数をしめているのも労働者であるという基本的な考えがはっきり体認されなければならない。
【周郷】民主化のためにはどうしても平和な社会がまず保障されるべきであるという訴えも強くだすべきである。そして平和を求める日本の大衆の声が、保守的な陣営によって圧迫されている事実もだすべきである。
【柳田】現在の教師の倫理は、わが国の教育界の通念を破るものでなければならない。現実の課題をとく、役に立つものでなくてはならず、それは歴史の変化に応じて変わり、歴史そのものをつくりだす力をもっているものである。」
※ただし、教師の倫理綱領からは子どもが将来的な労働者になることに対してはどうするのかという観点からは何も述べられていない。

P107教師の倫理綱領を1952年の新潟大会で「行動綱領に準ずるものとして扱う」決定を行った際の三項目「教師は平和を守る」に対する解説…「中国とソ連の同盟条約は、すでに日本を危険仮想敵国としている。……『平和は人民の希求である』けれども、資本家にとっては、それは『もうからない』ということであり、まさしく、おそるべき『脅威である』というわけであろう。あるいはそうかもしれない。それが、資本主義社会構造がもっている宿命的なガンであろう。……われわれは、愛する祖国と青少年を、そのような戦争挑発者まかすことなく、人民の希求に従った平和なものに育て上げなければならない。そのためには、いまや勇敢な平和へのたたかい以外にとはない。」
※これに対し、「社会主義国家は平和勢力、との信仰にも似た信念で語る「平和」がいかに欺瞞に満ちたものであったか、これについて、日教組が何らかの総括を行ったという話は寡聞にして知らない。」と述べる(p108)。
P108六項「教師は正しい政治をもとめる」に対する解説文…「これまでの日本の教師は、政治的中立の美名のもとにながくその自由を奪われ、時の政治権力に奉仕させられてきた。……政治は一部の勢力に奉仕するものではなく、全人民のものであり、われわれの念願を平和のうちに達成する手段である。」
※これに対するコメントとして、「ここで解説は、念願を平和のうちに達成するためには、政治的中立ではダメで、政治的に「なんでもやる」という積極的な立場に団結しなければならないと述べている。平和的に社会主義革命を実現するには、教育基本法第八条二項は運動上障害ということである。こういう団体によって職場支配が行われている状態こそ「不当な支配」そのものではないか。」(p108-109)と述べる。
P109-110第十項の解説…「教師の歴史的任務は、団結を通じてのみこれを達成することができる。……全国のすべての教師がひとりびとりその任務を自覚することがのぞまれるが、ここで大切なことは、それらの教師が固く組織に団結することである。孤立は敗北に通ずることはすでに歴史においてそれを学んだ。『団結すれば勝ち、分裂すれば敗れる』ということも有名なことばである。……団結こそは教師の最高の倫理である。」
※ここには全生研的意味でのな団結は語られていない。ある意味で素朴な「団結」論である。

P114山口日記事件における取扱…「『ソ連とはどんな国か』……「ソ連」というのは「ソビエト社会主義共和国連邦」の中から二字をとったのです。「ソビエト」という意味は、「会議」ということで、いっさいの政治は、会議によってきめるということです。「社会主義」というには、労働者と農民の幸福を第一とする主義なのです。工場をもっている資本家が、安いお金で労働者を使って自分のふところをこやしたり、安い米のねだんにして農民を苦しめたりしている「資本主義」とは反対です。……アメリカや日本の「資本主義」と、どこがちがうか、どこがよいかしらべてみて下さい。」
※これは朝鮮戦争の議論にむすびついており、北朝鮮を「働く者の国」とし、人民はそれがよいとしていた述べ、南が北をせめたのが朝鮮戦争のはじまりと説く(p114)。
P127-128「教員組合運動や日教組を無条件に支持し、その政治活動を推進するタイプ」の教科書として、宮原誠一編「高校一般社会」実教出版を挙げる
※この話の出典は民主党教科書問題特別委員会の「うれうべき教科書の問題」。しかし、毎日新聞社説1955-10-10では、「一部分をとりあげて全体を偏向ときめつけたり、誤解や認識不足に基づいた議論が多く、その意味ではくだらない騒ぎを起こしたと言える。」と批判したという(p131)。

P136日教組十年史より…「かくて(※1948年)一〇月五月行われた全国四六都道府県、五大都市の教育委員選挙では、教職員組合推薦またはこれに近い民主団体推薦の候補者中、八〇名が当選し、北海道などの二四県では推薦立候補者のことごとくが当選した。福岡のごときは、二年委員と四年委員各二名、計四名が、北海道、千葉などの七県では、各三名が当選したのである。」
P138「その後、教育委員の選挙は昭和二十五年十一月、二十七年十月に実施された。公選制最後の選挙はわが国が独立を回復した直後であったが、都道府県と市町村の投票率の全国平均は五九・八%であった。この低投票率とともに、制度の趣旨からすれば問題とされたのは、九六二七町村、組合三三のうち、無投票の町村が四九一七、組合一六で、全町村の五割までが無投票だったことである。
こうした状況に加え、地方行政実務の立場から、一般行政と教育行政が分離されるため行政の総合的運営が困難になるとし、自治体首長へ責任を集中させるべきとの見解が地方六団体から提起された。」
※この投票率が低いかどうかは判断が難しいと思うが…

p145-146「しかし、教育基本法制定段階では、日本側が教育勅語の存在を念頭にCIEに折衝していたにもかかわらず、結果としては昭和二十三年、衆参両院において廃止及び失効確認の決議がなされ、教育勅語教育基本法という車の両輪のうち一方が否定されたため、本来、教育基本法に示さなければならなかった国民道義の基本が欠落することになった。」
教育基本法制定(1947年3月)の後に教育勅語の失効が確認されている(1948年6月)ことから見れば、基本法と両輪で考えられていた、という主張が正しいか不明瞭であり、それを立証できているものも提示されていない。
P154「教育勅語の成立経緯はいうまでもなく、幕藩体制から国民国家として統合される過程で作られたものであり、朝日(※新聞)が基本的な思想を問題にしているのは、教育勅語全否定の立場と捉えざるをえない。次に「軍人勅諭丸暗記の軍人がどうであったか、国民が一番よく知っている」というのは、どういうことか。「太平洋戦争史」が描く醜い日本軍人を指しているのであれば、時代を経ても名誉は守られなければならない。」
教育勅語でなければならない理由については何も示されていない。
P159「勤評闘争はこうした現場の二つの側面、すなわち教育の専門職集団としてのプライドと分会の組織防衛の立場によって闘われたといえる。従って各県段階の闘いも、ストライキによる実力行動でこの方針を阻止しようとする県と、教育論で話し合いで解決を図ろうとする県とに分かれた。世上「神奈川方式」と呼ばれたのは後者である。
この闘争の結果、多くの県で組織離脱者を出し、冒頭の文章にもあるように、多くの職場で校長・教頭が日教組を離脱した。教育現場は学校と分会、管理職と組合員という対立の構図が出来あがった。それまでの教育一家的な一枚岩の構造はなくなり、「校長組合」的な組合運動から、校長をも権力の末端として敵対視する運動へと日教組運動は変質していった。」

p166-167「都道府県教組は昭和四十年代から協定によって、これ(※給料を貰いながらの組合活動の実施)を既得権として今日まで行使してきた。組合にとって、勤務時間内に有給で組合活動を行うことが組織強化につながるとの認識であった。しかし、これは公務員関係の組合の場合の論理であって、民間労組の場合、このような理屈は通用しない。給与も労働時間も税金で賄われる公務員関係労組と、使用者である自治体当局との間に身内意識がはたらいて、こうした癒着が進行してきたものである。」
※この既得権について「東京では美濃部都政以来」と述べている。
P169「八〇年代、労働界では民間主導の労働団体の再編・統一の機運が高まった。これに日教組自治労など公務員関係労組も加わったナショナルセンターの構想が現実化する中で日教組組織内では統一推進に社会党系主流派とこれを右翼再編と批判する共産党系反主流派が激突し分裂状態となった。
平成元年、日教組は日本労働組合連合会に正式に加盟したが、これを契機に共産党系反主流派は全日本教職員組合協議会を結成して分裂した。」

p179川崎市の生徒人権手帳について…
「1飲酒・喫煙で処分されない権利、2学校に行かない権利(不登校の助長)、3集会・団結権、4内申書を見てその記録を訂正させる権利、5職員会議を傍聴する権利、6つまらない授業を拒否する権利、7妊娠、中絶、出産、結婚など如何なる事情によっても処分を受けない権利、
これらの権利を紹介して、児童・生徒を唆し、学校・学級を崩壊させようとしている。」
※1については法律違反であり、処分については「追加の処分を禁ずる」性質なのか、本書のいうような規律崩壊を意味しているのか読み取れない。また、本書として一貫していえるが、海外と比較して規範崩壊がどうなのか、規範順守がどうなのか、といった視点が欠落している。

P224天野貞祐「国民実践要領」(1951)より…「(2)自由
われわれは真自由な時間を人間であらねばならない。真に自由な人間とは、自己の人格の尊厳を自覚することによって自ら決断し自ら責任を負うことのできる人間である。
おのれをほしいままにする自由はかえっておのれを失う。おのれに打ちかち道に従う人にして初めて真に自由な人間である。」
p229同上。「(5)しつけ
家庭は最も身近な人間教育の場所である。
われわれが親あるいは子として、夫あるいは妻として、また兄弟姉妹として、それぞれの務めを愛と誠をもって果すことにより、一家の和楽と秩序が生じてくる。そうすることを通じて各自の人格はおのずから形成され、陶冶される。それゆえ家庭のしつけは健全な社会生活の基礎である。」
p230「(1)公徳心
人間は社会的動物である。人間は社会を作ることによってのみ生存することができる。社会生活をささえる力となるものは公徳心である。われわれは公徳心を養い、互に助け合って他に迷惑をおよぼさず、社会の規律を重んじなければならない。」
p230「(3)規律
社会生活が正しくまた楽しく営まれるためには、社会は規律を欠くことはできない。
個人が各自ほしいままにふるまい、社会の規律を乱すならば、社会を混乱におとしいれ、自他の生活をひとしく不安にする。」
p231「(6)世論
社会の健全な進展は正しい世論の力による。
われわれは独断に陥ることなく、世の人々の語るところにすなおに耳を傾けなければならない。しかし正しい世論は単なる附和雷同からは生まれない。われわれはそれぞれ自らの信ずるところに忠実であり、世の風潮に対してみだりに迎合しない節操ある精神と、軽々しく追随しない批判力をもつことが必要である。正しい世論は人々が和して同じないところに生まれ、世論の堕落は同じて和しないところに起る。」

p233「(1)国家
われわれはわれわれの国家のゆるぎなき存続を保ち、その犯すべからざる独立を護り、その清き繁栄高き文化の確立に寄与しなければならない。
人間は国家生活において、同一の土地に生まれ、同一のことばを語り、同一の血のつながりを形成し、同一の歴史と文化の伝統のうちに生きているものである。国家はわれわれの存在の母胎であり、倫理的文化的な生活共同体である。それゆえ、もし国家の自由と独立が犯されれば、われわれの自由と独立も失われ、われわれの文化もその基盤を失うこととならざるをえない。」
p233「(2)国家と個人
国家生活は個人が国家のためにつくし国家が個人のためにつくすところに成りたつ。ゆえに国家は個人の人格や幸福を軽んずべきではなく、個人は国家を愛する心を失ってはならない。
国家は個人が利益のために寄り集まってできた組織ではない。国家は個人のための手段とみなされてはならない。しかし国家は個人を没却した全体でもない。個人は国家のための手段とみなされてはならない。そこに国家と個人の倫理がある。」
※ある意味でこのような止揚状態の想定は、特に戦争が起きるときのような危機的状況をどう考えるかに全く寄与しないと断言してもよいのかもしれない。そのような状況下にあること自体が、止揚状態の失敗の上に成り立っているといえないか?それはお題目にしかならない。
P234「(6)愛国心
国家の盛衰興亡は国民における愛国心の有無にかかる。
われわれは祖先から国を伝え受けそれを手渡して行くものとして、国を危からしめない責任をもつ。国を愛する者は、その責任を満たして国を盛んならしめ、且つ世界人類に貢献するところ多き国家たらしめるものである。真の愛国心は人類愛と一致する。」

p257「専門職者としての矜持であり、父母の信頼もこうした姿勢に対するものだったように思う」とする「教育魂」という言葉
※意味合いについては特に触れられていない。