村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎「文明としてのイエ社会」(1979)

 今回も日本人論として、大平政権にも影響を与えた著書としても知られる本書を取り上げる。

 本書のポイントの一つである多系的発展論の歴史的説明がいかに正しいのかという点は私の能力を超えるため触れないが、欧米的な個人主義や近代化論について一定の批判を加えつつ、更に既存の日本人論とも一定の距離を取ろうとしている傾向が認められる。ただ、「欧米文明」との対比を意識していると述べるものの、本書は一貫して「ヨーロッパ」との対比を想定して日本を論じているといわざるを得ない。近代化論、そして日本人論を語るのに際しアメリカとの対比を無視することはできないはずだが、本書が目指す視点から近代国家アメリカをどう語ることができるのかが全く見えてこなかった。まあ、本書のスタンスとしては将来的な発展が個人主義的になるのか、集団主義的になるのかは明言していないという点からすると、過去の「文化的遺伝情報」(p461)なるものというのはむしろ限定的な影響しか与えないということ解釈をしていることを踏まえれば、あまりアメリカの歴史的連続性について考えなくてもよいのかもしれない。しかし、「近代化論」としてはやはり本書が歴史的連続性を強調している以上、触れて欲しかった論点であるように思う。

 

○欧米の近代化論者は「二項図式的」なのか?――テンニースの事例から

 

 本書ではテンニース、マッキーバーパーソンズという具体名を挙げ、「欧米的近代化の中で育まれてきた社会学的分析においては、個々人を基本的な主体として考える原子論的ないし還元主義的傾向が強い」と述べ(p33)、その二項図式的な近代化の分析に対する批判と、それに応える意味で日本の歴史的発展におけるウジ集団とイエ集団の分析を行う。ここでは、テンニースの著書「ゲマインシャフトゲゼルシャフト」をもとに、この点について検証してみたい。

 この検証を行うにあたり、まずこの二項図式を考える上で、すでに羽入辰郎のレビューで検討したヴェーバーの「理念型」についての基本的理解を前提にする必要がある。理念型というのは、それが社会の実態を捉える上で「分析的」なものとして機能させるためには、むしろ極概念として明確な二項図式として提示した上で、それがどの程度実態にあてはまるのかをみていくためには、ある意味で「還元主義」に基づき定義される必要があった。そのような極概念により、より実態が「対象化」可能なものとして分析できるのである。これをここでは「分析概念としての二項図式(二項図式A)」と呼ぼう。一方で、実態についてある一定の法則性を見出せることが実証できたのであれば、それは一定の事実として二項図式的に示すことが可能となる。これを「実態としての二項図式(二項図式B)」と呼ぶことにする。差し当たり前提として押さえておきたいのは、この二つが混同されてはいけないということである。つまり、本書で二項図式を否定する際には、二項図式Bが否定される筋合いはあるが、二項図式Aの否定は、社会分析にとって自殺行為になるということである。もっとも、本書は流石に二項図式Bこそが批判されるべき「欧米的社会学分析」だとみなしているだろう。

 しかし、更に注意しなければならないことは、この両者の混同というのは、デリダ的な意味での「誤配」に極めて陥りやすい性質を持っているものであると言ってよいように思う。つまり、社会学者(作者)側の意図とは別に読者の側が二項図式A・Bを混同し、特に二項図式A(理論的仮説)をあたかも二項図式B(実態そのもの)であるかのように読まれるということである。結論から言えば、少なくとも本書のテンニース理解というのは、この誤解に陥っていると言わなければならない。

 

 さて、本書における欧米的社会学分析の批判は単に二項図式的であるという主張とは別に、p42のように「前近代的集団」と「近代的集団」の捉え方もまた問題であるという風に主張される。ただし、この点については、「限定的/無限定的」であることと「人為的/自然的」であることについては異論がないようであり、「即自的か手段的か」という点に論点が絞られている。これはテンニースの著書においては、「本質意志」と「選択意志」の違いであるといってほぼ間違いないだろう。テンニースがいう二つの意志に関する定義付けを一言でまとめるのは難しいが、次のような言い方で語られている。

 

「本質意志という概念を正確に把握するためには、外界の事物の自立的な存在からまったく眼を転じて、それに関する感情または体験をその主観的実在においてのみ理解しなければならないであろう。そこで、ここにはただ精神的な実在と精神的な因果関係だけしか存在しない。換言すれば、ただ存在感情・衝動感情・活動感情の同時的存在と連続的継起だけが存在するのであって、これらの感情は、同時に全体として存在している場合でも、継起的な連関において存在している場合でも、かの個性的存在の原初的な萌芽状態から生じてきたものと考えることができよう。……――選択意志はそれが関連する活動に先行しており、活動の外にとどまっている。選択意志そのものは自己の存在をただ思惟のうちにのみ有しているのに対し、活動は選択意志の実現である。両者(選択意思とその実現としての活動)の主体が、身体を外部的な衝動によって運動に導くのである。この主体は一つの抽象物である。それは他の一切の性質をぬぎすてて本質的に思惟する作用だけを営むものと考えられる人間的な「自我」である。」(テンニエスゲマインシャフトゲゼルシャフト上」1887=1957、p166)

 

 

 確かにテンニースの著書においてはあたかもゲマインシャフト=本質意志、ゲゼルシャフト=選択意志が成立しているようにも見える。テンニース自身もこれを対比的に描くし、訳者の解説においても、これを対比的に語っている(同上下巻、p226)。しかし、テンニースがこの二分法を絶対的なものとして取り入れているわけではないことはテンニースの著書を読めば明らかである。

 そもそもこの点の検証においては、テンニースがゲマインシャフトゲゼルシャフトを非対称的なものとして捉えていること、言い換えれば明確な形で対比的なものとして捉えていないことを押さえなければならない。

 そのポイントは2点ある。一つはゲゼルシャフトと商業との関係性が語られる部分である。完全な形での(理想形としての)ゲゼルシャフトとは、個々人が財の交換を行うことで自己の満足度を高めること、より正しくは相互の満足度を高めることができるように財の交換が自由にでき、それのみで完結可能な社会を指す。テンニースの議論にはマルクスの影響も強く受けていると確認でき、ここでのポイントは「個人が独立していること」と「財の交換の実施」にある。そしてゲゼルシャフト的人間の代表格として商人を挙げている点も特徴的である。

 

「一般にあらゆるゲゼルシャフト的関係は、可能的な給付と提供された給付との比較にもとづいて成立するものであるから、明らかに、この関係においては眼に見える物質的な対象との関係が先行し、単なる活動や言葉はただ副次的にこのゲゼルシャフト的関係の基礎をなしうるにすぎない。これに反して、「血」の結合体としてのゲマインシャフトは、まず第一に肉体の関係であり、したがって行為と言葉で表現されるものである。そしてここでは、対象との共同の関係は二次的性質のものであって、これらの対象は交換されるというよりは、むしろ共同で所有され享楽されるのである。」(同上上巻、p115-116)

「各地方は、このような商業地域に発展しうるが、しかし、領域が広くなればなるほど、それはますますゲゼルシャフト的地域として完全なものとなる。なぜなら、それだけますます交換取引が普遍的に自由に行われうるようになり、交換取引の純粋法則が妥当する蓋然性がますます大となり、人物や物品が相互関連的にもっている非商業的な諸性質がますます大となり、人間や物品の領域は最後には一つの主要市場に、すなわち究極においては世界市場に集中し、他の一切の市場がこの世界市場に依存するに至るのである。」(同上上巻、p117)

「そして、貨幣を集めるということが、商人の目ざしている唯一のことがらなのである。商人は、商品の媒介によるとはいえ、貨幣をもって貨幣を買うのである。それどころか、金貨業の場合にはこの媒介すら存在しない。もし同じ量だけの貨幣しか手に入らないとすれば、かれらの行為や活動はゲゼルシャフト的な意味においてはまったく無意味なものであろう。」(同上上巻、p124)

 

 そしてもう一つ重要なのは、「ゲゼルシャフトがないゲマインシャフトのみの世界」は過去に存在したが、「ゲマインシャフトなきゲゼルシャフトはありえない」ことをテンニースが確認している点である。前者は段階論的な語りで次のように述べられる。

 

「事実としても名称としても、ゲマインシャフトは古く、ゲゼルシャフトは新らしい。」(同上上巻、p36)

「したがって、ゲマインシャフト的な民族生活の最高度に発展せるものとして現われるゲゼルシャフトの発展過程も、この経済的領域にかぎって考察するならば、それは、家経済が一般的である段階から商業経済が一般的である段階への移行として現われ、またこれと密接に連関しているが、農業の支配的な段階から工業の支配的な段階への推移として現われる。この発展は、あたかも計画的に推し進められているかのように考えられる。」(同上上巻、p116)

 

 また、後者については、ゲマインシャフトは実在する物的なものを基盤にし、ゲゼルシャフトは観念的なものを基盤に成立しているため、物的なものへの依存からは抜け出せないという形で語られる。

 

「――ところが、ローマ法と並んで、その系統をひけるものとして、近世の哲学的・合理主義的自然法がある。この自然法は、もっとも重要な己れの活動の場所が一部受け継げるローマ法により、一部は因果律によって占められているのを最初から発見した。この自然法固有の活動領域は、公法の構成とされた。かくて自然法は、ローマ法学の歴史的見解がこれに与えようと考えた致命的打撃にもかかわらず、この領域を(ひそかにではあるが)己れの勢力範囲として維持したのである。……近代自然法は、支配者階級自身の発展のために働いた後、今度は被抑圧階級の綱領として展開されるのである。……このような闘争のもっとも一般的な、最も直接的な対象は、土地の自由にして絶対的な私有ということであった。なぜなら、土地所有権の濫用が――「地代」として――もっとも明瞭に人々の眼に映じたからであり、「われわれと共に生まれた」ゲマインシャフト的法の記憶が、ミイラの中の穀粒のように、活動を停止しているがなお発展の力を保持しながら、庶民大衆の心の奥に蔵されているからである。なぜなら、自然法は正義の理念として、人間の精神の永遠なる、売却不可能な所有物であると解せられるから。」(同上下巻、p152-153)

「しかし、その名の示す通り、大都市内部には町が存在しているが――これと同様に一般にゲゼルシャフト生活様式の内部には、たとえ萎縮し、さらには死滅せんとしているにしても、ゲマインシャフト生活様式が唯一の実在的なものとして存続している。」(同上下巻、p199)

 

 しかしここで問うべきは、ゲゼルシャフトゲマインシャフトの後の社会だというのであれば、「ゲゼルシャフトの誕生はいつなのか?」という点である。これについてテンニースは明言しない。上記のローマ法との関連で言えば、かなり古い時代からあった(中世頃にはすでに登場していた)ように読めそうであるものの、「協約」という言葉にも現われているように、基本的にゲゼルシャフトは資本主義的な、近代的主体による交換を行うことで初めて成立するものであるという見方をしており、18世紀か早くても17世紀あたり想定しているイメージが強い印象である(これは私の印象も多分に含んでいるが)。例えば、テンニースはこの関連で大都市におけるゲゼルシャフトの成立について言及したりもするものの(同上下巻、p208)、商人の存在については、ギルドといったものに対しゲマインシャフト的組織と断じていることもあり(同上下巻、p126)、ここで述べられる大都市とは、何らかの地理的な意味での(単純な都市の規模を述べている意味での)大都市ではなく、シンボルとしての大都市として、例示的に示しているべきではないかと思われる(これは、ゲゼルシャフトがそのような土地といった物的なものから解放された状態であることを意味しているという意味での、機能的な意味で用いていると解釈すべき所である)。

 

 以上の議論を踏まえ、本書で述べられていた「手段的・即自的」の二項図式について考えると、ゲマインシャフトが即自的なものと一致していると考えるのはむしろ不自然であり、手段的要素も含まれていたと考える方が自然である。テンニースは単なる交換行為についてはそれだけでゲゼルシャフト的であるとは述べていないし、より直接的にゲマインシャフトでも手段的でありうる(=選択意志が働く)ことは明言されているのである。

 

ゲマインシャフト的団結体も――その指導者を介して――その意志を選択意志として表現することができる。しかし、分離せる選択意志領域を有する個々の人格以外にはいかなるものも前提としない団結体としては、ゲゼルシャフト的団結体がその唯一の可能な種類である。ゲゼルシャフト的団結体は、次の点で明確に区別される。すなわち、この団結体がその成員の意志に合致した、したがって合法的なものであるためには、この団結体の一切の活動は、一定の目的ならびにその目的を達するための一定の手段に向って局限されなければならない、という点で明確に区別される。(これに反して、生命と同様に普遍的であり、自己の外部にではなく自己の内部に力を有しているということが、ゲマインシャフト的団結体の本質的性格である。)」(同上下巻、p130-131)

 

 また、テンニースの議論が西欧近代化論特有の還元主義的な立場に立っているというのも誤りである。そもそも本書においては、「現在」の社会がゲマインシャフト的かゲゼルシャフト的かという点について明確な判断をしていない。明らかにゲゼルシャフト的になってきているものの、ゲマインシャフトが消失する訳でもないし、どの程度ゲゼルシャフト化しているのもよくわからない。ただただゲゼルシャフト化する社会に対して警鐘を告げるだけである。この点からも先述した「二項図式B」としてゲマインシャフトゲゼルシャフトをテンニースは論じていると言い難いのである。したがって本書がテンニースの解釈を誤っているのは、羽入辰郎ヴェーバー研究者に対して行った批判と同様、テンニースらをそのように解釈した(誤配が作用し理解された)過去の「社会学者」に対してそのように言っている可能性しか残らないのである。しかし、本書ではこのような論者について具体的なものは何も出てこないため、この可能性も「あまりにも素朴に」想定しているにすぎないということにしかならないのである。欧米人の日本人論が二項図式的であるという可能性はまだ否定しないが、少なくともテンニースに対してはこれは全く成り立たないと言わなければならないだろう。

 

○「単系的であること」と「多系的であること」の違いはどれ程重要なのか?

 

 

 本書は多系的発展論を採用し、日本のイエ社会の経営体としての性質を捉えることの重要性を説いた訳だが、このような見方は本当に「単系的発展論」と比べ優れていると言えるのか。すでに本書が前提としていた「単系的」であることの意味合いはずれていることを確認した訳だが、例えば、過去にレビューしたジョージ・リッツアの「グロースバル化」といった概念は、このような多系的発展論的な理解に一定の距離を置き、むしろ単系的(一般則・普遍則として支持されやすいもの)の地域文化への影響を指摘したものであったように、一定の多様性を許容した上で、近代化を単系的なものとして議論する方法も大いにありえるものであるということはまず押さえねばならない。本書の前提からは、このような議論の可能性を「二項図式論」に還元し否定しまっているのである。

 本書が日本人論全体に与えたインパクトというのは、大著であることや政治的影響の強さがうかがえるにも関わらず、管見の限りはかなり限定的であったように思う。これ以前のアベグレン・ライシャワーヴォーゲルや中根・土居などの日本人論者の引用の頻繁さから比べると、ほとんど引用されていないに近いといってもよいレベルかもしれない。本書が強調する「間柄」の話も本書が出る以前にすでに多くが語られており、あまり真新しさがないこと、また本書が歴史的考察を行っているにも関わらず、現在(将来)の日本人論については、これをあたかも断絶的でありうるかのように捉えていることなどから、参照しづらさの方が大きいからではないかとも思う。

 本書についての批判は河村望「日本文化論の周辺」(1982)や関曠野「野蛮としてのイエ社会」(1987)で紹介されている。河村の場合は少々極端であるが、両者とも批判の主旨は類似しており、単系的であることに対する軽視を行っているものと述べられる。

 

「著者たちは(※文明としてのイエ社会の)、「決定論的歴史主義」や「単系的発展論」に反対するあまり、「よりいっそうの近代化・産業化の進展を人類史の必然的方向とみることにも、大きな問題がある」として、「近代化」概念の混乱を利用して、社会発展の法則性ないし傾向性までも否定するのである。」(河村1982,p250)

 

 また、関の場合はもっとシンプルに、イエ社会における「服従」の側面を強調し、これに倣う形で文化継承される可能性を肯定的に捉えること自体が問題であると述べる。

 

「ところで、イエ集団のおいて血縁の絆は、集団形成のための最も基本的な定礎でありつづけた。しかしこのことは、日本のイエが中国の伝統的な家族制度のように、抑圧的要素と温和で人道的な要素を合わせもつ存在だったことを意味しない。反対にここでは武家としてのイエ文化の勝利と共に、主君と家来の主従関係がますます血縁関係の擬制下で抑圧的、専制的なものとなっていった一方、婚姻関係や血縁関係の中に「社縁」の要素が浸透していったように思われる。主従関係が血縁のそれに擬されることは、たとえ外見上は家族的な親愛感のヴェールをかぶることがあろうとも、現実にはイエ内部の家内奴隷制的支配を正当化するために血縁関係のイメージを不当な、倒錯した形で転用することである。だからこそ本書の著者たちも指摘するように、日本における他人との血縁的な擬制は常に親―子の擬制となり、中国のような義兄弟という形をとることがなかったのである。そしてイエ内部および大イエと小イエの親―子関係に擬された主従関係は、西欧的な結社の原則とは対照的に、無制約的で無期限の全人格的な主君と集団への服従を生み出す。」(関1987,p65-66)

「従って日本における女性の地位の低さ、女性の社会的な威信と影響力の弱さは、儒教や仏教のイデオロギー的影響力に帰されてはならないものである。たとえ儒教や仏教がイデオロギー的粉飾のために使われたとしても、その原因はやはり所有と蓄積の抽象的な単位としてのイエに女性が家族を介して従属していることにある。大イエと小イエや準イエの間の支配と従属の関係は、個々のイエ内部の主従関係に反映される。こうした日本のイエ内部の主人とその妻子の間の主従関係は、中国の家における儒教的な長幼の序などとは区別さるべきものである。」(同上、p68)

 

 もっとも、本書の立場は今後の日本についてのあり方について「中立的」であることを宣言することで、現在における日本の状況についても言及を回避しているため、このような疑念もあくまで「過去のものにすぎない。未来はこれとは別様でありうる」と反論があるかもしれない。しかし、ここでいう「中立的」というのは、あくまで将来的な状況がどうなるかについて回避しているにすぎず、本書が「シナリオⅠ(個人主義傾向への志向)」と「シナリオⅡ(間柄・集団主義への志向)」のどちらがより望ましいかと考えているかは明らかである。個人主義については、p175にあるように(土居健郎個人主義を批判するのと同じように)その「不可能性」から棄却される。一方、集団主義についても、過去と同じような形でそれが用いられることは現実的でないとするものの(p175)、それが改良された形での運用がなされることについては特段否定しているといい難く、その意味で本書はシナリオⅡの方が優れているという価値判断を行っているのは明らかであり、個人主義的価値観の軽視をしている傾向は否定し難い。土居のレビューで指摘したように、個人主義がその信念を貫くことはある意味不毛であるのは確かだが、プロセスの中で与えてきた良い側面まで否定される筋合いはないのである。

 

 正直な所、私としては単系的発展論をとるか、多系的発展論をとるかという問いにあまり意味があるとは考えていない。どちらの理論でも多様性は十分に捉える余地がある。むしろ重要なのは、このどちらかを選んだ際にどのような視点を失うか、そしてそれは実態を踏まえ許容可能なものなのか、といった点であり、それらの問いを深めていった方がよほど有意義であると思う。

 

<読書ノート>

 

P12-13「しかし近代化・産業化のためには、欧米型の「近代的個人」の誕生が不可欠であるという意見は、欧米ではもとよりのこと、非欧米の国々ですら今なお強く、集団主義は一律に批判される傾きがある。たとえば日本でも、少なくとも知識人の間では、日本固有の集団主義型文化が近代化を遅らせたり歪めたりしたという理解が久しく多数意見であった。さらに、単に近代化・産業化への適合性というばかりでなく、歴史の流れとして、集団主義個人主義によって必然的に克服さるべきものだとする、より強い考え方も少なくなかった。既にふれたように、欧米思想の主流は、単系的発展論への反省が強まった今日でも、基本的にはなお個人主義的であるといって過言ではない。

しかし人類史の全体からみれば、個人主義的文化の時代はむしろ例外である。たしかに近代化・産業化の始動にあたって、個人主義的な欧米の文化が決定的な役割を果し、最近数百年の人類史の主要な発展枝となったことは事実である。しかし「つぎの先進段階はそれまでのものとは別の系統からはじまる」とすれば、今後の発展枝の可能性を探るにあたって、欧米型の個人主義的な文化にとらわれることなく、さまざまの他の可能性をも考慮しなければならない。近代化・産業化に限って考えても、以下で日本という特定の事例について示すように、ある種の集団主義は産業化に十分適合する。」

※しかし「単純に集団主義を主張し、擁護するものではない」「われわれの主張するのは、個人主義集団主義とを同じ相対性の光の中におくことであ」るとする(p13)。一方でこのような集団主義批判はいつの話をしているのかわからない。

P16「個々の人間の発達過程を例にとれば、乳幼児の心理では、自分と他人(主として親)とが十分に分離されずある程度融合している。しかし生きることを学習する過程で、親が「他者」であることを徐々に発見し、それにつれて子はその分だけ「自己」を発見していく。つまり「他者」と対置されるとき初めて、自他己前の間柄の中から、「自己」を外在化ないし対象化されるのである。そのようにして、子供は、生物的個体であることを自覚する程度にまで「自己」を発見して、成人となっていく。たしかに、生物的個体であることの習得は、生物としての人間にとって基本的な事実である。しかし人間は生物的存在である以上に社会的存在である。生物的個体としての自立は、必ずしも社会的文脈で「個人」であることをそのまま意味するものではない。」

発達心理学の影響を無視できない。

 

P17「しかし個々の人が、生物的個体として、あるいは集団の構成単位として、さらにあるいは宗教での救済単位としての自覚をもったとしても、彼はただちに完全な意味での「自己」となり、「個人」となったわけではない。個々の平均人は自己完結しえず、つねに他者との交流を必要とする。しかも、他者との交流の作り出す間柄に入ることによって、人はそれぞれ交流以前とは多少とも異なったものに変質し、その意味では間柄は個々の人に刻印を押す。このようにして間柄は個々の人を作り上げていくが、間柄を作り出し維持するものが個々の人であることも間違いのない事実である。また、間柄の性質自体もどんな人がそれに入ってくるかによって、多少とも影響をこうみる。間柄と個々の人のいずれが先でいずれが後かという問題は、果てしもない問いかけにすぎない。間柄と個々の人とを切り離すことは、それぞれを対象物として把えようとする知的作業として可能であるにすぎず、そのときどきの直接的事実としては、間柄と個々の人とは共に在るとしか言いようがないのである。」

※これが前提で、普遍的なものとみる。では、個人主義とはなんなのか?

P19「そもそも他者とは自己と交流可能なものでなければならず、その意味で単なるモノであってはならない。だが、完全な他者とは、交流可能でありながら自己とは完全に異質であり断絶していなければならない。しかしそのような他者は現実の人間としてはありえない。したがって、第三章で改めて取り上げるように、人類史上最も徹底した「自己の対象化」あるいは「個人」概念の確立は、ユダヤキリスト教におけるような絶対的他者としての人格神の概念を経て、初めて実現したのである。そのような絶対的他者は、すべての現実の「他者」を含んでしかもそれらを超えるものであるーー「もろもろの関係の延長線は永遠の汝(神)において交わる(マルチン・ブーバー)」。かくてすべての現実の間柄は、神と人の間柄の不完全な仮象にすぎないものとみなされる。このようにして、個人の概念化がその極に達したのは、宗教改革を経て西方型有史宗教(キリスト教)が徹底化したときのことであった。」

P20「たとえば日本では一千年近くにわたって、一定類型の自立的集団――われわれは後にそれを「イエ集団」と呼ぶーーが存続した。かくて日本では、「間柄」がそれ自体として意識される度合が強かったように思われる。」

※歴史的因果関係の説明部。

 

P30「ほとんどすべての神話的・呪術的要素と協会による媒介とが取り払われたとき、ユダヤキリスト教的価値観は、現世的進歩の思想と個人主義的社会の発展を支える力となった。欧米型社会の発展は、その脱宗教的外観にもかかわらず、依然として「神の栄光を増大させて」きたともいえよう。」

P31「そこからえられる一つのヒントは、個人主義集団主義という対比が十分に適切ではないということであろう。歴史上のほとんどの社会は、個人主義集団主義の何らかの組合せに基いて作られており、その組合せがさまざまの形をとるにすぎない。ただ例外として、欧米型近代社会は、個人主義のみを原則とする社会システム作りの大胆な試みだと理解できる。そしてこの社会の掲げた「近代的観点」からみるとき、他のすべての社会は集団主義的ともみえるであろう。しかしそれは一つの極点からみたとき、他のすべてのあり方が一様にみえたという以上のことではないかもしれない。非欧米的あるいは非近代的諸社会は、より複雑で多様な事例を与えている。」

P32「「主体」はもちろん相対的な概念であって、現実には、十分な主体は存在せず、またまったく主体性のない個人も存在しない。しかしかりにある特定の社会をとって観察すれば、その社会ではある種の集団の方が個人よりも主体と呼ばれるに相応しいことはありうるだろうし、またその反対の場合ももとよりありうるだろう。このようにして、社会の中には、個人という非複合主体もありうるし、また集団という複合主体もありうる。」

※これは立派な価値判断であるが、それに自覚的であると言い難い。

P33「しかしながら、欧米型近代化の中で育まれてきた社会学的分析においては、個々人を基本的な主体として考える原子論的ないし還元主義的傾向が強い。たとえば、集団類型についての有名な議論の例をあげると、テンニスの「共同社会」と「利益社会」の二分法、マキーバーの「共同体」と「結社体」二分法、パーソンズの「ゲマインシャフト」と「オーガニゼーション」の二分法などがある。これらの有名な集団分類には、欧米の個人主義的近代化の経験に基いて、前近代社会と近代社会とを対比させようというねらいが一貫している。このような分類は、少なくとも今後の産業社会のあり方を考えるにあたっては十分に一般的ではないおそれがある。」

※二分法はむしろ欧米に好まれる、という根拠である一方、「分析的」であるためには二分法にしなければならないという矛盾。ただ、ここでの指摘では前者に偏っている。

 

P39「個人主義的観点からすれば、各個人は個性的であるべきであって、彼らの生活全般にわたる姿勢は当然ながらそれぞれ異質であり、そのような彼らの共有しうる集合目標は限定的たらざるをえない。他方、集団主義の観点からして、個々の人々の生存の根拠を集団に求めるとすれば、集団の目標はまさしく成員の生活の全般を牽引するものであることが要求される。ある集団が集団主義的性格をもつか個人主義的性格をもつかの判定は、その集合目標が無限定的か否かの規準によることが最も適当であろうと思われる。」

P42「テンニス、マキーバー、パーソンズその他の多くの有名な集団分類は、近代と前近代との対比を浮き上らせてきた。……つまり、近代的集団が手段的・限定的・人為的であるのに対して、前近代的集団は即自的・無限定的・自然的であるかのように思われてきた。しかし、そのような前近代の理解は、近代についてのおそらくは不当な自負と、前近代への根拠なき憧れとの奇妙な混合物に過ぎない。」

※ここでの争点は絶対的か相対的であるかの議論ではないのか。また、立証の状況を見ると、「無限定的かつ自然的な集団を「共同体」ないしむしろ「原共同体」と呼ぶことはおそらく適切である」といい(p44)、即自的か手段的かという軸に否定的であること(p42)にある。

 

P87-88「このようにして、中世ヨーロッパの封建社会は、少なくとも発生起源においては、異質な二層なら成る。戦士集団としての家士制のシステムが社会の上層を形成し、各々は孤立した(農民の)村落共同体が下層を形成した。そして戦士集団側の領主権が事実上次第に確定するにつれて、高位の領主は下位の家士に封土を授ける慣行が成立し、各々の家士が村落共同体ないしそれらの集まりの領主になることによって、上層と下層のシステムが結合された。……

それに対して、東国日本のイエは同質性を基本理念とし、家長から所従下人にいたるまでの成員が軍事要員であると共に農作業に参加し、彼らの生活様式も程度の差はあるにせよ基本的には同質的であった。戦士と農民とは決定的には分離されず、家長から下人にいたるまでの階統は連続的であり、同質のもの、一体のものとして統合されていた。したがって、イエの内部では契約関係はありうべからざるものであった。そしてイエに属する武士にとって、土地は祖先が自ら汗して開発したものであって、経済的なものというよりもイエ型集団の結合を支える拠り所であり、まさに「名字の地、一所懸命の地」であった。……すなわち日本では、武士がイエの長であり領主であることは、論理的には、鎌倉殿の御家人であり家士であることに先行している。したがって、まったく逆説的なことであるが、人的結合としてのイエの一体感が持続するかぎり、経済的資源としての土地はむしろ二義的な意味をもつにとどまる。かくて後に述べるように、日本のイエ型集団は、ヨーロッパの農村共同体よりもむしろ脱地縁的性格を示しやすいのである。」

※この理解はアメリカについてどう考えるかという論点を曖昧にする。

 

P111-112「そもそも東方型有史宗教と西方型有史宗教の間には基本的なちがいがあった。既に述べたように、東方型有史宗教を支えているのは、宇宙原理理解のための知的(霊知的)作業における緊張である。知的訓練をうけず知的作業の余裕のない一般大衆が、僧侶階層の媒介なしに知的構成をもった救済論を体得することは非常に難しい。……このことは、主知的宗教としての仏教における直接的救済論の試みが、大衆レベルでは緊張なき現世肯定主義につながり易く、宗教的エネルギーを持続し難いことを示唆しているように思われる。

これに対して西方型有史宗教の基礎は、唯一の人格神との主意的関係における緊張にあった。神は最も身近なものであると共に最も畏るべきものであった。そのような神と罪の観念は、宗教改革期の一般のヨーロッパ人たちにとって最も具体的な事実の一つであり、俗人大衆の一人一人にとって自ら対処すべき問題であった。……神と罪の重荷を担った主意的緊張は、当時の俗人大衆にとっての実感であり、彼らをかり立てて勤勉と節約の世俗内的禁欲主義に向わせる力をまさしくもっていた。主意的宗教としての西方型有史宗教は、大衆型の直接的救済を生み出し易い性格をもっているように思われる。」

※宗教と大衆との付き合い方も自ずと異らざるをえないのではないか。

P120「ただし以上の議論は、西方型有史宗教がより優れた宗教であり、能動主義の思想や個人主義の思想がより優れた思想であることを意味するものではない。……いずれにせよわれわれがここでいいうるのは、宇宙論――受動主義・集団主義――的構成をとる東方型有史宗教と、人格神――能動主義・個人主義――的構成をとる西方型有史宗教とが、優劣を離れて相並ぶ二つの途であるという以上のことではない。」

 

P126近代化の定義としての「近代化=産業化」「近代化=欧米化」

P127「以下で述べるように、われわれは「近代化=産業化」という前者の方向をとることにしたいと考えている。……しかしかりに欧米型近代化発展枝が事実上唯一の発展枝であって、他の発展枝はそれに合体しあるいはそれ自体としては枯死するものだとすれば、近代化=欧米化(=産業化)が唯一の意味のある定義となるだろう。要するに、近代化=産業化という定義をあえてとることの意味は、欧米型近代化以外の発展枝の可能性を発見できるか否かにかかってくる。以下の議論はそのような「それ以外の発展枝」は可能であるという考え方に基づいている。」

※同じであるとはどういう状況を指すのかわからない。

☆p128-129「(※産業化により近代化が)十分(※条件)であるという議論に対しては少なくとも二つの基本的な反対論がありうるだろう。第一には、近代化にはそれを支える文化的・思想的な主要動因があり、産業化はその現われの一つにすぎないという考え方がある。そのような思想的動因としてあげられてきたのは、キリスト教、近代科学、進歩の観念、合理主義、個人主義自由主義などの欧米型近代の諸思想であった。……

第二には、近代化とは人類社会のやることのない分化・複雑化の最新局面であり、産業化もその一つの現われにすぎないという考え方がある。……しかし既に第二章でふれたように、人類史は一定方向にだけ分化し複雑化してきたわけではない。分化にはそのときどきでいくつかの発展枝があり、あるものは挫折しあるものは発展する。したがって欧米的経験にみられる機能的分化の傾向が挫折するものか発展するものかは、改めて検討する必要があるだろう。

※理念型として「概ね妥当」という議論がある以上、この批判も近代化=産業化の図式を否定するものと必ずしも言えないのでは。何をもって「概ね妥当」なのかは理念型からは判断ができない。一方で、「この定義は、「近代化=欧米化」という定義を避けることによって、日本を始めとする非ヨーロッパ系社会や、ソ連・東欧型の社会主義社会を含む広い範囲を近代的社会として認定する。」(p129)という消極的言い分もある。

 

P129近代化の定義…「近代化とは産業社会の形成過程をさす。すなわち、産業化それ自体の進展、およびそれを支えるに足る価値観と、それを支えるに不可欠な社会システムの成立も当然近代化に含まれる。」

P132産業化の帰結…「(1)個別化。産業化と共に生産と消費は分化し、生活の全般にわたって帰属すべき集団は、消滅する。それと共に、消費と教育の水準は平均として上昇し、個人行動の選択の範囲が拡大して、個人はあたかも自立的であるかのように意識し行動するようになる。われわれはこれを、信念としての「個人主義」と区別する意味で「個別化」と呼ぶ。大衆消費と大衆教育の水準が一段と上昇し生存に関する脅威が消滅した「豊かな社会」の段階では、個別化も一段と顕著になる。」

※これは産業化に必要な価値観として「個人主義」を必要としていない点(p131)とリンク。

P132「(3)即自化。産業化と共に、手段的行動と即自的行動とが分裂する傾向が生じ、特に前者の価値が優勢となるが、生存に関する脅威がついに消失しいわゆる「豊かな社会」の段階に達すると、長期的・絶対的な生活目標が見失われ、結果として手段的行動・手段的価値の相対的地位がついには低下する。われわれはこれを「即自化」と呼ぶ。」

※近代化=産業化なのに、なぜp42で即自化は否定されたのか?これは、前近代の認識の誤りがあるとp42で指摘していることになるか?だが少なくとも相対的な指標としては了解していることになるような。

 

P158「「個別化」とは、人々が自分自身の事情のみを引照して行動することをさす。つまり、行動上の個人主義化あるいが現象的な個人主義化であり、自己における究極の価値を信じる「個人主義」そのものとは区別される。」

P169-170「ただし産業化、とりわけ個人主義的産業化の下では、バランスのあり方が特異な形をとっていた。生産と消費の分化、職場と家庭の分離の結果として、職場は手段的行為の場となり、家庭は即自的行為の場となるという分裂が生じていた。二つの行為型を結びつけバランスするという社会的課題が、二つの場の間を「通勤」する個々の働き手の内心の問題として処理された。平均的な働き手は、手段的行為への献身と即自的行為の追及の間でーー比喩的にいえばモーレツ社員主義とマイホーム主義の間でーーしばしば内心の動揺を味わう。その不安定の状況に、既に述べた「私化」の傾向が重なる。「私化」は「即自化」によって強化され、「即自化」は「私化」によって強化されて、個々の働き手の「即自化プラス私化」の傾向は急激な変化として現われる可能性が生れる。そしてそのとき、手段的価値の世界と即自的価値の世界は相互に疎外しあう。

しかし、産業化が続く以上、手段的行為が不可欠であることに変りはない。」

※「手段的行為の美徳化はその意味で産業化にとって本質的なものであり、即自化は産業化の基盤を掘りくずす可能性をもっている。」(p170)基本的には、「大多数の人間の即自化を容認するとすれば、分業化のシステムはあちこちで綻びをみせ、自発的な一般の投資意欲は低まり、技術革新の情熱は一般には盛り上らないだろう。」と述べる(p172)。更にエリートと大衆の対立としてこれを語る(p173-174)。かくて手段性の即時性の再統合についての可能性が語られるが、これを個人主義的なアプローチから行うことは、個人主義の信念の不可能性として否定的に見られる(p175)。残るはこれを集団主義的に捉えるものだが、完全な融合までは現実的でないとする(p175)。ただ、だましだましであっても最も可能性として否定していないのは、この集団主義性に対してであるということは可能だろう。

 

P212「かくてイエという言葉は転じて、単なる住居ではなく、生活を共同に行なう経営体を意味するようになる。……われわれは、「イエ」という言葉を、生活を共同する経営体のある種の独特の類型をさすために用いる。

したがって、「イエ」は家族ではなく、それを原型とするものでもない。」

※「しかしイエを家族の何らかの複合的派生体と考える発想は本末を転倒しているとわれわれは考えたい。」(p213)

P418-419「参勤交代は、人間と情報の全国的ネットワークを創出したばかりでなく、各藩財政における藩領外での貨幣支出を増大させ、市場を拡大させた。各藩は年貢米や特産物を中央市場で大量に売却せざるをえず、藩財政とひいては領国経済は中央市場を通じて相互に密接な結びつきをもつにいたっていた。」

 

P458「学歴と年功とを基準とする階層性、終身雇用制、新卒者の採用、企業内教育、企業内福祉制度等を特徴とするこの「日本的経営」は、経営体の系譜性や強固な統合力・分裂増殖力を保存しつつも、メンバー間の結びつきを機縁としての血縁性を大幅に払拭し、イエ原則を機能的に純化したものであり、徳川期の(準)大イエ型経営体を産業化に適合的な方向に組織革新したものとみなすことができる。それは、従業員に強い帰属感を与え、彼らの忠誠心と自発性とを調達することに成功した。とくに稟議制的意思決定方式の採用は、下位者の積極性を開発するとともに、企業内の情報流通を促進し、イエ型企業を活性化する上で大きな意味を持っていた。」

P461「しかし、イエ型主体はともかくとして、徳川日本に支配的であったイエ型の主体組織原則そのものまでが、幕藩体制の消滅とともに一掃されたわけではない。イエ型諸組織の解体後も、イエ原則は、暗黙ながら自明の組織原理として、つまり一種の文化的遺伝情報として、人々の行動様式を事実上規定していた。」

※そしてイエ原則は制度として「動員」されるものでもあった(p462)。

P465「イエ型組織原則が個々の日本人の心の中に一種の文化的遺伝情報として蓄積され、さまざまな個々の局面でそれが再確認され再利用されるということは事実であったにせよ、システムとしてそれが有効に構成されえたかはある一定のレベルに限られていた。」

※この言い方があまり適切であるとは思えない。個々の記憶の中にあるというよりも、その外部に存在し、再導入される類の情報だろう。また、「どれほど機能していたか」の議論を始めてしまうと、過去のイエ制度の民衆への機能についても議論せねばアンフェアだが、支配制度としてはありえても大衆的レベルでの機能を検証している訳でもない。

 

P532「産業化の原則とイエ社会の原則はつねに干渉し合い、時には対立し、時には共鳴しつつ、既に百年の経験を経てきた。」

P533「思想的絶縁状況は(※現在では)いかなる意味でも不可能になっている。」

※このため日本独特の思想や哲学が今後生まれたとしても「徳川期のように作為的な自閉状況の下で醸成されるのではなくて、世界のさまざまな思想配置の中で自らの位置を明らかにするという形をとる以外にない。」(p533-534)

P536「日本社会はあまりにも無批判に欧米文明を受容したとよくいわれる。……しかし、近代化に費やした百年の経験を公平に眺めるとき、日本社会の近代化は、欧米文明と固有の文化とのあいだの激しい闘争と習合の歴史であったといえるだろう。」

※これも絶対的尺度と相対的尺度の問題を抱えている。

P538「このような問題を考えるにあたって避けなければならないのは、欧米的社会分析特有の先入観である。すなわち、適度に分権的で非専制的な社会は、個人主義的文化の下でのみ成立するという考え方である。裏返していえば、集団主義的文化においては、極度に集権的で専制的な社会が必然的に生れるという先入観であり、明治以降の日本人学者の多くがその考え方に大きく影響されてきた。しかし、このような先入観は、集団主義(間柄主義)についての分析の不足に基いている。」

 

P547「このようにして、戦後の日本は、国家のレベルにおいて、欧米型民主主義との習合を果しつつ、イエ型集団を成員とするムラ型社会として運営されてきたといってよいだろう。国家レベルにおける意思決定は、多数決というよりも(多数決の暴力!)満場一致という形(村八分的存在としてのある時期までの共産党を除く)で行なわれるべきものであった。ムラ型社会には本来――たとえばイエ型集団に比べてーー利害の分離を調整する能力が狭くかつ弱く、停滞的になり易いという問題点がある。しかし戦後日本においては、追いつき型産業社会の合意が悲願といえるほどに強化することがなかった。かくて戦後の大連合政治はかつてなく強固で安定的であった。ムラ型民主主義の欠点は一九七〇年代の始めまでは露呈することがなかったのである。」

※「ムラの理念はまさしく平等主義であり、その理念を崩さない暗黙の指導力がムラの政治を支えるのである。」(p547)

P548「しかし現在の形のムラ型民主主義は今後においては欠陥を示す可能性が大きい。日本社会は、これまでの合意目標を失うと共に、しかも依然として国際的な経済競争で落伍することなく、さらに国際関係の中で受け身の立場から脱皮していかなければならない。そのためには、国内のムラ的な平等主義を守って一視同仁の停滞状況に浸っていることは難しい。ある種の産業やある種の利害は整理されなければならないが、それは平和時のムラの原則を乗り越えることを意味している。さらにまた、アメリカというお上を失ったムラ集団日本は、軍事や外交の自主的な意思決定を余儀なくされる。ムラ型民主主義のシステムを温存しようとすれば、これらの課題に機動的に答えることはできないだろう。」

P549「日本での個別化・即自化は欧米におけるほど進行しないかもしれないが、他方、日本人のムラビト的感覚は、お上に抵抗するにもかかわらず自らはお上に代わって決定の責任を負おうとはしないという形で残っている。」

※個々人の問題であるよりも、制度的に無責任である問題を議論すべき。

 

P552-553「このような複合型に進むにあたって、日本社会は欧米諸社会よりもあるいは有利な立場にあるかもしれない。つまり過去百年にわたって、とりわけ戦後四半世紀以上にわたって、日本社会は、制度と運営の二重性、タテマエとホンネの二重性に慣熟した一種の複合型社会だからである。しかし問題の難しさは、これまでのような複合型が、今後において望ましい複合型とは必ずしも一致しないというところにあるだろう。」

※これは対立的な要素の調整という意味で有利という解釈。

P557「一方の解釈をとれば、「保守への回帰」と呼ばれている現象は、政治面でいえば、新野党の形成が新中間層の期待に一歩遅れているところに生じている一時的な現象にすぎない。……

だがここでもまた、もう一つの解釈が可能である。すなわち、新中間層は、石油ショック以降の環境条件の悪化によって、伝統的な間柄への回帰・参入志向を急激に強めつつある。」

※「一方の極には、新中間層の形成は不可避的な現象であり、個別化・即自化の傾向はさらに進んで、以前の方向への復帰はいずれにせよ不可能であるとする見方がありうる。他方の極には、新中間層の形成は、環境条件に恵まれた昭和四〇年代に一時的に生じえた現象にすぎず、環境条件の変化によってたちまち消滅してしまうようなものにすぎないという見方がありうる。」

P559「前章でもふれたように、わが国の新中間層に属する人々は、たしかに何らかの意味で個別化しているとはいえ、欧米と同じような意味で個人主義者となることはないだろう。個人の意味が相対的に高まったり(あるいは低まったり)する可能性は十分に考えられるが、それが欧米におけるほど絶対的な意味を獲得することはおそらくありえない。この点については、有史宗教以来の文化型の差が決定的な力をもつと考えられる。」

※過去の制約から逃れるのは端的に不可能だという立場。しかしそれは本当なのか??

P562「けっきょく、われわれは、何らの政策的奨励策をとるまでもなく、一種の日本的家族の再建が起る傾向にあると予測する。」

勝野尚行編「教育実践と教育行政」(1972)

 本書は、以前レビューした榊編(1980)と同様、名古屋大学教育学部の関係者により書かれたものである。

 前回、榊編でレビューした際に学校教育をめぐる議論においてなされる「専門性」について少し検討したが、本書はまさにその点を詳しく論じていたため、補足の意味も込め検討する。

 

〇何故「専門性」には具体性が付与されないのか?

 

 前回のレビューでは、学校教育をめぐる「専門性」が無限定的で、その具体性を定義しがたいことを示した。本書の議論からは、教育法学の立場からの「専門性」の議論が、何故そのような性質を持ち合わせてしまうのか、端的に示されている。

 

(1)「専門性」は子どもの全人的発達に応える必要があり、教員にも全人的発達が求められるから。

 

 p28では、いわゆる「無限の可能性」論も意識しながら、学力テストなども含めた数値化された学力そのものを「非科学的」だとし、「聖職的資質と技能的資質を結びつける非合理なもの」と断じている。「全人的発達」というのは「無限」のものであるから、有限的なものとして定義することがそもそも否定されているのである。これに関連して、p28-29では、教員の分業体制についても否定している。そのような分化もまた疎外しか生まず、「教員自身の全面発達の機会を奪う」(p29)ものであるからこそ否定される。

 当然ここでいう全面発達には、p28-29で示される分業体制により確保されるべき「専門性」も当然一教員の手によって(すべての教員により等しくその全ての専門性を)確保されるものであることが前提とされる。p125で斎藤喜博に対し「「教育の専門家」概念は「授業の専門家」に矮小化されている」という評価を下しているのもまさにこの観点からであるといえる。以前斎藤をレビューしたように「授業論」というのは斎藤にとって教師に必要な素質を検討するためにも確立されねばならないものととらえられていた。しかし本書ではそれさえも「必要な専門性」としては足りないと断じるのである。繰り返すが、ここでは端的に「そもそもそのような専門性を確保することが可能なのか」という問いは放棄されるのである。

 

(2)「専門性」には「抵抗」が必要であるから。

 

 本書では専門職集団である教員の自律性は何よりもあたりまえのように存在しなければならないものという教条主義に立つことで、後述するエチオーニの実態に即した「専門性」論さえも否定している訳だが、この理論的要請から、専門性には「抵抗」がないといけないことが明言される。本書で繰り返される「聖職性」というのは、まさに抵抗なき専門性論に対する批判として語られており、本書で語られる「専門性」も端的に「抵抗」があることだけで、専門性が満たされるという言い方も誤りではないのではないのか、と私などは感じる。というのも、「抵抗がない=国家の支配に反論しない」ということであり、国家が教育を語ろうとすること自体を否定し、それを支持しようとする論者には全て「専門性を語る資格がない」かのような言い分で批判を行うからである。p226のような中教審の委員に対しての批判や、p111の山崎真秀への批判、p134やp258での田中耕太郎への批判も全て「抵抗」の観点から批判されているものととらえるほかないだろう。

 

〇エチオーニの専門性論の曲解について

 

 本書ではその専門性論を補うために何人かの論者を取り上げている。最も頻出なのはリーバーマンであるが、リーバーマンの著書は邦訳書が刊行されていない。次点で取り上げられているのがエチオーニで、本書が取り上げている「現代組織論」には訳書(1967年)が存在するため、エチオーニの著書における「専門性」について触れておきたい。

 エチオーニはその著書のなかで、「専門性」と「管理」についての関係性について議論している。本書で指摘があるように、この「管理」というのは、「専門性」とは対立的な関係にあり、管理の側面が強すぎると、「組織の設立目的がそこなわれ、知識が創造され制度化されうるための諸条件(たとえば学問の自由のような)が危険にさらされる」(エツィオーニ1964=1967,p127)と指摘する。しかし、他方で、専門性が強すぎる場合においても、「組織目的の実現が脅かされ、ときには組織の存在さえ危くなる」(同上、p127)と述べる。それは「組織は、その活動の財源を得るために資金を獲得しなければならないし、種々の機能に職員を配置するために人員を集めなければならない」(同上、p127)ために特に営利企業においては、「専門性」は「管理」と適切なバランスをとらねばならないし、費用のかかる資源や補助職員の必要性の増大により、伝統的な専門家も「管理」の側面を考慮しなければならない状況になってきているという(同上、p120)。

 

 では、学校教育における「専門性」についてはどう考えればよいのか。エチオーニはこの点について、素朴に定義しているのは事実であり、大学は当然学問の自由を行使するため、「専門職組織」でなければならないとするが、他方で特に小学校などは最も典型的な「半専門職組織」であるとする(同上、p134)。そして、半専門職である理由としてエチオーニは「知識を創造・応用するよりも、伝達に重きがおかれること」「(教員になるまでの)訓練期間が5年以下であること」「生死の問題を含まない(恐らくは責任の問題と関連付けていると思われる)」「秘密保持の責任も厳密に維持されない」といったことを根拠にしている(cf.同上、p136)これは、私が榊編のレビューで行ったとおり、学校教員における「専門性」を保護者がそこまで求めないのではないのか、という論点とも関連する主張であり、エチオーニの専門職論においても本書でいうような「教育の専門性」は支持されているわけではない。本書でもこの点は了解しているものの、p148においては、小学校においても「専門職組織」であるべきだと強調されるのである。更には、p12にあるように、エチオーニの理論を何故か「対国家的・対行政的な諸権利に関する理論」として位置付けるものの、これについてもエチオーニの議論の本旨に反するものであるといえるのである。

 このような本書に都合のいい部分だけそれとなく取り上げ専門性について「理論」の補強を行い、余計な部分はわざと排除するような態度はエチオーニに限らず、杉本判決に対する態度にも現れているといえる。杉本判決も一方では内的事項・外的事項論の取り扱い方について問題があるものであると指摘していながら(p132)、p134にあるように自らの「抵抗」の専門職論に寄与する部分についてはことさらに強調され、そのような専門職論がすべてであるという、教条主義の立証材料としては都合よく用いているのである。

 

 このような態度の最大の問題については、エチオーニの議論そのものから見いだされるものである。つまり、専ら「専門性」のみを追求した場合には、経済的に非効率となり、いくら経済的資源があったとしても足りないという状況すら生み出す可能性があるということである。エチオーニは専門職組織における財源は寄付や税金により賄われると述べているが(エツィオーニ1964=1967,p141)、その「専門職組織の目的」なるものは、決して外部と無関係ではありえないのである。まさに社会的に善であるとみなされるからこそ財源確保にも正当性が与えられるのであり、そのような正当性は結局理論だけではなく、「実態」についての検討なしには評価のしようがないのである。本書においても、理論だけで終わっているのは明白なのであり、組織の自律性に対する正当性を担保するような議論は行わないことこそ、問題視されねばならないだろう。

 

 

<読書ノート>

☆P5-6「そしてしかも、もしもこれらの問題についての解答を誤るならば、「教職もまた専門職とみなされるべきだ」と主張することの現代的意義は、ほとんどまったくなくなってしまうのである。たとえば、これらの問題に対して、教職とは教育行政職をも含めて教育関係職の総体のことだ、専門職とは聖職ないし専門技術職のことだ、教職もまた専門職とみなされるのは教職従事者に必要とされる資質・能力が聖職的資質と専門的技能だからだ、などと答えたうえでそのような主張をする場合を考えてみえばよい。なぜなら、そのような解答を与える教職「理論」によっては、教育行政職(=教育行政権力)が教職(=公教育教員)の学問の自由ないし教育権を侵害し剥奪している現実(およびそのことから生じているわが国公教育の荒廃した現実)をすこしも批判しえないし、ましてそのような「理論」が公教育現実の「変革の理論」となりうるはずもないからである。むしろかえってそのような教職「理論」は、「国家の教育権」論を補強するイデオロギーとなり、教育行政権力による教員の学問の自由権の剥奪に手をかすことになってしまうからである。」

※はっきり言えるのは、このような教師に必要な資質を問う専門職観そのものが問題であると考えられたということ、それはそのままその定義づけの放棄に繋がったことは容易に推察できること、である。そしてその「理論」が否定される「理論」を展開することこそが、「理論」の地位を引き下げることにも貢献したと言える。この愚行は単純に否定ありきであったためにそれ以外の思考が抜け落ちたがためのもの、という言い方以外に行為の理由説明が難しい。

P9「ではこれら答申が先行させた公教育労働観は何であるか。それこそまさに「国家・資本の利益への従属労働としての公教育労働」観であり「国の教育としての公教育」観にほかならない。そしてこのような公教育労働観に照応させる仕方で「専門職」を観念していればこそ、これら答申の「専門職」の理解はいちじるしく恣意的・独善的となり、結局それを「聖職的技能職」と等置することになってしまったのである。

そうだとすれば私たちは、教職もまた専門的プロフェッションとみなされるべきだということを論証していくために、教育労働は所与の「知識の伝達」労働につきるものではけっしてなく、それもまた労働のあり方への絶えざる研究的接近を要請する専門職労働ないし学問的労働であることを実証し論証していかなくてはならない。子ども・青年の基本的人権=全面発達権としての「〝教育〟をうける権利」の概念内容についての認識をさらに深めながら、そうした「〝教育〟をうける権利」を真に保障し充足しうる教育労働は学問的労働であらざるをえないということをきめこまかに十分に立証していかないかぎり、教職もまた専門職とみなされるべきだということを論証したことにはならないからである。」

※知識の伝達の話は、エチオーニの議論をもとにしている。

 

P11「だから、専門職とみなされるべきだということは、もちろん社会的評価とか社会的尊敬などともかかわって対社会的関係のなかにおいてもいわれうることであるが、大部分の公教育教員が専門職労働者として国家・地方公共団体・私学理事会などに雇用されていることを考えるならば、そのことは主要には対国家的・対行政的な諸権利とかかわって対国家的関係のなかでこそいわれなくてはならない、ということになるのである。

事実、ILOユネスコの『勧告』が教職もまた「専門職とみなされるべきである」というとき、『勧告』は、公教育教員を対国家的関係のなかにすえてこのことをいっているのであり、そこで公教育教員にもまた専門職一般が享受している対国家的諸権利の総体が保障されてしかるべき旨いっているのである。」

※一般的な『人権』に対する解釈一つで議論が変わるような内容では?

P12「以上のようにみてくると、専門職としての教職理論とは、公教育教員の対国家的・対行政的な諸権利に関する理論だということがわかってくるはずである。M.リーバーマン、T.M.スティネット、A.エツィオニ、A.ローゼンタールなど現代アメリカの代表的な教職論者たちが「専門職の自律性」「専門職権限」「専門職の権利」などの諸概念の内容にかなり精力的に論及しているのも、まさにそのためにほかならない。」

※エチオーニに関してはこの指摘はかなり怪しい。国家という枠組みよりも、現代社会に対する目線の方がエチオーニは強いと見るべきでは。

 

P26「たとえば、専門職論には大別すると聖職論、専門技能職論、「専門」スペシャリスト論、専門的ジェネラリスト論などがあるわけだが、中教審の専門職論はそのうちの第三型におおむね属しながらも、しかしそれはその専門職の指揮権を完全に国家・資本に譲り渡した「従属労働としての専門職労働」=教育労働論を前提としている点で、最も後進的なものでしかないのである。専門職とは、一定の科学・学問の論理によってその労働を規律することを要求するものであり、したがって国家・資本その他社会的勢力の不当な干渉・介入に対する自律的運営(権)を強く要求するものであるとするなら、これら二つの鍵的専門職要件をまったく欠落させた専門職論が中教審のそれなのである。」

※この論理を発展させるなら、対保護者の議論でも保護者排除の方向に専門性論を持っていけたはずである。しかしそれはできなかったのである。

P28「たとえば中教審答申は、教員養成の重点目標に専門的資質をあげている。が、その資質とは教育的愛情と使命感と職業倫理でしかなく、また技能的には児童生徒の能力・適性を客観的データーに基づいて合理的に見定め判別していく選別能力=専門的技能なのだとしていること、これは実に聖職的資質と技能的資質を結びつける非合理なものである。なおまた後者の専門的技能に至っては、子どもの能力や発達を固定的・有限的にしかとらえない非科学的発達観に立ったそれでしかないという点で、一層非合理なのである。教育の専門性どころか発達疎外の専門性といったほうが事実にかなっているほどである。」

P28-29「なおまた教員の教育労働管理論としての学校重層構造論や教育機器論なども重大な問題をはらむ。経営層、管理層、作業層などへの教員の職階制化、職務内容に基づく五段階給与体系の移行、教育機器やT.T方式、無学年制の採用による職務内容の細分化と機械化、なおまたそれに見合うプログラマー教員、オペレーター教員、カウンセラー教員、その他アシスタント教員などへの教員の部分労働者化、これら中教審の教育労働管理論は、教育労働をより徹底した資本主義的分業の原理によって再編成し、人材開発と教育効率だけに眼を向けた「労働力商品の生産労働」に転落せしめるもの以外ではありえない。」

※全てが「平凡な」教師志向。「あえていうまでもなく、教員の教育基本権・労働権を欠落させたこのような教育労働論は、実はその教育労働をこそ源泉的契機としていかねばならない教員自身の全面発達の機会を奪う」とし(p29)、「第一に、教育労働は、形式的には全面発達権なる基本的人権の、内容的には歴史的類的存在としての人間的人格の意図的形成労働である、という点で特徴的である。」(p29)と定義(?)する。

 

P34-35「というのは、わが国教育史上第三の教育改革といわれる今回の中教審教育改革構想などは、教職の専門職化を提唱しながらも、それは結局は国家の教育権論に立って教員の教育権を全面否定するような単なる専門技能職でしかなく、教員の教育労働過程は資本の倫理や重層構造職階制原理によってごく一面的な部分労働=従属労働にますます奥深く転落せしめようとしているからである。」

P63「子どもは学問・学習する上で、このような権利主体であるときはじめて、教師の身分的権威や欺瞞から解放されるのであり、逆に教師は、主権者子どもを正当に認めうるときにはじめて、一方的な教化・詰込み・画一教育は学習権を無視した人権侵害教育=加害者教育でしかないこと、つまり逆にいえば、個および集団としての子どもの要求・意見・思考を豊かに自己開花させる教育だけが人権保障教育なのであること、をリアルに認識しうるのである。」

※このような教師批判から集団主義教育の本質である「悪」性が削り取られていったという可能性はないか。

P64「なお以上のような把握は、学校教育の総体が子どもの自治権の下に包括されるようにみえよう。が、実際には教員・父母もそれぞれの立場で教育権・自治権の下に総括されるようにみえよう。が、実際には教員支配となるわけではない。だいじなことは、教員集団・父母集団・子ども集団がそれぞれ自治権の主体者として対等かつ民主的関係を確立することである。教員の生徒管理権・懲戒権を楯に子どもの自治権を全面否定したりそれに著しい制限を加えたりすることこそ厳しく制限されるべきなのである。」

※このタテマエは実際は全否定されている類のものといえるか。

 

P71「教科に関する改訂の基本的な趣旨は、基礎学力の充実、科学技術教育の向上、地理・歴史教育の改善・充実・情操陶冶、身体教育の充実、基本的学習の重点化である。これらは、技術革新および高度経済成長が教科に要請する内容で、いずれも支配層の政治的・経済的意図が反映しているということができる。真実や真理をおおいかくす教科の内容が果して教科の内容になりうるだろうか。すでにそこでは単なる技能のおしつけと虚偽の一方的注入が行なわれるのである。」

※二項図式以上の結論はありえない。

P72「つぎにこの指導要領の問題となる点は、生徒の進路、特性に応ずる教育という点である。就職する生徒には職業科を、そすて家事につく生徒には家庭科を選択するよう示している。こうしたことは、進学する生徒については、英語、数学を中心とした強化を重視し、就職する生徒については職業教育を施すことによって、個々の生徒がより一層望ましい方向に成長するという考えに立っているからだろうと思われるが、しかし、就職する生徒が英語を含む教科を選択することができなくなっていることは、大きな問題であるとしか考えられない。」

※ここでは「同じ教育」に与していないようだが、「同じ教育=選択させない普通教育」を志向していたのはどの集団だったのか。

 

P92「授業における子どもの認識過程は教材を媒介にした知識や技術の習得過程という特殊な認識過程を含むから、そのすべてをかかる一般法則で律することはできないが、しかし授業での認識過程は子どもの全生活での認識過程の一部分である以上、後者過程から切り離すわけにも、また実験、実習などを含めた社会的実践から切り離すわけにもいかない。授業の認識過程にもその根底には認識の一般法則は貫徹しているのである。これが教科指導において教育と実生活の結合の原理を不可避とする認識過程論上の理由である。」

P97-98「では生活指導の本質は「訓育」にあるとして、いうところの「訓育」とは何であるか。事柄の意味内容をより明確にするために「陶冶」と比較していうなら、陶冶が自然、社会、人間に関する客観的な知識・技術を系統的に指導する過程であるとするなら、訓育は陶冶の成果の実践的応用をも含めて、自治的・集団的な実践活動を基礎に子どもが一定の世界観、社会的態度、道徳性、美的・芸術的感覚など、総じて人格的資質を身につけていくことを指導する過程である、といってよかろう。別な観点からいえば、陶冶が子どもの学習権・真理追求権の教育科学的保障を主として問題にするとすれば、訓育は子どもの自治権・社会的実践権の教育科学的保障を主として問題にする、といってもいい。だからこの意味で、訓育過程としては、活動の計画、活動方法の設定、その活動の展開にいたる全行程において子どもが主役を演ずる領域、すなわち教科外活動の領域がいわゆる生活指導の領域としては中核的な位置におかれてくるのである。」

 

P111「このような山崎(※真秀)説は、つぎの三点から批判されてしかるべきである。第一に、国家による国民教育は不適当であり、国家によって国民の教育権を保障するということはそもそも矛盾であるという点から。第二に、国家が分担する教育条件整備は、主権者である国民に対して国家がおう義務以上のものではありえないしそれ以上のものであってはならないという点から。第三に、教育権限が専門職権限であるのに対して、教育行政「権限」はけっしてそのような専門職権限ではありえないという点から。ここでは私はとくに第三の点を強調しておきたい。A.エツィオニが専門職権限と行政権限との関係を問題にしたとき、彼は後者権限を専門職権限とみるようなことはまったくしていない。学校のような専門職組織においては、それは、専門職労働を直接に掌る専門職者がもつ第一次的な専門職権限に対して、それに「従属」し奉仕する第二次的な権限にすぎないといっているのである。そしてしかも、教育権限と教育行政権限とのいずれをも専門職権限としてパラレルに把えることは、専門職プロフェッションという概念の内容を矮小化して、それを教育の専門職ジェネラリストから教育の「専門技術職」スペシャリストにかえてしまうことを意味する。このような教員の教育権限論を基礎にしたのでは、教員の教育権概念の内容をして「教員が教育労働をとおして自己の全面発達を達成していく権利」にくみかえていくことはとてもできないという点で、このような教員教育権限論こそまさに超克と止揚の対象となってくるのである。」

※国家教育に対する前提及びエチオーニ理解が横暴すぎる。

P125「氏(※斎藤喜博)の「教育の専門家」概念は「授業の専門家」に矮小化されてはいるが、授業すること自体は教員にとって重要な任務であることから、氏の教授の「自由」の主張は現在なお一定の意義をもつといえよう。」

※この批判には名古屋大学教育学部紀要15巻の勝野論文が参照にある。

 

P132「もっとも、(※杉本)判決は内的・外的の区分論を採用し、国家が関与するのは教育の外的事項であり、内的事項については「必要最小限度の大綱的事項に限られ」るべきだとし、それ以外では教師の教育の自由を尊重すべきことを説く。このことは、判決が「教育の自由」を「教授の自由」と同義に解していることと関係しているように思われる。また「教授の自由」が教育課程編成権を含むものとするならば、「大綱的基準」といえども国家権力にまかせてしまうことには問題が残るであろう。」

P134「親の教育権と教員の教育権との関係については、先にみてきたように、一般に法論理的には親から教員への信託の関係で把握されている。もちろん、そこには教育の本質論・教職=専門職論が介在しなければならない。そうでないと、国家にも委託されて、教育に一般の代議制=議会制民主主義の論理が適用されることになり、田中氏のように国家にもまた教育権があるとする危険があるからである。教員は「親ないし国民全体」の信託を受けて、教育の本質に従って子どもの成長・発達を保障し、しかも「親ないし国民全体」の「合理的な教育意思」を受けて、教育の本質に従って子どもの成長・発達を保障し、しかも「親ないし国民全体」の「合理的な教育意思」を受けて、「専門性と科学性」に基づいて教育にあたる責務を負っているものである(杉本判決)。そしてこの信託の論理は、同じ国民である親と教師との間にのみ貫徹するのである。かくして、教育においては代議制の論理は排除されるのである。この点、影山氏はつぎのように説明を加える。教員=受託者は、「信託者の合理的教育意思にしたがうのであって、個々の国家意思や政策にしたがうのではない」、その合理的意思は「まさに憲法教育基本法に定着されている民主主義と平和の原則によって規定されている」のであり、しかも「これらは、同時に『親』の教育意思が合理性をもつかどうかの準則として、信託者をも拘束する。それゆえ」「受託者は、ここで意味するかぎりにおいて、個々の信託者の意志から相対的に自律した教育関係の主体」なのであると。」

P140-141「労働が本来その労働従事者の全面発達の契機であるべきであるといわれるように、教員は教育労働を通じて全面発達すべきであり、同時にその教育労働は子どもの「教育を受ける権利」を保障すべき教育実践でなければならなく、そのために教員は「教育の自由」が保障されねばならないのである。」

※論理的にも実際は正しくないし、しかもこの自由の保障は子どもの教育権に対し必然的結果をともなうものと考えることもおかしい。

 

P147「また前節でみた勝野氏の労働権理解からいっても、「学校の自治」が倫理必然的に導き出される。「学校の自治」がなければ、教員は教育労働を科学的認識に基づいて自律的にすすめることができなく、したがって教育労働は全面発達の契機になりえないからである。」

※エチオーニとの議論の違いは無視できない点。

P148「(※エチオーニによれば、)それに対して管理者が異議をとなえる場合でも、その管理的考慮をどの程度とりいれるかは、専門職がみずからの判断で決定すべきであるとする。管理の影響が大きくなり過ぎると、専門職組織の目的そのものがそこなわれ、学問の自由のような知識の創造・制度化のための諸条件が危険にさらされることになるからであるとしている。もっとも、エツィオニは、小学校は半専門職組織であるとしているが、この点は問題がある。現実はそうなっているにしても、本来は小学校もまた専門職組織であるべきだからである。」

 

P201「今日の教育界を支配しているものは産業界特に独占資本である。……そこには、憲法で保障された基本的人権の思想、つまり教育を受ける権利も教育の機会均等の思想も、また教育基本法第一条にみられる人格の完成を目ざす教育もまったくみられない。しかも、このような非人間的な階級的教育理念と制度とが教育界を支配しつつあるということである。これは、悲しむべきこと、怖しいことである。

しかし、われわれ教師および教育学者は悲しんでばかりはいられない。なんとかして人間中心の教育にひきもどし、子どもの夢を育ててやらねばならない。その意味でわれわれの支えになるのは、今日においても、依然として日本国憲法及び教育基本法が守られているということである。」

※このゴリ押しで失われるエチオーニの議論の最大論点は、管理の側面により強調される組織の経済的な自律性である。そしてこの無視は極めて「親方日の丸」的発想であるということもできる。いくら専門性が非効率的な営為であっても公的機関である学校であればその組織が崩壊しないのである。

P209「第二に、教育の正常化が破壊され、人格形成に大きな歪みをつくり出した。すなわち、多くの生徒が縮小された普通科をめざし、そのために中学校が受験教育を激化していった。さらに、生徒は模擬テストや定期テストの点数で理数科を頂点に下は家庭科・農業科、さらにその下は定時制通信制へとふり分けられる。したがって、大多数の生徒は希望に反した学校・学科に入学して、学習意欲を喪失し必要以上の劣等感を植えつけられるなど、人格形成に大きな空洞をつくることになる。

第三に、高校多様化教育そのものが教育学的に矛盾したものであるということである。とくに職業学科や定時制通信制の産学協同方式でみられる現象であるが、一般基礎教育が軽んぜられて技能教育が重視されていることである。その結果、創造的能力をともなわず、そこで得た知識・技術は、当面の企業の要求には役立ちうるが、一〇年後、二〇年後のより高度な技術を必要とする社会には役立たなくなる。このことは、教育の普遍的真理を否定し、あくまでも高校教育政策が企業の当面の利害に基づいてのみ押しすすめられていることを示すとともに、生徒一人ひとりの生活権・生存権などの基本的人権を奪うことを意味する。」

普通科志向自体が反対勢力によっても支持されていたことは日本の教育にとって不幸なことだったのではないか。

 

P216「今日すでに中学校では能力別学級編成が考えられており、高等学校では多様化が実施されている。中学校の能力別指導は学級単位で考えられている。この方法は勉強のできるクラス・できないクラスという形で分けられることになり、いたずらに優越感と劣等感を育て、授業はできるクラスに力を入れることになり、区別→選別→差別の教育につながっていく。また、能力のあるクラスのなかでも、できる生徒・できない生徒の差がでてくる。したがって今日の能力別指導は、実際にはほんの一部の生徒だけの指導に終るにすぎない。同様に高校の多様化教育を、生徒自ら選んだコースではなく、企業からの要求で無理矢理に押し込められたコースであるところに問題がある。」

P226「最後に、答申の成立過程をみていえることは、現中教審委員は教育科学にまったく無知か、表面的な理解に終っているか、間違った理解をしているかいずれかであるということである。教育にたずさわるものは、もっと謙虚に教育の本質をみきわめていくべきであり、そこから生れる科学的成果を教育実践にとり入れていくべきである。」

※「単に」という言い方はあたかも二項図式以外がありえるかのような言い方だが、それはない。中教審委員への批判がそれを物語る。

 

P255「このような「不当な支配」の解釈は、「第一〇条がいましめている当面のものは、まさに国家権力・公権力自体なのであ」り、それゆえに「第一〇条の核心は、公権力自体の教育に対する不当な支配の禁止にあり、そのことは、公権力の教育に対する権限の制限の意味でもある」という宗像誠也のしっかりした明確な解釈と対比してみるとき、いかにもひ弱で消極的な解釈だといわざるをえない。」

※宗像が本質。「当面」の意味は考えなければならない。

P258「なお、「不当な支配」の禁止は抽象的には公権力向けられているとしても、それはより具体的には国民に向けられたものだという、以上みてきたような田中(※耕太郎)氏の教育基本法第一〇条①の解釈そのものの誤りについては、すでに宗像誠也の論文「教育行政(※1966、宗像編「教育基本法」収録)」での明確な指摘もあるし、また、渡辺洋三氏の『法というものの考え方』での「近代法の精髄」論にてらしてみてもその誤りは明瞭なので、ここで詳説するまでもないと思う。」

※細かな話はしていないが、これは「国家への奉仕」につながるから否定されている、というべきか。「国民の学問の自由もまた対国家的関係のなかでは絶対的権利である」(p259)とみなされている限りは。

P264「ではどうして「公の奉仕」が「国民大衆への奉仕」から「国家への奉仕」にすりかえられてしまったのか。その理由を田中氏の教育権論そのもののなかに求めるとするなら、それは氏の教育権論のなかでは子どもの教育を受ける権利および教員の教育権が正当な評価を受けておらず、両親の教育権だけが異常なまでに肥大せしめられていることによる、といってよいだろう。」

※端的に「近代人権思想のこのような欠落」(p266)「近代人権思想をまったく欠落させてしまった田中氏」(p267)とし、「形式的就学権」に教育を受ける権利を解釈することへ批判する(p267)。両親の教育権の議論がことさら強調された点については引用されている訳ではない。

 

P292「にもかかわらず私たちは、現代においては専門職従事者の「プロレタリア化」が急速にすすんでいることをも同時に認めなくてはならない。もちろんここでいう「プロレタリア化」とは、単に現象的に専門職従事者の生活水準とか労働の条件とかが劣悪化してきているということをいうのではなくて、専門職従事者の労働手段とのかつての関係が変化してきて、現代においてはその多数が労働手段から疎外されて被雇用の賃金労働者に転化してきているということをいうのである。」

☆p292-293「つまり私たちの考えでは、もともと専門職プロフェッションとは、この職業に従事する者たちが個人的にも集団としてもこのような諸権利を享受しえているような職業をいうのである。だからこそ専門職の理論は、専門職従事者の専門性論にとどまるものであってはならず、専門職従事者たちの対国家的諸権利、彼らの労働条件、専門職労働の管理組織、当該労働に関する政策形成における彼らの権威、などについて論ずる理論でなくてはならないということになってくるのである。」

※この主張に決して妥協は許されない。決して現実の教師がいかに歪んだ実践をしていたとしても、これがよい教育の必須条件である以上、否定することができないのである。そしてここから具体的な専門性について言及不可能となる理由も、「国家権力に従属してはならない」ことから必然的に導かれるものとなるのである。

P293「だからこそ、「教職は専門職である」ということをくりかえしいいながら、その実そこでもっぱら「専門性」の内容に論及してそこから「専門職の権利」論をまったくもって欠落させているような「専門職」論は、専門技能職論であり聖職論だといわざるをえないのである。」

※善の定義が確定しており、それはやはり具体的な専門性への言及=聖職論と定義付けられる。この部分も含め、本書の主要部は勝野尚行によるところが大きい。

 

中野雅至「公務員バッシングの研究」(2013)

 本書は「公務員バッシング」という「現象」について、その発生背景について論じた本らしい。「らしい」としたのは、私自身が本書を偶然図書館で見つけ、タイトル及び分量から期待していた内容とは全く違うものだったからである。もちろん私が期待したのは、これまで検討してきた「親方日の丸」といった過去の公務員に関連する言説との関連性の議論も含めた形での、「公務員バッシング」の性質をめぐる考察だった訳だが、残念ながら本書はまともに過去の議論を検討に加えておらず、ただひたすら90年代以降の議論だけで「公務員バッシング」を性質付けようとしている印象しか持てなかったのである(※1)。

 本書の大きな問題点として、「公務員バッシング」という言葉をどのようなものに対して適用して使っているのか全く明確になっていないことが挙げられる。本書を考察する前提としてまずはっきりさせておかなければならないのは、本書のいう「公務員バッシング」とは世間に言説として語られていた「公務員バッシング」とは異なるということである。読書ノートP40で指摘した通り、公務員バッシングという言葉自体はほとんど活字媒体においては世間に流布していない言葉である(※2)。では何を指しているのかというと、90年代後半以降における官僚の不祥事を端に発したとされる公務員批判、中央省庁の組織改革に繋がる批判的言説に対して、そう呼んでいると解釈するほかないだろう。一見このような解釈の仕方は問題がないようにも思えるが、この解釈自体が「荒すぎる」解釈の現われであるように、私には思えてしまう。

 

○読売新聞は「公務員」をいかに語ったか?――社説記事の言説分析から――

 

 本書のどこに問題があるのか具体的に語るにあたり、まず実証的なデータ分析から始めた方が早いように思う。ここでは、読売新聞の社説記事のうち、タイトルに「公務員」を含む、1970年から2009年までの記事、89本の分析を行ってみる(※3)。

 
(1)量的傾向について

 

 まず、89本の記事の時期別の傾向を見てみる(※4)。

1970年~74年 7本

1975年~79年 10本

1980年~84年 9本

1985年~89年 2本

1990年~94年 2本

1995年~99年 10本

2000年~04年 19本

2005年~09年 30本

 これについては、中野も指摘している通り、90年代後半から一気に「公務員」についての議論がさかんになったと言うことができるだろう。ただ、他方で中野は新聞についての評価をp39-40にある通り「報道スタンスが変わったとは考えられない」とも言っており、それに限れば見誤っていると言うこともできるだろう。

 

(2)時期ごとの言説分析

 

 さて、記事で語られていた内容についてであるが、私自身が想定していた以上に、時期によって語られている内容が明確に異なっていたことがわかった。基本的には今回比較を想定する70年代の議論と、90年代後半以降の議論、そしてその中間時期の3つに傾向を分けることができた。

 

(2-1)1970年~1982年までの記事の傾向(計25本)

 

 この時期の記事の特徴としては、主題がとてもわかりやすいという点をまず挙げられる。25本の記事のうち21本は基本的に「人件費削減」に関する内容を議論している。その「人件費削減」の記事のうち、特に前回日比野のレビューでも取り上げた東京都をはじめとする地方自治体を中心とした公務員給与を取り上げたものが9件、人員削減について主題としたものが4件、退職金もしくは定年制について議論しているものが8件であった。

 この時期の議論で確認したい点は2つある。一つは、p610-611で中野がまとめていた「公務員バッシング」の特徴とされた「中央から地方へ」というバッシングの拡大という言い方の正しさに関わる部分である。90年代以降の議論にだけ限れば、このような指摘が一見正しいように解釈する余地があるのかもしれないが、過去の公務員批判と比較した場合、むしろ70年代の主題は次の引用のように「地方自治体」にもかなり向いていたという見方ができ、決してその問題の範囲が拡大していったようなモデルを提出することはできない。

 

「もちろん、地方公務員の給与が、国家公務員を上回ったからといって、一概に非難できるものではない。地方自治体には、地方自治体の家庭の事情もあろう。若干の格差は、あって当然でもある。

 しかし、それが、民間の給与水準を大きく上回っては、やはり問題だろう。民間準拠の原則にも反し、納税者である国民感情を逆なでするものでもある。例えば、格差が〇・一二%と、官民がほぼ同一水準にある鳥取県で、人事委員会が、「国に準じて改定」を勧告しているのは、無責任というほかはない。

 こんなことの積み重ねが、地方公務員の給与に対する国民の根深い不信感を生んでいる。自治省が指示した職員給与の公開制が、住民の強い支持を集めているのも、そのあらわれといってよい。そうした声に、率直に耳を傾けるべきだろう。それは、地方自治の発展のためでもある。」(1981.11.23)

 

 もう一つは、定年制に関する点である。この論点については、90年代以降も「天下り」に関連して論じられているが、定年制と退職金はある意味セットで語られている。それは、勧奨退職制という慣行と合わせて、退職金が多く支払われている点が同時に批判されていたからである。この時期においてもしばしば「天下り」に対する言及があるものの、より直接的には定年制の確立と、高額な退職金制度の是正が語られる。

 

「職員の中立性の観点から、国家、地方公務員法身分保障されている公務員には、定年がない。人事の新陳代謝は、定年にかわる勧奨退職、つまり“肩たたき”によって行われている。東京都を例にとれば、管理職は五十七歳、一般職員は六十―六十三歳が“肩たたき”の対象となる。五十五―五十七歳定年が一般的な民間に比べて、それだけでもかなり恵まれているというのに、この間に退職すれば、退職金に五割のプレミアムまでつく。退職奨励の苦肉の策とはいえ、まさに“役人天国”というほかない。……

 この点にメスを入れたのが横浜市方式だが、それも、六十歳と一か月以上の期間を退職金の対象からはずしたに過ぎない。民間では、常識以前のこの程度のことが、全国自治体の注目を浴びているというのだから、民間と自治体の感覚のズレは深刻である。

 それだけではない。勧奨退職制は、地方自治体の行、財政にさまざまなヒズミを生んでいる。勧奨年限が、慣行的に、実質的な定年となっている管理職では、民間への天下りが正々堂々と行われ、その一方では、一般職員の高齢化が進み、行政能率の低下、人件費の増大、人事の停滞を招いている。

 これを改善するには、人事にケジメをつける以外に方法はない。」(1975.3.20)

 

(2-2)1983年~96年までの記事の傾向(計5本)

 

 この時期は「公務員」に関する記事は少なかったといえる。特に93年~96年までは1本も社説記事にはなっていなかった。5本の記事のうち、1本は週休5日制に関するもの(1986.6.20)、1本は国際公務員の育成に関するもの(1989.10.5)で、残り3本は「人件費削減」に関連する記事だった。しかし、この時期の人件費削減の記事として特徴的と言えるのは、その削減の主題が見えづらく、むしろ「行政の効率化を図れ」という形で主張されている点である。

 

「しかし、(※国家公務員の)職員数は一年前に比べ、減少どころか三百二十六人の増加である。人材の効率的な活用のため求められる省庁間配転は、この一年間で百三人しか行われず、実施決定後の三年間の合計でも、わずか二百七十五人でしかない。仕事そのものを見直しての能率化については、全く行われていない。

 加えて、公務員の高すぎる退職金や、年金の官民格差に対する国民の目は、さらに厳しさを増している。その結果、人勧そのものについても、給与、手当のみの比較でなく、生涯賃金や仕事の能率、身分の安定度も加味した内容とすべきだとの声も出ている。

 こうした諸条件を考慮すると、今年度の人勧は、実施に当たって何らかの抑制が行われても、やむを得ない。経営危機に直面した時の民間労使の対応に照らせば、決して無理な要望ではないと思う。

 ただ、ここではっきりしておきたいのは、われわれは、公務員に低賃金を求めているのではない、ということである。人並み、あるいは、それ以上の高い賃金であっていい。しかし、能率もそれにふさわしいものにしてほしい、ということである。」(1983.8.6)

 

(2-3)1997~09年までの記事の傾向(計59本)

 

 この時期の傾向は更に2つに分けるべきで、「2005年3月から2006年8月」までの13本の記事からなるB期と、それ以外の46本の記事からなるA期に分けて検討する。

 まずA期についてだが、まず押さえるべきは70年~80年代にあったような、給与格差や人員削減の問題がほとんど取り上げられなくなった点である(例外と言えるのは1999.1.27の記事1本のみ)。では何が主題なのかというと、正直な所、簡単に分類を行って主題を語ること自体が困難になっている傾向が認められた。一言でまとめるならば「人事制度の見直し」に関するものなのだが、その内容については重複等も多く、どれを中心にしているかは明確化しづらい。ただ、何故分類困難になったのかはある程度説明できる。この時期に中野の著書でも語られているように、官僚を中心にしたバッシングが確かにあり、それは既得権益に染まった中央省庁、官僚の問題として語られ、それに伴う『組織の見直し』を行うことが求められたのである。そして、結局この『組織の見直し』というのがある意味で「不明確」であったのである。ただ、これは中野がp362-363で言うような、抽象的な批判に終始し、具体的な行動が伴っていないから不明確、という訳ではない。

 

 この不明確さは、特に70~80年代の議論と比較した場合に、大きく3つの意味で説明できるものであるとわかる。1つはこの「組織の見直し」の議論がコスト削減といった量的な問題ではなく、公務員倫理や組織体質改善という質の問題であったという点である。端的にそれは成果指標が不明確とならざるをえず、なにかしらの策を講じたとしても改善につながっているのかどうか評価が困難なのである。そもそも公務員倫理のようなものは、法整備といった対策により効果が期待できるのかという疑問さえ社説の中で語られる。

 

「ただ、こうした改革の方向が、どの程度実行に移されていくのかとなると、かなり心もとない。改革内容の多くが、法律改正といった課題ではなく、現行法の「運用」にかかるからだ。つまりは、公務員の「意識」が変わらなければなにも動かない、という懸念が残る。」(1999.3.17)

 

 2つ目は、この「組織の見直し」として質の改善というのは、多岐にわたるものであり、なおかつ「構造」そのものを改めようとする取り組みでもあった点である。「年功序列、横並びからの脱却、能力・実績主義の導入、早期退職勧奨見直しと天下り是正、定年延長、官民交流、採用試験や幹部育成などキャリアシステムの見直し……。公務員制度改革に当たっての課題はすべて密接に関連している」(2007.8.23)とされるのである。「戦後日本の再建と発展を支えてきた官僚機構にも、次第に組織疲労が蓄積され」(1999.8.11)、端的に言えば「制度疲労」(1999.6.26)、仰々しくは「明治以来の官僚社会の幣を打破する歴史的な課題」(2005.2.6)という形で捉えられる制度の見直しを行おうとしていたものだったということである。容易に数値化可能な量的削減とは次元がやはり違う。

 

 また3つ目として挙げられるのは、やはり量と質の議論と関連して、この問題が必ずしも「親方日の丸」の問題として、言い換えれば民間比較の問題として語ることができなかった点も大きかったのではないかと思う。民間給与や退職金の問題、広義にはコスト削減の議論というのは、民間との比較を行い、「民間でできるのに、官公庁では何故できないのか」が簡単に指摘できた。天下りなどは「勧奨退職制の廃止と定年制の導入」という観点では民間比較が可能だが、天下りの事実自体は比較不能なものである。しかも、天下りの問題は、官民の関係性について切り込むという側面があり、転じてそのような「関係性」そのものの規制を行おうとしていたものであったが、そのような規制が「生きた情報に接することができず、官僚の重要な職務である政策形成などにも問題が生じ」る(2005.2.20)ことや、「統計数字みたいなものだけを相手にする官僚では、反面で独善的行政の弊害が増す懸念も生じる」(1998.2.11)ことが指摘されるのである。特に官僚層については優秀な人材が登用されることにも期待しているのであり、一方的な規制がまずもって支持されていた訳でもないのである。

 

 

 また、70~80年代においても、天下りに関連した定年制の議論は基本的に同じように議論され、それはしばしば退職金ともやはりセットとなって語られる傾向が認められる。しかし、これらがセットになった議論というのは、「退職金の減」ありきではなく、「天下り」といった問題の解決の方により重点が置かれて議論がなされていると言える。

 

 さて、次にB期についての議論をまとめる。この時期に限れば、A期のような『組織の見直し』ではなく、70〜80年代同様、人件費削減の議論が集中している。この議論の発端は2005年3月5日の社説で、2005年度の予算が衆議院を通過したこと、その中で「地方交付税の見直し」が図られる必要性を述べている。70年代には批判の矛先が東京や大阪など、当時給与基準等が高かった大都市の自治体に向けられがちであったが(cf,1974.8.7、1981.5.9)、この時期はむしろ人事院勧告と同様の賃金改善を行った結果、地方(田舎)の民間企業と比べれば、高水準の給与が支払われているという形での批判が目立つようにも見える(cf,2005.3.15、2006.4.11)。しかし、どちらの時期にも逆に官民格差のない状態である島根県が国に準じて増額改定されることへの批判(1981.11.23)、及び大阪市における手厚い福利厚生・手当支給の問題視(2005.3.12)もあり、一概には違いとして言い切れない所もある。

 また、本書でもp610-611にあるように「批判が詳細になった」という指摘あったが、中野も指摘していた2006年の人事院の賃金官民比較調査から対象企業を従業員100人から50人に変更した点なども含め、そのような印象もない訳ではない。しかし、これについても1978年11月4日の社説では、地方自治体の人事委員会が実施している官民比較の調査そのものが(民間賃金を過大評価しているとして)「そう簡単に信じられる数字ではない」と述べられるなど、かなり強い論調で批判を行っているものもある。このような点からは、このB期のコスト削減の議論は70~80年代の議論と異なる特徴がなかなか見いだせないように思える。

 

 

 以上の議論も踏まえ、読売社説の検討を行った結果からみる中野の著書における主張との相違点についてまとめる。

(1)p39-40に見られる新聞への評価は適切ではないこと。

 

 確かに70年代と比べ、「より厳しい批判的論調にはなっていない」という点では正しいが、公務員に向けられる分量は明らかに大きくなっており、その分公務員への批判は強く向けられていたということは、新聞媒体でも言うことができるだろう。

 

(2)p99やp135のような批判対象となる「公務員」の拡大は全く見受けられなかったこと。

 

 少なくとも読売新聞の社説からは、その対象が「国家公務員」「地方公務員」に限られており、それは70年代においても全く変わっていない。地方自治体への注目という意味ではむしろ70年代の方が官僚批判を端に発した公務員批判を展開する90~00年代よりも強かった印象さえある。

 

(3)90年代以降の公務員批判と、その改善についてp362-363にあるように「不明確」として過小評価していること。

 

 不明確化は具体的な案の欠落という訳ではなく、むしろその問題とする「組織」の改善の難しさそのものにある。例えば、「天下り」の実施における承認を人事院ではなく、閣僚(主任大臣)に判断させるという案に対しては「実務的に極めて困難だろう」(2000.11.30)「実際上、不可能と言っていい」(2001.3.30)と実効性を疑問視したりすることはある。しかし、省庁再編(1997.11.15)をはじめ、情報公開の促進(2000.11.30)、人物重視の公務員試験の改正(2002.8.26)、能力等級制の導入(2003.7.5)など、実効性に議論の余地があるにせよ、着実に制度改正自体は進めてきたものであるという点まで否定される筋合いはないだろう。

 

(4)p153の「公務員に関する意識調査」について、中野は90年代以降の変化を念頭においているものの、むしろ70年代以降の公務員批判が与えている影響がかなり大きいと言えること。

 

 読書ノートに記載したように、88年の調査結果ではかなりの割合で「公務員は高級取り」というイメージが確立されており、むしろこのイメージ形成は90年代以前に形成されたものであることが、70年代の社説記事を通しても確認できた。

 

(5)p150のような労働条件改善言説と中野が解釈するものは、人件費のコストの議論には全く結びついていないこと。

 

 P150の主張はあたかも過去の公務員批判言説が弱かったことを印象付けるものであるが、実際はコスト削減の議論がさかんに行われていたものである。これは日比野のレビューでもみた美濃部都知事の70年代中頃からの支持率減少に端的に現われていたものである。また、この週休2日制の議論は公務員批判の軸とは全く異なったものであり、現在においても恐らく「働き方改革」における公務員制度の見直しが図られるのであれば、基本的には肯定的な論調でメディアは受け取るのではないかとさえ思える。

 

(6)「公務員バッシング」について読売新聞社説は批判を繰り返していたこと。

 

 これは、中野の議論で全く取り上げられなかった論点であるが、読売新聞社説では事あるごとに「公務員バッシング」に対しては批判を行っていた。「“官僚バッシング”的な視角からの議論だけではなく、そうした前向きの議論もしてほしい」(1998.2.11)、「「政治主導」を盾にした一部政治家の誤った「役人たたき」もあって、官僚自身も萎縮しがちだ」(2001.2.12)、「参院選に向け、“公務員たたき”で有権者の歓心を買おうという狙いもうかがえる」(2007.4.27)、「今年度のⅠ種試験の申込者数は、2万1200人で、最低記録を更新中だ。……度を越した公務員バッシングや、公務員の将来像がつかめないせいではないか」(2008.7.12)という形で、基本的に中野と同様「公務員バッシング」には批判的論調で議論を行っているのである。

 ここで問題となってくるのが、一番最初に議論した「公務員バッシング」の定義の問題である。世間で言われていた「公務員バッシング」という実際の言説においては、読売新聞は明らかに批判していたことになるが、中野の定義する曖昧な「公務員バッシング」となると、やはり読売新聞も「公務員バッシング」していることとなってしまうのである。しかし、その「公務員バッシング」というのは、中野が言うような不明確なもの、実効性のないものとして片づける訳にはいかないのである。

 

(7)p478のような「公務員から批判がなかった」という主張に違和感があること

 

 最後に、p478の言うような指摘である。ここでいうニュアンスを私は「圧倒的多数の公務員は批判を訴えなかった」ものとして受け取り、また同時に「公務員バッシング批判に対して抵抗していなかった」ということも含んでいる印象を受けた訳だが、これに対しては二重の違和感を覚えた。

 一つは、「公務員一般が抵抗していない=抵抗力として十分でない」という図式を前提にしているように見える点である。これはどうしても社説記事からは成立しているように見えず、「官僚が天下り先確保の思惑から、所管する法人の廃止や民営化などの抜本改革に抵抗している」(2002.2.17)、「省庁と労働側が対立している」(2005.2.6)という状況は、少なくとも読売新聞にとっては明らかに公務員制度改革の「阻害要因」として認めているのである。

 もう一つは、あたかも「公務員バッシング=不必要なバッシング」の図式が前提にある点である。これもまた「公務員バッシング」の定義の曖昧さの問題が影響を与える点である。要するに世間一般における「公務員バッシング」言説は、読売新聞が指摘しているように「政治家の一般大衆への媚売り」であり、あまりまともに相手にする必要さえないという見方もできるが、中野のいう「公務員バッシング」には当然賃金・退職金削減といった問題も含まれてしまうために、「公務員バッシングは公務員自身が抵抗しなければならない要素をもつもの」と思い込ませてしまう性質が与えられてしまっているのである。合わせて、曖昧な形での「公務員バッシング」言説には、かなりの部分「正当性」が含まれている部分がある。これは読売新聞社説で公務員批判を行う際に見られた具体例の例示の中に示されていたものであるが、それが「正当性」のあるものであれば、やはり公務員自身も再批判せず、素直に事実を受け取る可能性に開かれていてもよいはずなのである。中野は、これに関連して、例えばp362-363にあるように、「何故ギリシャのように公務員数の拡大をするように動かなかったのか」という疑問を提出しているが、財政破綻したギリシャの例を挙げること自体がナンセンスで、それこそ「公務員削減志向は方策として正しい(のに、なぜギリシャに倣わなければならないのか理解できない)」という意見を支持することにもなるように思える。これもまた曖昧な定義としての「公務員バッシング」に対する再批判を行わない根拠となるものである。

 

 

 

 最後に、今回の新聞社説の分析とは別の次元で、本書のとるスタンスの問題について触れておきたい。

 一つは、本書が「マスコミ」について言及する際、テレビや雑誌が中心となっているように見える点である。どちらの場合も、「公務員バッシングが激しくなった」ことの立証としていくつかの番組の登場や、記事の紹介は行っているものの、それらは決して「過去の内容」との比較を行っている訳ではないことには目を向けなければならない(※5)。特にテレビにおいては顕著であるが、どのような内容が実際に語られていたのかさえ曖昧なメディアばかりを根拠に、その言説が「拡大した」といった言明を行うこと自体がかなり学術的には問題含みである。端的に追証不可能だからである。言説の拡大について指摘したいのであれば、実際にそのような比較が行えるものを選ぶことが基本となるはずだが、本書では「公務員バッシング」と関連するのか不明確な「公務員」に関する記事の量的拡大のみに着目して、結論付けてしまっている。このようなスタンスの取り方は、どうしても分析そのものが荒いという印象しか受けない。

 もう一つは、「社会問題」を捉える上で、私自身がこれまでのレビューでも問題視してきた「大衆」の捉え方である。本書ではp341などが顕著だが、いつのまにかメディアにおける「公務員バッシング」が国民による「公務員バッシング」と同一視されてしまっている。これは無条件で「メディアで言われていることは国民を代弁している」とみなしているということであるが、これは端的に誤りであろう。これは中野がテレビに依拠したのか、雑誌に依拠したのかによっても評価が分かれてくるかもしれないが、少なくとも「雑誌」による「公務員バッシング」と今回分析した「日本一の読者がいる」「読売新聞の社説記事」における「公務員バッシング批判」、どちらが「大衆」を表しているのか、という疑問を投げかけた場合には、「読売新聞の社説記事」を支持する他なく、本書の捉える大衆観が全くの誤りになる。もちろん、私自身が新聞社説を分析対象としたのはそのことを示すためではない。あくまでもそのメディアが「大衆の目にとまる可能性が高い」程度のもの以上のものではないのである。雑誌で語られていることも、新聞で語られていることも、「大衆」そのものの意思を反映したものとは言い難く、それは断片的なものでしかないのである。本当に「大衆」の意思を確認したいなら、世論調査などによって少なくとも「直接意思を確認する」作業をしなければそうとは言えないのである。中野もそのような調査について触れていない訳ではないが、「公務員に関する世論調査」の用い方同様、本書の問題点の指摘にマッチする形で、調査結果の内容を拾えていないのである。

 

 

※1 ほとんど唯一過去の議論を実証的に比較して述べていたと思われていた「公務員に関する世論調査」についても、読書ノートに示したように、70年代の文脈を押さえた形で議論している訳ではなく、データの取り扱いも適切か疑問が残る内容である。本書が依拠する「過去との比較」は基本的に政府関係者などが90年代以降に語る「過去語り」の中からしか見いだしていない。しかし、このような「過去語り」にだけ依拠するのは、本書を仮に「学術書」として読むなら如何なものかと思う。広田照幸などが指摘したように、「しつけの衰退」や「少年犯罪の悪化」と言った言説もまた、素朴な「過去語り」であるがゆえに、実証的に見れば正しくないことも十分ありえる話である。

 

※2 読売新聞の過去の記事全体から見ても、1998年に「公務員バッシング」という言葉が登場してから現在までわずか十数件しか用いられていない。しかも、後述するように、用いられる「公務員バッシング」は、政治家がこのようなバッシングを行うことに対する批判として語られる傾向も強い。

 

※3 ここで注意したいのは、タイトルでは「公務員」が入っていないものの、記事の中身は公務員について語っているものも相当数存在するという点である。例えば、「天下り」がタイトルに含まれる記事も同期間内で24件ヒットしたが、全体的な傾向は今回の分析のみで十分把握できるものと考える。「天下り」といった言葉の分析の方が、むしろ「公務員バッシング」に繋がる批判的議論が色濃く出ることも想定されるものの、p40にあるように、中野自身が量的傾向として指摘するのがそもそも「公務員」という言葉であるため、本書との整合性は少なくともとれているはずである。

 また、時期設定を1970年代から00年代までとしたのは、本書の分析対象も基本的に2009年までとしている点と、本書のいう「公務員バッシング」言説と比較可能となるであろう公務員批判の言説が、特にオイル・ショック以後の財政見直しの議論がなされた1970年代にあると想定したからである。

 

※4 なお、対象外期間とした2010年~14年までは21本、2015年~19年8月末までで5本となっており、2005年~09年までがピークとなっている。また、以下引用・参照を行う際は、新聞掲載年月日のみを記載する。

 

※5 余談であるが、中野は本書の前に「天下りの研究」という著書を書いている。しかし、この中でも「天下りが世間で如何に語られていたのか」という点について、実証的考察は何も行っていない。

 

(読書ノート)

P19-20「次に第二段階として、時期的には第一段階と接近するような形だが、官と民の労働条件の乖離から一歩進んで、経済成長の鈍化・雇用失業率の悪化などが深刻化していくことによって、税収が減り予算などの形を通じて配分できるパイが少なくなるとともに、財政赤字が累積していくにしたがって、国民の多くは官民の労働条件乖離といったことだけではなく、自分たちの生活状況の悪化・受けている行政サービスの質量などと官公庁・公務員の動向が深く関係していると認識するに至ったことから、公務員の動向に対する関心を広く強く持ち出したということである。わかりやすく言うと、不況で給与が落ち込んでいるにもかかわらず、国民の税金で給与が払われている公務員の労働条件が恵まれたままであれば、官民乖離ではなく、民の犠牲によって官の厚遇が維持されていると映るようになるということである。譬えとして適切かどうかはともかくとして、「他人事の政官業癒着」から「自分事の政官業癒着」に進化したもである。」

※大衆の動きは本書でいかに捕らえられているか?

P37「テレビもラジオも公務員批判を行うことはいうまでもないが、過剰に公務員を批判する傾向が強い印象があるのはテレビである。」

P39-40「次に、新聞・雑誌という紙媒体についてであるが、新聞は言うまでもなく従来から不祥事をはじめとした様々な問題で公務員を取り上げてきており、批判の程度が多少変わったということがあるとしても、バブル経済崩壊前後によってそれほど大きく報道スタンスが変化しているとは考えられない。」

※3行で新聞の説明を終えてしまっているが、これは明らかな認識の誤り。

P40「その一方で、雑誌に関しては様相が異なっている。バブル経済崩壊前後で明らかに公務員に関する記事数やその内容に変化が生じているからである。国立国会図書館OPACによって「公務員」というキーワードで検索してみると、バブル経済崩壊後、特に、2000年以後、公務員関連の記事が増えているからである。」

※しかし、万単位で「公務員」が該当するにもかかわらず、「公務員バッシング」でヒットするのは、20件にも満たない。これをどう考えるか?

 

P61「その一方で、霞ヶ関を中心とする本省の労働時間は国会対応を含めて深夜に及ぶ超過勤務が常識になっていること、楽だと言われる地方出先機関においても、バブル経済崩壊以降は厳しい状況になっているという指摘もあるが、一般の週刊誌がこの問題を取り上げることは少ない。

例えば、大塚実(2007)によると、公務員連絡会が毎年秋に行っている生活実態調査では、本省事務職の国家公務員の場合、平均月の平均値で22.9時間、最高月の平均値で58.2時間の超過勤務を行っている。また、同調査では、同じく本省事務職の国家公務員の場合、超過勤務手当が「50%以下しか支払われていない」者が17.6%の割合となっていて、ただ働きのような存在もいることが浮き彫りになっている。」

P99「次に、批判される公務員の範囲が拡大していることも大きな特徴としてあげることができる。公務員批判と言えば、国家公務員法の適用を受ける一般職の国家公務員と地方公務員法の適用を受ける地方公務員の二者が主に思い浮かぶが、公務員法の適用を受けない者を含めてマスコミの批判対象は拡大している。」

P110「なお、公務員数については総務省のHP上で掲載されている公務員数の国際比較が相当浸透してきたこともあり、国際比較という観点から言えば我が国の公務員数は決して多くないということがようやく理解されつつあるが、「役所の関連団体」と言われる特殊法人独立行政法人等を入れれば、もっと大きくなるという指摘もある。日本経団連の試算では政府と関連の深い団体で働く者は135万人になる。また、国税庁がまとめた2003年の源泉所得税の納税状況をみると、政府部門の就労者に区分される人は893万人になるという指摘(日本経済新聞2005.10.31)もある。」

 

P135「第1章の考察結果を参考にして述べれば、報道量の拡大の1つの要因となったのは、批判される対象が拡大していったことである。公務員に対する批判と言えば、公務員に対する批判と言えば、国家公務員のキャリア官僚というのが一般的だったが、2000年以後に入ってからはその対象が拡大していった。」

※この認識は、少なくとも新聞についていえば、大きな誤りがある。また、第1章でこのことがまともに(特に過去との比較について、実証的に)考察されていたものとは考えられない。せいぜい、まともな考察がなされているのか極めて怪しい大衆雑誌の参照を行なっている程度である。このような認識に至るのは、まさに過去の公務員批判について考察していないからこそ出てくるとさえいえる。

P143公務員を含む雑誌タイトル件数の推移

P146「しかし、1960年代や1970年代における「役人天国」という言葉にはまだまだ牧歌的な部分が残っており、今日のような細々した部分まですべて取り上げて批判するということは少なかった。」

P150「また、1980年代までは公務員の労働条件を良くすることが景気を良くすることにつながったり、民間労働者に波及することで勤労者全体を良くするという考え方が受け入れられていた。公務員に労働条件改善の牽引役としての役割さえ期待されていたのである。実際、様々なステップを踏んで進めてきたとはいえ、公務員の週休二日制については歓迎さえされている。」

※これは拡大解釈にすぎる。別に賃金改善といったものにまでそれが言われていた訳ではない。週休二日制については、かなり例外的な事象である。

 

P153「バブル経済が崩壊する前までは、官民の労働条件の乖離はそれほ大きなものではなかった。……そのため、官民の労働条件が大きく乖離していないどころか、賃金水準については、「公務員の給料はそれほど高くない」というイメージも強かった。

実際、旧総理府が1973年に行った「公務員に関する世論調査」によると、「あなたは、一般公務員の給料は、民間企業と比べて高いと思いますか、それとも低いと思いますか、この中ではどれでしょうか」という質問に対して、「高い」(6.8%)、「どちらかといえば高い」(16.5%)、「同じ」(24.7%)、「どちらかといえば低い」(25.3%)、「低い」(10.9%)、「わからない」(15.8%)という結果になっており、公務員の給料が高いと思っている人は多数派となっていない。」

※ただ、この調査はオイルショック後の自治体批判直前の調査と位置付けるべきものであり、1988年に実施された同名の調査ではすでに回答傾向が大きく異なっている(それぞれの回答の割合は23.4%、20.6%、22.4%、9.5%、4.0%、20.1%と完全に傾向がバブル崩壊前から逆転している)。本書でいう公務員バッシングの文脈を考える上では不適切な議論であるし、なぜこの88年の調査には言及しなかったのかも不可解。また88年の調査で「再就職が容易であることを理由にして、公務員の退職後の生活を恵まれていると考える人は必ずしも多数派でないことがわかる。むしろ、公務員の退職後が豊かだと思っているのは、年金や退職金の手厚さが主な理由だ。」(p154)とし、人事院の「国家公務員に関するモニター」調査における天下りを問題視する人が最も多いことと対比しているが(p151)、そもそも質問の趣旨が異なるため単純な比較で中野のような結論を導き出せるものではない。

 

P213「実際、国家公務員Ⅰ種試験受験者は長期低落傾向にあったが、その中でも東京大学出身者が減っていることはよく指摘されてきた。しかも、東京大学出身者の中でも官僚養成で名高い法学部出身者が顕著に減少していることは注目に値する。」

※ここでは、採用方針として東大法学部集中が1990年代見直された点について考慮せず、データは「採用者数」を示すだけである。

P245「他方で、間接的な理由として、公務員の不祥事を受け止める国民側の意識の変化もあった。1990年代以降の公務員の不祥事は質量ともに大きく変化したが、それを受け止める国民側の意識も、経済変化の状況変化、権利意識の高まりなどによって相当変化していたと思われる。端的に言えば、国民の公務員を見る目が厳しくなったのである。」

※ここでの論点はほぼ全て実証性に欠けることを言っている。せいぜい「国民」ではなく「世論」という表現を使うべきである。

 

P341「その意味では、国民の「自分たちの生活と公務員や官公庁の動向が何らかの形でかかわっている」というのは感情的なものであり、思い込みの要素が強いということである。公務員や官公庁の動向と自分の生活が関連していることを実感する国民が多数派を占めていれば、傍観者的な対応はとらないからである。」

※「国民」を使うからこうなる。本当にこの認識が正しいと言えるのかは何も実証していないのに。

P341「国民の「自分たちの生活と公務員や官公庁の動向が何らかの形でかかわっている」というのは感情的な側面や思い込みの要素が強く、そういう実感がないにもかかわらず、マスコミ主体の公務員バッシングに国民が関心を示し続けたところにこそ、公務員バッシングの1つの特徴が見られる。なぜなら、公務員や官公庁が諸悪の根源ではなく、自らの批判に感情的側面が強いことを自覚しつつも、マスコミが流し続けるバッシング報道に関心を示し続ける不合理や感情的側面が見られるからである。」

※基本的に「社会問題」は多かれ少なかれこの要素がある。繰り返すがこれは「世論」としては妥当だが「国民」については妥当するか実証的に示されていない。

P352「これら他のバッシング現象と比較すればわかるように、公務員バッシングは3つの特徴的な要素を持っている。第一に、マスコミを主体にしたバッシングであるということである。第二に、バッシングによる影響は少ないということである。第三に、バッシングが長期間にわたっているということである。同時に注意すべきなのは、これら3つは相互に矛盾したものだという点である。」

※バッシングの主体がマスコミとされるのは、新聞側から批判さえあるだろう。

P356「マスコミはこのようなポピュリズムが吹き荒れる状況の中で、世論に異見するのではなく、国民の関心が深いから報道し続けるというのでもなく、ポピュリズムに媚びるような形で公務員バッシングを続けたのである。微妙な違いだが、のちに見るように国民自身が公務員制度などで激しい改革要求を起こしたようなことはなく、国民の公務員バッシングに対する姿勢は非常に受け身的だったことから言えば、マスコミは国民の関心が深いからという理由で長期間にわたって批判的な報道を続けたとは考えにくい。」

※マスコミ自体がパッシブであるならば、「政治が公務員改革を続けていった」だけで説明できてしまう理由なのだが…また、「国民」が強い改善要求を求めるような事例とは具体的にどのようにありえる話なのか?

 

P362-363「第三に、公務員の厚遇に対する批判や、一部の人間しか公務員になれないという事例がマスコミ報道されていることを考えると、国民側から「公務員をもっと増やして雇用機会を作るべきだ」といった強い要望が出てきてもよさそうであるが、国民の間からはそのような要望は見られなかった。……

このような日本人の態度は同じ財政状況のギリシャとは対照的である。……

つまり、公務員バッシングは、マスコミを通じて強く批判するが、その批判が具体的な行動に結びつかない(結びつける意識がない)ところに大きな特徴がある。やや極端な言い方をすれば、無責任な批判を繰り返すだけだということになる。」

※これは論点のすりかえでしかない。そもそもが民間並みの給与改善、退職後福利、人員削減政策の改善要求を行なっていただけであり、それ自体はそれなりに達成されていると見るべきではないか。このことに対する説明のp368でしており、なぜ労働条件の改善=公務員改革における改善と思い込んでいるのだろうか?最大限擁護できるとすれば、ここでの公務員バッシングは字義どおりに言説として用いられていた「公務員バッシング」には妥当するかもしれないが、それは90-00年代の公務員批判と改善要求の話とは別の話であり、それを混同すべきではない。

そして、この改善要求が弱い理由を国民との関心との直接的関連性の弱さとして説明するが(p363)、そもそもこの時期の公務員批判が量的批判でなく、質的批判であったという着眼点は欠けている。たしかに当時質的改善の実効性は問うべき余地があるが、量的改善まで実効性がなかったかはむしろ疑問であり、その検証は本書で何もおこなっていない(質的な話に集中してしまっている)。

 

P438「このような状況が進展すると、政官関係は対等な敵対関係から官僚叩きなどのような一方的な関係にまで発展する様相も強くなり、テレビなどのマスコミで官僚を叩けば叩くほど政治家としての人気を増すというような状況さえ現出するようになった。そのような異常な状況の裏返しとも言えるが、第170回国会で麻生太郎内閣総理大臣所信表明演説において、「わたしは、その実現のため、現場も含め、公務員諸君に粉骨砕身、働いてもらいます、国家、国民のために働くことを喜びとしてほしい。官僚とは、わたしとわたしの内閣にとって、敵ではありません。しかし、信賞必罰で臨みます。わたしが先頭に立って、彼らを率います。彼らは、国民に奉仕する政府の経営資源であります。その活用をできぬものは、およそ政府経営の任に耐えぬのであります」と述べている。」

P445「それにもかかわらず、「官僚主導」「官僚支配」あるいは「財務省支配」という言葉は流され続けた。1960年代までのようなわかりやすい官僚主導ではなく、制度面だけなら誰が見ても政治優位の状況であるにもかかわらず、なぜ官僚主導・官僚優位ということが言われ続けたのだろうか。どれだけ権限を与えても政治が機能しなかったという根本的な要因の他に考えられることとして、官僚の力の源泉として指摘されるものの中で1990年代前後で大きく変わったことに注目すると、官僚が影に隠れて権謀術数・情報操作などを行っていることが幾度となく繰り返し宣伝されたことが、その実態の不透明さと相まって虚像を形作っていった一因だと考えられる。」

※本書では官僚の情報操作について、かなり懐疑的な立場である。

P478「しかし、「公務員の立場から考えて反論しないのは当然だ」という説明も判然としないところがある。例えば、公務員自身がコミュニケーション能力の向上を目指したというのは、政府広報への民間経験者の登用を含めて、国民に対して説明を行うことの重要性を認識していたことを示しており、根拠のない公務員や官公庁への批判を全く度外視していたということでもなさそうである。また、実際問題として、公務員労組や個々の公務員の中には公務員バッシングに対して怒りを含めた反論を行っている事例もある。ただし、公務員は人数が多すぎることもあって公務員全体として連帯して組織的に公務員バッシングに対応していないし、個々の公務員がフォーマルにマスコミに反論したりする事例もほとんど見ない。」

※公務員が反論するのは「普通」なのか?そもそも何に対する反論なのか?基本的にここで議論されるべきは「公務員バッシング」への反論ではなく、「公務員制度改革」への反論であるべきである。公務員バッシングは本書が言うほど大きな議論にそもそもなっていない。この議論のおかしさは、「『日本人論』批判に対して日本人が反論しない」という言い方に似た奇妙さにある。

 

P610-611「公務員バッシング」とは何か?に対する答え……「具体的に言うと、第一に批判される対象が拡大していることである。特権階級としてしばしば批判されてきたキャリア官僚だけでなく、地方公務員やこれまで看過されてきた国会職員なども対象になっている。

第二に、批判が詳細で細部に至ることである。これまで見落とされてきたような公務員に特有の労働条件が批判の対象になっている。第三に、主な批判の1つが官民乖離にあることである。これまでも公務員批判の要因の1つは官民の労働条件の乖離だったが、長期不況に陥る1990年代以降はその位置づけがより重くなっている。1980年代までは景気の落ち込みによって、一時的に民間で働く人の労働条件が悪化するという程度だったが、非正規雇用が常態化する1990年代以降はそれとは全く状況が異なるため、公務員の身分保障などが際立つことになった。第四に、批判がセンセーショナルであることである。雑誌記事の見出しや表現には過激なものが多くなっている。第五に、公務員バッシングの擁護者が少ないことである。マスコミ報道あるいはこれを支える世論の強さもあって、客観的な見地から公務員を擁護する傾向はほとんど見られなくなった。第六に、同和問題に典型だが、タブー視されてきたものまでが、公務員バッシングと関連してバッシング対象になっていることである。それだけバッシングの激しさを表していると考えられる。第七に、個人にフォーカスしたバッシングが増えつつあることである。これは典型的には特定の公務員を対象にした懲戒処分に顕著である。官民を冷静に比較分析する、あるいは、懲戒処分発生事由を冷静に分析することなく、とにかく公務員に厳しい懲戒処分を科すべきだというマスコミ報道やそれを支持する世論が強くなっているということである。」

※この中では、第一と第五は少なくとも新聞の記事に明確な反証材料がある。第四や第七も新聞記事にまで十分にその影響は認めがたく、部分的でしかない可能性がある。第六も同じように「国民」との関係の中では具体的な影響力としてどれほどあった内容なのかわからない。

日比野登「財政戦争の検証」(1987)

 本書は1960年~70年代の美濃部東京都政に対する評価をめぐる議論に関連して、革新自治体に対する批判に加担した政府・自治省を強く批判した本である。美濃部都政の評価に関する議論は今後もできる限り検証していきたいが、今回も論点整理の一環でレビューしていきたい。

 

○本書が指摘する政府・自治省の「世論操作」はどこまで正しいのか?

 

 本書で繰り返し述べられているのは、p76-77にあるように田原総一朗のレポートにあったような、政府および自治省の革新自治体に対する圧力によって、「財政難」が意図的に露呈され、革新勢力の政治的退行を促進させた工作が展開されたことが、美濃部都政の世論批判を生んだという主張である。この田原レポートは、特に「バラマキ福祉」と「水ぶくれ都庁(都職員数の急増)」が批判の的になっていたことについて、他主要自治体の比較から実証的に問題の所在が東京都固有のものではなかったことを示しているし(※1)、複数の筋から意図的な政治的介入があったことを聞き取っている。しかし、それでもなお本書がこの「T.O.K.Y.O作戦」を過大評価していると言わなければならないと考える。

 

 本書から政府・自治省から受けた「圧力」についていくつか取り上げると、

(1)マスコミを利用した世論操作(マイナスイメージの付与)(p80)

(2)地方交付税交付金の操作(p185)

(3)ベースアップ対策債の不許可(p120)

(4)超過課税に対する妨害工作(p131,p132)

(5)予算過大見積の影響による財政悪化の地方への責任転嫁(p111,p111-112)

の5つ程度を主たるものとして挙げることができるだろう。このうち、(5)の判断の正しさについては当時の予算算定段階の経済情勢等に対する状況を把握する必要があり、(本書ではその点について何の言及もないが)これを誤りとするのはその検証が必要であるため取り上げないが、他のものについてそれぞれ検討していきたい。

 

 まず(1)についてである。これについては、少なくとも部分的には正しいという他ないだろう。自らの反対勢力に対して排除し自らを優位にしようとすることは、それ自体は自然である。ただこのような世論操作は以前レビューした国鉄の「反マル生」の動きなどにもマスコミの同調は顕著に現われているように、別に政府側の専売特許ではない。また、その影響力についても本書p78で言うような政府と広くマスコミが癒着関係をもってなされていたとは考え難い(※2)。

 これは当時の新聞の論調そのものを読めばある程度ハッキリする。本書p80でも述べられている通りだが、本当にマスコミが癒着しているのであれば、そもそも政府側の非難をすること自体が不自然である。例えば、次のような主張がなされている。

 

 「地方公務員の賃金引上げをめぐる自治省自治労の人件費論争が、地方自治体の理事者側も巻きこんで再燃する情勢である。

 地方財政の危機が深まるにつれて、人事院勧告なみの地方公務員賃金の引き上げに反対する自治省の姿勢は一段と厳しさを増している。財政硬直化から脱出するためにも、高すぎる地方公務員の賃金水準を、せめて国家公務員に抑制すべきだというのである。

 もっとも、赤字財政の責任は、あげて肥大化した人件費にある、といわんばかりの自治省の主張には、いささかの無理があろう。自治体よりも国に大きなウエートを置いた財源配分、実勢価格を下回る補助金などの国庫支出と、それに伴う超過負担など、地方財政を圧迫する要因は、ほかにいくらもある。

 また、国と違って、警察、消防、教育、清掃など多くの現業部門を抱えている自治体にあって、人件費は事業費そのものといった一面を持つ。国に比べて自治体の人件費率が高く、それが投資的経費を上回ったからといって、一概に非難することはできない。

 しかし、一般に地方公務員の賃金水準が、国家公務員をかなり上回っていることは事実だろう。自治省が比較の手段とするラスパイレス指数に絶対の信を置くものではないが、「県市役所の職員賃金は国家公務員賃金を一〇%上回る」という自治省の再三の指摘に対し、自治体側から説得力ある反論がなされなかったことも確かである。

 もちろん、地方公務員の賃金が国家公務員を上回ってはならない、といったきまりがあるわけではない。組合がいうように、地方公務員の賃金の高いか低いかは、自治体の住民が判断すべきことで、自治省などが口をはさむ筋合いのものではないかもしれない。

 ただ問題は、自治省の人件費攻撃に強い共感を示した住民が、決して少なくなかった点にある。高成長下、財政に余裕のあるのをよいことに、自治体労使がなれ合いで賃金を引き上げてきたのではないか。そうでなければ、民間準拠の人事院勧告にそって引き上げられてきた地方公務員の賃金水準が、いつの間にか、国家公務員ばかりか民間をも上回りかねない状況など生まれるはずもない。

 こんな不信感に拍車をかけるような事例も少なくない。昨年、赤字再建団体に指定された福岡県・豊前市では、職員の六〇%までが課長級以上の賃金を支給されていた。昨年の賃金改正に際しては、自治体の課長補佐と民間の課長を比較して、やっと民間の賃金格差をひねり出した自治体もあったという。

 さらに、ヒラ職員を係長にというように上級職の等級に格づけして昇給させる「わたり」、勤務成績の特に良好なものにのみ適用される特別昇給を、全職員に一律に適用する「一斉昇短」、一定の号俸に達した職員全員に適用する「運用昇短」などは、ほとんどの自治体で、それこそ公然と行われている。まさにお手盛り昇給というほかはない。

 論争を仕掛けた自治省の意図はどうあれ、地方公務員賃金に抜本的改善の要があることは争う余地はない。まずたださるべきは、こうした「わたり」などのあしき慣行であろう。地方自治の今後のためにも、自治省の指導や介入を待つまでもなく、自治体自らが改善のメスを入れねばなるまい。それには、住民のより深い関心と、より厳しい監視が必要なことはいうまでもなかろう。」(1976年8月25日読売新聞社説「再検討の要ある地方公務員賃金」)

 

 この社説記事はこの(1)の問題に対するマスコミの姿勢の一部、及び「世論」を代弁し、問題の全体像をうまくまとめているように私は思う。まずもってこの記事では自治省の主張に一定の無理があり、自治労自治体)側にも正しさがあることを了解している。しかし、それにも関わらず、自治体側でも問題を抱える賃金問題について一定の解決を図る努力をしなければ、住民はそれを許さないだろうという言い方もされるのである。また、もう一点注目すべきは、この社説が都単独の批判を行っている訳でも、革新自治体について批判している訳でもないという点である。単体で革新自治体について批判している記事があるかどうかまでは確認しなかったが(※3)、少なくとも、そのような文脈で批判される中に東京都政が含まれていたということである。

 確かに日比野は財政健全化の議論をしているが、その議論はp103にあるように増税の議論に集中し、この社説で語られるような賃金是正については何一つ触れることがなく、むしろp120にあるような根拠でもって、全く避けようのないものとして語り、その中身については触れようとしないのである。しかし、当然美濃部都知事時代においても、このような賃金問題が存在していたのは事実である。

 

「しかし、労働組合は、特別昇給制度を生活給の一部とみなし、そうである以上、特定の人だけを昇給させず、公平に順番にみんなが昇給できるようにせよ、と職場交渉で局長や部長に迫った。だれが抜擢昇給されたか、それも明らかにされた。こうなると「アメ」のはずが「アメ」でなくなる。仕事ぶりに関係なく、職員のだれもが、五年に一回は三短の、十年に一回は六短のチャンスにめぐまれるのだ。その結果、都に入って実際には十年にしかならない人でも、ほとんどが十三年勤続ぐらいの給料をもらえるようになったのである。組合の力が強いところでは、今度はだれも特別昇給されるかまで、組合との話し合いによって決められる。」(内藤国夫美濃部都政の素顔」1975、p262)

 

 また、特に有能な人材の抜擢を図るために行ったとされる昇任もなかった訳ではないが、管理職の乱立が指摘されており、このような点も人件費上昇に加担していたこと、合わせて効率的な人材配置がそれぞれの部署でできていたのか、といった疑問は当然出てくる批判だろう。

 

「そのいずれもが、知事の「ツルの一声」とその後の強引なリーダーシップで誕生したものだ。そうする必要があるから作ったのだろうが、八年間をまとめてみると、作りすぎだなあ、という感なきにしもあらず。部局の新設は、必然的に莫大な経費増を伴うものだし、役所というところは、新たな需要に応じて部局を新設することには熱心だが、需要のなくなった古い部局を廃止することは、まず、絶対にしないからである。「親方日の丸意識」が身についているのだ。

知事がつくりすぎたのは、こういう部局などの機構整備だけではない。人事に関する第三の基本原則、若手の抜擢につとめるあまり、後輩に追いぬかれた先輩を処遇するための、「次長」とか「技監」、「理事」、「主幹」、「参事」などを、それは気前よく乱造したものだ。」(同上、p61)

「まず、局長級。美濃部知事が就任した四十二年には四十一人だったのが、いま九十五人。八年で二・三倍の増えようである。ついで部長級。四百九十七人から、いま倍近い九百七十三人に。課長職二千六百四十人から一・五倍の三千九百八十三人に。管理職合計で五千五十一人にふくらんだ。そして一般の職員総数は、警視庁、消防庁、教員、区職員を除いても、九万九千八百人から一・一八倍の十一万七千五百余人へ。

この間、都民は、千百八万人から千百六十一万人に。わずか一・〇倍という微増である。都民の数はふえていなくても、都民が要求する都のやるべき仕事が激増した、という言い訳もできよう。現にそういう面も否定はできない。

しかし、それにしても人口増に比べ、職員増、とりわけ部長職や局長職など幹部の増えようは、異常である。」(同上、p65-66)

 

 このような論調をみても、やはり大手マスコミが本書が言うような陰謀論に加担したものとは思えない。それなりに東京都は改善すべき問題を抱えており、それに応えようとしてきているように「世論」から評価されていなかったこと、それが概して「ムダの排除」であったことはそれなりに「世論」側にも正当性がある話であり、これを単なる政府・自治省の「世論操作」という次元で批判すべきではないだろう。

 この観点から唯一批判的議論の可能性があるとすれば、このような「ムダの排除」という態度形成を行おうとする(そして本書で言うような「増税」といった対応を必ずしも積極的に良しとしなかったといえる)日本の「世論」自体が持っているエピステーメーへの批判だろう。そして、この批判にあたりポイントになってくると思われるのは新堀通也のレビューで取り上げた「親方日の丸」言説の用法である。つまり、「親方日の丸」という形で官が批判される時、そこには「民間」が対比されており、「『民間』と同じ手法が使えるものは使うべき」という形でなされる批判が、いわば当たり前となっている状況があるということである(※4)。ただ、この考察こそ、その「日本の『世論』」を対象化し、比較可能にするまでの材料が用意されねばならない所である。

 

 次に(2)についてだが、これは端的に前提がおかしい議論を行っていると言ってよい。そもそも地方交付税交付金の主旨は地方交付税法第1条にある通り、地方間の格差是正のために支払われるためのものであり、「不交付団体」が理論上発生していないと格差是正にならない性質のものなのである。都議会でまで議論されていた「操作」の議論というのは、むしろ行われて当然の話であり、議論すべきであるとすれば「他都道府県の方が東京都よりも不交付団体として妥当である」ことの立証であったはずである。あくまで焦点は自主財源に関連する(4)の議論であり、(2)を批判すること自体が論点ずらし、更には国から金をもらうべきであるという「タカリ」に近いものであると言われても不思議ではない。本書はそれなりに実証的な議論を行っているようにも見えるが、同時に論点がずれた議論も行っている印象がこの例に限らず見受けられるといえる。

 

○財源調達と「国と自治体の役割分担」についてどう考えるか?

 

 恐らく政府・自治省の革新自治体潰しが最も妥当性を持つとすれば、(3)の対策債の起債許可をしなかったことにあるだろう。確かに新聞の論調に言われているように、自治体側の努力を行わない状況においては、追加で借金をすることについて許されるべきなのかという論点はあるものの、当時の財政難は本書が指摘する通り国レベルでも見受けられたものであるし、一時的な景気悪化に伴う起債許可は行われるべきだったのではないのか、という疑問は素朴にあるし、本書の主張も説得力がある。

 ただし、これについても実際どのような議論の上で不許可に至ったかは双方の言い分を聞かねばならないだろう。実際、次のような話は1969年の時点ですでにあったのであり、そこからの「改善」に対する評価なども無視できない点である。自治省による都の人件費に対する批判というのは、かなり前からあったものであると言ってよく、その対応等についての経過は押さえておかねばならない所である。

 

「政府・自治省は「都だけに〝治外法権〟は認められない。法を尊重せよ」と、きびしく、クレームをつけた。それでなくても、都職員の給与水準は国家公務員より平均二五パーセントも高く、高卒・勤続十五年で年間三十万円もの差が出ている、そんなにカネが余っているなら、都民サービスに回すべきだ、という論理である。ほかの自治体に広がることも恐れた。自治省の細郷道一事務次官は都の近藤龍一副知事を招いて「絶対に認められない」との「口上書」を手渡した。もし、それでも強行するようなら都債の許可を取り消し、都の財政実態調査に乗り出す、と警告した。」(内藤1975,p183)

 

 最後に(4)についてであるが、この論点はむしろ「自治体の役割」についても考える必要があるだろう。つまり、自主的に課税を行おうとすること(財源を増やすこと)自体の必要性が国と対比される「自治体の役割」から見てあるのかどうか、という観点である。この点について、本書の記述から少なくとも国(自治省)はそのような必要性を感じていなかったと解釈するほかないし、日比野自身もこのような役割のあり方自体には特に触れることなく、財源調達ありきの議論になってしまっているように思える。仮に地方自治体に必要な役割が部分的であり、国が行うべき役割が大きいと考えるのであれば、そもそもより課税可能な地方税制を整備する必要がそもそもなく、そのような要求はむしろ「ムダ使い」に直結しかねないということである。

 この必要性については高度な議論が必要であるが、一方でこの国の態度の取り方自体が与えた影響については評価する必要も別途あるようにも思える。つまり、地方財政は平等性の強い課税の考え方を強制してきた歴史があることと、中央集権的な日本の制度化は少なからぬ影響があったのではないのかという点、言い換えれば、この時期に東京都が累進課税を課さなかったことは、東京都の繁栄にとっては非常に都合が良かった可能性と、転じて他の(地方の)自治体にとっては不都合な結果になったことを国は促進したことになるのではないのか、という疑問である。

 この問題に対する70年代的解決法は田中角栄の「日本列島改造論」的発想による地方の振興だったのかもしれないが、このような地方分権を促進するインフラ整備を行ってもなおそれが十分でなかったという場合に、この平等的な地方税制自体が悪影響を与えていたのではないのか、と考えることもできるということである。本書ではこのことは「不利益」と評価しているが、将来的な観点から言えばかえって東京は「利益」を得て、巨大都市として繁栄を続けることができた、という可能性もあるのである。そして、そのことはそのような集権的な制度を推し進めていった国側の評価として検討することが可能なのである。

 

※1 但し、田原レポートは後述するように、地方自治体が全体としてマスコミで批判の対象となっていたことについて特段検討しておらず、あくまで東京都のみに批判をなされていた点についてだけ反論しているにすぎない。また、日比野のように美濃部都政についての問題点を無視している訳ではなく、特に緊縮財政に対して対応の遅さが問題であったと認めている(田原1979,p243-244)。

 

※2 この点、田原レポートでも政府・自治省以外の者が具体的にどう関わっていたのかについて明らかにしていない。ただ一点、このT.O.K.Y.O作戦に関わり、その作戦について説明した人物として、「ある大手広告代理店の社員」がいたという話があるだけである(田原1979,p230)。少なくとも、「マスコミ各社」という表現は、日比野が初出である。雑誌まで含めれば、確かに明確な協力関係にあったマスコミはあったかもしれないが、今回引用した読売新聞、そして本書で引用されている朝日新聞などは、直接的に関わっているとは考え難い。

 

※3 今回調べたのは、今後レビュー予定の本の関係で、1970年以降「公務員」という言葉が社説タイトルにつく読売新聞の記事のみである。ただ、その記事に限れば、下記のような例示はあっても、「東京都」「革新自治体」に限定した批判は行っておらず、「地方自治体」そのものが批判の対象として語られている。

 

「地方公務員の給与水準は、国家公務員のそれより平均一〇%高い。しかし、東京、大阪など大都市圏の都市になると三〇―四〇%高というところは軒並みである。例えば東京都下の府中市は五〇%、立川市は四〇%、大阪府守口市、牧方市は四〇%といった状態である。

 これが、こんど、さらに三〇%以上引き上げられるのだから、一般財源に占める給与費の比率は大きなものとなってくる。おそらく五〇%ぐらいになろう。こうなると財源の半分は公務員の給与に支出されてしまうわけだ。住民向けの行政費は、その分だけ食われてしまうことになる。これは地方行財政にとって重大な事態である。」(読売新聞1974年8月7日社説「地方公務員の給与体系是正を」)

 

※4 例えば、次のような形で民間との比較がなされていることが新聞記事からも確認できる。

「しかし、今回のベアに限ってみれば、公務員は民間にくらべて恵まれすぎているといった感じを抱かせる。なぜなら、総需要抑制下で民間企業が行っているような企業努力を、中央官庁、地方公共団体が実行しているとはみえないからである。」(読売新聞1974年10月25日社説「公務員ベアには行政合理化を」)

 

<読書ノート>

※筆者は都職員。

P6「先日急逝された法政大学の小島昭教授は、その著書『自治体の予算編成』で、予算編成における担当部局を中心とする行政過程や政治過程について、実権を持った実務担当者たちが、政府各省、とくに自治省の権力を後盾に、自治体内部の事業部局はもちろん、議会の各派議員やときには首長をも従わせる力を発揮する実態をよく描いている。そしてこの予算担当者たちが、自治体内部の地域住民からもっとも遠い奥の院にあって、自治体がその住民のために政策をどう進めるかというよりは、現行制度のワクの中で、国家財政に依存する財源と税など各種の財源をどうやりくりするかということが、彼らの行動論理になっていることも指摘されている。これは地域住民の存在は後回しにして、中央政府の意向に添うことを優先する予算編成ということになる。そしてこれは、何も予算編成だけとは限らず、税務行政を含めすべての財政運営に共通すると考えられる。これは財政運営担当者の責任というよりは、そのように担当者を機能させるシステム、すなわち地域住民不在のシステムが問題である。このシステムのもとでは、自治体の財政運営は、地域住民どころか、自治体内部の担当者以外のものにわからなくできているのである。」

P27「東都政から引き継いだマイナス面では、一般会計の赤字よりも大変だったのは、当時1日2000万円増えるといわれた都営交通事業の赤字とその財政再建であった。東都政のその再建案は、料金値上げと都電撤去や職員の給与抑制などであり、既述の多党化都議会で、社会・共産両党に公明党も加わった反対により、3回も提案しながら実現できなかった。ところが美濃部知事は、就任早々の都議会にこれとほぼ同じ内容の再建案を提案し、結局社会党自民党の賛成で可決された。ただこれに反対する学生が都庁に乱入して、委員会審議が混乱し、ついには警官隊が導入された。これは保守勢力への譲歩であったが、社共両党だけの少数与党の都議会と自民党政府の下で、革新都政を進める前途の困難を考慮した決断であった。」

※65年からの都議会は社会党が第1党のはずだが。

 

P37昭和47年2月都議会の所信表明より、新財源構想の関連…「ここでいう新しい財源とは、東京の集積の利益をうけているところに求めるというのが基本的発想であります。これによって東京への過度集中抑制や分散の効果もあわせて期待できるでありましょう。またこの新財源は、従来の国と地方の間の財源配分ばかりでなく、そのワクをこえて新しく求めようとするものであります。」

※これを東京都の裁量でやってよいのかは議論が分かれる所。

P44「政府は、48年を「福祉元年」と言って、この福祉拡大を国民に誇示したが、この看板は、その後2年にして、政府自らが、先進自治体の先行福祉批判キャンペーンをやって、あっさり下ろすことになるのである。」

P46「問題は新財源研の報告書のいうように、資本金の一定額以上を大企業として、その大企業だけに税率引き上げ=超過課税をし、それ以外の中小企業は税率を据え置くようなやり方が、地方税法の規定する不均一課税として法的に許されるか否かである。自治省は、この国会論議で、終始そのような大企業だけの超過課税は賛成できないと答弁した。租税法律主義という憲法の原則を持ちだして、都のやろうとしていることは、地方税法に定めている税率構造を変えるものだということも述べた。しかし自治省は、都のやろうとしていることは違法だと言うことはできなかった。そして最後には、参議院地方行政委員会で、社会党の和田静夫議員の質問に対する内閣法制局部長の答弁で、これは法解釈の是非の問題でなく、自治体の政策判断の問題ということになり、報告書の主張のとおりになった。かくて法解釈問題の難関は突破したのである。」

※出典はないが、昭和48年4月25日の答弁による。不均一課税そのものは認めるが、都構想の資本金5000万円以上は認められないというのは、この委員会でも総務大臣は一貫した主張。和田議員は態度が明解でない点を批判し続けているが、ここまですっきりした議論はしていると言い難い。

 

P67「しかし財政戦争となるとどうか。戦争というショッキングな言葉によって、複雑で理解の難しい財政問題を都民=地域住民の生活感覚に持ち込み、その制度の不合理、欠陥が都民の生活を苦しめることを訴える、すなわち都民=地域住民の被害者意識をかきたてようというアイデアはよい。それは従来の自治体の中央集権的財政制度改革についての、いわゆる三割自治論的な批判が、地域住民=国民にとって抽象的で、縁の薄い行政内部のものにとどまっていたところから抜け出し、地域住民=国民の土俵に持ちだそうという狙いが込められている。しかしその面で〝財政戦争〟の言葉を都民や国民の間に広げるには、〝交通戦争〟や〝ゴミ戦争〟のように具体的なものがないだけに、提唱者たる都側にそれなりの努力が工夫が必要であった。しかしそのような努力も工夫もなされなかった。それどころかほとんどの都庁幹部は、初めから財政戦争という言葉を嫌って、知事がいくら財政戦争を唱えても、口にすることはなかったのである。」

 

P76-77「それは美濃部都政終了後1年すこしたった『中央公論』9月号に載った田原総一郎氏のレポート「T.O.K.Y.O作戦の尖兵 鈴木俊一知事」によれば、1974年、田中内閣当時に企画され、期間としては5年ほどをかけ、とくにこの5首長のなかでトップの位置にある美濃部東京都知事を追い落とすことに力が入れられたという。当時の記者仲間にはかなり知られたことのようだが、マスコミが一役買ったものであるだけに、今もってよく明らかにはなっていない。」

P78「このタカ派キャンペーンは、自民党首脳部と自治省の現役およびOB幹部に大手広告社が加わって企画され、マスコミ各社が参加して行われたものと思われる。キャンペーンは、全国の自治体について、その財政運営における乱費の数々を指摘し、それが地方財政危機の原因であるというものであった。この槍玉に上がった自治体のなかで、美濃部都政を筆頭に革新自治体がとくにマークされていた。」

P80「国に責任があることも述べてはおり、美濃部知事がそのため財政戦争を宣言したことにも理解を示してはいるが、この社説は何の論証もなしに、都の人件費や先取り福祉が財政難の原因と断じ、いかにも唐突、性急の感をまぬがれない。私は、この社説の裏に、T.O.K.Y.O作戦の戦機を狙っていた自治省幹部の工作を感じる。」

※キャンペーンの一環なら、何故国の責任を追及するような内容の社説が書かれるのか。なお、社説は朝日新聞1975年1月22日のもの。

P82「このキャンペーンに、マスコミがこれほど大々的、組織的に協力した原因の一つとして、地方選挙と同じ4月に行われる春闘で、労働側の賃金要求を抑え込むことが、経済危機脱出の道を探る政府と不況・インフレで沈滞する財界・資本側に共通する切実な課題であったことがあげられる。」

※そもそも何故マスコミが労働者の敵になったのか考えるべきである。

 

P85-86「昭和50年度の全国自治体の地方税収入は、歳入全体の31.3%であった。これが三割自治の実態である。そして人件費の歳出全体に対する割合は36.9%であったから、平均的な自治体では、税収入よりも人件費が多いのである。税収入から人件費を払うことができる団体は少ないのであって、人件費が税収入の70%以下ですむ東京都のような団体は、その限りでは財政的に良好な団体である。」

※ただし、これは国基準により設置すべきとされ(※国庫負担金等から支出されていた)学校教員等の人件費も含めた数字であり、単純な比較に何の意味があるのかは別途検討されなければならない。

P99「問題は赤字の一定限度というその赤字限度額、いわゆる赤字ラインで、この法律(※地方財政再建促進特別措置法)の施行令で、標準財政規模に対し、道府県は5%、市町村は20%と定められている。どうして道府県と市町村の数字のこんな開きがあるのかが問題であるが、東京都の場合は、市の性格もあるので、この割合が5%よりやや高くなる。」

P99「まだ都に対してベースアップ対策債を不許可にした時点では顕在化していなかったが、その後、国家財政への大打撃が明らかとなり、政府は、50年度の補正予算で歳入規模の20%台の大量国債の発行、すなわち大借金に踏み切った。その後、この借金依存率はますます膨れ上がり、30%台に乗って、40%台寸前に達する。こういう事態の下で、20年前の古い物差しをそのまま持ちだして、自治体だけは、赤字が5%を超えたら破産だと脅かすのであるから、まったく地方自治は無視されていると言わなければならない。」

P103「しかしこの法人都民税と法人事業税の超過課税は、その後も悪化の進む都財政の収入増として寄与した。第2表のとおり、50年度の法人都民税の超過課税収入は63億円に過ぎないが、51年度にはこれが370億円となり、これに法人事業税の超過課税分を加えて671億円となり、一般会計歳出額の3.3%になった。その後の割合は表にみるとおり、鈴木都政になって増大し、いまでは毎年1000億円を超える増収をもたらしている。……これらの数字は、美濃部都政が、都財政を破綻させただけで、都財政の健全化の努力をなにも払わなかったと思っている人びとによくみてもらいたい。」

※第2表を見る限りは、鈴木都政になって一般会計歳出額が圧縮されたようには見えない。

 

P106「ただ美濃部知事が言っていることは、第1図でもわかるように、民生費が増えたといっても、都財政にしめるウエイトはいかにも小さく、これが都財政を危機に陥れたとは到底考えられない。また昭和40年度の都の民生費の歳出総額にしめる3.8%という割合は、同年度の都道府県合計の同じ割合の4.4%に比べても低かった。また53年度の都の民生費の8.3%という割合は全都道府県の同じ割合の6.0%に比べて高い。この割合の差2.3%が、都の民生費の支出水準の他の道府県に比べた高さを示しているといってよい。」

※塵も積もれば…の可能性はまだある。

P108 1975年の東京都による調査で、都の財政難の理由として、「物価高と不況のため 63.4%」「都の人件費が高すぎるため 50.1%」「節約をするなど、都の努力が足りないため 34.0%」

※これをもって「選挙を機会に行なわれた自治体攻撃、美濃部攻撃がかなり都民に浸透してきたことがわかる。」としている(p109)。まず、東京都の世論調査にも「節約」という言葉が登場しだしたことには注目せねばならない。そして、オイルショックに伴うこの「節約」志向が、統一地方選があった1975年と結びつくのかも要検討(これはそのままTOKYO作戦と関連付く)。

P111「すなわち政府は、50年度の地方税を前年度比23.5%、1兆6,893億円増の8兆8,850億円と見積もっていたが、法人関係税を中心に1兆0,632億円の減収が明らかとなり、この穴埋めと、政府の不況対策による公共事業費の追加などを合わせ、地方債1兆2,112億円を増発することになった。地方債は、当初の政府の抑制方針とは逆に倍増することになったわけである。

政府はこの事態について、オイル・ショックによる世界貿易の停滞・縮小が世界不況をもたらしているためであり、日本の経済だけが落ち込んでいるわけでない、これを脱するにはしばらく時間を必要とするなどと説明した。それを否定することはできないが、この不況と併存しているインフレによる物価上昇は、日本ではオイル・ショック以前からの政府のインフレ政策によって、狂乱物価といわれるほどの高騰となり、欧米諸国を上回るものになったのであった。50年度の26.0%増という大型国家予算は、この狂乱物価の後追い対策を強いられたものといってよい。ところがその財源のほうは、政府自らが世界不況と言っている経済情勢なのに、また49年度の税収入の落ち込みがすでにわかっていたにもかかわらず、この歳出の伸びに応ずる大幅な税収入を見込んだのである。これは大蔵省の見積もりの誤りというよりは、地方選挙を前にしての政府自民党の意図的な水増し見積もりであったといってよい。」

※根拠を示していないことを言い過ぎでは。

 

P111-112「この水増し税収で、政府は国家財政の危機を隠し、地方財政の危機だけをクローズアップさせて、その原因が自治体の人件費の使いすぎや、福祉のやりすぎだと、異例の大キャンペーンをやったわけである。とくに不交付団体である東京都や大阪府については、1,000億円足らずのベースアップ財源の不足につけこみ、都財政が破綻したと非難したり、都は財政再建団体になるより仕方がないと脅かしたりした。東京都はなんでも国の10分の1と言われる。ところがこの東京都の財源不足700〜800億円と比べて、国の歳入欠陥は50倍以上である。また財政規模の5%の赤字で再建団体だと脅かす政府が一ぺんに26%以上の倍金をすることになったのである。また東京都や大阪府のベースアップ対策債を不許可にした政府は、国債だけを財源とするこの補正予算で、平気で国家公務員50年度のベースアップを払うことにした。」

P117-118「さて50年度の都の一般会計の赤字は、3,000億円を超え、どうやりくりしても1,000億円の赤字とさかんに財政危機が叫ばれていたが、最終的にはそれほどでもなかった。その決算では、まず都税は、当初予算に対し、1,500億円といっていた減収が、1,096億円にとどまり、約400億円が浮いた。これは49年度の決算に比べ1.3%の減で、国税の同8.5%、1兆2,800億円の減と比べて、この不況による打撃は、都より国の方がはるかに大きかったことがわかる。したがって、当初予算編成の段階で、すでに述べたととおり、都税の13.5%に対し、国税26.0%とはるかに高い見積もりをした政府の責任は問われてよい。」

P120「オイル・ショックによる財政危機が、この4団体でひどかったもう一つの理由は、都道府県の場合、一般の職員の人件費のほか義務教育教職員の給料を支払うことになっており、第7表にあるとおり、市町村に比べて、歳出にしめる人件費のウエイトがずっと高い。当時あの狂乱物価のため国家公務員も地方も30%近いベースアップが決まっていたのであり、税収が伸びないなかで人件費の高騰が財政の重圧となったが、それは地方交付税の交付を受けないこの4都府県にとくにきびしくのしかかったのである。ここに49年度のベースアップ対策債を政府が許可すべき理由もあったのであるが、東京都と大阪府は許可されなかったわけである。しかし許可された神奈川県と愛知県もこれで十分なわけではなかった。かくて50年度に神奈川県、ついで51年度は愛知県、52年度は大阪府地方交付税の交付を受けるようになったのである。」

※もう一つの理由は法人税収入の減。都道府県税は1割減とするが、実際の減額幅(法人税歳入額)は示されていない。単純計算では都税一割は1000億を超え、予算上赤字は賄える計算。しかし、決算ベースでのデータが何故かない。

 

P131「この大牟田市の超過課税は、残念ながら1976年3月の市議会で否決され、実施できなかった。これを見届けて自治省は、同年5月、「固定資産税における不均一な課税について」という通達をわざわざ出し、すべての資産につき一様に税率を上げるのでなく、資産の所有者、種類、用途などを区別して、不均一な課税をすることは、法の予定するところではないとしたのである。……しかし自治省がこの時期にこの通達を特別に出したのは、もはや他にそのような動きもないところから、明らかに都の固定資産税の不均一超過課税阻止に狙いを定めていたのであった。」

P132「都に狙いを定めて出された自治省の通達は、同局のこの姿勢をいっそう頑なにした。同局の消極的な姿勢の理由は、一つはこれから述べる法人二税とは異なる固定資産税の課税技術上の問題であるが、もう一つは美濃部都政をめぐり自治省と都との関係が、法人事業税の超過課税を実施したときとこのときとでは、わずか数年の間に大きく変化していたことであった。ということは、政局はふたたび自民党の党内抗争で混乱していたが、かの大キャンペーンの成功以後自治省の力は強くなり、都庁幹部は、財政戦争の緒戦のとき以上に、知事よりも自治省の意向をより強く考慮するようになっていたのである。」

※技術上の問題に関連して、「ただ土地については、すでに述べたとおり地方税法によって、事業用と住宅用とを区別した課税が行われていたのであり、その実績に立ってやる気があれば、課税技術上の困難は克服できないものではなかった」(p133-134)とする。確かに戸単位だとビルなどは判断が難しい。しかし、一定の基準に従えば、零細企業は住宅用地扱いできたのが地方税法施行令の考え方であった(cf.p145)。もっともこの地方税の問題と固定資産税の議論を一律で見てよいのかはよくわからないが。なお、この議論には職員労働組合も住宅用と事業用を区別することを面倒と感じたとして反対に回ったとする(p134)。

 

P151「この時、『東京新聞』の行った世論調査によると、第1図のように、美濃部知事に対する都民の支持率は、49年度の59.5%から39.1%へと急下降していた。また不支持率は30.5%と支持率に迫っていた。そしてこの不支持の理由のトップが、「財政難をまねくなど行政能力にとぼしいから」で、不支持者の42.6%を占めて、他を圧倒していた。これは2年前の知事選のときの大キャンペーンが今もって都民の心をとらえていること、さらにその後の都財政の危機の対策として、財政戦争の再挑戦は失敗となり、機構改革をはじめとする内部勢力もそれほど評価されていないことを示したものであろう。」

※昭和52年4月25日の調査での推移によると、70年代前半は安定して支持率60%前後だった(p150)。

P157「また同党(※新自由クラブ)は、選挙公約で、地方分権の強化や起債の自由化を主張していたのであって、起債訴訟を支持するのが当然であった。同党がこれを支持すれば、起債訴訟案件は可決されたはずであった。同党が反対した理由として、都議会の新自由クラブの代表であった小杉隆氏が、「都からの働きかけがなかった」と述べたことは、おかしな弁解であった。これについてさきの田原レポートは、同氏に取材し、同氏が、この訴訟案に賛否いずれの態度をとるか悩んで、自治省の石原審議官に何度も会いに行った末、「つまり、美濃部の体質は非常に危険である、と。都庁は、肥大化し、人件費も高いしね……。だから訴訟案に反対した」と述べたことを紹介している。いかにも歯切れの悪い理由である。新自由クラブが、自治官僚の強い工作によって従来の主張を変えたことがわかる。

このとき都議会の自民党新自由クラブは、自治省へ行って、起債許可について、従来の一件一件審査する方式を、一定のワクを決めて、そのワク内では自由に起債ができる方式に改める〝確約〟をとりつけた、といわれたが、ここにも、都の起債訴訟を抑えるための自治省の工作が感じられた。」

※交換条件と見ているようである。

 

☆p159-160「結論的に言うと、当時の都財政の危機は、政府、とくに自治省によってつくられたものであり、美濃部知事に責任があるとすれば、この危機突破策について、同知事の意向でなく、自治省の意向を優先した都庁幹部、都庁官僚たちに対する指導力を失い、彼らの意見に従うほかなかったことにあると考える。」

※結局これが日比野の主論。しかし、根本的に疑問なのは、なぜ自治省に対する批判が結局利害関係者の誰からも出てこないのかである。日比野はなんだかんだで交換条件を出し、自治省が利害関係者を黙らせたと考えているが、それこそ美濃部知事などが語れなかったのかはわからないし、日比野自身の体験談として自治省からの圧力が語られることもまたない。

P167-168「この形式収支の赤字は53年度も続くが、52年度は、都道府県では、大阪府も形式収支が赤字で、その赤字額は71億円と都(※54億円)を上回った。また大都市では、大阪市の形式収支が赤字で、同市では1963年以来、15年連続形式収支が赤字であり、都政で初めてとしても、地方財政としては驚くにあたらない。とくにこの程度の少額の赤字は、決算の段階の操作で黒字にしようと思えば、それも可能という程度の赤字であり、都庁幹部が、都財政の赤字の深刻さを強調するために操作したと思えるのである。」

P176「知事の任期は余すところ1年たらすになったのであるが、5月に実施された『読売新聞』の世論調査で、支持率38.1%、不支持率42.9%と、美濃部知事不支持の都民が支持の都民を上回った。」

 

P185「まずこの報告(※新財源研の最終報告)は、地方交付税について、自治省があらかじめ東京都を地方交付税の交付団体にしないと決めたうえで、その算定を操作していることを明らかにしたのである。そしてそのような恣意的な操作がなければ、都に2,000億円から4,000億円の交付税が交付されることになるという計算を示した。そうなれば都は起債制限団体=財政再建団体に転落するどころか、実質収支でさえ黒字になってしまう。美濃部知事がさんざん苦しんだ都財政の危機はなかったということになるのである。」

P186「自治体側は、総額を増やすために、交付税率の大幅引き上げを要求したが、大蔵省側は国税が不足で、国債大量発行で穴埋めしているのだからこれを認めない。結局この地方財源不足額の約半分は国が資金運用部から借金し、後の半分は、地方債の増額で穴を埋めるという一時凌ぎが毎年のこととなったこともすでに述べた。」

※国が地方に金を出すのは当たり前という感覚のせいか、国債発行批判の議論と矛盾した話をしている。また、これまでの批判の矛先は自治省であったはずが、大蔵省が登場している。地方債の発行権限は自治省のみが絡む話だったのか?

P187「地方交付税はくれなくてもよいが、富裕団体論にもとづくこの不公平な扱いだけはやめてくれというのは、都の長年の要望で、昭和50年度以降の事態でも、都の財政当局の姿勢は変わらなかったのである。」

※この主張も、超過課税の恩恵を受けようとした態度とは矛盾するはずである。

P187-188「問題は、補正係数だけは、国会の議決を経ず、自治省の省令で改定されることである。ということは自治官僚が、国会や自治体、もちろん国民を閉ざした密室の作業で、この数値を操作できるということなのである。」

 

☆p188-189「私たちの調査によって、それは普通態様補正など、この補正係数を切り下げることによってなされていたことが明らかになった。この調査をもとに、新財源研の最終報告は、「各費目について、すべて44年度の補正係数をとって再計算しても、53年度の都の地方交付税は、2,932億円に達する」と分析し、「国は、都を地方交付税の交付団体にしないときめたうえで、需要算定を操作している疑いがある。」という断定を裏付けたのである。」

※これは50年度基準で53年度の算定をしても赤字を埋め合わせるものだという(p189)。都議会予算特別委員会昭和54年2月19日における資料も提示する(p188)。

P189「ではなぜ政府・自治省は、都に対して、このような意図的な算定をしたのか。その第一は政治的理由である。

 政府・自民党は、かの大キャンペーンによって「美濃部都政は、放漫財政のために、都財政を破綻させた」と初めに断定したのである。この断定を正当化するためには、東京都に地方交付税を交付してはならないのである。なぜなら昭和20年代以来、政府官僚は不交付団体=富裕団体として、都などを扱ってきた。ここで都の財政危機状況について正しく評価して地方交付税を交付すれば、都が富裕団体でなくなったことを認めることになり、さきの断定はくつがえるのである。」

※しかし、本書では放漫財政自体を否定する議論はしていない。また、今でもなお不交付団体であることをどう考えるかという問題もある。

榊達雄編「教育「正常化」政策と教育運動」(1980)

 本書は70年代後半を中心にした、岐阜県における教育正常化運動に対する批判を行っている本である。今回本書を取り上げたのは、過去にレビューした無着成恭が在籍していた明星学園中学の教育論争と同じ基軸で、本書で支持される「恵那の教育」批判を行う動きがあったこと、無着がその動きに対しては公にはほとんど沈黙を保っていた一方で、本書で取り上げられる「恵那の教育」と「教育正常化」の対立は広く市民・世論に問われ、その双方の主張が比較的明らかにされているという点で非常に興味深いと感じたからである。今後もこの「恵那の教育」の議論は深く追ってみたいと思うが、まず、正常化反対側であった本書の立場と想定される問題点を明確にしていきたい。

 

○正常化反対勢力と「保護者」との関係についてどうみるべきか?

 

 本書を評価する観点から極めて重要となってくるのは、「保護者」の位置付けである。本書の立場はp53及びその注として示したp68に明確にうたわれるように、教育労働運動観に支えられている。教育権の保障をするためには、当然保護者の教育権にも応じることが前提になされる必要があり、だからこそ教師と保護者は団結して運動に取り組まなければ、その結果は見込めない性質のものである。一方で、本書で語られる「第二次教育正常化運動」というのは単純な体制の問題でなく、協同されるべき保護者、はたまた一部の教員によってもなされている点に大きな特徴があり、それは正常化反対側にも明確に認識されている。(p30,p86)

 したがって、この正常化への反対というのは、常に本来団結すべき保護者とも対立してしまっているという問題を抱え込んでいるのである。これに対して本書の立場はかなり単純明快な見解を示しているといえる。つまり、大雑把にいえば、「正常化に賛同してしまっている保護者は、体制側の論理に染まりきっている」という見解である。これは確かに直接的に語られている訳ではないが、本書の立場を説明するためには、この結論を導くほかなのではないのかというのが正直な所である。

 

 本書の「正常化に賛同する保護者側」の代表である小木曽尚寿ら「坂本地区教育懇談会」の主張として何よりも押さえなければならないのは、かの明星学園母親グループの述べたのと全く同じ「わが子に将来社会人となったときの必要最小限の基礎学力を身につけさせてやりたい」という点である(p86-87)。ここには「学力一辺倒」の要求とは全く別のささやかな学力要求があると見て取れるのである。しかし、結局この主張は本書をみればわかるように全面的に否定されてしまっている。何故なら、このことを全否定しない限り、「体制順応」してしまうからであり、体制順応を否定した教育の自由こそ、本書が必要とするものだからである(cf.p96,p96-97)。

 

 また、ここでもう一点押さえておきたいのは、これらの主張が「教育法学」という「理念=理論」をタテにして展開している点である。そこにはほとんど実態に対する内省的過程というのは無視されている。少なくとも、本書から「恵那の教育」の実践についていかになされ、それについてどう評価しているのかということ、それが「学力」にどう結びつくかという議論は皆無である。これは竹内洋などのレビューでも議論した「旭丘中学」をめぐる議論において、特に反対勢力に都合のいい実態は語られることがないことと同じである。

 更に、この「正常化批判」側が実態に問題があるという認識が全くないという事実は、転じて本書の言う教育権の保障の議論の正しささえも疑問に付すことにも繋げることができる。つまり、この正常化反対側には内部で十分な批判と、それに伴う「自浄作用」が働く類の「自律性」を持っていないのではないのかという疑問が提起できるということであり、だからこそその改善を行おうとする「正常化」側の主張も正当化され、支持を受けることになったのではないのか、という疑念が晴れないのである。このような疑念を与えないためにも、本書は実態については特に言及せずとも、全面的に「正しい」とするほかなく、それが「正しくない」というような「正常化」に賛同する勢力を全て体制に組み込まれたものと主張するのではないのか。正直な所、このような一方的な態度しか取れない立場の者に、p94で言うような「相互理解」を行う余地があったとは考えにくいように思える。以上のような理由から、本書の立場は社会で生きるために必要と親が考えるささやかな「学力」も、排除されるべきものとして目の敵にするのである。

 

○本書が言うような「教育権」はそもそも必要なものなのか?

 

 また、保護者との関係性を考える上で見落とせないのは、本書のいうような「教育権」をそもそも保護者が望むのかという点である。読書ノートのp53にも書いたような問題を本書のいう「教育権」は抱え込まなくてはならないのである。この「教育権」が抽象的なものの極限にある概念であるがゆえに、何らかの具体的な専門性を求めるような性質を持ち合わせていないこと、そしてそのような専門性を欠いた状態で「保護者が求める教育」に応えること自体に無理があるのではないのだろうか。

 確かに、義務教育段階においてはここで言うような「専門性」は必要ないと考える方がむしろ自然かもしれない。しかしそうするとなおさら保護者は、義務教育に「多くを求める」態度になることなどなく、高尚な「教育権」など必要に感じないのではないだろうか。

 

 本書のような反正常化側は、このような態度を保護者がとること自体を認めることが理論上できない。むしろ保護者には「教育権」を求めるよう欲望してもらわないといけないと考える立場にある。そうでないと「教育権」を手に入れられないからである。ここでも致命的な点で本書の立場と、素朴な保護者の要望は対立要素を持っている。

 そして、言ってみれば「体制批判」という語りはこの潜在的な対立要素をまるで避けるかのように語られている節さえあるように感じる。この体制批判の論点は本来、保護者にとっては第一の争点になりえないが、結果的に「教育権」の争点を避けなければ、「教育権」という論点で保護者との団結というのは不可能という見方さえ可能なのである。

 

 

 今後のレビューの中で、この恵那の教育の議論において「保護者」は本書の立場と正常化の立場、どちらに与していったといえるかは丁寧に検証していこうと思うが、正直な所、ささやかな学力保障も考えようとしていないように見える本書の立場に一般的な保護者が支持していたとは考え難い、というのが私の正直な感想である。確かに本書で取り上げている「正常化決議」というのは政治的であり、思想の強要という側面がない訳ではないが、それ以上に、本書の立場を支持する理由もなかったのではないか、ということである。

 

 

○教師の「専門性」について

 

 最後に一点、本書の中で注目できるものとして、教師の「専門性」について取り上げてみたい。体制側が支持する「専門性」と区別し、本書のいう「専門性」が対比されており、その違いがp205にあるように「専門職の自律性」の有無にあるとする。もっともこの自律性は、あくまで「不当な支配」に服さない、という意味でタテマエ上語られるが、実質的には、「支配」は全て不当であるという前提に立った形で主張される自律性であるといえるだろう。

 さて、他の教育に関わる著書においてこの「専門性」がいかに語られているかを少し整理してみたい。

 

(1)「専門性」を無条件に肯定する形で述べられる場合

 

 基本的な傾向として、この「専門性」は楽観的にかつ素朴に語られ、その実質的な意味について特に定めている訳ではないということが言える。例えば次のような語り方である。 

 

 

「以上三つの方法には見てきた通り大きな問題があり真の解決からはほど遠いが、それではいったい妙手があるのと反問されると返答に窮するにちがいない。しかし私見によれば手の負えぬ子をどう指導するかというテクニックではなく、彼らをどう受けとめるかという哲学や姿勢こそが重要である。いやしくも教師が教育に専門家であり、学校が教育の専門機関である以上、手の負えない子どもこそ、その専門性を実証する最も大事なクライエントである。素人の「手」に負えないからこそ、病人は病院を訪れる。平凡な医師の「手」に負えない病人を治すのが名医たるゆえんである。手の負えない子が出現し増加し、素人が手を焼いている時代こそ、教育の専門家たる教師の力量を発揮する出番だといってよい。その意味から、この子どもたちは恐怖や敬遠や抑圧どころか、感謝のまとにされて然るべきである。」(新堀通也「「見て見ぬふり」の研究」1987=1996、p65)

 

 教師に専門性があるのは「あたりまえ」であるという前提に立っているが、いかなる意味の「専門性」がある(べき)なのかについては語られていないのである。この専門性についてさかんに語られることになった要因の一つとして、ILOユネスコの1966年の「教員の地位に関する勧告」が挙げられる。この勧告においても教職は専門職と認められているが、そこにどのような専門性が含まれるかは明確でない。このため市川昭午などはこの勧告について、「政治的妥協の産物の常として玉虫色の性格を有しており、多様な解釈を許容するものであった。しかし、そうあればこそ、立場や見解を異にする諸団体や諸勢力が、これに同調することができたのである。したがって、教職は専門職である、あるいは専門職たるべきだき主張する点は等しくても、その意味するところは必ずしも同じではなく、少なくとも強調点を異にしている。」(市川昭午「教師=専門職論の再検討」1986、p6)と指摘しているのである。

 

(2)教師集団の強調と「不当な支配」への批判

 

 本書の立場もそうだが、特に教育法学を中心にした「専門性」観というのは、もっぱら研究集団としての教師による専門性の向上を志向するものであった。そしてその中で時に「不当な支配」というものは否定すべきものとして語られている。

 

「このように子どもの発達にかかわる「教育的真理」を見きわめるところの教師の専門的力量(教育的専門性)を保有するには、何といっても広汎な教師・研究者の実践や研究の交換ないし相互批判が不可欠であり、それなしには教育内容や授業過程の創造は確保され得ないであろう。そして教師が、これら教育的専門性を自ら獲得するための実践や研究の過程においては、いかなる恣意的あるいは権力的な干渉も許すことはできない。そうでなければ教師(集団)の実践や研究の過程を通してのみ保障され得る子どもの能力の形成は阻害され、結局において子どもの学習権(発達権)は形骸化してしまうからである。

 そこで以上のような指摘からいえることは、まず教師は自らの研究、実践の過程において、科学的真実と芸術的価値に基礎づけられる教育的認識以外いかなる権力的拘束もうけないという自由、および教師の研究・実践のための教師集団・研究者集団の組織・体制を自ら自主的に組織しうる権利が保障されるべきであろう。」(佐藤司「学校の自治」兼子・永井・平原編『教育行政と教育法の理論』1974、p200)

 

「しかし、さきにも述べたように、教育労働は高度の専門性を有し、自主的な労働である。したがって、教育はまさに専門職である教育労働者が自主性にもとづいて展開さるべきものである。それ故に、教育の方法と内容は専門的知識をもち子どもと直接に接触をもつ教育労働者および教育者集団のみが決定すべき事柄であると考えられる。教育行政はそれに干渉してはならないものと考えられる。さらにそれとかかわりをもつ教育政策の立案、決定、教育行政の実施に対して、その教育労働者および教育者集団=教職員組合が参加することは教育労働者および教育労働者集団の権利であり、義務でもあると考えられる。すなわち、そのことが教育の自主性で守り、子どもの教育権を守り、教育を奉公をあやまらしめないための担保となるはずだからである。」(日本教育法学会編「講座教育法1 教育法学の課題と方法」1980、p201-202)

 

 ただ、このような議論が体制批判を含んでいる以上、持田栄一が言うように、その専門性が「止揚と超克」の対象となることは避けられないように思える。

 

「第三。さらに、もともと、教職の専門性原則は、教育における教職の組織原理であり、教師専門職論が労働の「熟練度分類」、精神労働と身体的労働の分裂といった資本主義社会に特有の労働の奇型化の過程を基礎として成立した「高級」労働力として教職を位置づけようとするものであるから、それは基本的にいって労働者階級、おしなべていって近代教育の全面的変革を志向する者にとっては止揚と超克の対象といわなければならない。最近では、「教師は専門職労働者だ」と理解することが一般化しているが、そこでいう教職「専門職」論は基本的には否定と止揚の対象としてとらえるべきである。

 しかし、そうはいっても、現行教育法制において、教師はわれわれを肯定する、しないにもかかわらず「専門職」として規定されている。したがって、当然、教育労働者運動は実践的であろうとすればするほど、「専門職としての教師」のあり方をとらえかえし、それに新しい意味を与えることから出発しなければならない。とくに、現在「上から」構想されている教師専門職論が、教師聖職論へとつよい傾斜をもったものであってみれば、教育労働者運動が現段階におけるさしづめの要求を教師専門職=労働者という形で提示し、「上から」の教職「専門職」論とは異なった形で「専門職」としての教職のあり方を保障していくことは首肯されるところである。

 このような情況を考えると批判教育計画においても、教職を「専門職」としてのあり方を少しでも「改良」することが当面の課題となる。」(持田栄一「学校の理論」1972、p273) 

 

 このような止揚の発想は基本的に新たな意味を求めると同時に古い意味を否定することになる。しかし、このような議論も「本当に具体的な新しい意味を求めているのか」という疑問を提出した場合には、先述のようにその意味が明確に定義されることなく漠然とした形になる傾向がそもそも強いとも言えるのである。

 

(3-1)「専門性」そのものへの懐疑と否定

 

 しかし、このような専門性の議論は80年代以降、強く批判の対象となっていくことになる。その方向性はいくつかの理論的帰結に対応したものになっている。

 まず一つ目は、専門性そのものを否定する立場である。これは脱学校論的発想にも繋がるものであり、「学校に専門性などいらない」とするか「学校などいらない」という形で、教育の専門性を廃棄しようとするような動きであったといえる。

 

「教師たちは「教育的配慮」とか「教育的専門性」という話を、自らの禁句とすべきなのだ。一人ひとりの子どもたちよりも、学校教育制度のほうが大事にされる体制のなかで、自らの行為を自己チェックできるために、これが必要な最小限のよりどころだろう。そして、教育の専門家支配を崩し、しろうと支配に道を開けることを受け入れるべきではないか。学校の運営はもちろん、教員免許を持たない生活者たちを〈教師〉として一定の比率で迎えに入れるとよい。」(太田垣幾也、長谷川孝「学校から「教育」を追放しよう」1981、P123)

 

 ただし管見の限り、この動きは80年代に少し見られた程度で90年代以降はまじめに議論されていたとは言い難いマイナーな部類にあたると思われる。

 

(3-2)体制側の専門性として再構成をはかる議論

 

 2つ目に(2)の動きを理解しつつ、その批判を行う中で体制側の「専門性」の重要性を説く立場である。

 

「ところが、教員たちが、自分たちは専門職であるとして、それにふさわしく遇されることを求め、彼らにとっては未だ不十分であるにしても、その要求が順次実現されてくるにつれて、従前のような口実は次第に通用しなくなってきた。世間は教員たちの弁明をかつてのように同情的に聞き入れなくなり、処遇に応ずるだけのアカウンタビリティを追求するように変わってきた。権限に見合うだけの責任が、自律性に見合うだけの職業倫理が、そして給与に見合うだけの働きが求められるようになったのである。」(市川昭午編「教師=専門職論の再検討」1986、p17)

 

「すでにこれまでの論述によって明らかだと思うが、今日、教育改革のキーワードとして学校の自律性が強調されるのは、これまでの教育行政批判の理論が主張してきたような専門家教職員の自律性への信頼と尊重を説くためではない。むしろ逆に、それは、専門家教職員の自律性が実際には学校の閉鎖性に帰結していることを批判し、さらに学校をめぐる問題を教職員の専門家としての職務遂行における責任として、これを厳しく問うというものに他ならない。こうしたことは、学校の自律性を強調する教育改革の具体的なプランが、学校管理責任の明確化であり、校長の役割の強調であることに、明瞭に現れている。

 では、学校の自律性は、学校の管理体制を強化するための口実として強調されているに過ぎないのであろうか。そうした見方もまた、一面的であるように思われる。なぜなら、こうした理解は、かつて教育権論の生成において、教育の荒廃が国家権力の政策の結果と把握されたのと同様に、依然として政府による教育政策が教育の全体を支配し、統制しているとの前提に立っており、それは教育の問題を「国家権力の政策の結果」としてみるという思考態度によっているからである。」(黒崎勲「増補版 教育の政治経済学」2000=2006、p207)

 

 黒崎については、「教職員の自由な活動が、無責任な活動として、むしろ教育問題の原因であるとする意識が広がっていると言っても言い過ぎにはならないような状況である。」(同上、p207-208)という風にも述べるが、既存の教師(正しくは教育法学的な意味での専門性を強調する「教師集団」)の主張が不十分であり、そのような立場からは「責任」を引き受けることができないという点から「専門性」の必要性が語られることになるのである。これは80年代以降の「専門性」論の基本線だったのではないかと思われるが、やはり前提にある「専門性」については漠然としていることに変わりはない。

 このため、この曖昧な「専門性」の議論は実態と理念の乖離の問題と混同されやすくなり、常に批判にさらされることにも繋がり、それが転じて体制側云々が関係なく「新たな専門性」を求める動きという主張と共に議論され続けることになることが避けられなくなる。

 

「ここで教師の責任とは何なのかを考えてみる必要がある。教師である以上、学習指導要領で定められ、必要だと思う学習内容を、子どもたちにしっかり身につけさせなければならない。それが自分たちの専門性であって、それを全うするのが自分たちの責任の第一だと考えている教師が多い。だからこそ発達生涯の子どもに対しては「責任がもてません」と言う。しかし学校は子どもたちに将来必要となる力や知識を身につけさせるだけの場ではなく、その力や知識を使って誰もが「ともに生きる場所」だとすれば、学校のはたすべき責任はまったく違ったかたちで意識されてくる。……

 親が自分の子に障害があるとわかったとき、「私は専門じゃないので、この子の子育てには責任がもてません」などとは、もちろん言わない。家庭はそれこそ親と子が生活する場所だからである。病気にかかれば医者に診てもらうように、そこでも「専門」が求められることはある。しかしそれはあくまで、ともに生きていくために利用する「専門」であって、外にお任せして排除する「専門」ではない。」(浜田寿美男「子ども学序説」2009、p161)

 

 

(3-3)学校における専門性を限定化する議論

 

 最後に教師の専門性について限定的に捉えようとする立場である。この立場の批判は(2)の直接的な批判というよりも、無条件に専門性を定義する性質に対する批判として、その弊害を指摘しながら専門性が語られることになる。

 

 

「今まで見てきたところでは、校則や懲戒についての学校・教師の裁量権は極めて広く、ほとんど自由裁量に近い。それは一つには学校・教師の教育専門性を裁判官が信用したからであるといえる。つまり、教師の専門性が高いからという理由で裁判官は生徒の人権制限を承認する。あたかも教師の教育専門性が高ければ生徒の人権制限は問題にならない、といわんばかりである。」(坂本秀夫「校則裁判」1993、p194)

 

「教師の教育専門性といっても教師の教育活動のすべてに高い専門性が発揮されるわけではない。教科教育の専門性と生活指導の専門性は全く異なる。とりわけ、ここで問題になっているのは校則決定、指導の専門性である。本来、校則は生徒を恒常的に規制する生活規則である以上、当然、生徒の人権・権利を守り調整するためにある。そのためには生徒参加が、規則の内容に応じて構想されなければならないし、生徒に助言するために教師の専門的知識、人権・権利意識の高さ、組織指導力がフルに発揮され、教師の専門性は、生徒・親の人権・権利保障に役立つはずである。」(同上、p194-195)

 

 

 この立場に立った場合は、専門分化という形で学校教育を捉えることとなり、教育の役割も学校だけではなく、家庭や地域にも分散する形で議論が展開されることになる。本書の「教育権」に支えられる専門性というのはまさにその無尽蔵さから「教育にかかわるものは全て教師に委ねることが正しい」という選択肢しか結局見いだせないようにさえ見えるものであるが、このような前提そのものは否定されるということである。特に90年代以降においては(2)の枠組みは消失し、(3-2)及び(3-3)の枠組みで教師の専門性について語られている傾向を見て取れるように思う。

 

<読書ノート>

 

P5「いま一つは、岐阜県西濃地域での教職員の実践・運動である。この地域の大部分の教員は岐学組に加入しているが、この岐学組の執行部が展開している運動は言葉の厳密な意味での運動とはいえない。というのは、その運動の目標が「教育『正常化』の完遂」に置かれているからである。それは、「学校運営への父母・住民に対する、ひいては一般の教職員に対する、学校運営の閉鎖主義・秘密主義を一段とつよめようとする行政施策に手をかす「運動」にほかならないからである。そのために。この地域では、県議会によって「正常化」決議があげられたことが、教職員・父母・住民のあいだで話題となることもなかった。」

 

P18「「付知町教育正常化町民会議」が結成されるのは、1974年9月K小学校の理科屋外学習中に、1年生の子どもが水死するという事故を契機としていた。「正常化町民会議」によって、教育に対する攻撃は組織的・計画的に行われるようになった。K小学校の一部の父母によって、水死事故は生活綴り方教育に原因があるとして、学校の教育方針の変更を求める署名活動が行なわれている。そのほか、地域子ども会、町教育研究会に対しても批判が繰り返され、また子どもの手紙という形をとって、県教委に投書が行なわれている。」

※一見関係性がわからないが、これは結局p93にあるような前提があれば納得のいくところである。

P19「そして「地肌の教育」を支える大きな力は、「民主主義を守る会」であった。すなわち、「地肌の教育」は父母・地域住民によって支えられているのである。1960年代の教育政策の矛盾が集積し、1970年代に入り、ますます進行する教育荒廃の状況は、恵那地域にも現われる。」

※「全国的な教育政策・行政の動向がある。1970年以降ますます深刻の度を深めている地方財政の危機は、教育行政の中央集権化を強化し、教育の荒廃をもたらす物的基礎となっている。」(p19)

P19-20「教育については、1960年代に打ち出された人材開発政策の一翼を担ったのが、全国一斉学力テストであり、学力テスト体制であった。それらの理論的根拠として能力主義が主張され、能力主義の制度化として高校多様化政策が進められた。しかもこうした差別・選別体制は、受験戦争と結びついて強力なものとなるのである。他方、学習指導要領の法的拘束力の主張が文部当局によって行なわれ、教科書の検定・広域採択化が強化され、教育の国家統制は実質的に進められた。そして1968年版学習指導要領は、内容の詰め込みすぎ等のため、「落ちこぼれ」の原因の一つになったといわれる。」

 

P21「このように、第1項目から第3項目までは教育内容・方法の問題であり、決議の書き出しが、教基法1条がほぼそのまま書き写されていることと裏腹に、教基法10条の精神からいって県議会がかかる決議をすること自体が不当なのである。決議がそのとおり現実化すれば、知事および教委が抜本的改善策を講ずることになるから、知事および教委が「不当な支配」の主体として立ち現われることになる。また、決議が学校・教師の教育活動を事実上拘束するとすれば、それは「不当な支配」にあたる。」

※このことを極端に言えば、教育内容・方法について「教師の勝手」がまかり通ってもよいという風にも読める。

P30「恵那市教委のこのような態度の変化は、逆に県教委も当初は、「正常化」に必ずしも積極的ではなかったことをうかがわせるものである。いずれにしても、1978年2月には県教委・市町村教委とも、「正常化」政策の積極的推進の主体になっていたのである。県PTAには、県の方から君が代・日の丸推進の要請があったが、県PTAとしてそれに積極的に応える動きはしなかったといわれる。しかし、恵那市では、当時ある小学校PTA会長によれば、市の連合PTAでは君が代は当然であり、そのような方向でやっていこう、と申し合わせをしやとのことであり、またあるPTA役員によれば、そのPTA以外に君が代・日の丸導入の強制に反対したPTAはなかったとのことである。地域組織については、「正常化」決議の背景にあって、その契機の役割を果たしたのが、前章で述べた「坂本地区教育懇談会」であり、その先駆けとして「付知町教育正常化町民会議」があった。このように、住民のなかから「正常化」推進団体が起こっていることは、第二次の場合の特徴である。ただ、それらの組織において、中心的役割を果たしている人たちが、住民のなかのどのような層を代表しているかは問題である。」

※これに対して、60年代前半の正常化運動では、「県教委事務局・地方事務局が中心になり」(p29)、地域によっては「PTA幹部、地域有力者等が加わっている」とされる(p29)。

 

P34-35「業者テストによる教育批判は、それが現に果たしている役割、すなわち受験準備教育を過熱化し、差別と選別の体制を客観的合理的にみせるためには、教育内容の標準化・規格化が不可避となる。その標準化のための基準となるのは、学習指導要領なのである。したがって、業者テストによる教育批判は、それが現に果たしている役割、すなわち受験準備教育を過熱化し、差別と選別の体制を客観的合理的にみせるためには、教育内容の標準化・規格化が不可避となる。その標準化のための基準となるのは、学習指導要領なのである。したがって、業者テストによる教育批判は学習指導要領による教育内容統制、すなわち教育内容の国家統制につながっていくわけである。実際に当該批判者たちは、学習指導要領に基づく教育をするよう主張しているのである。また、以上のことは父母・地域住民の要求に応える地域に根ざした教育、学校そして教師の教育課程の自主編成を否定することになる。教師の教育権を否定し、教職員と父母・地域住民との結びつきを切断するわけである。教職員相互による自主規制は、このことをよりいっそう進めることになる。「正常化」は一部「住民」の要求に応えるかのようにみせながら、実は父母・地域住民の教育権を否定し、教育における住民自治を否認するものである。」

※この自主編成そのものが問題視されているので当然対立する。そして注目すべきは業者テストと学習指導要領がイコールになってしまっている点である。これは学力と呼ばれるものそのものを等しく考え、かつそれを否定しようとする態度と読み取れる。

P37「振り返るに、今回の攻撃がなぜされたかは、それなりの必然性がある。……いま1つは、逆に、東濃の生活綴方教育を軸にした「地域に根ざし生活を変革する教育」が各地に影響力をもちはじめてきており、これが父母・地域住民との連携を深めてきたことに対する、当局側のあせりであり危機感である。つまりは、「教育の住民自治」への恐怖感でもある。」

 

P53「教職員労働者が職場や地域において教育権・職務権限をうち立てていくのは、そうすることなしには、子どもの学習権・発達権を保障していくことも、父母・住民の教育請求権にもとづく教育要求にこたえていくことも、不可能となるからである。とりわけて、第一次的・本源的な教育権者たる父母の教育負託にこたえることが不可能となるからである。そうだとすれば、教育闘争は、教育労働者の独自的闘争としてではなく、教職員労働者団結を核とする住民的団結の闘争として、教職員労働者と父母・住民との共同闘争として、組織され展開されなくてはならないと、こういうことになる。」

※これはいかなる意味で正しいのか?なぜ逆は真ではなくなるのか?これについて次にように説明がなされる。「もともと経済闘争(労働基本権の行使)は賃労働者人間が自己の人権(=生存権)を確保していくための闘争である。それに比して、専門職賃労働者が自分の直接責任で他者の人権(=教育を受ける権利)を保障していかなくてはならないという、その専門職的職責に由来するものである。教育権の確立を専門職賃労働者に要求するものはまず他者である。教育権の確立は専門職賃労働者自身の要求でもある。とすれば、教育闘争には、他者たる依頼人・負託者と専門職賃労働者自身とが共同し団結して取り組んで当然ということになる。」(p68)

言ってしまえば、この教育権論者たちの前提には、このような論理構成によって教育権が「保障」されることが前提になってしまっている点が致命的に誤りである。これはここでいう「専門性」とは何かという問いにも問題が含まれているが、そもそもそのような「教育権の保障」が「全ての教員に等しく存在する」ものと考えるような平等思想こそ問題なのである。そのような包括的な観点を教員に等しく求めようとすること自体が誤りであるということであり、それを求める運動もまた問題である(その運動の存在意義がないという点で問題である)ということである。端的にそれは「不可能」であると呼ぶしかなく、学校教育において親が求めているものもそのような性質のものと考えづらいということである。スポーツのスペシャリストであるコーチのような者に期待するならともかく、どこまでも「一般化」し「具体性のない」教師に何を「他者」は期待するのだろうか。

 

P55「一方で、「教師=専門職」論を採用し展開しながら、他方で、その専門職者教員の労働内容・労働条件・教育条件・研修内容などについて管理経営権者が自由に決定できるといっているからである。いったい、その労働内容・研修内容についてまで「職務上の上司」が自由に決定できる、そのような管理経営体制下に置かれた「専門職」が「聖職」「専門技能職」以外の職業でありうるとでもいうのであるか。どのような「校務」でも「職務」として分掌させることができるし、その「職務」処理の仕方についてもどのような指示をも行うことができる、このような労働管理下でもまお教員は「専門職」であるというなら、専門職はもはや雑役職=単純労働職以外では断じてありえない。」

P59「しかし、そのような行政批判の行動=運動を起こすことは、親たちが「子どもの問題で話し合うことをしなくなった」状況下で、著しく困難となっておる。親たちは、学校に向けて積極的に教育要求をだすことをためらうようになり、むしろ学校側からの要請に従順にしたがい、「わが子の問題はわが家で解決する」ようになっている。親たちの学校観そのものが変質し、「教育を父母・住民の手で」創造する実践・運動からますます疎遠な存在となっている。」

※違うのか??また、時短方針など、責任所在を回避する行動は日教組からも出ていたはずである。最大の問題はこれを体制側の策略として責任転嫁している点。これもまた「自分たちが何をやってきたのか」を顧みようとしない態度の現れ。

P59「というのは、父母・住民の教育人権意識は、一般に、教職員労働者の「助け」をまってはじめて成長するものであり、教職員労働者の権利意識が衰弱していけば、そのような「助け」はできないからである。」

※教師はどこまで偉いのか。

 

P81「「正常化」推進側は、教育内容・方法にかかわることを市議会で問題にし、教育長に質問書を出し、教育行政に自分たちの都合のよい教育内容・方法にするよう要求しているわけである。親たちのほうから、教育行政に教育の内的事項に介入する「不当な支配」の主体として、立ち現われることを要求しているのである。このことは、親の教育権意識によるかのようにみえて、そうではなく、親の教育権の放棄であるといわなければならない。」

※このような主張は親の主体性を決して認めようとしない態度の現れでは、仮に体制側に従わなくとも、p59にあるように教師により親は主体化されるものとされる。そして、教育権とは何かという問いもたてなばならない部分である。

P81-82「中津川市教委・学力充実推進委員会・教育研究所による調査報告の小冊子『中津川市小・中学生の学力実態』(1978年3月)において、全国水準と比較して市の小・中学生の学力が低くないという結果が示されていることに対して、業者テストの内容が、公平であり客観的であるという考えを前提にして、示された結果も業者テストによるものでないから信用できないと批判しているのである。」

※この批判の出典は坂本地区教育懇談会の1978年6月18日のビラによる。

P82-83「こうした考え方の根底には、人間の「人格はまず学力(知識)で推し量られる」という人格観があることがうかがわれる。また「遊び」や「労働」が子どもの成長に必要なことは認めるが、それらは「家庭」の守備範囲であり、それらと教育を結びつける「地域活動」等に力を入れすぎるから、「学力」に不安を抱くことになるという。……そして、こうした非常に一面的な学力観によって人格を見るのである。かかる一面的な学力観に基づく人間観が、いかに多くの子ども・青年の心を傷つけ、あるいは非行、あるいは家庭内暴力、あるいは自殺を生み出してきたかをまったく理解していないといわざるを得ない。」

※小木曽が参照されている。

 

P86「1963年をピークとした「第一次正常化」のときとは異なり、今回の「正常化」は、それを推進することを求める一部の教職員、親の運動を基盤としているところに、特徴がある。たとえば、県議会において「正常化決議」が採択される以前に、すでに1976年12月の中津川市議会においては、「坂本地区教育懇談会」の問題提起に基づいて、いわゆる「恵那の教育」の是非について議論がなされている。「決議」はそうした東濃における教育論争の延長線上にあった。」

P86-87「それによれば、坂本地区の小学校における授業時間の実態を子どもを通して調査した結果、そこでは「地域重点の教育活動」が、時間割りをまったく無視した形で展開され、そのために「学校本来の使命である授業や、学級としてのまとまりが軽視され」ている。教師の努力の大半は、地域重点の教育活動にむけられ、「専門職としてに教科や研究に向けられていない」。また、岐阜県下で実施された高校進学模擬テストの成績をみると、5教科総合で全県平均よりも中津川の平均点は35.8点も低く、それだけに「小学校における基礎学力の重さをひしひしと感じない親はいない」。「今までPTAの懇談会で基礎学力向上を望む多くの父兄の切実な要望が出されて来」たが、「それらはいつも少数意見として無視され親の願いは生かされず、年を重ねる毎に地域重点の教育はますますそのウエイトを増して来」た。そこで、「わが子に将来社会人となったときの必要最小限の基礎学力を身につけさせてやりたい」という親の願いを学校教育に反映させるために、「同じような考えの人たちの参加を得て、その連帯意識のもとに」懇談会を結成することになった、ということである。「懇談会」の具体的な目的は、坂本地区の、ひいては中津川・恵那地域における小学校の教育を、「地域重点」から「基礎学力」重点に「改善」することを、「実際の行動」によって求めていこうとするものであった。」

 

P88「6月には、「みんなで考えよう 中津川市の子ども達の学力は本当に高いのだろうか」という新聞折り込みビラを中津川市全域に配布した。これは、中津川市教育委員会・教育研究所・学力充実推進委員会が発行したパンフレット「全国水準と比較してみた中津川市小・中学生の学力の実態」に中津川市の小・中学生の学力は全国水準と比較した場合、必ずしも低くはないとされているのを批判し、改めて中津川の教育に対する「懇談会」の見解を市全域に紹介し、坂本という一地区の問題としてではなく、全市的なものとしてその活動を広げていこうとするものであった。

このような「懇談会」の活動は、当然マスコミからも注目され、さまざまに取りあげられていった。「懇談会」設立は、11月10日いち早く報道され、「正常化決議」以後、東濃の教育に関する論調が活発になるなかで、従来の教育のあり方に見直しを迫る意見を代表する団体として、盛んにマスコミに登場することになる。ここにその一例をあげれば、1977年8月に8回にわたって連載された「問われる教師像――中津川市からーー」(毎日)、記事「正常化決議に揺れる岐阜県の教育界」(1977.10.14.朝日)、雑誌『教育の森』1977.10,11月号、N・H・K総合テレビ「揺れる恵那の教育」(1977.10.27)、同教育テレビ「まがりかどに立つ人間教育」(1977.12.21)、雑誌「世論時報」1977.10月号、などがある。さらに「懇談会」の代表者である小木曽尚寿氏は、岐阜県における「教育正常化」の推進を基本的運動方針としてかかげている岐阜県学校職員組合の上部組織である日本教職員連盟の機関紙『教育・創造』に、「親から見た恵那の生活綴り方教育」(第3号、1978.12)、「学校教育へ親からの切なる願い」(第4号、1979.6)という文章を寄稿している。」

 

P89「このような一般的な要求は、親だけではなく教師のものでもあり、多くの良心的な教師は、この要求に応えるための実践に日夜取り組んでいる。東濃の教師たちは、そうした教育実践の先頭に立ってきた。」

※教育実践の狙いとして石田和男の説明を引用している。

P93懇談会パンフレット1977.5.20から…「あるクラスにおいては正規の授業以外の特別活動が60%を越え、そのほとんどが生活綴り方や、地域子ども会の関連行事で、いわゆる基礎学力とは直接関係のない時間に費やされている。その結果、当然のことながら小学校において最低限どうしても理解させておかなければならない国語や算数に関する基礎学力は確保されず、それが中学校へ進学した場合の大きなハンディになっているのではないか」

※特にこの指摘に対する否定はない。また、「相互の理解を深めることを避け、自分たちの見解を絶対的なものとしながら、市議会や県議会、教育委員会や校長に働きかけて権力的・政治的にこの問題を処理しようとしたのであった」とするが(p94)、そもそも話を聞く耳がなかった可能性には言及がない。

☆p96「「懇談会」の代表者小木曽氏は、はっきりと次のように述べている。「会社にしても官庁にしても、新しく人を採用するとき人格をこそ大切にする。その人格はまず学力(知識)で推し量られる。このことはもう何十年も続いているしこれからもそうであろう。ということは例外もあったが、そういうことで選んでも大きな間違いがないということを立証している」。

果たしてそうだろうか。人間人格を一片のペーパーテストの結果によって判定することは、確かに戦後日本社会の支配的潮流として存在してきたし、現在も存在している。しかし、これまで続いてきたという理由で、それは是認されなければならないことなのだろうか。」

※この批判は極めて重要な掛け金となる部分。そもそも社会の追随を正常化批判派は認めていないのである。

 

P96-97「結局、「懇談会」の主張は、現実がそのようなものである以上、学校教育が何よりもまず果たさなければならない基本的課題は、そうした受験競争に勝ち抜くだけの「学力」を子どもにつけてやることである。教師はそのための具体的手だてを実践でもって示せ、ということであった。

このような観点に立つ「学力重視」の要求は、中津川の教師たちにとっては受け入れられるものではなかった。彼らが追求してきた「真の学力」のための教育は、まさに、そうした現実の教育体制のひずみから、子どもたちを解放しようとするところから出発しているからである。」

※「学力重視」などというが、実質的には「学力は無視しろ」という結論しか導き出せないのではないのか。懇談会の言う「最低限の学力」さえ認めようとしていると考え難い態度に読める。

P97「今日の子どもたちの、具体的な状況から出発しようとするとき、多くの親や教師は、今日の支配的な教育体制のもとでは、一度失われてしまったらとり返しのつかないような、子どもの成長にとって欠かすことのできない大切なものが失われつつあるのではないか、という危惧を抱いている。すなわち、本来人間として当然養われなくてはならない感覚、感性、創造力や表現力、想像力、論理的思考力や抽象力、自主的判断力、あるいは学習に対する積極的意欲や学習することに伴う喜びの体験などが喪失しているのではないか、という心配である。」

※具体性こそ、否定の対象!

 

P100「結局「懇談会」は、公教育における教育課程の機械的・画一的解釈のために、教育課程編成にかかわる教師集団の、そしてそれを支える父母の積極的役割を、否定することになったということができよう。」

※やはり常に当為論的な議論しかしない。

P111「「学校事務に教育的判断が必要か」という設問をたて、「学校事務の教育性認識」を調査した。その結果は全県で93%が「必要である」と答えた。」

※が、この教育性については何の意味も言及されていない。

P120「恵那の事務職員が地域子ども会・分団会へも参加していることについては、先にふれた。その際には、彼らは、学校からそれぞれの町内ごとの子ども会へ出かけるのである。子どもをとりまくすべての問題状況に対する鋭い洞察力と子どもに対する学校職員としての責任の自覚とが、彼らをして地域子ども会へ向かわせるのである。そこでは、地域での仲間づくりを中心にすえながら、キャンプ、ソフトボール大会等の地域行事に参加する。」

P143「他方、国家独占の教育政策が「高度経済成長」を支える教育投資としての「人的能力開発」政策をすすめ、第三の教育改革と称する中教審路線を設定し、子ども・教師・親をあげて国際経済競争の要因に教化・管理・訓育しはじめるのも、また40年代である。」

P144岐教組の主張…「平和と真理、真実を求める民主教育の実践とそれを地域に根づかせ、父母とともにおし広げていく教育運動は、支配の側にとって大きな恐怖であり、この民主教育をおしつぶし、父母と教師を分離・離反させようというのが、『教育正常化』決議の本質であります」

P145「弱さ・あせりの反映という点では、次の事柄も見逃せない。つまり、学力の低下、非行の多発にせよ、これは、逆に、第一次「正常化」と中教審路線のなせるわざであり、実は、県当局自身に課せられる責任であるということである。だからこそ、その自己責任を他者=教組・教職員に転嫁せざるを得ない矛盾につき当たって、なりふりかわまず攻撃する破目に陥っていることである。」

 

P166「今日の退廃現象をもたらしたものが、戦後の民主教育の理念をことあるごとに否定し、経済優先・大企業の利益優先を基軸にした差別・選別の教育行政にあったことは、いまやあらゆる面から解明されているところである。」

P167「決議は、教育基本法の「つまみぐい」をすることによって、あたかも教育基本法を尊重しているように見せているが、教育基本法の禁止する「不当な支配」を強行することによって「人格の完成」をめざす教育を、ひいては教育基本法そのものを、台無しにしようとするものである。」

※実態の棚上げここに極まれり。

P167-168「生きることと結びついた学習こそ、真の学ぶ意欲を呼びさますものであり、生活の実感に根づくものの見方・考え方が子どもの人間的成長にとって欠かすことのできない条件であることは、幾多の事例をあげていまは説かれるところである。ここにこそ、真の学力とそれに結びつく非行克服の展望が存在するのである。」

※なぜ学力をここまで貶めることができるのか…?

 

P204「日教連の運動方針のなかで直接に「専門職」概念に論及した文章であるが、これと同趣旨の文章が過去3年間の方針のなかにくりかえしでてくる。「専門職」概念と関係して強調されているのは、「給与・勤務条件の改善」と「資質の向上」の2つであり、これだけである。」

※「もっとも、「これだけである」というのは少しばかり語弊があるかもしれない。というのは別の箇所では、「法律が保障する諸権利を十分に行使し、勤務条件を改善して、専門職にふさわしい自主的かつ創造的な活気あふれる教育現場を築く」ということもいわれているからである。教育現場における、あるいは教職員の、自主性・創造性ということも、「専門職」概念とかかわっていわれているからである。しかし、この自主性・創造性ということは、政策=行政との対抗関係のなかで、あるいはその対抗関係を意識しながら、いわれたものでは少しもない。」(p204-205)「教育「正常化」の推進団体が、言葉の本来の意味における「専門職にふさわしい自主的かつ創造的な活気あふれる教育現場を築く」などということが、すでに論理的に矛盾しているからである。」(p205)と茶化すが、「論理的」な次元を問題にし「実態」に何も配慮がない時点で如何なものかと思う。

P205「専門職労働の本質的特徴は、すでにくりかえしのべてきているように、法律的・行政的な「不当な支配」に服することなく、子どもの学習権・発達権の保障に直接に責任を負ってすすめられるというところであり、それゆえに教育専門職者(集団)にとっても対国家的・対行政的な関係において「専門職の自律性」の確立を運動課題として提起することをせず、その反対に、「われわれの運動は、あくまで関係する諸法により、合法的である」「専門職観に立って法を遵守し中正不偏の教育を推進する」とまでいうものであるとすれば、それは、本来的に自主的・創造的であるべき教育労働を、法律的・行政的な支配に服する従属労働に変えてしまおうとする「理論」だといわなくてはならない。反専門職理論であり、まさに教育「正常化」推進に有益なものだといわなくてはならない。それは自主労働者を従属労働者に変えるための「理論」である。

したがって、日教連の「専門職」論は、もはや専門技能職論と、ひいては聖職論と、本質的に同一の内容のものとなる。だから、「資質の向上」といっても、その資質は、専門職的資質とは異質対立的な中身の、専門技能職的資質を、ひいては聖職的資質を、指すことになる。」

※主従理論を二項図式としてしか見れない論者の末路。理論だけだと水掛け論で終わる。では実態はどうか?批判がかけらもないということはよほど自分が支持する理論実践派への支持が厚いのだろう。ではその実践に問題があるとすれば?そこに自浄を行うような土壌がないというほかないのではなかろうか。

P210「論文は、まず、「無定量の勤務」や「労基法の関係条項の適用除外」を無限定に肯認することによって聖職論に傾斜していく。加えて、論文は、「高い倫理性」を云々することによって、教師労働者論と決定的に訣別し、ついに「教師=聖職」論にくみするまでに至っている。」

※聖職論に対する見方がさっぱりわからないが、字義通りに解釈しているとも読めるか。

 

P233「本来、「教育専門職制の確立」が課題となるのは、教育をうけることを通して子ども一人ひとりが人間的に成長し発達していくことを、すべての子どもの基本的人権として認めるからであり、この人権の保障にはそれにふさわしい制度が必要であるのに、その制度がつくりあげられていないからである。その制度は、もちろん、法律的・行政的な支配という形での、国家や地方公共団体による教育統制の制度ではありえない。」

※何かに従属的である時点で、もはやその議論には批判しかしないことだろう。これは、本書で批判する国旗掲揚君が代斉唱強制に対しても、そのような文脈による批判であることを示すものである。

P234「すでに示唆的に述べたように、教育「正常化」政策がめざすものは、人権保障の教育などではなく、「国民」形成の教育である。」

P244「このようにみてくると、恵那の先進性は、その教育原理=集団主義教育、教育方法=生活綴り方教育、手段=労働と生活の教育、父母との集団組織性にある。これらは、たて系としての教員集団の組織性の高さが、そのすべての核となっている。」

※本書の語りからいえば、この集団主義教育には、全生研的なものを全く感じない。ただ、全く実態に触れようとしない結果だからかもしれないが。

マイケル・ブレーカー、池井優訳「根まわし かきまわし あとまわし」(1976)

 本書は日本の外交交渉(バーゲニング)の分析を通じて日本人論を展開する本である。ただし、p227やp228に見られるように、既存の日本人論に対して一定の批判的な視点があること、そして本書を通して語られる日本人論は、かなり複雑な印象がある。

 

 少なくとも単なる日本の特性を捉えることだけに集中していないのは確かである。p31やp165、p229といった部分においてだけ見れば、日本の地理・歴史に裏付けられた文化的特性の語りをしているように見えるし、それは「サムライ外交官」(p4)や、「『和』の思想」(p11-12)といった議論にも現われている。しかし、これらの言説とは反対の主張についても日本のものとして語られている印象も強い。例えば、権威への服従(p10-11)については、p214-215のような権威に反発を行うような行動があるような語りがなされたり、日本人は断定的なやり方を好むといいながら(p12)、それに対する内省が見られることも指摘されている(p13-14)。また、通常の日本人論のイメージと異なるかのような用法で使われる言葉もある(※1)。「和」については協調性を示すものではなく、p65-66のような対立ばかりである状況を何とか取り繕うための態度として示されており、また「滅私奉公」という言葉(p32)も、自己犠牲的であるものの、「公=オカミ」にあたる存在が何になるのかについてはさっぱりわからないほど、一見権力者である「オカミ」に反する行動をとっているかのような行動をとるという議論がなされている。

 

 このようなブレーカーの態度の取り方に対し、彼が「日本人論」をどう捉えていたのかについてはいくつか解釈の仕方があるように思える。ただ、私自身は(特に「和」に対する考え方がそうであるが)、「規範意識」のような形で存在している日本人の(過去から積み重ねられた)文化的特性は確かに存在するものの、他方で実際の外交の現場で繰り広げられていた日本人の振舞いというのは、それ以外の多くの制約も受けながらなされたものとして捉えていたのではないかとみる。それは、以前レビューしたダニエル・フットが指摘したような制度論的なものであるし(p65-66で語られるような政治主体の分裂の議論がこれにあたる)、「規範意識」そのものについても統一性がないもの、良く言えば複数性があるものとして捉えている傾向があるのではないかと思う(※2)。

 

 

パリ講和会議における日本の外交評価について――「サイレント・パートナー」とは何だったのか? 

 本書では中心的な実証材料として、パリ講和条約における日本の外交交渉プロセスをとりあげている。第一次世界大戦の処理を取り決めたパリ講和条約において、本書では一見かなり、というかひいきに近いレベルで日本の擁護をしているように見えるのが目立つ内容となっている。

 P123-124にあるように、日本はそもそも講和会議において、主体的に関わることができず、最高会議には早い段階で退出させられた面を強調している。つまり主体としての日本は当時どのような対応をしていても、権力者であった米英仏に排除されていたがゆえに、どうにもならなかったことが述べられているのである。日本と欧米列強は『非対称な関係』にあったということである。

 もちろんここにはp123-124引用の前段のような準備不足や一種の未熟さがあったのも事実である。しかし、他の著書においてパリ講和会議のエピソードにおける日本の役割が語られる際には、「非対称」な関係についての指摘がなされない場合が多いことは指摘せねばならない。いくつか引用してみる。

 

「しかし(※パリ講和)会議が始まると日本代表はあまり積極的に発言しない。いかにも目立たない存在として行動することになる。そのために、日本の代表団に対してはこれを「サイレント・パートナー」と呼ぶ外国の新聞記者も出てくるありさまであった。というのも、一つには、日本の代表団はこういう大きな国際会議慣れをしていない。このような国際会議への出席は日本の政府にとっても初めての経験であろうし、会議外交に習熟していない点もあったと思う。また一つには、日本政府の代表団への訓令自体が「あまり発言しなくてもいい」という趣旨のものであった。」(細谷千博「日本外交の軌跡」1993:p51-52)

 

「第二は、パリ平和会議を通じて、日本の全権団を中心に、従来の日本外交官に対する根本的な反省が生れたことであった。日本は、国際会議に対する研究、調査が十分でなく、日本が直接関連する問題をのぞいては「沈黙という日本的美徳を守るよりしかたがなく」列国からも「沈黙のパートナー」と称せられるありさまだった。こうした経験は、外務省内部において、革新運動として発展していった。そして、外務省内に「革新同志会」が結成され、目標を人材の登用において門戸開放、省員養成、機構の拡充強化を中心とする改革を要請する声が叫ばれ始めたのであった。」(池井優「三訂 日本外交史概説」1992:p136)

 

 両著書においては、列強に数えられ「対称」的な関係性を持っていたはずの日本が「準備不足」のために交渉をうまく行なえなかったという点が強調されているのである。ここでいう「準備不足」についても、単純に読んでしまうと、よくある日本人論の改善言説と同じような「文化的」なものについての改善を要求していることを想定したような語り方になっているといえる。

 しかし、このような解釈の取り方はやはり半分程度しか正しくないのである。この「準備不足」の文脈も単純な文化的なものの相違として語られるべきではない性質の方がむしろ強い。これは、当時の会議の日本と他列強との比較についての記述を見ればわかる。

 

「牧野男一行巴里到着ノ上執務スルニ至リテ実際ト予想トノ差異ノ甚大ナルニ驚ケリ例ヘハ英国ノ如キハ全権ノ宿舎ノ外ニ三大ホテルヲ徴発借受ケ数百人ヲ以テ組織シ各問題ニ付夫レ夫レ専門家ヲ網羅セルノミナラス問題タルヘキ各地ニ厖大ナル情報機関ヲ有シ常ニ情報ヲ事務所ニ集中シ印刷所ヲモ有シタリ従テ問題起レハ既ニ準備セル詳細ナル報告ト提案ヲ速ニ作成シ問題毎ニ詳密ナル調査ト意見ヲ提出シ得ル様組織モ材料モ整ヘ居タリ米国亦之ト同様ナリ之ニ反シテ我事務所ハ僅ニ数名ノ実業家及財務官ヲ専門家トシテ有スルニ止マリ殊ニ経済交通ノ如キ問題ニ就テハ何等ノ予想モ準備モナク将又事務ニ当レル書記官以下ノ如キハ外委員会五国会議首相会議ニ僅ニ手別シテ出席シ報告ニ忙シキノミナラス内事務所ニ於ケル調査研究立案ニモ従事シ多クハ数問題ニ付兼担スル有様ニシテ人手ノ不足準備ノ不完組織ノ狭小到底他ノ四大強国ノ如ク事務意ニ任セ従テ複雑ナル各種議題及広汎ナル大部ノ案ニ付急ニ詳細ナル調査モ立案モ出来ズ僅ニ此ノ少数ノ職員ヲ以テ問題ノ討議進行ニ追随スルニ必死ノ努力ヲ為シタリ、此故ニ微細ノ点ニ至テハ殊ニ条約各条項ニ就テハ不満足ナル点多カリシモ全ク不得己ノ事情ナリシナリ」(外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年 上巻」1969:p740)

 

 組織の不足もそうであるが、端的に圧倒的な人員不足があり、兼務しながら調査立案を余技なくされていた状況であったものについてまで、単純に「能力不足」であるとして批判するのが不適切であるのはこの記述からも明確だろう。

 

 

 ところで、細谷や池井がとりあげた「サイレントパートナー」と、ブレーカーが述べる「平和への沈黙のパートナー」(p124)は随分と語られ方が異なっている。まずもって、この「サイレント・パートナー」という言葉の出典がよくわからない。細谷は「外国の新聞記者」発(おそらく講和会議当時の言説としてあったものと想定される)とし、池井も「列国」の言葉として紹介し、やはりパリ講和会議当時の言葉であるように読める。しかし、本書では、出典を歴史学者であるトーマス・ベイリー(Thomas A. Bailey)であるとしているのである。ベイリーの発言となると1902年生まれという事実からパリ講和会議当時の言葉ではありえなくなるだろう。また、トマス・バークマンの論文(「「サイレント・パートナー」発言す」『国際政治』56号1977:p113 URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1977/56/1977_56_102/_article)における参照元も、トーマス・ベイリーの“Woodrow Willson and the lost peace”(1944)である。正直な所、この出典がどこにあるのかというのは、「当時の言説として存在していたのか」という点の検証として、極めて重要な論点である。後発的に評価された場合、当時の文脈を適切に捉えられているのかという疑問が出てきてしまう。

 

 また、合わせてこの「サイレント・パートナー」という言葉は、もともといかなるニュアンスで用いられた言葉なのか全くわからない。インターネット上でもこの言葉を用いている論述は複数見受けられるのだが、正直な所文脈はバラバラであり、単なる「精神論的な意味で日本が『未熟』であることの教訓」を見出すために用いているものもあれば、「日本の準備の悪さ」を指摘するために用いられたり、更には「欧米列強からの圧力」の存在まで認め黙らざるを得なかったことを了解し述べられているものもある。もはや原典が参照されない弊害で、言葉だけが一人歩きしている状況であると言ってよい。

 

 これらの検討をするためには、ベイリーの著書から検討しなければはじまらないだろう。ベイリーの「サイレントパートナー」への言及は次の部分、一箇所のみで行われている。

 

The attitude of the Japanese delegates at Paris was something of a mystery. They were primarily concerned with the Far East; and the Conference was essentially a European affair. They did not claim membership on the Council of Four, but they faithfully attended the various other councils, commissions, and committees on which they were assigned seats. They always seemed interested and awake, which could not be said of their Occidental associates; but what they were thinking lay behind an impenetrable Oriental mask. They intently examined the various charts and maps which were presented, but weather they studied them right side up or bottom side up one could not always tell. They were the “silent partners of the peace”. (Thomas A. Bailey“Woodrow Willson and the Lost Peace”1944:p271)

 

 私訳であるが、概ね次のような文脈で、ベイリーの著書では「サイレントパートナー」が語られているといえる。

 

「パリでの日本全権団の姿勢は何かしら奇妙であった。彼らは第一に極東について関心があったが、会議は基本的にヨーロッパの出来事であった。また、彼らは四頭会議の一員であると主張しなかったが、割り当てられたいくつかの会議や委員会には忠実に参加した。彼らは、西洋の仲間からはそう評されなかったが、常に関心をもち、自覚をもっていたようだ。西洋の仲間は不可解な東洋の仮面を伏在させていると考えていた。日本の全権団は提出された何種類もの図表を熱心に調べあげたが、その検討が正しかろうが、深く行ったものかはともかく常に語ることはしなかった。彼らは「平和へのサイレントパートナー」であった。」

 

 また、合わせてベイリーはパリ講和会議における「人種平等」の議論について触れ、他の論者がこれを「交渉材料の一つ」にしかしていないという見方をしていることに対して反論し、日本はまじめに人種平等を国際化するために行動したことを議論している(cf.Bailey1944:p272)。ここでまず確認しなければならないのは、ベイリーの議論においては、総じて「日本が未熟である」という前提が含まれていないことである。合わせて、「列強の数えられ方」についても、他の英米仏伊の四カ国とは別のカテゴリーであり、これらの国との関係性が「非対称」であることについても了解しているものと考えられる。以上のことをふまえおおざっぱに言ってしまえば、ベイリーの「サイレントパートナー」言説は、「一見周囲にはその熱意は伝わらない」というニュアンスも含めた形で「語らない」ことが述べられていることがわかる。

 

 さて、ここで細谷や池井、そしてバークマンが一般的なものとして語るような「サイレントパートナー」言説がここで解釈された見方と全く異なるものであることがわかる(※3)。そして、パリ講和会議当時からこの言説があったかどうかは極めて怪しいものとなってくる。これはバークマン論文において、当時の言説で類似の描写があるという見方をしていることからも(つまり直接的に当時この言説そのものが存在していたことを立証していないことからも)間接的に言える話である(cf.バークマン1977:p102)。また、仮にサイレントパートナーがベイリーのオリジナル言説ではなく、パリ講和会議当時の言説を借りたものだったとしても、ベイリーがあえて文脈を変えて「サイレントパートナー」言説を用いることは、歴史研究者の態度としては極めて不適切であり、ベイリー自身に良心があることを前提とすれば、細谷や池井の「サイレントパートナー」の捉え方は、事実誤認であるということになる。ただし、バークマンが指摘するように、ベイリーのオリジナルの言説とは別に、この言葉が恣意的に解釈され、ベイリーとは異なった文脈で用いられていたことはほぼ間違いないだろう。

 

 

 また、仮に当時の日本が悪い意味での「サイレントパートナー」であったことが真であるにせよ、これを「特殊日本的」なものとして捉えるべきかどうかという議論はまた別の議論であるはずである。ここで少し気になるのは、同じ列国として数えられていたイタリアの立ち位置についてである。パリ講和会議において日本は1919年3月後半の段階で最高会議の席から外され、それ以降はアメリカのウィルソン、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソー、そしてイタリアのオルランドの4人によりできる限り他の外交官を交えない形での会議により主要事項の検討が行われた。このあたりの事情はマーガレット・マクミランの「ピースメイカーズ」(2001=2007)を根拠に述べていくが、まず、この4人会議の体制に入る前の会議においては、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソーいずれもが会議で達成できたことはほとんどなかったとの認識だったらしい(マクミラン「ピースメイカーズ下」訳書2007:p6-7)。この状況だけを見れば、日本は交渉をする前から、その非対称性ゆえに「不利」な状況にあったといえるし、その点ではブレーカーの主張も正しいと言えるかもしれない。いずれにせよこのような事情から「ピースメイカーズ」の著書の中で日本は「客体的」な立場からの記述がされているといえる。ではイタリアはどうかというと、イタリアもまた日本と同じように「客体的」に語られている傾向が強い。

 

「講和会議が開会した当初から、イタリアがユーゴスラヴィアや他国の妥協する気はないということははっきりしていた。イタリアに関係のある国境問題は専門委員会に任せるのを拒否した。最高会議とその後の四巨頭会議で、イタリア代表団は自国の利益に関すること以外、発言しなかった。クレマンソーは三月の会議の後、「今日の午後、オルランドはイタリアの要求をあげつらい、必要且つ正しいと考えている国境はどこかを示す講釈を長々とした」と不平を言った。そして、「ソンニーノからも、劣らないくらいの退屈な講釈を聞く羽目になったのだ」。」(「ピースメイカーズ下」訳書2007:p33)

 

オルランドは、イタリアが内戦になる可能性があると警告した。「わが国では何が起こるだろう」とソンニーノが尋ねた。「ロシアのボルシェヴィキではなく、無政府状態になるかもしれない」との答えであった。イタリアから入ってくる報告を見ると、無意味な脅しとばかり言えなかった。ストライキ、デモ行進、暴動、建物の略奪、デモ隊員の殺害、左翼と右翼の暴力的衝突などの報告が入っていた。しかもパリからの噂は事態を煽る結果となった。つまりオルランドは譲歩してしまい、連合国はユーゴスラヴィアを反ポルシェヴィキ勢力の国家にしようと決めた。ウィルソンはダルマチアをイタリアに与えないと決心したし、フィウメは自由港になるなどという噂だった。イタリアからは、代表団に当初の方針を貫くようにと勧告してきた。

 この時点では、確固たる姿勢を保つことが、オルランドとソンニーノにできる精一杯であった。妥協が大きな譲歩とみなされるような状況にあったのである。」(同上、p40-41)

 

 ここで押さえておきたいのはイタリアの姿勢である。まずイタリアは「自国の利益以外の発言をしなかった」とされる。これは事情は若干異なれど日本も同じ立場であった。更に、妥協をしない「確固たる姿勢」についても、ブレイカーが指摘していた日本の特徴とされた部分であったが、これはイタリアも同じであったように「ピースメイカーズ」では語られている。もっと言えば、イタリアは4月末からフィウメ港の領土の取り扱い等についての会議に意向に「ボイコット」する形で2週間程度ではあるが会議の参加を行わないという行動に出たのである。これも見方によっては「日本よりも頑固な態度」であるように見えるのである。日本はある意味「人権平等」に関することでは結果的に折れているが、イタリアの領土問題についてはそのような妥協がなかったと考えられるのである。

 この点はブレーカーが本書の分析にあたりどれだけ「他国」を比較対象したのか、という点が問題となってくる。これについては、本書ではそれとなく他国のバーゲニング態度について考察済みであることが仄めかされるものの、具体的にはよくわからない。このような点は本書p223にあるように、むしろあまり明確でない状態のものであるとさえ言えるのかもしれない。

 

※1 これについては、(特に滅私奉公についてはそのような気がするが)、邦訳した際に意味合いが誤った内容として訳された可能性も否定できないことも念のため付け加えておく。

 

※2 もっとも、このような両義的な態度こそ、日本人的な特性であると見ているのは、ルース・ベネディクトやジェフリー・ゴーラーなどが主張していた点であった。しかし、ブレーカーはこの点について明確に特徴付けることはなく、そのような態度について説明を加えることはない、という意味で「日本人論」として捉えているようにあまり見えないというのが私の見解である。

 

※3 しかし、ベイリーの言説をこのように評価した場合、少し疑問なのはバークマン論文においてベイリーの言説について全く触れていない点である。確かにバークマン論文はベイリーを直接的に批判(=ベイリー自身の言説である「サイレント・パートナー」が誤解を招くものである、と)している訳ではないが、逆にバークマンの主張もベイリーとさほど違いないと私は解釈している以上、バークマンがそのことに言及し擁護する姿勢を見せないのは逆に不自然にも見える。考えられるのは「バークマンがベイリーの著書をしっかり読んでおらず、ベイリー以後の「サイレントパートナー」言説のみしか捉えていなかった」か「私の解釈の方が間違っている」かの少なくともどちらかが真になりそう、ということである。

 

<読書ノート>

※原題はJapan’s International Negotiating Behavior 。

P4「本書でいいたいのは、ひとたび政府からバーゲニングについて訓令を受けると、日本外交官はねばりにねばり、交渉をなんとか妥結に導こうと異常な熱意を傾ける。まさに「サムライ外交官」と称するにふさわしい。こうしたねばり強さは、日本の交渉ぶりの一つの特徴となっているばかりでなく、時としてその努力がなければ交渉に失敗していたということすらいえるのである。」

P10-11「日本の社会行動の基準は、伝統的に日本の社会行動の規範の中心をなしていた儒教精神の具体化であり、上下の別をわきまえることであった。

このように厳密に規定された秩序のもとでは、身分の下の者は、既成の権威に従うのは当然であり、自分の定められた社会的地位を受け入れ、上からの命令にはいかなるものでも喜んで従うのが当然とされた。部下の献身的な忠誠、服従、奉仕に対し、上に立つ者は、下の者の必要に進んで応じることになっている。その際、慈悲と父親のような指導、忍耐強い理解といったものを示すのが常にある。いったん上の者が決定を下すと、それはもともと正しいものとされ、下の者は受け入れなければならなかった。

こうした理想的な組織の下にあって、問題解決のために採られる手段は、「一致協力」か「一致団結」であった。」

俗流の日本人論はこの解釈をするが…

 

P11-12「和の理想と並んで重要なのは、反対する人びと――それが確立された体制に挑む場合ですら――にこちら側の理由を納得させる場合、いかに辛抱強くやるかという目的思考型の独特な倫理である。」

P12「真の武士は、危険を避けるより進んで冒険を犯し、ためらったり、遠慮したり、追従するより、率直で、断定的なやり方を好み、現状に忠実であるより、自分が正しいと思うものを選び、必要とあらば力に訴えてでも、がまんできない状態を変革するために命を捧げるのである。

日本の社会が、「調和」をとれることがきわめて少ないという事実は、基本的な日本的価値を損うものではない。同様に、武士が時として不誠実であったり、怠惰をむさぼったり、無気力であったり、目標が感心しないものであっても、忠誠という倫理的力を必ずしも弱めるものではない。また熱心さのあまりとか、狭量とか、悪企みとかによって武士の規範が弱まることもない。」

※その割にはリスク回避の行動に出るともされる。

P13-14「最後に重要なのは、日本の指導者が、自分たちには選択の余裕などないと考えた点である。外国の脅威は目前にあり、欧米列強に正面から反発するのは自殺行為に等しく、鎖国政策に立ち戻るのも愚の骨頂であった。これに対し、アメリカは対外問題に介入するか非介入かを問題として論じていたが、日本にはそんな贅沢は許されなかった。日本の指導者は、一九世紀中葉の状況を見るにつけ、外国の出した条件で交渉し、その言い分をほとんどそのまま受け入れなければならなかった。

こうした潜在的には、諸国皆敵ともいえる環境のもとで、乱暴な〝武士〟的外交のやり方とか、国際的なはねっ返りに対して無頓着であることは通用せず、その後の歴代日本政府にそんなやり方はむこうみずで無益なものだとの教訓を与えることになった。そのかわり、政府の指導者は、じっくり時間をかけて日本の権益を増大し、拡張することを考えた。最小限の譲歩を行ないながら、その間に国力の充実に努めるという慎重な政策が国家生存の要と見なされるにいたったのである。」

 

P15「さらにはっきりしているのは、日本人の交渉の論理に〝大きな拘束〟の力が消しがたいほどに刻印されているということである。国際的に孤立化してしまうのではないかとの恐れ、国内の変動、外国の干渉、日本の海外における評価が下がることへの配慮……といった失うものをおそれる気持ちから、日本人は自分の国は弱体で、もろく、島国的で、劣っているのだと思いこむことになった。弱いことをいやというほど知らされていることが、日本の倫理観に大きな影響を与え、外交行動について二つの基本線を作らせることになった。一つは自立と行動の自由を絶えず望むことであり、いま一つは危険をなんとか避けようとすることであった。」

P16「しかし、不平等条約が廃棄され、独立が達成された暁でも、同じような満たされない感情は持続した。日本の相次ぐ対外進出は、実現不可能と思われた自立への道であり、「自主外交」の夢を達成するステップと見なされた。

一九三一年から四一年にかけて絶望的な道をたどっていた間でも、日本は、完全な自由、独立、自給自足を得るため、外からのあらゆる制約をとりはらうという哲学を激しい形で吐露したのであった。」

※強度の理想主義的思想を読み取るべきか。しかし、これはある程度状況に定義づけられたものとみるべきでもある。

 

P25「日本のバーゲニングの目標は、ケースによって変化するが、それを表わす言い方は驚くほど似ている。日本のバーゲニングの目的は、いつも「真意」を体現し、「誠意」を反映した「正義で」「妥当で」「公正な」ものとして描かれる。」

P26「政策決定者と、それよりランクは下になるが交渉の任に当たる者も、相手側は最後には屈服し、日本はさしたる譲歩なしに勝てると考える。交渉の際「和」を求めるがゆえに、日本の要求は「円満に」あるいは「円滑に」問題なく、大きな抵抗なしに受け入れられると信じ込んでいるのである。

この態度は戦略、戦術の選択に際して顕著に現われる。第3部で述べるように、日本の交渉における「正しさ」は、さしたる努力もしないでも相手側に通じるだろうというなかば信じられないような思い込みによって、日本は相手を説得するより、自己の立場をはっきりさせるバーゲニングのやり方をとることになる。」

※「信じ込む」の原著表現が気になる。また、非対称性如何によってはこのような態度の取られ方も当然ありえる。丁寧に例も示されているものの、如何なる「思い込み」があったことを示す例なのかが読み取れない。

P31「日本人が失敗を恐れることは、これまでの日本が選択したバーゲニングの戦術の中から、格好の例が多く抽出されてくる。日本の指導者は、日本の島国性、もろさ、弱さのゆえに、逆に自信とはっきりした目的意識に裏付けられた大胆なイニシアチブと劇的な政策をとりたいと長年にわたって望んできた。たえず受け身の立場に置かれた日本は、国際情勢によって振りまわされるより、支配してみたいという希望をかき立ててきた。

日本の政策決定過程が緩慢であるため、逆に迅速で、明快で、柔軟性のある外交行動の必要性が叫ばれてきた日本人のストイックな無神経さと自身のなさは、かえってあけっ広げで、率直で、個人対個人の話し合いをしたいという方向に日本人を駆り立てる。外国語の習得が旨くないという点を考慮して、日本人は、交渉の際に必要な他のもっと重要な資質より、語学に堪能なことを優先して考える。また、自分たちが消極的であることをはっきり意識しているため、直接的な、自信に満ちた、自主的な外交行動に憧れることである。」

P32「日本のサムライ外交官は、仕事に不屈の努力を傾け、名誉を重んじ、犠牲を嫌わず、忠実であることに情熱を燃やした。何にも増して「滅私奉公」こそ、日本の交渉スタイルの精神の最大のものである。」

 

P39-40「第3部で分析するように、日本の妥協は、相手側に半分合わせたり、共通の場を見つけようとしたり、公正と平等の原則に従って相手側の譲歩に見合うようにするというものではなく、もし日本が譲歩しなかったなら何が起こるかもしれないという恐怖からなされる。譲歩は堪えがたい苦痛であり、運命のいたずらによる不幸な避けられないもので、日本のコントロールの及ばないバーゲニングの「状況」の変化によるもので、適切な政策を誤った誰かの責任であると考える。日本は「堪えがたき」を最大限に堪え、お上がはじめに「公正」「妥当」と認めたものを放棄する度合を最小限にするため譲歩するのである。

事実、日本の指導者や、交渉者は、自分たちの要求ばかり頭にあって、相手側の関心とか目的に対する理解がほとんど欠けている。立場を調整することは、相手が要求するもの以上を与えたことでなく、むしろ元来日本が要求したものより取れるものが少ないことを意味するにすぎない。こうした二つの動機は、人為的なものではなく、日本人の妥協に対する考え方を理解するのに不可欠である。」

※しかし、ここでいう「お上」とは何を指すというのか??また、ここでの態度は「和」の精神との対比でも一見矛盾するような頑固さを認める。

P43「日本の交渉者の第二の特性は、柔軟性、「現実主義」「合理主義」、すなわちある程度日本側が譲歩するという犠牲を払っても、客観的に現実的に、また柔軟に対処しようとする点である。したがって、理想的な交渉者は、単なる口先だけの主唱者であると同時に、政治家であるといえる。」

※これは先述の頑固な態度と矛盾するのでは??訳語の問題であろうか??

 

P62「天皇は、公的には組織の頂点に位置しているが、日々の政策決定に関しては、決定されたものの批准、裁可を行なうだけで、それ以上積極的に行動することはない。明治憲法は、あらゆる国家行為は天皇大権の下にあると規定しているが、実際の政策は、組織内部の個々の人びとによるばらばらな動きの結果にしかすぎない。……トルーマンの「自分が責任を持つ」といった言に相当するものは、日本における外交政策形成には、見出せない。日本には、最高権威を作り出していくような明確な制度的、憲法的パターンがほとんど見られないからである。」

P63「学者たちの努力の跡を見ると、日本の政策を基本的に動かすものは誰かを解明することはいかに難しいかがよくわかる。同時にこうしたばらばらの研究の結果、政策の責任を明確な形でとる政治組織が日本には存在しないということを皮肉にもうまく描き出されることになった。」

P65-66「戦前、日本の政治組織の下では、すべての国家目標について意見を幅広く集めたように装った。多くの者が参加し、乱暴にいえば政策形成に平等な影響を及ぼし、個人とかグループが全員に納得のいくような調和と同意を得るために、他人の見解に譲歩をしたように見せかけ、最悪の場合でも黙認、最善の場合にはある決定が行なわれた場合に熱心な支持を与えるというグループの「コンセンサス」があるようにしたのである。

しかし実際のところ、本質的に「コンセンサス」といえるものは、日本の場合にはほとんどないように思われる。外観はどうであれ、組織の内部では激しい不一致があり、喜んで同意したという状況ではないのである。きわめて広範な性質の問題(たとえば大陸進出、資源確保のための前進基地の建設、軍事力の増大)について「コンセンサス」らしきものがあったとしても、もう少し具体的なレベル(たとえば進出の方法、資源獲得のやり方、軍事力増強の方法)では政策の不一致は根深く、かつ長期にわたって続くのである。

さらに政治主体が分裂しておりその中である者の意見が重みを持っているため、「平等」という状態からはほど遠い。明治憲法下では、軍部は軍事作戦と用兵に関して「統帥権」によって特権的な地位を占めていた。軍部は「国務」の範囲外である外交にすら権限を持った。明治憲法五五条は「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関スル詔勅国務大臣ノ副署ヲ要ス」となっているが、軍は権利の乱用を行なったのである。」

※「和」とは。

P67「誇張していうと、組織が分裂しているために、指導者はグループの間の越えがたい溝よりも、むしろコミュニティの間の共通の感情という面を強調したり、あるいは不統一をなんとかやわらげようとしたり、定期的に挙国一致を叫んだりしたのである。政治家はこの「挙国一致」ということばを、安定、調和、統一された行動への希望を表わすものとして用い、異なった外交政策綱領を持つ反対派を統制し、より一般的な目標を設定しようとするのである。」

 

P108ヴェルサイユ条約のバーゲニングにおける訓令…「人種的差別撤廃ノ事ハ国際連盟ヲ議スル場合ニ於テ我帝国ノ主張トシテハ至重至大ノ問題ニ属ス。仮令講和ノ予備会議ニ於テ一旦否決ノ悲境ニ陥リタルモ我帝国前途ノ利害ニ顧ミ之ヲ放擲スルコト能ハス、随テ今後我帝国ノ主張ヲ徹底スルノ手段ニ付憂慮ニ堪エサル事」

P123-124「最後に、牧野その他の全権がベルサイユで十分な活動を行なう際に多くの圧力が加わったことが指摘できる。ベルサイユ会議は日本が参加する最初の大きな国際会議であり、日本国内の世論、議会の意見、外交調査会の有力メンバー共に、人種平等問題で日本が妥協することには強く反対していた。第二の圧力は、国際会議において日本が比較的経験を持たなかったことである。日本の全権たちは一般的にいってすばやい会話のやりとりに必要な語学力その他の能力に欠けていた。日本の代表団は、不適当なスタッフと不十分な準備にも悩まなければならなかった。実際、牧野は会議がどういう方向に行くのか、出発前にははっきりと知らなかったほどである。

最初の日本側の期待とベルサイユの現地での状況の進展との間には、大きな差があった。さらに、日本ははじめは名誉ある五大国の一つに数えられていたが、会議が開会されると間もなく、選ばれたグループからは簡単に削られてしまったのである。それからのち、特別な利益がからんでくる問題の関するトップ・レベルの会議には、招待という形でのみ参加することになった。したがって日本は、著明な外交史家トーマス・ベイリーが指摘するように、会議の運営に小さな役割しか果たさず、ごく些細な影響しか与えない「平和への沈黙のパートナー」となり下がったのである。」

 

P136「日本は、戦術的な動きとして意図的に交渉を引き伸ばしたのではない。あの気の毒な野村大使には、ワシントンに反応を行なう際強い圧力がかかっており、最後には次のように言いわけをしていた。「日本政府が重要な事項について決定に達するのは、アメリカ政府よりも時間がかかるものなのだ」」

※タウンゼンド・ハリスの言葉として、「外国奉行は、これを附言して重要な用務をアメリカ人のように迅速に処理することなく、大勢の人びとに相談しなければならぬことになっているから、これらの目的のために十分時間を与えてもらわねばならぬと述べて、これは万事延引をこととする日本人のやり方を私に了承させんがためであった」を紹介している(p151)。

P137-138「日本側の不統一と不決断は、相手側の疑惑や不信を招く。日本では権威が分散されているため、偶然であろうと故意であろうと、相手側が日本の多岐にわたる政策について、その計画を知らされる結果を招く。もちろん、戦術的に相手側はこうした政策の分裂を、事故に有利なように利用しようとする(たとえば、リーダーシップの交代とか、よい条件を待つといったことである)。

さらに広くいえば、不統一のために、誰が日本政府を代弁するかたえず不明となる。何回にもわたって、相手側は日本政府の代表が行なった宣言とか確約を信頼することができないということが起こる。」

P139「日本の組織はイニシアチブをとりにくくしているので、バーゲニングを行なう人びとは政府の訓令にきつく縛りつけられているという単純な理由のために、斬新なあるいは創造的な解決を示したがらなくなってしまう。また、政府指導者は誰も新しい政策をとるための責任を背負いたくないため、あるいは改めた政策自身、誰かが過去にやった政策が間違いであったことを示すがゆえに、政策を広い視野から検討したり、あるいは新しい解決の道を探るということが阻害されることが非常に多い。」

※「各交渉ごとに大規模な国内的な問題が発生し、交渉者は辞職をほのめかしたり、天皇に訴えたり、あるいは政府の腐敗に乗じたりということが起こりがちなのである。」(p139)

 

P161「日本のバーゲニングのための基本的な訓令はすべて、全体として変更しようのないような堅い要求ばかりである。したがって相手側は、日本側が寛大さを示すことを期待できない。これらの要求の中には、ほんとうにバーゲニングをやるためのものはほとんど含まれていない。日本によってはすべてがこれ以上変更できない当然の要求なのである。

日本の最小限の立場としてこれ以上譲れないとはっきりしている問題についての提案は、それに代わる条項がないかぎり、変えられたり統合されたりすることはほとんどない。事実、日本はこうした固い路線が成功するのはあたりまえだと考えているので、臨時にプランをたてることはありえない。したがって、交渉者自身がこうした問題について戦術をたてて実行する場合、個人的な自由裁量はほとんど許されていない。彼らに期待されるのは東京で決めた立場を頑固に主張することであり、もし相手の断固たる抵抗に遭遇する場合、ただちに本国政府に連絡をし、訓令を待つということになる。」

P165「なぜ日本は交渉にあたっていつも守勢的なのであろうか。もちろん、準備段階における日本の動き自身守勢的な含みを強調しているのは、否定できない。そうしたものを超えて、この初期段階の活動を重視するという日本のいき方は、いくつかの文化的要素が混合されたためといえる。するわち、舞台裏で工作を行なう、こまごまとした計画を立てる、まえもって日本側から約束することを極度に嫌うといった点である。……

こうした守勢的な行動をとる文化的な背景に加えて、強力な国々によって外交をかき回されるのではないかと恐れが、日本をして守りの戦術をとらせることになる。日本が目的とするものを得るために計画するバーゲニングの目標とか動きは、このように深く根ざした恐怖によって左右されている。守りを計算すること――外国の世論あるいは外国政府の意見に敵対したり、直接力によって対立することへの恐れから生じている――は、日本がだす要求をある程度軟らかいものにしたり、出発点を真に欲する最小限度に近いものにしたりするのに役立っている。」

 

P212「第二に、日本は自分たちのバーゲニングの目的は正しいという変わらぬ信念を持ち続ける。自分たちの目標は絶対に正しく公正で妥当だとみるのである。こうした考えを持っているため、日本の交渉者は譲歩を拒否するのみならず、戦略戦術を練り上げる必要をも忘れてしまう。「公正」な政策は結局「公正」であるがゆえに勝利する、と考えるのである。」

※どのようなものを想定しているのかわからない。

P213「こうした態度とは別に、戦前の日本の交渉態度は国内政治の諸要素、とくに政策決定における政府と交渉者のコミュニケーションによって左右された。

明治憲法の下、日本の指導者は外務省と軍部の拡争の中で交渉を進めねばならず、政策の決定の道は汚されたり重複したり不明瞭であったりする場合が多かった。こうした憲法体制の下で発展した政策決定過程は、一語でいえば「不一致」という言葉で表現されよう。すなわち多元的な対立、官僚的な煩雑さ、政策について責任体系のなさといったものである。」

P214-215「個人のレベルでいうと、日本の交渉者はバーゲニングの成功はお国のためだという気持が強い点が異彩を放っている。個人的な献身の度合いとか使節としての責任感が強いことが、日本の交渉のやり方の特徴となって出てくる。国家目的を追求しようとする決意はけっして悪いことではない。対照的に、あることに固執することはあ、もし日本の交渉者が決意を固めているのならば、高く評価されるべき特質であり、たとえ失敗する場合でもその失敗は少なくとも言い訳のきくものとなる。

しかし問題は、日本のサムライ外交官が個人的な決意を深く固めるため、日本政府の政策の立案者にとって悪夢としか思われないような違った方向に時として引っ張ることである。それは、日本の指導者が選んだものとは違う方向である。日本政府が、政府の公式の政策とバーゲニングの交渉者の意向がまったくいっちしたと喜べるのは、きわめてまれである。それは次のような理由による。(1)日本の外交官は交渉の結果について個人としての責任を感じすぎる。(2)交渉者は、本国政府が認めているよりもさらに譲歩する傾向があり、そのため政策の方向を決めてしまう。」

※通常の滅私奉公のニュアンスとは違うように思える。

 

P222「日本の交渉者がつかまえどころのない間接的なまたあいまいな声明を出すのも、国内の不一致から不可避的に生ずる副産物であり、交渉者は無条件で権限が与えられているかどうかその限界があいまいであり、はっきり統一されたバーゲニングの政策を欠いているためであり、さらに状況に応じて出す案が乏しいという理由による。意図的にぼやかすことは、日本のバーゲニングのやり方ではあまりないことである。

個人あるいは非公式のコミュニケーション・チャンネルに頼るのは、どうにもならない行きづまりを避け、腹立たしいような政策決定組織の遅れを避けるために、日本がよく用いるやり方である。」

☆P223「本書で検討されたいくつかのケースから、試験的に引き出されてきた次のような命題は、完全なデータに基づく結論的な判断というよりはむしろ仮説だという点に留意していただきたい。こうした考え方はまさに仮のものであって、さらに分析が必要であり、はたしてそれが正当であるか否か適当な評価を行なうには、日本以外の行動と比較する必要もある。」

P224「強力な国の支援がなく軍事的に日本よりも弱い国を相手にバーゲニングを行なう場合、日本は脅迫といった強硬手段を好んで用い、「抑制の外交」を捨てる傾向にある。しかしながら、強国とくに強力な欧米諸国と交渉する場合、日本は、きわめて慎重になる。相手側との力関係がどうあろうと、日本の指導者や外交官はコミットメントと説得の手段として同じような言い方、同じような基準を用いる。

日本は欧米諸国の出方と世界世論にきわめて神経質である。外国の意見に神経質であるため、日本の交渉相手とその同盟国はそうした世論を動員して有利な状況を潜在的なバーゲニングの武器を持とうとする。」

 

P227「たとえば、日本の外交官はだますというような目的は持っていないにもかかわらず、二心を持っているとか二重取り引きをやるとかいった悪評をかち得ている。本書で使われた。材料から判断すると、日本の交渉者のイメージは邪悪で不正だという見方はでてこない。こうした一般的なステレオタイプは是認もされないし、不当でもある。

しかし、その行動はしばしば誤解されることが多い。日本外交官悪玉論への反論として、とくに次の三点をあげておきたい。(1)日本における政策決定の会合の際に、出される日本のいい分は、バーゲニングの間に公開で、相手側に対してなされるものときわめて類似している。この事実は、外からの観察者には信じがたいことであっても、日本人の信じているものがいかに根深いかを示している。(2)日本の交渉者はかなりはっきりと自ら望むところを述べ、相手を操作しようとするような戦術は用いない。(3)日本の指導者は彼らなりの国際イメージという先入観にとらわれているので、その用いる交渉戦術のいくつかは相手側をだますのではなく、海外における日本の悪い印象を避けたり訂正したりしたいという願いを反映するものである。」

P228「しかしこうした幻想を別にして、あいまいさ、秘密、遅延、長期にわたる国内的不一致の直接的に影響するところは、「不誠実な日本」のイメージを外国に広めることであり、日本の指導者はずる賢く不正なやり方をし、いかに非難されようとも目的達成のためにはどんな手段でもとるとみなされるのである。」

P229「事実、島国、孤独、内向的伝統といった背景にもかかわらず、日本の外交行動は目ざましく異常な勇気と動機を秘めていたことがわかる。」

 

田中一彦「忘れられた人類学者」(2017)

 本書は、1937年に日本の農村を中心にしたフィールドワークをもとに著した『須恵村』で知られるジョン・エンブリーと『女たち』の著書で知られるエラ・エンブリー夫妻がみた須恵村などについて記した本である。

 

 本書の考察をする前に、まず本書を読む前の段階における私のエンブリーに対する理解について述べておきたい。

 エンブリーの著書について、私が読んでいるのは『須恵村』だけである。この『須恵村』を読んだ感想として、まずもってこの本が「日本人論」について何も語っていないものであり、単純に「近代化論」の議論の一環として、日本のムラが選ばれているにすぎない、という印象を強く持った。これは田中のp218にあるような解釈と全く同じであった。

 ここでいう「日本人論」というのは、まさに特殊な日本人を規定するための議論であるのに対して、「近代化論」というのは、文化などが後進的であるために、先進国と現状は異なるが、かつては先進国も同じような道を歩んできたのであり、将来的には後進性は解消されていくものと想定する類の議論である。この点がまず、エンブリーが一般に「日本人論者」と称されていることに対する違和感としてあった。

 しかし、どうも他の論者の日本人論について読み進めていくと、どうしてもエンブリーは日本人論者であり、『須恵村』を出版したあと1940年代に入ってから転向したのではないかとさえ思えるような語られ方もされる印象があった。結論からいうとこの見方は正しかったことが今回のレビューの考察を通じてわかったのだが、『須恵村』を読んだ印象からはどうしてもそれが結びつかなかったのであった。田中も指摘するように、できるだけ日本について偏見を与えないよう、価値判断については意図的に避けられていたような印象さえあったからだ。

 

 

ゴーラーやベネディクトは「自民族中心主義者」なのか?

 

 本書ではジェフリー・ゴーラールース・ベネディクトを「自民族中心主義者」と位置付け批判を展開している。正確にいえば、エンブリー自身が「何人かの人類学者」(p262)に対して「自民族中心主義者」と位置付け、批判じみたことを述べていることについて、田中自身がこれをゴーラーやベネディクトを想定して書いた内容であると『解釈』している訳である。

 私自身も確かに杉本・マオアのレビューの際に述べたように、日本人論と「オリエンタリズム」の発想との関連性は大いにあり、特殊日本的な状況についてとらえることそのものが歪んだ解釈や欧米そのものを参照とすることを回避してしまうことになりうるのは確かである。

 

 

 では、本書では何を根拠にそう断じているか。考えられるものとして3つピックアップしてみる。

(1)人種的な偏見・差別を論に持ち込むかどうか(p254)

(2)西洋の検証を経ないまま日本を語ること(p262)

(3)現れた現象と『国民性』の因果関係を曲解すること(p263)

 

 まず、(2)についてだが、これこそ「オリエンタリズム」的視点を与える大きな条件であることは確かである。しかしこれを根拠にエンブリーを擁護するのは論外である。なぜならエンブリーもまたまともに西洋を考察し、比較をした形で議論していた形跡がないことは本書を読んでも明らかだからである。

 また、(1)についても、ここでいう「偏見」を人種差別的な観点に限定した場合(いわゆる「色メガネ」は(3)の論点と重複するので、そちらで議論する)、私自身はゴーラーについても、ベネディクトについても特段の偏見を行っているようにはとても思えない。

 

 ゴーラーの著書からこれを考察してみよう。この考察にあたり、ゴーラーが「人種偏見とプロパガンダ」(訳書2011、1942年から43年の論文を収録)で日本人論を語るのは何故かについて考えるのが有益である。私が見る限り、ゴーラーはそれまでの日本の「対外的な動き(マスメディアを通じて語られていた日本の外交や、直近のアジア進出の動き)」に着目し、その因果関係を探るために日本人論を捉えているように思える。そしてそれはある意味で私がキンモンスのレビューでみたような「何故日本は『近代化』への衝動に強くかられていたように見えたのか」という理由を探る試みによく似ていると言ってよい。田中(エンブリー)が言うようにp264のような「近代化論」的アプローチで日本人論を捉えるようなことをゴーラーは行っていない。しかし、ゴーラー発達心理学的アプローチを中心にとらえようとする日本人論に「偏見」があるなどと言うことはかなり難しい程、「素朴」な分析をゴーラーは行っていると言えるのである。

 もっとも厄介なのは、ゴーラーの問いが直接的には「何故日本人は残虐に見えるのか」といった点にあることである(cf.ゴーラー訳書2011:p67)。この問いはそれ自体で日本人が野蛮であることに加担するかのような記述であると読まれる可能性は否定できない。しかし他方で、これはマスメディアが与えたイメージの一端についての説明を与えるためとも読めるのであり、必ずしもゴーラーのみの責に帰されるものではないし、表面上は「野蛮であることを」擁護するかのような考察をゴーラーが行っているのも事実であり、その点を軽視するべきではない。

 

 ではゴーラーは「何故日本人が残虐に見えるのか」をどう説明したのか。それは、「日本」という環境が極めて抑圧的であり、その不満が「外に吐き出される」形で現れるからである、というものであった。

 

「清潔さのトレーニングに基づく倫理上の立場から派生していえることはさらにある。これは、今の状況下で、早急に考慮しなければならない重要なことである。与えられた状況において適切な行動をすることに力点があまりにも強く置かれており、平均的な日本人の経験においては、新しい状況に順応しないことに対する罰は、非常に恐ろしいということである。そのため日本人は新しい状況に適合しようとする衝動が非常に強い。結局、日本人は自己の環境のなかで、保守的な儀式偏重によって縛られてはいるが、いかなる異質の状況においてもでき得る限り適応しようとするはずである。戦争での軍事的な敗北のリスクに加えて、順応できないことに対する罰に対する無意識的な恐れは、非常に重要な役割を果たすであろう。清潔さのトレーニングに基づく倫理的な立場から派生することとしていえる二つ目のこととして、日本の土地で正しい行為に対する是認、そして正しい行動の基準というのは、異なった土地や異なった状況のもとにおいては、もはや機能しない。そして結局、日本の状況では不適切なあらゆる攻撃性やサディズムの排出が許されているということである。」 (ゴーラー訳書2011:p26-27)

 

「強迫的神経症患者の儀式の背景には、攻撃的になる、無意識の極端に強い願望が深く隠されている。儀式は、この危険な欲望を実行することに対する心理的な保護の役割をもつ。日本の社会は、他のほとんどの社会よりも社会で是認されている攻撃性を解き放つための機会が少ない。そして理屈からいえば、適当な状況があれば、攻撃性が発散されることになる。このことは、ほとんどすべての訪問者を魅了する日本中に浸透しているその生活の穏やかさをと、ほとんどすべての偵察員や新聞記者を怖がらせた戦争中の日本人の閉口させるほどの残忍性とサディズムとの際立った差異に対して、もっともうまく説明している。」 (同上、p30)

 

 このような抑圧的な状況の形成についてゴーラーは論文の多くを割いて説明している。その中で本書でも出てきたトイレット・トレーニングも説明に加えられる。ゴーラーの場合は、本書での指摘の通り、トイレット・トレーニングを「厳しいしつけ」の一環として捉え、早期から罰が与えられることがフラストレーションにつながること(ゴーラー訳書2011:p18-19)、そしてこれが潔癖な性格を形成するもとともなり(ゴーラー訳書2011:p20-21)、(土居健郎でさえ言及しなかったが)日本人は大部分が「強迫的神経症」と呼べる状況であると指摘する(ゴーラー訳書2011:p28-29)。故に日本は対外的な場においては攻撃的になるとゴーラーは捉えるのである。繰り返すがここで捉えるべきはゴーラーが事実を曲解している点ではない。あくまでそれが「差別意識」に根ざしているのかどうかという点である。そして私はこのような分析は極めてシンプルな日本人という「他者」を理解しようとする試みであると思えるのである。この時期に非難されるべきであった「人種差別」というのは、ジョン・ダワーのレビューでみたような「ゴリラだから野蛮」「子供だから未熟」といったレベルでの解釈であるが、ゴーラーはこのような態度の取り方は全く行っていないのである。

 

○エンブリーはゴーラーのような「曲解」をしていないと言えるのか?

 

 そこで、最後に残るのが(3)の論点である。確かにこれについてはゴーラー及びそれを引用するベネディクトも「曲解」をしていることについては、本書が指摘するとおりであろう。しかし、ほんとうにエンブリーが同じ誤りをしていないと言えるのであろうか?

 まず、エラについては、p247-248に見られるような「現在」の日本とかつての日本の比較について、あまりにも過度な一般化を行っているのは明らかではなかろうか。少なくともエラは日本の団地について須恵村と比べれば数十分の一程度しか調査していないであろう。そして基本的には「社会問題に毒された」言説をそのまま鵜呑みにしているように思えてならない。日本の女性の生きづらさについて経年比較できるものとして統計数理研究所の「日本の国民性調査」は優れた量的調査といえるだろうが、「女性が女性として生まれ変わりたい」という回答傾向の変化は著しく、60年代前半までは過半数が否定的であったが、この傾向は改善傾向にある。(https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/table/index.htm 、#6.2 男・女の生まれかわり参照。)この質問項目の優れているところは、単に「現状が幸せかどうか」という、主観的判断に極めて依拠する質問とは異なり、今の自分の性と異なる選択の可能性があった場合の判断となっており、一歩現状を客観的に(特に性意識の面で)判断できる項目になっている点で注目すべき内容である。エラの見解によれば、過去の方がむしろよかったのではという判断を下しており、この調査とは真逆の見解をとっていることになるのである。

 

 そして、ジョン・エンブリーについても、遅くとも『日本人(The Japanese,1943、なお全文が次のURLから参照できる。http://www.ibiblio.org/hyperwar/ref/SI/Japanese/index.html))』を著した段階では『須恵村』における記述とは異なり「日本人論」を明確に位置付けているが故に、(杉本・マオアが批判したような)一元的な日本人を語ることに終始しており、ゴーラーと大きな違いを見出すことはできない状況にあるといえる。エンブリーは例えば、『日本人』の中で「一般的な日本人は今日でさえ、著しく政府からの情報に疑いを持たない」(Embree1943:p9)といった一般化を「歴史的な」背景から正当化している。

 このような態度は本書で語られるエンブリー像からずれている印象がある。本書で田中はp188のように須恵村が「ムラ」としては一般的だったという見解を紹介するが、日本の人々の生活の普遍的なものが須恵村にあったとまでは言っていない。むしろ、多様性についてもかなり触れている。村外の人(特に都会)と比べると、須恵村の人々はかなり異質な世界に生きていたかのようにも読めるし(cf.p107,p108-109)、性的なものに対する開放性などは部落や世代によっても異なっていたように語られている(p117-118)。

 このような多様性についてなぜ『日本人』において否定され、一面的なパーソナリティが正当化されるのだろうか?たとえ細部が異なっても日本人としての「おおまかな部分」については共通であったという前提があるとしても、エンブリーが議論した攻撃性などに関することが本当に「大まかな部分」に当てはまるものといえるのだろうか?どうも私にはそうは思えない。

 

 更に、トイレット・トレーニングに対する解釈は、幼少期に身につけた態度が大人にも大きな影響を与え、それがparanoic(被害妄想狂)な日本人を生むとしている点はゴーラーとよく似た見解であると言える。少し長文だが引用したい。

 

“This early period in a Japanese child's life is important in an understanding of his adult personality. The motherly affection coupled with the severe toilet training and culminating in the sudden loss of attention when the next child is born creates an early sense of insecurity which is turn produces an adult who is never absolutely sure of himself and who through compensation may become almost paranoic. There are a number of social usages in Japan that fit into this interpretation of the adult personality pattern. ……The adult manifestation of the temper tantrum resulting from lack of attention or fancied slight is assassination, and the deep shame felt from real or threatened loss of face is manifested by suicide. On a national scale, the fierce pride in race and culture may be in part associated with this characteristic Japanese adult personality and in part with the cultural revivalism referred to in a previous chapter.”(Embree1943:p23)

 

私の解釈では、次のように書いているように思える。

 

「日本の子どもが小さい頃の生活は、大人になった際の性格を理解するのに重要である。母親のトイレット・トレーニングと下の子が生まれてから突然気にかけられなくなることの影響で不安定さを生み、大人になってから決して自信がなく、その代償としてほとんど被害妄想狂になりかねないものだ。日本にはこの大人の性格類型の解釈に結びつける数多くの社会的慣習がある。……

 大人が不注意さややや空想的である結果癇癪持ちであることの現われとして暗殺があり、そして現実や面子がつぶれることへの恐れで感じる深い恥は自殺に現われている。国家的規模でいえば、人種と文化への断固とした誇りはこの特徴的な日本人の大人の性格と、前の章で言及した文化的な復古主義に部分的に結びついているといい得る。」

 

 実際の所、『日本人』でエンブリーがトイレット・トレーニングに言及するのはごくごくわずかであり、あまりにもわずかであるがゆえに解釈の仕方に困るくらいである。確かによく読めば、ここでのトイレット・トレーニングは「母親にかまってもらう」ことの例示程度であるように読むべきであると思えるが、ゴーラー的な厳しいしつけを行っていたという見解を否定している訳でもなく、ゴーラー的な解釈を行っても矛盾せずに読めてしまうように思える。また、エンブリーもまた日本人の攻撃性について説明するために性格形成や日本の慣習を語っている点もゴーラーと全く変わらない。このような態度の共通性がゆえに、ゴーラーを合わせて読んでいたアメリカ等の読者は、ゴーラーの文脈でエンブリーを読んでいた可能性も十分に考えられる。

 

 更に言えばエンブリーは「日本人がユニークである」という言説を紹介するものの(Embree1943:p35)、特段これについて批判を加えていないし、むしろこれを追随し独自の文化を形成したものと捉えているといってよいだろう。批判的なのは、あくまで当時アメリカでもタテマエ上御法度になることが確立しつつあった「人種差別」に繋がるような偏見に対してだけである(cf,Embree1943:p36)。

 

 以上の考察から、エンブリーとゴーラーは少なくとも田中の言うように善悪を別にして評価することが不可能といってよい状況であることはほぼ間違いないと言えるだろう。確かに『須恵村』での考察にそのような視点がなかったという点も強調しなければならない点であり、誤解すべき点でもない。しかし、エンブリーも一種の転換を行い、太平洋戦争時にはゴーラーと同じような「日本人論」を展開し、それがそのままベネディクトにも影響を与えていることも無視できないように思えてならないのである。

 

<読書ノート>

※エンブリーの須恵村滞在期間は1935年から一年。 

P64「「協同活動は人々のグループの自発的な行為なのであって、協同を強制せしめるようなボスがいて行われるのではない」という言葉が、ムラの「協同」とは何か、その本質を突いている。すぐ後に「地方の社会形態にボスとか親分とかがいないのは注意される」などと、部落を運営する組や「ぬしどり」という住民組織について、「ボスがいない」「頭はいない」との表現が何度も繰り返されている。部落の「自治」を強調するエンブリーの意図が見える。 

 そこにはムラの、いかにも平等な自治が想像されるが、実際にどこまでそうだったのか。 

 むろん須惠村にも村長や校長、地主階級の指導者は当然存在した。あるいは村の世話役としての「ぬしどり」や長老が「ボス」的な存在だったことも考えられる。エラのノートには、「多かれ少なかれ、自分をボスだと思っている夫人」がいたという記述もある。しかし、エンブリーは「ボスはいない」と感じた。 

 それは、ムラが身分が家父長制を軸とした縦社会である一方、横のつながり(協同)が縦の関係を維持するためにも不可欠だとエンブリーが気付いていたからに他ならない、と私は思う。一部の識者のように、日本を縦社会の文化と決め付けることは一面的すぎるだろう。」 

※しかしこれをゴーラーのように解釈されても困る。そして、中根のタテ社会の話も曲解しているように見える。 

P83「もちろん、負債が支払えないことは不名誉なこととされていた。「苦境にたった一人の男は首吊り自殺をし、他の男は二人の娘を淫売婦に売った」。エラは後者を「父親の利己心」と糾弾している。エンブリーは触れていないが、農村不況のため、講の高利な掛け金が重荷になっていた村民がいたはずだ。…… 

 このうち今でも残っている講は、同年講、観音講、伊勢講。同年講は同窓会として最もよく開かれている講の一つで、二カ月に一回という忙しい講から、ほとんど開かれていない講までさまざまだ。」 

※逆に見れば、1年間の須恵村の滞在だけでもこれだけの「負の事例」が確認できたということ。 

 

P106須恵村の女には、当然だが「美徳と欠点」、つまり二面性がある。欠点としては、「ほとんどの女性は極めて狭い経験しかしていない」ため、「国際的次元のことはほとんど知らず、自分の国が国際的出来事にまきこまれていることについては、まったく知らなかった」。一方で、若い娘は「村を逃げだすことを夢みて、都市で働き口を見つけようとしていた」という。また、自立した女性の中には「因習をあざけり……女性にふさわしくないとほとんど普遍的に非難されている行動をとっていた」人もいた。」 

P107「では、教師の妻や女性教師、村役人の妻ら須恵村に住んでいる「よそ者」は、須恵農民をどう見ていたか。「不信と恩着せがましさが入り混じった目で見ていた。その人たちの多くは、ムラの女たちが大酒飲みだときびしく批判し、農民を明らかに遅れていて未開な人とみなしていた」。序論でも明確に、「教師にとってはとくに、東京は啓蒙と文明の中心であった。それとは反対に、須恵村は、彼らにとって極端に遅れたところみえた」と解説している。」 

P107-108「一方の農家の女たちは「自分たちとよそ者のあいだに明確な区別をつける」傾向があった。このため、「この二つの女たちの集団は、公の場所を別にして、けっして交じりあわなかった」という。特に食事の仕方や味付け、経済状態といった暮らしの根本の違いでは、互いに辛らつだった。」 

P108-109中央政府によって徹底的に推し進められている天皇崇拝について女たちは「あやふやな理解」しかしていなかった。…… 

 国や世界の出来事に少しでも関心を持つ女性は少なかった。ラジオは役場、小学校を含め五台しかなく、戦争にも、ちょうど一九三六年夏に行われていた「前畑がんばれ」のベルリン・オリンピックにも、興味を持つということはなかった。「外部の世界とのもっちにぞくぞくする接触は、映画によって実現した」。映画は時々、学校や戸外の空き地で上映されるか、免田の映画館で鑑賞された。」 

P110「当時の日本の軍国主義は、エンブリー夫妻の心にものしかかっていた。小学校で行われた軍の観兵式に来た陸軍士官はエラに故意の嫌がらせをし、自分の演説の間、行動から離れるよう要求した。……五十歳以上の女たちは読み書きができず、国や世界の出来事に対しては無関心だった。それでも、夫妻にとって須恵村の人々は「この世でもっとも平和的な人たち」と感じられた。」 

 

P117-118「ただ、そんな(※性的な)踊りを村のみんなが支持しているわけではなかった。「おばあさんたちのやる、いやらしい踊りは好かん」という声も聞かれたし、エンブリーの日録の踊りについては、「これは須恵村の他の部落ではほとんど見られないものだった。他の部落では、若い人びとは、おこなわれていることにしばしば、明らかに困惑して、ただ座って眺めているだけであった」という。須恵村の中でも、部落によって踊りの内容に差があったのだろう。 

 しかし、続くエンブリーの日録に描かれた「他の部落」の婚礼後の非公式の宴会も、負けず劣らず楽しい。…… 

 宴会は場所を選ばない。「寺の中央の部屋の仏像のまんまえで、彼女たちは酒を飲み、エロティックな踊りをし、どんちゃん騒ぎをした。その同じ場所で、その日のもっと早い時刻には、僧侶が、仏の慈悲を信じない人びとの運命についての悲しい話をして、女たちは涙をながし、そこで賽銭を投げ、祈りを捧げたのだった」。」 

P124「「娘を芸者や売春婦に売るのは、父親の権利」でさえあった。しかし、糾弾するような筆致ではなく、論評は抑制ぎみだ。むしろ、「家族と世帯」という章題に、「家父長的な家」というより、ムラ社会の協同のありように着目したエンブリーの姿勢が表れているように思える。」 

 

P137「「小さな子供にたいする気ままな甘やかし」や、子どもたちが「無秩序の状態」のまま放置されていることは珍しいことではなく、「いつも驚きの源泉」だった。」 

P139「一方でエラは、寛容と甘やかしが行きすぎと感じることもしばしばだったようだ。 

「赤ん坊が泣くとすぐに、そのときまで、なにか他の活動に夢中になっていた子守りや他のものが、赤ん坊を抱き上げる。このことが、なぜ一番下の赤ん坊がそんなにたびたび泣くのか、また、あらゆる注意から見放されたその次の子が、なぜかんしゃくを起こしやすいかの理由である」と思えた。」 

P142-143「次のくだりは、現代から見てどう評価するか、須恵が特別なのか、とても興味深い。 

「田舎の学校は落第というものがない。子供の心理的影響や家族の恥辱は、精出して二度習ってみても決して償われるものではないと教師は感知している。運動競技でも一、二、三等はなく全員が賞を貰う。皆に賞を出すと誰も不当にあつかわれたとは思わない。ときには優等とか一等賞とかもあるけれども、それより協同行動の団体賞が多い」。 

 思い込みが入り混じっている印象もあるが、こんな箇所ではアメリカ人としての評価を書いていないのが残念だ。スポーツに競争は付きものだが、エンブリー夫妻には、競争を避ける気風は付和雷同に思えたか、それとも争いを嫌う穏やかな作法と映っただろうか。」 

 

P151「その前に、男女とも六十一歳の誕生日になると、還暦の祝宴がある。「この時期に第二の子ども時代に帰入するのであり、子どもの時のように気まま勝手に言うたり為したり、また欲しい物も手に得られる」。六十一歳でほぼリタイアし、その後は「お寺まいりに一日一日を生きるようになる」。」 

P156「「赤ちゃんがどこから生まれるかについて」も、「後に友達から教えられるが、『決して親からじゃなか』」。女学校には婦人衛生についての教科があったが、赤ん坊は母親の「おなかから」生まれると教えられるだけで、「学校での性教育はおこなわれていな」状態だった。」 

p158-159「「用便のしつけ」という一節がある。「トイレット・トレーニング」のことである。戦前にはイギリス人社会人類学者ジェフリー・ゴーラーが、排泄訓練による厳しい子育てが放縦と服従という日本の成人男性の矛盾した性格を形作ると主張したこともある。しかしエラは少し違って、こう分析している。 

「用便のしつけはきわめて厳格だといえないが、それは確かに非常に早い時期に始められていた」。須恵村では、二カ月たった位の早い時期に、おしっこのしつけをさせられる。現在は二、三歳ぐらいかららしいので、当時はずっと早くからおしめを取るしつけが行われていたようだ。 

 だが実際は、「赤ん坊はしょっちゅうおしめを濡らしている」。しかも「赤ん坊は、歩き始めるまでは、実際にはしつけられない。一歳から二歳になったときさえ、彼らを見守るものがいなければ。おもらしをする」。ということは、当時の須恵村の現実も今とあまり変わらないということになる。母親の対応は厳格というよりむしろ寛容に見える。」 

 

P162「「多勢の大人たちは、不義の性行為をするものは、奉公人に限られると断言していた。……彼は嘘をついていた。相手は娘さんで、奉公人ではなかった。他のものは、農家の娘はそのようなことはしないという、彼の主張を否定した。……人目を忍んだ逢引や性的な関係は、事実、須恵村の家族のなかの奉公人に限られるものでないことは、すでに明らかになった。」 

P163「『須恵村』にも「女たち」にも、いわゆる「若者宿」の存在の記述はない。同級会やお堂がその役割を担っていたのだろう。」 

P166-167「そして、あき(※エンブリー夫妻のお手伝い)の次の解説は的確だ。 

「……若いときには楽しいことばかりだ、だからみんな恋愛をする。しかし、結婚するときになったら、そんなことは忘れて、すべての手紙を捨て、両親の望みに従う。それは恋愛とはまったく別の事柄である。手紙をやりとりした男との結婚を期待してはならないのだ。」」 

P168-169「恋愛が引き起こす問題も多かった。避け難いのが未婚の妊娠だ。 

「いまでは私生児の数はずっと少なくなった」とはいえ、「恋愛沙汰の結果妊娠する可能性について、未婚の女子の両親が心配するのには、正当な理由がある」という実情があった。一般には未婚の妊娠は「望ましい状況ではない」し「すべての人を非常に不幸にする」と考えられていた。しかし、「多くの事件が起きる」ことも事実だった。 

「私は日本の家では秘密の逢引をするのはほとんど不可能だといったが、彼は、女中と奉公人とは、いつも母屋から離れた別々の部屋にいるから、彼らが会うのは簡単だといった」。こうした話をエンブリー夫妻は「女中と奉公人」に対する「社会差別」と受け取るが、この問題は奉公人に限らなかった。 

 夫妻は「ここでは十九歳以上で処女のものはいないだろう」と思っていた。四十代のある女性によれば、かつて「結婚のときに処女であることはそんなに望ましいことではなかったし、女の子はすべて十八歳ぐらいになると処女を失った」と言う。「処女ば失うとが遅ければ遅かほど、事態は悪うなる」からだ。その女性はそうした「不幸な事故」が起きたのは時々でしかなかったと付け加えたが、エラは「この地域の私生児の数を数えると、私はこの情報がどれだけ正しいのか疑問」に思わざるを得なかった。」 

 

P171須恵村には娘を芸者に売った男は八人いた。エンブリーは『須恵村』で、「娘を売った人達はいつも貧困である。彼らは村の土着の者ではなく、旧家でもない。自分の娘を売っても、軽蔑されはしない。まず高い社会の地位にない者だけが売るのであり、仮りに貧しくとも、農業で確固たる社会的、経済的基盤の上に家庭をうち建てようとすれば、こんなことは決してしない」と分析している。」 

須恵村の当時の戸数は285戸だという(p9) 

P174「そして、私が最も驚かされた記述の一つが、再婚回数の記録を持っている「反野のおばあさん」の例だ。 

「彼女は少なくとも十人の男と結婚し、結局、反野で終りになった。みんなは、反野は非常に静かな人なので、彼女はいっしょに暮せるのだといっている」。」 

P174-175「それでも、エンブリー夫妻が滞在した一九三〇年代には、「離婚はそれ以前よりも、ずっと一般的でなくなったというのが、女性も男性も同じように持っている一般的な意見だった」というのだから驚く。理由の一つは、以前は花嫁と花婿は婚礼まで会わなかったが、今日では会って話す機会がいつでもある、ということ。また、以前の婚礼は五円で済ませることができ、きわめて簡単だったので「それほど考えもせず、結婚を破棄した」。しかし、現在では多額の資金が必要になった。 

 さらに、昔は姑の問題があり、同時に花嫁がしばしば十四、五歳という非常に若い年齢だったことも離婚が多い原因だった。一般的には、「女たちは、夫婦に子どもがいれば、妻は多くのことを耐え忍ぶと考えていた」。」 

P176「エンブリー夫妻は、須恵村の男らと一緒に、免田の芸者を連れて遠出をした。後でそれを知った女たちは、「自分たちはそんな楽しい旅行をしたことがない」と言った。「彼女たちは、町で宴会がおこなわれるたびに、男が芸者と寝ることを知っていた。……それについては、どうすることもできないといった。……しかし、ときには家庭のなかで口論がみられる。……『その旅行はあんたのとってよかことばい。ばってんうちをごらんなさい。十円、十五円を養蚕で稼ぐのに一生懸命働き、その金さえも主人に持っていかるっとだけん』。小さな遠出でも七十円はかかり、須恵村の多くの家族はひと月にそれ以下で生活していた」。 

 夫妻は男たちの集まりで、妻を愛しているかどうか聞いた。男たちは、「外人は恋愛が最初でそれから結婚する。ばってん、日本人は最初に結婚して、それから愛が始まる」などと口々に話した。」 

 

P178「さらには、「妻を肉体的に虐待することで知られている男たちがいた」。今でいうドメスティック・バイオレンスだ。ある家の娘は、「両親はいつも喧嘩をし、父親はときどき母親を殴るが、母親は子供たちのために家を出ていくことはない、と私に語った。彼女はときどき、家庭のこのような状態のために泣いていた」。 

 妻たちのこうした境遇を見知ったエラは、とんでもないことだ、と思っていたはずだ。しかし、自分の意見を極力抑えて、多分に女たちに同情しながら、村民がどう考えているかを忠実に記している。ただし、「私たちの女中は、この地方の従順さを否定していた」と、ひと言添えることも忘れなかった。」 

P180「経済的自立は同時に、女性たちの協同を促した。エラは、こう確信する。大部分が結婚によって村の部落に移ってきたよそ者である女たちが、「かなりの程度、経済的な結びつきを形成し、労働をともにし、まったく女たちだけの友情のきずなを固めてきたことを無視するのは誤りだ」と。そうした女性の協同のネットワークが「非公式に組織された集団」が経済活動にも生かされていた。女性たちの経済的自立性は、収入額では測れない女性の強さの源だったと私には思われる。」 

※「しかし、ムラの夫婦関係の基本は、まず夫の優越だった。」(p181) 

P188「当時の須恵村が特殊だったかどうかは分からない。しかし、こうしたムラの実態は、日本の「どこでもほとんど同じだった」という。そう思える証拠として『女たち』の原注では、大正時代に熊本の五家荘を含む五村を調査したアメリカの社会学者トーマス・ジョンズの『日本の山の人びと』(一九二六年)を引用し、ジョンズが「不道徳」と呼んだ「婚前の性交渉」「私生児」「堕胎」「間引き」がどこでも行われていたとする。 

 エンブリーも足を運んだ五家荘でジョンズは、村長夫人が「すべての娘が結婚前に性的関係を持っている」と語ったとし、「五家荘では男性の九パーセント、女性の八パーセントは、手続き上の私生児だった」と言う。」 

 

P194「日本人の円環的な四季や時間の感じ方を見抜いているのが驚きだ。須恵で今も行事が残る小正月は、暦が普及する以前に一月十五日の十五夜満月を正月としていた名残。エンブリーはその重要性を理解していた。」 

P218「ただ、(※エンブリーの)「遅れている」という表現が、進歩に関わる言葉なのかどうか、優劣の価値が込められているかどうかは別だ。単に文化や政治経済などの情報が遅れて入ってくる、という程度の意味だったのではないか、とも思える。」 

p220-221「文中に「古風」「停滞性」「生気のない」といったマイナスイメージの表現が使われているのに違和感を覚え、原文を当たってみた。すると、「古風」が「old」なのはいいとして、「停滞性」は「stability」、「生気のない」は「dead-end」の訳だった。ということは、それぞれ「安定性」「行き止まりの」と訳す方が正しい。「行き止まり」は単に地理的表現にすぎない。特に「停滞」と「安定」では、この文章全体の印象と価値観がまったく逆転し、古風だが「変化のある歴史を経過した安定性」というプラスイメージに転換する。つまり、エンブリーが避けたかった偏見、須恵村が停滞したムラだという思い込みを、翻訳者が抱いていたのではないか、と思えるのだ。」 

※「この文章」とは、「このような古くからの停滞性に関しての一つの理由は、きっと球磨地方が山また山に囲まれた生気のない谷間であり、常に主要な交通路から取り残されてきたことである」(p220)。原典にあたる重要性。 

 

P222「『女たち』に、「逃亡・村外で働く」という一節がある。ここには、ムラの「強靭な社会的紐帯」、つまり協同の裏側にある拘束性に対する反発や、若い女性たちの「自立の精神的気質」が感じとれる。 

「多少とも教育のあるもののほとんどすべてが、村を離れる方法を探していた」し、「結婚していない須恵村若い女たちの多くにとって、目標は、村を逃げだし、町や都市で仕事を見つけることだった」。」 

※「農民層の閉鎖性や拘束性」により「農民とそうでない階層の村民との間」には「社会的差別」があるといえる状況にあった(cf.p221) 

P222若い女性が村を離れたがる理由はこうだ。「たしかに仕事は、彼女の嫌いな農業よりも軽いものとみなされている。彼女は、工場では午前五時に仕事を始め、立ったまま午後の二時まで働いたといった。その後、彼女は裁縫も稽古にいき、夜は遊びにいったという」。賃金もまずまず。募集員は、最初は1カ月四円五十銭だが、平均では十円払うと勧誘した。過酷なイメージがある「女工哀史」とは異なり、女性たちが「工場を好きになっても、不思議ではない」現実があった。」 

須恵村の女性の重労働さは「女たち」にも描写があるという(cf.p161) 

P228「彼ら(障がい者)は「不適合」に挙げられてはいるが、まったく排除されていたわけではない。むしろ、「強固な協同生活に対してきわめて不適合なのは、むしろ利己主義者」だった。「不適合」は「協同」の反対語に近いニュアンスで使われている。 

 不適合者として、他に「大学教育を受けた人」「協同労働をしない女」「性生活に起因するヒステリーの女」が挙げられている。「大学教育を受けた人」は七人いたが、村に戻ったのはエンブリー夫妻と親しかった愛甲慶寿家一人だけ。村の変革を訴えるような高等教育を受けた人は、ムラの暮らしには不向きと思われたようだ。」 

P229-230「このように、障害者や不適合者に対する須恵村の女性たちの態度と行動は、エラにとっては「思慮に欠けるものがあった」。そのため、エラは「一般的な観察」として、「私は、家事が嫌いな女の子や創造的な精神の持ち主である女の子は、このような社会で生活するのは困難だと思う」という結論に至る。なぜなら、「ここの社会は、女性をよい母親に育てようとしている」からだ。『女たち』で「家事の嫌いな女の子や創造的な精神の持ち主である女の子」と不適合者が同列に置かれている状況は、『須恵村』で、大学を卒業して「須恵村の風俗習慣を変えようとしている」愛甲慶寿家が不適合者とされているのと同じだ。」

 

P230-231「なぜ須恵村に不適合者が少ないのか。「これらの人は、つねに外にだされるか、乞食になるのである」という実状は、協同の裏面としての排除の構造をあぶりだしていると言える。」 

P231「「すべての子供を軍国主義者にすべく訓練し、平和主義への余地をまったく残さない教育制度、自由な思想のあらゆる表現を抑圧し、科学と歴史のもっとも初歩的な教育によってさえ、神の子孫であることが疑われる天皇についての盲目的な崇拝を期待している政府、女子のための教育水準が上昇し、少なくとも都市において若い男女の交際が増大するなかでの、見合結婚という時代遅れの制度の維持などを考えるならば、不適応者たちが救済されるのか、それとも創り出されるのかについて、ここでなにかいうことは困難である」。」 

P232「ただ、夫妻が村の閉鎖性を非難し糾弾するまでには至らなかったのは、閉鎖性の半面に、むしろそれを上回るような村民の開放性や自由を感じたからだろう。……ムラには、村外や気心の知れないよそ者に対する閉鎖性の一方で、一度気を許した相手に対する開放性という二重の基準があった。部落は、内と外、自と他の境界を明確にすることで成り立っているかもしれないが、内外、自他の交通が意外に頻繁に行われていたことは、『須恵村』でも明らかだ。閉鎖的であったかもしれないが、抑制されたエネルギーとしての開放への志向性は思いほか強かったのではないだろうか。」 

※排他性をいかにとらえるのかが難しい。しかし、ここでいう「開かれている」「閉じている」とは具体的には「自由」との兼ね合いを指しているのであろうが、「開放への志向性」と言われると、いまいちピンとこない。 

 

P247-248「では、一九三五年の須恵村の女性と一九八〇年代の都会の女性のどちらが恵まれているのだろうか。「今日の都市の団地の若い母親は毎日、一日中、小さな子供に縛りつけられ、昼間のテレビのメロドラマに夢中になり、いかなる種類のどぎつい人間的接触からも、いろいろなかたちで隔離されていて、かつての須恵村の女たちの生活の仕方を、即座に拒否できるという、そんなうらやましい地位にいるのだろうか」。 

 否定的な疑問のまま、『女たち』では最終的な結論は導かれていないが、「日本の女性にとって、古い苦痛は新しいものに取り替えられたのであり、また自立と依存の程度から見て、現代の日本の女たちが、自分たちは、激しい労働と激しい遊びをした須恵村の女たちよりましだ、と想像できるだけ進歩したとみなすのは困難である」と、あくまで懐疑的だ。」 

※引用は『女たち』によるようであうる。しかし、「女性として生まれ変わりたいか」という質問は、この議論の本質を突いているように思えるし、その割合は戦後着実に上がったのはまぎれもない事実。 

P254「エンブリーの署名がある少なくとも七件の報告書には、エンブリーの日本に対する胸の内が随所に表れている。「日系アメリカ人との関係」と題された報告では、日系人理解の基本を説く中で、「日系人の気質については、決定要因が人種というより文化である」として、収容所での待遇に「敵国日本」に対する人種的な偏見や差別を持ち込まないように釘を刺している。」 

※「日本人論」自体には加担していたようにも見える。 

P256「しかし『日本人』は、アメリカの自民族中心主義に対する批判の萌芽とも言える内容を備えていた。いきなり「日本人のついては、神秘的なオリエンタル(東洋的)なものは何もない」という結論から書き起こされているのが象徴的だ。続けて「日本人の思考と行動は、他の人々と同じように早い時期の訓練と文化的環境によって決定される。そのことがより理解されればされるほど、日本人の振る舞いはより理解できるし予測できるだろう」と、日本を異端視することに異議を唱えている。」 

※『日本人』とは、1943年にエンブリーが著した小冊子。 

 

P262「これに対してエンブリーは反論する。 

「何人かの人類学者は、日本の特異な文化が、日本人を個人としては好戦的で攻撃的であり、国家としては拡張主義者にしたことを論証しようとした。それは、排泄訓練に関する巧妙な理論、天皇崇拝、そして食の習慣によって成された。……(一方で)西洋社会の攻撃的な行動の原因は、完全に無視された」。」 

P263「『菊と刀』は、戦時情報局で軍が収集した日本関係の情報分析に携わっていたベネディクトによってインタビューや文献を基に作成され、一九四六年に刊行された。実際にフィールドワークを行った文献としてのエンブリーの『須恵村』『日本人』からの引用も多く、明確にエンブリーを参照したと分かる箇所だけで十数カ所に及ぶ。例えば、共同労働、葬式やその贈答、小学校の児童たちの競争の回避、直接的な取引を避けるための仲介者の制度、客を持たせて衣服を着替える礼装、相手に拒絶されても恥をかかないで済むように頰かむりして忍び込む夜這い、などだ。だが『菊と刀』ではエンブリーがそれらを協同の慣習として描いたことの意味は一顧だにされておらず、正しく理解されているとは言い難い。 

 ベネディクトは、エンブリーが描いたこれらの事例を、ことごとく「義理」「恥」に結び付けて解釈し、逆に戦争を引き起こす日本人の国民性として分類する。義理や恥が脅かされた場合、日本人は復讐に駆られたり、攻撃を自殺という形で自分に向けたりする傾向があるという。しかし、一九三〇年代に「彼らは国家主義的目標を抱き、攻撃を自分自身の胸から転じて再び外へ向けた」というのだ。」 

※たとえ「協同」と結びつけることが正当だとしても、それがそのまま「日本人論」として正当化されるわけではない。 

P264「また、反自民族中心主義の立場を共有するジャーナリスト、ヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』の書評でエンブリーは、戦争の原因を日本人の攻撃的な国民性に求める議論を退けた上で、「本当に重要なことは、アジアの一国日本がヨーロッパの国と政治的に対等に振る舞おうとしていたということである。しばしば見落とされるこの事実は、おそらく日本と西洋の多くの対立、さらには他のアジア諸国と西欧の紛争を最もよく説明する」と述べ、日本の覇権主義はむしろ西欧の自民族中心主義に基づく植民地主義の後追いなのだと主張した。」 

P274-275「鈴木榮太郎は、『須恵村』について、「エンブリー氏の観察は相当に精緻で洞察力にも敬服するものがある」としながらも、「しかし折角得られたそれ等の資料が充分に科学的に処理されていない」と批判している。その指摘が当たっているかどうかはともかく、私には、科学的処理や分析、抽象よりも、エンブリーの偏らない「精緻な観察」が十分に面白い。ベネディクトが及びもつかない眼差しが読み取れるのだ。」 

※この指摘を含め、エンブリーの議論を一般化し価値判断をしようとする田中の議論には違和感がある。